花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

民放でのスペシャルな料理

2019-01-27 06:38:10 | Weblog
びっくりしました。

民放で、スペシャルなお料理が紹介されて

タレントが、そのお料理を

畏れ多いことながら

お茶の間の私たちの前で

おいしそうに、表用もイナセントに

ほっぺたが

落っこちそうになりながらの、、、御顔でいただけるなんて、、

あまりのおいしさに、「いつ死んでもよい~~~!」と

感激で、本音だったような?演技?

いずれにしても、茶の間には味は伝わりませんが

豪華というよりは、世界の珍品のような高価な材料を

ふんだんに使って、味の合奏曲のような

TVの画面からは、、、今回ばかりは

耳で聴くような、味のイメージを

想像して、曲を聴くように画面を観ていました。

エリザベス女王様が

日本をご訪問されたときの、御美しさも

素晴らしい曲のようでした、

こうした両殿下の外交を

側面から、音楽のように支えているお方の

にこやかな中にも、本当の師匠のお顔が

国民に紹介されて、今更ながら

一時代を支えた方々のオーラーというものを

お茶の間に居て感じました。

平成の時代に国民とともにいらっやた皇室の事が

感謝で、多くの立ち上がる力をいただきました、



両殿下が、国民とともに生きてくださった偉大さを感じました。

昭和天皇陛下と、

平成の両殿下のなさった外交が

戦後の日本の復活の

大きなご公務であったと思いました、

普通の人が、

晩さん会で、

あのような

やんごとない雰囲気で

素晴らしい食事を目にしたら、

空気にさざ波を立ててしまうでしょうね。


外交に、日本の国民も全力で臨んでいたと、

感じることが出来たのは、

「女王様のお好きなものを、、、あらかじめ、、、知っておいた!」

そして、、、

「お肉は鳥をご用意されたという事、、、」

おもてなしの心が伝わってきました。

おもてなしとは、、、国民とともに全力でするものだと知りました。



又、儀式に使う建物の構築と分解は

伊勢神宮の20年ごとの遷宮のように

日本の宮大工や、

日本の千年来の文化のある建造物の保存技術が

儀式の為だけに使われている金銭ではないことも

伝わってきました。

料理を作る技術の保存、

特殊な建物をつくれる腕前そのものの保存は

その腕を持つ職人さんたちが日本に居るという

誇りでもあり、、、多くの観光客が来日する中に

外国のしかるべき大学などの研究者が

日本の歴史的に保存されてきた宮大工の建築に

ため息を漏らしているという実力はYVの画面にもしばしばみられるが

一朝一夕にはできないし、

観光客の中に交じっている外国の建築課などに

多大な影響と啓蒙する哲学の次元の

日本独特の空気を感じさせているようですね!

使われる金額の意味するものは、

伝承と保存、若き時代への技術の現場の解体による指導は

ビデオや見たままでは伝えられない現場実習を兼ねると

私は考えた。

生け花で枝を曲げてゆくとき

ヴィデオ授業では単に曲げてゆくように見えるが、

実際は、手元でねじるように力を入れながら、枝を曲げてゆく。

生け花用語では「枝をためる」という人もいる。

ねじるように力を入れるところは画面には映せない。

きっと、出来上がった者を解体するときは

医学部の「解剖学のように魂の教えがあるはずだと、、、」

私は信じる。

息子が学部の一年生の解剖学の授業が月単位で続いたとき

私は、息子の隣の部屋に、解剖学の授業が終わるまで

月をまたいで泊りに行った。

早朝から、夜まで人体解剖と、その日のレポートを

まるで図鑑のように整理して

夜になってくたくたに疲れて帰る息子に

食事をつくりながら、

実に、、、食事をしながら

解剖学の為の献体をしてくださった女性の声が聞こえるようだと、、、
「しっかり、私の体で、学びなさい、無駄にしないようにね!」

時には優しく、時には厳しく、声が聞こえるようだというのです、

名前も、身分も、此処に献体された理由も

授業が完了するまでは言ってはくれませんが、

僕は、、、その方の為に「まるまるさん」とママ絵をつけて

教室に入ると
「○○さんおはようございます。今日も、よろしく教えてください。」と

深々と頭を下げて、感謝して、授業を受けているんだ、、、」とつぶやいた。

解剖学の終わったときだったと記憶しているが、

学校側から、ご献体により、授業を身をもってしてくださった方の
名前が発表されました、

その時の名前が、息子が、毎朝呼んでいた名前☜同じだったことに

科学を超えた世界があることに、びっくりを超えて、

神妙になったことを覚えています。

日本は島国で、鎖国が有ったし、孤立したそんらくも多い。

狭い国土で、日本人の血は、優性遺伝が繰り返されたと仮定すれば、

動物的な感覚で、空気と話せる瞬間があっても不思議ではありません。

島国で、太古からの歴史を紐解くと、

韓国も中国も日本人の中にしっかりと存在しているから、

本来なら、親戚づきあいしているほど、

理解できているといいのにと、、、思いませんか?

日本の文化が、古くは中国や韓国から来ていることは

旅をすれば、肌で感じるところです。

唐招提寺は西安を旅したとき

そっくりな建物が

塀の上にありました。

貴重な大陸からの歴史のある建造物が

解体によって、釘を使わないで木組みしてゆく柱の木材や

カットの切片を直に手で触れて、

木目の走り方や、摩擦のある面や、無い面の木目の走り方まで

手で触れられるわけですから

解体は、建造して行く技術の基本のすべてを視れる貴重な

短期間の集中授業だと、茶の間のレベルでは

かかる金額から、ロンダリングしてゆくミクロの技術の先端まで

想像しながら、聞いていました。

演説の上手さが、一人の絵描きを独裁者にしてゆく破壊の道もあれば

無口な宮大工さんたちが、黙々と、歴史を守ってきた文化もある。

口先で、お茶も名を支配するTVのキャスターの中では
私は、、、あのタカラジェンヌの美人さんが素敵だと思います。

結構、、、おっしゃるときは言う女性ですが

考えていることが、私的感情がほとんどなくて、

さすが、、、宝塚で鍛えられた美しさはレベルが高いと思って

表情や自然体のおしゃれの中でも、垢ぬけた品があるので

TVを目で楽しみながら、聞いています、

もう一つの、面長の男性の番組は、、、

いろいろな出来事を、言いたい放題で、、、

あまり影響されないで

なるほどね~~~そういう見方もあるんだな~、、、ぐらいに

半信半疑で観ています。

丸顔の男性の番組は

スタンダードな取材で、スタンダードな見解で

一応、そうなんだ、、、?と

多少は影響を受けています。

、、、、、なんの話をしているのか?

自分で自分がわからない、、、眠くなってきました。


話をやんごとなき次元の伝承に戻したいと思いますが、

技術取得の次の世代への伝承は

日本が日本である、

他国の真似のできない文化が今もあるという事が

国民とともに、

富士山のように、

費用は裾野や

さらに地面の土台にまでロンダリングされて

若き後継者が、

国民の目の届かない儀式の中で

伝承されていたことが想像されました。


*****************************

NHKに「美の壺」という番組があって

したたかに面白いのですが、、、

一般には人気があるのかどうかはわかりませんが、

こうしたジャンルの努力を続けている人たちが

スマホで、指先で生きる時代にも

確実に、精神と、肉体と、心と、伝統技を

修行と等しい次元で維持し続けている日本の技には

どこかから、

費用を回してゆかねば

保存することは、

今後難しい時代が来ると思いませんか?

私は、、、

良い時代に生きてゆくことが出来ました。


人間が人間である地球上で

昭和陛下は「あら人神」でいらっした。


黒船が現れ、

日本がパニックにならずに、

一握りの冷静な人間が

鎖国から武士の時代が日本だと信じて

世界を見れない生きる場所のない人を

武士の誇りとともに

西郷さんが、

苦しみの終わる世界に

笛を吹きながら、連れて行った、、、

歴史が

平成の大河ドラマの鈴木さんだったね。

あの俳優さんは、垢ぬけた西郷さんを演じましたよね。

本当の西郷さんは、どんなおひとだったのでしょうかね?


そして明治陛下の時代になり、

日本が生き残るための

守るも攻めるも、、、

世界の戦争の渦の中に巻き込まれていった。

大正時代は、

世界の大きさと、脅威を理解できる

外国との国交が多くなり

日本が国を守るためには

イギリスの植民地政策の

植民地にならないで済むような

強い国にならねば、、、

鎖国の300年間で築き上げた

世界のどこもまねのできない文化の伝承が

世界から消えてしまう損害は

日本の一国の損害だけでは済まない影響が

ヨーロッパ全体にも広がっていた。

ガラス芸術のあの模様は日本がオリジナルであったり

セレブがヨーロッパで買ってくる白磁の瀬戸物人形は

日本の江戸時代の焼き物が影響したことは

確かなことですよね。

私は、母から

「バイ二ング婦人」の果たされた

大きな国交と

皇室に果たされた役割を

ため息交じりに

「素晴らしい女性」と

聴きながら育った時代に生まれています。


クラシック音楽の音符のない時代に

生まれた母ですが、

近衛さんの音楽活動や、

アメリカに行っていた父から

ドイツ製のピアノを買ってもらい

国立音楽大学の一期生として

クラシックの世界に進学しました。

テェックの模様のハンチングに似た帽子をかぶり

テニスに夢中の母の

黄ばんだ写真は、弟が、大切にしています。

母は、新しい文化の先端をキャッチして

感性で生きるモダンなところがありました。

山本直純さんのお母様になった女性と

同室親友でした。

大学祭で、二人の女性は髷を結って共演している写真が

懐かしく残っています。

晩年、大きいことは良いことだ!!!、、、と

コマシャルデ人気者だった直純さんの番組に

母は一般からのゲストで出演していたことが

懐かしい思い出です。

北海道に嫁いでからは、里帰りはほとんどできなかった時代でした。

飛行機の往復が、10万円近い交通費の時代でした。

柳生さんの番組にも、母は出演していました。

50歳近くまで大学や、関連病院のアルバイトだった主人は

金銭的にも、時間的にも、

育った戦後の生活ぶりにも

貧乏な時代の、心のブラックホールを抱えて、

生き抜くための頑張りで、

ビジョンをもって人生を生きるという

根っこにアイデンチティは無くて、

大学の都合のままに

言われたポジションに全力投球をするという

マカロニウエスタンのような、

ひたすら忙しく、手術と闘っている

死ぬか生きる科の毎日しか考えていない

家庭の周りの見えない塀の向こう側で

週末だけ帰ってきていました。

その点、、、芸術を志した母は

自分で書いたシナリオを、歩こうとする

自分のある女性でした。

我がままというのではありませんが、

誰も、母の生き方に干渉することはできませんでした。」

そのくせ、、、娘が自分の意見を持つことを嫌いました。

自分好みの、お人形のような、女性らしい

自分のアクセサリーになるような娘を

演出してゆく監督のような母でした。


母は鎖国でとり残された世界からの国交を

音楽で、

国境を越えた文化交流が出来ると思ったそうです。


日本は徳川時代に

武士の時代が、300年間の鎖国という特殊な文化を創った。

文化面や、芸術面でも独自の表現が産まれた時代ですよね。

世界との共存共栄の文化から大きく孤立していた。


しかし、皇室が存続していたことは

日本という国に文化が伝来した遣唐使からの、、、

さらに、、、その昔からの文化や芸術が保存継承されてきていた。

いつの世にも天皇陛下は時代とともにいらっしゃった、

嵯峨天皇様と、弘法大師の並んだ肖像画を

京都のお寺で拝観できた時は

時代は文化交流しながら、多方面の影響を受けながら

伝承されてゆくことに

思いが活き

歴史の本が好きになり、

合わせて、、、三国志や、中国や、シルクロードに

そしてジンギスカンの時代にまで

興味が湧いてくるのでした。

世界が向こうから近づいてくるのは止められません。

維新という時代の変遷に

国民が散切り頭になって、

明治について行けたのも

人が創った徳川300年の鎖国という島から

陛下の長きにわたる歴史とともにあり続けた皇室だから

あたらしい世の中に代われたと、歴史が語っています。

つまり、、、、見えない、、、姿のない支配者が

世界の中に、日本を同化させてはならないという

独特の価値を見出してくれたのではないだろうか?

モーゼの十戒が、容を変えた坊さんや神様になって

日本は未意識に守っていた国ではなかたのだろうか?

世界は皇室の在り方を、

見たことも無い紳士のように

神々しいほどの、植民地にしてはならない本質の品の輝きに

独自の継承を認めていたのではなかったのかと?

茶の間の

75歳のおばあちゃんは、

世間も、世界も、世論も無関係な

貝の中の世界の居間で

自分の世界の歴史を創ってしまっています。


しかし、、、現実は、、、眼が点になりました。

世界の情勢に引きずられていた時代の最後に

世界のリーダーは「原子爆弾を使いました。」


「人間は人間でない、、、元素であると、、、言わんばかりの破壊だった。」


戦争はなぜ起きたのかもわからない、、、

理解できない私ですが、、、

人間も動物も、

原子爆弾で元素に変えてはルール違反だとおもいませんか?

私も、若者も、孫子も、

原子爆弾を使う権利は存在しないと思います。

神の領域の事だというのなら、

神は、、、私は人間であるという方を正義とするだろう。


原子爆弾には神も仏もありません。

「耐えがたきを耐え、、、忍び難きを忍び、、、」

終戦の宣言をされた昭和天皇

日本国民が皆、地面にひれ伏し、泣きました。

武士道が300年も続いた日本は

命の限り、

勝負を投げ出すことのない教育で育ってきました、


原子爆弾は、勝負のルールになりません。


作戦や、武器の工夫や、

肉体の訓練や、

国を守る若者の意識も、

無関係な次元で、

キノコ雲に飲み込ませてしまう、、、

敗戦とは言えない終戦は、

世界中の終戦宣言に、、、成るはずの出来事でした。

北方領土の永遠の問題点だと思うのです。

ソビエト連邦が変身してしまいました。

世界大戦の終戦間際に

勝敗がつかない原子爆弾というタブーを使ったことは

あの戦争には勝敗の次元を超えた

神様の、、、神様というしか表現できない

人知を超えた、平和のための戒めが必要な出来事でした。

戦いの終わりのキノコ雲が、悪魔のように思えました。

キノコ雲の時代が来てはいけないのです。

日本は、神の国でした。

原子爆弾が神の領域にもない

「地獄の化け物であることは確かです。

一瞬にして「破壊分解」、、、こんなことを

みずみずしく美しく芳醇な地球から追い出さないと

女性は子供をどこで育てればいいのですか?

あら人神の時代から、

原子爆弾の現れた昭和時代には

昭和天皇陛下は、

御簾の内側から国民の中に来られました。

「人間宣言をなさり、国民とともに、歴史を保存されました、」

世界の産業革命の巨人の襲来

はやりのゲーム漫画の世界のように

塀の中の安全区域だと思っていた鎖国の時代、、、。

産業革命と黒船と、植民地の時代に

チャーチル、、、ムソリーニ、

スターリン、、、、最も眼が点になったドイツの独裁者の時代。

戦争は避けられなかった時代の移り変わり、

身分や人種差別や、イデオロギーが

哲学を踏んづけて通過してゆく時代に、

人々は学んでいった。

無学は怖い。

貧乏な心が怖い。

支配しようとする独裁のここrが怖い。

平和とは、、、地球丸ごとを尊重して、地球を壊さないところから

スタートラインは、そこからだと、、、

公害に思い知っただろう。

**********************************

現実の今日。

VM21を使って、医療機械の世界の薬剤管理をしていた時代

血液製剤や医療機械の日進月歩の発展が

日本の開業医を医療機械の面でも

置き去りにしてゆき、

大病院時代に突入していった、

医局は山崎豊子や、大門に良いだけ揶揄されながらも

医師でなければ理解できない部分を頑固なまでに

かたくなに医師を続けるという

努力が出来る者が生き残ってきたが、

これからの日本の医療は、、、どうなるのだろうか?

母の時代には

セレブだったかもしれない

医師の家庭



次の時代に

社会に送る我が子を

医師にするのも難しいサラリーマンとなった。

お金持ちの自営業からのお嬢様が

女医になる時代が来るだろう。

医療界は「医は仁術」から「チーム医療」に変わっていった。

これからは、外科医は姿形のイメージが変わるだろうね。

「メスよ、輝け!」

手術のイメージトレーニングの研ぎ澄まされたダンシングオールナイトは

ダヴィンチが、になってゆき、

外科医は、何か!?見ながら座って操作しているような

不思議な変化をするだろうね、、、きっと。

外科医のカッコよさは華がありました。

懐かしい歴史として、残るのでしょうか?

天皇陛下のお出になるTV番組は、出来るだけ拝観しています。

日本人であるという、歴史の継続の中で生きている限り

人間が人間であり、森羅万象地球そのもの

日出る国のみずみずしい宇宙館の中で

生きてる限り、生まれてきたことを感謝したいから

光あれ、、、光あれ、、、

ゲーテも、光あれ、、、と言ったとか、?

皇室が歴史とともに、日本そのものであったのは

いつの世も、国民とともに光を守られた。

人間になられた陛下の御公務は、人間の力をはるかに超えられた

外交と、文化継承と、ご研究と、被災地へのお出ましが

国民とともにいらっしゃた両陛下の光で

復興の厳しい山道を、、、国民は歩き始めています。



これは、昨日雪かきで、足が滑って、

門のブロックに、左頭をぶっつけて、たんこぶを創った私が

傷口を冷やしながら、室内の軽作業に徹している72時間が

何とも待ちきれなくて、TVをつけたり、、、
パソコンをたたきながら、、、

CSDHクロ―ニック、サブ、デコラル、ヘマトーアになるかもしれないと

主人と息子に脅されて、安静にしているのがストレスで、

少々傷ついた制御に聞かない頭で、、、怯えがありまして

進撃の巨人を感じながら、支離滅裂の日記になりました。

72時間後、何もなければ、、、あちこち削除と推敲をして
落ち着いた〉頭脳で書き直すつもりでいます。

まずは現状の自分の頭脳の動きを文にしました、
目下、責任能力はございません、、、悪しからず,,,,,

,,,,,,,,,,,,,,m(--!m,,,,,,,,,,,,



31日

大しけが来るという天気予報のおかげで

限界に達していた屋根の雪下ろしを始めた、

安静どころではありません、

手袋の下の右手の薬指が炎症を起こしてしまいました、

小屋ね、物置、ベランダ、玄関の雪止め屋根、

持ち切らない重さの氷塊が、、、ドスンと落ちて、

バット大のつららが、、、30本、、、

タイツと、動きやすいように取れバンを重ねて屋根にあがり

命綱をしっかりと腰に回すと、、、

平らな地面に居るのと同じ安心感になるから、

棟に携帯ラジオ、ガラケーの携帯、そして、笛

75歳になった、元はハンドバックとハイヒールの私が

北海道の雪は、筋肉婆さんに生まれ変わらせるのだから、、、

北海道の雪は「本物である!」

相手にとって不足どころではない!

雪に向かう兵士のように

こちらもプロ根性と、つららや、雪庇の落散る先を

先読みしないと、バケツや洗面器大の氷塊が

作用反作用ンp法則と、

摩擦のない高利水の上をジャンプしてくる。

あらかじめ、高枝ばさみに、ガムテープと紐で

がちがちに延長した雪かきスコップで

氷塊が飛んでこない距離を確保して、

自分の立ち位置の一メートル先につららも氷塊も雪庇も落とす、

廻りの境目を見えるようにしてから

ベランダや、家の中のタンスを一回りさせた命綱の洗濯ロープを

ベルトとともに、ベランダの花道距離内に固定させた、

ここまで、、、スタンバイ、、、此処までの時間が緊張と

武者震いする勇気で冷や汗が出る、

この段階を過ぎて、屋根にあがってしまえば、、、もう、、、こっちのモノ!

白山や、夜叉神や対馬の山のロックを鎖で登った緊張感で

スリルと、快適な空と、美味しい空気は格別である。

絶対安静と言われた72時間は半分以上過ぎた。

大しけが来る前に、

積もった雪がストーパーになって、てんこ盛りの雪屋根にならないように

最大限の努力をすることが、、、50年続いている。

40代のとき

主人は4か月の入院生活と、続いて単身赴任と、

3年以上も、子供の育児と、

お荷物状態の主人の危機を

近代医学のおかげで、、、助けられた、主人の3年後の復活は

メス、、、ペン、、、箸、、、携帯電話、ショルダーリック以上の重さのモノは

私が持つという、、、我が家の、、、当たり前でない当たり前の家風となった。

はじめの頃は、4時間5時間はかかった除雪も、

車庫、物置二つの1メートルまでの雪なら、

3か所で40分で除雪できる「技」が出来た。

雪置き場の作り方も、圧縮して前の雪に雪をめり込ませてゆくと

圧縮された雪は、どんどん小さくなってくれるから

運ばなくて済む。

本来なら、、、

ハイヒールで休みはお出かけという、、、

東京育ちの私ですが

近代医学のおかげで、外科医に復帰できた主人が

生涯、、、生命の尽きる一日前まで

医師として、辞める患者さんに寄り添いたいというから、

主人が「医師をする!」という、健康な時代に頑張りすぎた結果の

入院であるだけに、

医師として生きてゆくという、ゆるぎない決心には

家内である以上、男がする役目もすべて背負うことになる。

表札が「主人の名前だけ」掲げた日本の明治の

厚地教育を受けた戦前派の、富国強兵時代の教えのもとに成長した

結局は、、、医者バカ、、、と言われる、、、医師しかしない決意で生きてるから、

こうした頑固だけれど、。70過ぎても、若い人より高得点で

認定試験を通過してくる以上、

筋肉を世間様に役立てるより、

「医師をすることをサポートした方が、、、」

本人の生きがいになるのだし、患者さんは

がっちりと、、、若いときからのお馴染みさんが頼ってきてくれているから、

私は、自分自身を薬剤師や、高校の物理化学の教師をするよりも

筋肉の方が発達してしまった以上、

雪かきという役割は、運命で決まっていたのかもしれません。

年寄りの、除雪中の事故の多い北海道ですが、

天気予報で、空気の温度、雪の状態、つららの落下の力学的な予知

除雪の装備、万一の予期せぬ時の雪圧から逃れる為の装備

耐寒の準備は。冬の八甲田山越えを心に刻み、

小さな屋根でも、全力の知恵でよじ登ってきた50年でした、

大切なのは、、、足場の固定に尽きると実感することが多い日々でした。

まだ、、、雪国を知らない時代、

つららをたたいて、頭に刺さり

北大病院までバス、電車を乗り継いでいったことがありました。

タオルで、しっかり抑えた頭を、

北大の外科に居た主人が縫ってくれましたが、

こんな時の為に救急車があるんだから、

なんで、来てもらわなかったんだと、、、

医師として、、、ひどく怒っていたのが思い出されます。

あれから、、、何十年、も経って、

小さな物置の屋根の雪をおろしてから

一メートル隣の大きな物置の屋根に飛び移ると

雪に胸まで埋まり

スコップを近くに突き刺しておかないと

雪圧で拘束されるのを体験する。

山で遭難するのは、、、きっとこうした雪圧が

首までとか、、、強すぎて、雪から脱出できないのだなと

思ったりしながら、

三浦雄一郎さんは、Everest相手に、、、すごいおじいさんだと

屋根の上で力を戴く。

私だって、、、75歳目も前にしても、

家の雪ぐらいは踏破できるし、除雪もできる、

80まで生きていられたら、、、

もう一度、、、登山計画してみるかな、、、

三浦雄一郎さんはプロだと痛感したのは

今回も、無茶な計画は中断するという

本当の判断を持っているという事は

今後も謹んで、、、ナーーるほどと、、、思う事です。

「Everestのぼりをすること」「医師をすること」「仕事をすること」

それを陰から支える息子さんやスタッフの理解と努力は

世に出て喝采を浴びなくても、

三浦雄一郎さんと、、、同等の価値を

私だけかもしれませんが、、、それ以上に

心で拍手を,、、同様に送っています。

頑張れ”””水面下のすそ野の人々よ!

長靴の底とアイスバンと圧雪、ドカ雪、霰、

2019-01-27 02:19:56 | Weblog
19年の一月中には

一通りの雪の感触を5体で感じながら

3度の食事並みに雪かきばかりしています、

去年までは屋根にあがって雪下ろしをしていたのですが

地震でモルタル壁が落下して以来

キケン要素を取り除く意味で

サイデイングにしました、

雪の中で、新し壁の家が、団らんの有った昔を

懐かしく思い起こさせます、、



私の母が、、、まだ達者に頑張っていたころ

孫の顔を見せに、東京の実家に行ったときの

祖母と孫です。



そのころ、バブルもピークになっていました

そして、バブル経済も落ち込んだころに

建てた家が、、、こんなところにありました



平成時代と昭和時代の青田の頃でした。

科学文明のエリートたちが

進撃の巨人のようにやってこないような

見えない壁に取り巻かれたりしない

シガンシナクが、此処だと思ってた

遠い昔の思い出の時間であります。

長靴をはいたおばさんになった私が

あれから40年以上も、子供たちと楽しんだ

よさこい節ですね、

今日も大雪の吹雪です!(++!

2019-01-25 03:15:45 | Weblog
昼過ぎから3時間ごとに

ドアが開かなくならないように

雪を掻きに外に出ます、、、

ヒヤリングのトレーニングに

ヘップバーンの英語は聞きやすいので

TVをつけたまま、、、部屋での仕事をしながら

3時近くまで、雪かきにちょこちょこ、、外の出ては

ストーブにくっつき、暖をとる。




3時近くから、、、若き日の、、、
華のある、、、何とも言えない、、、素敵な欣也ちゃんと

歳を召しても、なかなかのダンデイな、アクションの現代劇と

まぜこぜになりながらも、

やっぱり!!!

若き日の

大好きな欣也ちゃんと


銭形平次の奥さんの、、、真野さんの魅力の前に

雪かきなんぞは後回しになり

しばしの良い時間に満足する。

それにしても、、、北海道の冬は、、、本物ですね!!

まいりました、

降参です。

雪よ、、、雪よ、、、そんなにまじめに降らないで

君も、人工衛星と戯れて、、、少しは休んでくれたまえ!

大雪を掻き乍らラジオを聞いてます

2019-01-24 02:27:42 | Weblog

茶の間のTVは、心して観始めないと

いつの間にか時間が過ぎてゆくのを自覚できないことがあります。

今日は朝からTV番組を見ないで、

ミニトランジスタラジオをヤッケの胸にいれて
朝から雪下ろしです。学習院で講義をされる宮様が
皇太子殿下なのか、雪の音で聞き取れませんでしたが
ラジオは主婦の仕事の友達です。

昼過ぎに、汗だくの衣類を洗濯して
ストーブの近くの物干しにかけると

知らない間の眠ってしまいました。

目が覚めて、7時に起きて、またまた玄関が雪まみれになっています。

この辺りは、除雪車が来るときも来ないときもありますので

万一の時に救急車が入れるようにと

8メーター道路の両脇に雪を積み上げて、

老いたお隣さんの老人家庭の家の前も

ついでに除雪しておきます。

結構な運動量になり、爆睡できるのです。

雪かき乍ら、越路吹雪さんのシャンソンを聴いたり

懐かしの、メロディーが流れます。

いつの間にか11時です、。。。

月はきれい、

空気はおいしい、

ラジからは懐かしの歌声、

適当な重さの雪、

スキーで丸一日、藻岩山で子供たちと滑った日の事を

懐かしく思い出します。

やっと、、、冷えたからだが温まってきましたので

麦茶を一杯!

12時だよ!、、、真夜中の!

除雪車がやってきました。

すごい馬力です。

来ると解っていたら、、、、雪かきは必要なかったのに、、、

ま、、、いい運動になりましたから、、、

少しは筋肉トレーニングになったと思います。

何歳まで、、、雪かきが出来るのか、、、

不安になりますけど

住めば都とは、、、よく言ったものですね!

月の美しさには、見とれます。

******************************

うとうとと仮眠すると、朝の6時です、

雑が身を捨てる日ですが

昨日の夜中の吹雪と、どか雪で

せっかく新しくなったゴミステーションのネットが

雪で埋まっています。

正月からたまりにたまった雑紙のゴミ袋は

回収されてリサイクルされるんですから

ゴミステーションの雪かきも

昨日の続で掻いていると

いつもかち合う坂下のお兄さんも

スコップをもってやってきました。

さすがに男の人の掻きっぷりはダイナミックで

すぐにゴミネットの蓋が空きました。

ついでに、、、周りも平らに除雪すると

二人で、、、思わず笑顔になり

お疲れさん、、、と言いながら

お兄さんが開けてくれたゴミ箱に

リサイクルの雑紙を入れると、

束の間の暖かさが

マイナス温度の朝を、元気にしてくれました。

ここらあたりは

50年の歴史が出来た

札幌郊外の住宅地だから

歳をとっても、、、安心して暮らせる顔見知りが多くて

ほのぼのカンというのは、、、(^^



見えない財産かもしれませんね、、、。

9時からの皇室のTVを観ました

2019-01-23 02:51:15 | Weblog

平成が次の時代に引き継がれるまで、
若い人たちの観れる時間に

何回も、皆が見れるように、

日本人の心の

日本人であると思う事の

大きな部分を

日の丸の旗、天皇皇后の

歴史とともに、国民とともに

いつの世も、

日本という自覚がそこから来ていたように思うのです。

世界は広いから、

動物園に例えるわけにはゆきませんが、

誰かが、どこかが、、、地球の国々を、、

羊飼いのようにまとめているとしても、

日本は日本として、絆があるのは

これからも信じられる心です。

国の象徴という難しいことは

奥が深すぎて

私のような茶の間の

婆ちゃんには、想像もできませんが

両親が、兄弟を平等に皆を愛してくれたように

国民を、頑張らせてくださる

大きなエネルギーを感じました、

万感の思いでテレビを見ておりました、

政治は語るレベルではありませんが、、、北方領土への願い

2019-01-22 11:03:05 | Weblog

原子爆弾を使った戦争には

人類、森羅万象の 神の領域への暴挙だと

茶の間の75歳の婆ちゃんは怒りと

絶望の人類を感じ

地球の命のがん細胞だと思います。

プーチンさんは

難しい立場だと思いますが、

原爆を使った戦争終結は

勝負の勝ち負け上は

ルール違反です。

損害賠償の次元で

経済解決を、国民にも解っていただいたとき

戦争は分子レベル、原子レベルは

禁じ手としてほしいです、

プーチンさんは

日本の武芸にも達人ですから

武士道に反する原爆の結論は

北方領土に適合させないでほしいと

お茶の間の、戦前に生まれた

婆ちゃんの独り言です



アナザーストーリー を観ました。万感の思いです。

2019-01-22 00:57:07 | Weblog

平成が過ぎてゆく前に、引き継がれる皇太子殿下の時代の為にも

国民の一人として、皇室のTVや記事は、謹んで観るし読ませてもらっている。

今日も、真夜中に差し掛かるTVで日本の歴史とともに

世界の中の日本が、近代国家として、世界の国々の中で

オリンピックを再び開催できることが、、、ひたすら感謝です。

明治生まれの御爺ちゃんが、

白い手袋をはめて、毎朝の朝礼で読んだ、、、教育勅語。

父の従軍したときの草色の木綿の袋から

軍隊手帳が出てきて、初めに書かれている勅語をを読みました。

日本には忘れてはいけない日が4つあります。

昭和天皇陛下は、耐えがたきを耐え、、、と、、放送されました。

日本が、世界中から、戦争を無くすために選ばれた。

原爆は人間も植物も、物質はことごとく、、、元素に分解してしまう。

人間は、炭素になることも衝撃をもって広島で観た。

人間は人間であったことさえ消滅してしまう、、、

こんな戦争が、過去も未来にも起きてはいけない。

メッセンジャーとして日本が選ばれてしまった、

天皇陛下が国民とともに、日本とともに

いつも時代を超えていらっしゃってくれたから、

植民地にもならなかったし、、、敗戦後も復活にむかっていきました。

大学時代に、息子さんがNHKの職員であった母の親友の家に

下宿していたことが有った、

池ノ上の駅に向かう途中、

総理大臣だった佐藤さんの自宅の前を通過するのであるが、

門のそばにある「ポリスボックス」に

若くて素敵なお巡りさん?が立っていました。

早朝の、寝ぼけ眼のわたくしも

きりりと凛々しく、勤務している警官の姿に

目が覚めたモノでした。

佐藤大臣の時代に沖縄の返還が実現して

日本中は歓喜の渦が、、、老いも若きも巻き込みました。

しかし、、沖縄問題を抱えたままの時代は

今なお続いています。

戦後の沖縄においでになった皇太子殿下と美智子様。

幼少の頃の大人に囲まれた平成天皇の幼年時代。

美智子様との出会い!

今夜のアナザーストーリーは

祖父や、母が話してくれたことが

TVの画像で観られて、万感の思いがしました。


22日の9時からの続も

忘れないように、、、しっかりと

カレンダーにしるしをつけました。

楽しみに放送を待っています、


厳寒期に向かって、、、冬と戦う

2019-01-21 19:43:39 | Weblog

南国に近い、、、

南紀で生まれ、、、、

冬でも薄い毛糸のセーターで

走り回っていた疎開の時代。

おじいちゃんの山には、、、ミカンがなっていた。

天気予報が当たる、、、山崎のおじいちゃんの庭には

金柑≪キンカン≫が鈴なりだった。

小学生から中学生まで,、、縦関係の

ちびっこギャング団は、

「おいしそうなミカンやキンカンを、当たり前のように

天からのおやつのように、、、食べていた。」

疎開中の、おやつは、

大人たちの大きな心で、

困ることはなかった。

秋に庭の片隅に、埋め込んだ栗の実を

落ち葉の中に入れて焼いた。

切り込みを入れ忘れたクリは

音を立てて、、、ハジケテ焼けた。

かじかんだ手には、手袋なんぞは要らなかった。

次から次へと

遊びを考えて動き回っていたから、

ほっぺたも、真っ赤になって、

弟は、セーターの袖で

水っ洟を横に拭くので

袖が、キラキラ光っていた。

穏やかな、、、あれでも、、、冬だったのかと、、、

北海道の、留萌の4年間の冬と、比べてしまう。




番屋を高級にしたような

恐ろしく古い病院の宿舎は、、、今は、、、無くなっているそうだ。

寿町の崖の上の海を一望できる宿舎には

針金が飛び出た二人掛けの「ベッチン」の生地で出来た椅子が一つ、

アンテナのない白黒テレビ。

数人の出張の医師が泊まれる一室が数個、、、

長い廊下にドアが並んでいた。

マイナス20度c
水道は一回一回地下まで落とさないと凍結は5分と持たない台所。

米をといでいたら、

別の部屋の住人が、、、うがいに来て

一時中断、小さな流しを洗ってから
廻りを拭いて、食事の支度の続をする。

個人の開業医の医師の急逝に

あとがまの外科医に来てもらうのは

艱難辛苦を伴う試練であった。

結局、次代とともに

日進月歩の医学の世界は、

医療機械の分野のバ^ジョンアップが続き

開業医の税制優遇の範囲では

近代医学の発達は待ってくれない時代に突入しました。

兄は閉院とともに、胃カメラの指導医として

大手の病院の勤務医として飛び立つことになり

親の代からの実家は閉院した。

開業となると、

自分の者であるようで、地域医療の組織の一端のようなものだから

国が要求するレベルに維持するのは大変であったのだろう。

命を預かる仕事だけに

患者さんの未来がかかってくる以上

胃カメラそのものも

毎年新機種が出た時代であった。

毎年、患者さんの負担にならない細いものへと

改良されたものに

取り換えるだけで、何百万の時代であった。

一日150人ぐらいの外来患者さんは
父の時代からの老人も居た。

地域からも、患者さんからも、

花束が届けられ、兄は実家を売って職員の退職金や

次の職場の為の準備金として使った。

残ったお金は、父から譲られた施設だっただけに

95パーセントは税金の現金納入だったとか、、、?

お抱えだった経理士さんが、関係者に言っていたらしいが

北海道に来てしまった、50年も住み着いてしまった私には

兄からの直接の知らせも、何もなかった。

家を売ってしまった、、、

本人が一番寂しいだろうと思うと、

言葉が見つからない。

お疲れさま、、、年老いた母の晩年まで

よくぞ、、、守ってくれました。

もしかしたら、、、他人の土地に住んでいるような北海道で

50年という歳月は

サッポロ住人に成れているのかもしれません。

除雪も、なかなか入らない、羊が丘の見えるこの辺りは

空気が美味しくて

冬の満月が夜空に私を吸いこんでしまいます。

北海道は食べ物もおいしくて、

老年の、、、阪道を降りてゆくとき

冬のオリオン座が、真向いに、、、実家の自宅のように

灯りを灯して、、、お帰り、、、と言ってくれます。



愛情の冬は、、、オーロラも見えるのですから。








昨日の7時、皇室アルバムをTVで観ました。

2019-01-20 06:27:58 | Weblog


若くて美しくて

透き通るような清楚な

この世に二人と居ない香しい美智子様が

皇室という

別世界の殿下のもとに

皇太子殿下の恋

世紀の恋

あたらしい時代に飛び立たれる若きお二人の出会いは

お茶の間の、75歳を目の前にした私を

青春時代の真っただ中に

ある種の魔法で

引き戻してくれました、

日本の母、

美智子様が、皇太子殿下の恋に答えられ

皇太子殿下の公務に対するお心に

尊敬と、信頼と、男性としての認識が強くなって

皇室と国民との間の橋になられてゆくお姿が

TVに映し出されて、

平成に生きることが出来た幸せに感謝しました。

日本の女性の中に、

美智子様がお生まれになっていらっしゃったことは

光の中に現れたお妃さまだと思いました。

皇太子殿下の

お心の扉を開けることが出来た、、、世紀の恋のパレードは素敵でした。

平成が終わるのではなくて、

殿下と面立ちもそっくりな、皇太子殿下が引き継がれ

平成時代は、次の時代に引き継がれて行きます。

どんな、、、科学の時代が来ても、

皇室が、日本の心のお手本だと思いました。

国民の心が、穣で、稲穂の金色のような輝きで

季節とともに四季を楽しみ、心の豊かさを糧にした輝きが

優しい頬笑みになって

静かに静かに、、、お静かに、、、不思議な時間の旅をされながら

世界中に、夜明けのような光で

外交をなさり、日本中の国民とともに生きてくださった平成時代。

世界一の微笑みと優しさと、

深い寄り添いのお心で

被災地では

喪失の寂しい打ちひしがれた心に

一筋の光のような力で

復興に向かう勇気をくださいました。

皇室と国民が、ともに生きた平成時代は永遠です。

天皇陛下に添われて同じ時間を過ごされた

日本の母である美智子様のご努力は

多くの本になって、

茶の間の私たちの心の道しるべになります。


もう一度、、、本の時代がやってきます。

行間に込められた空白に見える見えない文字が

優しいほほえみだったり

時代が創った誤解と向き合われ

積み重ねられたご努力のご訪問が

氷河が解けて、清水になって民の渇きを満たしてくれました。



これは、、、個人的な日記ブログですから、

ボケないうちに、

昭和生まれが、感じたままの皇室を、此処にしるしておきます。

平成が夕焼けの中で

明日の日の出を約束してくれました。

両殿下の恋のような、夕日に見とれている気持ちがしました。

TV放送を茶の間で、感動して観た、雪の中の北海道でした



初夢の混乱

2019-01-16 02:08:06 | Weblog

便利な時代になりました。

スマホ一本、、、晒にまいて

法善寺横丁で人生料理。

ややこしい人生料理も

検索すれば師匠は要らぬ。

スマホ社会に登録されて、

何時にトイレに行くのかも、、、分析された人間牧場の人間子羊たち。

世界システムの放った牧場犬は

アプリの笛で羊を分類、今夜のジンギスカンの下準備。

スマホが便利という事は

管理する方からも、超便利。

太古から、宗教や、神社や、思想が集団を動かしてきた時代

羊たちは、神様という心の象徴の遣わした「羊飼いの少女」が主だった。

今は、、、スマホが笛を吹けば、

羊たちは、ネズミの大群のように、崖の上からでも海に雪崩落ちてゆく。

横光利一の蠅ならば、崖から落ちて行く羊からは離れて、

又、牧場の羊にとまれば済む話だった。

崖から落ちた羊たちは

一瞬のうちにスマホ進化論に沿った変身進化。

雪崩落ち乍ら、様々な変身を遂げ乍ら

巨大モモンガ―のように、人工知能の生き物となって

崖からは地面に向かった落下はしない。


アヘン戦争のような、

スマホ依存体質の羊たちのままではいない。


人工知能の生き物となって、

崖から雪崩落ちた羊たちは

宇宙に飛び出す始祖鳥となって

新人類の進化を遂げる


出産も、育児も、試験管の中で

母親は居なくなる、

父親だけの世界から、

男性も女性も、、、産み分けられて、育って行く。

身体的な男女の分類はともかく、、、視覚的には分類できない時代が来る。


人工知能の搭載で、戸籍上の分類が始まるだろう。

税金も消費税の管理だけで

国民の細部まで情報がつかめる時代が来るかもしれない。

ゴーンさんの事件が報道されたとき

社会の構造が光の速さで、

地球七周り半している情報社会を理解できた。


バンカブルな時代が過ぎてゆく。

少子化になって、老人大国になって、、、

見えないけれど、、、最後隆盛が、、、

森羅万象、自然とともに生きてきた

野生人間の生きる場所は無いかと、、、

地球政府に訴えかけても、、、、

商魂も、宗教も、思想も、イデオロギーも

ダビンチコードの秘密結社も、

映画になって、放映され、

スマホの翼を持った、、、ヒッチコックの鳥たちに

スマホのイタチの大群が

歴史の輝きを持った稲穂を食い荒らし、

老人たちの糧は亡くなり、

ヒトツの時代は確実に終わってゆく。


人工知能のレセプターは

世界システムが、、、

アトランダムに設置できる国際法が出来ても

人工人間は年齢を超えて、

製造されてゆくかもしれない。


老人大国が時間とともに、、、西南戦争の終結のように

平成が過ぎて行き、

世界維新の科学革命で、、、

大量のデーター処理能力のある者だけが

明日の新聞を発行できる時代が来るかもしれない。

少子化は、日本から発して、

科学を操る巨大な人工知能結社が

人口受精大国が、

天才少女少年の製造をするという

地球の人類のカースト制は

科学が対象の時代が来るかもしれません。


神よ、、、今こそ、、、神様よ、、、

野生の者をノアの箱舟に乗せて、

「愛」「自然」「平等」「自由」「地球家族」を

次世代まで運び給え。

少子化の原因をお茶の間レヴェルで考えてみた。

2019-01-15 14:28:06 | Weblog
たしかに、、、

初もうでの晴れ着のちびっこが減りましたね。
団塊の世代の昭和20年代生まれが、

小学生の息子や娘を連れて
初もうでに現れた昭和50年前後にバブルもピークでした。

マイホームを国から先回りして用意されたように
家を買う人、銀行に借りまくって資金調達する人

敗戦を知らない子供たちの
夢のようなヴィジョンは
一気に日本の空気をイケイケムードにしました。

子供もどんどん産まれていた時代でしたよね。
オリンピックや大阪万博、

世界に進出してゆく日本の子供たち。

中国が名護眠りから覚めて
動き出した獅子。

7つの海を支配したイギリスの植民地も独立しはじめ

団塊の世代のお子様方が大学進学に向かう頃

ベトナム戦争や湾岸戦争で、世界があちこちで問題提起。

そして、、、、宇宙開発と称して、

宇宙にも飛んで行けるロケットに

いろいろな積載物が話題になりました。

ロケットが、何かを積んで横に飛ばされることが皆無だろうか?

国内では日本のあちっこっちで、、、自然災害。

人知の自慢の科学の原子炉も、津波の前には公害と化す、、人間の限界。

今度、、、核戦争が起きたら、、、、

逃げる場所は無い。

地下に創った避難カプセルで生き残っても

地上には出られない。

知人は居ない。

商店もない。

電気もない、、、スマホもない、、、ゲームもできない、、、

子供が産まれていたとしても。

どうやって守ればいいのでしょうね。

女性が多い人工密度。

一夫一婦制の日本は

男性の数しか、女性が居ないのと同じでしょう。

おまけに、、、高額例の女性は

さりげなく、、、、小さな親切、、、翁お世話!

どんな男性が夫として選ばれると思いますか?


答えには迷いがありません。

一昔前の、、、家付、車付、婆抜き。。。。

具体的に、スケールがわりだせる、、、

かわいい女性の女性的欲張り。

このころは、少子化というよりは

核家族の始まりだった。

若い人は、頭が良い、勉強もできる。

仕事もできる。理屈もしっかり筋が通っている。

歳よりは、はるかに若見え!若い力にみなぎっている。

昔の女性は「すっぽん」は怖かった。

今の女性は、、、すっぽんは美貌の為には、、、食べる。

つまり、、、良妻賢母の為の健康維持駅を通過して

自己実現駅にしか止まらない。

観てよ観てよ、、、この身体!

右から来てもパソコンで解決!
左から来ても、トップを動かすキャリア持ち。

どこから来ても、宝ジェンヌの男性主役のごとく

背中に羽が生えていて

出世街道の長い階段を13センチのヒールの靴で登れる裏技!

男性は必要なくなった?????

いいえ、、、キャリアは大食いなのですよね!

私様のスポンサーになれるほど、、、

お金持ちでないと、、、結婚はキャリアウーマンから仕事を奪う。

お尻でハ壊れない拡大鏡で

ジーとみるのは、、、結婚で、失うものが無いかどうか?

、、、37歳までは、お金持ちで、イケ面しか相手にしないでしょうね、、、。

私の大好きだったNHKのあの素敵なキャスタ女性も

とうとう、、、独身?らしい。

そうよね、、、結婚して、一人の男性の雑役女性になって

ゆくゆくは、○○君のお母さんとか、、、

🌺マルちゃんのママ、、、とか言われて

戸籍から、名前が消えたような、通称で呼ばれながら

過去の、、、華やかなお取り巻きも、友人も知人も、、、自動消滅。

まずまず、、、結婚しない女性が増えました。

世の中の価値観や情報社会が、、、

女性から野生を奪ってゆくような気がしません?

戦前は「弁護士」「医師」「公認会計士」「一部上場の会社重役」

お金持ちで育った良家の子女は

ここら辺の職業の男性に、嫁いでいた。

あれから、、、60年、、、

医療界は赤字経営、

医師の皆さんは

事務部の統括の下に、ひたすら、病院の赤字と闘う仕事の鬼。

あこがれの弁護士さんも、、、女性が増えてきましたね。

公認会計士さんも事務所をもって、、、女性社員を抱える時代。

結婚して、子供を産んだが最後、

もともと愛情が邪魔な時代に育った男たちは、

社会に対して、

江戸屋敷に奥方を差し出した義務を果たした安堵感で

ひたすら、5時から男、、、残業社員、単身赴任、、、と

子供が出来ると、生きる糧が先で奥方は幕下扱い。

日本の結婚子育ての現実は

女性のリスクが大きい。

戦前生まれの私の時代は、

女性は大学に行くことにさえ、

逆風をねじ伏せてゆかねばならない時代だった。

本人の意思などお構いなく、

「嫁は仕事の手を貰う」、、、と言われた時代だけに

人生の、自分の持ち時間も、

結婚前に働いた蓄財も、

婚家に出せるものは全部提出しても、

腹は借り腹、、、

こんな時代に生まれた昭和10年代には

「おしん」というTV番組を見ながら、、、

「おしんさん」よりは、、私はまだまだ、、、いい方だと、、、

旧しきたりの男尊女卑の日本の、、、な~ナ~の中で

損得を考えずに、

ひたすら、、、必要とされる人間になるための

人の嫌がる仕事に慣れて、こともなげにやってのけるうちに

自分なりの居場所が出来てきて、、、

「人生の旅、、、人生の登山の青棒として認識されるようになるころ、、、」

私は、今年、後期高齢者になりますよ。

夫は医師ですが、、、結婚のダイヤは0,12カラットの23000円。

誕生日に贈り物はいただいたことはありません。

スイート゛10、、、、十年目のダイヤもありません。

結婚してから、たった一枚の着物もあつらえたことも、

買ったこともありません。

理由はわかりませんが、、、

医師の息子が、次の時代に受け入れてもらい

本当の仲間として、40歳以後も、生きて行ける場合は

医療人として、親と同じ世界に生きるのが摩擦が無いと思いましたので、

全収入は、、、教育費、

全部の余剰金は、東京に学問の為に出す住宅費にと、

一円の無駄も無いように、、、、未来の用途は決まっていました。

医師は、解剖学や、多くの深刻な病気を深く学問する職業なので、

奥さんの事は、、、眼中になくなるのかもしれません。

自分の学門レベルを維持するためには

家庭の都合に合わせることは出来ないのでしょうね。

命と向き合う職業の手厳しさを
舞台裏から見ているような、、、家庭ですからね。

よっぽど自立心が無いと、、、寂しいかもしれませんね。

医師本人が悪いわけではないと思いますが、、、

医学ばっかりに従事しているための時間貧乏が原因の欠損は

確実に、、家庭で背負うことになりますから、、、

子供は、、、核家族なら、、、2人が限度ですよね。

子供のころから、、、女医になって、

父と一緒に、地域の医療に従事したいと

無邪気に思っていました。

医師が居るのと居ないのでは

地域の活性度が異なる時代に

私の父は背中で、

存在感を見せてくれました。

しかし現実は、、、

女性が医師になれる家庭は

限られた条件の家庭に限ることも

体験しました。

19歳の時、、、父は54歳で、、、過労死、、、したのです。

前の日に、患者さんの手術を終えて、、、

麻酔が覚めるまで、、、と、、、うつらうつらしながら

本人は、気が付かないで、、、

早朝、、、長い眠りにつきました。

結婚も、子育ても、、、

特殊なブラックホールが出来たとき、、、

白鳥座のように

夏の夜空に現れて、、、別の世界に連れてゆかれるのですよね。

愛する、、、父が生きていた時は、、、

私は「独身で。女医になって、父を手伝いながら

大学で研究生活をしたいと、、、本気で思っていました。」

子供を産み、子育てと、旦那の世話で、家の中が世界だなんて、、、」

少子化の謎は、、、このあたりにあると思いませんか?

わがままに世間知らずに飽食の中で育った女性を想像すると、

お勉強が出来ることが価値あることだと教えられて育ったとしたら、、、

自分をとるでしょう、、、きっと。

少子化の原因は、女子大学生が多くなったことも、

風が吹くと桶屋が儲かるというが如く

とんでもないところに、、、老人大国、

少子化日本の原因が、、、潜んでいるのかもしれません







サッポロは大雪の後も小雪

2019-01-13 01:46:14 | Weblog
朝6時から10時まで雪かき

汗だくでシャワーを浴びて、頭も洗髪。

昼食後2時間爆睡

夕方、、、8時から10時まで
またまた、、、雪かき。

久々に除雪車が入って、

両脇に固まって砕石のようにバラバラな雪を盛り上げてゆく。

真夜中の12時過ぎ、車庫前、玄関前の

採石のような重たい雪をどかせて

一日が終わる、

この生活の冬景色が50年続いている

人生の時間は、、、大切ですが

主人は、患者さんの体に触診をする外科医であったせいかもしれない、、、

結婚以来、雪かきも、しないし

家の管理は結果報告だけを必要とする、、、明治の親父に育てられている、

今どきの女性は、

子供を産まなくなったし、

結婚後も

子供は必要な愛の結晶であっても、

今どきのモダンママは養育費さえあれば、、、旦那は社会にお返しするという

手っ取り早く言うなれば

子供は必要ですが、、、夫は要らないという

野生の部分が失われつつある

コンピュータのシステムに沿って

発展してゆく人工都市の

女性たちの

森羅万象、、、生態系を隔離して、

高級と言えばよいのか?お金がかかっている世界といえばよいのか?

造られた価値観の

人工都市の合理性が教える

「幸せ」のかたちなのか?

幸せという感覚がパソコンの2進法の世界から、

合理性の高い形にけいさんされてゆくのか?

社会の主役は、

自己愛の高い女性が手に入れやすくできてゆくのか?



75歳を目の前に向かえて、

ことごとく。

男社会に造られていた

昭和生の時代をふりかえる。



最近は

女性サイドの離婚が多いと聞きますが、、、ほんとなの?

ほんとだとすると、、、

少子化対策は、、、小手先の便宜を図る環境の改善だけでは

解決しそうにもありませんね。

主婦になっても、

自分をやれる、自分の為の時間が無いのは

日本の家庭は大方それに当てはまる。

少子化対策は、、、

野性が無くなった都会のインテリ女性には

子供を産み育てる環境が整っていなければ

結婚して苦労するのが目に見えているという

合理的な自分の人生を、第一にしている以上

人工知能がはじき出した、計算上の幸せ状態に

結婚そのものの私物化されてゆくような条件を

男性に期待するだろう、、、


ミョウレイノ女性も
都会の真ん中で

ウサギ小屋のようなマンションで生きていると

女性ホルモンが、ねてしまうのでしょうか?


雪を掻きながら、、、時間がもったいないと

いつも思うのですよね、、、


昭和育ちの心の家

2019-01-08 11:03:16 | Weblog
今年は平成時代の過ぎて行く新年ですから、

皇居に民衆が集まって、感謝の心と、

皇室の皆様が両陛下のお出ましを真ん中に、新年のご挨拶のお出ましを拝することで

国民と一体になれる皇居前広場には、多くの人々の感激と感謝の顔がTVに大きく
映し出されたとき、そこには行けなかった茶の間の割烹着の主婦たちも

しばし、手を止めて、両陛下のお出ましをお待ちして、

平成の時代を感謝で振り返りました。

美智子妃殿下のお若くて美しいご聡明なお姿には、60年前の思い出が

昨日のように甦りました。

戦乱の中をご苦労にご苦労を重ね、

日本の文化の世界への合流の時代を

切り開き、島国の、300年も続いた鎖国の文化が

今や世界中に受け入れられて、

閉鎖的だった島国からは、

世界中に日本人の住む街もできました。

国民には永遠の謎ですが、

日本にべート―ベンの運命の楽譜とともに
クラシック音楽を、普及させてくれたのも
皇室のゆかりの方でした。

日本が戦争で、大きな世界の、想像できない既存のシステムの中で

鎖国という状態を無理やり開国へと誘導されて、

島国だった日本人の国際性に乏しい無知な部分を

国内に明治維新でグンユウカッキョノ勢力が

何千年もの歴史を国民とともにあり続けた心の居場所だった

やんごとなき方に、、、

政治の力がおぶさってしまったのではないのでしょうか?

大学の教養学部の政治学の授業で

天皇機関説???という難解な授業があり

私は落第点すれすれの、、、いまだによくわかっていない部分です。

昭和天皇は、人間として、忍耐のできる限界以上のご苦労をされて

玉音放送に、透き通る天の声で終戦を放送されました。

私の父も、母も、祖父も、知人は皆、地面にひれ伏して

終戦を受け止めました。

あれから74年、、、ほどになりますか?

平和な時代とは言っても

皇太子殿下の恋は、、、平和な時代の嚆矢でした。

美しい清楚で、聡明で、上品で、、、

この世に二人と居ない素晴らしい女性が

あの、、、戦後のドサクサだった日本の中で

黄金の稲穂が育っていたかの如く

日本のどこかで、育たれていたのだと、、、

びっくりもしましたが、

殿下が恋をなさり長電話をかけられた事実が報道されたときは

青春時代真っただ中だった私たちには、

皇室と国民との橋になられる皇太子妃に

あたらしい国、、、

日本の長きにわたる歴史とともにあり続けた皇室の扉が

国民に向けて開かれたような眩しさがありました。

二重橋をお渡りになって

国民の中から皇室のお妃さまが選ばれた驚きは

昭和の時代の恋の花が、国民の中にも咲きました。

戦争は、、、終わったのだと、、、実感した出来事でした。

戦争で荒れ地となった東京も、どんどん復活して

国際都市として、ますます華やかな発展を遂げました。

戦後の希望の花が咲いて、

皇室の王子様の誕生が

美智子様のお手で、お車の窓を開けられて

国民の王子様であることも感じさせてくださいました。

次にお生まれになった次男坊殿下の

天真爛漫な,お健やかなお姿には

報道されるTVを観ながら、思わず微笑みが出てしまいました。

天皇陛下の御幼少の頃は

御教育係に付き添われた、子供同士の天真爛漫なお姿は

報道はされませんでした、

大人たちに付き添われているお姿ばかりでした。

それが、次男坊殿下の御幼少の頃のお姿には
微笑みがあふれてきて

国民は「あ~~や」と愛称で呼んでいました。

美智子妃殿下の、国際的なご公務の大変な中でも

お子様たちに、テープでお声を残され

親の愛情の深さは、国民もお手本にしました。

日本の母親は、、、ややもすると

子供は母親の私物と取り違えるような風習も残っていました。

美智子様の御歌には

「あずかれる命にも似て、、」というようなお歌がありました。

その歌の力は、

私の「心の子育ての樹の根っこ」まで届きました。

子供たちは、次代を担う国の宝なのだから

華美な物事を控えて、

ありったけの努力で

国の宝になれるように、

社会に役立つ教育をせねばならないと

そして、

やがては、社会に受け取っていただけるように

心も育てねば、、と、、啓蒙されました。


親の元から飛び立って、

次の時代に適合できる育て方をせねば

社会にお返しすることが、躊躇われるようでは

親としては 子供を空に向かって飛び立つのを、、、見送れない。

自分たちの新しい時代に飛び立つ矢のごとく

親は見送るしかないのだから。


育児の卒業なのだからと、、、

目の覚める思いをしました。


私の母の時代は、

封建思想がまだまだ残っていましたので、

親は「子供は親の私物?のような教育が普通でした。」

天から預かった子供と言うよりは

男の子には、

「偉くなれ、、金持ちになれ。。総理大臣に成れ???みたいな、、、。」

親自身の価値観の中で、理解できる範囲で

自分自身の為になることしか、、、思いつかないような

島国根性が残っていた時代でした。

ご結婚前にも外国にいらっしゃったり

世界を旅されるスケールの大きなお心が

御歌にも感じられました。


美智子様の

国民にも開かれた育児のお言葉は

皇室の母となられても、

そのお考えは、

温かな思いやりと

凛とした母の愛のあふれる

雲上ではありますが、、、お手本でした。

陛下とともに、国民とともに

日本の平和が世界中に地球丸ごと尊重されて

動物のみならず、小さな生き物や

岩の壁にも負けずに咲いていた「浜菊」にまで

お心を示されて、

平成の時代には

戦争が起きなかったことは、

ご公務とは申せ、

誰も代わることのできない激務であったことは

国民の皆が、祈るような気持ちで

ご健康を心配していたと思いました。



「国民の母ともなられてゆく奉仕のお姿」を感じたのは

我が子なのに、、、

「あずかれる、、、」と読まれた語句に

私は若き時代に、感動したのでした。


あずかれる、、、


この語句には

なみなみならない美智子妃殿下の御決心と

決意と、

皇室と国民に、そして世界の平和にと

地球丸ごとの恵みの感謝を

稲穂の実りや、御手植えの樹木に表現されて

私は、森羅万象、、、その光を心で感じました。

やんごとなき、神代の時代から受け継がれた歴史とともに

日本の国にあり続けた、、、心の伝承が

世界の平和、

島国だった日本の、世界への共存共栄の時代へと

決してスムースには行かないアジアの国々の

イデオロギーの難解な問題も

核戦争だけは、

科学の力を

地球の破壊に使っていることだけは確かだから

日本が唯一の被爆国として

天に選ばれてしまった、、、世界の国の平和のための奉仕。

奉仕の人生の始まりの

長い長い、、、世界平和への旅、

天与の光が宿るお歌だと思いました。

皇室の世界各国との交流は

きっと、、、世界の平和への嚆矢となると信じています。

また、差別をされていた民族の血を

アメリカ人との混血の子として

人種差別を乗り越えた

大統領が、

日本とアメリカの被爆者の為に

広島に来られて、平和の鐘を共に祈ったのも

平成に時代の大きな平和への祈りであったと思います。



平成時代に、、、
子育てを出来ましたことを
感謝しています。



スーツのお姿の美智子様

お帽子の素敵な、

シンプルな香しいお姿は

、、、素敵、、、と思ったことは

忘れられない感動でした。



見せるファションではなくて、、、
魅せられてしまう
美智子様の美しさを、、、邪魔しないといえばよいのでしょうか?

その品の良さは
内面の輝きを
国民は、、、きっと、、、眩しく感じたと
私は,
見とれておりましたから。

美智子様が、もともと持っていらっしゃる

内面の美しさを輝かせるお洋服でした、

美智子様という天性の お姿を

邪魔しないデザインと言えばいいのでしょうか?

エレガントなスーツのお洋服は
美智子様の
理知的な
聡明な女性らしさを

少しも邪魔しない優しい、
しなやかなスーツのシルエットで

お帽子は、英知を柔らかく包み

優しさと強さとしなやかさのお母様のお姿でもありました。

日本の素敵が、

美智子様のファッションを観ているだけで、満たされました。





美智子様のお召しになられていたスーツと
お帽子が忘れられない、、、という

青春の思い出があります。

美智子様の若い日の美しいお姿が

皇太子殿下のお心を、どんどん、、、と開かれて

国民とともに、最も大変な



全国慰霊の旅に出られ、

国民の心の傷を癒され、


世界平和に向けての日本の在り方を

国民に感じさせてくださったのだと思うと、、、

「平成が、過ぎてゆく、、、」という思いは

わけがわからないのですが、、、

TVを観ていても、、、こみ上げてくる、、、何かがあって

私自身が、どういう感情なのか、、、

自分で、自分がわからないまま、、、

平成が過ぎてゆくという現実に万感の思いがあります。


国民とともに
いつも生きてくださった
両陛下の輝きは

その美しさは

日本独自の
ありのままの、
天与の白い透明な光のような

隅々まで照らしてくださった、、、何かなのだと、、、

平成の正月が開けてゆくのに 、
しんみりしては居られません。

孫子の代まで、
平和な日本を見守らなくては、、、



ダルビッシュや、大阪なおみさんや、
多くの日本人と外国人の二世が

世界と、日本の橋になって、
その優れた優秀な運動能力の遺伝を示し

鎖国は遠い昔の歴史となりました。



平成が過ぎてゆく新年を、
日本人としての心の在り場所のような

陛下とともに過ごした平和な時代を、
これからも引き継いでゆきたいと

心から願う新年でした。




布石

2019-01-05 01:56:45 | Weblog
子供のころ、正月休みに、父に囲碁を教えてもらうのが楽しみだった。

碁盤の線は「日本刀」で書くのだそうですね。

父は栢木で出来た碁盤をひっくり返して、

真ん中の土俵のように四角く削ったところを指して言いました。

「碁は真剣勝負なんだよ、だから、

ずるいことをしたり礼に反する行動をすると

切腹することになったんだよ。

切腹したときに、苦しまないように介錯と言って

止めの一太刀を、助けるのだが、

勝負の世界は命がけなのだよ、、、、

いいかね?」

私は意味が解っていませんでしたが、囲碁を教えてもらいたかったから

うなづきました。

父のお父さんに当たる人、、、つまり私の祖父も
母の父に当たる私の祖父も

囲碁は大好きでした。

ハマグリの白い石と

那智黒の黑い石は

いつも私が黒い石でした。

九目満タンに黒石を置いて、

父が白い石を置くと、

すかさず黒い石をくっつけて置いた私でした。

わけもなく、、、喧嘩碁のような解ってない碁盤が

いつの間にか、黒い石が全部取られてしまい

白い石の世界になっていました。



叔父さんに、指導をしてもらっている息子の写真を見るたびに

父に教わっていたころの囲碁を思い出すのです。

国立がんセンターでCTやMRIやPETなどのエキスパートだった叔父さんは

まだ、一般の病院に普及していない、未来の世界には

これらの機械が普及して、次代は大きく変わることを教えてくれました。

たまたま、放射線の肝臓膵臓の授業のとき

叔父さんの著書の教科書のコピーが配られてきたことが有った。

息子は、難解な画像の世界に、親しみと、興味を覚えて

臨床医として、画像診断を担当する医師となった、

叔父さんは学者系で、臨床もできるという医師なので

息子にとったら、雲の上の先生に思えたことであったと思いました。

臨床医になるにしても、

学者としての基礎的な布石をしてもらっておけば

いつの日にか、

息子も、画像と病理と、

手術との現場の結果の繋がりを

しっかりと見ながら、

世の中の役に立つ医師になってくれると信じて

一番初めの時だけは、

私(母親としてというより、姉として)

息子にくっついて行って、写真を撮らせてもらいました。

札幌の南高校を卒業して、東京の23区全部に

南高校のレベルの高校がひしめき合っている東京で

一時期は委縮してしまい、、、

草食系の男性になっていました。

世の中の広さを知るのは、、、これからというときに

叔父さんに出逢い、

画像診断に興味を持ったように思いました。

叔父さんの迷惑にならないように、

定年退職した今だから

ブログに写真をアップできますが、

雲の上の先生と思っていた長い長い成長の日々がありました。

学者の部分の濃い叔父さんは、

ハーバードにもしばらく留学していました。

息子の人生に、布石となるような

此処一発のアドバイスがいただけたと思っています。


昭和育ちの私は、、、デジカメが苦手ですが

10年先の息子の成長を考えて、

声も録音できるデジカメを

ハッチャ気になって覚えて、本人たちが夢中になっているシーンを

許可を得て撮影保存しました。

デジカメの連写なので、

声入りのビデオになっている教えは

繰り返し聞くこともできました。

私の弟でもある息子の叔父さんは

がんセンターを定年するころ、

政権が民主党に移り学問の世界だった研究室にも

イデオロギーの津波が押し寄せたようですよ、、、私は理解できませんが、、、


国立から、独立法人へ、、、そしてまた国立へ?。。。もどったのでしょうか?

弟が母校の千葉大学出身の市川先生と

運命のような出会いがあって、

外科の医局から、教授の許可を得て

日本では草分けのような、学問と臨床の両輪が回るがんセンターに

移っていったのは。。。昨日のように思えます、

外科医だった父が、戦争から帰還でき☜

13年の疎開地での復活を果たし

生まれ故郷の東京に帰ってこられたが、

実家のあった市ヶ谷文人通り界隈は

還れるところではなくなっていました、

下町で、開業して、息子たちの進学と教育に

余生の10年足らずを全力投球してくれました。

国立がんセンターが出来た頃、

日本に医師として自分も若ければとんでゆきたいような

理想的な病院が出来る!と、

医師を目指していた息子たちの前で

唇を震わしながら、、、しかし静かに話していた光景が

、、、、54歳で早逝した父が

息子たちの、医師としての未来の為に

静かに、強烈に、、、人生の碁盤のど真ん中に置いた

布石だったのでは、、、なかったのだろうか?

戦乱に巻き込まれ、3人の子供を亡くしても

疎開先で高齢出産で「戦争を知らない子供」を

そだてた。

両親があんまり弟をかわいがるので、

私は、やきもちを焼きながらも

双葉から芳しい利発で、ダイナミックな性格の弟に

魅力を感じていた。

この子は、、、きっと、人生で夢を追って、、、しかも

医者としての夢をかなえられる素養が

父によって

全身全霊で≪布石≫されていたに違いありません、

まっしぐらに、がんセンターの黎明期を

全身全霊で駆け抜け、

戦後の復活を果たした団塊の世代の超人的な働きの一人として

日本の医学の世界にCTをはじめとして、

画像診断の黎明期の発展をがんセンターを舞台に

貢献できた一人であることは

父が、一番喜んでいると思いました。



ヘリカルCTの開発にも関係していることは

大手の新聞や、
薬局に有った外国雑誌の
「ジャーマ」という」翻訳雑誌で

かってに見つけて読んだ時には、
弟が、、、大きく見えました。



宮様にゆかりのある賞もいただいたことが

内科医の兄から、知らせてきました。

権力や、テリトリーとは無関係な医学にまっすぐに進んだ弟が

日本の画像診断の

「コロンブスの卵」を医学会に示せたのではないかと

兄も、私も、、、

根っこに医学の布石をした父が居たことに

医学は本人だけのアートのように

誰も相続できないが

弟には

限りある人生の時間内において

医学の夢をかなえられるのは

大学から離れても

学問と臨床の、一途な夢を追いかけることのできる舞台が

がんセンターであると

まだ少年だった息子たちに

囲碁リスの病院のことなど話しながら

保険制度では報酬がもらえなくても、

患者さんの治癒に必要な医療は

自腹をきっても、

自分の医者としての考えに迷わなかった父が

背中で魅せた、自分の経験と臨床力を信じて

保険制度の経済的な損得を考えることが思いつかない時代の

尊敬をされていた時代の、、、古き良き時代の

医師の大切にしていたものが、、、、わかるような気がしました。、、、と

晩年弟は言っていました。

父の時代の日本人の、こだわりが,
転職と表現されるごとく

経済的な損得には左右されない「道」があたのではないでしょうか?

碁には「討手返し」という局面がありますが、

経済を考えて、保険の点数に左右されていたら、

人生そのものが、

拉致のあかない

操作のような連続になるのではないでしょうか?

私は、、いまだに、ガラケーを使っていますが

必要なことができれば、それで満足なところがあります。

父は、疎開先のいたせいもあって

スーツは2着、

冠婚葬祭用の式服。

お気に入りのバカラの灰皿

パイロットの万年筆

、、、、

戦争を体験した人はやっぱり違うと思いました。

余分なものは持っていないのでした。

座右の銘の本が数冊。

それ以外は

欲張りな家族の小物やがらくたで

家は雑然としておりました。

母は自分でピアノの教室を主宰していましたので

自分で買ったグランドピノ、

アップライトが壱台

祖父に買ってもらったという象牙のキーのピアノが一台。


札幌に嫁いでから、とうとう、、、

死に目に会えなかった母だった。

私の主人は、北海道に定住すると決めて以来

里帰りも、家族ではしていない。

たった一つ、、、

母が疎開先で使ていたブラザーミシンが

私は形見にいただきたくて、探しましたが、

私が実家に着いた時には

母の住んでいた母屋の窓も、ドアも壊されていて、

3台あったピアノも

楽器類も、

もちろんミシンも

影も形も。なくなっていました

、、、その人がいなくなった家は、、、意味がないのだと、、、

思い知りました。

医師であることは「物」ではない。

だれも、もらい受けることtも、

相続することもできない。

一代限りのアーティストのように、

医師の力は医師だけのもの。

その生き方は、医療一筋であるがゆえに

無駄なものの入り込めない

誰も相続のできない「医師であること」

選ばれて、許された職業だけに、

子供たちに見せた父親像は

「医師の夢追う真摯な後ろ姿ではなかっただろうか!」

がんセンターの黎明期の弟たちの苦労の足跡は

何冊かの単行本になって出版されるたびに

遠く離れた北海道の雪の中で

私は手に入れて読みふけった思い出が、懐かしい。



何やら、二番じゃダメな国立がんセンターの使命が

混乱したころ、

弟は、流れるままに定年して

第二の人生に突入してゆきました。

がんセンターの50周年の記念雑誌には

黎明期に礎となった顔見知りの先生方はいずくにゆかれたのか?

母の葬儀に来てくださっていた先生方は定年退職されて、、、

見知らぬ顔の先生が、50年史を輝かせていました。

医薬学の歴史の学会に入っていたのですが、、、

医学の歴史は、

私のような部外者が

理解することはむつかしいと解り

医学薬学の歴史の学会の会員をやめました。

今はひたすら、、、酒井シズ先生の著書や、

雑誌の記事を読みふけりながら、

ウエルカム医学博物館から買い求めてきた

医学の歴史の英語の原書を

役立てることの出来なかった自分の未熟に思い知るばかりです。



日本の医療界というのは、、、アメリカや西洋とは

かなり違ったシステムで管理されていると思ったことがありました。

東京大学の医学部に勤めていた若いころに感じたことは

臨床病院と、基礎の研究分野の教室のコミュニケーションが

イギリスやアメリカ並みに、

両輪のようにコラボレーションしているという事でした。

私が40歳代のころ、薬剤師に復帰していたこともあり、

イギリスや、フランス、ドイツの病院を20箇所ほど
見学して、ゼミナールも受けてきました、

イギリスにはCTもありました。

セントメリーズホスピタルでは

ペニシリンを発見するキッカケになった「アオカビのシャーレ」が

病院のフロアーにガラスケースを設置して、展示してありました。

そのケースにはエリザベス女王のsign入りの文章が展示して有って

フレミングの学者としての実績をたたえていました、

病院の入り口には、フレミングの偉業を称えて、タペストりーを掲げ

臨床病院と、基礎医学者の基礎の分野の医学とが

両輪で廻っているのが解りました、

このことはイギリスが大国である時代が続き

世界の病院に、

臨床と基礎の

両輪の大切さを

啓蒙していたと理解しました。

啓蒙イコール。。。後進を行くものへの布石かもしれません。

その後中国4大中医学院や、西洋医学の病院を回り

漢方医の身分が、まだまだ、

これから発展してゆく次元であったことが、

滅菌や、近代医療機械の観点からも感じたのは1990年ころの事でした。

主人が、中国の某病院と交流をしていた2000年代は

中国は先進国と何ら変わらない医療レベルに達していたと

話してくれました、

札幌に約史学会が出来るまでは

「医学薬学歴史の世界の学会から帰国してから、

医薬の歴史としてまとめたいと思い

リュックいっぱい資料や書物を背負ってきては

ロチェスターの医療地域の事や

イギリス医学や、

ドイツ医学、


フランス医学が

現代の日本の医療人や、病院と

影響し合った点や、異なる点において

ゼミナールにも出席してきましたが、

札幌の医薬歴史の学会は、

私の勝手な医療に関する歴史の興味とは

観点が異なるため、会には所属していませんので

未発表になっています、




息子の卒業した順天堂大学の歴史も

関連病院の高齢者病院のあいさつの中で

順天堂病院の歴史が書いてあり、興味深く読みました。

その中には 野口博士の事にも触れていました。

日本の医学の発展の歴史を示している面白い巻頭の文章でした。


西郷ドンや、数々の大河ドラマに貢献している
酒井シズ先生という
歴史をまとめる歴史学者がいらっしゃることは、
知る人が知る、、事実。

札幌の病院の歴史のみならず

主人の勤務の病院の

創生期の頃から

日本の私立病院の発展を観てくることが出来ました。

しかし、、、

東京大学や、

国立医科大学が

臨床と、研究の両輪が回っているという、、、

暗黙の役割分担が感じられるので

島国の、、、医療の赤字国家では

新進の企業が経営する病院では

地域に貢献する臨床医は、

大学とパイプをしっかりとって

臨床に必要な学問を各自で、月給の宵越しのお金を持たないで

獲得してくるシステムは
社会のシステムが変わらない限り

当分は、へき地や地方にて働く医師は

個人の努力で頑張るしか道はないのでしょうね。

日進月歩の医学の道に進んで行った息子の未来に幸あれと

祈りながら、

ここらへんで結婚して子供を育てることが

文化に遅れないで、楽しく夢に生きることのできる

人生の布石かもしれませんね。


一人ぼっちで、オンコールに待機している息子に

雑音になるかもしれないけれど

ママのの日記帳を、クリックしてみてくださいね。

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくね、