70歳も目前の自分たちにとって、
親類のボケてゆくのが、とても、気がかりである。
明治の30年前後に生まれた祖父を
明治の40年代に生まれた私の父母が、同居を始めたのは
祖父が60歳過ぎた頃
両親が40歳後半の頃。
慈恵会医科大学を卒業した青年と
国立音楽大学ピアノ科を卒業した母の出会いは
とてもロマンチックな世界からスタートであったと聞いていた。
新橋のフロリダのダンスホールは、
二人の青春のキューピットの役割を果たしたようでした。
鉄筋の自社ビルの総合病院(医院)は父が院長をしていた。
父の実家は富久町にお屋敷を構えていたらしいが、
戦争中「防空壕にて生を受けた私には、絵空事のような世界。」
戦争で、医院も屋敷も、土地も財産も総て失った父母の持ち物は
軍医時代に使っていた「外科」の鋏とコッフェルとメス
之だけを持参して、日本に引き上げられたのは、幸運のほうであった。
戦地では私の兄2人と姉一人が亡くなっていた。
父母の命を救ったのは、戦地まで単身で
娘夫婦を迎えに行って、最後の連絡線に乗船させた「祖父」。
我が娘家族を救うために、敗戦の色濃い中、
戦地の日本人の命が、危険にさらされる頃、
父の戦場行きのトラックが、軍医を迎えに来れない状況になり、
帰国命令が下ったという、。
日本に帰国するとき、
結婚指輪も、婚約指輪も
恋人時代に贈られたプローチも
関宇連絡線に乗船するために、
役立ったそうである。
日本に着いたときは、東京の実家も無く、
廃墟となった故郷から、
今は世界遺産となっている、熊野の山奥に疎開したのでした。
祖父の家族も、親類も、フロリダから帰国していた。
祖父が町長をしていたこともあり。
7日村無医村という、過酷な条件で、父は診療を始めたのでした。
医師の居るゾーンは、疎開者も増えて
3000人近く住むにわかの町のように発展した。
命を救われた「戦争からの引揚者家族」を
父の体験したイギリス医学と、占領地での教授体験
そして、敗戦の色濃い中で体験した「戦陣の外科診療!」
腕がちぎれ、足が吹っ飛び、
弾丸が何発も入ったままの兵隊さんを治療してきた体験。
「ダムの工事」が始まり、
診療は、とんでもない事故や、
怪我で、戦場さながらの手術場で、
見習い看護婦を相棒に、孤軍奮闘の父であった。
戦場の実戦経験を身に漬けた父は
地元の住民や、
疎開者に「先生は神様のようなお人じゃ!」と
お金の換わりに、キノコや魚や、大根や、にんじんを受け取りながら、
ありがたがられ、慕われたのを、
幼い私の記憶にも残っている。
新橋で、音楽大学の母と踊った日々の幸せはどこに?
週に2日、診療所の二階に手回し蓄音機を備え、
戦場での傷や、引き上げで家族を失った人や
欝状態、ボケ状態、の患者群のダンス教室に解放していた。
串本や、白浜や、新宮から、母の知人が応援に来ていた。
精神的に立ち直るには「芸能」を自分で始めるのが良いといって、
踊りのお師匠さんを、勝浦あたりから来てもらったりしていた。
白浜からは「花柳」や「藤間流」を習ったという
おばあさんが、私たちにもお稽古をつけてくれたりした。
祖父と娘夫婦の命の旅が終わったのは
「古座川ダム」が完成した年であった。
父も、祖父も、中学生になる長男に
「アメリカ占領下」の日本人にとって
新しい時代の教育を受けさせるべく
ダムの完成を機に、
父の故郷の東京に帰ってきました。
このように、戦争という「外敵」のさなか
生き残る日々の戦いをともに生き抜いた祖父とは、
同居の晩年をすごしたのでした。
祖父が同居する東京の診療所には、
母の兄弟、従姉妹、親類、
父側の兄弟夫婦が、次々と同居しては、
やがて、巣立っていきました。
昔の医師は、医療という専門性を、民間が理解する前に
尊敬して、ボランティア的サポートをしてくれた。
医師は「そろばんを弾かない、崇高なプライドに、尊敬がついてきた。」
尊敬という患者側の心が、
些細なことでも訴訟を起こす時代になった。
命の責任は、どこにあるのか?
運命なのか?
細分化して、
専門性の部分医療の時代になったのも、
患者側が、簡単に訴えてくる時代になったからではなかろうか?
つづく
写真は、戦争で、失った父の総合病院
戦争で失った最愛の兄弟たち
戦争の無い日本、戦争の無い世界、
不滅の地球環境を世界が手をつないで護ってください。
三国志の時代の戦争では済まされない、、、
核戦争を、地球上からなくしてください。
発展する中国に、地球を、空気を、水を、汚染しない環境をお願いする。