朝5字に起きて、ドアを力いっぱい押して、大雪にびっくり
後は昼も食べずに3時まで、重たい雪を搔き続けた。
今年初めて、、、足がつった、
ふくらはぎ、、、大腿、、、こらえきれない、、、足がつる、、、
足ウラ、マッサージ器を逆さにして、大腿の上、ふくらはぎ、アキレスけん
フル稼働して、マッサージを2時間、かけつづけた。
いつの間にか、足裏マーサージをかけながら、寝てしまった。
夜になって、又、、、玄関のドアが重い、
水を含ん春の雪が、冬にしがみついているようだ。
明日は、わだちにならないように
路肩に雪を押しやって、春を迎えに行く72歳の私。
20年使っているミニ、マッサージ機に
ぶっ倒れて、マッサージ機をかけながら、、朝の5時まで寝てしまった。
人工的に体液を循環させたおかげだろうか?
風呂に飛び込んで全身を温めたおかげだろうか?
あんなに痛かった、こむら返りの大腿は、
筋がわずかに、痛むだけで復活した。
マイペースで、落ち着いて、あわてないで、
足裏マッサージ機を逆さに使用して、大腿の筋肉の引きつれを
ほぐしたのが、良かった!、、、と、自己満足の安心を得た。
でんぐり返りそうな痛みは消えて、
ストックに買ってあった最後のひとビン。
ポカリスエットを500ミリ飲んだ。
私的に、孤立した北海道の暮らしは、
深入りしないが、皆、愛するべき隣人ばかり。
全員が、井戸端会議レベルの、挨拶叔母さん仲間、
名前は知らないが、犬の散歩叔父さんらとの
お天気話の隣人ばかり。
今年最後の「名残雪になる!」と信じて
馬鹿力を出し切って、春を呼んでいると、
二軒隣の雪搔きライバルが、
「すごいね!良くやるね!私は、、もうほおっておくさ!融けるもん!」
笑いながら、、お疲れさん、、、「奥さんも、ほーておきな!(^^。。。」
スコップを持ったまま、立ち話。
「迎え酒、、ってあるけどね、、、雪搔き悪酔いでさ!、、、迎え雪かきでござんすョ」
笑いながら、彼女は、恒例の早朝自販機買い物に行く後姿は、、、春の中。
この冬の雪搔きの戦いの終了宣言です。
夕方までにはわだちをきしませながら、
タイヤの空回りの音が、鉄筋の我が家の台所まで響続けた。
春が来ていると、感じながら、冬のヤッケや、衣類をしまいながら
部屋がうっとうしく無くなったころ、、、
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何事も、無かったような夏がドサーと落ちてくる北国の季節の豹変。
乱暴すぎる四季の歌は、アレグロな日々。
「大観」と言えども、「芭蕉」と言えども、、、
あのような、、、ナイーヴな、、、精神の絵や俳句を
北海道に住んでいたら、、、残せただろうか!
やっぱし、、、片岡さんタッチの蝦夷富士は、烈しい変遷の色でしょう!
長靴で雪を踏んだら、足をとられて、裸足になって、
両手で、長靴を掘り起こしながら、
大根弾く要領で、長靴をきっこぬき、、、又、、、履く。
又、、、雪に足をとられる。また、、、引っこ抜く。
融かされる雪の気持ちになってみると
ひと冬、、、付き合ってくれた、、、愛しい我に別れるのがつらいのか?
なごり雪とは、、、良く言ったものですね!、、、雪ちゃんよ!
いきなりやってくる、、、山笑う北国で
キャンパスに色を塗らないで
人差し指に炭を付けて、足跡を付けると
雪原に生きる、、、命、、、
こんな芸術があってもいいな~~~~
バカ野郎、、、の私。
人生の半分を雪を搔きながら、、、仕事バカの主の住宅管理の毎日。
音もなく帰ってきて、、、寝て、、、出かけてゆく
仕事バカの、、、相棒の、、、
訳の分からない呪縛の中で
ありがたがられるには、、、ありがたいみたいですよ、、、主人は。
私が「都合の良い単純な生真面目婆さんだから?」
普通すぎる雪国の女性の除雪体操を毎日やっている冬の暮らし。
我も、、、結婚後、、、生業として、、、
あれもしたい、、、これもしたい、、、と思いながら、
素敵とは程遠い、、、へんてこな、、、波打つ,、、我がうでの筋肉に
人差し指で、筋肉山の縦走ををすれば、
ふと、、、気が付いた。
全てを捨てて、、、雪搔きを選んだから
背骨の筋肉が、、、骨を支えてくれて
72歳の背筋を、、、まっすぐにしていられるのかもしれない。
この体力があるから、
医師としての仕事意外は、、、、
全てにおいて、家内の仕事と思っている「仕事バカの主人」と
50年も、お互いに、本能的に、放し飼い的に、
神の視点では無意識に無視しながらも、同居が自然。
隣の樹と、無意識に並んで居るシャッター付の車庫みたいに。
30歳で、車の運転は辞めてしまった主人の車が車庫にある、、、・
意識下では主人の車のはずである。
しかし。。。。
単身赴任の時、勤務が終わるまで、私は勤めた時、、、
ローンで、自分の力で買った、自分名義の車である。
この車を買うために、単身赴任の夫を一度も訪ねてゆくことはしなかった。
いつ帰るかも解らない、夫の単身赴任に付き合って、
尾っぽまで振り回されるわけにはゆかないと、思ったあのころ。
夫婦の絆は、二本の隣り合った樹木のように変わった。
割り切って、結婚は夫唱婦随ではないと悟った時期であった。
あれから、夫婦は、同居している必要な人間であるが
お互いを頼らなくなった。
凍るのを防いでくれる、、、雪になった。
冷たいけれど、樹木は守られた。
再び、、、春が来ることのない、雪中夫婦の冬の戦い。
大学に残るなら、、、教授を目指して残りなさい。
教授になるのは、学門も、臨床も命として仕え、
海外にパイプをつくる語学に堪能で、
ヴィジョンをもって、同士の仲間と切磋琢磨して、
損得の心を捨てて、今日一日、全身全霊で、自分の分野にささげなさい。
それでもなれないのが、、、教授だから、
やっぱり教授は、、、偉い人。
世間様が、、、何と言おうと、、、
山崎豊子が、財前?教授、、、金と権力の世界のように
医局に永遠の冬を呼び込んだ作品で、一世風靡したころ、
主人は、原野に突然現れた、ノアの方舟のような、、、
スフィンクスとも見える私立の病院の立ち上げに合流して
医局の外から、医局とともに、時代に遅れにくいスタンスで
多くの仲間のように、医療の海に、、、漕ぎ出した。
彼の人生が、、、50歳近くなって、方向が決まった。
月待てば、、、潮もかないぬ、、、今は漕ぎいでな、、、。
主人たちの腕にかかっている、新しい私病院のゆくえは、
院長の指揮官のもとで、どこまで公的役割を果たし、
開業医さんたちの、設備上手におえない患者さんを
いかに受け止めて、地域貢献をするか、、、
自給自足で、公的役割を目指して、
地域に根差し、全国的に認められる医療レベルを維持し
開業医さんの、設備上手におえない重症患者さんを
引き受けられる役割をも担い、、、
しかも、、、これから医師になる卵の卒業生の
医師をすることのできる「心身一如」の医療教育を
主人は口にするようになって、、、、
家族は、、、、普通の家庭のような、団欒のシーンは無くなった。
病院に泊まりこみ、、、週末に帰宅出来れば、良い方だった。
病院創世記の外科は4人で、寝ずの番で、救急車に答えていた。
主人は、大学では講師。榊原先生の「心臓」という、分厚い本で
主人の論文が、高く評価されたが、英文論文にしていなかった。
後輩が、研究を引き継ぎ、ハーバード大学で英文論文として発表した。
主人は、これからは大学を出て、チームの後輩が伸びていきやすいような
時間ばかりかかって、個人の実績にはならない分野の仕事をやることが、
防波堤の基礎石の一個になれるのだよ、、
後輩の、基礎と臨床のバランスを学ぶ時間を確保するのが
病院の発展につながってゆくと信じている「主婦的な視点」
静かに、、、静かに、、、家庭からは存在を、病院に移して行った。
海外研修を経験した、今を時めく最新の技術を持った先生が
漕ぎ出した。
彼らが学会参加が出来るように、休みはとらなかった仕事バカ。
「ノアの方舟のような、スフィンクスのような、私的病院を舞台」に
全国の評価を高く受けられるレベルの仕事を積み上げ始めた。
冬の時代は終わり、春の芽吹きの季節が、、
、病院の船出を、、、個人病院から、、公敵病院へと時代の波が
役割を広大な方向へと押しすすめていった。
家庭は置き去られ、主人の寝床だけあれば、
早朝には出勤。
深夜帰宅、、、。
男のビジョンと言えばよいのか、、、、時代に流されてゆくといえばよいのか?
お仲間と、世間様に役立っている、、、必要とされている、、、
病院が、、、発展している、、、
まるで、家族は病院全体のような、一体感で、朝の5分と
深夜の寝る前の5分が、自宅だった、主人の病院人生の休息場所。
家庭は、いつも吹雪の中の雪搔きのような役割だった。
長い冬だった、、、。
私的な家庭の仕事は、一切かかわらない、、、他人のような主人。
子供たちから、絶対に離れるな、、、
母さんが、こどものそばに居れば、何とかなる。
学校や、課外活動にも、お父さん方に交じって
我が家は、、、母さんだった。
私の母が死んだとき、、、彼は、病院を選んだ。
初七日も、49日も。そして100日も。主人は病院を選んだ。
1周忌が過ぎて3周忌の時、初めて法事に現れた。
全ての相続は私たちには無関係で終わった。
病院から、葬式の花を送ったと言い張る主人の花は
頓珍漢な、、、葬儀場ではない実家の檀家になっている寺に
多分送られて、その日のどっかの葬式の花として
並べられたのかもしれない。
私は、たった一人で、母の葬式に行った。
家族を一緒に連れてゆけなかった引け目もあって
喪服には着替えないで、台所に入った。
料理の配膳や片付けをしていると、
弟の勤務先の院長先生が、台所に顔を出してくれた。
「お姉さん、、、探しましたよ、、、僕は弟さんの患者でもあるのだから、、、」
「困ったことが有ったら、何でも言ってください、、、」
「仲間たちが、皆、おとうとさんの手伝いに行くって、、、来てるんです。
60人ほどの医者仲間が、お母さん子だった弟の為に
貴重な時間を下さっていた。
立派に、、、弟が母をオクッテくれた。
母のピアノのお弟子さんも、会場いっぱいで、
お寺の境内にまではみ出していた。
里帰りもできずに、、、65歳からの母とは会っていなかった。
80歳を過ぎた母は、、、3日前まで、お弟子にレッスンをしていた。
たった、、、3日寝ただけで、母は一足飛びに神のもとえとんだ。
生き残った、、、私は、、、生き残ったのだった。
主人は病院で、患者さんと向き合って、、、時間は飛んだ。
ふと気が付くと、、、休みがもらえるようになった主人は老人だった。
隣には、75歳を過ぎた、主人が、
繁忙期を終えた老境と言えども、
患者さんも、検査の認定の腕も、必要としてくれている。
医師会の大先輩に頼まれて、写真を編集したり、
病院が世話になっている中小の連携施設の後輩とも
こまめに会合に出ては、役割を頼んでくれているようだ。
医師としての、長年の診療や、外科の手術の経験は
総合診療的な他科からも頼られて、問診をするニーズに答えている。
若い先生方も結構、、再度挑戦の画像診断の認定医の試験にも
一発で受かっているから、、、惚けては居ないのだろう。
患者さんからは、術後5年が過ぎました、、、
10年が過ぎました、、、
感謝の手紙が、、手製のイクラなどのたっぱーと一緒に
毎年、オクッテくる。
生ものは、返せないので、受け取って、葉書でお礼を書く。
働いていさえすれば、社会の貢献になるのだから、
私は、、陰になる事が、天の命令なのだろう。
、主人の医師を続けている元気のもとのようである。
「君は、、、他の誰かと結婚していたら、、、
きっと、素敵な女性だったろうね。。!?」
主人は、はっきりと、、、
「君は素敵ではない、、、山嵐のようだ、、、!」と
パラドックスのような表現で、言っているのかもしれない。
「仕事の方が、元気をくれて、仕事の方が自分の奥さん以上の家族だと、、、」
欲張りな理想が、自分の居場所を造れたのだろう。
ハイセンスな上品な医師家族とは、、、
ほど遠い「鬼婆の山姥」???を観ているような気持ちかもしれない。
自宅の「バンカラな空気」からすぐに逃げ出して
病院の仕事に、向かってゆくとき、別人のように若くなる。
医学の話に戻る。
本も、TVも、医学と医療。
女性の雑誌は一冊もない。
若い時は、きっとモテテ、いたのかもしれないが
年とともに、、、仕事、、、だけ?
病院がいつの間にか私的病院から公的病院に発展していた。
北海道という地域に貢献できる、、、巨大病院になっていた。
この間、時間が飛んでしまって、、、気が付いたときには
70歳を過ぎていた。
思い起こせば、、、主人が単身赴任の二十数年前、
ノアの方舟が出現する原野に、私は立って映っている写真があった。
私病院から、公的病院になるとき、創立者の夫人に
原野のころ、原野に経っている私の写真を送った。
創立者が、公人に病院を譲って、北大の講師だった主人に
公的に変わる病院の、公的病院の初代院長を、北大講師だった経歴の
主人に、直接、、、、同僚たちの前で託して、
一度は辞退した主人に、
ゆっくりと、かたつむりのようなペースで、後片付けを示唆したのでした。
長い冬の自宅であった。
外から見たら、下剋上と間違えられるから、、
引き受けない方がいいと、、、私は思った。
世間の風評というのは、独り歩きして、向かい風に耐えられるかと思ったりした。
仕事バカで、自分の実績になる仕事が出来なくなっても
土手に穴が開きそうなときは、
手を突っ込んで腐るまで忍耐するような冬の季節がやって来た。
創立者の病院長が、再び、ご自分の病院を別個に創立して、、、出て行った。
主人よりも、、、優秀な先輩の先生方が、
初代公的病院の院長になってくれれば、、と、、祈っていた。
風評は飛び交い、当然、下剋上と間違って出てゆく先生方もいた。
全身吹き出物になり、ストレス性の糖尿病になり、、
黙々と、草の根的に、面談しながら、
新体制を推進していくチームに合流し、
誤解の風評に沈黙を守りながら、
医療界の並々ならない人間関係の流れを知る由もない経営陣の
理想と、現実のはざまで、バランスをとる忍耐の院長時代が始まった。
今まで以上に、家庭は無視。
医局長、、同門会長、、院長、、、医師会、、、
第一が病院の主人、、、。
気が付くと、、私は、家庭的には主人への、依存性が無くなっていた。
人生の長い冬は、ちょっとの光に感謝する。
いがみ合ってはいないが、夫婦と呼ばれるが
尤も一緒に居る時間の少ない二人だった。
空気のように、、、かかわらない、、、
無意識の中で、必要としているのかもしれない。
長い、、、長い、、、冬。
冷たい雪が緊張をほぐさせなかったから、、、凍らなかった。
73歳は、もう、、、目の前だ。
医師になるより
医師をする事の厳しさを見続けた気がする。
家内という、、、外野席から観てきた。
50近くまで大学という国家公務員教官。
生涯の受験生の居るような、二階の下宿人。
毎日が冬だったから、
毎日が雪搔きだったから。。。
仕事は筋肉の疲れとともに
いつも、、、元どうりで、、、足跡は子供の成長だったから。
個人的には。。。求め合わなかったから、、、
共存共栄の義務の家政を果たせたのかもしれない。
「医者バカの相棒」が今でも人様のお役に立てているのかもしれない。
医師をするには、だれかが、、、応援団の捨て石になって
何の疑問も持たず、孤独な子育てに専念し、
社会参加は等身大で末席に居る主婦という職場。
医療の土手に、、小さな穴を見つけたら、誰かが率先して
命がけで、ふさいで、土手を守れば、
日本の医療制度は、世界一を守り通せて、
良い医師が育ち、、、やがて、せかいの地域で
日本の高度な医療が実践されて、
奉仕の医学が、春の雪融けを迎えるだろう。
風評と違って、
巨大病院の院長夫人の座なんて、、、存在しないのです。
しかし、、、お金持ちと間違えられるのは、、、なぜ?
孤独で、経済的にも自立して、何とかやりくりして
家庭は別個に生き残ってゆかないと、
風評や、権力があるのと間違われて、
困窮する結果になる事もあります。
主人のステータスは主人だけのものです。
全く、、、家内には、無関係な事です。
医師の家内は、恋人でも、妻でもないが。
人生の相棒だった気がする。
岡っ引きと大岡越前の守のようなバランスかな?
世話をする、付け人のような、落差があります。、、
主婦という、自宅に根を下ろした仕事の樹だったかもしれない。。
***********************************
私は、、、薬剤師、
衛生検査技師。
高校教師や中学物理化学理科一般の
教職免許、、、、
高校時代に英検2級を取ったきり、、、
車の免許だけは北国の生活には必須であり
今も役立っている。
いけばなや、お茶や、日舞、
8年習ったモノは看板も授与された。
結婚は、、、命を預かる医師の主人の前には
一切の自己主張は却下。
この「ブログだけが、、、言いたい放題の、、、王様のロバの耳」
文化教室の趣味友達が居てもいいはず。
日本では、、、主婦は孤独の時代に生まれた。
さきがけの、「レディースゴルフクラブ」に通っていた大学時代。
「芝の打ちっぱなし」では
「俳優さんも、女優さん」も見えていた。
いい気な時代の女子大生。
一生分の「スカッとしたコーラーを飲み干した時代だった」
若き女子大生のアルバイトは売り手市場の
女子高校生の家庭教師、、など。
家族がもう一つあるような待遇だった。
一生分の春爛漫の「細雪」の時代を観ていた。
****************************
結婚と同時に、主人に、ゴルフクラブは取り上げられた、
弟や兄と、学校を遅刻しながら集めた切手が、
兄弟との絆のように、大切にして、母に預けてあった。
切手収集は、ストックブックごと、、、「欲しい」と言われて
主人にお土産としてあげてしまった。
その後、幼い日のアルバムとともに
母に郵送してもらった。
主人は東京のせたがやで生まれている。
勉強しか知らない高校を卒業して、、、
札幌にやってきて一人暮らしの男所帯で
北大医学部の、学生を7年間していた。
勉強の本しかなかった青春を過ごして、
すきっ腹に耐えて野球に没頭していた主人は
冬の北海道で、愛情の知らない環境の中、
何かに依存しながら、、、学生時代を通過してきたに違いない。
何でも珍しいらしく、「愛は限りなく奪う、旧泰然の、、、貧しい困窮」
無給医時代の、北大という未来のある大学生の看板に
今はやりの、、、忖度があって、、、貧困時代を温かく包まれたのか、、、
若き青年に、先行投資の、、、わが母のような、中年叔母さんの
母性の威支えられたのか、
物質的貧困とは裏腹に
殿様のような、、、向う見ずな堂々とした、怪物的自己主張が感じられた。
私には、、、手におえない、、、真冬の冷たさの季節が始まった。
私の、、、ささやかな、、、趣味で集めて、
長蛇の列で、遅刻しながら、先生に怒られながら集めた
記念切手は、主人の興味をそそってしまった。
隠しておけばよかった!
主人は、言えば当然自分の思いどうりになるという自然体で
切手を、横線のある糊のついたアルバムに張り替えた。
ご丁寧に、私のストックブックの、セロハンに包んだ切手を
一枚一枚、包装紙のセロハンから出して、
スリガラスのような、セロファンから出すと、、、いいね~~~と。
糊のついた、アルバムに張り付けて、
誰もが、、、はがせないような保存にしてしまった。
切手としては、無価値になってしまったのも頓着なく
切手を観ては、愛でている。
きちんと保存して、切手の回りの切れ込みまで、
ルーペで観て、保存していた私のコレクションは
「切手音痴」の主人の収集の野蛮な扱いで
額面十万はあっただろう、、、月と雁、ビードロ、写楽、、
昭和初期の爺ちゃんからもらった、正月の虎の切手。、、、
全てに、、、アルバムの糊の黄色い横線が移ってしまい
切手としては無価値になってしまった。
内心、切手音痴につける薬は無いと、
腹が立つ次元にも届かない、、、落胆だけが身に染みた。
主人は、ほどなく、、、切手には飽きた。
息子の私立大学入学の月謝の足しにと、
業者に観てもらったら、、、
「涙が出るほど、、、悔しい保存ですね、、、」と
業者はあきれた。
之は、、カタログの値段と、おんなじですね、、、
これからは。きちんとした切手のマナーを
主人に。説明して、やり直そうと決心した。
之は、、、残念だけれど二束三文で、譲ってしまった。
ガサツな保存を、観ているのがつらかったので、
切手やさんの、カタログとして
子供たちの見本品としてでも
役に立ってくれるのなら、3000円でもいいかな~~と思った
はがすと、、、敗れるし、、、
こんなむちゃくちゃな、扱いは信じられなかった。
仕事以外は
頓着なく、自己流の、北海道の泥臭い一面に
受け入れがたい繊細さのない苛立ちから、虎との同居ぐらいに考えた。
私の方が、ハイヒールも、ハンドバックも捨てて
リュックにすれば、、、解決する問題だった。
ゴルフも、ピアノも、踊りも、しない50年が過ぎた。
ダンス靴の、かかとの長さを調節していた青春時代の
ダンスで知り合ったような父母たちの「競技ダンス」。
東京の我が家に入ってくれる約束の結婚は敢無く
ミイラ取りがミイラになって
いつか、、、ベンハーの映画のように
船の櫓を漕ぎつづける私を「神」が見捨てるわけはないと
冬の北海道で、季節と闘い続けた。
すっぴんで、オムレツで割った卵の殻にへばりついたコラーゲン
指で集め、顔のマッサージに使った、
その上から、チョコラザーネを塗布すれば
卵は腐らない。
化粧品はこれだけ。
父母の趣味を受け継ぐすべのない50年だった。
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視点を変えれば、、、人生は旅人だと、、冬から教えられた。
雪を知った。
同じに見える雪が、毎日違う。
屋根の雪を降ろしながら、大の字になって、屋根で休む時
北国の空の、宝石のように美しい空に気が付いた。
トルコブルー
エメラルド
夕焼けのオパール
ルビーのような、、あのあかい、、、観たことのない色の宇宙
ラピスラズリの「空の部屋バンドをして少女に還った!」
雑物が主人のストレス解消の具体の世界なら
北海道は、、、白一色の、、何もない、、無、、無の無限の美しさをくれた。
雪掻きにヒステリックにイライラして
無意味な時間の過ぎる若き日の事が、
無駄な、、、悪あがきのように思える年になった。
白一色の微粒の世界は
越路吹雪の舞台の「光の衣裳」のように
天然の光に浮かぶ、広大なスケールの芸術を見せてくれた。
冬の妖精たちのダイヤモンドダストに舞う光の虹の橋が
二重にかかって、踊り舞う空間の8D芸術を観ていた。。。。空。
一期一会の自然の顔に、、、今日も出会えて、
人間って、、、本当は、、、何もいらないのかもしれない。。。
生きてゆけるのなら、、、それが人生。