花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

携帯電話にかかってくる警戒警報

2018-10-28 01:53:36 | Weblog

突然の豪雨に

携帯メールが何通も、、、何通も、、、

立て続けに送られてきて、

ほんとに、、、どうして良いかわかりませんでした。

ありがたいことですが、、、

オオカミが来た!と繰り返すよりも、

何とか、、良い方法はないものでしょうか?

せっかくの、、、警戒情報も、地域によっては

的外れになることも、ありますね。

豊平川の、、、突然の洪水に、

地域性のある、、、警戒警報が、、、どうやったら、、、

的確に流してもらえるのでしょうね?


天候に、異変がおきてませんか?

2018-10-15 18:54:08 | Weblog

札幌の羊ケ丘の麓には

9月以来、、、気になる雲が黙々と居座ったり

無理やりちぎって投げたような

気になる雲が連日出ています。

今日は今日とて、、、いきなりにわか雨が降りました。

雪囲いを半分済ませて、枝垂れモミジの紅葉を待っています。

この気が紅葉すると雪が降ってきます。

災害に備えて、早めの冬支度にかかりながら

TVをつけて一休み。

コロッケさんと八代亜紀さんの阿蘇での

地震被災地への心の訪問が画面に見えます。

大きな舞台で歌ったり、演技しているときの印象とは

また別の印象を受けました。

演歌をしみじみと歌うのは八代亜紀さん

五木ひろしさんの物まねロボットをするのはコロッケさん

笑いと,ラーメン

舟唄をしみじみ歌うのは八代さん

歌が心に染み入るのは、

心でうたっているのでしょう、、、きっと、、、

舟唄、、、て、、、心にしみる歌ですね。

、、、、さあ、、、残りの庭木を雪から守らなくっちゃ。

余震の続く日々も、間隔が長くなりましたが。。。

地球が怒ると、人間の力では、、、どうすることもできません。

今日一日を、精いっぱい頑張って、明日につなげてゆきたいと思います。


北海道の若い台地は、

昭和新山が産まれたような

過去を考えると

今日いっぱい

感謝して、労働する日々が続いています。

紀州の 山々

2018-10-07 00:44:03 | Weblog
連休で、雨模様の 10月7日

余震が続く北海道の寝不足の毎日の中で

若いころに、買った母屋には、我が家の足跡のような収納品が

地震で、床にばらまかれている。

建売で買った1400万の、

斬新な耐震性のあるパネル構造なはずである。

それが今回の地震で、階段の壁は波うって浮いてきた。

お気に入りの後付けした3枚の重ねガラスドアは

壁とドアの間が上層部がすき間ができてぴたーと閉まらない。

二階の日本間の、まだトノコのついたままのカモイノ木が

壁から、1センチほど外れて

すき間ができたまま、もとには戻らない

何よりも、

地震前の、古くなった昔住んだ家の安らぎが無い。

余震の中で、激しく動く木造の家は、

中に入ると、、、なんとなく、、、コワイ。


ぺしゃんこにつぶれては来ないだろうが、、、安らぎは消えた。

もともと、寝泊まりはしていないが、

昔懐かしい文庫本や、単行本、美術の本、

若き日に夢中になった、植物の本、漢方学の本。

中国の雑誌の翻訳本。

創風師匠に出逢ったころの、

日本にありったけの流派の生け花の本など。

もともと好きだった盆栽や、植物の図鑑。

友達の囲まれたような離れの古屋は、心の隠れ家。

昼弁当をもって、二階の本の部屋で過ごすとき、

家事を忘れて、良い昼休みだった。

しかし、もともと、

何回も修理を繰り返した欠陥住宅であったことが

隣の敷地に、家を建て直して

寝食は本宅で、済ませ、

この、古い家には手塚漫画の作品や、

文庫本がそろっていて、

友人の作品のように話しかけてくるのだった。

職場では、結婚式に出席しては

日ごろ使うには手入れが大変なので

むしろ、飾って喜んでいる食器や置物。

主人がいただいてきた引き出物の一部。

華やかな、雑貨が、所狭しとおいて在った。

置いてあった、、、つまり、、、過去形である、


地震、、、雷。。家事…親父。

地震は一番に来ているあたり、昔の諺は言いえて妙。

東向きの日当たりのよい角地だけに、

手放すのは忍びなくて、庭木を育て、

本を置き、おかげで4年間は旅行にも、温泉にも行っていない。

バージョンの古くなったVM21からのPC.を置いてあったり、、、

息子の愛用した、おもちゃ箱を収納してあったり

国境が現代の世界とかなり違って、地図としては使えない地球儀とか

置いてあるだけで、安らぐ「過去」が、

懐かしく、私の心の膝枕になってくれていた。

本州のすい星のように現れた若手社長の

ミサワホ―ムの、パネルはさすがに強かった。

昭和50年頃の、北海道のディラーの

組み立て方に、技術の未熟な欠点が見られた新築だった。


建付けがでたらめで、、スガ漏れしたり、

二階の床が、歩くと振動する蚊と思えば

天井には「スガ漏れのシミ」が色がるかっ勘が有った。

リホームを繰り返しても、

家族としてとっておきたい古屋だった。

それが今回の、、、ありえない、、、大きな北海道の地震で

入ると、、、怖いような、、、不安定な空気が漂う。

表のモルタル壁は、タタミ二畳大の落下。

まだ新しいころ、モルタルにヒビが入るので

治してもらうことにした、

リホームの時、、、モルタルの上にモルタルを重ね塗りしたため

重さが増えていた。

しかも、モルタルは、壁との間に、結露を防ぐ空間をとっていなかった。

密着したコンパネが水を含み。腐り始めていた。

下地のコンパネが結露で水膨れになり、

モルタルを維持できなくなっていた。


新築当初から、つぎはぎだらけにリホームしてきた、

はずれ住宅だったが、

家の中はシンプルで、

主張してくるデザインではないので、

安らぐ家だった。

今回も、まるで生活しているような家具や、子供の机、など等で


他に置き場のない我が家の収納庫だった。

しかし、、、モルタルの張替や、修理の見積学を見ると

400万以上になるという、、、計算である。

主人は、危険をかんじる家は、壊そう、、、という。

壊してしまったら、物を置くスペースがなくなる。

捨てることになる。

地震は、半ば強制的に、シュウカツをせよ!と
叫んでいるようだ。

昨日の地震で、又、モルタル壁が、二階の壁から浮いてきた。

、、、壊そう!、、、喪失感があるだろうが、、、、

この家は、入っているとき、地震が来ると、、危ない家になった。

思い切って、壊そうと思う。、、、安全第一だ!

「せっかく、、、修理の見積もりをもらいましたが、、、
「壊してしまう方が、心配事が無くなりますので、、、」

電話をしました。

、、、、、、

まさか、

札幌が地震で家が不安定になるようなことがあるとは

人生の設計にはいれてなかった要素である。


地震は、ピンチを切り抜けるための

出費を余儀なく付加してくるが、

寝泊まりをしていた家でないので、

自分たちのシュウカツ費用と思うことにして

とりあえず、更地にして、

二次事故になる恐怖を駆除することにした。

最低の数の保存本。、思い出の本、主人の旧くなった医学書など

今日は、ミカン箱に詰めながら、

もっともっと、大きな被害を受けた地区の方々に

黙とうをささげ乍ら、

壊すと決めた以上、

歳はとっていても、、

バンカブルに進むことを考えなくてはなりませんね。


主人は、私の報告を聴いているのかいないのか、、、?

「いそぐことはない、、、」と

ポツリと、、答えた。

紅葉の始まった庭のモミジのそばで

君子欄のひ孫の株に、大輪の花が咲いた。

そのうち、、、いいこともあるさ、、、

主人は、眼を細めて。蘭の花に癒されている様子だ。



夜になって、、9時からNHKで

紀州の山々に登る「田中プロ!」

彼は、一山登るごとに豊かな「魅力」が増してゆく。

ぽつり、、、と話す言葉も、

こころから、共感できる。

紀州の山を登る前と、登り切った彼の顔が

緊張感が違う魅力が加わった

男の面構えの神々が映し出されている瞬間が有った。

下山の時、、、人間に戻った瞬間なのか?

山の神様が、田中プロに、指の骨折という試練を与えたのか?

子供のころ、、、遊んだ南紀の山を懐かしさとともに

今夜はTVで、田中プロと、一緒に、

心が登山の醍醐味を、思い出しながら、

疎開中の13年間でいただいた南紀の山々のパワーで

とうとう、、、

北海道で50年間の人生の登山も山頂に差し掛かっています。

雪さえ掻くことをことを知らない東京育ちの主人とともに

男の子を育てながら、

雪を掻き続けながら、

私は、、、人生が終わったら、、、

父母が仏様に昇格して、

娘の私を待っているだろう南紀に行こうと

新しい世界を信じて、

この世では、力いっぱい、惜しみなく

人生登山の試練を、踏破してゆけるように

南紀の山々にお願いしながら、、、

今夜のNHKは

同行二人の登山を楽しませていただいたような

後味の良い、、、神々しい山並みでした。


早朝のモーツアルト

2018-10-03 05:45:09 | Weblog
日の出の中でTVのモーツアルトのソナタを聴きながら

母を思い出しています。

毎朝、早朝から、ハノンが聞こえ、モーツアルトが聞こえ、

ショパンが聞こえていた母屋、

54歳で未亡人になった母には、、、ピアノが有った。

戦時中に生まれた私は、、、きっと

お腹の中の厄介者だったかもしれません。

昭和19年、、、終戦の一年前です、

大陸で軍の野戦病院に行くトラックが、、、来なかった。

代わりに、韓宇連絡船へのトラックに乗って

日本への帰還となった。

そして、本土、、日本は女も子供も戦闘態勢の物々しさだった。

焼夷弾が全土に落ちて、あちこちで防空壕が掘られ

、、、、、、、たぶん、、、地震の恐怖が毎日続くような

いいえ、、、人間の起こしている破壊行動だけに

最後の一秒まで戦う気持ちと、逃げる気持ちの葛藤だったことだろう。

よりによって、、、防空壕の中で生まれてしまった私だった。

戦争の真っただ中で、、、妊娠するなんて、、、

私は、母に聞いた。

「戦争の恐怖から逃げる一瞬が、、、夫婦のほうようだったのですか?」

私は戦争の記憶を一瞬でもよい、忘れるための副産物なのですか?

、、、、此処までは言葉にはしませんでしたが、、、

長男を授かった動機とは違いすぎるから、

私は、母の記憶の中で、、、恐怖の緊張の時間を思い出させるのだろう。

「戦争中に、あなたのお姉さんと、お兄さんを2人失ったのよ。」

「失った子供を取り戻そうと思たのよ、、、。」

そして、母は3人の子供を失った後

年子の兄と私と、戦後に弟を産んでいる。

「戦争も認めたくない、子供を失ったことも認めたくない、、、

もう一度自分のお腹に避難させて、、、、取り戻そうと思ったのよ。」

「でもね、、、皆、、、取り戻した子供ではなくて、、、

まるっきり、、、違う子供たちよね、」

母は、長男と、次男と、弟を愛していた。

長男の誕生日には「お祝い会」を開いていた。
次男の誕生日には「ほしいものはな~~~に?」

欲しがるものを、苦労して手に入れては
合奏していた。

次男の兄は、誕生日が来ると、アコーデオンや

蓄音機や、電蓄やハーモニカ、、、レコード、、と

母とは気の会う誕生日になっていた。

次男は、絶対音の持ち主で、

一度聞いたメロディは、音符が無くても、すぐに楽器で演奏できた。

理科系の頭の私に向かってため息をしていた。

「お兄ちゃんが女の子で、 あんたと逆さまだったらよかったのにね、、、」

振り返れば、語学が得意で、音楽が大好きで、

ロシア民謡も、カンッオーネも、川に向かい山に向かい歌う兄、、、

母には兄という「娘の代わりの友達が居た、」

いつも、楽しそうに、、、合奏していた子供時代を思い出す。

父が54歳で早逝した後、未亡人になった母は

ピアノ教室をはじめ、一年もしないうちに

お弟子さんが50人を超えてきた。

四人の子供たちのように「四葉のクローバーの幸せな会」として、

「よつばかい」という、手書きの四葉が看板の会を主催した。

毎年、公会堂を借り切って、お弟子さんの発表会をしていた。

会場は、家族や友人であふれて、トリには

母の母校で教授をしていた親友が、学生を参加させていました。

国立音楽大学のピアノ科を卒業して、

ドイツ人の先生に師事した母は、

外科医という、真逆のスポーツタイプの父と結婚して

長い間、主婦として育児に家事に明け暮れていた。

、、、、、

医師は「病人」という、、、マイナスエネルギーを持っている者を

健康に向かわせるべく、、、エネルギーを注ぐ側である。

母のエネルギーは

「父を支えるのに使われていたのだった。、、、もちろん
その中でも、父の姓を名乗る二世の育児は、母のすべてが必要だった。」

、、、、産めよ増やせよ。。。富国強兵時代の主婦は大変だったと思う。

子供は未完成だったが、、、54歳で父が早逝、、、

結婚以来眠っていた母を起こしたのは次男だったかもしれない。

「母の手書きの四葉会の看板」を、子供たちで作り上げた。

幸いに、、、長男が「内科。外科」の診療所を継いでいた。

外科の入院室を壊して、新しく外科医が来てくれた時に

全てを時代に即応した設備で、

病院として大きくするつもりの体制をとっていた。

お茶の会と間違うような名前の「淡交会」という

病院設立の会を創った。

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長い間、、、外科医と結婚した妹が帰ってくるのを待っていたのだろうか?

母が80歳を超えて、昭和が終わるころ、

兄は、開業を閉院して勤務医となって、

親の呪縛から解放されて、自分の世界に出発した。

戦争という「災害」からの出発は、、、実に30年の年月を要したという記憶です。



北海道の地震からの復活は、、、もう始まっています。

頑張って、、、復活して行く日が、、生きてゆくことですから。

75歳近くなって、、、驚くことに出逢うなんて

人生は、、、山あり、谷ありですね。

毎日、、、寝不足ですが、、、回峰に向かっています。

メール、、、有難う。

元気ですから、、


札幌の余震の中で

2018-10-02 01:05:41 | Weblog
9月6日以来

札幌には地震がないという思い込みは

わずか一か月で逆転した。

地震はいつ来るかワカラナイから

昭和新山の歴史を見直してみよう。

山ができ始めた頃は、、、きっと、、、

余震が何年も続いたのではなかろうか?

世の中は、ノーベル賞と「がん」と免疫療法と

PD-1とCTLA-4と「オプジーボ」生理学医学賞の話でもちきりなのに

サッポロは真昼から余震で揺れ続けていて

片づけに追われ続けている主婦は

やっと、台所が片付き、

こんな時間に(10月2日,1時21分)

やっと、、、朝刊を広げている。

子供のころ湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞されたとき

初めて、ノーベル賞が、「偉い人」に贈られる賞だよ、、、と

兄から聞いた。

京都大学は、研究の分野でも、国際交流でも

日本を牽引してゆきますね。

古式豊かな日本の文化が生き続ける空気の中で

原点に戻ったように医学の分野でも

もともと人間も動物も持っている免疫力を回復させる「がん免疫療法」に

道を開いた本庶佑博士は

京都市に生まれていらっしゃることからして

世界大戦という「がん細胞並みの戦いの中で」

京都は爆撃から生き残った街だけに

生き残るべくして生き残った、、、守り続けた日本人の原点が

輝いて希望につながった湯川秀樹博士の受賞した時のような

平成時代の、「2人に一人はがん」といわれている今日

多くの人に希望を与えてくださいました。

基礎医学と臨床医学の両輪で、「がん」を克服できる日も来るのでしょうね。

多くの患者さんの「がんを早期に発見することに命をかける医師」

そして、免疫療法が普及して、「がん」は怖くないという日がやってきますね。

ありがとう、、、ありがとう、、、

寝る前のひと時、真夜中に笑みがこぼれたのは、、、9月6日以来、、初めて。