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尾木直樹のイジメに関係させたリフレーミングの意味理解せずの見当違いなオーサービジット横浜市立川上北小

2025-04-22 05:35:22 | 教育

 今回は著名な教育者尾木直樹の横浜市立川上北小学校へのオーサー・ビジットを取り上げる。参考元記事は「好書好日」(朝日新聞社主催/2019.02.20)

 台本風に尾木直樹と児童の遣り取りを纏めてみる。


 尾木直樹「(事前にアンケートを取った結果)いじめられちゃう、いじめちゃう、どちらの悩みもあったの。どんなときに悪口を言いたくなる?(とマイクを向ける)」
 男子児童「むかついたとき!」
 尾木直樹「ではムカムカ、イライラ感情の正体は一体何でしょう?」
 同男子児童「ストレス!」
 尾木直樹「いじめの原因の70%はストレスといわれています。ストレスがたまっていじめたくなるのは人間的な感情なんです。
 心の中に、いじめをしてしまう自分がいるの。誰もがいじめたり、いじめられたりする可能性がある、全員の問題。みんなで考えなければいけないわね。
 でも、それを乗り越える智恵と賢さを、みんな持っているはずよ。ストレスをため込まないためには?」
 児童「ポジティブシンキング!」
 児童「叫ぶ」
 児童「運動する」
 児童「ずっと笑ってる!」
 尾木直樹「笑いは力ね。みんなが笑っている楽しい学校になればストレスが消えて、いじめが生まれる土台がなくなるわ。
 ある小学校でとり入れられている3つの『しぐさ』があるの。
 
 ①あいさつしぐさ。あいさつを交わすと、気持ちがいいでしょ。無視しちゃだめよ。
 ②仲良ししぐさ。一人でいる子には、一緒に遊ぼうと、声をかけてあげて。
 ③手伝いしぐさ。例えば、体調の悪い子がいたら、保健室に付き添ってあげるの。

 週に一回、友だちに言われてうれしかった言葉を学級会で発表して書き出してみて。その言葉が飛び交うような学校にしましょう。児童会で楽しいことをたくさん企画してやってみるのもいいわ。みなさん一人一人が学校の主人公。先生や保護者、地域の人たちは応援団なのよ。 
 みんな、自分のことはちゃんと見ているかしら?自分の嫌なところはどこかな?その弱点をひっくり返して良いほうに捉えたらどう見えるか、1分間で考えてみましょう」
 女子児童「声がでかいところが嫌だ」
 尾木直樹「あら、とっても素敵な声よ。歌手になれそう。良いほうから捉えたらどう見える?」
 同女子児童「私の発言をみんなが聞きやすい」
 男子?女子?児童「提出物をすぐ忘れちゃう」
 尾木直樹「ほかの楽しいことをたくさん考えている」
 児童「無口」
 尾木直樹「よく考えている」
 児童「自分勝手」
 尾木直樹「自分の意見をきちんと言える」
 男子児童「すぐに人の悪口を言っちゃう」
 尾木直樹「友だちのことをよく見ている。今度は友だちの良いところを見て、ほめ言葉を贈ってあげましょうね」
 同男子児童「(ニッコリと頷く)」
 尾木直樹「まずは自分の命を徹底的に大事にして。それと同じように、友だちの命も大事にしてくださいね。自分を大切にできないと、友だちも大切にできませんよ」――

 以上、ケチのつけようのない子どもの命に対する思い遣りの込もったオーサー・ビジットとなっている。もしこれが保護者参観の授業だったなら、感動のあまり涙を流す母親・父親が続出したに違いない。

 だが、事前のアンケートで尾木直樹が特に気になっていたみんなの悩みが〈「いじめ」に関する〉ものとし、「いじめられちゃう、いじめちゃう、どちらの悩みもあったの」と打ち明けて
いる以上、横浜市立川上北小学校では現実にイジメられている、あるいはイジメを受けて不登校や引きこもりの児童が少なからず存在していて、他の学校にも存在していることは現実問題となっていることと分かっているはずだから、これらの実態を頭に置いたオーサー・ビジットとなっていなければならないはずだが、頭に置いた様子はどこからも窺うことができない。

 あるいは川上北小学校ではほんのちょっとした諍い程度で、イジメらしいイジメは起きていないが、児童たちは尾木直樹がイジメ問題専門の教育者だと認識していて、その専門に合わせるある種の迎合意識が働き、イジメを一番の悩みに挙げたという可能性も考えられるが、そうであったとしても、尾木直樹はアンケートにあったとおりにイジメを頭に置いたオーサー・ビジットとしなければならないはずだが、実際には何一つ頭に置いていないオーサー・ビジットとなっているからこそ、児童それぞれが抱えている弱点や欠点を見方を変えて長所や利点として捉えるリフレーミングの手法を個人単位で完結させる指導ができたのだろう。

 断るまでもなく、自らの弱点や欠点を見方を変えさせて、本人自身に長所や利点として捉え直させる個人単位のリフレーミングであったとしても、それができたなら、本人は前向きな姿勢、プラス思考を手にすることができ、自己啓発や自己肯定感を高めることに役立つだろうが、それはそれで重要な教えだとしても、第一義的な問題点は本人以外の周囲の児童がその本人の弱点や欠点を見方を変えて、長所や利点として見てくれるようにならなければ、その弱点や欠点はそのまま残り、相手によっては目障りな性格に映って、その目障りを解消すべく付け込み、攻撃衝動に駆られる人間が出てこない保証はなく、イジメの多くはそういったことから始まるはずだから、イジメ問題解決や抑止には役立たないリフレーミングということになるが、尾木直樹は気づかずに役に立たない見当違いなリフレーミングを振りかざして、さも役立つような装いを見せている。

 大体が周囲から優れた長所を持った人物と認められていても、その評価に妬みを持つ者もいて、妬みが悪意に取って代わり、その評価をメチャメチャにしてしまいたい欲求に駆られて、巧妙にキッカケを見つけては攻撃し、イジメの形を取ることも応々にしてあることを考えると、児童それぞれに「自分の嫌なところ」を聞いて、その嫌なところを良い方向に捉えるよう仕向ける、本人レベル限定のリフレーミングであるなら、第三者からのイジメの回避に役に立たないことは誰もが請け合うはずである。

 要は児童それぞれが抱えている欠点や弱点を本人自身がではなく、周りの児童たちが如何に長所や利点へと見方を変えるリフレーミングの手法を理解し、体得できるかどうかにイジメの抑止はかかることになる。

 だが、尾木直樹はイジメが対人関係の力学が影響して発生する出来事であるにも関わらず、対人関係の力学を取らない状況設定のもと、児童一人ひとりを対象にして自身の弱点や欠点を長所や利点へと認識し直すリフレーミングのススメを説き、その可能性でイジメ問題の対処とする
見当違いを犯して平然としている。

 「すぐに人の悪口を言っちゃう」男子児童に対して尾木直樹は「友だちのことをよく見ている。今度は友だちの良いところを見て、ほめ言葉を贈ってあげましょうね」と尤もらしげに諭しているが、これは誰であっても長所もあれば、欠点もある、そのうちの長所を見つけて、それ相応の評価を持って交わることのススメであって、悪口の対象としている相手の弱点や欠点そのものを見方を変えて長所や利点として捉え直すリフレーミングの方法論とは厳密には全く別物であり、尾木直樹の発言自体が著名な教育家らしくない問題点を二つは抱えている。

 一つはすぐに悪口を言ってしまう男子児童自体も長所も欠点も持っている存在であり、その点については"お互い様"であることをやんわりと伝えて、自身の欠点にも目を向けさせる自己省察能力を育むべく刺激することを忘れている点である。

 二つ目は、「今度は友だちの良いところを見て、ほめ言葉を贈る」については前提としてコミュニケーションの成立が必要不可欠な要素であって、逆に前以ってコミュニケーションが成立していたなら、長所、欠点それぞれを受け止めることになって、欠点のみに目を向けて悪口を言ってしまう習性を回避できる可能性が生じるから、当時はリフレーミング云々が自己啓発や自己肯定感向上に必要な手法として流行りだったかもしれないが(それにしても日本の児童・生徒の各国と比較した自己肯定感の低さからすると、リフレーミングはさして役に立っていないことになる。)、良好な対人関係の構築には第一義的には児童・生徒それぞれのコミュニケーション能力にかかっているのだから、その育みにこそ、注意を向けるべきだが、その点に関しても尾木直樹は無関心を示している。

 また、「いじめが生まれる土台がなくなる」として挙げた「ある小学校でとり入れられている3つの『しぐさ』」にしても、前提となるのは児童相互間、児童と教師相互間の滞りのないコミュニケーションの成立という状況が必要であって、そういう状況を前提としないイジメ対策が効果を上げていたとしたら、何らかの強制力の存在を考えないわけにはいかない。

 ネットを手繰っていくと、『文部科学省 いじめ対策に係る事例集』(文科省/2018年9月)に「3つの『しぐさ』」を初めたのが足立区立辰沼小学校であることが紹介されている。

その対策とは「辰沼キッズレスキュー」と名付けて、全校児童約500名強のうち180名、35%近くの参加者の元、旗竿を持ち、どのようなものなのか、特別の衣装で身繕いし、隊形を組み、「イジメは許さないぞ」とでも一斉に声を出したのか、シュプレヒコールを上げながら校内を練り歩くというものらしい。

 目的は取締まりではなく、「いじめ反対者の可視化」、反対の意思の知らしめだそうで、一種の反対デモといったところなのだろう。

 パトロール定着後、「いじめを無くすには、思いやりの心をもつことが大切だ」との思いから、「あなたは、何をされると、人の優しさを感じますか」のアンケートを取った結果、「3つのしぐさ」が考案されたという。

 改めて「3つの『しぐさ』」を挙げてみる。
 
 ①あいさつしぐさ。
 ②仲良ししぐさ。
 ③手伝いしぐさ。

 上記文部科学省記事が「しぐさ」の具体的内容を紹介している。

 「あいさつしぐさ」――おはよう、こんにちは、さようなら、ありがとうと言うなど。
 「仲良ししぐさ」――泣いている人をなぐさめる、一人で寂しくしている人がいたら「遊ぼう」と誘うなど。
 「手伝いしぐさ」――重いものを持っている人を手伝う、転んでいる人を助けたり、けがをしている人がいたら保健室に連れていく、落し物を拾ってあげたり失くした物を一緒に探す、など。 
 
 これらの行動の共通点は、一人ぼっちじゃない、誰かが支えてくれるよ、という、いわば暗黙のメッセージの発信を担っているということらしい。

 「3つの『しぐさ』」をキッカケとして働きかける児童と働きかけられる児童の間にコミュニケーションが芽生え、深まっていく関係を取る可能性は否定できないが、コミュニケーションが成立しなければ、「おやよう」、「こんにちわ」等の挨拶は機械的なものとなり、助ける側はただ助ける、助けられる側はただ助けられるといった機械的な義務感で完結してしまう恐れがないこともない。

 だとしても、辰沼小学校の校内パトロールは「いじめ反対者の可視化」と理由は立派ではあるが、多勢に無勢の多勢の強制力に頼った校内パトロール――一種の暗黙の監視社会の形成であって、監視が効く場には効果があっても、効かない場、例えば校舎の裏、便所の中、あるいは学校から離れた場所で、いわゆる地下に潜る形でイジメが行われる危険性は一切生じなかったのだろうか。

 あるいは小学生でいる間はイジメ衝動を抑えざるを得なくて、抑えていたが、中学校に進学して抑えていた欲求不満が爆発するといったことはなかっただろうか。人間の自然な感情を考えると、自発的ではない、他発的なイジメ衝動の抑止の場合、その他発性のタガが外れると、元々のイジメ衝動が頭をもたげて、その衝動に衝き動かされてしまうといったことは往々にしてあり得ることである。

 この推測が見当違いであったとしても、尾木直樹が「いじめが生まれる土台がなくなる」と保証した程にイジメ抑止に効果のある校内パトロールであり、「3つの『しぐさ』」であるなら、文科省が「いじめ対策に係る事例集」で紹介したぐらいだから、学習指導要領でも取り上げて、全国普及を図るはずで、その結果として効果が効果を呼んでイジメ認知件数は年々減少していいはずだが、現実は逆の傾向にある。

 つまり他の学校が真似をして、イジメの抑止に効果を上げているという状況は見えてこない。原因が校長の指導力の問題だとしても、文科省が尻を叩き、従わざるを得ない状況に持っていきさえしたら、それなりの普及は可能なはずだが、その様子もない。

 「辰沼キッズレスキュー」の発足は2012年10月、このオーサービジット記事は2019年2月。6年余も経過しているのだから、自身が「いじめが生まれる土台がなくなる」と保証した以上、その効果や普及の程度を確認・報告する義務と責任を負っているはずだが、取り上げるだけ取り上げて、それだけで終わりにしているその無責任はエセ教育者である尾木直樹らしい振る舞いと言える。

 この無責任は児童それぞれが抱えている弱点や欠点を見方を変えて長所や利点として捉える、イジメ解決に向けたリフレーミングの手法を個人単位で完結させて、対人関係での応用を棚に上げた無責任に通じる。
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尾木直樹の教育者として世論形成の歌を忘れたカナリアの夫婦同姓合憲判断最高裁批判は新聞記事のツマミ食い

2025-04-15 15:04:07 | 教育

 八方美人尾木直樹が夫婦別姓についてどんな考えを持っているのだろうかとネット検索を掛けてみたら、本人のブログ、「尾木ママオフィシャルブログ」の2015年12月17日の記事、《夫婦別姓なんて当たり前なのに、最高裁って古いんですね》(尾木ママオフィシャルブログby AMEBA/2015-12-17 23:11:42)に当たった。

水増しするために行間隔を大きく開けているが、勝手に狭めることにした。以下、全文を紹介する。

〈再婚規定の違憲判断
当たり前!!
でも
夫婦別姓?
おかしくないのに…
・男女平等の原則に違反
・個人の幸福権追求の侵害
に明らかにひかかりますね!!
古い
古い  

最高裁にがっかりの 
尾木ママです…〉――

 この記事記載の前日、2015年12月16日、二つの最高裁判決が示された。一つは女性の再婚禁止期間6ヶ月のうち100日を超える部分を違憲とする判断と、夫婦同姓を義務付ける民法750条を合憲とする判断が示され、夫婦別姓結婚への憲法容認は門前払いとなった。

 特に後者の場合は夫婦同氏の強制は憲法第24条の要請、個人の尊厳と両性の本質的平等の侵害に当たるとの訴えに合理性を欠くとは認められないと裁決している。

 勿論、尾木直樹の上記記事はこの両最高裁判決を受けた自身の評価であって、再婚規定の違憲判断に賛成であり、夫婦同姓のみの義務付けに対する合憲判断に反対であることが分かる。

 だが、再婚規定の違憲判断がどう「当たり前!!」なのか、夫婦別姓がどう「おかしくない」のか、同じく夫婦別姓結婚について憲法上認められなかったことが男女平等の原則にどう「違反している」のか、個人の幸福権追求をどう「侵害」し、どう「ひかかる」のか、今回の夫婦別姓を認めない最高裁の判断がどうして「古い」のか、尾木直樹自身がそれぞれに理由とするところの具体的な解釈や根拠を何も示さずに片付けていることの自身の無責任に何も気づいていない。

 なぜなら、教育者として社会的に広く活動している以上、教育問題に限らずに社会や政治の問題に関しても自分自身にとって理想とするあるべき姿を取っていないことに対してこうあるべきだと理想を口にすることは、好むと好まざるとに関わらず、世論を自身が理想とする方向に導く役割を同時に果たしていることになるのだから、「当たり前!!」、「おかしくない」、「侵害」、「ひかかる」、「古い」等々の発言に対して理由、あるいは根拠を述べた上で著名な教育者としてのこうあるべきだとする自らの言葉を発信しないのは自らが担うことになる世論形成の役割を放棄していることになり、教育者として発言する資格を失うことになるからだ。

 この夫婦別姓婚の憲法容認を求める東京地方裁判所への告発は2011年5月25日となっている。当然、その当時から関心を持って注目していただろうし、2015年末の最高裁判決まで4年が経過しているが、こういった事情に反して一家言を持って行うべき世論形成を置き忘れたほんのちょっとした感想、あるいは印象の類いしか発信できないことと最高裁判決の翌日の尾木直樹の記事であることとの関係から新聞記事のつまみ食いに過ぎないと断定できる。

 要するに教育者として進歩的なところを見せるために何か一言言う必要が生じたが、世論を導くだけのこうあるべきだとする考えを持っていなかったために新聞記事をつまみ食いした程度の感想や印象の類いで終わることになったといったところなのだろう。

 このように断定できる理由は他にもある。イジメ解決の書物を数多く出版しているが、提言はするが、その具体的な方法論には触れずじまいで終える無責任を多々見るからだ。

 以前ブログに取り上げたことだが、その特徴的な例を一つ示してみる。

 2013年2月1日に発売した『尾木ママの「脱いじめ」論 子どもたちを守るために大人に伝えたいこと』という教育本の第5章は、「本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」と謳っていて、その中で、「どの子にも居場所と出番のある学級づくりの実現」を掲げている。

 だが、実現の必要性を言うだけで、実現の具体策には何一つ触れていない。「居場所と出番」を別の言葉で言い換えると、「可能性追求の機会と場」となる。何らかの活動に基づいた可能性追求の機会を手にすることによって、機会発揮の場が居場所となり、発揮すること自体を出番とすることになる。

 勿論、どのような可能性であってもいいわけではない。誰かをイジメることが自身の楽しい活動となり、最悪、活躍しているという思い込みに駆られた場合、イジメを自身の飛び切りの可能性追求の機会とすることになって、楽しいばかりの出番とすることになる。

 結果、一度イジメると、なかなか抜け出せないのは思うようにいくという成功体験が自分にとっての精神的、あるいは肉体的躍動を利益とするようになるからだろう。

 当然、何かの趣味に没頭するといった自分一人の可能性の追求ではなくて、第三者が関わる可能性の追求の場合は自分だけが何らかの利益を得るものはなく、相手にとっても何らかの利益となる可能性の追求でなければならないことになる。

 尾木直樹が「本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」だ、「どの子にも居場所と出番のある学級づくりの実現」だなどと口にする以上、お互いが精神的にも肉体的にも利益となる「可能性追求の機会と場」を見い出すことのできる手助けをして、そのことを以ってそれぞれの「居場所と出番」にできるように持って行く方法を示し、その方法を広めていく世論形成が教育者としての役目だろうが、言うだけ言って、役目を果たさず、その責任を放棄したままでいる。

 この無責任は、先に挙げた最高裁判断に関して著名な教育者として発言していながら、自分が理想とする方向に世の声を少しでも向けようと自らの考えを述べるべき務めを果たすこともしない無責任と通底している。

 この点からも上記最高裁判断に関わる記事内容は新聞記事のツマミ食いに過ぎないと断定できる。
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尾木直樹オーサービジット:自分のことは自分で決める自己決定論と子どものスマホ利用の自己決定排除の矛盾

2025-03-25 11:40:47 | 教育

Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 その教育思想が学校のイジメと不登校の認知件数の著しい低下に役立ち、世の学校教師や保護者から並々ならぬ感謝と称賛を受けている人気教育評論家の尾木直樹が本の著者が学校を訪ねて特別授業をする「オーサー・ビジット」を2019年12月も行っている。

 《自己決定が自立への道 教育評論家・尾木直樹さん@埼玉・三郷市立新和小学校》(朝日新聞社運営本の情報サイト「好書好日」/2020.02.23)

 先ず次のように紹介している。

 〈文・安里麻理子 写真・首藤幹夫

 本の著者が全国各地の学校で特別授業をする朝日新聞社主催の読書推進事業「オーサー・ビジット」。「尾木ママ」としてテレビやラジオでもおなじみの教育評論家・尾木直樹さんは昨年12月に三郷市立新和小学校を訪れ、5、6年生のこころと日常に寄り添った熱い授業を展開した。(このビジットはベルマーク教育助成財団との共催です)〉云々⋯。

 この"オーサー・ビジット"が5、6年生対象だということが分かる。高学年相手だから、それなりに中身の濃い、高度な言葉の伝達だったに違いない。何しろ、〈5、6年生のこころと日常に寄り添った熱い授業を展開した。〉と情景描写しているのだから。

 この学校に教師として赴任している訳ではないから、身体的には生徒の日常に寄り添うことなどできない。ほんのいっときの寄り添いしかできないが、5、6年生の心に鋭く、深く突き刺さる、感銘を与える刺激的な言葉を発信できたからこそ、それが心にいつまでも刻み込まれて、その言葉と共に生きることになる結果、尾木直樹がその場に存在していなくても、精神的にはいつまでも日常に寄り添っている、いわば影の存在足りうることができているということなのだろう。

 結果、あの眼鏡越しに目を細めたニコニコ顔が脳裏に張り付き、見守ることになって、自分までもが穏やかな気持ちに支配され、誰かを面白がって過度のからかいに走ったり、懲らしめてやろうと制御の効かない痛めつけに走ったりは他処の世界の出来事とするようになる。

 怒りや侮蔑の衝動と無縁にしてくれるのだから、子どもたちにとっては何と心強いことだろう。いわばイジメに走ることから守ってくれるだけではなく、イジメを受けることからも守ってくれて、そのことがイジメ認知件数の減少、不登校児童・生徒数の減少へと反映されることになっているのだから、その恩恵の源は尾木直樹の誰に対してもいい顔をする八方美人の効用以外に
考えられない。

 この"オーサー・ビジット"は授業対象の児童に対して事前にアンケートを取る形式を採用しているらしい。そのアンケートには、〈「どうしてママになったの?」という質問が多く、それに答える形で授業は始まった。〉と、そのことを第一声として伝えている。

 〈発端は2009年の年末、明石家さんまさんの特別番組に、教育問題を語る専門家として出演したときだった。さんまさんに突然、「あんた、飲み屋のママに似てる。ママ、ママ~」と連呼され、当時、私立大学の教授も務めていた尾木さんは仰天。「やだ、まじめな研究者のイメージが崩れちゃう!大学もクビになるかも」

 必死に阻止したものの、あたふたする様子がウケて、バラエティー番組から引っ張りだこに。「あのときの1秒でママになっちゃったの」

 ただ、そうして広く顔が知られたことにより、教育や子育てに関する専門的な話も、たくさんの人に聞いてもらえるようになったという。〉と、テレビ番組出演時の言葉遣いがいわば、"おネエキャラ"の発端となったイキサツを紹介している。

 このおネエキャラが関心の的となって、尾木直樹の教師長年勤務の経験に基づいた簡明にして子どもの成長に向けて役立つ教育論に広範囲に触れるキッカケを提供することになり、その教育論が与える有用性の実感によって多くの小・中・高生、学校教師、保護者に歓迎される状況を作り出しているのだろうから、明石家さんまの貢献は日本の教育界に大きな足跡を残していることになる。

 尾木直樹はこの経験を財産として、「人生ってそんなふうに、いつ、どこで何が起きるかわからない。だから、そのときそのときを精いっぱい生きておくことが大切」という貴重な教訓を自ら手に入れることになり、その教訓を小・中・高生、学校教師、保護者に機会があるごとに伝えていて、今回のオーサー・ビジットでも伝えることになったということなのだろう。

 まさかおネエキャラだけが受けているという訳ではあるまい。

 記事がこの教訓を大学教員を含めて中学、高校と40年間の教員生活を通して、「教育現場に情熱を傾けてきた尾木さんの実感だ」と共感し、讃えているのは当然中の当然なのだろう。

 アンケートには「勉強しろと言われるとやる気をなくす」という悩みも多くあったとしている。

 尾木直樹「私も同じという人は?」
 ほぼ全員が手を挙げる。
 尾木直樹「では、後ろの保護者の方で、勉強しなさいと言ったことがない人は? あ~ら、1人もいない」
 子どもたちのニヤニヤが止まらない。

 尾木直樹「なぜ、やる気をなくすのか。答えは明確です。自分で決めたことではないから」

 解説、〈尾木さんによると、5、6年生といえば思春期に入る年頃。体も心も変化する。「自分でコントロールできなくて、イライラしたり、感情を爆発させたり。それが親子関係や友だち関係にも影響するの」〉

 尾木直樹「どんなとき、親に反抗する?」
 5年生「やりたいことがあるとき」
 尾木直樹「それが普通。だいたい勉強できる子って、親に言われなくてもやる。自らやる、これを自立といいます」

 解説、〈そうはいっても自ら勉強する子なら苦労しません! 保護者席からそんな心の声が聞こえてきそうだ。〉

 尾木直樹は自身の子ども時代のエピソードを披露する。

 尾木直樹のお母さん(学校から帰ると毎日)「直くん、今日はどんな予定なの?」
 尾木直樹「小学生に予定って聞かれてもねえ。遊びに行く、くらいしかないわよ!でも、それだけじゃまずいと思って、帰ったら勉強するって言っていた」

 〈言った以上、やらなくては。そうしないと大人のことも、「言っていることとやっていることが違うじゃないか」と批判できない。〉

 尾木直樹「今思えば毎日、自分の考えを問われていたようなもの。その上で、自分で決めさせていたんじゃないかな」

 ホワイトボードに「自立」「自己決定」と書く。

 尾木直樹「だから、何かしなさいと言われたら、自分で決める、というクセをつけるといいのよ」――

 ここまでのご高説を自分なりに噛み砕いて、その素晴らしさを伝えたいと思う。

 母親が学校から帰ると毎日、その日の予定を聞く。遊びの予定ばかりでは済まないから、「帰ったら勉強する」と約束した。約束を守らないと、大人の有言不実行を批判できないから、約束をしたことを守るようにした。思い返すと、母親は子どものすることは子どもに決めさせていたのであって、この経験が尾木直樹少年に幼くからして自己決定力を育ませ、自立への歩みを促した。

 結果、何事も自分で決めて自分で行動する自立ができていれば、親の干渉を最小限にとどめることができるという教訓の形を取るに至った。尾木直樹自身が子どものときから自立に向かって歩むことができたのは母親の教えがあったからだと、この子ども時代のエピソードは貴重な教育的財産となり、機会あるごとにウリにしているのだろう。

 逆に子どもに自分のすることは自分で決めさせる自己決定力を育む機会を与えずにその能力を欠いた状態で、「勉強しろ」だ、「何々をしろ」だと頭ごなしに言いつけたとしても、却って「やる気をなくす」ことになり、5、6年生といえば思春期に入る年頃で、「自分でコントロールできなくて、イライラしたり、感情を爆発させたり。それが親子関係や友だち関係にも影響」して、却って子どもの成長の阻害要因となるから、いわば一にも二にもなく自分のすることは自分で決めさせる自己決定力を育む機会を最初に用意してやることが要点だとの主張である。

 但し尾木直樹が子どものときから自立できた自身の経験が事実そのとおりであり、現在の子どもにも同じような経験をして貰いたいと思ったなら、教育者である以上、一歩も二歩も踏み込んで、学校に対して、あるいは文部科学省に対して宿題の休止日を設けるよう、申し込むべきだろう。

 なぜなら、宿題と予習や復習の自主学習とは自分のすることは自分で決めさせる自己決定という点では決定的に違うからである。宿題は決められた科目の決められた箇所を勉強させる一つの強制であって、予習や復習の自主学習は必ずしも強制とはならない。

 但し自主学習任せでは勉強したかどうか判断できないから、レポートを提出させなければならない。この提出は一見、強制に見えるが、何を予習するか、何を復習するかは自分で決める自己決定の余地を残す。宿題に対するその解き方、解答はほぼ決まっているが、レポートの内容は予習や復習の対象科目によって異なってくるし、自身の取り上げ方によっても、自己決定の要素の違いに大きく左右される。

 さらに学期が進むに応じて、あるいは学年が進むに応じて自主学習の成果が学校の成績に反映されてきたと見たなら、レポートの提出は廃止して、放課後の家での勉強は全て子どもたち自身に任せる。究極の自己選択となる自己決定となり、自立を強く動かす動機となるはずである。

 勿論、子どもの一般的な姿に持っていくまでの道のりは困難で遠いだろうが、学校から家に帰って、母親と約束した勉強をするかしないかを自己決定の誘因に置いて、そこを起点として、"自立へのプロセス論"を振り回す以上、その勉強が宿題なのか、予習や復習の自主学習なのか、前者と後者では自己決定に相当な差があるのだから、教育者なら、しっかりと区別すべきだろう。

 だが、尾木直樹は母親に約束した「勉強」が宿題なのか、予習、復習の自主学習なのか明らかにしていない。ここに否応もなしに胡散臭さを見てしまう。

 家での勉強がレポートの提出さえも義務付けられていない予習、復習といった完全な自主学習であったなら、自己決定の要素は確かに大きいと言えるが、レポートの提出を義務付けられた予習、復習の自主学習であった場合でも、自主学習の対象科目に何を選択するか、どういう学び方にするのか、レポートとしてどういう内容に纏めるのか、自己決定が要請される。

 それが宿題の類いだったなら、義務の履行という強制的な要素が大分占めることになって、十分な意味で自己決定の育みに役立つとすることはできない。

 もし尾木直樹自身の「勉強」がレポートの提出も義務付けられていない予習、復習といった、するかしないかは全て自己決定に任された自主学習の類いだったなら、尾木直樹は子どもたちに自己決定の習慣を育み、自立ある存在へと向かわせるために宿題の一定程度の中止にまで踏み込む主張をしていたはずだ。

 さらに言うと、日本の教育に未だ色濃く残っている暗記教育も教師が教える知識・情報を児童・生徒が自らの解釈を加えずにそのまま自分の知識・情報として受容する従属性によって成り立っている以上、知識・情報の習得に関しては自己決定権を持たず、他者の知識・情報から自立を果たしているとは言えず、このことは日本の小中高生が他国と比較して自己肯定感が低い状況と無関係ではなく(自分なりの知識・情報を持つことができていたなら、自己肯定感は高くなるはず)、宿題や予習、復習の自主学習が暗記教育の影響下にあるとしたら、自己決定や自立に大きく関係することになり、自己決定や自立を言うなら、暗記教育の是正にまで踏み込まなければならなかったはずだ。

 だが、そこまでの道筋を示すことはできていない。その底の浅さは自身の自己決定の習慣づけに役立ち、それが自立の歩みの手助けになったことを自分の子どもの頃の経験に基づいた優れた出来事と印象付けて、人に伝えるための教訓としての価値をウリにするために仕込んだエピソードのようにも見える。

 なぜなら、その教訓が、「何かしなさいと言われたら、自分で決める、というクセをつけるといい」と教える程度で終わらせているからで、自己決定と自立に向けたインパクトある刺激的な言葉になるとは思えないからだ。

 大体が、「言われたら」何かするのは、その何かをするしないは自分で決めたことだとしても、何らかの従属性を纏うことになり、従属性を纏う割合に応じて主体性が損なわれることになる。自己決定と自立は極めて主体性を必要とする。

 「何かしなさい」と言われるのを待つのではなく、放課後の大まかな時間割を子どもたちそれぞれに作るように仕向ける。強制ではない。作る、作らないかは本人の主体性、自主性に任せる。時間で行動する習慣づけは計画性を養うだろうし、時間の観念の発達を促す。

 時間割を作ったらという教師や親の指示に対して強制ではなく、本人任せとしながらも、効果を上げるためには時間で行動するよう、習慣化させる。

 例えば、「もうベッドに入りなさい、8時よ」、あるいは「もう寝なさい、9時になったでしょ」と、行動を基準に時間を付随させのではなく、「8時だから、ベッドに入る時間よ」、あるいは「9時だから、もう寝なさい」と常に時間を基準にした行動を求める。あるいは時間での行動に持っていく。

 それが常態化することができたなら、放課後も、時間割での行動にさして抵抗を受けることはないだろう。

 宿題のある日はゲームとかサッカーの遊びの前にそれをするのか、遊びから帰ってからするのか。宿題のない日はその日に応じて予習・復習の自主学習を行うのか、ときには何もせずにその日は思い切り遊びのみの時間とするのか、自らの時間割の作成のもと、そういった日を設けるのも、主体性色満点の精神の解放を自ら作り出し、リフレッシュさせた自分を自ら味わうことに役立つ。

 尾木直樹が親子関係や友だち関係に悪影響を与える、ときとして爆発させてしまう、思春期特有の不安定な感情の起伏を言うんだったら、子ども自身に精神の解放日を設けさせるのも、感情の働きというものに意識を向けさせることになり、感情のコントロールの訓練ともなるだろうから、ただ単に思春期の精神の不安定を指摘し、「何かしなさいと言われたら、自分で決める」と言うだけではない、精神の不安定の確かな回避策にまで踏み込むべきろう。

 踏み込むところまでいかない点に教育者としてホンモノなのかを疑わせる側面を見ることになる。

 放課後に何をするのかの各行動ごとの時間割を作らせることができたなら、寝る前にでも、それぞれの時間割を守れたのか、守ることができなかったのか、自己採点を求めるのもいいだろう。守ることができたなら、自信がつき、できなかったなら、反省が生まれ、自信と反省は自分のことを省みて、その善悪・是非を考える自己省察を刺激し、自己省察が自分はどんな人間なのかの存在性を少しずつ知らしめることになり、自身の存在性の把握が他者の存在性との比較、他者省察へと進み、この自分を知り、他者を知るプロセスが自分を確立していく自我確立の道へ進む基礎となる。

 このようにすることが効果があると見込めると認めるなら、学校は一斉の宿題休日を設けて、時間の活用を全て子どもに任せた放課後の時間割とすべきだろう。宿題がない代わりに自習・復習の自主学習に時間を割り振るのも自由、全て遊びの時間に割り振るのも自由、何事も自分で決めさせる。

 否でも主体性・自主性に基づいた自己決定が関わり、守れたり、守れなかったり、自信を持ったり、反省したり、その繰り返しの過程で自分という人間を考えたりする。友達はどうしているのだろうかと他者を頭に思い浮かべたり、自立の道を歩み始めることになる。

 母親が学校から帰ると毎日、その日の予定を聞いたことが自己決定の習慣づけに役立ち、自立を促したとする幼少期のエピーソードが教育評論家の教訓としての価値をウリにするために仕込んだエピソードではないかという疑いは尾木直樹が次に取り上げたスマホに関する主張からも窺うことができる。自己決定のススメを説きながら、そのススメをケロッと忘れて、「日本は子どものスマホ利用に対する規制がゆる過ぎ!韓国や中国では政府が、未成年の深夜のオンラインゲームを禁止したくらいなのに」云々と国や学校の公権力を用いて上からの規制を主張、自己決定をどこかに放り投げているからである。

 記事のその個所を取り上げてみる。

 尾木直樹「どうしても言っておきたいことがある。今年、世界保健機関(WHO)が、スマホなどでのゲーム依存は病気で、程度によっては入院治療も必要だと正式認定しました。知ってた?」

 記事がネット依存の現状を紹介。

 〈ゲームだけではない。インターネットやSNSの利用も含め、全国の中高生約93万人がネット依存の疑いあり、という推計を厚生労働省が発表した。SNSを介して小学生が誘拐された事件もあった。〉――

 そこで尾木直樹が考案した、"自分で決める"を置き忘れた、上からの強制となる「スマホルール7か条」

 記事は「スマホの使用は夜○時まで」と「使用・充電する場所は、リビング・ダイニングに限る」の2ヶ条の紹介のみで、尾木直樹の、「詳しくは、7つのルール 尾木ママで検索してみて」の言葉を紹介しているから、ネットで検索、「7か条」を挙げておく。

【ルール1】スマホは「親が買って契約し子どもに貸している物」ということを忘れません。
【ルール2】スマホの使用は、夜〇時までとします。
【ルール3】スマホを使用・充電する場所は、リビング・ダイニングに限ります。
【ルール4】食事中にスマホは使用しません。
【ルール5】スマホをいじらない時間に、家庭で楽しく過ごせることを考えましょう。
【ルール6】スマホによるトラブルが生じたら、すぐに親に相談します。
【ルール7】守れなかったときには、〇日間、親にスマホを返します。

 児童の反応。

 𠮷川晴翔(はると)くん(5年)は、「ゲームはやっていないけれど、依存の話がこわかった。スマホを使う時間を決めたい」
 大塚くるみさん(6年)「ニュースで誘拐事件を見ました。スマホを持ったら気をつけようと思う」
 
 記事は肝心なことであるはずなのに、スマホの使用制限時間や使用・充電する場所に対する児童の反応は何一つ伝えていない。

 要するにスマホの良識ある使い方をそれぞれが自ら考えて、それぞれに独自の使い方を個別決定させ、その先に自立的(あるいは自律的)存在の確立を促していくのではなく、ルールを先に持ってきて、全員をそのルールに従わせて、ルール通りの子どもにはめ込もうとしている。

 決してそうはならないから、救いとなっているが、尾木直樹が言っている「何かしなさいと言われたら、自分で決める、と言うクセをつけるといいのよ」を無効とする言葉を平気で垂れ流している。

 ここに尾木直樹の教育者としてのニセモノ性を顕著に窺うことができる。

 この信用の置けない言動は、勿論、尾木直樹自身の性格の反映以外の何ものではない。オネエキャラとして用いている言葉の柔らかさ、いつも目が笑っている、その親しみの装いが目眩ましとなり、ニセモノであることを隠すのに役に立っている。

 何事も自分で決めること、自己決定が自立の育みに必要不可欠な習慣化だと言うなら、スマホの使い方も使用時間も自己決定させる方策を創造して、こういう使い方をすれば、スマホ中毒に陥らず、時間に規律を持たせることができると、そこまでの道筋をつけるべきが教育者としての責任であるはずだが、その責任を果たすことができない。

 例えばサッカーや野球、ソフトボール等々を運動部活として行なっている男女児童・生徒、演劇や吹奏楽等々の文化部活として行なっている男女児童・生徒は、それぞれの部活に熱心に取り組んでいたなら、スマホを通信手段としたネット依存にはまり込む時間的余裕も精神的余裕もあるだろうか。

 要するに可能性の問題である。何らかの活動に自身の可能性を見い出していたなら、あるいは自身の可能性を託していたなら、他の様々な活動との間に、あるいは日々の自身の様々な活動に自ずと優先順位をつけることになって、秩序だった時間の使い方をするようになるだろう。

 勿論、全員が全員、そうなるとは限らないが、確率的には高いはずである。

 勉強に関しても、運動部活動に関しても、文化部活動に関しても、あるいは趣味の類いに関しても、親の家業に関しても、自分がしたいと思うことを見つけることができないと、そのしたいことが学校生活や将来に向けた試してみたい自らの可能性へと持って行くこともできず、結果、簡単にできる上に楽しく時間を過ごせて、夢中になれる活動、と言うよりも、娯楽や遊びに走ることになる。その代表的な娯楽、あるいは遊びがスマホを使ったネット依存ということであるはずだ。

 となると、「スマホルール7か条」などと得意げに掲げている場合ではなく、教育者なら教育者らしく、どのような小さなことでもいいから、自分がしたいと思うことを見つけて、それを各自が学校生活や将来に向けた可能性へと高めていくにはどうしたらいいのかを説くべきだろう。

 できたことは、繰り返しになるが、「何かしなさいと言われたら、自分で決める」自己決定が自立を促すといったことを言いながら、スマホの利用に関しては自己決定を奪っていることに気づかずにルールを作って規制をかけ、当たり前の顔をしていることのみである。

 尾木直樹は、〈時折、「テレビでは文化人枠だからギャラ安いの」など、オトナの事情を笑い話にして挟みながら、最後は「いじめ」〉問題を取り上げている。

 尾木直樹「人が嫌がっていることは今すぐやめてください。(「傍観しているだけで感覚はどんどん麻痺していく」と諭したうえで)友だちにムカムカしないですむ方法があるの。

 すぐ口を出してくるからムカつく。でも、そういう子は活発な子。態度がはっきりしないからムカつく。だけど、そういう子は慎重な子。

 そんなふうに、誰かを否定したくなったら別の見方をしてほしい。だって、みんな違って当たり前。だからいいのよ」――

 要するに尾木直樹は相手にムカムカしたなら、ムカムカした相手の性格・態度を別の見方で捉えれば、人が嫌がるイジメは前以って避けることができる、いわばムカムカからのイジメはなくすことができると考えていることになる。

 言っていることは以前取り上げているが、尾木直樹の2019年に神奈川・横浜市立川上北小学校を訪れて行なったオーサー・ビジットでも、その効用を伝えている、物事の捉え方や枠組み(フレーム)を変えて、別の視点から見直す心理学用語だという"リフレーミング"という方法であろう。

 「誰かを否定したくなったら別の見方」への誘導は自他の省察力を刺激することになるから、自律(あるいは自立)に向かわせる有効な入口となりうる。特にちょっとしたことでムカつく人物像は他人と適度な距離を取り、自分は自分という精神の余裕が持つことが不得手な自己中心的な性格で、年相応の自律(あるいは自立)ができていないと見ることができるから、その効果は十分に予測しうる。さすが尾木大先生であると言える。

 但しムカつく原因はすぐ口を出しするとか、態度がはっきりしないということに対してだけではなく、成績が良い、クラスの人気者だ。先生の質問に対する答をほぼ独占している。先生に気に入れられている、カネ持ちだ、いい家に住んでいる等々、他人の可能性に対する羨ましさを心理的背景として自分は逆の状況にあると見る劣等感が強いる不愉快な感情が発端であることも多いはずである。

 他人の可能性に対する羨ましさに基づいた劣等感は自身の可能性を見い出し得ていない状況下で頭をもたげやすい。可能性を見い出し得ていたなら、その可能性を伸ばすことに目を向けることになるから、他人の可能性に煩わされることは避け得る。

 となると、自身の可能性を見い出し得ていない状況下で他人の可能性に感じる羨望を見方を変えて打ち消し、他人の可能性であっても、受け入れることのできる要素とするには相当に心の広さ、心の余裕が必要となるが、元々そのような心の広さ、心の余裕を見せることができたなら、他人の可能性が羨ましくなり、劣等感からムカつくなどといった負の感情を引き起こすことはないだろう。

 当然、こういった負の感情からのムカつきに対して「誰かを否定したくなったら別の見方」をする"リフレーミング"を用いたイジメの回避策よりも、スマホを通信手段としたネット依存のところでも触れたが、目をつけるべきは学校社会に対応できる可能性の発見に力添えできる体制の構築であるはずだ。

 学校社会は「多様な可能性」、「可能性の多様化」等々、スローガンは立派に掲げるが、勉強の成績やスポーツの成績、文化部活動の成績等々、限られた可能性にのみ光を与えて、それ以外の可能性を拾い出して光を与えることを忘れていて、学校社会で可能性を見い出し得ない子どもたちを取りこぼしている。

 だが、尾木直樹はイジメが可能性を見出し得ているか得ていないかに深く関係することにまで踏み込むことができずに、友だちにムカムカしたら、相手に対する否定的価値観を肯定的価値観に変えなさいと、公式を当てはめさえすれば解決できる、簡単な数式の問題であるかのように片付けている。この安易さは引く手あまたの人気教育評論家にふさわしい。

 安易さと人気はホンモノの教育者にはなし得ない両立に違いない。ニセモノの教育者だからこそできる両面性だろう。

 また、尾木直樹は見方を変えることで友だちにムカムカしないですむ方法があるとご託宣はしているが、見方を変えることができずにムカムカの発散から始まった場合のイジメについては何も触れていないのは御託宣の効果を100%信じているからだと思えるが、ムカムカが原因であっても、なくても、ちょっとからかったら、相手が嫌がったのが面白くなって、嫌がらせて面白がるために一定の行為を繰り返し、イジメとなる、決して少なくはないケースの場合はどう考えているのだろう。

 このようなケースはどのようにエスカレートさせた嫌がらせであっても、面白がっているだけのことで、イジメになっているとは気づかない点が始末に悪い。

 成長も自律(あるいは自立)も、年齢相応にできていないから、相手を一個の自律(あるいは自立)した個人として扱うことができないままに嫌がる様子、困った様子が面白いという感覚を味わうことが目的だから、"嫌がる"、"困る"は必要不可欠なステップであって、そのステップがなければ、自分、あるいは自分たちは面白がることができない。それどころか、相手が嫌がれば嫌がる程、困れば困る程、自分、あるいは自分たちは面白いという感覚を味わうことができて、満足できることになる。

 当然、ここまで進んでしまったイジメ相手にムカムカしないですむ方法を勧めたとしても、相手は理解できない顔をすることになるだろう。

 テレビのお笑い番組でお笑いタレントという他人が笑わせるのを眺めて面白がるのは、いくら面白いという感覚を味わうことができても、自分で作り出した面白さではないから、その番組を見ることができた程度の自己達成感しか手に入らない。

 だが、誰か友達を嫌がらせたり、困らせたりして面白がるのは自分、自分たちで作り出した面白ネタだから、面白ければ面白い程、自己達成感を手に入れることができて、自分、自分たちにとっての活躍行為となり、病みつきになるのに時間はかからない。

 病みつきになれば、人が嫌がったり、困ったりすることが逆に快感となり、面白がるのがどこが悪いと、そのことだけを優先させることになる。闇バイトが他人が財産を失って困ることは考えずに自分が財産を手に入れて、オイシイ思いをすることだけを考えるようにである。

 当然、こういった面白がるイジメには、「人が嫌がっていることは今すぐやめてください」は通じない警告となるが、通じないケースもあることもありうることを頭に置いた言葉とは思えない上から目線の指示となっている。

 この手のイジメに関して伝えるべき言葉は、「友達相手にしていることで、相手が面白がってもいないのに、自分、あるいは自分たちだけが面白がってしていることはないか、5分の時間を与えるから、目を閉じて、友達との間で普段していることを思い出してみて欲しい」であろう。

 5分後に、「友達相手にその友達が自分、自分たちと同じように面白がっているのでなければ、不公平なことをしていることになって、それはイジメそのものの嫌がらせ行為となっている場合もある。自分、自分たちも面白がることができ、相手も面白がることができて、初めて公平・対等な付き合いとなって、嫌がらせ行為でも、困らせ行為でもなくなる」

 この問い掛けは、この手のイジメが少なくない以上、教師が授業中に折に触れて発すべき義務事項としなければならない。こうすることが自己省察と他者省察を養う訓練となる。強がって、「面白がって、どこが悪いんだ」と反発し、殊更に面白がるために嫌がらせ行為をエスカレートさせる児童・生徒もいるだろうから、そのことを前以って予測し、「こういったことを言われて、反発し、これこれこういったことをしてしまう児童・生徒もいるかもしれないが、同じ友達付き合いする以上、公平で対等な付き合いとなっているか、不公平で不平等な付き合いとなっていないか、考えることだけはして欲しい」

 このように付き合いの公平・不公平、対等・不平等を常々問い掛けることでイジメとなっていることを自覚せずに、単に面白がるためだけのために友人に対して不公平・不平等な付き合いを強いている者をして自他を考えさせる二重三重の心理的なブレーキを掛けるよう仕向けていけば、自己省察と他者省察を作動させる可能性は捨てきれない。

 お互いを考えさせることが年齢相応の成長を促し、自律(あるいは自立)への歩みを強めていく背中押しとすることができる。

 最後に役に立つという意味からだろう、自著の名前を挙げて、「図書館で借りて」と伝え、見送る子どもたちにもみくちゃにされながら校舎を後にしたと、その人気ぶりを伝えている。

 現状の子どもについて記者にか、学校教師や授業参観の保護者にか、次のような解説を伝えている。

 尾木直樹「今の小学生には大人が想像する以上の情報が入っています。そのため親が言いそうなことは分かっている、言われるとうるさく感じてしまう。それでもダメな子にしたいなら、過干渉な親になればいい。

 子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる。それが大事じゃないかしら。今日の新和小の子たちだって、すでにみんな主体的でしたよ」――

 尾木直樹は最後に5、6年生に自分の本を図書館から借りて読むように勧めたが、ニセモノの教育者の本を読んで役に立つとしたしたら、反面教師的な読み方ができる生徒に限るが、5、6年生でそういった読み方ができる子どもはどれ程にいるだろうか。逆に頭から信じて、考える力を麻痺させてしまったら、恐ろしいことになる。

 記事が紹介している尾木直樹の最後の発言を改めて取り上げてみる。

 「子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる。それが大事じゃないかしら。今日の新和小の子たちだって、すでにみんな主体的でしたよ」

 「すでに」の意味は、もうその状態になっていることを表し、「十分に主体的である」という意味を取る。

 だとすると、最後の発言の前段と後段を逆転させると、矛盾が浮き出てくる。「今日の新和小の子たちだって、すでにみんな主体的でしたよ。子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる。それが大事じゃないかしら」

 十分に主体的であるなら、学校が主体性(自己表現、積極的な行動、自己決定力)を育む教えに取り組んでいることの成果としてあるのだから、「子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる」教えが"大事だ"と指摘することは学校が既に取り組んでいることを取り組むべきだと勧める余分なお節介となる。優秀な教育者ともなると、こういったことをするのかもしれない。

 この余分なお節介を解消させるには次のような発言としなければならない。

 「今日の新和小の子たちは、既にみんな主体的でしたよ。子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる教えを一層前に進めていく。それが大事じゃないかしら」

 大体が十分に主体的であるなら、それぞれが自分なりの意志を持って行動していることになり、その意志は理性を纏うことになり、その理性は自制心を養い、自制心は感情のコントロールを機能させることになる。

 つまり、「すでにみんな主体的」であるなら、例え誰かの行動にムカつくことがあったとしても、基本的には自らの意志と理性で自制心を働かせることができて、自制心によって自らの感情をコントロールし、悪感情を自力で修正する方向に持っていくまでに成長しているはずだから、
尾木直樹から、「友だちにムカムカしないですむ方法があるの」などと尤もらしく、"リフレーミング"を教わる他力は必要なくなる。

 と言うことは、前以ってのアンケートで「すでにみんな主体的」であるかどうかは確認できなかったために"リフレーミング"を持ち出し、コミュニケーションを取っている間に「すでにみんな主体的」であることに気づいたという手順を踏むことになったと解釈できる。

 「傍観しているだけで感覚はどんどん麻痺していく」と諭したこと自体が、当初は主体的でないと見ていたからであろう。

 もし尾木直樹が正直な教育者なら、学校側が以後の参考にできるよう、アンケートの回答に対する解釈が悪かったぐらいは伝えるべきで、伝えていたなら、記事は読者の理解に供することができるよう、その内容を紹介するはずだが、紹介していないところを見ると、何も触れていないことになる。

 それとも、「すでにみんな主体的でしたよ」は教育者として子どもを見る目があるところをウリにするために、さも見抜いたようなことを言ったのだろうか。

 誰にでもいい顔を見せる八方美人だから、その可能性は否定できないが、この可能性が単なる下司の勘繰りであったとしても、記事紹介の最後の発言が矛盾していることは事実で、この底の浅さは最後の発言に限らず、以上指摘してきたとおりに随所に見受けることができる傾向となっているはずである。
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尾木直樹のニセモノの教育者であることが分かる埼玉・三郷市立新和小学校オーサー・ビジット授業

2025-01-31 06:49:33 | 教育

 尾木直樹のオーサー・ビジットでの自己経験による、"自己決定から自立へのプロセス論"は悪臭フンプン

Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 その教育思想が学校のイジメと不登校の認知件数の著しい低下に役立ち、世の学校教師や保護者から並々ならぬ感謝と称賛を受けている人気教育評論家の尾木直樹が本の著者が学校を訪ねて特別授業をする「オーサー・ビジット」を2019年12月も行っている。

 《自己決定が自立への道 教育評論家・尾木直樹さん@埼玉・三郷市立新和小学校》(朝日新聞社運営本の情報サイト「好書好日」/2020.02.23)

 先ず次のように紹介している。

 〈文・安里麻理子 写真・首藤幹夫

 本の著者が全国各地の学校で特別授業をする朝日新聞社主催の読書推進事業「オーサー・ビジット」。「尾木ママ」としてテレビやラジオでもおなじみの教育評論家・尾木直樹さんは昨年12月に三郷市立新和小学校を訪れ、5、6年生のこころと日常に寄り添った熱い授業を展開した。(このビジットはベルマーク教育助成財団との共催です)〉云々⋯。

 この"オーサー・ビジット"が5、6年生対象だということが分かる。高学年相手だから、それなりに中身の濃い、高度な言葉の伝達だったに違いない。このことは次の言葉から認めることができる。

 〈5、6年生のこころと日常に寄り添った熱い授業を展開した。〉――

 この学校に教師として赴任している訳ではないから、生徒の日常に寄り添うことなどできない。ほんのいっときの寄り添いしかできないが、5、6年生の心に深く突き刺さる、感銘を与える言葉を発信できたから、それが心にいつまでも刻み込まれて、その言葉と共に生きることになる結果、尾木直樹がその場に存在していなくても、いつまでも日常に寄り添っている状況を作り出していると予測できる。その予測可能性が、〈5、6年生のこころと日常に寄り添った熱い授業を展開した。〉という確信を持たせた表現とすることができたのだろう。

 この"オーサー・ビジット"は授業対象の児童に対して事前にアンケートを取る形式を採用しているらしい。そのアンケートには、〈「どうしてママになったの?」という質問が多く、それに答える形で授業は始まった。〉と、そのことを第一声として伝えている。

 〈発端は2009年の年末、明石家さんまさんの特別番組に、教育問題を語る専門家として出演したときだった。さんまさんに突然、「あんた、飲み屋のママに似てる。ママ、ママ~」と連呼され、当時、私立大学の教授も務めていた尾木さんは仰天。「やだ、まじめな研究者のイメージが崩れちゃう! 大学もクビになるかも」

 必死に阻止したものの、あたふたする様子がウケて、バラエティー番組から引っ張りだこに。「あのときの1秒でママになっちゃったの」

 ただ、そうして広く顔が知られたことにより、教育や子育てに関する専門的な話も、たくさんの人に聞いてもらえるようになったという。〉と、テレビ番組出演時の言葉遣いが、いわば"おネエキャラ"の発端となったイキサツを紹介している。

 このおネエキャラが関心の的となって、尾木直樹の教師長年勤務の経験に基づいた簡明にして子どもの成長に向けて役立つ教育論に触れるキッカケを提供することになり、その教育論が与える有用性の実感によって多くの小・中・高生、学校教師、保護者に歓迎される状況を作り出しているのだろうから、明石家さんまの貢献は日本の教育界に大きな足跡を残していることになる。

 尾木直樹はこの経験を財産として、「人生ってそんなふうに、いつ、どこで何が起きるかわからない。だから、そのときそのときを精いっぱい生きておくことが大切」という貴重な教訓を自ら手に入れることになり、その教訓を小・中・高生、学校教師、保護者に機会があるごとに伝えていて、今回のオーサー・ビジットでも伝えることになったということなのだろう。

 まさかおネエキャラだけが受けているという訳ではあるまい。

 記事がこの教訓を大学教員を含めて中学、高校と40年間の教員生活を通して、「教育現場に情熱を傾けてきた尾木さんの実感だ」と共感し、讃えているのは当然中の当然なのだろう。

 アンケートには「勉強しろと言われるとやる気をなくす」という悩みも多くあったとしている。

 尾木直樹「私も同じという人は?」
 ほぼ全員が手を挙げる。
 尾木直樹「では、後ろの保護者の方で、勉強しなさいと言ったことがない人は? あ~ら、1人もいない」
 子どもたちのニヤニヤが止まらない。

 尾木直樹「なぜ、やる気をなくすのか。答えは明確です。自分で決めたことではないから」

 解説、〈尾木さんによると、5、6年生といえば思春期に入る年頃。体も心も変化する。「自分でコントロールできなくて、イライラしたり、感情を爆発させたり。それが親子関係や友だち関係にも影響するの」〉

 尾木直樹「どんなとき、親に反抗する?」
 5年生「やりたいことがあるとき」
 尾木直樹「それが普通。だいたい勉強できる子って、親に言われなくてもやる。自らやる、これを自立といいます」

 解説、〈そうはいっても自ら勉強する子なら苦労しません! 保護者席からそんな心の声が聞こえてきそうだ。〉

 尾木直樹は自身の子ども時代のエピソードを披露する。

 尾木直樹のお母さん(学校から帰ると毎日)「直くん、今日はどんな予定なの?」
 尾木直樹「小学生に予定って聞かれてもねえ。遊びに行く、くらいしかないわよ!でも、それだけじゃまずいと思って、帰ったら勉強するって言っていた」

 〈言った以上、やらなくては。そうしないと大人のことも、「言っていることとやっていることが違うじゃないか」と批判できない。〉

 尾木直樹「今思えば毎日、自分の考えを問われていたようなもの。その上で、自分で決めさせていたんじゃないかな」

 ホワイトボードに「自立」「自己決定」と書く。

 尾木直樹「だから、何かしなさいと言われたら、自分で決める、というクセをつけるといいのよ」

 尾木直樹「どうしても言っておきたいことがある。今年、世界保健機関(WHO)が、スマホなどでのゲーム依存は病気で、程度によっては入院治療も必要だと正式認定しました。知ってた?」

 記事がネット依存の現状を紹介。

 〈ゲームだけではない。インターネットやSNSの利用も含め、全国の中高生約93万人がネット依存の疑いあり、という推計を厚生労働省が発表した。SNSを介して小学生が誘拐された事件もあった。〉――

 尾木直樹「そもそも日本は子どものスマホ利用に対する規制がゆる過ぎ!韓国や中国では政府が、未成年の深夜のオンラインゲームを禁止したくらいなのに」

 尾木直樹考案の「スマホルール7か条」

 記事は「スマホの使用は夜○時まで」と「使用・充電する場所は、リビング・ダイニングに限る」の2ヶ条の紹介のみで、尾木直樹の、「詳しくは、7つのルール 尾木ママで検索してみて」の言葉を紹介しているから、ネットで検索、「7か条」を挙げておく。

【ルール1】スマホは「親が買って契約し子どもに貸している物」ということを忘れません。
【ルール2】スマホの使用は、夜〇時までとします。
【ルール3】スマホを使用・充電する場所は、リビング・ダイニングに限ります。
【ルール4】食事中にスマホは使用しません。
【ルール5】スマホをいじらない時間に、家庭で楽しく過ごせることを考えましょう。
【ルール6】スマホによるトラブルが生じたら、すぐに親に相談します。
【ルール7】守れなかったときには、〇日間、親にスマホを返します。

 児童の反応。

 𠮷川晴翔(はると)くん(5年)は、「ゲームはやっていないけれど、依存の話がこわかった。スマホを使う時間を決めたい」
 大塚くるみさん(6年)「ニュースで誘拐事件を見ました。スマホを持ったら気をつけようと思う」

 尾木直樹は、〈時折、「テレビでは文化人枠だからギャラ安いの」など、オトナの事情を笑い話にして挟みながら、最後は「いじめ」〉問題を取り上げる。

 尾木直樹「人が嫌がっていることは今すぐやめてください。(「傍観しているだけで感覚はどんどん麻痺していく」と諭したうえで)友だちにムカムカしないですむ方法があるの」

 すぐ口を出してくるからムカつく。でも、そういう子は活発な子。態度がはっきりしないからムカつく。だけど、そういう子は慎重な子。

 尾木直樹「そんなふうに、誰かを否定したくなったら別の見方をしてほしい。だって、みんな違って当たり前。だからいいのよ」
 
 最後に役に立つという意味からだろう、自著の名前を挙げて、「図書館で借りて」と伝え、見送る子どもたちにもみくちゃにされながら校舎を後にしたと、その人気ぶりを伝えている。

 現状の子どもについて記者にか、学校教師や授業参観の保護者にか、次のような解説を伝えている。

 尾木直樹「今の小学生には大人が想像する以上の情報が入っています。そのため親が言いそうなことは分かっている、言われるとうるさく感じてしまう。それでもダメな子にしたいなら、過干渉な親になればいい。

 子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる。それが大事じゃないかしら。今日の新和小の子たちだって、すでにみんな主体的でしたよ」――

 尾木直樹が最後の解説で、「子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる」ことの重要性を訴え、途中で、「だいたい勉強できる子って、親に言われなくてもやる。自らやる、これを自立といいます」と自立できている子の例を挙げていることから、記事題名の一部を、「自己決定が自立への道」とするに至ったのだろう。

 尾木直樹自身が子どものときから自立に向かって歩むことができた事情を母親の教えだと子ども時代のエピソードを紹介した。このことを改めて取り上げてみる。

 母親が学校から帰ると毎日、その日の予定を聞く。遊びの予定ばかりでは済まないから、「帰ったら勉強する」と約束をした。約束を守らないと、大人の有言不実行を批判できないから、約束をしたことを守るようにした。思い返すと、母親は子どものすることは子どもに決めさせていたのであって、この経験が尾木直樹少年をして幼くからして自己決定力を育ませ、自立への歩みを促した。

 逆に子どもに自分のすることは自分で決めさせる自己決定力を育む機会を与えずにその能力を欠いた状態で、「勉強しろ」だ、「何々をしろ」だと頭ごなしに言いつけたとしても、却って「やる気をなくす」ことになり、5、6年生といえば思春期に入る年頃で、「自分でコントロールできなくて、イライラしたり、感情を爆発させたり。それが親子関係や友だち関係にも影響」して、却って子どもの成長の阻害要因となるから、いわば一にも二にもなく自分のすることは自分で決めさせる自己決定力を育む機会を最初に用意しなければならないといったことを主張している。

 但し尾木直樹が子どものときから自立できた自身の経験が事実そのものであり、その事実を決定的に活かすとしたら、一歩も二歩も踏み込んで、学校に対して、あるいは文部科学省に対して宿題の中止を申し込むべきだろう。

 なぜなら、宿題と予習や復習の自主学習とは自分のすることは自分で決めさせる自己決定という点で決定的に違うからである。宿題は決められた科目の決められた箇所を勉強させる一つの強制であって、予習や復習の自主学習は必ずしも強制とはならない。

 但し自主学習任せでは勉強したかどうか判断できないから、レポートを提出させなければならない。この提出は一見、強制に見えるが、何を予習するか、何を復習するかは自分で決める自己決定の余地を残す。宿題に対するその解き方、解答はほぼ決まっているが、レポートの内容は予習や復習の対象科目によって異なってくるし、自身の取り上げ方によっても、自己決定の要素の違いに大きく左右される。

 さらに学期が進むに応じて、あるいは学年が進むに応じて自主学習の成果が学校の成績に反映されてきたと見たなら、レポートの提出は廃止して、放課後の家での勉強は全て子どもたち自身に任せる。究極の自己選択となる自己決定となり、自立を強く動かす動機となるはずである。

 勿論、子どもの一般的な姿に持っていくまでの道のりは遠いだろうが、"自己決定から自立へのプロセス論"を振り回す以上、目指すべき目標としなければならないはずだ。

 尾木直樹は放課後、母親に約束していた「勉強」が宿題なのか、予習、復習の自主学習なのか明らかにしていない。宿題か、予習、復習の自主学習かでは自己決定という点で大きな違いがあることは既に述べた。

 その「勉強」がレポートの提出も義務付けられていない予習、復習といった自主学習の場合は自己決定の働きに役立つと確かに言えるが、レポートの提出を義務付けられた予習、復習の自主学習であった場合でも、自主学習の対象科目に何を選択するか、どういう学び方にするのか、レポートとしてどういう内容に纏めるのか、自己決定が要請される。

 それが宿題の類いだったなら、義務の履行という強制的な要素が大分占めることになって、十分な意味で自己決定の育みに役立ったとすることはできない。

 もし尾木直樹自身の「勉強」がレポートの提出も義務付けられていない予習、復習といった、するかしないかは全て自己決定に任された自主学習の類いだったなら、尾木直樹は子どもたちに自己決定の習慣を育み、自立ある存在へと向かわせるために宿題の中止にまで踏み込む主張をしていたはずだ。

 さらに言うと、日本の教育に未だ色濃く残っている暗記教育も教師が教える知識・情報を児童・生徒が自らの解釈を加えずにそのまま自分の知識・情報として受容する従属性によって成り立っている以上、知識・情報の習得に関しては自己決定権を持たず、他者の知識・情報から自立を果たしているとは言えず、このことは日本の小中高生が他国と比較して自己肯定感が低い状況と無関係ではなく(自分なりの知識・情報を持つことができていたなら、自己肯定感は高くなるはず)、宿題や予習、復習の自主学習が暗記教育の影響下にあるとしたら、自己決定や自立に大きく関係することになり、自己決定や自立を言うなら、暗記教育の是正にまで踏み込まなければならなかったはずだ。

 が、そこまですることはできなかった。その底の浅さは自身の自己決定の習慣づけに役立ち、それが自立の歩みの手助けになったことを自分の子どもの頃の経験に基づいた優れた出来事と印象付けて、人に伝えるための教訓としての価値を高めるために仕込んだエピソードのようにも見える。

 その教訓が、「何かしなさいと言われたら、自分で決める、というクセをつけるといい」と教える程度のことで、自己決定と自立に向けたインパクトある刺激になるとは思えない。

 なぜなら、「言われたら」何かするのは、その何かが自分で決めたことでも、何らかの従属性を纏うからであり、従属性を纏う割合に応じて主体性が損なわれるからである。自己決定と自立は極めて主体性を必要とする。

 「何かしなさい」と言われるのを待つのではなく、放課後の大まかな時間割を子どもたちそれぞれに作るように仕向ける。強制ではない。作る、作らないかは本人の主体性、自主性に任せる。時間で行動する習慣づけは計画性を養うだろうし、時間の観念の発達を促す。

 時間割を作ったらという親の指示に対して強制ではなく、本人任せとしながらも、効果を上げるためには時間で行動するよう、習慣化させる。

 例えば、「もうベッドに入りなさい、8時よ」、あるいは「もうベッドに入りなさい、9時になったでしょ」と、行動を基準に時間を付随させのではなく、「8時だから、ベッドに入る時間よ」、あるいは「9時だから、もうベッドに入りなさい」と常に時間を基準にした行動とする。あるいは時間での行動に持っていく。

 それが常態化することができたなら、放課後も、時間割での行動にさして抵抗を受けることはないだろう。

 宿題のある日はゲームとかサッカーの遊びの前にそれをするのか、遊びから帰ってからするのか。宿題のない日はその日に応じて予習・復習の自主学習を行うのか、ときには何もせずにその日は思い切り遊びのみの時間とするのか、自らの時間割の作成のもと、そういった日を設けるのも、主体性色満点の精神の解放を自ら作り出し、リフレッシュさせた自分を自ら味わうことに役立つ。

 尾木直樹が親子関係や友だち関係に悪影響を与える、ときとして爆発させてしまう、思春期特有の不安定な感情の起伏を言うんだったら、子ども自身に精神の解放日を設けさせるのも、感情の働きというものに意識を向けさせることになり、感情のコントロールの訓練ともなるだろうから、ただ思春期の精神の不安定を指摘するだけではなく、その不安定の解消はどうしたらいいかにまで踏み込むべきろう。

 放課後に何をするのかの各行動ごとの時間割を作らせることができたなら、寝る前にでも、それぞれの時間割を守れたのか、守ることができなかったのか、自己採点を求めるのもいいだろう。守ることができたなら、自信がつき、できなかったなら、反省が生まれ、自信と反省は自分のことを省みて、その善悪・是非を考える自己省察を刺激し、自己省察が自分はどんな人間なのかの存在性を少しずつ知らしめることになり、自身の存在性の把握が他者の存在性との比較、他者省察へと進み、この自分を知り、他者を知るプロセスが自分を確立していく自我確立の道へ進む基礎となる。

 このようにすることが効果があると見込めると認めるなら、学校は一斉の宿題休日を設けて、時間の活用を全て子どもに任せた放課後の時間割とすべきだろう。宿題がない代わりに自習・復習の自主学習に時間を割り振るのも自由、全て遊びの時間に割り振るのも自由、何事も自分で決めさせる。

 否でも主体性・自主性に基づいた自己決定が関わり、守れたり、守れなかったり、自信を持ったり、反省したり、その繰り返しの過程で自分という人間を考えたりする。友達はどうしているのだろうかと他者を頭に思い浮かべたり、自立の道を歩み始めることになる。

 母親が学校から帰ると毎日、その日の予定を聞いたことが自己決定の習慣づけに役立ち、自立を促したとする幼少期のエピーソードが教育評論家の教訓としての価値を高めるために仕込んだエピソードではないかという疑いは尾木直樹のスマホに関する主張からも窺うことができる。自己決定のススメを説きながら、そのススメをケロッと忘れて、「日本は子どものスマホ利用に対する規制がゆる過ぎ!韓国や中国では政府が、未成年の深夜のオンラインゲームを禁止したくらいなのに」云々と国や学校の公権力を用いて上からの規制を主張、自己決定をどこかに放り投げているからである。

 このことは当然のことと言えば、当然のことだが、尾木直樹考案の「スマホルール7か条」にも反映されている。要するにスマホの良識ある使い方をそれぞれが自ら考えて、それぞれに独自の使い方を個別決定させ、その先に自立的存在の確立を促していくのではなく、ルールを先に持ってきて、全員をそのルールに従わせて、ルール通りの子どもにはめ込もうとしている。

 決してそうはならないから、救いとなっているが、尾木直樹が言っている「何かしなさいと言われたら、自分で決める、と言うクセをつけるといいのよ」を無効とする言葉を平気で垂れ流している。

 この信用の置けない言動は、勿論、尾木直樹自身の性格の反映以外の何ものではない。オネエキャラとして用いている言葉の柔らかさ、いつも目が笑っている、その親しみの装いが目眩ましの役に立っている。

 スマホを使う時間も放課後の時間割の中に組み込ませて、自分で決めさせればいい。宿題休日時にときには放課後の全時間を使って、思う存分スマホ三昧に耽るのも、ストレスの開放に役立ち、リフレッシュして、新たな気分で通学に臨むことができるかもしれない。

 次にイジメに移る。

 「人が嫌がっていることは今すぐやめてください」
 (「傍観しているだけで感覚はどんどん麻痺していく」と諭したうえで)友だちにムカムカしないですむ方法があるの」

 要するに尾木直樹はムカムカを抑えれば、人が嫌がるイジメは避けることができると考えていることになるから、人が嫌がるイジメはムカムカが原因だと主として見ていることになる。ムカムカが原因ではない人が嫌がる、よくあるイジメについて最初に考えてみる。

 人の嫌がる様子が面白いから、からかい、それが過ぎて、イジメとなるケースがあるが、面白がっているだけで、イジメになっているとは気づかないイジメがそれに当たる。人が困る様子が面白いから、あれこれとちょっかいを出して、困らせて、面白がる、イジメているとは思いもしないイジメも多々あるはずである。

 年齢相応に成長し、自律(あるいは自立)できていないから、相手を一個の自律(あるいは自立)した個人として扱うことができない。当然、イジメも自律(あるいは自立)との関係性の中で捉えなければならない。

 だが、そうはせず、自立の必要性の中でのみ取り上げている。

 嫌がる様子、困った様子が面白いという感覚を味わうことが目的だから、"嫌がる"、"困る"は必要不可欠なステップであって、そのステップがなければ、自分、あるいは自分たちは面白がることができない。それどころか、相手が嫌がれば嫌がる程、困れば困る程、自分、あるいは自分たちは面白いという感覚を味わうことができて、満足できることになる。

 当然、こういったイジメをする相手にムカムカしないですむ方法を勧めたとしても、相手は理解できない顔をすることになるだろう。

 テレビのお笑い番組でお笑いタレントという他人が笑わせるのを眺めて面白がるのは、いくら面白いという感覚を味わうことができても、自分で作り出した面白さではないから、その番組を見ることができた程度の自己達成感しか手に入らない。

 だが、誰か友達を嫌がらせたり、困らせたりして面白がるのは自分、自分たちで作り出した面白ネタだから、面白ければ面白い程、自己達成感を手に入れることができて、自分、自分たちにとっての活躍行為となり、病みつきになるのに時間はかからない。

 病みつきになれば、人が嫌がったり、困ったりすることには無感覚となり、面白がるのがどこが悪いと、そのことだけを優先させることになる。闇バイトが他人が財産を失って困ることは考えずに自分が財産を手に入れて、オイシイ思いをすることだけを考えるようにである。

 当然、「人が嫌がっていることは今すぐやめてください」は通じない警告で終わる。

 この手のイジメに関して伝えるべき言葉は、「友達相手にしていることで、相手が面白がってもいないのに、自分、あるいは自分たちだけが面白がってしていることはないか、5分の時間を与えるから、目を閉じて、友達との間で普段していることを思い出してみて欲しい」であろう。

 5分後に、「友達相手にその友達が自分、自分たちと同じように面白がっているのでなければ、不公平なことをしていることになって、それはイジメそのものの嫌がらせ行為となる。自分、自分たちも面白がることができ、相手も面白がることができて、初めて公平な付き合いとなって、嫌がらせ行為でも、困らせ行為でもなくなる」

 この問い掛けは、この手のイジメが少なくない以上、教師が授業中に折に触れて発すべき義務事項としなければならない。こうすることが自己省察と他者省察を養う訓練となる。強がって、「面白がって、どこが悪いんだ」と反発し、殊更に面白がるために嫌がらせ行為をエスカレートさせる児童・生徒もいるだろうから、そのことを前以って予測し、「こういったことを言われて、反発し、これこれこういったことをしてしまう児童・生徒もいるかもしれないが、同じ友達付き合いをする以上、公平な付き合いとなっているか、不公平な付き合いとなっていないか、考えることだけはして欲しい」

 このように付き合いの公平・不公平を常々問い掛けることで、イジメとなっていることを自覚せずに、単に面白がるためだけのために友人に対して不公平な付き合いを強いている者をして自他を考えさせる二重三重の心理的なブレーキを掛けるよう仕向けていけば、自己省察と他者省察を作動させる可能性は捨てきれない。

 このようにお互いを考えさせることが年齢相応の成長を促し、自律(あるいは自立)への歩みを強めていく背中押しとすることができる。

 尾木直樹が「人が嫌がっていることは今すぐやめてください」と伝え、「傍観しているだけで感覚はどんどん麻痺していく」と諭し、「友だちにムカムカしないですむ方法があるの」云々の発言が示すイジメは相手に何らかの理由・原因でムカムカして、そのムカムカした感情を晴らすために相手が嫌がることをする、あるいは相手が困ることをする種類のイジメとなる。

 結果、相手にムカムカしないですむ方法の伝授ということになった。

 「すぐ口を出してくるからムカつく。でも、そういう子は活発な子。態度がはっきりしないからムカつく。だけど、そういう子は慎重な子。そんなふうに、誰かを否定したくなったら別の見方をしてほしい。だって、みんな違って当たり前。だからいいのよ」――

 言っていることは前回記事で取り上げた、尾木直樹の2019年に神奈川・横浜市立川上北小学校を訪れて行なったオーサー・ビジットでも、その効用を伝えている、物事の捉え方や枠組み(フレーム)を変えて、別の視点から見直す心理学用語だという"リフレーミング"という方法であろう。

 「誰かを否定したくなったら別の見方」への誘導は自他の省察力を刺激することになるから、自律(あるいは自立)に向かわせる有効な入口となりうる。特にちょっとしたことでムカつく人物像は他人と適度な距離を取り、自分は自分という精神の余裕が持つことが不得手な自己中心的な性格で、年相応の自律(あるいは自立)ができていないと見ることができるから、その効果は十分に予測しうる。さすが尾木大先生であると言える。

 但しムカつく原因はすぐ口を出しするとか、態度がはっきりしないということだけではなく、成績が良い、クラスの人気者だ。先生の質問に対する答をほぼ独占している。先生に気に入れられている、カネ持ちだ、いい家に住んでいる等々、他人の可能性に対する羨ましさを心理的背景として自分は逆の状況にあると見る劣等感が強いる不愉快な感情が発端であることも多いはずである。

 他人の可能性に対する羨ましさに基づいた劣等感は自身の可能性を見い出し得ていない状況下で頭をもたげやすい。可能性を見い出し得ていたなら、その可能性を伸ばすことに目を向けることになるから、他人の可能性に煩わされることは避け得る。

 となると、自身の可能性を見い出し得ていない状況下で他人の可能性に感じる羨望を見方を変えて打ち消し、受け入れることのできる可能性とするには相当に心の広さ、心の余裕が必要となるが、元々そのような心の広さ、心の余裕を見せることができたなら、他人の可能性が羨ましくなり、劣等感からムカつくなどといった負の感情を引き起こすことはないだろう。

 当然、こういった負の感情からのムカつきに対して「誰かを否定したくなったら別の見方」をする"リフレーミング"を用いたイジメの回避策よりも、目をつけるべきは学校社会に対応できる可能性の発見に力添えできる体制の構築であるはずだが、学校社会は「多様な可能性」、「可能性の多様化」等々、スローガンは立派に掲げるが、勉強の成績やスポーツの成績、文化部活動の成績等、限られた可能性にのみ光を与えて、それ以外の可能性を拾い出して光を与えることを忘れていて、学校社会で可能性を見い出し得ない子どもたちを取りこぼしている。

 だが、尾木直樹はイジメが可能性を見い出し得ているか得ていないかに深く関係することにまで踏み込むことができすに、友だちにムカムカしたら、相手に対する否定的価値観を肯定的価値観に変えなさいと、公式を当てはめさえすれば解答できる、簡単な数式の問題であるかのように片付けている。この安易さは引く手あまたの人気教育評論家にふさわしい。

 以上、三郷市立新和小学校訪問のオーサービジット授業を裁判の判決ふうに評価してみる。
 
 裁判長「判決主文、尾木直樹をニセモノの教育者だと確定する」

 尾木直樹は最後に5、6年生に自分の本を図書館から借りて読むように勧めたが、ニセモノの教育者の本を読んで役に立つとしたしたら、反面教師的な読み方ができる生徒に限るが、5、6年生でそういった読み方ができる子どもはどれ程にいるだろうか。逆に頭から信じて、考える力を麻痺させてしまったら、恐ろしいことになる。

 記事が紹介している尾木直樹の最後の発言。

 「子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる。それが大事じゃないかしら。今日の新和小の子たちだって、すでにみんな主体的でしたよ」

 「すでに」の意味は、もうその状態になっていることを表し、「十分に主体的である」という意味を取る。

 だとすると、最後の発言の前段と後段を逆転させると、矛盾が浮き出てくる。「今日の新和小の子たちだって、すでにみんな主体的でしたよ。子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる。それが大事じゃないかしら」

 十分に主体的であるなら、学校が主体性(自己表現、積極的な行動、自己決定力)を育む教えに取り組んでいることの成果としてあるのだから、「子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる」教えが"大事だ"と指摘することは学校が既に取り組んでいることを取り組むべきだと勧めることになるからである。

 この矛盾を解消させるには次のような発言としなければならない。

 「今日の新和小の子たちは、既にみんな主体的でしたよ。子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる教えが成果を上げているようね」

 大体が十分に主体的であるなら、それぞれが自分なりの意志を持って行動していることになり、その意志は理性を纏うことになり、その理性は自制心を養い、自制心は感情のコントロールを機能させることになる。

 つまり、「すでにみんな主体的」であるなら、例え誰かの行動にムカつくことがあったとしても、基本的には自らの意志と理性で自制心を働かせることができて、自制心によって自らの感情をコントロールし、悪感情を自力で修正する方向に持っていくまでに成長しているはずだから、
尾木直樹から、「友だちにムカムカしないですむ方法があるの」などと尤もらしく、"リフレーミング"を教わる他力は必要なくなる。

 と言うことは、前以ってのアンケートで「すでにみんな主体的」であるかどうかは確認できなかったために"リフレーミング"を持ち出し、コミュニケーションを取っている間に「すでにみんな主体的」であることに気づいたという手順を踏むことになったと解釈できる。

 「傍観しているだけで感覚はどんどん麻痺していく」と諭したこと自体が、当初は主体的でないと見ていたからであろう。

 もし尾木直樹が正直な教育者なら、学校側が以後の参考にできるよう、アンケートの回答に対する解釈が悪かったぐらいは伝えるべきで、伝えていたなら、記事は読者の理解に供することができるよう、その内容を紹介するはずだが、紹介していないところを見ると、何も触れていないのだろう。

 それとも、「すでにみんな主体的でしたよ」は教育者として子どもを見る目があるところを見せるカッコ付けのために、さも見抜いたようなことを言ったのだろうか。

 誰にでもいい顔を見せる八方美人だから、その可能性は否定できないが、この可能性が単なる下司の勘繰りであったとしても、記事紹介の最後の発言が矛盾していることは事実だから、この点からもニセモノの教育者だと断言できるはずだ。

 子どもの自己決定・自立を言うなら、知識・情報の習得に関して自己決定権を持たせるアンチ暗記教育の徹底をスタート地点に置かなければならない。暗記教育は上は下を従わせ、下は上に従う権威主義性を本質的な構造としていて、この権威主義性は親の子育ての時点から、「ああしなさい、こうしなさい」という、暗記教育に通じる意志の一方通行となる命令形で始まっているからである。
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尾木直樹朝日新聞出張授業:イジメ被害者・加害者、不登校児童を頭に置かないイジメ問題出張授業成功の逆説

2025-01-01 10:42:36 | 教育
Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 朝日新聞社運営の本の情報サイト「好書好日」に本の著者が学校を訪ねて特別授業をする、新聞社主催の「オーサー・ビジット」を教育評論家尾木直樹が行なった記事が載せられていた。2019年2月20日の記事である。記事自体は5年以上も前のものであるが、取り上げているイジメは現在と同様、その当時にしても目の前の問題であり続けていたはずで、決して古い話題ではない。

 2019年まではイジメ認知件数は増加基調にあった。2020年のイジメ認知件数減少はコロナ禍での臨時休校や学校行事の休止、部活動の制限等、子ども同士の接触機会減少の反映とされているが、翌年から再び増加傾向に戻ったのだから、2019年の時点で不明のことだったとしても、それまでの増加基調を見据えて、イジメの抑制をどう図るかを意識に置いた授業となっていなければならない。

 果たしてそういった授業となっているかどうかはイジメの抑制に人気教育評論家として一人奮闘する人物としての期待に違わぬ活躍を子どもたちを前にして見せてくれるに違いない。

 記事ライターは岡沢香寿美氏。

 《いじめをなくす3つの「しぐさ」試してみてね 教育評論家・尾木直樹さん@神奈川・横浜市立川上北小学校》

 訪問先は横浜市立川上北小学校。体育館で行なったと言うから、断りはないが、全校生徒を集めたのだろう。最初に記事ライターが特別授業の感想を述べている。

 〈友達をなぜいじめるんだろう。「心の中に、いじめをしてしまう自分がいるの」「まずは自分の命を徹底的に大事にして」――。心を温かく包み込むような尾木ママの言葉に、子どもたちは熱心に耳を傾けていた。〉――

 尾木直樹は子どもたちから熱心に耳を傾けられた。教育者としての思い遣りを伴った言葉の発信の点で優れているからだろう。だが、子どもたちがそうできる心境にあったことを条件としている点は忘れてはならない。

 以下、記事が伝える授業内容をシナリオ風に書き改めてみる。

 尾木直樹、体育館に登場。
 子どもたち(歓声を上げる)「尾木ママー!」
 尾木直樹、例の笑顔で、「はーい!」(記事では「茶目っ気たっぷりの笑顔で」となっている)
 尾木直樹、児童たちの間に入って、「頭じゃなくて心を使って、心から心に伝えるお話をしますね」

 要するに子ども目線に立ち、子どもが理解ができて、その心に響く、つまりその場限りではない、いつまでも胸に残る思いやりある言葉の発信を約束した。子どもにその体と心の健康を願いながらクリスマスプレゼントを届けてまわるサンタさんみたいな心境を想像してみた。    

 事前のアンケートで、みんなの悩みを聞き取っていたという。友人関係、勉強、家族等の様々な悩みの中で、〈尾木さんが特に気になっていたのは「いじめ」に関するものだ。〉と解説している。

 要するに出張授業のテーマはイジメ問題と言うことになる。尾木直樹の中で学校でのイジメ問題が専門分野中の最たる専門分野だからごくごく当然なことなのだろう。

 尾木直樹、子どもたちにマイクを向けて、「いじめられちゃう、いじめちゃう、どちらの悩みもあったの。どんなときに悪口を言いたくなる?」
 男の子「むかついたとき!」
 尾木直樹「ではムカムカ、イライラ感情の正体は一体何でしょう?」
 子どもたち、一斉に「ストレス!」
 尾木直樹「いじめの原因の70%はストレスといわれています。ストレスがたまっていじめたくなるのは人間的な感情なんです」
 解説「いじめる子だけが特別なわけじゃないのだ」
 尾木直樹「心の中に、いじめをしてしまう自分がいるの。誰もがいじめたり、いじめられたりする可能性がある、全員の問題。みんなで考えなければいけないわね。
 でもそれを乗り越える智恵と賢さを、みんな持っているはずよ。ストレスをため込まないためには?」、
 子ども「ポジティブシンキング!」
 子ども「叫ぶ」
 子ども「運動する」
 子ども「ずっと笑ってる!」(大笑いが起きる)
 尾木直樹「笑いは力ね。みんなが笑っている楽しい学校になればストレスが消えて、いじめが生まれる土台がなくなるわ」
 尾木直樹、ある小学校でとり入れられている3つの「しぐさ」を紹介。 
 ①あいさつしぐさ。あいさつを交わすと、気持ちがいいでしょ。無視しちゃだめよ。
 ②仲良ししぐさ。一人でいる子には、一緒に遊ぼうと、声をかけてあげて。
 ③手伝いしぐさ。例えば、体調の悪い子がいたら、保健室に付き添ってあげるの

 解説「尾木さんの言葉がみんなの中に染み込んで行くようだ」
 尾木直樹「週に一回、友だちに言われてうれしかった言葉を学級会で発表して書き出してみて。その言葉が飛び交うような学校にしましょう。児童会で楽しいことをたくさん企画してやってみるのもいいわ。みなさん一人一人が学校の主人公。先生や保護者、地域の人たちは応援団なのよ」
 解説「でも、嫌なことをする子はいる。どうすればいいの?」
 尾木直樹「みんな、自分のことはちゃんと見ているかしら?自分の嫌なところはどこかな? その弱点をひっくり返して良いほうに捉えたらどう見えるか、1分間で考えてみましょう」

 解説によると、この課題は枠組みを変えて物事を見る“リフレーミング”という手法だそうだ。要するに良い方向へと発想の転換を試みる。

 女の子「声がでかいところが嫌だ」
 尾木直樹「あら、とっても素敵な声よ。歌手になれそう。良いほうから捉えたらどう見える?」
 女の子、笑顔になって「私の発言をみんなが聞きやすい」
 一人の子「提出物をすぐ忘れちゃう」→発想の転換→「ほかの楽しいことをたくさん考えている」
 一人の子「無口」→発想の転換→「よく考えている」
 一人の子「自分勝手」→発想の転換→「自分の意見をきちんと言える」。
 解説「みんなの短所が、キラキラ光って見える」
 男の子「すぐに人の悪口を言っちゃう」→発想の転換→「友だちのことをよく見ている」
 尾木直樹「今度は友だちの良いところを見て、ほめ言葉を贈ってあげましょうね」
 男の子、にっこりと頷く。
 最後に――

 尾木直樹「まずは自分の命を徹底的に大事にして。それと同じように、友だちの命も大事にしてくださいね。自分を大切にできないと、友だちも大切にできませんよ」(以上――)

 岡沢香寿美氏は記事の最後で、尾木直樹がみんなに伝えたかったのは自己肯定の大切さだと解説している。
 「リフレーミング」という言葉の意味自体が自己肯定の側面を抱えている。欠点を長所として発想を転換する。長所の確認は自己肯定の素材とすることができる。

 だが、事はそう簡単ではない。深刻なイジメを受けている子や登校することに激しい拒絶反応に見舞われている不登校児童は自己否定の気持ちが先に立つことになり、それを自己肯定へと転換する心の余裕はなかなか持てない。簡単に余裕を持てるようなら、イジメで不登校となることも、自殺することも減少するはずだが、現実は逆の状況にある。

 結果、イジメは常に目の前の問題であり続ける状況に変わらないことになる。教育者も教師も、この現実と正面から向き合って、イジメ問題に取り組まなければならない。

 取り組んでいるなら、尾木直樹の「オーサー・ビジット」授業自体がほのぼのとした親和的な教育空間を描き出していたとしても、何ら障害はない。但し「頭じゃなくて心を使って、心から心に伝えるお話をしますね」と言ったとおりの約束を果たすことができたとしたら、やはりそうできた条件というものを考えなければならない。無条件で成立する企てなど滅多に存在しない。

 いくら高名な上にマスコミに引っ張り凧の人気教育評論家であったとしても、子ども目線に立ち、子どもが理解ができて、その心に響く思い遣りのある言葉を届けることができたとしたら、そうできる条件を初歩的には児童側が抱えていたからからだろう。

 なぜなら、現実にイジメに苦しんでいる児童や登校したくても、登校できない児童等を尾木直樹自身の視野から除外した授業になっているからである。

 この上なく優れた教育評論家を前にして大変失礼なことかもしれないが、尾木直樹の授業からはイジメで苦しんでいる児童は、全員出席の建前となっているだろうから、そこに出席していたとしても、その姿を見据えた言葉の発信は記事からは見えてこないし、大勢の中に何人かは存在することを想定した発言にしても窺うことはできない。

 さらにその場にはいない不登校児童の姿を頭に置いた言葉にしても見当たらない授業となっている。イジメが原因で不登校になる例もあるのだから、児童の悩みを事前にアンケートで取っていて、特に気になっていたのは「いじめ」に関するものとしている以上、イジメ自体が存在し、このことに対応してイジメ問題を出張授業で取り扱う関係上、学校に対してもイジメ認知件数や不登校児童数、その事例内容等の聞き取りを行なっていはずで、イジメ被害者やイジメ加害者、不登校児童の存在までを含めた"リフレーミング"を可能とする言葉の発信が見られていいはずだが、影さえも見せていないのは聞き取りをしていなかったか、聞き取りはしてはいたが、そこまで頭が回らなかった、いずれかと見なければならない。

 何度でも言うが、イジメは常に目の前の問題であり続けていて、その現実を見据えた主張授業でなければ、解説者が言う、〈尾木さんが特に気になっていたのは「いじめ」に関するものだ。〉は表面的な態度に過ぎなくなるし、「心を温かく包み込むような尾木ママの言葉に、子どもたちは熱心に耳を傾けていた」の授業評価はイジメや不登校とは無関係の場所で成立する買いかぶりに過ぎないことになる

 もしイジメを目の前の問題としていたなら、「自分の命を徹底的に大事にして。それと同じように、友だちの命も大事にしてくださいね」は体育館に集まった児童に向けた言い諭しであると同時に中に混じっているかもしれないイジメ被害者やイジメ加害者の存在、登校したくても、登校できないでいる、体育館には出席していない不登校児童の存在にも目を向けた言い諭しであることが理解できる言葉遣いが必要だが、その影形も見えない。

 イジメ問題を授業のテーマとする以上、気づくべきその必要性に気づいていたなら、ただ単に「命を大事に」と言うだけではなく、どうすることが大事にすることになるのか、そこまで踏み込んで理解を求める言い諭しがあって然るべきだが、言うだけで終えているのはオーサー・ビジットを引き受けた責任を果たしているようで、実際は果していないことになる。

 命とは、その人なりに生きている姿のことを言い、自分が自分なりに生きている姿が自分の命であって、他者が他者なりに生きている姿が他者の命であると言うこと、他者の命を大事にするとはその人なりに生きている姿をバカにしたり、笑ったりしない、最大限、その人なりの生き方に任せる、いわばその人なりを邪魔する干渉を避けることを言い、逆に相手のその人なりの命を示す、その人なりの生き方に任せることができない最悪の干渉がイジメであり、相手の命を粗末にしていることになると言い諭すことができたろう。
 
だが、何もできていない。

 イジメの抑止を"リフレーミング"の思考訓練を用いて試みるとするなら、誰かに向かって激しい怒りの感情やバカにする感情に襲われると、自身を省みる精神的余裕を失い、このこと自体がストレスを負荷状態に持っていくことになって、これらの感情を爆発させてイジメに走ってしまうこともありうるということを前置きして、他人にぶっつけて晴らす感情の類いは負の感情と見て、他人にではなく、自身のスポーツとか、勉強とか、趣味とかにぶっつけて正の感情持っていく発想の転換の必要性を説かなければならないが、イジメ加害者や被害者、あるいは不登校児童までをも思い遣った「オーサー・ビジット」になっていないから、イジメの問題を扱いながら、彼らを除外してしまう中途半端を犯すことになる。

 例えこの学校では深刻な程度まで進んだイジメ被害の児童や不登校児童がゼロであったとしても、尾木直樹自身が「ストレスがたまっていじめたくなるのは人間的な感情なんです」と言い、「心の中に、いじめをしてしまう自分がいるの。誰もがいじめたり、いじめられたりする可能性がある、全員の問題」だと指摘している以上、軽い程度から深刻な程度へと進まない保証はどこにもないことになり、尾木直樹自身がイジメの存在自体を、あるいはイジメられている生徒の存在自体を想定した授業、あるいはイジメによって不登校を誘発する事例をも鑑みた授業となっていなければ、自らの指摘を自分で口先だけの物言いに貶めるていることになる。

 尤も八方美人的なところがあるから、自らの言葉を貶めたとしても、平気でいられるに違いない。

 大体が尾木直樹の問い掛けに積極的に手を挙げ、積極的に発言できる児童はこれといったストレスからも、イジメや不登校からも離れた場所に立っているからこそできる意思表示だろうから、そのような意思表示のみを以ってリフレーミングの思考訓練が成立した授業とするのは安易に過ぎる。

 要するに無条件で成立する企てなど滅多に存在しないと指摘したように尾木直樹の授業に熱心に耳を傾けてくれる児童が一定多数存在したという条件に恵まれていたからこそ成立したリフレーミングの思考訓練であると条件付きの解釈を施さなければならない。

 尾木直樹が勧めている、「週に一回、友だちに言われてうれしかった言葉を学級会で発表して書き出してみる」アイディアが意味を持つのは学校生活にこれといった障害もなしに日々参加できている児童という条件がつく。

 心に深刻な悩みを抱えていて、学校生活に満足に参加できていない児童には奇麗事としか映らない確率が高いからである。ましてや、「みなさん一人一人が学校の主人公。先生や保護者、地域の人たちは応援団なのよ」はイジメられている子、不登校の子には言葉としての意味を成さない空虚な響きとしか耳に届かないだろう。

 尾木直樹のこのフレーズ、「みなさん一人一人が学校の主人公」は著作や講演、インタビュー、その他その他で頻繁に発信しているようだが、いつ頃から言い出したのか不明だが、2006年初版発行の尾木直樹著《「教育再生」を考える―子どもの命を救うために》の中でも、"子ども学校主人公論"をひとくさりしているが、この「オーサー・ビジット」の2019年2月の時点でも、子どもが学校の主人公とはなっていないし、現在に至っても、学校の主人公となっているとは言えない。

 なっていたなら、イジメも不登校も、その他の問題行動も、ごく限られた事例となるはずだからだ。要するに尾木直樹の"子ども学校主人公論"は有効な言葉の発信とはならずに奇麗事で終わっていることになる。

 もし尾木直樹がイジメ問題に関わるリフレーミング授業を行い、無事成功したと思い込んでいるとしたら、その成功の正体は屈託とは無縁の条件下にある児童が主たる相手だったからだと種明かししなければならない。

 尾木直樹の問い掛けに積極的に手を挙げ、積極的に発言できた児童はイジメや不登校からは離れた場所に立っていたからこそできた意思表示だったということである。

 イジメ被害者・加害者や不登校児童を頭に置かない出張授業だったからこそ、成功したという逆説を見逃してはならない。
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尾木直樹の体罰が考える力発の言葉の問題だということに気づかないこども基本法講演

2024-10-27 05:34:24 | 教育

 Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 尾木直樹は2022年7月23日のこのこども基本法講演で、自身の学校教師辞職が務めている学校の体罰問題だったことを明かしている。尾木直樹の人間性を知る上で参考になると思うから、このイキサツを改めて取り上げてみる。

 「僕が辞めたのは子ども権利条約、この問題で辞めざるを得なくなったんですよ。NHKの番組で特別に子ども権利条約発効のされた番組を作るわけですよね。(番組が)流れているんだけど、体罰が行われていたり、この問題で現場にいられなくなりましたね」

 述べているのはこれだけだから、具体的な事情は知りようがない。詳しく知りたいと思ってネットを探したところ、2014年10月9日付「産経ニュース」が伝えていた。一部抜粋。

 インタビューなのか、次のように話している。「授業を休んで講演会に行ったことは一度もありません。ただ、夏休みはほとんど講演と執筆活動に充てていました。仕事が早いし、集中力があるんでしょうか。話すのと同じくらいのスピードで原稿が書けますし、いくつもの仕事を同時並行でできるんです。

 その後、非行のデパートと呼ばれる学校にも異動しました。そこにいたからこそ今、教育評論家をやれているのです。どんな問題でもおおよそ想像ができますから」――

 「最後に勤めていた学校でも体罰が横行していました。当時、『子供の権利条約』が批准されて、私も子供たちのためのテレビ番組に出演したり、講演会で話したりしていました。その学校には私のファンという先生がいるのに体罰をする。

 ある日、学校に行ったらクラスにいるサッカー部の生徒4人が丸刈りになっていたんです。事情を聴いたら、練習試合で小学生に負けたので、顧問が『恥をしれ』と強制したらしいのです。しかも生徒はニコニコしながら話す。保護者からクレームがあれば『先生、保護者が怒っているから考えようよ』とか言えるんですが、それもない。外では『体罰はだめだ』と言っておいて、自分の学校では横行している。その矛盾に耐えられなくなって心因性の狭心症になってしまいました。

 いじめや当時の『関心、意欲、態度を評価する』という新しい学力観など、次々と起こる教育現場で悩んでいることを研究したいとの気持ちもあって、その学校には1年いて、教師を退職することにしました。

 すると保護者が自宅に大挙して押しかけてきて、『なぜやめた』と怒るんです。体罰の事情を説明したら、『すぐに保護者が学校に文句を言って尾木先生の味方をしたら、先生たちの中で浮いてしまってやりにくいだろう』と気遣ってくれた。それで『1年待って、尾木先生の足場ができたら一緒にやろうと考えていた』という話でした。うれしかった半面、残念、短気だったなと後悔しました」――

 ところどころ自慢が入って、自分を宣伝することを忘れない抜け目のない点も一つの人間性である。「仕事が早いし、集中力がある」、「話すのと同じくらいのスピードで原稿が書けます」、「いくつもの仕事を同時並行でできる」、「(非行のデパートと呼ばれる学校に)いたからこそ今、教育評論家をやれている」、「(長年の教師勤務の経験によって)どんな問題でもおおよそ想像ができます」

 先ず、「その学校には私のファンという先生がいるのに体罰をする」とは、どういう意味なのだろうか。尾木直樹の「体罰はだめだ」の考えを強く支持する先生の存在を以ってしても、ファンである本人が生徒に対して体罰を禁止できるだけの影響力を持ち得ていないことから、学校で体罰が横行しているという意味なのか、尾木直樹の支持者でありながら、支持する考えに反して自ら体罰を行っているという意味なのだろうか、両方に取れる。

 前者だとすると、より強い影響力があるはずの本家本元の尾木直樹の方がファンの先生よりもその点で劣っていて、体罰禁止、あるいは体罰排除の力とはなり得ていないことを示すことになる。

 後者だとすると、ファンを自任しているが、自任に反する行為に走っていることになって、ファンの先生個人の問題となるが、それでも、その先生に関しては尾木直樹の影響力はその程度で、絶対的ではないどころか、お粗末そのものとなる。

 となると、「仕事が早いし、集中力がある」、「話すのと同じくらいのスピードで原稿が書けます」、「いくつもの仕事を同時並行でできる」等は体罰解決に(イジメ解決にしても同じだが)結びつけることができていない能力となるが、最初からそのことに気づかずに自身の優れている能力としてひけらかしていたことになって、その見当違いは教育者としての論理的思考力の欠陥を物語ることになる。

 その欠陥は、「いじめや当時の『関心、意欲、態度を評価する』という新しい学力観など、次々と起こる教育現場で悩んでいることを研究したいとの気持ち」から臨床教育研究所「虹」を立ち上げて、そこの所長に収まっている事実を中身の伴わない見せかけとすることになるだけではなく、
「(非行のデパートと呼ばれる学校に)いたからこそ今、教育評論家をやれている」と自負していることも、ただ単に講演依頼が多い、著作物が売れている、テレビ番組の出演が多い等、人気があるということだけのことで、実際には言っているとおりの教育効果を上げているわけではない。

 このことの証明として2013年発売の自著で、「本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」を、体裁よく名前をつけて行っているが、年々増加のイジメ認知件数が"なくす"どころではない深刻化を招いている実態を挙げることができる。

 何もかも見せかけであることはこの足元の体罰をキッカケに教師を辞職した経緯にその片鱗が既に現れている。

 サッカーの練習試合で小学生のチームに負けたサッカー部生徒4人を顧問が丸刈りの坊主頭とする体罰を行った。だが、生徒4人はニコニコしているし、保護者からクレームがあれば、「先生、保護者が怒っているから考えようよ」と言えると説明している。

 先ず第一番に本人の意志に反して強制的に坊主刈りにする。人権侵害行為に当たるにも関わらず、本人たちがニコニコしているからとその危うい人権感覚を正さずに放置したままにできる尾木直樹の人権意識は教師とは名ばかりで、見せかけの教師に過ぎなかったことを証明することになる。

 次に生徒からか、保護者からのクレームを体罰を注意する基準としていて、体罰を用いた躾上の問題点や教育上の問題点を注意する基準としていないことになり、当時の学校教育者としての人間性に疑問符がつけなければならないことになる。

当然、尾木直樹が体罰やイジメについて何を語ろうと、何を訴えようと、全て見せかけの綺麗事に過ぎないと見なければならない。にも関わらず、臨床教育研究所「虹」の所長に収まっている。

 この胡散臭いばかりの偽善は計り知れない。体罰やイジメ解決とは結びつかない能力であることを弁えることもできずに「仕事が早いし、集中力がある」、「話すのと同じくらいのスピードで原稿が書けます」などなどの能力自慢の胡散臭さに現れている偽善、その人間性と相響き合う。

 尾木直樹はこの講演で体罰に関して前半部分の最初にフッリップで掲げた「問題山積の教育現場と子どもたちの実態」の中で、〈④ 体罰と「指導死」問題」〉を取り上げていて、後半部分で掲げたフッリップ、「こども家庭庁」に期待すること―子どものことは子どもに聴こう! 」では、〈④子どもに対する体罰、虐待等の禁止→「法律が変わっただけでは体罰や虐待はなくせない」ので、メディア等とともに地道で粘り強い啓発活動を通じ、親や社会、人々の恵識を変えていくことが必要〉と主張している。

 但し、〈体罰と「指導死」問題」〉についての具体的な解説は前半部分でも、後半部分でも一切触れていない。多分、時間の都合で省いたのだろう。

 後半部分での体罰に関する言及を見てみる。

 「4番目ですね。子どもに対する体罰、あるいは虐待等の禁止。これは法律が変わるだけでは体罰、虐待はなくせないので、特にメディアと共に地道に粘り強く啓発活動を親や社会、人々の意識を変えていくことが重要だと。

 ちなみに最も体罰に厳しい国はスウェーデンなんですけども、スウェーデンは1979年に世界で初めて親の体罰も禁止するのを決めました。ところがですね、スウェーデンで60年代に体罰を肯定していた人は55%です。国民の体罰をやったよーと言っている人が95%もいるんですね。

 ところが2018年、ついこの間ですけども、体罰肯定派は1%。そして体罰やちゃったよーと言っている人が2%しかいない。激減させているんですね。そして啓発活動もポイントでした。消費者庁は全家庭に配ったり、牛乳パックに『子どもは叩かない』とかね、『叩かないでも育つ』とか、文句を書き込まれていたり、学校も授業の中で教えたり、第一案件で社会を意識改革させたんですね。こういうこと、日本も『子ども基本法』が制定された以上、メディアとか、社会ぐるみでやっていく必要がある」――

 尾木直樹は、「メディアとか、社会ぐるみ」で体罰に関する社会の意識改革を行っていく必要があると訴えているが、文科省は学校に対して体罰禁止の通達を出し、厚労省はポスター等で〈2020年から法律が変わりました!

 体罰等によらない子育てを広げよう!子どもへの体罰は法律で禁止されました。体罰等によらない子育てを推進するため、子育て中の保護者に対する支援も含めて社会全体で取り組んでいきましょう。〉などと啓発活動を行っている。

 厚労省がここで「2020年から法律が変わりました!」と言っていることは「改正児童虐待防止法」を指す。尾木直樹の「こども基本法講演」は2022年7月23日だから、この啓発活動は講演の2年も前からだが、ネットに学校での体罰を最初に禁止した法律は明治12年(1879年)の教育令第46条だと出ているが、例え啓発活動にまで踏み込んでいなかったとしても、最近ではどのような法律の施行であっても、啓発活動を同時進行させる。

 ネットで探した例を紹介してみる。法務省の《令和2年度に講じた人権教育・啓発に関する施策》(法務省)には、

 〈学校教育

ア 人権教育の推進
文部科学省では、人権教育・啓発推進法及び「人権教育・啓発に関する基本計画」(平成14年閣議決定、平成23年一部変更)を踏まえ、学校教育における人権教育に関する指導方法等について検討を行い、平成16年6月に「人権教育の指導方法等の在り方について[第1次とりまとめ]」、平成18年1月に[第2次とりまとめ]、平成20年3月に[第3次とりまとめ]を公表した。令和3年3月には、[第3次とりまとめ]策定後の社会情勢の変化を踏まえ、[第3次とりまとめ]を補足する参考資料を作成した。文部科学省では、この第3次とりまとめなどを全国の教育委員会や学校等に配布するなど、人権教育の指導方法等の在り方についての調査研究の成果普及に努めて
いる。〉ことや、〈青少年の保護者向け普及啓発リーフレット「保護者が正しく知っておきたい4つの大切なポイント(児童・生徒編)」〉を作成・配布する啓発活動を行っている。

 上記「第1次とりまとめ」は次のような記述となっっている。

《人権教育の指導方法等の在り方について》(第1次とりまとめ)には、

〈② 子どもに関する課題として、子どもたちの間のいじめは依然として憂慮すべき状況にあるほか、教師による児童生徒への体罰も後を絶たない。また、親による子どもへの虐待なども深刻化しつある。〉、〈⑩児童虐待や体罰等の事案が発生した場合には、人権侵犯事件としての調査・処理や人権相談の対応など当該事案に応じた適切な解決を図るとともに、関係者に対し子どもの人権の重要性について正しい認識と理解を深めるための啓発活動を実施する。(法務省)〉等、体罰が後を絶たない状況の説明とそのことに対応した啓発活動の実施の必要性を既に平成16年(2004年)から訴えている。

 要するに尾木直樹の啓発活動の訴えは後追いに過ぎないと同時に日本の啓発活動がスウェーデンのようには効果を上げていないことを示すことになるが、この事実に気づかなままに啓発活動を訴えていることになり、この点についても尾木直樹の教育者としての論理的思考力の欠陥を物語ることになる。

 最も重要なことは体罰が後を絶たない状況は啓発活動が効果を発揮できていない状況と相互対応しているという点であり、このことを見逃してはならない。特にイジメも人権問題であり、イジメの年々の無視できない増加は社会的啓発活動にしても、学校教師に対する文科省通達等による直接的な指導・啓発活動にしても、殆ど役に立っていない証明となってしまう。

 啓発活動の無効性は人々の意識の硬直性を意味する。尾木直樹はこういった現状を考えもせずに啓発活動や人々の意識の変革を訴えることができるのは法律の字面のみの解釈で終わっているからだろう。 

 2022年度の教師の体罰件数を見てみる。「令和4年度公⽴学校教職員の⼈事⾏政状況調査について」(概要)(文科省/令和5年12⽉22⽇)によると、

〈教育職員の懲戒処分等の状況
○懲戒処分等(懲戒処分及び訓告等)を受けた教育職員は、4、572⼈(0.49%)で、令和3年度から102⼈減少。
・「体罰」により懲戒処分等を受けた者は397⼈(0.04%) (令和3年度︓343⼈(0.04%))、
「不適切指導」により懲戒処分等を受けた者は418⼈(0.04%)。(令和3年度︓406⼈(0.04%))〉となっている。

 確かに教職員全体から見れば、「体罰」を働いて懲戒処分等を受けた教師は0.04%、「不適切指導」により懲戒処分等を受けた教師は同じく0.04%とごく少数ではあるが、前年度より減っているわけではなく、それぞれ少しずつ増えている。少しずつであったとしても、啓発活動の逆行性を示すことになるし、ここには親の子どもに対する体罰そのものである虐待は含まれていない。

 《令和4年度 児童相談所における児童虐待相談対応件数(速報値)》(こども家庭庁)によると、次のような虐待相談件数となっている。

令和3年度(2021年度) 207,660件
令和4年度(2022年度) 219,170件(速報値)

 因みに令和3年度(2021年度)の国公私立中学校3年間のイジメ認知件数は9万7937件であり、小学校6年間で計算すると約19万件のイジメ認知件数に匹敵する虐待相談件数となって、如何に多い件数か把握できる。

 小中9年間、高校までだと12年間、子どもが学校で、あるいは大学まで進学したとしても16年間を学んで社会に出て、成長して結婚して子どもを持って親となるという循環を考えたとき、その中から体罰を働く親が出た場合、その親が子どものときの親の教育・躾が悪くて、子どもとしての人間的成長に役に立たなかったとしても、その後の学校教育という現場で教師が人間的成長の育みに見るべき刺激を与え得ず、スルーさせてしまったことを示すことになって、教師としての役目が問われることになる。

 さらには教師自身が教員免許試験に合格し、都道府県教育委員会から教員免許状を授与されて教員となるについては大学等で「教職論」「教育原理」「教育心理」等を学び、これらの知識・情報を知の栄養、いわば自分自身に独自の知識・情報の栄養素としていなければならない。でなければ、学んだ意味が出てこないし、体罰に対して自己コントロールできない教師が跡を絶たないことになる。

 断るまでもなく体罰の何が問題なのかは身体に対して直接的または間接的に肉体的苦痛を与える行為、あるいは注意や懲戒の目的で私的に行われる身体への暴力行為などと言われているが、有形力を行使した、あるいは威迫的意思を行使した強制的躾であり、このことは教育の現場と言いながら、言葉を用いて相手を納得させる道理に適ったプロセスを省いていることを意味していて、このようなプロセスを持った児童対児童、あるいは生徒対生徒の関係性がイジメと言うことになる。

 大学で教育を受けながら、適切で合理性に適った言葉を駆使した躾ができずに言葉の威しや有形力に頼ってしまう教化・指導がなくなくならない、減りもしない原因は児童・生徒を個人として尊重する姿勢に基づいた理性的な言葉を日常普段から使い慣れていないか、冷静さを欠くと理性がどこかに飛んでしまうからで、これらのことも高等教育を受けた意味をなくすが、逆に児童・生徒に対して個人として尊重する扱いと言葉を理性的に話すことを習慣としていたなら、その習慣性によって体罰に対する抑止力の役目を果たすだけではなく、そのような習慣は児童・生徒も目や耳にしたり、肌で感じることになって自ずと学ぶことになり、イジメに対する抑止力ともなるはずだが、現状はそうはなっていない。

 要するに体罰を必要としない言葉を話す力=言語力の不足に陥っている。考える力(=思考力)が言語力を養うことになるのだが、考える力の不足が言語力の不足と対応することになり、その関連性によって教化・指導に手っ取り早く体罰を用いてしまう。

 要するに考える力もない、言葉のコミュニケーション力もないことが体罰に向かわせてしまう。

 但し考える力の不足が原因となる言語力不足は体罰を行う教師ばかりの問題ではなく、他の教師や児童・生徒全般に関して指摘できる考える力不足(=思考力不足)と言語力不足であって、その原因は断るまでもなく今なお主流となっている暗記教育に影響を受けている。

 子どもの思考力不足と言語力不足は言われて久しいが、日本の教育のプロセスが教師の与える知識・情報を児童・生徒にそのままなぞらせる形で機械的に彼ら自身の知識・情報へと持っていく、その反復の強制を内容とする暗記型教育となっていて、教師からの知識・情報が児童・生徒それぞれの思考を刺激し、それぞれに自分なりの意味・解釈を付け加えることになる知識・情報へと持っていく仕掛けの思考型教育とはなっていないことが考える力の貧困状態を作り出して、結果として言語力不足を成果とすることになっている。

 となると、スウェーデンでの39年を掛けて95%から2%へと持っていった家庭内も含めた体罰減少は体罰で子どもを躾けることが社会的常識となっていて、それを当たり前のことと容認する場所で思考停止状態となっていたが、人権意識に基づいて法律で体罰禁止を打ち出し、社会に向けて体罰禁止の啓発活動を行うと、社会の側が考える力を刺激されて思考停止状態を解くことになった結果、体罰の目を見張る減少ということでなければ、理解を得ることはできない。

 なぜなら、既に触れたように体罰は考える力の不足(=思考力不足)が招くことになる言語力不足(=言葉のコミュニケーション力不足)が原因なのであって、スウェーデン人が考える力を元々の素地としていなければ、啓発活動を受けたからと言って、非人権的な強制行為でしかない体罰から穏便な言葉を用いた教化・指導に急激に変貌を遂げることはできないだろうからである。

 日本が体罰禁止や虐待禁止の法律を作り、啓発活動を様々に行っても、家庭内の虐待をも含めて無視できない件数の体罰がなくならずに横行している。言葉を使った言い聞かせ、言葉を使った教化・指導の実践ができないからで、つまるところ、大学という教育の場で児童心理学等を学び、さらに学校という教育の場で児童・生徒のそれぞれの人間性を通して学ぶべきことを学ぶことができないという皮肉な逆説によって、考える力を背景とした言葉の力で教師が児童・生徒を教化・指導ができず、そういった扱いを受けた児童・生徒が大人になって子どもを持ち、子どもに対して同じ扱いしかできないでいる循環が変わらない横行風景を作り出しているということなのだろう。

 当然、尾木直樹の「子どもに対する体罰、あるいは虐待等の禁止。これは法律が変わるだけでは体罰、虐待はなくせないので、特にメディアと共に地道に粘り強く啓発活動を親や社会、人々の意識を変えていくことが重要だ」云々は視点の把えどころを間違えた、考えもない無益な訴えとなる。

 自ら考える力のある人間は啓発活動を受けなくても、自分から意識を変えていくことができるだろうし、自ら考える力のない人間にいくら啓発活動を行なったとしても、馬の耳に念仏、意識を変えるところにまでいかないだろうからである。

 こういった道理を弁えることができないのだから、尾木直樹自身、考える力を満足に備えていないことになる。だから、事実を表面的に見ただけの八方美人的な綺麗事しか見せることができないでいる。論理的思考力ゼロの人気教育評論家と見るほかない。

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尾木直樹2022年7月23日「こども基本法制定記念シンポジウ」講演全文

2024-09-22 03:55:32 | 教育
  「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

1.イジメを含めた全活動が"可能性追求"だと自覚させる「可能性教育」
2.「厭なことやめて欲しい」で始まるロールプレイ
3. 居場所づくりと主体性教育目的の一教科専門コース導入の中学校改革
4.主体性教育目的の図書館の蔵書を参考書とする1日1時限の「自習時間」の導入
学校は一定のルールを決めて学校内でのプロレスごっこを認める)

 尾木直樹の「YouTube」から採録した、《「こども基本法制定記念シンポジウ」講演》(日本財団主催/2022年7月23日開催)全文を当方が4回に分けて行った、この講演の批判の妥当性を判断して貰うために前以って知らせておいたとおりに紹介することにする。日本財団の講演開催を知らせるネットページ、《こども基本法制定記念シンポジウ 開催 「こどもの視点にたった政策とは」》に、『こどもの権利と日本のこどもたち(仮)』という題名が付けられているのをあとになって知った。現在も仮題のままとなっている。聞き取れない箇所は「?」をつけておいた。

レジュメ:問題山積の教育現場と子どもたちの実態(一部)
①いじめ認知件数、重大事態の増加。
②子どもの自殺者数の増加
③体罰と「指導死」問題 
④人権侵害の「ブラック校則」問題 
⑤不登校と「登校しぶり」の急増(コロナ禍の心と生活――マスク問題)
⑥「教育虐待」を生む受験制度と競争主義的教育
⑦教育格差の拡大(公私間、地方と都市間等)
⑧教師不足と質の低下が深刻化(わいせつ教師問題等)
⑨中等度以上の「うつ症状」の子ともが増加
⑩外国にルーツをもつ子どもたちへの差別、いじめなど、子どもの命や人権に関わる深刻な問題が山積

尾木直樹「どうも皆さんこんにちわー、尾木ママですー。今、山田先生(参議院議員山田太郎 講演題名「こども基本法とこども家庭庁について」)からですね、色んな、非常に広い観点から、コメントを聞いたり、一杯あったかと思うのですが、僕も一応レジュメを作ってきたのですが、前に出てきますけれども、漠然としたところもありますので、そこは焦点化して正していかなければならないなあというふうに思います。

 僕が今日、特にお話したいのは大人と子供の、子どもと大人ですね、子どもと大人の新しい関係性の第一歩、スタートに立ったなあということで、新しい関係性をどう作っていくのか、そこをですね、現状の問題から含めてお話していければというふうに思っています。

 丁度77年前、男女平等が推進され、男女平等社会が始まった。それに匹敵するよりももっと大きいかも知れない、びっくりするような関係性の変化の問題、そんな今回のこども基本法が、こども家庭庁の意義が大きくあるんじゃないかなと思うんですけども、それで先ず次のレジュメに行きますけども、問題山積の教育現場と子どもの実態というのは数か所挙げてみたのですけど、これほんの一部なんですけども、こんなにたくさんあるんです。

 ここに10項目も挙がっていますけども、先程から理事長から、(?)先生がおっしゃっていたんで、ダブっていますけども、中でも4番の人権侵害の『ブラック校則』の問題。これは僕はいつだったかな、結構最近なんですけども、TikTokをやってるんですね。こどもたちとつながろうということで。

 TikTokに『ブラック校則なくなれ』とか何とか、1分間ですから、叫んで動画を入れたらですね、何と再生回数が270万超えて、コメントだけでも、7000入っていて、ずっと楽しみながら、読みみましたけど、本当に苦しんでいます。

 とんでもない校則、下着の色で決めるとかですね、それをチェックするとか、まあ、髪の毛は自分は元々茶色に、外国籍っていうかな、外国の両親を持つ子であっても、黒く染めなければいかないという指導が入っちゃうという、もう人権侵害、人間否定です。本当にひどい、そういう問題。

 それから、『登校しぶり』というのが物凄く増えていますよね。日本財団の調査で33万人と言われていますよね。

 それからこれは『教育虐待』の6番目の問題なんかもホントーに、日本っだけの問題じゃないですが、競争して他人より成績がいいとか、他人より何点取ったとかですね、優秀だとか、優秀でないとか、評価を決められたり。高校入試をやっても(?)凄く無駄なんです。どこも中高一貫なんです。

 僕なんか教育学の原理原則から言えば、中高で分断する何てのはあってはならない一番の、勿論ね、選択の自由というのがありますから、高校受験する子にいつも言うんですけれども、こんなに全ての子にそれを強制するような国家というのは間違っていると思います。それが大きいですね。

 それから、先生不足、教育者不足、これ深刻になっていて、これも詳しくは時間がなくて言えませんけども、9番のコロナ禍の、これも子どもたちの心と生活の問題。これはオミクロン株、少しは落ち着いてきたと言われている。マスク無しで歩きましょうということで、文科省の方でも体育館の中での体育でも、マスク外していいんだとか、色々言ってんですけども、マスクを子どもたちは外しませんと言うよりも、正確に言うと、外せないんです。

 保育園の子どもたちも同じです。これもまた詳しくはお話できませんですけれども、子どもの発達を随分阻害してしまっている。そこに私たち大人はですね、そこに配慮しないままきてしまいました。フランスのマクロン大統領なんか透明のマスクを80万枚配っているのに、我が国はそういう配慮は全くしなかったのです。子どものことをどんだけ見落としているのかという、そういうことだと思います。

 今、子どもたちの命とか、人権に関わる深刻な問題が山積しているんだということですね。それをもう少し掘り下げてみますと、深刻化するいじめ問題。なぜこのいじめ問題を取り立てて取り上げるのかと言いますと、子どもたちの命の危機を孕んでいるのはいじめ問題だけなんです。

 極端な言い方をすると、いじめで亡くなっている子はどれだけたくさんいるかという、丁度子どもたちの加害者の成長も阻害してしまうし、傍観者の人たちも、30、40もなっても、トラウマを引きずって大人に成長している日本の現状。

 いじめ問題の選択ニーズは重要だと思っています。いじめの認知件数のそのものは(コロナ禍で)学校が休校になりましたから、約9万件ぐらい減っていますけれども、今度は逆にパソコンとか、携帯電話の誹謗中傷、嫌がらせ、あるいはそれが原因で命を落としたんじゃないかといういじめ、そんな深刻な状況が過去最多を更新しているという問題ですね。

 これは読売新聞などの調査によりますと、109の自治体でやったところ、25の自治体で配った、やっぱ学校から配ったタブレットがこういういじめ問題が起きたというふうに報告が挙がっています。

 これなんかについてはですね、今日の専門の先生方はやはりどういうふうにしてタブレットを使うかというリテラシーが必要で、ということを仰って、学校で教えろと仰って、僕もその必要はあると思うんです。だけれども、そこがポイントではないんです。そこんところは一定程度教えますが、今大事なのはそんなことに左右されない信頼に満ちた学習とか、学年とか、学級、学校づくりができるかという、あくまでも生活の場として安心・安全かどうかということが土台にしっかりと息づいていれば、 こういうタブレットを生徒全員に配っても、何ら問題は起きないというふうに思います。

 これは海外の国との比較で見ていくと、明らかなんですけども、今学校の先生方に言おうとしているのは、『いじめ対策推進法』の28条というのがありますけれども、1の1項1号に該当する重大事態というのはですね、514件、重大事態のうち児童生徒の心身とか財産とか、重大な被害が生じた疑いのある件数が239件。それからいじめにより単純に不登校になった子が347件。非常に多いと。

 それから文科省のデータで見ると、いじめを苦にして自殺した子どもは小学校1人、中学生5人、高校生6人で、12人亡くなっている。これは全くの実態を反映していません。毎年そうなんですけども、それからいじめの定義をですね、何が一番問題かと言うと、いじめの定義を恣意的、前提的に解釈、保護的な対応を怠ったり、教師や学校側が誤ったいじめ対応や人権に対するいくつかの認識、いくつかの希薄化によって子どもたちが不登校やいじめに追いやられているという問題。

 これはですね、詳しくお話すると、いじめの定義が行われたのは1985年なんですよ。1985年の文科省の定義はですね、いじめられる子がどういういじめを受けたなら、いじめかと、認定するのは学校だと明記されている。

 1985年の文科省の定義が未だに殆どの学校を支配しているんです。文科省は2006年にすっかり定義を変えているんです。発生主義ではなくて、認知主義、認知したら、それはいじめとカウントしましょうということで、だから、たくさん件数が出れば出る程、それは子どもに密着している証拠で、素敵なことなんだと、どんだけ言っても、進歩しないんですね。本当に不思議です。

 認知主義と我々言いますけども、定義が、これまでは主語が加害者が、85年の定義では主語が加害者だったんです。ここが2006年の定義では被害者が主語になったんです。だから、被害者が辛いなと思ったり、嫌な目線を送ったなあとね、そう思えばもういじめですよというので、取り組んでくださいとか、それは誤解だったら、誤解でいいわけですから、子どもたちの被害というかなあ、そちらの側に立ったんですねえ。

 ところがですね、現場では、これ社会的にもそうですけど、いじめられる方にも問題があるとかね、子どもはいじめを通して成長していくんだとか、こんなことを言う学校の先生がいたり、いるんですね。何年前になりますか、加害者冤罪論で、加害者として決めつけることが冤罪として発生させているということが弁護士の先生の間で物凄く広がったことがある。

 つい今もひどい争いになっている事件が、亡くなった子の事件があるんですけれども、そこの地域で、ついこの間ですね、加害者を守る会が発足しました。分かります?加害者を守る会、そこで先頭に立っているのはちゃんとした精神科のドクターなんですね。いつまでもきちっと文科省(?)が指導力を発揮できないでウジウジしていると、こういう変なところで変な力が顔を出してくる。今、ネット社会ですから、こういうことも起きやすくなっているのかなと、僕は非常に残念で。
 
 それからですね、公正・中立、かついじめの第三者委員会、第三者委員会、の遣り直しとかいうのが言われております。今もまた議論されていることがいくつもありますけれども、この第三者委員会の条件と役割と明確にすべきだと思います。地元の方ばっか入った第三者委員会なんか機能するわけはないのに、平気でやっておられる、いうようなことも思っております。

 それからですね、次のところですね、日本の学校に於ける子どもの権利条約ということで、先程から山崎先生なんかも仰ってくださっていますけど、空白の28年間、我が国は1994年(4月22日)、何と子どもの権利条約が国連で批准されてから5年後に署名、158番目の締約国になったんです。子どもの権利条約が日本で批准され、発効しました。この日本政府は5年ごとに報告を出すことになっていますから、4回に亘って勧告を貰っているんですね。

 で、僕、この子どもの権利条約のこと、おっかけていたんですけども、何回勧告を貰っても、殆どメディアも、それから政府も、一番罪深いのはメディアだと思っています。メディアが報じないから、一般社会市民のところ、まして子どもたちに伝わらないです。で、ほぼ無視してきた28年間なんです。

 だから、ホント、僕は子どもたちに『ゴメンね』と大人を代表してお詫びしたいような気持ちです。ホントーによくぞ28年間、あのーバカにしてきたなあというふうに思います。ですから、もう子どもの、子どもの権利条約に対する理解が進まない理由をちょっと掘り下げてみるとですね、子ども権利なんて教えたら、権利ばかり主張して、義務を果たさなくなる、あるいは我儘な子どもが育つとか、親や教師の言うことを聞かなくなるといった親の誤った子ども観とか無理解とか、根底にあるんじゃないかと。

 それから以前はどうしてきたのか言いますと、1994年批准した、発効したからですね、文科省は事務次官名による通知を出しました。現場に対してです。僕が現場に、このとき辞めたくらいですから。僕が辞めたのは子ども権利条約、この問題で辞めざるを得なくなったんですよ。NHKの番組で特別に子ども権利条約発効のされた番組を作るわけですよね。(番組が)流れているんだけど、体罰が行われていたり、この問題で現場にいられなくなりましたね。

 事務次官の通達により、こういうふうに言われている『本条約の発効により教育関係について特に法令等の改正の必要はない』。こう言ったんですね。で、学校に於いて児童生徒に権利及び義務を正しく理解させることは極めて重要だというので誤った権利と義務の撤去論というのが通知をされた。

 これは撤回は難しいから、融和的な新しい通知を出して頂かないと困りますという話なんです。それから致命的なのは子どもの権利条約第44条には条約報告義務というのが明記されている。これは日本の学校では子どもの権利条約について教えてこなかったので、これは明らかに条約違反です、

 その結果、子どもはイジメや虐待といった様々な人権侵害とか貧困や差別などの困難な中にいても声を何も上げることができず、何も変わらないと諦めざるを得ない、こういう生き辛さを感じているんじゃないかと。

 それからですね、困ったことに子ども権利条約について現職の教員の約3割が全く知らないと言っている。それから名前だけ知っている、約4人に1人。子どもは義務や責任を果たすことで権利を行使することができる。今度の遠足で違反がなければ、秋の運動会は自分たちで進めていいとかね、こんなのとんでもない間違いです。

 権利があって初めて義務が出てくるのであって、これは発達論から言って間違ってるんですね。これ、平気で言うんですね。大学の教育課程でセンター長をやってるんだけども、子ども権利条約は教えることになっていません。教育課程の一定の科目にもなっていないと。

 教育委員会現場の先生方から見て、教育委員会を怒っているように本当に点数が多いんですね。ホントーに。(以下不明)

 それでは次にですね、こども家庭庁に対するということで一つ纏めましたけども、7つ程あります」
 
 (以下、画像をテキスト化する。)
 「こども家庭庁」に期待すること―子どものことは子どもに聴こう!

① 「こども基本法」を実体化させる→“こどもまんなか”社会の実現に向け、十分な予算と人材の確保を!
② 当事者の視点に立った細やかで丁寧な取組→自治体や民間団体、企業等との協働•パートブーシップが重要
③「子どもの榷利条約」謳われている子どもの権利を包括的に強力に普及•推進する→大人側への啓発活動が重要
④ 子どもに対する体罰、虐待等の禁止→「法律が変わっただけでは体罰や虐待はなくせない」ので、メディア等とともに地道で粘り強い啓発活動を通じ、親や社会、人々の恵識を変えていくことが必要(例:スウェーデン)
⑤ 「コミッショナー制度」の確立と導入に向けた検討の継続→最後の砦としての「駆け込み寺」の機能を
⑥ 特にいじめ問題における実効性の伴った「勧告権」の発動を→問題が“解決”するまで見届けることが必要
⑦ すべての政策を「子ども参加」で→子どもに関わることは当事者の子どもに意見を聞き、受け止め、考慮する必要
 尾木直樹「『こども基本法』を実体化させる。子どもをど真ん中に置いて支援していくという社会の実験に向けてやっぱり十分な予算と人材(強調する)教育問題は殆予算を倍にして、先生の人数を倍にしたら、あるいはクラスのサイズは2分の1にするとか、肝心なところで一気に問題は6割は解決するというふうに思っています。

 2つ目は教育者の視点に立った細やかな丁寧な取り組みを自治体や民間団体、それから企業なども含めた協働とかパートナーシップが大事だろうというふうに思います。

 3つ目ですね、子どもの権利条約に謳われている子どもの権利を包括的に強力に普及する大人側への啓発活動が勿論、これは重要だと思っています。

 4番目ですね。子どもに対する体罰、あるいは虐待等の禁止。これは法律が変わるだけでは体罰、虐待はなくせないので、特にメディアと共に地道に粘り強く啓発活動を親や社会、人々の意識を変えていくことが重要だと。

 ちなみに最も体罰に厳しい国はスウェーデンなんですけども、スウェーデンは1979年に世界で初めて親の体罰も禁止するのを決めました。ところがですね、スウェーデンで60年代に体罰を肯定していた人は55%です。国民の体罰をやったよーと言っている人が95%もいるんですね。

 ところが2018年、ついこの間ですけども、体罰肯定派は1%。そして体罰やちゃったよーと言っている人が2%しかいない。激減させているんですね。そして啓発活動もポイントでした。消費者庁は全家庭に配ったり、牛乳パックに『子どもは叩かない』とかね、『叩かないでも育つ』とか、文句を書き込まれていたり、学校も授業の中で教えたり、第一案件で社会を意識改革させたんですね。こういうこと、日本も『子ども基本法』が制定された以上、メディアとか、社会ぐるみでやっていく必要がある。

 5番目、『コミッショナー制度』の確立とこれをどう導入するか、検討の継続ということが言われているわけで、ここんところ、ぜひ実現させていきたいなあ。最後の砦としての『駆け込み寺』としての機能を持たせることも重要だということになります。

 特にイジメ問題に於ける実効性の伴った『勧告権』の発動をですね、これは問題の解決まで見届けていくことまで、重要と思っています。それをやっている自治体が既に、例えば大阪の寝屋川市などで出てきていて、本当にモデルになるような実現されているんですね。

 それから7番目の全ての生活を「子ども参加」で、子どもに関わることは教育者が子どもの意見を聞いて、受け止め、顧慮することが不可欠だというふうに思います。子どもが一番分かっています。

で、次に纏めですが、日本の子どもたちの命を守り、成長する権利を保障するために法整備や省庁横断的な包括的に課題に取り組むという『子ども家庭庁』のような組織の創設は長年の夢でした。僕はずっと願ってきたことで、これでようやく、まだ不自由なとこがあったとしても、成立させたということは、画期的なことで、子ども政策元年に今年はなっていってるんじゃないかと思っています。

 子どもや保護者の視点から見れば、切れ目のない支援こそが必要で、子ども家庭庁が創設されること自体が国が子どもの育ちや子育てを応援するという心強いメッセージになるはずだ。子どものみならず、大人にとっても多様性の尊重とか、あらゆる格差への克服に向けて、歴史を転換させる大きな一歩になると思います。

 子どもに貴賎はありません。子どもの利益のために今こそ大人の側が最善を尽くし、様々な課題を克服し、子どものために協働して欲しいと強く願っております。子どもの専門家は子ども自身でコロナ禍で不透明な今だからこそ、子どもたちと共に考え、声を上げ、協働していかなければなりません。子どもたちとのパートナーシップで、未来に向け、様々な課題や困難を乗り越えていきたいと思います。
 
 特に先程からも言っているとおり、国がこども大綱を決めて、そのあと子ども政策を各自治体で進めていくということになっていますけども、先行している例としては東京都が極めてシンプルで、子ども条例、基本法というのが去年から決まったのですが、決まっています。

 子どもコミッショナーというものをやろうということになっていますけども、ついこないだ予算措置が取られて、1億何千万か、予算を取ったというのが、ネットニュースで見て、ああ、いよいよ動いてきたなあというので、国の方でちょっと遅れがあったような、東京の方は分かりやいんですよ、子ども条例。たった17条くらいですけど、分かりやすい。子どもが読んでも、子ども基本条例のページ数で言うと、たったね、3ページ半しかない。

 だから、あっという間に読めますし、各自治体で決めたというところはどんどん決めて、頂いたらいいなあと思っています。

 以上、ありがとうございます」
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尾木直樹こども基本法講演:程度の低いエセ教育者を「尾木ママ」と有難がっている多くの存在、「はてな?」

2024-09-08 08:03:55 | 教育
  「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

1.イジメを含めた全活動が"可能性追求"だと自覚させる「可能性教育」

2.「厭なことやめて欲しい」で始まるロールプレイ

3. 居場所づくりと主体性教育目的の一教科専門コース導入の中学校改革

4.主体性教育目的の図書館の蔵書を参考書とする1日1時限の「自習時間」の導入

学校は一定のルールを決めて学校内でのプロレスごっこを認める)

 尾木直樹が「こども基本法制定記念シンポジウム」のパネリトとして掲げた2つ目のテーマをここに改めて書き記し、続きとしてその⑤番目から最後までを取り上げる。

 「こども家庭庁」に期待すること―子どものことは子どもに聴こう!

①「こども基本法」を実体化させる→“こどもまんなか”社会の実現に向け、十分な予算と人材の確保を!

② 当事者の視点に立った細やかで丁寧な取組→自治体や民間団体、企業等との協働•パートブーシップが重要

③ 「子どもの榷利条約」謳われている子どもの権利を包括的に強力に普及•推進する→大人側への啓発活動が重要

④ 子どもに対する体罰、虐待等の禁止→「法律が変わっただけでは体罰や虐待はなくせない」ので、メディア等とともに地道で粘り強い啓発活動を通じ、親や社会、人々の意識を変えていくことが必要(例:スウェーデン)

⑤ 「コミッショナー制度」の確立と導入に向けた検討の継続→最後の砦としての「駆け込み寺」の機能を

⑥特にいじめ問題における実効性の伴った「勧告権」の発動を→問題が“解決”するまで見届けることが必要

⑦すべての政策を「子ども参加」で→子どもに関わることは当事者の子どもに意見を聞き、受け止め、考慮する必要

 尾木直樹「5番目、『コミッショナー制度』の確立とこれをどう導入するか、検討の継続ということが言われているわけで、ここんところ、ぜひ実現させていきたいなあ。最後の砦としての『駆け込み寺』としての機能を持たせることも重要だということになります」――  この発言のみでは何を言っているのか皆目見当がつかないのでネットを調べてみた。子どもの権利や利益が守られているかどうかを監視し、子どもの代弁者として活動する機関としての子どもコミッショナー制度のことだそうで、《子どもコミッショナーの設置を急げ》(日本総研池本美香/2024年4月1日)に、〈2002年、国連子どもの権利委員会は、子どもの権利条約を批准したすべての国に子どもの権利擁護状況の監視を行う独立機関(以下、子どもコミッショナー)が必要だという考えを明示している。〉と出ている。但し日本政府は消極的で、今以って設置に至っていないということである。

 要するに「コミッショナー制度」は尾木直樹発の発想ではなく、国連子どもの権利委員会が求めている監視機関ということになる。既に前のところで挙げているが、「子どもの権利条約」の「第28条の2」は、〈締約国は、学校の規律が児童の人間の尊厳に適合する方法で及びこの条約に従って運用されることを確保するためのすべての適当な措置をとる。〉と規定している。

 教師の児童・生徒に対する体罰も、児童・生徒相互間のイジメも、ブラック校則も、学校の実際面での多くの規律が児童の人間の尊厳に適合していない状況を示すことになる。ブラック校則は教師が自分たち大人の価値観を絶対としている間は児童の人間の尊厳に適合している状況にあると見ることはできない。

 繰り返しになるが、体罰は教師が児童・生徒に対して、保護者が自分の子どもに対して自身の価値観を絶対とし、相手の価値観を認めないことによって起きる。イジメは力関係が上の児童・生徒が自身の価値観を絶対とし、力関係が下の児童・生徒の価値観を認めないことによって起きる。どちらも権威主義の力学を介在させた相手に対する人間の尊厳を欠いた行為としなければならない。

 但し体罰やイジメが発生する前に権威主義の力学が介在しているという段階のみを把えて、その未然防止のために権威主義の力学を排除するのは難しい。一人ひとりの教師や児童・生徒の行動・態度を監視している教師を配置しているわけでもなく、一人ひとりの教師や児童・生徒の行動・態度をチェックする監視カメラを配置しているわけでもないからで、結果、体罰やイジメの全体的発生状況が手に負えない段階になってから、「コミッショナー制度」に通報するという手続きを取ることになる。

 尾木直樹が言っている「駆け込み寺」としての機能も、体罰やイジメの発生を受けてからの利用となる。いわば事後対応が専門で、イジメが発生した場合の「学校いじめ防止対策委員会」の役割と変わらない。"いじめ防止"と名前が付いているが、"防止"ではなく、現に起きているイジメをやめさせる"対策"ということになる。発生を受けて、その件に限った解決という従来通りの循環を取る可能性も否定できない。

 循環という経路を取るのではなく、既に取り上げたが、「子どもの権利条約」の「第28条の2」が、〈締約国は、学校の規律が児童の人間の尊厳に適合する方法で及びこの条約に従って運用されることを確保するためのすべての適当な措置をとる。〉と謳っていることに合わせて、児童・生徒の諸権利がそもそもからして侵害を受けないようにする基本的対策はやはり教師一人ひとりが児童・生徒に向き合う際、一人ひとりを"個人として尊重する"態度・姿勢を取ることができるかどうかに掛かっていて、このことをスタート台に児童の諸権利の擁護・保障を図っていくことが「児童の人間の尊厳に適合する方法」となっていくはずである。

 そうするためには教師であるという身分上の上位性を外し、あるいは大人であるという年齢上の上位性を無視して、権威主義的な人間関係力学を排除、教師が児童・生徒と同じ目線に立つことが求められるはずである。そしてこのような関係を築くことができれば、教師は児童・生徒を信頼の対象としていることになり、その信頼は児童・生徒の教師という存在に対する信頼となって跳ね返ってきて、既に触れていることだが、相互の信頼が児童・生徒の責任感の育みや自主性、主体性、その他の育みの手助けとなり、それらの能力は教師の体罰、児童・生徒間のイジメを予防する力学としての働きをすることになる。

 だが、尾木直樹は体罰やイジメを生み出している直接的な現場となっている学校での人間関係の問題点、権威主義的な人間関係を捉えるのではなく、法律や条約が持つスローガン性、義務化不足を考慮に入れず、「いじめ防止対策推進法」がイジメ認知件数の減少に何ら役に立っていない実効性欠如に目を向けることもできず、「こども基本法」や「子どもの権利条約」といった法律や条約の実効性に解決策の期待を掛ける見当違いから抜け出れないでいる。

 尾木直樹「特にイジメ問題に於ける実効性の伴った『勧告権』の発動をですね、これは問題の解決まで見届けていくことまで、重要と思っています。それをやっている自治体が既に、例えば大阪の寝屋川市などで出てきていて、本当にモデルになるような実現されているんですね」――

   尾木直樹がここで言っている「勧告権」とは条約が規定している義務の履行の達成に関して締約国の進捗状況を審査する役目を担った「児童の権利に関する委員会」が締約国に於いて権利の実現のために取った措置及びこれらの権利の享受に不足がある場合、その不足を正すよう締約国に勧告することのできる権利のことで、「児童の権利に関する委員会」がイジメ問題で勧告権を発動したとしても、直接的な解決を担うのはイジメ問題を発生させた学校であり、その学校を監督するのは文部科学省という国の機関であって、問題の解決まで見届けるのは当然の措置であり、改めて言うことではなく、やはりイジメ問題を起こさないよう注意を向けることが子どもの権利擁護となるはずである。

 当然、尾木直樹は"信頼に満ちた学校"を作りさえすれば、イジメは起きないといった趣旨の仮説を披露している以上、そのような学校を実現する方法論を先に持ってくるべきで、持ってくることができれば、子どもの権利擁護は大部分が片付くはずだが、言うだけ言って、方法論には口を閉ざしたままでいる。

 「子どもの権利条約」に関する勧告権と大阪府寝屋川市とどう関連があるのか理解できなかったから、ネットで調べてみた。2020年1月1日施行の「寝屋川市子どもたちをいじめから守るための条例」に市長の権限で行うことのできる「是正の勧告」が定めてあって、イジメ加害者の「出席停止」、イジメ被害者対象なのだろう、「児童等の学級替え」や「児童等の転校の相談及び転校の支援」等の勧告が行えると規定している。  尾木直樹は「子どもの権利条約」の締約国としての日本政府が行うべき義務について解説しながら、一自治体の条例が定めている勧告権を持ち出して、それが締約国に課した勧告権であるかのように話す混同を犯しているだけではなく、"信頼に満ちた学校"を作りさえすれば、イジメは起きないと宣言しながら、イジメが起きた場合の法律や条例に頼った対処の仕方ばかりを話している。頭のどこかが狂っているとしか思えない。

 それとも「子どもの権利条約」から離れて、学校のイジメ問題一般へと話題を変えたなら、そうと受け取ることができる文言を明示すべきだろう。明示もせずに繋げた話にするから、合理性が欠如した印象のみを与えることになる。

 尾木直樹「それから7番目の全ての生活を『子ども参加』で、子どもに関わることは教育者が子どもの意見を聞いて、受け止め、顧慮することが不可欠だというふうに思います。子どもが一番分かっています」――

 一見、"個人としての尊重"を訴えているように見えるが、似て非なるものである。「全ての生活を『子ども参加』」で行ったとしても、学校が決めたルールとしてそのルール内で行うことと"個人としての尊重"が育むことになる相互信頼や児童・生徒側の責任感、自主性や主体性を背景に置いた参加とは全然別物だあらである。尾木直樹はこの講演の中で"個人としての尊重"を頭に置いた発言を一度も行っていない。

 また、「子どもが一番分かっています」からと子どもの意見を聞いて物事の決まりやルールを決めていったとしても、学校の価値観が勉強の成績かスポーツの成績にほぼ限定されている思考環境では自ずと限界を抱えることになる。

 その理由は多様性が幅広く認められている学校社会であったなら、これ程までにイジメ認知件数は増加の一途を辿らないだろうし、不登校児童・生徒数も増加傾向を取ることもないだろうし、既に触れている全国学力テストで暗記で片付く基礎的知識よりも思考力や表現力の点数が左程劣ることなく、よりマシな成績を示すことになるだろうから、そうなっていない、いわば多様性の狭さに応じて子どもの意見自体の自由度は高くはないだろうからである。

 勿論、思考力や表現力が優れた子どもいるだろうが、主として学校の勉強知識に関しての優秀さであって、テストの結果が証明しているように全体的傾向とはなっていないだけではなく、学校の勉強から離れた知識に関しては未知数なのだから、「子どもが一番分かっています」と断言するのは安請け合いそのものでしかない。

 大体が法律や国の組織を無条件に信頼することで可能となる法律頼み、国の組織頼みで子どもの権利擁護を散々に語ってきながら、最後になって「全ての生活を『子ども参加』」だ、「子どもが一番分かっています」と子どもを中心に据えるのはご都合主義そのもので、所詮、綺麗事としか映らない。

 尾木直樹「で、次に纏めですが、日本の子どもたちの命を守り、成長する権利を保障するために法整備や省庁横断的な、包括的に課題に取り組むという『こども家庭庁』のような組織の創設は長年の夢でした。僕はずっと願ってきたことで、これでようやく、まだ不自由なとこがあったとしても、成立させたということは、画期的なことで、子ども政策元年に今年はなっていってるんじゃないかと思っています。

 子どもや保護者の視点から見れば、切れ目のない支援こそが必要で、こども家庭庁が創設されること自体が国が子どもの育ちや子育てを応援するという心強いメッセージになるはずだ。子どものみならず、大人にとっても多様性の尊重とか、あらゆる格差への克服に向けて、歴史を転換させる大きな一歩になると思います」――

 ここでは再び国の組織頼みに先祖返りしている。ご都合主義は尾木直樹の性格の一部だから、不自然なことは何もない。

 「子ども家庭庁」は2022年2月25日に家庭庁設置法の国会提出を受けて審議、6月15日成立、6月22日交付、2023年4月1日発足という経緯を踏んでいる。要するに尾木直樹は2022年7月23日開催の「こども基本法制定記念シンポジウム」講演で発足8ヶ月前に早くも「子ども家庭庁」の創設は「子ども政策元年に今年はなっていってるんじゃないかと思っています」と先見の明を発揮、我先にと先物買いに走って、いわば売値を高めた上で子どもや保護者にとって、「こども家庭庁が創設されること自体が国が子どもの育ちや子育てを応援するという心強いメッセージになる」と国の組織に信頼を置いた国頼みを心置きなく披露している。

 この先見性、国組織への信頼、国頼みが2022年7月時点での尾木直樹一人の印象ではなく、国民が全般的に抱える印象となっていたなら、国の「子どもの育ちや子育て」への応援に期待を抱き、今まで諦めていた2人目、3人目の出産を考えてみようかと、少なくとも気持ちが前向きとなって、それが現実面でも実際の形を取る可能性は否定できないのだが、2023年の出生数は前年比4万3482人減少の72万7277人。

 2022年の出生数は前年比4万0863人減少の770759人。2021年の出生数は前年比29213人減少の811622人。もしこども家庭庁設置によって国への出産に対する期待が持てると感じていたなら、2022年以降の減少幅は少しは歯止めの兆候が見えていいはずだが、前年比の減少幅は拡大基調を維持したままとなっていて、そこからは国民の期待は微塵も感じ取ることはできない。

 国の組織が新しくできただけ、あるいは新しい法律が成立しただけで、その成果、あるいは効果を確かめもずに保証する。尾木直樹ぐらいのものだろう。大体が「日本の子どもたちの命を守り、成長する権利を保障するために法整備や省庁横断的な、包括的に課題に取り組む」はスローガンでしかなく、実現へと持っていくための具体的な規則・規定の類いとは別物であるし、具体的な規則・規定の類いが効果を必ずしも約束するわけではないことは尾木直樹が「子どもの命を救う法律」だと見ていた「いじめ防止対策推進法」がイジメの抑止に役立っているわけではないことが最適な例とすることができる。

 子どもたちの命を守る直接的な方法は喜怒哀楽の自然な発露を歪めることによって一種の精神的殺人の形を取ることになるイジメや、実質的な殺人とさして変わらない自殺に向かわせてしまう執拗で過度なイジメ、教師や保護者の体罰、保護者の暴力や虐待等をなくすことで、なくすためには学校という教育の現場で教師が児童・生徒とどう向き合うか、家庭という養育の現場で保護者が子どもたちとどう向き合うか、その具体的な向き合い方を考えることであって、「法整備や省庁横断的な、包括的に課題に取り組む」といった官僚が使う言葉で政策を述べることではない。

 「こども基本法制定記念シンポジウム」のテーマは「こどもの視点にたった政策とは」となっているが、子供の視点に立っていない第一人者は国の組織頼み、法律頼みの尾木直樹を措いてほかにはいないだろう。

 ネットで調べたところ、こども家庭庁は「日本国憲法」と「こどもの権利条約」の精神を取り入れて制定した「こども基本法」を基に2023年12月22日閣議決定した「こども大綱」を土台に自らのリーダーシップのもと、政府全体のこども施策を推進する組織として設立されたという。

 政策のほんの一部を見てみる。

 「こども大綱」

 3 こども大綱が目指す「こどもまんなか社会」

~全てのこども・若者が身体的・精神的・社会的に幸福な生活を送ることができる社会~

「こどもまんなか社会」とは、全てのこども・若者が、日本国憲法、こども基本法及びこどもの権利条約 の精神にのっとり、生涯にわたる人格形成の基礎を築き、自立した個人としてひとしく健やかに成長することができ、心身の状況、置かれている環境等にかかわらず、ひとしく その権利の擁護が図られ、身体的・精神的・社会的に将来にわたって幸せな状態ウェルビーイングで生活を送ることができる社会である。

具体的には、全てのこどもや若者が、保護者や社会に支えられ、生活に必要な知恵を身に付けながら

・心身ともに健やかに成長できる

・個性や多様性が尊重され、尊厳が重んぜられ、ありのままの自分を受け容れて大切に感じる(自己肯定感を持つ)ことができ、自分らしく、一人一人が思う幸福な生活ができる

・様々な遊びや学び、体験等を通じ、生き抜く力を得ることができる

・夢や希望を叶えるために、希望と意欲に応じて、のびのびとチャレンジでき、将来を切り開くことができる

・固定観念や価値観を押し付けられず、自由で多様な選択ができ、自分の可能性を広げることができる

・自らの意見を持つための様々な支援を受けることができ、その意見を表明し、社会に参画できる

・不安や悩みを抱えたり、困ったりしても、周囲のおとなや社会にサポートされ、問題を解消したり、乗り越えたりすることができる

・虐待、いじめ、体罰・不適切な指導、暴力、経済的搾取、性犯罪・性暴力、災害・事故などから守られ、 困難な状況に陥った場合には助けられ、差別されたり、孤立したり、貧困に陥ったりすることなく、安全に安心して暮らすことができる

・働くこと、また、誰かと家族になること、親になることに、夢や希望を持つことができる社会である。

 以上のことの実現を「全てのこどもや若者」に約束しているが、抽象的なスローガンの単なる羅列に過ぎない。勿論、方法論次第で実現する約束もあり、実現しない約束もあることになるが、尾木直樹のように「心強いメッセージ」と見た場合、実現の意味合いがより強い約束となる。実現の見込みがない「心強いメッセージ」は逆説としてのみ成り立つ関係性を取る。

 では、こども・若者に対してこれらの約束事の実現を誰が担うのかと言うと、こども家庭庁がリーダーシップを取ることになるだろうが、「こども基本法」と同様に国や地方公共団体、地域、学校・園、家庭、若者、民間団体、民間企業等の連携・協働となっていて、そのことを謳うのみで、それぞれにどのような部署、あるいは組織の設置を要請して、どういった活動の必要性を謳っているわけでもない。「連携・協働」を言うのみである。

 当然、この「連携・協働」の効果が問題となる。子どもの貧困を例に取ってみてみる。「こども大綱」は子どもの貧困に多くのページを割いている。貧困が人格の形成に与える影響が大きいと見ているからだろう。次のような対策を見受ける。その一部を取り上げる。

 〈(4)良好な成育環境を確保し、貧困と格差の解消を図り、全てのこども・若者が幸せな状態で成長できるようにする〉――

 では、現状はどうなっているのか、次のように伝えている。〈相対的に貧困の状態にあるこどもの割合は 11.5%となっており、特にひとり親家庭は44.5%と高くなっている。〉――

 この現状をこども家庭庁を中心とした政府関係機関と他機関の「連携・協働」によって解消していく。だが、議員立法で成立、10年前の2014年1月17日に施行された「子どもの貧困対策の推進に関する法律」は、〈子どもの貧困対策は、国及び地方公共団体の関係機関相互の密接な連携の下に、関連分野における総合的な取組として行われなければならない。〉と謳っているが、この2014年から「こども大綱」を閣議決定した2023年12月末まで約10年経過してもなお、〈相対的に貧困の状態にあるこどもの割合は 11.5 %となっており、特にひとり親家庭は 44.5 %と高くなっている。〉状況にあって、貧困問題が生易しく解決できる問題ではないことを示しているが、尾木直樹はこども家庭庁が何でも簡単に解決してくれると捉えているようだ。

   尤も最近は人手不足による賃金の上昇(決して経済の好循環による賃金の上昇ではない)で貧困率は少し下がる傾向にあるようだが、賃金の上昇以上に格差が拡大していることから、相対的貧困の感覚は変わらないことになり、一般的には子どもはその影響をより強く感じることになる。

 要するに人手不足が低所得層の賃金の上昇をささやかながら招いているのであって、「国及び地方公共団体の関係機関相互の密接な連携」が貢献している賃金上昇というわけでも、貧困率のささやかな低下でもない。果たして「こども大綱」が期待している「連携・協働」が機能するのか、2014年1月の「子どもの貧困対策の推進に関する法律」が謳った「連携・協働」が、あるいはその他の法律が謳っているとおりには機能していなかった前例に鑑みると、極めて疑わしいことになる。

 上に引用した「こども大綱」が目指す「こどもまんなか社会」の各実現目標を簡単に纏めて改めて列挙してみる。

「心身ともに健やかな成長」

「個性や多様性の尊重」

「尊厳の重視」

「自己肯定感を持ち、自分らしく、一人一人が思う幸福な生活ができる」

「様々な遊びや学び、体験等を通じて生き抜く力を育む」

「夢や希望に基づいたチャレンジ可能な将来への切り開き」

「固定観念や価値観を排した自由で多様な選択に基づいた自分の可能性を広げることができる将来性の用意」

「自らの意見表明に対する支援と社会参画支援」

「周囲のおとなや社会のサポートを受けた不安や悩みに対する問題解消と克服」

「虐待、いじめ、体罰・不適切な指導、暴力、経済的搾取、性犯罪・性暴力、災害・事故などを受けて差別・孤立・貧困を招くことなく、安全・安心な生活の保障」

「勤労の権利と結婚の権利と出産の権利の保障によって夢や希望を与える」――

 等々の実現を目標に掲げていて、目標の達成が子どもをまんなかに据えた「社会」の実現になると宣言している。

 どれも久しい過去からその実現が言われていて、満足に解決はできていない目標ばかりである。解決していたなら、「こども大綱」には載せはしない。にも関わらず、我が尾木直樹は、「『こども家庭庁』のような組織の創設」によって「子ども政策元年に今年はなっていってるんじゃないかと思っています」と褒め立て、「子どものみならず、大人にとっても多様性の尊重とか、あらゆる格差への克服に向けて、歴史を転換させる大きな一歩になると思います」と、過去から言われ続けている子どもの権利保障を、言われ続けてきたことに終止符を打ち、何もかも可能とすることができる、歴史の転換となる瞬間を迎えるかのように歓迎することができる。

 「子どもの権利条約」でさえ、尾木直樹によると国連子どもの権利委員会から4回に亘って勧告を受けている。にも関わらず、「子ども基本法」が掲げる子どもの権利保障が「こども家庭庁」のリーダーシップによって確実に実現できるかのように看做す。

 法律の持つスローガン性や国民の義務化不足を一切顧慮に入れず、しかも具体的根拠もなしにである。大体が学校社会での「多様性の尊重」はどれ程に久しい以前から言われているのだろうか。言われる理由は学校社会自体が勉強の成績かスポーツの成績第一主義で、他の可能性は排除する"多様性の否定社会"となっているからなのは断るまでもない。当然、文科省も学習指導要領で「多様性の尊重」を散々に言ってきているはずで、44年とか教師生活をしてきて、長年に亘って足元で問題とされてきたことが「こども大綱」に引き継がれて、こども家庭庁が政策遂行の新たな司令塔となる、この無限ループ状態は解決の困難さを露わにするのみで、「歴史を転換させる大きな一歩」どころか、同じ繰り返し状態に大変だなという思いしか浮かばない。

 ところがこども家庭庁が目指すこども・若者のあるべき状態(あるべき状態となっていないから、あるべき状態を求めなければならない)の殆どは学校自身が自らの現場で児童・生徒と協働して求めなければならない目標であって、「こども家庭庁」にしても最終的には学校に求める目標であろう。だが、いつまで経っても学校が一部の優秀な児童・生徒に対してのみ目標を実現できていないから、その結果問題行動がなくならないことになって、文科省やこども家庭庁が方針を決めて、義務という形で同じことの繰り返しでしかない解決を求めていくことになる。

 だが、文科省やこども家庭庁が求めるこども・若者のあるべき状態は教師が児童・生徒を"個人として尊重する"ことができるかどうかに決定権が掛かっていると見なければならない。改めて断るまでもなく児童・生徒を"個人として尊重"できたなら、そのような態度・姿勢は児童・生徒一人ひとりに対する信頼感に基づいて発動されることになるから、一人ひとりの性格や能力・資質を尊重できて、そのことはそのまま「個性や多様性の尊重」へと向かい、「尊厳の重視」という姿勢となって現れ、教師がこのような姿勢を持つことができたなら、教師に対して信頼感という形で跳ね返り、相互の信頼が児童・生徒の自主性や主体性や責任感を育むことになり、イジメや暴力の抑止力として働くばかりか、こういった全てのことが児童・生徒に自己肯定感を植え付けるキッカケとなるだろうし、自己肯定感が貧困に負けない精神的逞しさを育て、同じ自己肯定感が様々な遊びや学び、体験へのチャレンジを可能とし、様々なチャレンジが固定観念や価値観を排した自由で多様な将来的選択を可能とし、自身の進路選択の幅を広げることになって、これらのことが意見表明と社会参画に道を開き、逞しく社会を生きる力となり、夢や希望を持って勤労に励むことができ、結婚や出産にも希望を持って向き合うことができることになる。

 こうして見てくると、こども家庭庁が目指すこども・若者のあるべき状態の殆どは児童・生徒が多くの時間を過ごす学校という現場で教師一人ひとりが児童・生徒一人ひとりに対して"個人として尊重する"態度・姿勢を示すことができるかどうかが問題解決の糸口となることを明示していることになる。

 "個人として尊重"できるかどうかが諸権利保障の基本的出発点、あるいは基本的スタート台であって、このことを原則としなければならないと説いた所以である。だが、尾木直樹は解決できないままに長年に亘って繰り返されるままの各問題の解決を法律や国の組織に頼った模索を性懲りもなく続けている。

 尾木直樹「子どもに貴賎はありません。子どもの利益のために今こそ大人の側が最善を尽くし、様々な課題を克服し、子どものために協働して欲しいと強く願っております。子どもの専門家は子ども自身でコロナ禍で不透明な今だからこそ、子どもたちと共に考え、声を上げ、協働していかなければなりません。子どもたちとのパートナーシップで、未来に向け、様々な課題や困難を乗り越えていきたいと思います。

   特に先程からも言っているとおり、国がこども大綱を決めて、そのあと子ども政策を各自治体で進めていくということになっていますけども、先行している例としては東京都が極めてシンプルで、子ども条例、基本法というのが去年から決まったのですが、決まっています。

 子どもコミッショナーというものをやろうということになっていますけども、ついこないだ予算措置が取られて、1億何千万か、予算を取ったというのが、ネットニュースで見て、ああ、いよいよ動いてきたなあというので、国の方でちょっと遅れがあったような、東京の方は分かりやいんですよ、子ども条例。たった17条でくらいですけど、分かりやすい。子どもが読んでも、子ども基本条例のページ数で言うと、たったね、3ページ半しかない。

 だから、あっと言う間に読めますし、各自治体で決めたいというところはどんどん決めて、頂いたらいいなあと思っています。

 以上、ありがとうございます」――

 条例、法律の類は文字数、ページ数の多い少ない、あっと言う間に読めるかどうかでその価値・効果が出てくるわけではない。一通り読んで、終わりにしたのでは意味を成さない。義務化できるかどうかがカギを握るのであって、条文通りに義務化を心掛けたなら、立派な文章で成り立たせている関係上、だからこそ、スローガンとしての色彩を色濃く見せることになるのだが、ややこしくなるだけだから、基本の精神だけを押さえて、義務化に努めるべきだろう。

 勿論、基本の精神とは、繰返し言っているように大人たちの子どもに対する"個人としての尊重"を当たり前の態度とすることである。このことが子どもたちの大人たちに対する"個人としての尊重"を約束することになる。

   この"個人としての尊重"がイジメをしない、体罰をしない、貧富を問題としない、学校の成績や人種や身体等に優劣をつける存在上の差別をしない等々の規律に向かわせる。このことの実践から入って、各決め事の義務化に向かわせるべきだろう。なかなかの難事業だが、義務化への道を進むことができれば、「こども大綱」が掲げた「こどもまんなか社会」がおぼろげながらも姿形を取ることになる。

 ときとして親が自分の子どもに好き嫌いがあり、ましてや赤の他人である児童・生徒に教師は好き嫌いが生じるだろうが、好き嫌いはお互い様として、その好悪を抑えて、一個一個の存在として対等に扱う義務を親が自分の子どもに、教師は児童・生徒に負っている。このことを弁えて、"個人としての尊重"を自身の態度・姿勢の土台とすることができれば、子どもたちの様々な権利保障に繋がり、自律した存在として、あるいは自立した存在として社会に立つことが可能となっていくはずである。

 ところが尾木直樹は子どもの権利を口するものの、その内容は子どもの権利擁護を担う国の組織が掲げる方針と条例を含めた法律の効果に最後の最後まで便乗している。何のことはない、それらの代弁者の役割を自らに担わせているに過ぎない。国の方針や条例を含めた各法律が同じ繰り返しとなる文言を延々と続ける役目しか、あるいは効果しか見せていないにも関わらずである。

 こういった見事なまでの見当違いを発揮できる才能が"信頼に満ちた学校"を作りさえすれば、イジメは起きないと一度はぶち上げながら、ではそのような学校づくりはどうしたらできるのかは最後の最後まで口を閉ざしたままで講演を終えることのできる面の皮の厚さに繋がっているのだろう。

 ここからは教育評論家という姿は見えてこない。役人かケチ臭い地方政治家の姿しか見えてこない。結局のところいい顔を振り撒いただけの講演、八方美人を演じただけで終えている。

 だが、「尾木ママ、尾木ママ」と持て囃されている。NHKの朝ドラのセリフを借りると、「はてな?」である。

 以上で尾木直樹の「こども基本法制定記念シンポジウム」講演を取り上げた当方の批判を終える。この正当性の判断は読者が負う。

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尾木直樹こども基本法講演:可能か否かの答なく"信頼に満ちた学校"を作れば、イジメは起きないの恥知らず

2024-08-11 10:15:51 | 教育
 「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

1.イジメを含めた全活動が"可能性追求"だと自覚させる「可能性
 教育」
2.「厭なことやめて欲しい」で始まるロールプレイ
3.居場所づくりと主体性教育目的の一教科専門コース導入の中学
 校改革
4.主体性教育目的の図書館の蔵書を参考書とする1日1時限の「自
 習時間」の導入
学校は一定のルールを決めて学校内でのプロレスごっこを認める)

 「こども基本法制定記念シンポジウム」講演での尾木直樹の最初のテーマ、《問題山積の教育現場と子どもたちの実態》の後半部分から最初にイジメについての解説を取り上げてみる。解説していることは今までに著作やマスメディアに対して述べてきたことの繰り返しで何の新味もないし、冒頭、「こども基本法」について述べた「子どもと大人の新しい関係性の第一歩」に立っているとの示唆がイジメ問題にどう作用し、どういった効果が期待できるのかのどのような文言も見当たらない。大体が「子どもと大人の新しい関係性」とはどういうものか、その意味付けもなしに終えている。詐欺の疑いが早くも臭い立つ。

 尾木直樹は最初に、「深刻化するいじめ問題を取り立てて取り上げるのは子どもたちの命の危機を孕んでいるのはいじめ問題だけだからだ」と解説。コロナ禍で学校が休校になったことでイジメ認知件数は約9万件減少しているが、逆に自宅からでもできるタブレットやスマホを用いた「誹謗中傷、嫌がらせ、あるいはそれが原因で命を落としたんじゃないかといういじめ、そんな深刻な状況が過去最多を更新しているという問題」、その上「読売新聞などの調査」を用いて自治体を通して学校が児童・生徒に配ったタブレットがイジメに利用されている問題を挙げて、今日の講演者はタブレットをどういうふうに使うかのリテラシーを学校で教える必要性に触れているが、尾木直樹自身もその必要性は認めるが、「そこがポイントではないんです。そこんところは一定程度教えますが、今大事なのはそんなことに左右されない信頼に満ちた学習とか、学年とか、学級、学校づくりができるかという、あくまでも生活の場として安心・安全かどうかということが土台にしっかりと息づいていれば、こういうタブレットを生徒全員に配っても、何ら問題は起きないというふうに思います」と、要は学級、学年を含めた"信頼に満ちた学校"を作りさえすれば、イジメは起きないと当たり前の仮説を堂々と述べている。

 当然、そういった学校づくりは可能か不可能かの問題へと進み、尾木直樹自身は「可能」の答を出さなければならない。「可能」の答を出すことができずに"信頼に満ちた学校"を作りさえすれば、イジメは起きないなどといった仮説はいくら尾木直樹が恥知らずでも口にはできないだろう。

 現在のところ、多くの学校が信頼関係の構築を不可能としているから、イジメや暴力行為、暴走行為、窃盗、恐喝、不登校、ひきこもり、自傷行為、自殺等々の問題行動がなくならない状況にあるということであって、その状況とはやはり子どもを信頼して任せる"個人としての尊重"が教師と、あるいは両親と児童・生徒の両者関係に、あるいは児童・生徒同士の関係に機能していない状況を裏打ちしていることになる。

 となると、尾木直樹の言う「こども基本法」がその第一歩を秘めていると見ている「子どもと大人の新しい関係性」は子どもを信頼して任せる"個人としての尊重"に帰着すると思うが、前のブログで「こども基本法」の「基本理念 第3条」を別の形で取り上げているが、「第3条」は、〈こども施策は、次に掲げる事項を基本理念として行われなければならない。〉と規定、その1項で、〈全てのこどもについて、個人として尊重され、その基本的人権が保障されるとともに、差別的取扱いを受けることがないようにすること。〉と謳い、その他5項目の権利の保障を謳っているが、確かに"個人としての尊重"を最初に掲げてはいるものの、この"尊重"を他の権利保障の基本に据えるとの指示を出しているわけでも、最重要の実施項目として掲げているわけでもないし、勿論、尾木直樹がこの"尊重"に最重要課題として着目しているわけでもない。目を向けさえしていない。

 だが、このような"尊重"が前のブログで述べたように、〈法律がどのように子どもの権利を認めようとも、子どもが個人として尊重される扱いを受けない限り、その他の如何なる権利も認められることなく子どもを素通りしていくことになる。〉ことから、子どもの諸権利を保障する基本とすべきを自明の理としなければならないはずで、こういった関係性の上に"信頼に満ちた学校"づくりを想定していることになるが、イジメを起こさない"信頼に満ちた学校"づくりと言うだけで、なかなか手の内を明かさない。八方美人だけで持たせている有名人だから、当然の道理なのかもしれない。

 尾木直樹は"信頼に満ちた学校"作りを述べる一方で、「『いじめ対策推進法』の28条というのがありますけれども、2の1項1号に該当する重大事態というのはですね、514件、重大事態のうち児童生徒の心身とか財産とか、重大な被害が生じた疑いのある件数が239件。それからいじめにより単純に不登校になった子が347件」だと、イジメの深刻な状況を重大事態の発生件数で伝えているが、この物言いは"信頼に満ちた学校"となっていないことの間接証言であって、"作りさえすれば"の自身の物言いを後回しにする矛盾を犯していることに気づきさえしない。

 "信頼に満ちた学校"づくりの方法論を先に持ってきて、こうすれば従来の深刻なイジメは影を潜めることになるだろうと述べるべきことを述べない矛盾である。あるいはそのように述べることに自らの責任を置くべきを置かない矛盾した責任感のなさである。

 だが、尾木直樹は自身が犯している矛盾にも責任感のなさにもサラサラ気づかずに文科省のデータでイジメ自殺した子どもは「小学校1人、中学生5人、高校生6人で、12人亡くなっているが、これは全くの実態を反映していない」とか、学校教師が「いじめの定義」を厳格に解釈できていない、学校・教師のいじめ対応の過ち、お座なりな人権解釈によって子どもたちが不登校やいじめに追いやられているなどと、"信頼に満ちた学校"づくりができたなら、多くがそれ相応に収まりが期待できるかもしれないことをムダに延々と述べている。

 尾木直樹は自身の著作の一つでイジメの定義に非常な拘りを見せているが、イジメの定義がイジメを防止するわけではない。人間関係の衝突が発生してから、それがイジメに当たるかどうかを認定する物差しの役目を担うに過ぎない。にも関わらず、"信頼に満ちた学校"を作りさえすれば、イジメは起きないと言いながら、それをイジメ未然防止の解決方法とすべく実現の具体的な方法論を提示するわけでもなく、イジメかどうかの判断基準を示しているだけのイジメの定義に異常な拘りを見せている。

 「これはですね、詳しくお話すると、いじめの定義が行われたのは1985年なんですよ。1985年の文科省の定義はですね、いじめられる子がどういういじめを受けたなら、いじめかと、認定するのは学校だと明記されている。

 1985年の文科省の定義が未だに殆どの学校を支配しているんです。文科省は2006年にすっかり定義を変えているんです。発生主義ではなくて、認知主義、認知したら、それはいじめとカウントしましょうということで、だから、たくさん件数が出れば出る程、それは子どもに密着している証拠で、素敵なことなんだと、どんだけ言っても、進歩しないんですね。本当に不思議です。

 認知主義と我々言いますけども、定義が、これまでは主語が加害者が、85年の定義では主語が加害者だったんです。ここが2006年の定義では被害者が主語になったんです。だから、被害者が辛いなと思ったり、嫌な目線を送ったなあとね、そう思えばもういじめですよというので、取り組んでくださいとか、それは誤解だったら、誤解でいいわけですから、子どもたちの被害というかなあ、そちらの側に立ったんですねえ。

 ところがですね、現場では、これ社会的にもそうですけど、いじめられる方にも問題があるとかね、子どもはいじめを通して成長していくんだとか、こんなことを言う学校の先生がいたり、いるんですね」――

 イジメの定義が加害者が何をしたのか、加害者を主語とするのではなく、被害者が何をされたのか、被害者を主語とすることに変わって、認知件数が増えることになり、このことは「子どもに密着している証拠で、素敵なことなんだと、どんだけ言っても、進歩しない」と批判しているが、認知件数は被害件数であると同時に加害件数でもあるのだから、被害側児童・生徒にとっては「密着している証拠」とはなり得ても、加害側児童・生徒にとってはいわば"密着していない"からこそ起こり得るイジメ行為ということでもあり、そのこと自体は学校にとって誇り得る点は何もないことになって、尾木直樹が言っていることは一面的事実に基づいた「素敵なこと」という評価に過ぎないことになるにも関わらず、オメデタイと言うか、本人は何も気づいていない。
 
 また、この加害側児童・生徒にイジメ行為に走らせてしまう"密着していない"状況は"信頼に満ちた学校"とは縁遠い状況――教師と一部児童・生徒間の信頼関係の不在を示していることになるし、と同時に「こども基本法」が「基本理念」として掲げている"個人としての尊重"が不満足な実施状況にあることをも提示していて、こども基本法制定記念シンポジウムにパネリストとして登場し、「こども基本法」が「子どもと大人の新しい関係性の第一歩、スタート」を約束していると見る以上、「新しい関係性」の具体図を提示するのが何よりの先決問題だが、その点をなおざりにして、「新しい関係性」が実現できたなら縮小に向かうかもしれない可能性の高い数々の問題に、これまたムダな拘りを見せて、自らの矛盾に気づかないでいられる。

 その最たるムダな拘りの幾つかを紹介する。何年か前にイジメの加害者として決めつけることが冤罪を発生させるとする「加害者冤罪論」が「弁護士の先生の間で物凄く広がったことがある」とか、イジメでということなのだろう、「亡くなった子の事件がある」が、その地域で「加害者を守る会が発足」したとか、「地元の方ばっか入った(イジメ)第三者委員会なんか機能するわけはないのに、平気でやっておられる」とか、さらに1989年11月20日第44回国連総会採択、1990年発効の「子どもの権利条約」(児童の権利に関する条約)は国連採択から「5年後に署名、158番目の締約国になった」とその遅れと4回に亘って勧告を受けていることを批判的口調を滲ませて解説している。

 「で、僕、この子どもの権利条約のこと、おっかけていたんですけども、何回勧告を貰っても、殆どメディアも、それから政府も、一番罪深いのはメディアだと思っています。メディアが報じないから、一般社会、市民のところ、まして子どもたちに伝わらないです。で、ほぼ無視してきた28年間なんです。

 だから、ホント、僕は子どもたちに『ゴメンね』と大人を代表してお詫びしたいような気持ちです。ホントーによくぞ28年間、あのー、バカにしてきたなあというふうに思います。ですから、もう子どもの、子どもの権利条約に対する理解が進まない理由をちょっと掘り下げてみるとですね、子どもに権利なんて教えたら、権利ばかり主張して、義務を果たさなくなる、あるいは我儘な子どもが育つとか、親や教師の言うことを聞かなくなるといった親の誤った子ども観とか無理解とか、根底にあるんじゃないかと」――

 全てが尾木直樹自身が感じ取っている事実を表面的に羅列しただけで、それ以上を出ない。大体が学校で子どもの権利を教えたとしても、大人に位置する教師がその権利を子どもがよりよい形で行使できる人間関係を児童・生徒との間に構築していなければ、教えただけで終わり、教えなかったことと結果は変わらないし、大体が子どもの権利条約を教える教えないは要点ではない。

 なぜなら、繰り返し言うことになるが、教師自身が子どもを一個の人格を有した個人と看做してその意志を尊重し、何をするについてもその意志に任せる"個人としての尊重"を示す姿勢から始めることを求められているはずで、次のことは既に触れているが、1947年(昭和22年)5月3日施行の日本国憲法が「第3章国民の権利及び義務 第13条 すべて国民は、個人として尊重される」と規定していながら、学校社会では子どもたちの多くが"個人としての尊重"から排除されていて、子どもの価値観を抑圧、学校教師の、あるいは大人の価値観を強制する権威主義が横行している。

 いわば日本国憲法が権利規定として取り上げている、諸権利の出発点とすべき肝心の"個人としての尊重"が多くの子どもに対して単なるスローガン化していて、大人たちは義務化を忘却、結果、「子どもの権利条約」の「第12条」で、〈1 締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。〉と定めていることの、〈自由に自己の意見を表明する権利〉とは"個人としての尊重"を受けた状況下で可能となる主体的権利であって(個人として尊重されていなければ、どのような権利を主張しても相手にされない)、その権利が〈自己の意見を形成する能力のある児童〉に限定されてはいるが、自己の意見を形成する年齢に達していないがために、あるいは自己の意見を形成する訓練を受けていないがために自己の意見を満足に形成できなくても、大人が子どもという存在をそれぞれに"個人として尊重"していたなら、どのような意見であっても、汲み取ろうとする姿勢を向けることになる。それが、〈児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。〉に相当する扱いであって、このような扱いも大人と児童間の信頼構築の礎となり、相互の信頼が児童側の責任感や自主性、主体性あるそれぞれの姿勢を育んでいくことになる。

 にも関わらず、1947年(昭和22年)5月施行の日本国憲法から1994年5月22日発効の「子どもの権利条約」を通って、2023年4月1日施行の「こども基本法」まで"個人としての尊重"をそのままの語句によるか、あるいは間接的な物言いで繰り返し謳わなければならないのはこのことが満足に機能してこなかったことの証明としかならない。

 こういったことをこそ問題とすることができずに子どもの権利条約について「メディアが報じないから、一般社会市民のところ、まして子どもたちに伝わらないです」などと条約そのものについて、"伝わる・伝わらない"の問題に矮小化している。

 "個人としての尊重"を子どもに対して実践すべき必要性に気づかなければ、必要性に気づいていないからこそ、「ブラック校則」やイジメや体罰を延々と存在させているのだから、子どもの権利条約が子どもの権利をどう謳っていようとも、スローガンの域を出ないことになって、単にスローガンとして教え、児童・生徒もスローガンとして受け止めるだけで終える可能性が高いことに気づくべきだろう。

 前のブログで既に触れていることの繰り返しになるが、"子どもを信頼して何事も任せる個人としての尊重"の実践こそが法律が子どもに付与すべきと義務付けている諸権利を保障可能な状況に導く出発点となるという点に常に留意していたなら、「子どもの権利条約」にしても前々から言われていることの反復に過ぎないのだから、お浚いする程度に読めば済むはずである。

 子どもを"個人として尊重"できなければ、何も始まらない。子どもでなくても、大人であっても、一個の人格を有した個人として尊重されない間は権利ある主体として扱われることはない。尾木直樹はこの肝心な点に目を向けることができずに表面に現れている事実のみに目を向けて、子どもに権利について教えてこなかっただ何だと騒いでいる。

 「ブラック校則」やイジメや体罰は児童・生徒が"個人として尊重"されず、それぞれの権利を認められていないことからの教師間との信頼関係の不成立(意思疎通の困難性、あるいは断絶)を発生要因と見て、"個人としての尊重"を第一番に持ってこなければ、「いじめ防止対策推進法」を持ち出そうと、「こども基本法」を持ち出そうと、「子どもの権利条約」を持ち出そうと、子どもの権利状況は改善に向かうことはない。何十年もの間、改善しなかったことは以上のことに原因があるはずだ。

 要は大人が子どもを権利の主体として扱うことができるかどうかは、あるいは子どもの如何なる権利の保障も、子どもを一個の人格を有した"個人として尊重"できているかどうかが決め手となるということであって、「子どもの権利条約」に照らして子どもの権利状況の不備から国連から勧告を受けながら、マスコミが満足に報道しなかった、だから一般社会にも子どもたちにも伝わらない、大人を代表して子どもに「ゴメンね」とお詫びしたい気持ちだとさも子どもの味方であるかのように見せかけているが、八方美人の性格から出た綺麗事でしかない単なるポーズであって、「ゴメンね」で済むはずはなく、見当違いも甚だしい。

 例えば日本政府は「子どもの権利条約」に関して国連から女子高生サービス(JKビジネス)を含めた子どもの買春問題等で勧告を受けているとネットには出ているが、学校で常々教師から"個人として尊重"されていたなら、あるいは意見や考えを述べることと述べた意見や考えをそれ相応に"尊重"されていたなら、その信頼に対して学校価値観に反する行動に無考えに走ることになるだろうか。

 絶対走らないとは断言はできないかもしれないが、極力抑えることにはなるだろう。例えばJKビジネスが法の目を潜って行われる大人側の手っ取り早い儲け商売となっていて、それに便乗して小遣い稼ぎに走り、化粧品や洋服を買い求めてオシャレをしたりを日々の刺激的なエネルギーの発散とする、あるいはそれを個人的に行って同じく稼いだカネを小遣いにして日々の刺激的なエネルギーの発散とするのは学校で"個人として尊重"されていないことからの自身の必要性を、いわば自身の存在価値を安易に作り出してしまう現象でもあるだろうから、まずは学校社会内で"個人として尊重"することから始めて児童・生徒それぞれの必要性、存在価値を築いていく手助けをして、それ相当のエネルギーの発散へと導くべきだろう。

 ところが尾木直樹は肝心な点には目を向けることができずに、「子どもに権利なんて教えたら、権利ばかり主張して、義務を果たさなくなる、あるいは我儘な子どもが育つとか、親や教師の言うことを聞かなくなるといった親の誤った子ども観とか無理解とか、根底にある」とかないとか肝心ではないことに尤もらしげに拘る。

 繰り返し言うことになるが、子どもを"個人として尊重する"ことで育まれる相互の信頼が子どもに責任感や主体性、自主性を身に付けていく流れを取ることは十分に期待できるのだから、「子どもに権利なんて教えたら、権利ばかり主張して、義務を果たさなくなる」などといった見当違いそのものの世間の一部の取り沙汰を、見当違いだと一蹴することもできずに仰々しく取り上げる尾木直樹の常識は決して正常とは言い難い。

 尾木直樹はここでどのような理由があってのことか理解に苦しむが、自身が教師を辞めたことと子ども権利条約発効との関連、条約に関わる文科省事務次官通達、子ども権利条約の学校現場に於ける知名度、その他を細切れに紹介している。

 「僕が(現場を)辞めたのは子ども権利条約、この問題で辞めざるを得なくなったんですよ。NHKの番組で特別に子ども権利条約発効のされた番組を作るわけですよね。(番組が)流れているんだけど、体罰が行われていたり、この問題で現場にいられなくなりましたね」――

 要するに子ども権利条約発効を受けてNHKで番組が制作され、出演して「体罰は子どもの権利の侵害に当たる」とか何とか発言したものの、自身が勤めている学校で体罰が行われていて、足元の世界で体罰をやめさせることができないのに体罰はいけないとか何とか発言するのは矛盾しているのではないのかといった批判を受けたか、悩んだかして、体裁が悪くなって辞めざるを得なくなったと言えばまだしも聞こえはいいが、体罰の現場から逃げたということではないかと疑いたくなった。

 この予測が当たっているかどうか、ネットを検索してみた。

 《話の肖像画 教育評論家・尾木直樹(4)狭心症で退職、研究所を立ち上げる》(産経ニュース/2014/10/9 07:20)

 尾木直樹の談話である。〈最後に勤めていた学校でも体罰が横行していました。当時、「子どもの権利条約」が批准されて、私も子供たちのためのテレビ番組に出演したり、講演会で話したりしていました。その学校には私のファンという先生がいるのに体罰をする。

 ある日、学校に行ったらクラスにいるサッカー部の生徒4人が丸刈りになっていたんです。事情を聴いたら、練習試合で小学生に負けたので、顧問が「恥を知れ」と強制したらしいのです。しかも生徒はニコニコしながら話す。保護者からクレームがあれば「先生、保護者が怒っているから考えようよ」とか言えるんですが、それもない。外では「体罰は駄目だ」と言っておいて、自分の学校では横行している。その矛盾に耐えられなくなって心因性の狭心症になってしまいました。〉―― 

 「最後に勤めていた学校でも」と断って体罰の横行を伝えている以上、勤めていたほかの学校でも体罰が行われていた。尾木直樹は普段は体罰は非人権行為・非人間行為と厳しく批判していて、マスメディアを通してそのような発信を盛んに行っているが、教師時代は体罰禁止の影響力は必ずしも持ち得ていなかったことを示すことになる。

 自分が最後に勤めた学校で丸刈りを強制する体罰が行われた。普通、自分の学校にマスメディアや世間に珍重される教育思想を抱える著名な教師がいれば、結束してその教師の思想を体現しようと努力するものだが、その影響力は日常的に平穏無事な間だけで、想定外の突発事態が発生すれば、脆くも崩れてしまう程度の影響力に過ぎなかったということなのだろう。

 但しサッカーの練習試合で小学生チームに負けたからと丸刈りにする体罰よりも、その体罰に対する尾木直樹自身の対応の方が遥かに悪質である。体罰の形は物理的には丸刈りだが、精神的な意味合いに於いては顧問の意志の強制に生徒自身が自らの意志を無条件に従属させたもので、この無条件な従属は生徒が主体性や自律心のカケラさえも備えていない下位者の権威主義性によって可能となる。

 カケラさえも備えていない、その従属性の強さによって強制的に丸刈りにされても、ニコニコとして一種の勲章とすることができる。いわば丸刈りにされたことに得意になることができた。主体性や自律心をカケラ程度でも備えていたなら、サッカーの練習試合で小学生チームに負けた上に丸刈りにされたのである、顧問の強制に異を唱えることができなければ、二重の悔しい思いをするはずで、ニコニコなどとてもできなかったろう。

 だが、尾木直樹は生徒の主体性や自律心の欠如に気づきもせず、当然、問題にすることもなかった。

 また体罰を行った顧問に対する注意は「保護者からクレーム」があるなしに関係せずに行うべきもので、それとも尾木直樹は学校内で教師の体罰を目撃した場合、「保護者からクレーム」を待ち、「クレーム」がなければ、体罰扱いから外すことを規準にしていたのだろうか。であるなら、児童・生徒が教師の体罰を保護者に訴えない限り、あるいは他の教師の目に触れもしなければ、体罰は暗々裏に大手を振って行われることになる。

 要するに尾木直樹はテレビでは偉そうな口を叩いているが、体罰を行った顧問に直接注意できない言い訳に「保護者からクレーム」のあるなしを持ち出したに過ぎない。尾木直樹にとって狭心症になったことは教師を辞める理由になって、役立ったに違いない。何も言わず、何も戦わなかったが、狭心症に助けられた。

 それでも著名な教育評論家としてやっていけるのは尾木直樹が抱えている八方美人の性格が助けとなっているからだろう。

 尾木直樹は体罰問題を次のテーマでも解説しているから、その際にこの問題を再度取り上げてみる。

 尾木直樹は以上話してきたことに時間を取られて最後は端折ることになったのか、とりとめもない解説となっていて、意味を明確に取ることができない。

 「事務次官の通達により、こういうふうに言われている。『本条約の発効により教育関係について特に法令等の改正の必要はない』。こう言ったんですね。で、学校に於いて児童生徒に権利及び義務を正しく理解させることは極めて重要だというので誤った権利と義務の撤去論というのが通知をされた。

 これは撤回は難しいから、融和的な新しい通知を出して頂かないと困りますという話なんです。それから致命的なのは子どもの権利条約第44条には条約報告義務というのが明記されている。これは日本の学校では子どもの権利条約について教えてこなかったので、これは明らかに条約違反です。

 その結果、子どもはイジメや虐待といった様々な人権侵害とか貧困や差別などの困難な中にいても声を何も上げることができず、何も変わらないと諦めざるを得ない、こういう生き辛さを感じているんじゃないかと」――

 前半部分は意味不明だが、後半部分は「子どもの権利条約第44条には条約報告義務」があるものの、学校で教えていないから、児童・生徒は自分たちの権利状況を訴えることができない。いわば「声を何も上げることができず、何も変わらないと諦めざるを得ない」ということであって、このような手続きを経ない報告に正当性はなく、条約違反だとしているだろう。

 だが、訴えることができたとしても、教師や保護者が児童・生徒に対して"個人としての尊重"を基本的姿勢とすることができなければ、国連からの是正勧告、日本政府の是正に務めますの繰り返しで推移するのは
目に見えている。

 その理由は子どもの権利擁護が一向に改善を見ないからこそ、条文の多くが重なる「こども基本法」を新たに設ける必要性が出たのであり、この必要性自体が条文のスローガン化を証明、この証明が是正に対する繰り返しの推移を予見させることになるからである。

 当然、基本のところではやはり子どもの権利は児童・生徒一人ひとりが"個人として尊重されている"か否か、"子どもを信頼して任せる個人としての尊重"に掛かっているはずで、そのこと自体が肝要なことであり、教えてこなかっただ、条約違反だはやはり見当違いの大上段の構えに過ぎないだろう。

 例えば「子どもの権利条約 第28条 2」は、「締約国は、学校の規律が児童の人間の尊厳に適合する方法で及びこの条約に従って運用されることを確保するためのすべての適当な措置をとる」と規定しているが、国は「学校教育法」で体罰を禁止し、「いじめ防止対策推進法」でイジメを禁止し、いわば「児童の人間の尊厳に適合する方法」、あるいは措置を採っている。だが、体罰もイジメもなくならない。ごくごく直接的には国が関係している問題ではなく、学校現場や家庭現場が関係している問題、教師、あるいは保護者といった大人による法律の義務化の問題、あるいは法律が規定している子供の人権をどう考えるかに帰着する。

 また学校が「子どもの権利条約」に対応させて「児童の人間の尊厳に適合する」規律を文言を駆使してそれ相応の体裁を整えて採用したとしても、教師一人ひとりが児童・生徒一人ひとりに対して"個人として尊重する"態度・姿勢を取りうるかどうかで体罰やイジメの回避を可能とする信頼関係の構築が決まってくるのだから、条約を学校で教える教えないや規則で律するといったことは本質的問題とは言えない。

 だが、尾木直樹は本質的問題だと決め込んで、事務次官通達が何だかんだ、条約違反だ何だかんだと騒いでいる。当然、次の指摘も本質的問題とは言えない。

 「それからですね、困ったことに子ども権利条約について現職の教員の約3割が全く知らないと言っている。それから名前だけ知っている、約4人に1人。子どもは義務や責任を果たすことで権利を行使することができる。今度の遠足で違反がなければ、秋の運動会は自分たちで進めていいとかね、こんなのとんでもない間違いです。

 権利があって初めて義務が出てくるのであって、これは発達論から言って間違ってるんですね。これ、平気で言うんですね。大学の教育課程でセンター長をやってるんだけども、子ども権利条約は教えることになっていません。教育課程の一定の科目にもなっていないと」――

 尾木直樹は「子どもは義務や責任を果たすことで権利を行使することができる」は発達論から言って間違いで、「権利があって初めて義務が出てくる」と高らかに宣言しているが、ニワトリが先か卵が先かといった問題ではなく、権利と義務は一対の関係にある、あるいはコインの裏表の関係にあると見るべきで、権利を主張した場合、主張した権利に相当する義務が付随し、義務を果たす場合、果たした義務に相当する権利が生じる、そういう関係にあるはずである。

 つまり権利を主張する際は権利に付随する義務を念頭に置き、義務を果たす際は義務によって生じる権利
の正当・有効な利用を念頭に置く。後者の場合、国民は納税の義務があるが、納税したカネが正しく使われているかどうか、国家権力及び地方権力を監視し、物申す権利が生じる。

 どうも尾木直樹は自分は子どもの味方だと振る舞ってはいるが、味方を気取っているだけのことで、味方でも何でもない。

 以上、2回に亘って最初のテーマ、《問題山積の教育現場と子どもたちの実態》を見てきた。尾木直樹が扱う教育現場にしても、子どもたちの実態にしても、表面的に掬い取って、表面的な解釈で終える新味は何もない解説となっていた。「こども基本法」がその効果を備えていると確実視していた、いわばびっくりするような「子どもと大人の新しい関係性」とはどのような内容のものなのかについても、どう作るのかについても、"信頼に満ちた学校"づくりについても、最初に持ってくるべき課題のはずだし、最初のテーマに一区切りがつくにも関わらず、期待を振りまくだけで、ここまでは一切語らずじまいで片付けている。

 こんな男が「大学の教育課程でセンター長をやってる」、と言うよりも、やっていられる。適材適所と思う人間が多数占めているからだろう。

 次回は次のテーマ、《「こども家庭庁」に期待すること―子どものことは子どもに聴こう! 》に移るが、子どもと大人の新しい関係性を、さらには"信頼に満ちた学校"づくりをどう決着づけるのか、おいおい眺めていくことにするが、当方は尾木直樹の講演発言を既に最後まで読み通しているから、いわば体の良いハッタリで終えることを予め伝えておく。
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Kindle電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」発行案内

2024-05-19 13:51:50 | 教育
 「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

1.イジメを含めた全活動が"可能性追求"だと自覚させる「可能性教育」
2.「厭なことやめて欲しい」で始まるロールプレイ
3. 居場所づくりと主体性教育目的の一教科専門コース導入の中学校改革
4.主体性教育目的の図書館の蔵書を参考書とする1日1時限の「自習時間」の導入
(学校は一定のルールを決めて学校内でのプロレスごっこを認める)  

 目次例

  1.〈「可能性教育」〉
   「可能性」とは何か
   イジメも自身の可能性追求の活動である
   イジメ判定は相互補完性に基づいた可能性の追求となってい
   るかを問う
   プロレスごっこが相互に愉しみ合う遊びになっていなけれ
   ば、イジメとなる
   友情をキーワードとしてイジメているとは思わないイジメの
   横行の抑制
   学校は一定のルールを決めて学校内でのプロレスごっこを認
   める
   全ての活動に自覚性を持たせる自己省察の習慣付け
   自己省察から他者省察へ
   可能性の追求自体が自身の居場所となる
   問い掛けの参考例

  2.〈厭なことは「やめて欲しい」から入る、言葉の訓練ともな
   るロールプレイ〉
   ロールプレイの目的
   ロールプレイのルール
   わざと靴の踵を踏むイジメ
   プロレスごっこ
   集団無視のイジメ
   部活動での仲間外れ
   言葉の暴力
   特徴を笑いの対象とするイジメ
   裸の写真を撮られ、lineグループに流される
   貧乏を笑い、イジメの対象とする
   集団暴力によるイジメ
   集団暴力と金銭恐喝のイジメ   
   カネ持ちの家の子に遊興費を支払わせるイジメ

  3.〈居場所づくりと主体性教育目的の一教科専門コース導入の中
   学校改革〉
   児童・生徒の居場所と問題行動の関係
   一般コースと一教科専門コースの中学校改革
 
  4.〈主体性教育目的の図書館の蔵書を参考書とする1日1時限の
   「自習時間」の導入〉
   目的
   レポートの提出と担任の役目

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