今回は著名な教育者尾木直樹の横浜市立川上北小学校へのオーサー・ビジットを取り上げる。参考元記事は「好書好日」(朝日新聞社主催/2019.02.20)
台本風に尾木直樹と児童の遣り取りを纏めてみる。
尾木直樹「(事前にアンケートを取った結果)いじめられちゃう、いじめちゃう、どちらの悩みもあったの。どんなときに悪口を言いたくなる?(とマイクを向ける)」 男子児童「むかついたとき!」 尾木直樹「ではムカムカ、イライラ感情の正体は一体何でしょう?」 同男子児童「ストレス!」 尾木直樹「いじめの原因の70%はストレスといわれています。ストレスがたまっていじめたくなるのは人間的な感情なんです。 心の中に、いじめをしてしまう自分がいるの。誰もがいじめたり、いじめられたりする可能性がある、全員の問題。みんなで考えなければいけないわね。 でも、それを乗り越える智恵と賢さを、みんな持っているはずよ。ストレスをため込まないためには?」 児童「ポジティブシンキング!」 児童「叫ぶ」 児童「運動する」 児童「ずっと笑ってる!」 尾木直樹「笑いは力ね。みんなが笑っている楽しい学校になればストレスが消えて、いじめが生まれる土台がなくなるわ。 ある小学校でとり入れられている3つの『しぐさ』があるの。 ①あいさつしぐさ。あいさつを交わすと、気持ちがいいでしょ。無視しちゃだめよ。 ②仲良ししぐさ。一人でいる子には、一緒に遊ぼうと、声をかけてあげて。 ③手伝いしぐさ。例えば、体調の悪い子がいたら、保健室に付き添ってあげるの。 週に一回、友だちに言われてうれしかった言葉を学級会で発表して書き出してみて。その言葉が飛び交うような学校にしましょう。児童会で楽しいことをたくさん企画してやってみるのもいいわ。みなさん一人一人が学校の主人公。先生や保護者、地域の人たちは応援団なのよ。 みんな、自分のことはちゃんと見ているかしら?自分の嫌なところはどこかな?その弱点をひっくり返して良いほうに捉えたらどう見えるか、1分間で考えてみましょう」 女子児童「声がでかいところが嫌だ」 尾木直樹「あら、とっても素敵な声よ。歌手になれそう。良いほうから捉えたらどう見える?」 同女子児童「私の発言をみんなが聞きやすい」 男子?女子?児童「提出物をすぐ忘れちゃう」 尾木直樹「ほかの楽しいことをたくさん考えている」 児童「無口」 尾木直樹「よく考えている」 児童「自分勝手」 尾木直樹「自分の意見をきちんと言える」 男子児童「すぐに人の悪口を言っちゃう」 尾木直樹「友だちのことをよく見ている。今度は友だちの良いところを見て、ほめ言葉を贈ってあげましょうね」 同男子児童「(ニッコリと頷く)」 尾木直樹「まずは自分の命を徹底的に大事にして。それと同じように、友だちの命も大事にしてくださいね。自分を大切にできないと、友だちも大切にできませんよ」―― |
以上、ケチのつけようのない子どもの命に対する思い遣りの込もったオーサー・ビジットとなっている。もしこれが保護者参観の授業だったなら、感動のあまり涙を流す母親・父親が続出したに違いない。
だが、事前のアンケートで尾木直樹が特に気になっていたみんなの悩みが〈「いじめ」に関する〉ものとし、「いじめられちゃう、いじめちゃう、どちらの悩みもあったの」と打ち明けて
いる以上、横浜市立川上北小学校では現実にイジメられている、あるいはイジメを受けて不登校や引きこもりの児童が少なからず存在していて、他の学校にも存在していることは現実問題となっていることと分かっているはずだから、これらの実態を頭に置いたオーサー・ビジットとなっていなければならないはずだが、頭に置いた様子はどこからも窺うことができない。
あるいは川上北小学校ではほんのちょっとした諍い程度で、イジメらしいイジメは起きていないが、児童たちは尾木直樹がイジメ問題専門の教育者だと認識していて、その専門に合わせるある種の迎合意識が働き、イジメを一番の悩みに挙げたという可能性も考えられるが、そうであったとしても、尾木直樹はアンケートにあったとおりにイジメを頭に置いたオーサー・ビジットとしなければならないはずだが、実際には何一つ頭に置いていないオーサー・ビジットとなっているからこそ、児童それぞれが抱えている弱点や欠点を見方を変えて長所や利点として捉えるリフレーミングの手法を個人単位で完結させる指導ができたのだろう。
断るまでもなく、自らの弱点や欠点を見方を変えさせて、本人自身に長所や利点として捉え直させる個人単位のリフレーミングであったとしても、それができたなら、本人は前向きな姿勢、プラス思考を手にすることができ、自己啓発や自己肯定感を高めることに役立つだろうが、それはそれで重要な教えだとしても、第一義的な問題点は本人以外の周囲の児童がその本人の弱点や欠点を見方を変えて、長所や利点として見てくれるようにならなければ、その弱点や欠点はそのまま残り、相手によっては目障りな性格に映って、その目障りを解消すべく付け込み、攻撃衝動に駆られる人間が出てこない保証はなく、イジメの多くはそういったことから始まるはずだから、イジメ問題解決や抑止には役立たないリフレーミングということになるが、尾木直樹は気づかずに役に立たない見当違いなリフレーミングを振りかざして、さも役立つような装いを見せている。
大体が周囲から優れた長所を持った人物と認められていても、その評価に妬みを持つ者もいて、妬みが悪意に取って代わり、その評価をメチャメチャにしてしまいたい欲求に駆られて、巧妙にキッカケを見つけては攻撃し、イジメの形を取ることも応々にしてあることを考えると、児童それぞれに「自分の嫌なところ」を聞いて、その嫌なところを良い方向に捉えるよう仕向ける、本人レベル限定のリフレーミングであるなら、第三者からのイジメの回避に役に立たないことは誰もが請け合うはずである。
要は児童それぞれが抱えている欠点や弱点を本人自身がではなく、周りの児童たちが如何に長所や利点へと見方を変えるリフレーミングの手法を理解し、体得できるかどうかにイジメの抑止はかかることになる。
だが、尾木直樹はイジメが対人関係の力学が影響して発生する出来事であるにも関わらず、対人関係の力学を取らない状況設定のもと、児童一人ひとりを対象にして自身の弱点や欠点を長所や利点へと認識し直すリフレーミングのススメを説き、その可能性でイジメ問題の対処とする
見当違いを犯して平然としている。
「すぐに人の悪口を言っちゃう」男子児童に対して尾木直樹は「友だちのことをよく見ている。今度は友だちの良いところを見て、ほめ言葉を贈ってあげましょうね」と尤もらしげに諭しているが、これは誰であっても長所もあれば、欠点もある、そのうちの長所を見つけて、それ相応の評価を持って交わることのススメであって、悪口の対象としている相手の弱点や欠点そのものを見方を変えて長所や利点として捉え直すリフレーミングの方法論とは厳密には全く別物であり、尾木直樹の発言自体が著名な教育家らしくない問題点を二つは抱えている。
一つはすぐに悪口を言ってしまう男子児童自体も長所も欠点も持っている存在であり、その点については"お互い様"であることをやんわりと伝えて、自身の欠点にも目を向けさせる自己省察能力を育むべく刺激することを忘れている点である。
二つ目は、「今度は友だちの良いところを見て、ほめ言葉を贈る」については前提としてコミュニケーションの成立が必要不可欠な要素であって、逆に前以ってコミュニケーションが成立していたなら、長所、欠点それぞれを受け止めることになって、欠点のみに目を向けて悪口を言ってしまう習性を回避できる可能性が生じるから、当時はリフレーミング云々が自己啓発や自己肯定感向上に必要な手法として流行りだったかもしれないが(それにしても日本の児童・生徒の各国と比較した自己肯定感の低さからすると、リフレーミングはさして役に立っていないことになる。)、良好な対人関係の構築には第一義的には児童・生徒それぞれのコミュニケーション能力にかかっているのだから、その育みにこそ、注意を向けるべきだが、その点に関しても尾木直樹は無関心を示している。
また、「いじめが生まれる土台がなくなる」として挙げた「ある小学校でとり入れられている3つの『しぐさ』」にしても、前提となるのは児童相互間、児童と教師相互間の滞りのないコミュニケーションの成立という状況が必要であって、そういう状況を前提としないイジメ対策が効果を上げていたとしたら、何らかの強制力の存在を考えないわけにはいかない。
ネットを手繰っていくと、『文部科学省 いじめ対策に係る事例集』(文科省/2018年9月)に「3つの『しぐさ』」を初めたのが足立区立辰沼小学校であることが紹介されている。
その対策とは「辰沼キッズレスキュー」と名付けて、全校児童約500名強のうち180名、35%近くの参加者の元、旗竿を持ち、どのようなものなのか、特別の衣装で身繕いし、隊形を組み、「イジメは許さないぞ」とでも一斉に声を出したのか、シュプレヒコールを上げながら校内を練り歩くというものらしい。
目的は取締まりではなく、「いじめ反対者の可視化」、反対の意思の知らしめだそうで、一種の反対デモといったところなのだろう。
パトロール定着後、「いじめを無くすには、思いやりの心をもつことが大切だ」との思いから、「あなたは、何をされると、人の優しさを感じますか」のアンケートを取った結果、「3つのしぐさ」が考案されたという。
改めて「3つの『しぐさ』」を挙げてみる。
①あいさつしぐさ。
②仲良ししぐさ。
③手伝いしぐさ。
上記文部科学省記事が「しぐさ」の具体的内容を紹介している。
「あいさつしぐさ」――おはよう、こんにちは、さようなら、ありがとうと言うなど。
「仲良ししぐさ」――泣いている人をなぐさめる、一人で寂しくしている人がいたら「遊ぼう」と誘うなど。
「手伝いしぐさ」――重いものを持っている人を手伝う、転んでいる人を助けたり、けがをしている人がいたら保健室に連れていく、落し物を拾ってあげたり失くした物を一緒に探す、など。
これらの行動の共通点は、一人ぼっちじゃない、誰かが支えてくれるよ、という、いわば暗黙のメッセージの発信を担っているということらしい。
「3つの『しぐさ』」をキッカケとして働きかける児童と働きかけられる児童の間にコミュニケーションが芽生え、深まっていく関係を取る可能性は否定できないが、コミュニケーションが成立しなければ、「おやよう」、「こんにちわ」等の挨拶は機械的なものとなり、助ける側はただ助ける、助けられる側はただ助けられるといった機械的な義務感で完結してしまう恐れがないこともない。
だとしても、辰沼小学校の校内パトロールは「いじめ反対者の可視化」と理由は立派ではあるが、多勢に無勢の多勢の強制力に頼った校内パトロール――一種の暗黙の監視社会の形成であって、監視が効く場には効果があっても、効かない場、例えば校舎の裏、便所の中、あるいは学校から離れた場所で、いわゆる地下に潜る形でイジメが行われる危険性は一切生じなかったのだろうか。
あるいは小学生でいる間はイジメ衝動を抑えざるを得なくて、抑えていたが、中学校に進学して抑えていた欲求不満が爆発するといったことはなかっただろうか。人間の自然な感情を考えると、自発的ではない、他発的なイジメ衝動の抑止の場合、その他発性のタガが外れると、元々のイジメ衝動が頭をもたげて、その衝動に衝き動かされてしまうといったことは往々にしてあり得ることである。
この推測が見当違いであったとしても、尾木直樹が「いじめが生まれる土台がなくなる」と保証した程にイジメ抑止に効果のある校内パトロールであり、「3つの『しぐさ』」であるなら、文科省が「いじめ対策に係る事例集」で紹介したぐらいだから、学習指導要領でも取り上げて、全国普及を図るはずで、その結果として効果が効果を呼んでイジメ認知件数は年々減少していいはずだが、現実は逆の傾向にある。
つまり他の学校が真似をして、イジメの抑止に効果を上げているという状況は見えてこない。原因が校長の指導力の問題だとしても、文科省が尻を叩き、従わざるを得ない状況に持っていきさえしたら、それなりの普及は可能なはずだが、その様子もない。
「辰沼キッズレスキュー」の発足は2012年10月、このオーサービジット記事は2019年2月。6年余も経過しているのだから、自身が「いじめが生まれる土台がなくなる」と保証した以上、その効果や普及の程度を確認・報告する義務と責任を負っているはずだが、取り上げるだけ取り上げて、それだけで終わりにしているその無責任はエセ教育者である尾木直樹らしい振る舞いと言える。
この無責任は児童それぞれが抱えている弱点や欠点を見方を変えて長所や利点として捉える、イジメ解決に向けたリフレーミングの手法を個人単位で完結させて、対人関係での応用を棚に上げた無責任に通じる。