花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

復活に向かって

2015-09-23 00:34:57 | Weblog

昨日の真夜中、NHKのラジオから
淡谷のり子さんの
懐かしのメロディーが流れてきました。

大きな柳の木のしだれた南紀の診療所の2階で
ビクターのワンちゃんの蓄音機から流れていた

懐かしの「ブルース」でした。

あのころ、、、
疎開先には、
心砕け散った敗戦の
心身ともに打ちひしがれた帰還兵や
引き揚げてきた一文無しのインテリで

復活に向けて手探りしていました。
ドイツも、日本も
どこか似ている国民ですが、

アメリカから帰ってきた祖父や
祖父の捨て身の大陸への迎えのおかげで
命拾いした父母は

祖父が町長をしていた南紀の山奥に
導かれて、、、導かれて、、、
七か村無医村という集落疎開地に
唯一の、医師として、

復活の第一歩を踏み出しました。
祖父は「淡谷のり子」さんが大好きでした。

心身復活リハビリーを兼ねて
診療所の2階は解放されて、

曜日によっては「ダンス教室」でした。

イタリアの庭、ブルータンゴ、
コンチネンタルタンゴの数々、

そして、淡谷さんの「ブルース」。

敗戦の時、真っ赤サー元帥が
「日本人は12歳」と言った事は
当時の敗戦国民の反省とするところでした。
同時に、12歳ではないぞ!という、

理解されない「貧しさからくる勝気」が
切ないまでの「復活への努力に向かいました。」

こんな田舎に、「アメリカ村」もありました。
切手とタバコを売っていた雑貨屋のお兄さんは
ワシントン大学を卒業していました。

失業の状態の傷痍軍人も
戦争で、戦陣外科の指導者を兼ねて
戦地に従軍していた父のもとに

松葉杖を抱えて、
ぴょんぴょんやってきていました。
戦地の病院に合流した私たちの家族も
引き揚げてくるまでに、
兄2人、姉一人、流産一人と、

確かに12歳と言われても仕方のない
「産めや、、増やせや、、」
肉弾三銃士、特攻隊と、、
すさまじい戦火を潜り抜けて
心身打ちひしがれた昭和20年前後の日本でした。

誰かが、、、ブルースをリクエストしました。
傷痍軍人のおじさんたちは、
涙を流し始めました。

音楽大学を卒業している母は
これまた、
新橋のフロリダのダンスホールの
至近距離にある医科大学を卒業している父が

戦前の、
二人が出会った頃の
ダンスを踊り始めたのでした。

クルクルと回りながら輪を描くワルツ、
大人の女性の淡谷さんのブルース
イタリアの庭のタンゴで太陽に
ブルータンゴで切ない思いを

それぞれに教えてあげていました。

あの蓄音機は、引き上げてきた年に
重病だった生き残りの兄が
復活したお祝いに、
誕生日に、親にねだって
新宮から取り寄せたレコードでした。

新宮の女学校を卒業してから
国立の音楽大学に進学した母は
当時、日本中を演奏旅行したり、
27歳でアメリカに渡った母の父に当たる祖父に

3か月かかる船便で
ピアノを買ってほしいと手紙を書き

ピアノを手に入れるほどのハイカラさんでした。

復活の村の診療所を開放した二階には
田辺あたりから、
日舞のお師匠さんを招いていました。

当時は「保険制度もありませんでした。」
診療報酬は、「野菜やら、川魚や、栗や、桃、、、」

お金で持ってきた人は、
いちおう、一度は診療所の金庫に入っても、
すぐに、復活の軍資金に回っていました。

おかげさまでなのでしょう、、、
田んぼや畑を耕して、畝を創り
種イモや、種を播けばよいだけにして
父母に提供してくれていました。

母は、、、きゃべつや、夕顔や、かぼちゃや
野菜を植えていました。

父は、祖父に頼んで
アメリカから、花の種を取り寄せてもらい

グラジオラスや、トリトマや、
イチゴや、ほうずきなど、

薬として使えるジギタリスや
シオン、ツルニチニチソウ、ユキノシタ、、、

色とりどりの薬草と花を植えていました。

復活の昭和20年代、、、
お爺ちゃんの大好きな
淡谷さんのブルースは
復活のムードの中で
多くの人の心を繋ぎ

マッカ―サーの言ってた

12歳の大人たちを、
どんどん成熟させていきました。

お爺ちゃんは淡谷のり子さんの
高い教養と、生き方と
毅然とした自分をもっている姿を
尊敬していました。

クラシックフアンと
歌謡曲フアンの中を繋ぐ歌手でもありました。

形は違っていても
私の時代は、安田姉妹の童謡が
同じような役割を果たしたと
ふと、、、
思ったりしながら、
お二人の声のまじりあうのを聴いています。

眞夜中に、
淡谷さんのソプラノとブルースを
一人聴く、素敵な時間。

私も、、、復活のこの頃です。
訳は話せませんが、
なにかを信じて
空に投げました。

なにかを信じて。
日本人だから、、、。

解らないのですが、
そうすることが、、、日本の為と
ふと、、ひらめいたのです。
日本が、悲鳴を上げたのかもしれません。

疎開地で、就職先にあぶれた引揚者で
貧乏のぞん底を見ているようでした。

その時、
ヒトラーが
就職先を創る意味でも
弾丸ドーロの網の仕事を創ったり
アメリカが、
テネシーを開拓したり
苦肉の策ではないのでしょうが、
被災地救済は、
日本の救済につながるといいですね。

でも、、、、ヒトラーのように、
軍隊が独裁にならないように
三権分立は
日本人が、
「人」であるための条件だと思います。
ではないのでしょうが、

疎開地では昭和20年代
バタやんのハワイ航路や
春日八郎のお富さんや
三橋道也の民謡が流れる時代でした。、

電気のなかった山奥に
電気を引くという名目で
「ダム」の建設が始まりました。

祖父の一族と言えばよいのだろうか?
親戚筋といえばよいのだろうか?

ハイカラさんが多く、

県庁や、
政治家にパイプのある知り合いが多くて
宮様の、和歌山のご訪問の
ご案内の栄誉に浴したり

復興のイベントの
審査員をしたり

ダム開発の
会議をしたりしていました。

新宮の山奥で

パルプの輪転機のような大きなロールのまわる
会社を経営していた親戚も居ました。

復興産業という事だったのかな?
今、、、振り返ると、
、、
就職先を創る事と、

アメリカナイズの近代化と
両にらみが、
生きる唯一の
活路だったのかもしれませんね。

ゴールデンゲイトブリッジを
まねた吊り橋や
洋館が、ここかしこに、現れました。

ダムの建設が始まりました。

診療所は、
けが人や、
ケンカのたんこぶで
荒々しい空気が
連日運び込まれてきました。

ダム工事が始まると

「ヨイトマケの歌」
ソノモノのの
母ちゃんの土方が
目の前にくりひろげられました。

もんぺを着た、
女性の土方さんも
骨折などで運び込まれてきました。

事故でなくなった方の解剖も、
学校の施設の一部の
離れの建物の部屋で行われました。

警察官や、
白衣の係官に交じって、
父は協力を求められ
法医学という
社会参加をしておりました。

出来上がったダムは
青々と水を湛えて

この中に、
涙とともに
村が沈んでいるなんて
思えない
「新世界」でした。

アユの多かった川が、
苔だらけになって
淀んでしまったと、
アユで生業をたてていた人は
川が、汚れたと言って
怒っていました。

30年も経てば、
元に戻るから、
電化の時代が、
アメリカ人が
運んでくる時代になるから

電気が無いじゃ済まされん時代が来るんじゃよ!

アメリカから引き上げるとき
持ってきたという
電蓄をかけてくれながら
祖父は、幼い私に
言っていたことを思い出します。

その電蓄からも

「淡谷のり子さん」の
レコードの音が
聞こえてきたのでした。

母はきっと、
おじいちゃんの
音楽マニアに
影響を受けたのかもしれません。

ダムは、
地元の地主の議員さんにバトンタッチされて、

技術と、設計や企画にかかわっていた技師たちが
村からどんどん去ってゆきました。

昭和28年から30年前後
東京へ、大阪へ、和歌山市へ
田辺や新宮市へ

疎開の人々は、子育ての教育進学に突入し
特攻隊精神で
新しい時代の教育に遅れまいと
都会へ都会へと出てゆきました。

父は、唯一の医師だったこともあり
引き留められて、
2年間は単身で疎開地に残りました。

母を中心に、私たちの家族は
父の故郷、祖父の故郷の東京に帰還したのでした。

父の故郷の市谷では
かっての家屋敷は他人の物になっており、、
引揚者や、土地家屋から家族を失い
健康も不安定なドブのある街に
戦陣で身に着けたすべての科に通じた医師が
必要とされている地区があると、

同窓生や、
同級生の開業している下町に戻ってきました。

かっての、貴公子のような父の姿はありません。
子供たちの教育の為に、
子供たちが生きネバならない時代の変遷に

教育を通して、日本の復活をかけると
父の最後の戦いでした。

生まれ故郷の市谷とは
かなり違うので、
初めは戸惑っていた事も

視点を変えれば、良いことも多く、
レストランの味も、赤提灯の味も

淡谷のり子さんは大人の味にしていったと
思いました。

東京に来てからは、
私は、越路吹雪さんが大好きでした。

大学に通う頃には
銀巴里???まるやまあきひろさんという
つけまつげのような青年の、
シャンソンが好きで、通いました。

一回だけ、ASBとかいう、
若向きのジャズを聴きに行きました。

あのころ、ヨイトマケノ歌を唄う
セーターを着た、
ヘップバーンのような
青年が、おりました。

東大に通っていた友人と
良く、待ち合わせてものでした。

日航ホテルの地下にもシャンソンが響いており

ホテルの前のアメリカン風の薬局で
アルバイトをしたものでした。

普通の薬局と違って、
銀座のホテルの近くの薬局は、
夜になると、何ダースも、
四角いキノコ山の
チョコレートのような箱が
売れるのでした。

お客の顔を見れなくて、
紙袋に入れて、下を向いて、渡していました。

勤務が終わると
シャンソンを聴きに
今、稼いだ日当を使っていました。

大学が御茶ノ水にある日大だったから、
社会勉強も、合わせて単位をとれた青春時代でした。
山奥の疎開地から、東京に来れたのは
父の捨て身の教育のおかげなのに、
落第は出来ません。

教養時代が終わって
からは、就職活動を考えて
英語を使うアルバイトや、
自分の英語の勉強を兼ねた家庭教師にと
アルバイト先が変わってゆきました。

私は、どんどん、、、
つまらない大人になってゆきました。

復活とは、、、父母の捨て身の愛に感謝して
自分も、
子育てに、
全力を尽くすことかもしれないと

70歳を過ぎた今、
命を懸けて孫子を守ることに出逢ったのでした。

日本の国が未来の子供たちへの
愛のある教育にかかっていることが
やっと、この年でわかってきました。

また、、、教育は、、、
お金がかかるという事も。

親が育てる時期と、
社会が育てる時期があるという事も知りました。

子供直接には、
教えることは出来なくとも、

日本を、心豊かに育つ子供で埋め尽くせば
心が貧乏であるがゆえに、
勝気に足を引っ張る社会はなくなり
良いものを出し合って、
チームで生きるナデシコに
皆がなれるのではないでしょうか?

ナデシコが教えてくれたこと、
淡谷さんが見せた生き方、
父母の捨て身の愛、
祖父の国境を越えたアメリカを理解していた教え。
父のイギリス医学。
疎開地で見た、地球と共存する地元の人々。

太陽のエネルギーを貯めている自然の恵み。

人生を振り返ると、
各セクションの秀でたことが
円卓に集まり
平等に意見や体験を
交換できることと同じような
PC.が、
中を取り持つ扇のかなめになると
考えるのは早計だと、思うのです。

肌を触れながら、
自ら体験しながら
実践しながら、

コーヒーは豆を選ぶところから、

香りをききわけ、
味を知り、
世界から、鳥瞰図のように
全体を3D以上の感性で
とらえる発想で生きてゆけたら、

私も、一文無しからでも
復活できるのに、、、と、

PC.をたたきながらも、
PC。中毒になって、仮想社会を現実ととらえる
危険な機械の洗脳術にはまらないように、

孫子の時代は、
自分で体験させて、体とぶつけ合う実践を通して
日本は。成熟していってほしいと思いました。

真夜中のラジオは、激しいクラシックに変わりましたよ。

「誰も、、、寝てはいけない!」













姿なき怪盗?か?鼠小僧か?見えない日本

2015-09-18 04:31:43 | Weblog

ここのところ、、、久しぶりの晴天秋晴れ!

太陽の力ほど 命の洗濯をできる環境はありません。

日光は。当たり前という時代は終わったかのような都会!

直接のアクセスではないのだが、

廻りまわって、被災地や災害地の復興費用が

税金に加算された、被災地復興税として

何をさておいても払ってきました。

当年75歳の「肺炎の予防注射対象年齢」の者。

一昔前なら、息子や親戚のお世話になって

奥の一間に、万年床をしいて

「余生」を生きているのか?

お迎えを待っているのか、、、
周りは外出もままならなかった。

お仲間の中には
被災地に、勤務を移し

人生の
「意味のある時間を過ごされている勇者」も居られることが

道新に出ていた。

近頃の御老人は、、、昔とは変わった。

それにしても、人災なのか? 天災なのか?

堤防の決壊、地域ごと被災に逢う。

堤防の決壊の為に、上流の地域の水は水位が下がった。

堤防で、水を食い止める、、、
この発想を逆転させる出来事に出逢った。

つまり、、、
ある地域を、水害の時に沼になる地区として

国有地区として、
家も、施設も建ててはいけない地区とする。

周りは堤防で「立ち入り禁止地区のボート置き場とする。

今回のように、全ての地区が水浸しにならないように、

このゾーンの堤防は低くしておく。

その先は海に向かう運河にする。

こんなことを考えながら、
今回の異常気象は、天空の宇宙の向こうから

宇宙人が「ケムトレイル」という
幻のSF映画の気体化した個体を
播いたのかもしれません。

成層圏で、
低気圧を移動させる時代が
来るのかもしれません。?

息子の卒業した大学の校内雑誌には

東北のいたるところに、ボランティアが行っています。
行動費も大変だろうと思いますが、

そんな事を考える前に、
行動を起こしている記事に

敬服しています。
医療班は、被災地にとっては、
心が、不安になるのを防止できると思いました。

今回も、水害の被災地に
医療班が出ているのを見て、

御老人の、二次事故からくる健康障害を
少しでもくいとめてくれればと
祈っています。

消防隊の方々、
自衛隊の、職務とはいえ
自分の命のギリギリの救援行動。

しかし、、、人災は太陽も奪います。
政治一つの方針で

戦争と平和の、狭間での自然破壊が起きています。

人間は一歩間違うと、、、地球泥棒になりかねません。

詐欺師もペテン師も、
人間としては恥ずかしい人たちですが、

未熟な思想家、
未熟な宗教家
未熟な経済学者
未熟な科学者
未熟な建築家、
。。。。

。。。。。。。

etc.

何処まで行っても未熟なことが
森羅万象、、、自然の姿を見ていると

がんばる人間群が
地球の「がん細胞のように増殖」しているのが

科学なのか?
政治なのか?
思想なのか?

はたまた、、、コンピュターの
人工頭脳の重箱的な応用の計算結果なのか?

もうかりまっか?

ボチボチで、、、

損か得か、
支配するか、支配されるか?

こわされるか、守るか?

二進法は都会を創り
都会の法則は「コア10000、、」が、
膨大な行列式を数秒で解く。

大学教授もスーパーPC、の僕となる。

個人情報はガラス張りになって
国民ナンバーで、見えない監獄の中で

自分の椅子を探し回っていると、

NO1234567番の椅子はこちらですと

決められている。

最近、使っていた不動産を2つ
買値を下回る値段で処分した。

不動産そのものは「空間」であるから、
金銭的な損害である。

しかし、、、20年も、37年も、
其処にあったこと、
使っていたこと、
膨大な郵便物が来ていたことの喪失は

計り知れない損害である。

戦争の時は、着のみ着のまま防空壕に逃げた。

命だけ、、、守れれば、、、大自然の太陽がある、

人生という人の世は

本当の、、泥棒の姿は見えません。

命守るために、

姿が全然見えない相手に、
家を二軒分売って振り込む場合だって
起きないとは限りません。

世の中には、、、ヒットラーのように
何が何だかわからない人もいますし、

ドイツは今は避難民を受け入れていますし、、、。

ともかく我が家からは

生涯かかて、人生の終わりには
サザエさんのような家庭を創る夢も、消えて

リタイアしたら、小さな病気より分け診療所を創り
100歳の医師が、地域の一角に於いて
ご奉仕できる開業スペースを

夫にプレゼントしたいと思っていた企画も
姿なき怪盗に、カンパしました。

多分、、、国を喰うとんでもない外来種の調整や、
被災地一番乗り、
命を盾に民間救助隊で、
どこかで、、、火だるまになっても頑張っているのでしょう、、

姿なき怪盗は、、、
多分、、、鼠小僧なのでしょう。

爪に火を灯しながら
人生最終舞台で、小さな診療所を創り

近所100メートルに、貢献できる100歳医師の予算は
今回、、、「O」になりましたが、

姿なき怪盗の方が
きっと、劇薬のごとく、
瀕死の日本を救うのだろうと考えて、

家二件分の代金は、空に投げました。

誰が受け取ったかも、、、そんなことは知りません。

本当の、、、泥棒は、、、

戦争を起こす人間だと思っています。

そのお金は、、、戦争防止、未来の平和日本の為に

使いますと、、、空から声が聞こえてきたから

空に、、、投げました。

日本を泥棒しにくる
未熟者の教育費に使ってくれるでしょうと

投げた過去は振り返りません。

瀕死の日本を救うのは

世界の中の日本としての役割のある事。
世界から、メンバーとしての
評価される国である事。

政治は、
派閥争いを
国会議論に持ち込まないスマートさを

国民は期待しています。

平和とは、???
子供の時代に、、、幸せを!

、、、徴兵制度は反対です。




心のゆくえ

2015-09-15 01:36:56 | Weblog

天災、、、自然の力の凄さ

心は購う術もない

人災、、、

地球は生きていると思うのです。

40の息子が、小学生の時

仕事バカの父親は

自然の凄さを息子たちに伝える時間が持てなかった。

一年発起して、

母親だけでも、、、感受性の強いうちに

自然を伝えて、なにかを敬う

心があれば、

家庭で伝える「時と心」と「今」でしょう!
その一瞬を捕まえて
体験させれば、
心は広く、豊かに育つはず。

阿蘇山の火口まで連れて行きました。

あれから30年以上、
阿蘇残は爆発していますが

かって、、
見つめた阿蘇残の火口は
ダイナミックな地球の
穏やかな青い水さえ湛えて
吸い込まれそうになりました。

今、、、爆発しているのは
心の豊かさを、忘れてゆく日本に
とてつもない知恵を授けてくれているのでは



なかろうか???

大洪水

2015-09-13 02:34:43 | Weblog

かって体験したことのない
豪雨のとどまる
茨城県 宮城県 栃木県 福島県から東北の豪雨。

堤防の決壊がもたらした、
災害。

自衛隊の皆様
消防署の皆様
警察の皆様

心より、お疲れ様と、感謝の気持ちです。

堤防にも
決壊しない工夫がひつようです。

災害は、、、

哀しい。

虚脱かんと、リバウンドを避ける技

2015-09-10 02:58:40 | Weblog



人は、目的に向かって2年間、集中するという事は
そのことだけを軸に考えながら

ほかの仕事は
意識の外で、習慣として
無意識に動く筋肉に任せてきただけに

ノルマを果たした直後は
私自身も気が付かないうちに
眠りに入っていた。

気は付くと眠っている。
いつ眠りに入ったのかも覚えていない。

今起きた。
間サージ椅子で肩をもみ
君とだけ話すつもりの
この、、、日記帳を書き始めた。

君と違って
理屈の理解できない私は、

寝ない子、、、誰だー
お化けが出るどー、、

怖いから、頑張ったのではありません
阿部さんも、民主党も
全ての野党も
今回は、、、万策尽きる思いで、

世界の中の日本を、
オキュペイションしなければならないと、、
国会番組のNHKでは

よくも、、、こんなに
エネルギーのある方たちだと
観ているうちに
TVが、ガンガン鳴ったまま
ほかの番組に代わっている頃
目が覚める。。。

いつの間に、、、寝たのだろう、、、

爺婆になっても
孫子の時代は、戦争に巻き込まれたくない。
しかし、、、

攻めてきたら、守るしかないではないか?
父母の時代は、
日本の軍国教育の被害の時代であったと
過去を振り返るとき。

阿部さんの「地方の時代」が
キーワードのように、

世界戦争が避けられない時代が来たとしても、

戦争を知らなかったという一握りの遺伝子が
日本人を再興して、

雑草にも似て、
道端で「オオバコ」になって
アフリカや、
途上国の
かっての日本の成長までの過渡期のように

未熟な戦争のボタンを押したとしたら
少なくとも、PC,や
国民ナンバーで整理されているゾーンは
一瞬のクリックで
削除される時代が
考えられなくはない。

そうした、、、
魑魅魍魎のような無発達な発展の仕方が
全く起きないとは言い切れない。
「0」ではない。

仮に今回は、肉体的徴兵制度があるようでは
日本は「愚図」という分類をうけないだろうか?

70歳まで、独学で
あちこちを、
クリックしながら覚えたPCを
あっという間に
「スマホ」が追い越して行ったように、

日本中が、頭脳的に
外からのインベーダーを守るシステムを敷けば
各地区に、
電子頭脳を扱える人間を養成すれば、
国防は、かなりの割合で防げるのではないか?
、、、と、、、足りない頭で
希望的観測をしている。

未来の国防は
筋肉戦争ではなく
サイバー戦争になるのではなかろうか?

国会答弁をNHKで見ていても
いつの間にか眠っている私の言葉は
君だけしか聞いてくれないだろう。

でもね、、、
朝に道を聞かば 夕べに死すとも可なり。
精一杯、、、生きてる役目を感じるのですよね。

戦う男たちの銃後を守って
エネルギーに代わる経済の交通整理を
まともにできなくなってしまった

時代遅れの私にとって、
株や債券の世界には
飛び込めない。

病気で入院する前後
突然、、、紙切れになった日本空港の株券、

息子が結婚するときのお祝いや、
孫子の合同海外旅行にと、
自分が薬剤師をして得た収入を
売り買いは一度もしなかったが

本州の大学に通っている息子に会いに
ひこーきに乗るとき
割引券が来ることが楽しみで、
自分の月給をつぎ込んでいた。

クリーム色の、受領書
証券会社の責任者の実印まがいの厳かな印鑑。
証券会社の四角い社印
おまけに、収入印紙も貼ってある、

このペラペラな紙切れを
タンスの引き出しに入れておくだけで、
大きくなった孫たちと、
ハワイに行く夢が見えて、ほほ笑んだ。
二男の結婚式には、豪華客船で
一週間の新婚旅行を送ろうとか、、、

一人、微笑みながら
小児科の
一枚に15種類もあるミリグラム単位の薬を
調剤しながら、夢があった。
目は疲れたが、気持ちは朝を見ていた。

電話一本で、貯金が出来た時代である。

体をこわして、全身麻酔の手術を受けた後、
しばらくは、
鶏のコッコおばさんのように
家のぐるりだけが、私の世界だったとき、

日航の株が急降下し始めた。
体がもとに戻ってない時だけに
事もあろうに
医者バカで
経済バカの夫に相談した。

「日航がつぶれるときは、日本が滅ぶ時だよ(^^」
上がろうが下がろうが、
最後の一手の経済として、
ほーっておくだけで、心はリッチだよ。

売り買いに、心動き始めたら、
素人の我らは、赤子の手をねじられるのがわかってるよ。」

「でも、、、、この下がり方は
かって、拓殖銀行の株の下がり方とおんなじよ!?」

まさか、、、日航は国がらみだよ、、

討論はいちおう交したが。
手術の後遺症のだるさがあり
いつものように
戦闘モードに切り替わらない時期だった。

「あーーー」という間に
天下の日航が紙切れになった。

家族、孫たち、、アメリカ一周できる夢は消えた。
息子の結婚の話も夢に終わった。

「沈まぬ太陽」の映画を、その後観に行った。

日航の立て直しは順調にいっているようだ。

株券を紙切れに変換することで、
日航は建てなおってきているが、

もう、、、二度と、
株や債券は出来ないトラウマになった。
近所の株の話の大好きな奥さんが
今日もやってきて、
「奥さんぐらいだよ、、、ニーサやってないの!」
しかし、
拓銀、日航と、5年間薬剤師をして得た月給が
一瞬で消えてしまう経験をすると、
証券会社を、見ないように、走って過ぎるようになった。

使えない、、、日航の株券も、
拓銀の株券も、

「お金だけの為に、、薬剤師をしたのではないでしょう!」
老後のお金は無くなっても、
薬剤師のスキルが残ったという事は

生きてる限り、つぶれない会社の
売り買いしない株があるのと一緒でしょう!。

肉体的な徴兵制度は
もう二度とおきてほしくない。

軍艦一隻、沈没すれば、
拓銀や、日航の株が紙になったどころの
損害では済まされない。

若者の未来ごと海底に沈むのだから。

サマワ―に行った
髭の自衛官のハンサムな隊長が
今は、、、国会議員として活躍されている。

生きて帰ってこられたからこそ
お国の為に、
今も体験談を述べられたりしているようで

健康あっての、国民です。

戦争に従軍した、父も、おじさんも、
運よく帰国しましたが、、、

不思議なことに、
父は、患者さんの手術を終えて、
麻酔が切れる、、、おならが出るのを待ちながら
眠るように、、、54歳の若さで死んだ。

叔父さんは、女子大の教授になったのに
授業の教鞭をにぎたままで、
教壇で死んだ。

学校葬になった。

不思議とはおもいませんか?

戦争に行ってきた人間の死に行く姿の共通点が?
死の直前まで、仕事をしている!

義務感だけに、、、
洗脳されていたのではなかったのか?

なぜ、、、もっと、、、
戦後の人たちのように、
チョットグワイが悪いのよ!、、
検査や、休みを取っていたなら、、、
助かったのではなかったか?

二人とも、、過労からくる
急死だけに、美しい香るような
生き生きとした肌のまま
眠るように、、、旅立った。

戦争の恐ろしさは20年後にも現れるとおもいませんか?

しかし、、、備えのない国を、
発達途上の国は、、、無差別に侵略してこないだろうか?

サイバー戦争になるだろう21世以後は。

家庭の中で、
学生生徒が、ゲームをするのも。
その中に、
頭脳の徴兵のアプリが入っているのではないかと
心配になる。

もう、、何年も生きないだろう爺婆が
日本の末永い里山の心を忘れない世界になるように
祈ってやまないのです。

「心こそ」豊の賜物と
多くを得て、
多くを失った
人生の、剣ヶ峰まで来て
思うのです。

スーパーマンのように
疲れることを知らない
働き者の阿部さんが
多くの国民に支持されて
日本の舵取りを
世界の中に居場所のある日本に
平和のリーダーであるように、

日本を大切にする国は
地球を大切にする国だと
「心」豊かな日本を祈っています。

このブログは
ごくごく、、親しい人の為にだけ
書いていますので、
社会に発言しているものではないことを、
君は理解してください。

昭和10年代の戦争中に生まれた者の
切なる願いが、、、平和、、だと知ってほしい。

戦争は、自然淘汰ではなく、
動物にも劣る
欲の限度をわきまえない
人間の業であると考えています。



家族を信じなければ 道はない

2015-09-08 06:17:35 | Weblog

この2年間、
過ってない経験をしました。

義務も見えない
相手も見えない
時代もつかめない

朝が読めない
この世の魑魅魍魎と
ジュラシックパークと
お化け屋敷のロクロック日が
胴体を置き去りに
子供をくうぞ~~~~と、天を舞う。

家族一丸となって
今まで生きてきたように
不器用ではあるが
自分たちのできることを
精一杯やった。

国家試験だって
半年間の集中緊張で突破できる。

今回の緊張は2年間続いた。
未来も結果も、相手もわからない。

ひたすら、日本の国を信じて
生涯勤勉い働いて
残した、宵越しの全部。

2世帯住宅を建てて、
住居と仕事場
住居と北大に合格した縁者が居たら
貸せる部屋がいくつかある家

ああでもない、、、
こうでもない
設計図をプロに頼んでみたり
自分で描いたり。

考えているときは幸せだった。

サザエさんのような家
私の父が、
戦後の縁者や学生をまとめて

世に言う居候を16人も抱え、
自分の家族以外と
医療施設の雇用の人たちと、
人がぶつかる洗面所。

本来ならば、母の弟が世話すべき祖父を

命の恩人だからと周りを説得。

戦地まで単身
自分たち家族を迎えに来た祖父は
恩人であると言って、

80歳近くまで、
事務長をしていただいていた。
事務長には、エースの事務官が控えていた。

(^^!
おじいちゃん事務長は
チラシの裏や
使った封筒の裏まで
メモ用紙にして頑張っていた、

患者さんが、待合室で騒ぐと
「静かにして、騒ぐなら、外に行きなさい!」
お説教もしていた事務長さん。

早朝、、、これまた記憶から消えない。

6時になると
ごろごろ寝ている孫8人の枕元に来て

「コケコッコー。。。コケコッコオー。。。オキヨト、、、トリガウタッテイルヨ、、」

「起きない者は、、鳥にも劣る,、ウー」

(++  (=- (**  (@*

起きるまで歌い続ける。

おじいちゃんは、かって、
校長先生や町長さん、叙勲も受けているのに、、
子供には、子供の対象の次元に変身した。

戦後のどさくさとは、

我が家のことかもしれません。

子供たちの中でも、
ひときわ声の大きい者が
主導権を駆使した。

人生の「終の棲家」

平成版「サザエさん一家」を
37年かけて手に入れた駅前に創る
夢を見ていたりした。

最後の仕事を、
夫がリタイヤの後は
頭脳労働だっただけに
暇が痴呆の老人を創るかもしれないと。

日頃から、対策に余念がない。
助け合って
元気を巡回させよう、、、と。

私は、独自の努力で
計画していた、

その土地を、今回は空に投げた。
有効に使いたいと
企業が仕入れ値で買ってくれた。
建物は取り壊しが必要な分だけ
値引きした。
バブルのはじける直前に買ったから
当時の半値だったが、
維持するのには70歳はきつかった。

代金は、借りていたところに
銀行直で振り込まれ、て消えた。

しかし、維持するとか、
建て替えるには、
年をとりすぎた。
寂しさも、あるが、、、
之でよかったとも、、思う。
早々と法人にして
開業を促すには
あまりにも、
経営には向かない
医者バカだったと、、、
納得もある。

弟は国立がんセンターで
医師として団塊の世代の役割を果たした。

夫は、創世記のメンバーとして
社会の医療に参加し続けている、

息子は、独身で41歳も目の前なのに
仕事に明け暮れて頑張っている、

長男は、夫婦共働きで
孫を育てている。

菊の花のように、花弁の各自は独立しているのに

花として、まとめる力を発揮する者がいなかった。

医師も、薬剤師も、多くの免許職も、
遺産相続のできない一代きりの
身に着けたスキルだけに、

高級を全部、さらに家族の応援を巻き込んで
10年ごとに
ヴァージョンアップするエネルギーを喰う
医師というスキルの必要なアスリート。

世間の風評は、
像さんが、たくさん藁を喰うと
羊さんが騒ぐ、

かしこい巻場の
訓練された犬たちが、

羊を束ね、毛を刈る。
風評被害のふさふさ毛の医師の奥さんは
毛を刈ると
アバラが出るほどやせていた。

羊さんたちの風評は
ほどほどに信じないと、
実態は、魑魅魍魎を世に放つ。


ところが、、、
医師を天職として
家庭は寝床だった夫は、、、今も現役。

エネルギーは一定である。
雑事の時間は一切提供しない夫の生き方は
医師だから成り立った。

偉いから成り立ったのではなく、
医者バカに生きたおかげで、
患者さんは、今でも必要としてくれている。

今日も、何十年も前に手術をした方が
ことしで、20年が過ぎました。
お手紙が来る。

事務系、経営サイドが、合理的な医療の先導をしても、

損得抜きの信頼関係が、
真剣勝負だったであろう手術室を
伝えてくる患者さんの心は

一昔前の、「病気を診る」というより
患者さんや、
患者さんの置かれている責任の重さや
家族関係まで配慮した
昭和生まれの医師の凄さであると思った。

20年後、30年後になっても、、、
大学で先輩医師らと執刀した
重病だった少年の親が
息子の今を、生き生きと手紙につづって知らせてくれる。

夫としては
失格に近い夫ですが、

医師として、75歳になっても、
お手紙で
、お知らせが来る
感謝をいただける職業は
私は代わってすることはできない。

経験が物言う臨床医は
家を振り返らないのは、
仕方がなっかた。

この年になったから、、、わかってあげられる

貴重な、、
10年しかないかもしれない残された?時間を
ぶれることなく
医療に、診療に
ささげている、

医師の現役として、
患者さんの支えになれるうちは

理想のサザエさん住宅は、
リタイヤしてからでもと、
先延ばしにしていた。
時間が速く飛んで行った。

仕事バカが、人生の相棒になってる以上
私の夢は、しょてっぱなから無理だったかも?

私も、、、70歳を過ぎました。

何がなんやらわからない忙しい人

魑魅魍魎の、姿なきロクロッ首に
申し上げたい。

日本の未来の幸せのために、
私の夢だったこの土地を
世間様に還そう、、、
信じよう、、、役に立たんだと。

70歳を過ぎた今、
具体物のいらない夢を追いかけよう、、、

魑魅魍魎とは、、、
光陰矢の如し、、
時間の速さに気が付くのが遅かった。、
タイムアップの、出来事かもしれません。

人生という一夜の宵越しの金銭は持たない。

2015-09-03 03:39:53 | Weblog

私の記憶は、
疎開地の小学校に通っていた時から
いきなり、、、
東京の小学校に転校しました。

母は、青春時代の東京に戻ったせいか。
赤ちゃん返りのように
自分が主役になる「大変身」でした。

学校から帰宅した私に
自分が大好きで来ていた服を
着るように言っては
友人の「絵の展覧会」や
日比谷の野外音楽や
宝塚の舞台を見に行こうと
少しの間、
手に負えませんでした


中学校は江戸川の近くの公立図書館の
門の前にある中学校でした。

先生の顔は思い出せません。
授業が終わるのを、いつも待ってました。
図書館に行くのが、楽しみでした。

母も、毎週7冊の本の名前を私に手渡し
「借りてきて!」と言いました。

母の本をリュックに背負い
教科書の入った手提げかばんを持ち
体育の着替えを持った日は
歯を食いしばって、地面ばかり見ながら
まっすぐ家に帰りました。

母は本の虫でした、
大地、など、、、
真珠が手のひらから落ちるとき

人は、それぞれ
「真珠を握り締めて生きている。」
そして、死んだら、
真珠が掌から落ちて
大地に転げ落ちるのよ。

パールバックの真珠は「大地」なのよ!

母の読書感は独特だった。

また、PTAに顔を出しました。

音楽の先生と友達のように
いつも
楽しそうに話していました。

音楽のN先生は
穏やかで、上品でにこやかでした。
しっかりした御嬢さんが2人おりました。
妹さんは同級でクラスが違いました。
お姉さんは
東京女子大に通っていました
美しい本に登場するような
しなやかな姉妹でした。

中学校ではK君という
勉強のできる子が居ました。

忘れられない社会の仕組みを
K君は、話してくれました。

「君んち、、開業医だろう?
患者さんが来るから、町にも知られるし
地域では尊敬されるし、
君は、、、医者って偉いと思っているだろう?

偉いとか、尊敬されるとか
お金が入るとか、その分
派手に、地域に戻す使い方をして
患者さんからも、尊敬されるし
支持されるし、
医者の子供たちは
親の地域力の威を借りて

自分も「選ばれた人と錯覚してるだろう?」
他人より
良い服着ちゃったりとか、、、

君はいつも「ボロすぎるファッションだけど、、、」
T医院のアイツなんか、、、

いっつもクラスの男の子従えて
女王様みたいにふるまって、、、

僕は「医者の子」って
カチンとくるんだよ。

「何が?かちんなの?」

「医者の子って
親が、、、大体、
子供を医者にしようとするだろう?」

日本で一番偉いのは「医者になる事」だと
教えてるのとちがうのか?」

ハハハハハ、、、大笑いしてしまった。

「K君は医者になりたいの?」
「めっそうもない、、、僕は、
慶応大学の経済に進学するのがゆめだ!」

「君のお父さんも?慶応?」
「そうだよ!!!、、、慶応はすごいんだ!」

「何が凄いのよ?」
「幼稚園とか、中学校とか、高校とか、、、
付属があるし、世にいうエリートだよ。」

「医者の家が子供を医者にしようとするのと
同じじゃないの!」

「違うよ!慶応は違うんだよ、
社会のリーダーの学校だよ。」

「東大があるじゃないの?!」
「>>>>>、、、、東大とは違う役割だよ。」

私の父は早稲田中学よ、そして、、、
残念だけど、、東大落ちたって!、、」

慶応とか、早稲田は受けずに
慈恵会医科大学の
2年生に飛び級で入学したって?
!言ってたわ?

「叔父さんは早稲田大学の理工学部に進学してる。」
ほら!三中の数学物理の先生になっているのよ。」

「へー三中の??」

「慶応の学生の親は社長とか、俳優とか、
国会議員とか? 
医者じゃなくて、病院長とか?
医学部教授とか、社会性があり、、
創り上げた親の縄張りってあるんじゃないの?」

君は、俺んち!すごい!っておもってる?」

息子が、親の見えない応援を受けて、
歌舞伎役者みたいに、主役候補?

初めっから、、、重役とか?」

「それはないよ!」

「偉いとか、、偉くないとかの
勝負の世界と違うんじゃないの?」

立場は上とか、下とかは仕方ないけど、、、。

蓮華の花は野に咲くし
薔薇の花はエリザベス女王の庭に咲く。
睡蓮は水に咲く。

ハスは泥水が好き。

大学も、自分が行きたい校風の
無名な大学だって
其処に、自分の教わりたいものがあればいい。」

何をやりたいかで、大学を選ぶといい。

僕は「日大だけにはいきたくない!」
「なぜ?、、、オーミステイクだから?」

「違うよ、、、一般庶民の大学って気がするから。」

私は、日大は20分で行けるし、
先生方は、東大で教授退官した先生とか、
ほしくも、東大教授は無理だけど、、、という
凄すぎる世界を知っている先生が、教官だから
悪くないと思ってる。

全ての学部も揃っているスペシャルスーパーだし。
各課の様子もわかるし、
学者になるのでなければ、日大はいいと思うけどね。

一応、最大公約数のような言葉を選んだ。

「社会の縮図のような大学で、勝手に学ぶのもいいじゃない?」
「一応教養はあります、、、ぐらいの、、」

それに、理科系なら、建築界とか、医療界とか、
免許を取得できるから、やる気がある生徒は
懐が広いから、壁がないと思わない?」

僕は、、、絶対、、慶応!

「早慶戦で、慶応応援したいし、、、」

結果として、彼は慶応に進学した。

私は日大の「理工学部」に進学した。
薬剤師、衛生検査技師、高校教師、中学教師、
衛星管理者、とか、、、

大学で取得できる免許はすべてとれた、
大学院の授業にも出席
そこで、単位をとることもできた。

夕方6時まで実験、
近くの料理教室で創った夕飯食べて
8時から大学院との合同教職課程に出るという
綱渡りが、
御茶ノ水の理工学部のキャンパスでは
可能だった。

慶応に進学した彼は、
クラス会で一度会ったきり

そして、、それっきり、、、
どうしているのかもわからないほど
接点はなくなった。

中学時代は「今」を感じる暇はなかった。
大学進学のスタートだったような気がする。

人生で、尤も大切な青春期を
人間が作った社会の
カースト制にも似た大学ランク!
受験にしか頭が行かない哀しい時代。

受験で勝った人
受験で敗れた人

勝ち負け、が、、、
人生を支配するという魔法。

夫は国立の医学部に合格したから
受験では勝ち組だと思いますが、

生活を共にすると
人生は受験の勝ち負けの点取り合戦では
話が見えないという事をしばしば感じます。

サザエのような堅い殻が、
都合の悪い事には蓋をする。

錬金術にも似た「大学選び」
受験産業は
受験テクニックや、統計で
受験生を勝たせる、、、主役は予備校。
商品は生徒たち。

大学に入っても、依存性あり、
自分を理解してもらいたがる。

君のことはイイから
本題の考えを、客観的に議論しょうよ。

弊害も、人間破壊もゲルニカ並の
価値観の洗脳時代。

受験は「正解」があると教え込みます。
試験は「正解を求めてきます。」

しかし、、、人生の大半は
正解という答えは通用しないことが多いのです。

詐欺の横行する今日
詐欺に引っかかるのは
このころの
優等生かもしれない。

日本の受験時代が、
今一つ、、、勝ち負け、点取り虫の
戦争になっているのが、おかしくないですか?

高校三年生
この一年で、
17歳までの人生の結果が分類されるなんて

18歳からの目覚めの人たちは、
社会の片隅で
外野席に甘んじるのですか?

私のおじさんは
戦争から帰って来てから
早稲田大学に入学しました、
10歳以上も年上の父は、
我が子同様、授業料も生活費も
背負っていました。

28歳から、早稲田を卒業したのは
32歳です。

学芸大の学生だった先生の卵と
結婚式を挙げたのは
父の診療所の2階でした。

東京の公立の中学の「物理化学」の先生。
やがて、女子大の教授になって、
父と同じ54歳で
教鞭をとっている最中なくなりました。

受験戦争で進学したのではないだけに
魅力のある叔父さんでした。

早稲田は、私は大好きです。

でも、、、早稲田には「薬学部」はありません。

やっぱり!日大でしょう!

日本の受験戦争を振り返るなら、
大切な、五感が育つ時期に
点取り虫の競馬をしているようではありませんか?

中学校の時代に
夢を追いかけられる3年間なら

人生は、
心に咲く花の種を播かれて

かぐわしい香りのする
日本人が往行するはずである。

「お金が無ければ進学できない」という

学校システムこそ、
アパルトヘイトの罪悪に続く
社会の仕組みかもしれませんね?
教育は、いっぱいのかけそばでは
医学部は無理としか言いようがありません。

今の日本の教育制度は
お金がないのは、限りなく不利なのですよね。

4人も受験生の子供を抱え、
遊んではいられない環境でした。

母はこのころから、
ピアノのお弟子さんを教えていました。

教えてほしいという人に
教えているだけで、
本格的に
ピアノの会を運営するようになるのは
6年後でした。

受験生を抱えた母のこのころは
子供たちと一緒に
本や漫画本を読んでいました。

父と結婚してからも
子供ができる前は
東京都の女学校で
音楽の先生をしていました。

中学校の音楽の先生と
お友達のように
話が弾んだのは、きっと
時々開くコンサートの
お弟子さんの曲を選んだりする話で
盛り上がっていたのかもしれません。

私が日大に進学した時
仕方ないわね、、、
女の子が行く大学じゃないけれど、、、
お母さんは日大は反対よ!

音楽にしか反応しない母は
同居していた弟の娘たちを可愛がり
外出はもっぱら、私の従弟の
女三姉妹と出かけるようになりました。
居候として、従妹は、父に
洋裁学校に進学させてもらっていました。
母の、ピアノのおけいこに使う衣裳を創りながら
実の娘はカッコウの娘にけり出されてしまいました。

登山が好きで、
三千メートル級の山に登る私に

日大に行かせなければよかった!
男の子になってしまった、、、と
嘆いていたのを思い出します。

写真部、放送部。絵画部、登山、ソフトボール、
ESSクラブ、、、、、
思い出は
軽井沢の合宿で
T君が、ウクレレをひと時も離さず

「花はどこへいった」など

歌っていたことでした、

ジョーンバイズの「ドナドナドナ」
日大生の学友は
エリート意識で
鼻につくひとはいませんでした。

話も聞き上手、理解上手で
コミュニケーションは
楽しい4年間でした。

    (^^

大学時代は時間が飛んだ。
実践の大学には
筋肉で覚えることが多かった。

しかし、、、

入学間もない時期の父の早逝は
独立する力を蓄える日々になった。
この時、
悪魔が
我が家を暗雲で覆ったのかもしれない。

青春時代の 真っただ中なのに
人生の花の時期なのに

よそ見もできないスケジュールで
日々は飛んだ。

一つあれば足りる免許なのに、
就職の不安や、
仕事の適性を欠いたときの
転職なども、考えに入れて
運転免許も取得した。

頼っていた父が逝ってしまったから、

卒業後のことばかり考えて
大学時代は
ゆとりがなかった。

実験の少ない卒論を専攻し
アルバイトに明け暮れた。
家庭教師をしていた教え子が
専修大学に入った、
その子のお父さんは
アルバイト料のほかに
大入り袋の内祝い金をくださった、

大学事務に呼ばれて
付属の女子高校で
理科の先生を募集しているから
受けていないかね?
嬉しかった。

しかし、薬理学の教授が
母校の教室で
寿退職する技官が居るので
技官を受けてみないかと推薦された。

寿退職するくらいだから
穏やかな先輩なんだろうと、
何気なく
東京大学の薬理学教室を訪問した。
その場で採用になり、
私も、、、寿退職までがんばるか?
 
就職はあっけなく決まった。
卒業旅行は
犬山城なのに
アルバイトの延長で
卒業旅行は行っていない。

19歳の大学時代の
父の死。
痛かった。
父の保護の上に
胡坐をかいていた今日までが

座布団を前部とられた「笑点」になった。

長男夫婦からは
毎日、、、縁談。

追い出されそうになりながら
私の役目も、
ひしひしと感じていた。

未亡人の母が
寂しくない結婚でなければ
ならないとも、考えた。

結婚は、
仕事の続きだった。

地tの後を継いでくれる外科医に
母と、兄は賛成した。

いきなり、、マイナス20度の
留萌の出張ローテーションの宿舎から
新婚家庭は始まった。

逆環境に居る外科医だからこそ
東京に、逃げ帰ってくれるのだと
安易に、仲人口を信じた、

実際は、
医学部には
部外者がわからない学閥もあり
東京への帰還は難航を極めた。

ミイラトリがミイラになった。
家具一つない、、身軽な外科医は
東京には帰還しなかったのでした。

孤独。孤立。
恋も愛も無関係な出発は
「階下の夫婦が出した家事から始まった。」

もし、あの時居たら、、、
私はいない。

医局から、
あちこち出張を命じられるままに
3か月ごとの道内移動があり
無給医局員は16万ほどの出張料を手にした。

無給医の生活は
これほど、ひどい貧乏暮らしだとは
想像できなかった。

留萌の宿舎暮らしは
冬山でも、飛び切り天候の悪い
難所で、山小屋暮らしをしているようでした。

夏は素晴らしく、
夕日も美しい留萌だが
冬は、、、命からがらの
思い出で、
体が凍りそうになる。

水洗でない、、、マイナス20度
流産の憂き目にあった。

次の妊娠では
4か月で、東京の実家に帰り
夫が、里心を出して
当初の約束を守って
実家に来てくれるのを待った。

外科医は「愛がなかった。」
子供が生まれるとき半年ぶりで出現
生まれてからは、3か月後に、

とうとう、私は100日の長男を連れて
札幌に入場!

電話をしてあったのに、
日航にも全日空のロビーにも
夫は来ていない。

「じゃじゃ馬ならし」という
映画を思い出したが、

長男の札幌入りに、
仕事をとった外科医は

夫としては失格だと思った。

若き外科医の周りには
華やかな看護師さんもいるわけだし、

父親になるには
子供が「パパ」と呼ぶ頃でしょう。

あきらめて、
一人で、おむつと、ミルクと
赤子を抱いて、
バスの後方の席で、
ゆったりと
札幌入りをしました。



それでも、、、
子供と出逢ったときは
結婚してよかったと思った、

そして、、、息子の受験。
地獄のような、、、競争社会。
日本の貧しさ、、、

受験産業とは、、、哀しい日本。
アメリカの多くの大学のように
全員大学に入学させて
勉強しなかった人間が
大学を去ればすむのではないか?

そして、子育ても、
全て終わった45年後の今日
正体の見えない
魑魅魍魎のうごめく札幌の老後を
いかに、賢く、
若者に、
余ったエネルギーを回して
被災地への税金も払って、
宵越しのお金は
一切持たないように
最後まで、
医師を続けることこそ
世間の財産と
自分の財産との一致する者であるから、

私たちの、子育て以外のお金は
痴呆になった親戚や、

施設に入った両親や
お世話になった集会の寄付や
晩年、両親を見れなくなった離婚家族の
お墓のま守り人など、

そして、孫子を危害から救う
鼠小僧にも
全て、、、贅肉になりそうな
不動産は、格安で、仕入れ値で
業者に引き取ってもらい、

お葬式にも
子供らに迷惑がかからないように
葬式やさんのメンバーになりました。
17万円でいろんなものがそろうそうですよ。

生き残った方が、ささやかな密葬をしましょうね。

寿陵という、生前のお墓も、瀧野に買いました、

谷内六郎さんは詩[し}を書いています、、、、が!!!

「バカ、、、墓買った、、、」

墓、、、高かった。(^^!

バカになる事にしました。
赤い字で、自分の名前を書きました。
やることはやった!

宵越しの金も使いきった!
今まで、、、何を大切に生きてきたのか
考える暇のない
忙しさでした。

残された時間は、
私自身が生きてゆくという
自分のための時間を過ごしながら、
感性の中で贅沢な、おいしい空気を吸うつもりよ。

地球という
大いなる親を私にくれた主よ!
キリスト様でも、弘法大師さんでも
仏様でも、大仏様でも

心に安らぎを下さるのなら
力いっぱい、おっぱいを吸った赤子が

にっこり笑って眠りに落ちてゆくように
私は、ぴんぴんころりと旅に立てるように
終りに向かって
ゴミ掃除を始めています。

一人ぼっちの北海道で
一人ぼっちの老後を迎えたのですが、

一人ぼっちは
1億全員が、一人ぼっちなのです。

裸で生まれ、裸で旅に立つ日の来るまで、
この世に生を受けた時
母の微笑みがあったことが
実は、、、宝だったのですね。



8月31日をもって
第一次      終活は終わりました。