あと8時間で、平成29年、2017年になりますね。
、、、毎日伸びてしまわないように、3時間だけ、雪を搔いています。
今年最後の雪かきにしたいと思います。
今年の雪は札幌50年ぶりと言う、
見事な雪国の景色に変貌させた、、、
まさに
{魔法}です。
昭和38年
大学受験を控えた深夜の三十日
タツノクチ ナオタロウ、、、と言う著者の書いた問題集を
そぞろ読んでいた。
「雪は魔法である。たった一夜にして、周りの景色を
全く別の世界にしてしまう。」、、、と
私は、その英語の問題を、訳したのを、思い出している。
戦争の終盤戦で、父の実家の在った市谷も、
疎開地に向かって、祖母の住んでいた串本も
焼夷弾が街を瓦礫の残骸に変えてゆく中を
私は、、、ぬくぬくと、、、母のおなかの中で
出口をさまよっていた赤ちゃんだった。
串本の、爆撃の中
母は、大勢の避難民とともに
防空壕に逃げ延びた時、
時も、所もわきまえず、、、
私は、母のおなかから、、、飛び出した。
父が、戦陣を体験して、帰国したばかりの医師であったから
私は、最悪の環境でのお産二もかかわらず、
無事にやってのけられたのでした。
運命的に、母を煩わせる相克の子供でした。
「防空壕でのお産を母に体験させてしまった鬼っ子でした。」
あのような、ばい菌だらけの、空気の悪い環境の中で、
どうやって父母に守られたのだろう?
聞くところによると、栄養失調で生まれたため
鳴き声があげられなくて、
そのことが、むしろ、
皆の協力を一身に受けられたように思えました。
各自が貴重な飲み水の水筒から、
お釈迦様のシャワーを下さり、
産湯ならずとも、
愛のシャワーをいただけたそうです。
行かされる運命になっていた以上、
人生をむさぼるわけにはゆきません。
どこかで、私を必要としてくれるかぎり、
与えられるものを持たねば、お返しは出来ませんよね。
手探りで、
今日一日、真面目に全力投球の心を繰り返し、
気がつけば、73歳を目前に
屋根に登って雪下ろしをしていたという、大晦日です。
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無事にこの世に生を受けたのが不思議な、、、昭和19年の夏。
そのまま、、、南紀の山の奥に疎開した。
13歳になるまで、、、雪を観たことを記憶していない。
南紀の山には、8種類もの蛇がいて
疎開先の丸太の天井には
灰色の「ネズミとり蛇」と呼んでいた長い2メートルもあろうかと思う蛇が
天井の丸太にとぐろを巻いていた。
御婆ちゃんの家の裏は、
上ん地(うえんじ)という、小高い丘のてっぺんを耕した
「菜の花畑だった。」
雪は観たことが無かったが、
全身真っ黒な、忍者のような「黒蛇」がいた。
脱皮を済ませたばかりなのか、脱ぎ捨てた洋服が
まさに蛇色のマダラの模様を光らせながらくたばっていた。
村の遊び友達は
「カラス蛇じゃ!てがうと追いかけてくるぞ!」と
教えてくれた。
雪のない和歌山では、未来の人生の半分を
雪掻きで暮らすなど、、、考えにも及ばない人生の展開だった。
小学校6年生の四月に、東京の小学校に転校した。
面識もないクラスメートは
いきなり私を「クラス委員」に選んだ。
いったい、右も左もわからない転校生を
クラス委員に選んで、
皆の気持ちが解らなかった。
何が起きようと、
村で大自然から教わった、動物たちのように
敵だとわかれば、それなりに行動しようと、
ごく自然体に、引き受けてしまった。
新しい顔が、単純に珍しいから
仲間にしてくれたのかもしれないが。
ハヤブサのように、クラスの友達のくれる
仲良し契約のような親切に
ことごとく、警戒した。
親切過ぎる事が、
和歌山の山でしばしば見かけた
仕掛けの餌に思えたりして
生半可の返事で、
いちおう受け取っても
祖のまま、卒業まで包を開けないで居たりした。
東京は広い。
中学校からは、転校生だと知られていない区域に行こう、、、
特別に親切にされたり
珍しがられることが
草むらに居る派手な色の動物と同じだから
目立つのだと、自分なりに作戦を立てた。
幸い、区域外の中学校で
正門の真向かいに図書館のある学校を見つけた。
「シメタ!」
之だけの本が無料で読める条件の中学校は
百万人の友達が居るのと同じだと思った。
卒業したら、此処に通学することにしよう!
心に決めてからは
一年だけの同級生が、全員親友に思えてきた。
来年からは、東京にもともと居た生徒として
新しい中学生活が始まるから、
特別の目で見られる違和感が無くなると思うと、
どんなことも、ニコニコと受け入れられた。
先生からは、申し分のない転校生になれた。
おかげさまで、家庭科だけが4で、
あとは、全部5という評価をゲットして
中学校に進学した。
図書館には、毎日新しい驚きがあり
常連のクラスメートと
ごくごく自然に本友達にもなれた。
話題は、読んだ本の事がほとんどで、
藤十郎の恋などの
女心のプライドなども話し合ったりした。
友情や心についても、中学生の未熟な視点で
喧々諤々意見を出し合ったりした。
その時「雪国」と言う本を読んだ!!!!!
長いトンネルを抜けるとゆきぐにだった、、、、。
つまり、トンネルを異次元に入る入口にしていた。
それほど、雪のある世界と、雪のない世界は
次元が違うのだ。
中学生の私は、単純に、
浦島さんが海の中の水の向こうの竜宮城に行った時のような
異次元感覚で「雪」をとらえていた。
雪を知らない時代の「雪国」の本を
北海道で暮らして、
雪は美しいだけではなくて
x軸のように、
ゼロ点を境に「マイナス」に向かって
心まで凍るという事を体験した。
チャレンジ精神も、行動力も、雪が降り出すと
来年春までは、全てお蔵入り。
新進と振り続ける雪を、
ひねもす搔きながら
人生の、貴重な時間が凍り付いてゆく。
長くて2年で東京に還るからと
母と約束して、東京に居場所を確保して、
家賃無料、アルバイト先確保、医師家庭で育った薬剤師
あんたなら、
手を組んで一緒に生きてゆくボーダーラインの条件はある。
29歳になっても、このままなら、外科医になれない、、、
色々な手術症例が多くて、若手の自分にも執刀させてくれる条件の
修行の場を、探していた、
「俺の事だけで頭いっぱいの、、、外科医の卵に出逢ってしまった。」
自分は医者だから、
無条件に誰でも選んでよいのだと思ってるようだ。
雪の中で、真っ白な世界で
医学だけに没頭して生きてきた29歳とは
子供のままの手前勝手な独りよがりで
ドンドン、勝手に決めてくる。
ワツィは「結婚してあげるなんて、言った覚えもない。」
お母さんさえ説得すれば
結婚なんて、
何とかなるもんだ、とにかく、
北海道は体験する価値のある大自然がある。
人生の2年や3年、雪国で暮らすのは宝物になるはずだ、、、とか。
本州育ちの、雪国を知らない、
いざとなったら、自分だけ本州に還り
自活できる自身はあった。
いま思うと、、、転校生の一年間が
人生の冒険だったように思える記憶が
再び、雪国での転居生活の冒険心を目覚めさせたのだと、
原因は、自分の心に眠っていた、転居の冒険心だったような気がする。
生半可な、雪への憧れがあった。
中谷宇吉郎だったかな?
雪の結晶を研究して
人工雪に挑んだ本を読んで
感動したことがあった。
色々な表情を見せる雪の結晶が美しすぎて
生成過程で模様を描きながら伸びる自然の不思議に
どこかで、雪への憧れが、
「俺俺、、饅頭の俺しか考えてない未来の主人の言葉」
「雪を全く知らない雪の中で学問している医師」
「都合の良い事ばかり言ってる、未発達な思いやりのない言葉」
必要以上に「医師であることは、未来に中流の上になれると信じてる幼さ」
私は、、、思わず言ってしまった。
「医師になるのは難しいかもしれない」
「医師をするのは、医師を続けるのは、、、親の遺産とか、
実家が金持ちとか、、、日進月歩の医学社会で、一生学生やるだけの
お金が居るのが解っていて、言っているのでしょうか?」
家もない、
車もない
免許もまだない
返済しなければならない奨学金が100万以上ある、、、
結婚どころではないはずだとおもいませんか?
良い医師になって、医師の競争相手に勝たなければ
医師を続けることは難しいとおもいませんか?」
そんな問題、、、医師を続けているうちに
雪が溶けてなくなるように、
解決する問題だよと、、、自信に持ちている。
雪は、自転も公転もしているから、解けるけど、
医師になってからの勉強は
留学だって、開業だって、研修だって、学会参加だって
研究だって、、、、
どんだけお金がかかる問題か?未体験なのね。
いざとなれば、君の実家の外科に勤めて
内科の兄さんの、手助けをするよ。
君は役立医師だから、無給の時代の短期間なら
稼げるだろう、、、
手前勝手の「俺」の強い「ご都合主義」の皮算用に
極めて、幼い、説明しようのない弱さを感じた。
この、未熟な未来ある外科医が
立派に、社会に役立てる医師になる間、、、
チョットだけ、手伝ってあげれるかもしれない。
外科医を志す医学生なんて
多分、これほど、単純に、未来に良い事ばかり考える正確でないと、、、
人様の、体にメスを入れる初めの出発が出来ないのかもしれない?
スポンサーになるほど
私は豊かではないが、
外科医の娘として、医科で育った私の常識が
役に立って、立派に世間様に役立つ医師になる人かもしれない。。。
とりあえず、、、是もなく非もなく、無感動なまま、東京に還りました。
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東京に帰ると、
転校してきたころの
孤独な戦いの日々を思い出しました。
北海道大学と言う、
北海道では東大のような役目の大学を
卒業したからと言って
東京に帰ってきたら、
道は一つ、、、
我が家を手伝いながら、
お金を貯めて、
東京の、どこかの医科大学の医局に所属して、
教授に、医局員として認められなければ
一匹オオカミの流れ流れの医師になるしかないのでは?
このようなむちゃくちゃな人生は避けたい。
我が家では、毎日お見合い写真を持ってくる。
兄は、24歳のうちに、家を出て行ってくれ!と
目を三角にして、厳しく言う。
北海道か?、、
雪の中の生活か?
転校生で東京に来たころを再び思い出しながら、、、
東京に帰還してから、中学生になったころ
一度大雪を経験したが、
ひざ下10センチの雪玉を造ってはしゃいだっけ、、、!
弟が、、高校受験の時
大雪が降って、バスも電車も遅れたことが逢った記憶がある。
下駄の歯に雪が詰まって歩けなかった。
それでも、「魔法」と言うほどの、変貌を遂げてはいなかった。
一度「魔法」と書いていた、、タツノクチさんの
別世界を知るのも、良いかもしれない。
ぐらぐらと、心が不安定な時、
「俺俺、、俺の事しか考えない、、、未来の主人は
母に逢いに来た。」
「必ず、医学博士を取得して、教授の許可のもとに
我が家の外科医として赴任すると、、、彼は言っていた。」
高揚した顔で、母は言った。
「54歳と言う若すぎる外科医のお父さんが、生まれ変わって
我が家に戻ってくるのよ、頑張って、博士号を取得するまで
北海道で、彼を支えなさい。」
母が、、、「魔法にかかってしまった。」
母さん、、、博士になったら、医局が話すわけないでしょう!
医師一人育てるのに一億以上、国は援助しているのよ、
博士になって、使える医師になって、本州にかるなんて、、、
彼は、
サラリーマン家庭で育っているから、
転勤ぐらいに軽く考えているのよ、、、
毎日降る雪のように、
しばらくは
母との、同じことの繰り返しの話が積もった。
雪、、、
雪の白さ。
雪、
雪の美しさ。
良いところばかりがイメージとして積み上がってゆく母の青春。
私は、50歳代で未亡人になった母が
生き生きとよみがえってくるのなら、
2~3年北海道で暮らして
母のお気に入りの外科医を連れてこれるなら
それも人生の、私の役目かもしれない、、、と。
まじまじと、、、母の瞳を見つめていた。
一家の大黒柱の父が、
外科医だった伴侶の父が
突然過労で死んでしまった母の気持ちは
娘としては、支えられるものなら、、支えたいと。
うぬぼれてしまった。
世の中そんなに甘くない!!!
ミイラ取りがミイラになって
24歳だった私は
73歳になろうとしている。
ふとした、事から、北海道の留萌の寿町から
私の、、、結婚生活が始まった。
夕日が美しい、、、見とれるような日本海の夏だった。
それが、、、冬の訪れとともに、、、
まさに、、、「魔法」であった。
あの問題集に出ていた英文を、
われとわが身で体験した。
同じ留萌とは思えない、、、夏と冬。
坂道を転がりながら、、、桟橋に降りて行った買い物の記憶。
帰り道は、30センチ先が見えなかった吹雪の中を、
寿町の合同宿舎にたどり着くと、
雪が腰まであって、戸口が開かなかった、、、け。
木で出来た垣根が、風よけの役目が果たせず
雪に埋もれたまま、、
ギーギーと音を立てて前後に大きく揺れていた。
寿町の断崖の上の古い宿舎で、
一つしかない台所に寮の医師達が共同で使う。
3日で、怒って帰ってしまった医師夫人もいた。
廊下は雪が吹き込むので
長靴で歩いた。
私は、風と雪と 波の「魔法」を見続けながら、、、
「若さの無知な己」を、打ちひしがれながらも、育て続けた。
*************
4年後に札幌の冬を過ごせるようになったとき、
雪の土手の上を歩いた留萌の冬が、、、、
別世界に思えた。
札幌の雪は、
雪国の趣さえ感じる余裕が出来ていた。
そして、、、一度だけ、
「おはようさん!」と窓を開けたら、、、
真っ暗で、、夜と間違えた。
雪が積もって、光が無かった。
おりからの落雪で、
ソファーほどの圧縮された屋根の雪が
コンクリーのたたきで跳ね返り、
二重窓をけ破って、
ラワンの窓枠をへし折って、、、
窓際に設置していた勉強机を、
反対側の壁まですっ飛ばしてきた。
部屋は、、、雪だらけ、、、
よくぞ、、、生きていられたと、
部屋の中の、巨大な氷塊を見つめたのは
北国での恐怖の体験だった。
ミサワホームと言う
本州ではブランドのハウスメーカーである。
三島あたりでも、瀟洒な家がたちならんでいる。
本州のメーカーは、部屋が落ち着く。
しかし、、、雪国の雪の怖さを知らない屋根の造りは、
40年たった今では、
すっかり、変貌を遂げ
無落雪や、落雪の危険を回避した形になっているが、
昭和50年代のバブル期の、乱立した時代の建物だけに
後々のメンテナンスが、もう一軒買うほどかかったのは
雪を知らないというブラックホールが
吸い込む、設計のマイナス面だった。
その夏、屋根のこう配を
2倍に急こう配に改築した。、
屋根に巨大な雪氷塊が留まれないようにした。
反対側の子屋根には、45個の雪止めで
氷に変貌した巨大な氷塊が、
歩道に飛び出さないように工夫した。
本州育ちで、
下宿生活の寄生木状態の医学生だったせいもあり
雪を知らない、夫は、
全てを私に任せきっりで
自分は医者の仕事だけしかしないという
確固たる姿勢を貫いた。
雪かきは、、、女性の仕事として定着した。
出勤までには、玄関から通りまで除雪をして
滑らないように「ザラメの砂」を播いて
主人が、己の為に
ひたすら、無駄な時間をかけないようにと
「医者を続けるための、、、体力」を減らさないのが
長い目で、家庭を守ることだと、理論は立つ人だ!。
一日かかって、ゆっくり退かせばよいのだから、、、と。
北国の主婦の役割と、、、思い込んいる本州育ち。、
ひたすら、、、
かれこれ50年、、、
スコップは私の道具となった。
除雪車や、ショベルカーが
吸い上げたり、
掻き揚げた雪を
圧縮して道幅を広げてゆく。
機械のすることだから、
門の前には圧縮された細かい雪玉が
ぎっしりと積み上がり
雪のバリケードが出現する。
鉄製のスコップでないと、
堅くて刺さらない雪に変貌して
入口には、行かせないぞと
立ちはだかる。
三十日の、
忙しい時に
、門から入口までの
3畳ほどの圧縮された雪を、
レンガの2倍ぐらいにスコップで切り
手頃な厚みの所に鉄スコップを差し込み
テコの力で「雪のレンガ」を200個ほど切りだし、
昨日までの除雪で、
捨てるところの無くなってしまった玄関先の雪の土手に
200個のレンガ雪を手で運び、
雪の中に、スコップでたたいて潜らせてゆく。
かれこれ、3時間と30分、
レンガ模様の雪の土手が完成した。
背中を流れる汗が気化熱を奪い
寒冷蕁麻疹だらけになって、
作業は終わる。
いつもなら、
お風呂に飛び込むのですが、
本日は主人も仕事休みで、
一年間の疲れの中で
爆睡中。
本来の、正月の仕度に、汗だくのまま取り掛かる。
去年まで、
雪かきでいつも挨拶を交わしていた近所の男性が、
今年は医者から、
除雪を禁止されたとぼやく。
雪が退かせなくて、、、イライラするけど、、、
ドクターストップだと、
しょげて見えた。
明日は、、、
わが身だとわかっていても、
出来るうちは、
正月ぐらい、
玄関の周りは除雪して、
通り道は、気持ち良くしたいと思うのは
主婦の習性?
「除雪の方々も大変なのは
観ていてわかる」、、、、が
後期高齢者の玄関先に
除雪の雪を吹きかけて、
入り口をふさぐのは
何とかならないものでしょうかね?」
いちいち注意していたら、
除雪車は前に進めなくなる北国の除雪事情。
今年は、「排雪が入りませんでした、、、住宅ゾーン。
」
しかし!見事!
バス通りは、排雪されて見通しもよく
北国の交通インフラを守る除雪隊の皆さんには
底力を見たようです。
今年の雪の多さに
心より、、お疲れさまでしたと、、、
頭が下がりました。
今は真夜中の
大晦日に突入しました。
皆さま、、、良いお年をお迎えください。
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このブログは、親しいあなた方数人の為に
家族の絆で書き続けていますが、
キーワードで検索された場合
見知らぬ方々も観て下さっているようです。
日記帳として、そこはかとなく書き綴れば
あやしゅうこそ、、、モノグル★けれ、、、(^^!
適当に、斜め読みして
、通過してくだされば幸いです。
息子たちや孫たちよ!
来年も、頑張って!
良い年を迎えてください。
弟や、姪っ子の友よ、
そして、その子供たちよ、
未来の日本、、、
いいえ、、、世界の平和を担う世代よ、
健やかに、
新年をお迎えください。
今年は、付き合ってくださり、、、
ありがとうございました。