花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

想定外の3月24日の大雪

2017-03-25 14:46:58 | Weblog

朝5字に起きて、ドアを力いっぱい押して、大雪にびっくり

後は昼も食べずに3時まで、重たい雪を搔き続けた。

今年初めて、、、足がつった、

ふくらはぎ、、、大腿、、、こらえきれない、、、足がつる、、、

足ウラ、マッサージ器を逆さにして、大腿の上、ふくらはぎ、アキレスけん

フル稼働して、マッサージを2時間、かけつづけた。

いつの間にか、足裏マーサージをかけながら、寝てしまった。

夜になって、又、、、玄関のドアが重い、

水を含ん春の雪が、冬にしがみついているようだ。

明日は、わだちにならないように

路肩に雪を押しやって、春を迎えに行く72歳の私。

20年使っているミニ、マッサージ機に

ぶっ倒れて、マッサージ機をかけながら、、朝の5時まで寝てしまった。

人工的に体液を循環させたおかげだろうか?

風呂に飛び込んで全身を温めたおかげだろうか?

あんなに痛かった、こむら返りの大腿は、

筋がわずかに、痛むだけで復活した。

マイペースで、落ち着いて、あわてないで、

足裏マッサージ機を逆さに使用して、大腿の筋肉の引きつれを

ほぐしたのが、良かった!、、、と、自己満足の安心を得た。

でんぐり返りそうな痛みは消えて、

ストックに買ってあった最後のひとビン。

ポカリスエットを500ミリ飲んだ。

私的に、孤立した北海道の暮らしは、

深入りしないが、皆、愛するべき隣人ばかり。

全員が、井戸端会議レベルの、挨拶叔母さん仲間、

名前は知らないが、犬の散歩叔父さんらとの

お天気話の隣人ばかり。

今年最後の「名残雪になる!」と信じて

馬鹿力を出し切って、春を呼んでいると、

二軒隣の雪搔きライバルが、

「すごいね!良くやるね!私は、、もうほおっておくさ!融けるもん!」

笑いながら、、お疲れさん、、、「奥さんも、ほーておきな!(^^。。。」

スコップを持ったまま、立ち話。

「迎え酒、、ってあるけどね、、、雪搔き悪酔いでさ!、、、迎え雪かきでござんすョ」

笑いながら、彼女は、恒例の早朝自販機買い物に行く後姿は、、、春の中。

この冬の雪搔きの戦いの終了宣言です。

夕方までにはわだちをきしませながら、

タイヤの空回りの音が、鉄筋の我が家の台所まで響続けた。

春が来ていると、感じながら、冬のヤッケや、衣類をしまいながら

部屋がうっとうしく無くなったころ、、、

********************************

何事も、無かったような夏がドサーと落ちてくる北国の季節の豹変。

乱暴すぎる四季の歌は、アレグロな日々。

「大観」と言えども、「芭蕉」と言えども、、、

あのような、、、ナイーヴな、、、精神の絵や俳句を

北海道に住んでいたら、、、残せただろうか!

やっぱし、、、片岡さんタッチの蝦夷富士は、烈しい変遷の色でしょう!

長靴で雪を踏んだら、足をとられて、裸足になって、

両手で、長靴を掘り起こしながら、

大根弾く要領で、長靴をきっこぬき、、、又、、、履く。

又、、、雪に足をとられる。また、、、引っこ抜く。

融かされる雪の気持ちになってみると

ひと冬、、、付き合ってくれた、、、愛しい我に別れるのがつらいのか?

なごり雪とは、、、良く言ったものですね!、、、雪ちゃんよ!

いきなりやってくる、、、山笑う北国で

キャンパスに色を塗らないで

人差し指に炭を付けて、足跡を付けると

雪原に生きる、、、命、、、

こんな芸術があってもいいな~~~~

バカ野郎、、、の私。

人生の半分を雪を搔きながら、、、仕事バカの主の住宅管理の毎日。

音もなく帰ってきて、、、寝て、、、出かけてゆく

仕事バカの、、、相棒の、、、

訳の分からない呪縛の中で

ありがたがられるには、、、ありがたいみたいですよ、、、主人は。

私が「都合の良い単純な生真面目婆さんだから?」

普通すぎる雪国の女性の除雪体操を毎日やっている冬の暮らし。

我も、、、結婚後、、、生業として、、、

あれもしたい、、、これもしたい、、、と思いながら、

素敵とは程遠い、、、へんてこな、、、波打つ,、、我がうでの筋肉に

人差し指で、筋肉山の縦走ををすれば、

ふと、、、気が付いた。

全てを捨てて、、、雪搔きを選んだから

背骨の筋肉が、、、骨を支えてくれて

72歳の背筋を、、、まっすぐにしていられるのかもしれない。

この体力があるから、

医師としての仕事意外は、、、、

全てにおいて、家内の仕事と思っている「仕事バカの主人」と

50年も、お互いに、本能的に、放し飼い的に、

神の視点では無意識に無視しながらも、同居が自然。

隣の樹と、無意識に並んで居るシャッター付の車庫みたいに。

30歳で、車の運転は辞めてしまった主人の車が車庫にある、、、・

意識下では主人の車のはずである。

しかし。。。。

単身赴任の時、勤務が終わるまで、私は勤めた時、、、

ローンで、自分の力で買った、自分名義の車である。

この車を買うために、単身赴任の夫を一度も訪ねてゆくことはしなかった。

いつ帰るかも解らない、夫の単身赴任に付き合って、

尾っぽまで振り回されるわけにはゆかないと、思ったあのころ。

夫婦の絆は、二本の隣り合った樹木のように変わった。

割り切って、結婚は夫唱婦随ではないと悟った時期であった。

あれから、夫婦は、同居している必要な人間であるが

お互いを頼らなくなった。

凍るのを防いでくれる、、、雪になった。

冷たいけれど、樹木は守られた。

再び、、、春が来ることのない、雪中夫婦の冬の戦い。

大学に残るなら、、、教授を目指して残りなさい。

教授になるのは、学門も、臨床も命として仕え、

海外にパイプをつくる語学に堪能で、

ヴィジョンをもって、同士の仲間と切磋琢磨して、

損得の心を捨てて、今日一日、全身全霊で、自分の分野にささげなさい。

それでもなれないのが、、、教授だから、

やっぱり教授は、、、偉い人。

世間様が、、、何と言おうと、、、

山崎豊子が、財前?教授、、、金と権力の世界のように

医局に永遠の冬を呼び込んだ作品で、一世風靡したころ、

主人は、原野に突然現れた、ノアの方舟のような、、、

スフィンクスとも見える私立の病院の立ち上げに合流して

医局の外から、医局とともに、時代に遅れにくいスタンスで

多くの仲間のように、医療の海に、、、漕ぎ出した。

彼の人生が、、、50歳近くなって、方向が決まった。

月待てば、、、潮もかないぬ、、、今は漕ぎいでな、、、。

主人たちの腕にかかっている、新しい私病院のゆくえは、

院長の指揮官のもとで、どこまで公的役割を果たし、

開業医さんたちの、設備上手におえない患者さんを

いかに受け止めて、地域貢献をするか、、、

自給自足で、公的役割を目指して、

地域に根差し、全国的に認められる医療レベルを維持し

開業医さんの、設備上手におえない重症患者さんを

引き受けられる役割をも担い、、、

しかも、、、これから医師になる卵の卒業生の

医師をすることのできる「心身一如」の医療教育を

主人は口にするようになって、、、、

家族は、、、、普通の家庭のような、団欒のシーンは無くなった。

病院に泊まりこみ、、、週末に帰宅出来れば、良い方だった。

病院創世記の外科は4人で、寝ずの番で、救急車に答えていた。

主人は、大学では講師。榊原先生の「心臓」という、分厚い本で

主人の論文が、高く評価されたが、英文論文にしていなかった。

後輩が、研究を引き継ぎ、ハーバード大学で英文論文として発表した。

主人は、これからは大学を出て、チームの後輩が伸びていきやすいような

時間ばかりかかって、個人の実績にはならない分野の仕事をやることが、

防波堤の基礎石の一個になれるのだよ、、

後輩の、基礎と臨床のバランスを学ぶ時間を確保するのが

病院の発展につながってゆくと信じている「主婦的な視点」

静かに、、、静かに、、、家庭からは存在を、病院に移して行った。

海外研修を経験した、今を時めく最新の技術を持った先生が

漕ぎ出した。

彼らが学会参加が出来るように、休みはとらなかった仕事バカ。

「ノアの方舟のような、スフィンクスのような、私的病院を舞台」に

全国の評価を高く受けられるレベルの仕事を積み上げ始めた。

冬の時代は終わり、春の芽吹きの季節が、、

、病院の船出を、、、個人病院から、、公敵病院へと時代の波が

役割を広大な方向へと押しすすめていった。

家庭は置き去られ、主人の寝床だけあれば、

早朝には出勤。

深夜帰宅、、、。

男のビジョンと言えばよいのか、、、、時代に流されてゆくといえばよいのか?

お仲間と、世間様に役立っている、、、必要とされている、、、

病院が、、、発展している、、、

まるで、家族は病院全体のような、一体感で、朝の5分と

深夜の寝る前の5分が、自宅だった、主人の病院人生の休息場所。

家庭は、いつも吹雪の中の雪搔きのような役割だった。

長い冬だった、、、。

私的な家庭の仕事は、一切かかわらない、、、他人のような主人。

子供たちから、絶対に離れるな、、、

母さんが、こどものそばに居れば、何とかなる。

学校や、課外活動にも、お父さん方に交じって

我が家は、、、母さんだった。

私の母が死んだとき、、、彼は、病院を選んだ。

初七日も、49日も。そして100日も。主人は病院を選んだ。

1周忌が過ぎて3周忌の時、初めて法事に現れた。

全ての相続は私たちには無関係で終わった。

病院から、葬式の花を送ったと言い張る主人の花は

頓珍漢な、、、葬儀場ではない実家の檀家になっている寺に

多分送られて、その日のどっかの葬式の花として

並べられたのかもしれない。

私は、たった一人で、母の葬式に行った。

家族を一緒に連れてゆけなかった引け目もあって

喪服には着替えないで、台所に入った。

料理の配膳や片付けをしていると、

弟の勤務先の院長先生が、台所に顔を出してくれた。

「お姉さん、、、探しましたよ、、、僕は弟さんの患者でもあるのだから、、、」

「困ったことが有ったら、何でも言ってください、、、」

「仲間たちが、皆、おとうとさんの手伝いに行くって、、、来てるんです。

60人ほどの医者仲間が、お母さん子だった弟の為に

貴重な時間を下さっていた。

立派に、、、弟が母をオクッテくれた。

母のピアノのお弟子さんも、会場いっぱいで、

お寺の境内にまではみ出していた。

里帰りもできずに、、、65歳からの母とは会っていなかった。

80歳を過ぎた母は、、、3日前まで、お弟子にレッスンをしていた。

たった、、、3日寝ただけで、母は一足飛びに神のもとえとんだ。

生き残った、、、私は、、、生き残ったのだった。

主人は病院で、患者さんと向き合って、、、時間は飛んだ。

ふと気が付くと、、、休みがもらえるようになった主人は老人だった。

隣には、75歳を過ぎた、主人が、

繁忙期を終えた老境と言えども、

患者さんも、検査の認定の腕も、必要としてくれている。

医師会の大先輩に頼まれて、写真を編集したり、

病院が世話になっている中小の連携施設の後輩とも

こまめに会合に出ては、役割を頼んでくれているようだ。

医師としての、長年の診療や、外科の手術の経験は

総合診療的な他科からも頼られて、問診をするニーズに答えている。

若い先生方も結構、、再度挑戦の画像診断の認定医の試験にも

一発で受かっているから、、、惚けては居ないのだろう。

患者さんからは、術後5年が過ぎました、、、

10年が過ぎました、、、

感謝の手紙が、、手製のイクラなどのたっぱーと一緒に

毎年、オクッテくる。

生ものは、返せないので、受け取って、葉書でお礼を書く。

働いていさえすれば、社会の貢献になるのだから、

私は、、陰になる事が、天の命令なのだろう。

、主人の医師を続けている元気のもとのようである。

「君は、、、他の誰かと結婚していたら、、、

きっと、素敵な女性だったろうね。。!?」

主人は、はっきりと、、、

「君は素敵ではない、、、山嵐のようだ、、、!」と

パラドックスのような表現で、言っているのかもしれない。

「仕事の方が、元気をくれて、仕事の方が自分の奥さん以上の家族だと、、、」

欲張りな理想が、自分の居場所を造れたのだろう。

ハイセンスな上品な医師家族とは、、、

ほど遠い「鬼婆の山姥」???を観ているような気持ちかもしれない。

自宅の「バンカラな空気」からすぐに逃げ出して

病院の仕事に、向かってゆくとき、別人のように若くなる。

医学の話に戻る。

本も、TVも、医学と医療。

女性の雑誌は一冊もない。

若い時は、きっとモテテ、いたのかもしれないが

年とともに、、、仕事、、、だけ?

病院がいつの間にか私的病院から公的病院に発展していた。

北海道という地域に貢献できる、、、巨大病院になっていた。

この間、時間が飛んでしまって、、、気が付いたときには

70歳を過ぎていた。

思い起こせば、、、主人が単身赴任の二十数年前、

ノアの方舟が出現する原野に、私は立って映っている写真があった。

私病院から、公的病院になるとき、創立者の夫人に

原野のころ、原野に経っている私の写真を送った。

創立者が、公人に病院を譲って、北大の講師だった主人に

公的に変わる病院の、公的病院の初代院長を、北大講師だった経歴の

主人に、直接、、、、同僚たちの前で託して、

一度は辞退した主人に、

ゆっくりと、かたつむりのようなペースで、後片付けを示唆したのでした。

長い冬の自宅であった。

外から見たら、下剋上と間違えられるから、、

引き受けない方がいいと、、、私は思った。

世間の風評というのは、独り歩きして、向かい風に耐えられるかと思ったりした。

仕事バカで、自分の実績になる仕事が出来なくなっても

土手に穴が開きそうなときは、

手を突っ込んで腐るまで忍耐するような冬の季節がやって来た。

創立者の病院長が、再び、ご自分の病院を別個に創立して、、、出て行った。

主人よりも、、、優秀な先輩の先生方が、

初代公的病院の院長になってくれれば、、と、、祈っていた。

風評は飛び交い、当然、下剋上と間違って出てゆく先生方もいた。

全身吹き出物になり、ストレス性の糖尿病になり、、

黙々と、草の根的に、面談しながら、

新体制を推進していくチームに合流し、

誤解の風評に沈黙を守りながら、

医療界の並々ならない人間関係の流れを知る由もない経営陣の

理想と、現実のはざまで、バランスをとる忍耐の院長時代が始まった。

今まで以上に、家庭は無視。

医局長、、同門会長、、院長、、、医師会、、、

第一が病院の主人、、、。

気が付くと、、私は、家庭的には主人への、依存性が無くなっていた。

人生の長い冬は、ちょっとの光に感謝する。

いがみ合ってはいないが、夫婦と呼ばれるが

尤も一緒に居る時間の少ない二人だった。

空気のように、、、かかわらない、、、

無意識の中で、必要としているのかもしれない。

長い、、、長い、、、冬。

冷たい雪が緊張をほぐさせなかったから、、、凍らなかった。

73歳は、もう、、、目の前だ。

医師になるより

医師をする事の厳しさを見続けた気がする。

家内という、、、外野席から観てきた。

50近くまで大学という国家公務員教官。

生涯の受験生の居るような、二階の下宿人。

毎日が冬だったから、

毎日が雪搔きだったから。。。

仕事は筋肉の疲れとともに

いつも、、、元どうりで、、、足跡は子供の成長だったから。

個人的には。。。求め合わなかったから、、、

共存共栄の義務の家政を果たせたのかもしれない。

「医者バカの相棒」が今でも人様のお役に立てているのかもしれない。

医師をするには、だれかが、、、応援団の捨て石になって

何の疑問も持たず、孤独な子育てに専念し、

社会参加は等身大で末席に居る主婦という職場。

医療の土手に、、小さな穴を見つけたら、誰かが率先して

命がけで、ふさいで、土手を守れば、

日本の医療制度は、世界一を守り通せて、

良い医師が育ち、、、やがて、せかいの地域で

日本の高度な医療が実践されて、

奉仕の医学が、春の雪融けを迎えるだろう。

風評と違って、

巨大病院の院長夫人の座なんて、、、存在しないのです。

しかし、、、お金持ちと間違えられるのは、、、なぜ?

孤独で、経済的にも自立して、何とかやりくりして

家庭は別個に生き残ってゆかないと、

風評や、権力があるのと間違われて、

困窮する結果になる事もあります。

主人のステータスは主人だけのものです。

全く、、、家内には、無関係な事です。

医師の家内は、恋人でも、妻でもないが。

人生の相棒だった気がする。

岡っ引きと大岡越前の守のようなバランスかな?

世話をする、付け人のような、落差があります。、、

主婦という、自宅に根を下ろした仕事の樹だったかもしれない。。

***********************************

私は、、、薬剤師、

 衛生検査技師。

高校教師や中学物理化学理科一般の

教職免許、、、、

高校時代に英検2級を取ったきり、、、

車の免許だけは北国の生活には必須であり

今も役立っている。

いけばなや、お茶や、日舞、

8年習ったモノは看板も授与された。

結婚は、、、命を預かる医師の主人の前には

一切の自己主張は却下。

この「ブログだけが、、、言いたい放題の、、、王様のロバの耳」

文化教室の趣味友達が居てもいいはず。

日本では、、、主婦は孤独の時代に生まれた。

さきがけの、「レディースゴルフクラブ」に通っていた大学時代。

「芝の打ちっぱなし」では

「俳優さんも、女優さん」も見えていた。

いい気な時代の女子大生。

一生分の「スカッとしたコーラーを飲み干した時代だった」

若き女子大生のアルバイトは売り手市場の

女子高校生の家庭教師、、など。

家族がもう一つあるような待遇だった。

一生分の春爛漫の「細雪」の時代を観ていた。

****************************

結婚と同時に、主人に、ゴルフクラブは取り上げられた、

弟や兄と、学校を遅刻しながら集めた切手が、

兄弟との絆のように、大切にして、母に預けてあった。

切手収集は、ストックブックごと、、、「欲しい」と言われて

主人にお土産としてあげてしまった。

その後、幼い日のアルバムとともに

母に郵送してもらった。

主人は東京のせたがやで生まれている。

勉強しか知らない高校を卒業して、、、

札幌にやってきて一人暮らしの男所帯で

北大医学部の、学生を7年間していた。

勉強の本しかなかった青春を過ごして、

すきっ腹に耐えて野球に没頭していた主人は

冬の北海道で、愛情の知らない環境の中、

何かに依存しながら、、、学生時代を通過してきたに違いない。

何でも珍しいらしく、「愛は限りなく奪う、旧泰然の、、、貧しい困窮」

無給医時代の、北大という未来のある大学生の看板に

今はやりの、、、忖度があって、、、貧困時代を温かく包まれたのか、、、

若き青年に、先行投資の、、、わが母のような、中年叔母さんの

母性の威支えられたのか、

物質的貧困とは裏腹に

殿様のような、、、向う見ずな堂々とした、怪物的自己主張が感じられた。

私には、、、手におえない、、、真冬の冷たさの季節が始まった。

私の、、、ささやかな、、、趣味で集めて、

長蛇の列で、遅刻しながら、先生に怒られながら集めた

記念切手は、主人の興味をそそってしまった。

隠しておけばよかった!

主人は、言えば当然自分の思いどうりになるという自然体で

切手を、横線のある糊のついたアルバムに張り替えた。

ご丁寧に、私のストックブックの、セロハンに包んだ切手を

一枚一枚、包装紙のセロハンから出して、

スリガラスのような、セロファンから出すと、、、いいね~~~と。

糊のついた、アルバムに張り付けて、

誰もが、、、はがせないような保存にしてしまった。

切手としては、無価値になってしまったのも頓着なく

切手を観ては、愛でている。

きちんと保存して、切手の回りの切れ込みまで、

ルーペで観て、保存していた私のコレクションは

「切手音痴」の主人の収集の野蛮な扱いで

額面十万はあっただろう、、、月と雁、ビードロ、写楽、、

昭和初期の爺ちゃんからもらった、正月の虎の切手。、、、

全てに、、、アルバムの糊の黄色い横線が移ってしまい

切手としては無価値になってしまった。

内心、切手音痴につける薬は無いと、

腹が立つ次元にも届かない、、、落胆だけが身に染みた。

主人は、ほどなく、、、切手には飽きた。

息子の私立大学入学の月謝の足しにと、

業者に観てもらったら、、、

「涙が出るほど、、、悔しい保存ですね、、、」と

業者はあきれた。

之は、、カタログの値段と、おんなじですね、、、

これからは。きちんとした切手のマナーを

主人に。説明して、やり直そうと決心した。

之は、、、残念だけれど二束三文で、譲ってしまった。

ガサツな保存を、観ているのがつらかったので、

切手やさんの、カタログとして

子供たちの見本品としてでも

役に立ってくれるのなら、3000円でもいいかな~~と思った

はがすと、、、敗れるし、、、

こんなむちゃくちゃな、扱いは信じられなかった。

仕事以外は

頓着なく、自己流の、北海道の泥臭い一面に

受け入れがたい繊細さのない苛立ちから、虎との同居ぐらいに考えた。

私の方が、ハイヒールも、ハンドバックも捨てて

リュックにすれば、、、解決する問題だった。

ゴルフも、ピアノも、踊りも、しない50年が過ぎた。

ダンス靴の、かかとの長さを調節していた青春時代の

ダンスで知り合ったような父母たちの「競技ダンス」。

東京の我が家に入ってくれる約束の結婚は敢無く

ミイラ取りがミイラになって

いつか、、、ベンハーの映画のように

船の櫓を漕ぎつづける私を「神」が見捨てるわけはないと

冬の北海道で、季節と闘い続けた。

すっぴんで、オムレツで割った卵の殻にへばりついたコラーゲン

指で集め、顔のマッサージに使った、

その上から、チョコラザーネを塗布すれば

卵は腐らない。

化粧品はこれだけ。

父母の趣味を受け継ぐすべのない50年だった。

********************************

視点を変えれば、、、人生は旅人だと、、冬から教えられた。

雪を知った。

同じに見える雪が、毎日違う。

屋根の雪を降ろしながら、大の字になって、屋根で休む時

北国の空の、宝石のように美しい空に気が付いた。

トルコブルー

エメラルド

夕焼けのオパール

ルビーのような、、あのあかい、、、観たことのない色の宇宙

ラピスラズリの「空の部屋バンドをして少女に還った!」

雑物が主人のストレス解消の具体の世界なら

北海道は、、、白一色の、、何もない、、無、、無の無限の美しさをくれた。

雪掻きにヒステリックにイライラして

無意味な時間の過ぎる若き日の事が、

無駄な、、、悪あがきのように思える年になった。

白一色の微粒の世界は

越路吹雪の舞台の「光の衣裳」のように

天然の光に浮かぶ、広大なスケールの芸術を見せてくれた。

冬の妖精たちのダイヤモンドダストに舞う光の虹の橋が

二重にかかって、踊り舞う空間の8D芸術を観ていた。。。。空。

一期一会の自然の顔に、、、今日も出会えて、

人間って、、、本当は、、、何もいらないのかもしれない。。。

生きてゆけるのなら、、、それが人生。

 


帰りたい、、、帰れない、、、東京

2017-03-22 18:08:34 | Weblog

 

私のお父さんは、

根っからの東京っ子で育ち

牛込、飯田橋、早稲田、九段、市谷あたりは、

父の高校生時代の

環境でした。

東京大学に進学したくて、

早稲田中学時代から、一生けん命勉強したそうですが、、

敢無く、、、敗退。

涙にくれて落ち込んでいるとき

音楽大学生だった母と友人の三人娘に出逢ったそうです。

母に恋した父は、一念発起!

当時は試験の点数如何によって、

40倍の倍率を突破して

医科大学の2年に編入して、外科医となりました。

大学時代は、新橋、浜松町、銀座、有楽町、、、と

母とデートしたそうです。

父は「山手線の真ん中を、我が故郷のように、歩き回った東京っ子でした。」

神田の祭りも、浅草オペラも、新橋芸者さんも、深川の木場も、

東京の文化だった時代かもしれません。

神楽坂には、5枚こはぜの足袋を売っている店が、、、

多分今もあるでしょうね。

まりか、、、さん。

まり千代さん、、、

そのような、名妓が、アサヒグラフを飾っていたのは

もう、、、戦後ですよね。

神楽坂の毘沙門天のあたりの縁日で、

金鯉の赤ちゃんを、探して、育てたり、、、

父の言葉は、美しい東京言葉でした。

*******************************

第二次世界大戦んが、我が家の運命のみならず、、、

多くの東京の住人の住宅を焼き尽くしました。

本来なら、、、文人通りのどこかに、先祖から引き継がれた

歌舞伎門のある「御屋敷」が、、、父の住宅であるはずでした。

焼夷弾で、壊滅状態になった東京を、、、、

多分、小池さんも、慎太郎さんもご存じないでしょうね。

             *************

長谷川利行と名乗る画家がいますが、

日本のゴッホと言われる精神のギリギリの筆タッチで

ギリギリの精神の絵を描く画家の絵の中に

大震災や、大戦で廃墟となった東京の街を

屍を超えて歩くような、、、筆のタッチの絵が見られ、、、

私は、、ゾク、、、と、冷や汗を出しながら、

東京駅のレンガの会場での、彼の絵を見たものでした。

父の残した、教育勅語の書かれた軍隊手帳、

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父の残した、、、何やらサインのいっぱいある社印だらけの

日の丸の旗。

武運長久と、一針一針、、千人以上の心からの祈りの針糸の字。

この戦争が、我が家も、親戚も、友人も、祖父母も

全てが、ごあさんで願いましては、、、一円也、、という事になりました。

戦後、我が家には、母が自分で買ったグランドピアノと

 

母は明治生まれなのに

車の免許も持っていた。

女性の最初のグループに入るだろう

東京都の女学校の宣誓もしていた。

戦後の一文無しの人生の再出発を

血の汗を流すことを惜しまなかった。

私には、、、絶対に勝てない女性だった。

父の亡きあと、

こどもらで、ピアノ教室の看板を掛けて回った。

アップライトのピアノが3台。

父の亡きあとは、

「よつ葉会」というピアノの会を発足させて、

結婚前の夢であった、ピアノの世界に、母は帰って行った。

戦後、

鮭が、生まれ故郷に帰ってゆくように、

疎開地から、まんしんそうい、、、の頑張りで

生き残った4人の兄弟の教育は、東京で受けさせると

東京の、山手線をはるかに離れた下町の小岩に帰還した。

 

大学時代の友人たちも、下町に帰って来ていた。

そこは、、、ドブだらけで、、、蚊の発生があり、

金鳥の蚊取り線香を、

切らせることはできなかった。

山の手で育った父の弟さんは[叔父さん]は

学徒出陣で無事に帰還、

28歳から、

早稲田合格、、、兄さんの家(我が家)から

兄さん(私の父)の経済力で卒業し、

めでたく、、、

学芸大卒の彼女と結婚。

結婚式は、我が家の2階に、、底が抜けそうなほど

知人縁者を集めて挙式。

私が、皆にお酒を注いで回る役でした。

母の弟も、シベリア抑留から帰還、

日本大学の工学部の学生をしているうちに、、、中退。

従兄弟も、、嫁さんの親まで、、、親戚中同居の居候を抱えた。

准看護婦の学校に従兄弟の娘を進学させたり、、、。

あしながおじさんとして、勤めのように尽くした。、

ドレメ、やら、高校やら、、8人の学費を背負う父。

母の弟の娘が、医師と結婚をして、

その一家は全員、我が家の居候から脱出していった、

その妹も、千葉大の法律家と結婚して、

都心のマンションに出て行った。

私が、高校を卒業するころ、、、

一人抜け、、二人抜け、、、

我ら家族6人だけになった冬の日に

2月の寒い日に、、、父は

最後の患者さんを手術して、、、麻酔が覚めるまで仮眠をすると

明け方、就寝するころ、そのまま天国に行ってしまった。

54歳でした。

兄が初めに気が付いて、皆を呼び集めた時は

手のぬくもりが残っていた。

働き過ぎて、、、面倒見が良すぎて、、、

自分がガス欠になってしまったような、、、残念な結果でした。

その父が、、、

最後の力を振り絞って帰ってくれた東京を、

心ならずも、私は失った。

**************************

6月の北海道は梅雨が無い。

何やら、経済力の有った父のもとに同居して、

戦後は、「居候」もつらかっただろうが、

同居を余儀なくされる「医師家族」も

大根の葉っぱまで、

サラダ菜で痛めて、お茶漬けにするほど、

十数人と居候が多すぎて、、、

父の得てくる経済力の報酬を分け合った。

北海道に、6月に、初めて飛行機から降りたった時、

理由もなく、、、神様が、ここに住め!と、、、言っているような

運命が待っていた、

私の力では、どうすることもできない

北海道の大地の、原始の、、、何もないという、、、

無、、、無、、、という、勝てない力に出逢ってしまった。

 

6月の北海道に、、、住んでみようかと、、、

ほんの2~3年だけ、、、、雪の美しさの中で

大の字になって、空を見ながら

死んだふりがしてみたかった。

戦後の一億総貧乏の東京から北海道に来た医科大生。

「3年経ったら、東京に帰り、

あなたのお父さんが亡くなった跡を、

あなたの兄さんたちと、支えます」という、、、

 

外科医の卵の言葉に、母が心を動かされた。

 

「お父さんが、、、若くなって帰ってくるのよ、、!」

北海道に3年住むのも、あなたには、きっと、、、

人生の宝物になるはず、、、

母は、戦争で、長女、二男 三男と失っていた。

父が54歳で亡くなったことは、、、、喪失感に耐えられなかったのだろう。

私は、母が寂しくならなくて済むのなら、、、と。

目下、車なし、免許なし、自宅なし、貯金なし、

奨学金の返済を引き受けるところから

我が家にお迎えする戦力の婿殿と、、割り切って、仕えることにした。

全ての費用は、母が北海道まで来て、住居を整えてくれた。

たった、、、半年たたないうちに

階下の大家さんの息子夫婦がガス学発を起こした。

母の揃えてくれたすべては焼けて吹っ飛んでしまった。

結婚生活は、銭湯に通う、二間と3畳の物置の

木賃アパートの二階から、

修理された火元の夫婦の住んでいた一階に移動。

北海道の医師の卵の貧しさが、

無給医の時代ヘと延長された。

3年で博士号を取得して、我が家の経営陣と合流する約束が

博士号を臨床で取得したため、

症例数が集まるまで

7年かかり、

借金経済を「ゼロ」にするためにも

北海道の月給をくれる病院に出向することになった。

そして、、、

医局制度のために、

東京に帰って

どこかの大学の医局に所属して、

そこから、

私の実家に働きに来るという計画は

時すでに遅しとなっていた。

40才近い年になっていた。

卒業した大学の医局を離れた生き方をするのには、

年をとりすぎてしまった。

そして、私は、

24年間の東京の学友たちと、

さようならの、、、

他人の縄張りに入ってしまった人生が始まった。、、、

明日は、、、東京に帰ろう、、、と

毎日思いながら、、、73歳になっていた、

******************************

私の知っている、意地悪ばあさんの青島さんや

石原慎太郎さんが都庁に入られたころは

戦後の汚染の掃除の始まったころでした。

「夢の島少女」だったかな?

詩のようなNHKの番組が有った頃ですよね。

丁度、東京湾を、

ゴミで埋め立てる工事が、マスコミでにぎ合っていました。

あの番組を作っていた佐々木昭一郎兄さんの家に

私は、、、下宿したことが有った。

母同士が親友だったから。

音で詩を表現できる、、、素晴らしい感性のお兄さんだった。

将棋を指したこともあった。

あのころは、、、天下のNHKも制作費が厳しくて

お兄さんは、、、こうしたい、、でも、、出来ないから、、、

NHKは、費用の枠内で仕事するから、、と

シナリオを書き直していました。

東京の街の音を録音して編集した作品が

イタリア賞をとれたと、、、おばさまが!!!目を輝かせていました。

大学に、朝通う道の、駅に行く途中

佐藤首相の家の前に護衛の制服が立つっていました。

おはようさん!というと、、、敬礼してくれました。

古池都知事は、、、多分このころは

東京をご存じないでしょうね。

東大か、一ツ橋か、早稲だか、慶応か、、、日大理工もそうかな~?

東都10大学があって、、、

皆、自分の大学以外は、、茶化して大学の歌が歌われていました。

私が、一番興味があって、

今でも地球の医者だと思っている農学部なんか

大根踊りをして、、、笑わせたものでした。

そういう時代でしたよ。

東京を、

戦後から復活させていたのは、、、

東都大学卒業生?もいたのでしょうね!

でも、復活の頭脳をしていたのは、東大や一橋大や

東京工大、早稲田、慶応、、、駿河台の大学の

教授クラスの人たちが、巨大な政治の後ろの

世界のシステムを説得してゆく力が有ったのでしょうね?

*********************************

兄貴は両国高校のトップに居たのに

文系の科目が及ばず、国語がダメだった。

東大の理類は不合格、

同級生が一ツ橋に受かり

従兄弟が東京工大に受かり、

兄は、、、日大の医学部に進学した。

卒業すると、夢が有ったのか、、、

東京の築地のがんセンターに研修に通い続け、

胃カメラの指導医を取得して

開業に専念した、

母がピアの教室を運営していたので

なにかとお金もかかたのかもしれません。

母が亡くなると、

千葉にある、大きな国際的に開かれた病院に勤務医として出発した。

開業の医療施設を開くよりも、閉院の方が大変だと言いながら、

多くの親戚や兄弟の思い出の下町の開業は、

兄の代で閉院した。

兄弟への分け前は一銭も出なかった。

開業中は税制優遇でも、

閉院は壊滅状態にならざるを得ないらしい。

残った金銭で夫婦で介護施設に移り住み、

兄の人生は、兄弟が手の届かないゾーンに行ってしまった。

石原慎太郎さんを、少し若くした年代です。

私たちが、帰ってくると思っていたのは、

40歳を過ぎるころは、かんがえなくなっていた。

開業の時代は過ぎた。

胃カメラだけでも、毎年ヴァ^ジョンアップしているから

経費倒れだ、、と、愚痴っていたことが有った。

開業というのは、、、何だったのだろうか?

****************************

医師は本人一代だけで、誰も後を継げない、

芸術家が、、、その人一代であるように。

医師を志し、医師をする事の難しさは

回りの人間が、痛感する。

回りのサポートが下手だと、医師は、医師をすることが苦痛になる。

世間の風評とは裏腹に、時間もお金も労力も

ひたすら、見えない堤防のアナを

ふさぐにも似た、見えない影の維持に専念し

評価されないサポートに徹せねば、

風評に流されて、

医者の奥さんなどという椅子があると勘違いして

いい気になっていると、、、持ち上げて、骨折するぐらい落とされるのが

内情を解らない世間の嫉妬が集まる、、、

位置に座っていることは確かである。

スカットする表現を軽い気持ちでギャグったりすると

本気にとられて、痛くもない腹をさすられるのが

医師という誤解されやすい、一見「金持ち」

期待に応えようと、イイ振り子いて頑張ると、、、続かない。

閉院や、挫折や、

同業者と支える社会から、、、さりげなく、、、

外されそうになるのです。

品性が大切ですよね。

侍の心は、、、品性だと思います。

男は、輝くプライドの為には、命を懸けて一途になってほしいと

大和撫子の心は、誉ちゃんのように強いのです。

   さて、、私事を鏡に映して、、、茶化すなら、、こうなります。

忙しく、、、50年間雪を搔くマシーンを得た主人は

雪国で、スコップを持ったことのない時間を過ごせた。

洗濯機を動かす洗濯機の私は、

化粧をして、

主人を待つという心を知らないまま

73歳になった。

パーマもかけなかった。

まっすぐで居たかったから、、、

彼が、心を表現できる人であったなら、、、こう言うでしょうね。

「俺の人生の、医師を続けるためには、都合の良い家の管理人」

君は、こんな感じの人生だった。

「病院を立ち上げた頃から、ひたすら仕事の事だけ考えた、、、医者バカ」、、、これが僕。

「後ろを守ってくれる都合の良い管理人なら、、、多分

誰でもよかったのではなかろうか?」、、、僕って、、

****************************

父もきっと、、、同じだったのだろう、、、

母は、、晩年「ピアノ教室に打ち込んだのは、、、正解だったかもしれません。」

医者をする事しか興味のない人と出逢った以上

一生医者をしながら、昇天するまで、家の管理人をして、

医師を続けるための、管理人に徹して、

後方に憂いを残させずに、、、医師をすることを全うさせる

雑役をして、

女性の人生は長いから、、、それがすんだら、、、

東京に!DKのマンションでも借りて、、、父母の眠っているお寺、、、

宝仙寺のお墓参りを、、、余生とするかな?、、、

のりかけた船だからと、

俺の事、医師をする事しか興味のない相棒の

便利屋をしながら、、、雪を搔いて50年過ぎました。

夫には、中学の時の初恋の女性が心に住んでいて

プラトニックの世界で、

遠く離れて、芸大を出て、工芸品を作っている彼女の

夢を追って生きてる姿こそ、、、永遠のライバルで

永遠の女性なのですね。

結婚という現実は、女性は女性ではなくなり、、、家の管理者。

家に居てさえくれれば、、、安心して働ける。

管理人が、きちんとした仕事さえしていれば

姿かたちは観ていない。

家じゅうの部屋には、全部自分の物を置き、

全ての部屋に入るから。

奥さんという存在を維持する事の出来る個室は無い。

もしも、医学や。仕事や。自分への執着や

中学校の時の才媛が、心の執着から解き放たれていたのなら

「愛情」を育てる心の余裕が出来たかもしれないと、、、

心の貧乏は、、、欲張りからくるのだと、、、ふと、、、

相棒が、、、可愛そうになり、、、

この人から、、、仕事をとったら、、、何にも残らない、、、と思うとき、

、心も、仕事も、友人も、学校も、、はるか東京に置き去ってきた私が

無であったために、子供を育て、孫にも出会え

男女の愛は知らないで過ごした73歳だけれども。

こどもを育てるまでの天与の愛は心の宝物である。

相棒が、父親になり、夫になり、人間として、出逢える日は

きっと、、医師の仕事が亡くなったときから、、、

相棒は、、、家庭人としての「愛」に気が付くのかもしれません。

それまで、、、生きていたら、、、生まれ故郷の東京に

帰ろうかと、、、ふと、、、思うかもしれませんね。

でも、北大を卒業した医師は、、、

どこの出身であろうと、、、北海道人であると思います。

私が、、、東京に帰れる日は、多分、、、

 

 

 

 


お台場

2017-03-21 23:43:40 | Weblog

私が子供のころ

ヘップバーン刈り、、、が流行りました。

オードリーヘップバーンの、素敵なショートなヘアスタイルです。

母は、明治生まれですが、ヘップバーンのような

ショートなヘアスタイルで、テニスも。水泳も。大好きな乙女でした。

私が、青春時代に入るころ、

敗戦で、ボロボロな東京も、復活し始めて、

戦争前とは、別の文化の日本が出発していました。

アメリカのドリーム

アメリカの音楽、文学、、、、全てにおいて、新しく感じていた。

その時代、「慎太郎刈り」という、、、ヘアスタイルが

若者の間にも、叔父さんたちの間にも、、、大流行しました。

若い、、、慎太郎さんが都知事になられた時の

フレッシュな、東京を、今でも思い出します。

戦争で、「ベンゼン」どころか、、、

焼夷弾の為に火の海になった東京は、

汚染のメッカだったと思います。

夢の島に、ゴミを埋め立てて、、、、、

埋立地になってゆきました。

海に向かって、東京は、どんどん大きくなってゆきました。

このあたりを、使うなら、、、

土壌を科学していたら、何が出てくるか、、、、

むしろ、コンクリー化、して、土の影響をふさいでしまい

水道は、遠くから引っ張って来て

安全に使える設備を充実させれば

豊洲は、安全に、使えると思いました。

80歳過ぎられた慎太郎さん、

記憶の海馬を、疾患で損なっておられると聞きましたが

かくしゃくとして、ご立派な老人になられ

回りは、もっと、思いやりを持って、

立派なご老人になられた慎太郎さんに

ストレスを与えるような、軽率な質問は

誰に向かって、、、、言っているのかと、

若すぎる張り切りように、、、見えました。

位負けしていました。

質問者が、、、

80歳をとっくに過ぎられた、慎太郎さんは

東京都の人間、、、私個人的には

「世界遺産」として、

隅田川の復活させた栄誉を称えました。

80歳を過ぎられて、かくしゃくと、ご立派な答弁をされていました

記憶にないのは、ご病気のせいです。

ご立派な「侍の魂」の、80才を、、、とっくに過ぎた慎太郎さんが

「天気せいろうなれど、、、波高し」と

玄関で言われたとき、

日本海軍の東郷元帥を思い出しました。

過去のお方と言っても

日本を牽引した、、、方々を、称える気持ちでス。

あのお年で、立派に、答弁されている人間力には、

再び、パワーをいただきました。

皆に、、、石原慎太郎さんは、日本の大切な

侍の心を持って、1から10まで

男らしい、

戦後の、めちゃくちゃだった東京は

まるで、、、どんどん素敵になった

「隅田川から、きれいになった。」

東京は、素敵になった。

 

 

 

 

 

 


コンビニで文芸春秋を立ち読みして

2017-03-12 21:07:13 | Weblog

骨の老化を防ぐという???サプリメントの広告が新聞に入っていました。

メグミルクの製品らしくって、牛乳感覚で10本入りを980円で買いました。

通販専用で、コンビニに、支払いに行きました。

コンビニは混んでいて、前の駐車場には、日産のサファリーなどが

さりげなく、エンジンかけっぱなしで駐車してたり、、、

若き日の元気時代を思い出す身軽さが、コンビニの素敵なところですね。

昼時の長蛇のレジ前を離れ、本のコーナーで、時間つぶし。

実にいろんなジャンルの本がある中、文芸春秋をめくった。

石原前 東京都知事の投稿文が掲載されていたので、

ついつい、、、おしまいまで立ち読みしてしまった。

中学生の頃は、石原裕次郎が、

[狂った果実で]

、スターダムに現れた、

芥川賞をとられた「兄様の慎太郎さん」とは、別の魅力で登場した、

戦後のどさくさの、苦しい時代から、

立ち上がりつつがんばっていた時代に

二人の兄弟は、

別世界のような、「太陽の時代」を持ってきた。

「夜霧よ、、今夜もありがとう、、」、の歌とともに

近衛さんが、ドイツのクラッシックを学びながら

ナチの魔の手からの逃亡に、

ユダヤの人々に心を砕いたという話を思い出したりした。

 

しっとりとおちついた、日本の教育の時代は、

とりあえず置き忘れてしまって、

敗戦の戦後は

オトワノブコの「どぶ」という映画がを万感の思いで観に行った。

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女性も、男性も、

誇りを失って生きることの苦しさを思えば、

主人公の女性が、

「認識度の薄い能力」であったことが救いであった。

人間は、この世での体験と、

生き方からくる誇りは、命そのもののように連動しているとおもいませんか?

女には、又、自分には「無価値に近いと思われる価値」であろうと、、、

見えない物の持つ「見えない命」、

その人の死守している価値観に配慮できる人は

孔子 曰く、究極の心が、、、思いやりであろうと、、、

実は、私も本能では考えている。

********************************

私の中学時代は、目新しい物をどんどん受け入れていった。

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ポールアンカの歌で、英語を覚えたり、

プラターズの煙が目にしみて、教科書が見えなかった。

背の高い私は、一番後ろの席で、裕次郎さんのプロマイドを観ていて

先生に取り上げられてしまった。

クラスメートは、「あなたが、、、裕ちゃんのフアンだって?、、、」

友達が増えた。

銀巴里やACBという音楽喫茶も、友人と行ったりした。

大学に進学してからは

銀巴里には、仲代圭吾、丸山章裕、、、今の黄色い髪の麗人

越路吹雪さんの舞台は、ライトの色の芸術で

後姿の肩で、心を伝えてくる、、、コーチャン!!!、、、

あのような歌い手は、、一人だけ。もう、、、出現しないだろう!

オペラでは、

マリヤカラスの時代でもあった。

男性では

三大テノールの歌声は、魂を陶酔させた。

トリノの金色の歌声に、のって、、、イナバウアーが奇蹟の金メダル。

日本の元気を、

立ち上がろうとする戦後の皆にくれた、「超人たち」

ジャンルは様々ですが、石原兄弟も、

凡庸な私には、アメリカンドリームと、東洋ドリームが

合体していた

男の子を育てながら、いつも元気をもらっていた。

思い起こせば、

学生時代は、

混とんとした社会の縮図のようでもあり、

多くの刺激を受けながら、時代とともに流れてこれた。

*********************************

高校進学で、友人とは離れてしまったが、

中学の友人は、ウシクダラ、、、ジデレケ、、、と、

貧乏ゆすりしながら

授業を受けていた姿が思い出されて、、、

激動の時代に居た戦後のひと時が、懐かしい。

意地悪ばあさんで「青島知事が、東京に出現」

そして、、、

、一ツ橋大学の秀才の小説家の石原都知事が現れた。

世の中は、毎日変わりながら、、、

新しい文化をどんどん受け入れた。

教科書も、精読するが、「太陽の季節」や

「チャタレー夫人の恋人」、「大地」「武器よさらば」

「車輪の下」「嵐が丘」「アンナカレーリーナ」、、、

「三国志」。。。私は、なんでも読んで、

全部面白いと思った。

手塚治虫氏の本はほとんど読んだ。

リボンの騎士の双子が素敵だった。

「アドルフに告ぐ」だったかな?

ヨーロッパの歴史と思想が混とんとまじりあって

漫画と、小説の違いのようなものを、実に認識できる自由さだった。

年功序列も、有名校も、世の中のカーストのような順列も、

意味のなさないほど

作家も、漫画家も、音楽家も、スケーターも、

「オリジナルな価値感」を感じさせてくれた。

太陽の季節は、「お母さんにも進めて、読書感を聞いた」

母は、、、作品とは別の話をしてrくれた。

「国立音楽大学に通っていたころ、、、今のように、、、電車が無かったのよ、」

「汽車でも、ちんちん電車でもいいから、、、インフラ整備を申請しよう!」

「それには、、、頭の良い一橋大学の生徒を巻き込んで、陳情しよう!」

国立音楽大学の学生の有志と、一ツ橋大学の真面目な学生が

協力して、東京に申請したのよ!

「通勤に便利なレールを通して!、、、(^^!」

「国立あたりは、一ツ橋の秀才が、一役買ってくれたのよね。」

「石原慎太郎という著者は、一ツ橋だわね!」

「私はね、、、

一ツ橋大学には、

青春の忘れられない、

学生の社会参加の共同の交流があったのよね!」、、、母が言った。

障子を、男そのものが破る描写は

意味が深いという。

男が、男の誇りにかけて、男だから敗れる壁もあると、、、

母さんは、内面的な精神描写を「形にして、感性に直撃した。」

性描写には解釈していなかった。

私は、若かったから、、、ドキ!、、とした、

時代という障子を破った敗戦からの、立ち上がりだったのかもしれない。

小説は、、、独り歩きするから、

著者は目ん食らっているかもしれません。

 しんたろさん、、、は

「東京のかかわりが、昭和の初期からあった大学の出身だね!」

慎太郎さんは!

いろんなことを言いながら、太陽の季節を読んだ。

母は、モダンガールだったし、

東京都の女学校では音楽を教えていたり、

当時としては、女性の社会進出の、

突破占めにあたる「女性の教師」だったと言っていた。

明治生まれとは思えない、、、

私が、絶対に、、、かなわない女性だった。

慎太郎さんの本を読んで、

「新しい時代の日本の若者が見える!」と

大変感動と、驚きを示したのを思い出します。

北海道にゆかりのある裕次郎さんの歌は

札幌の時計台を観るたびに思い出す。 

慶応ボーイの「あかぬけた」、

それでいて、「俗っぽい哀愁」が、

洗練されていて、

なかには、大人の心の、現代の「寂び」が秘められていてさ!

矢代亜紀さんの、、、

「灯りはぼーと、ともりゃいい、、」、という歌と、

どこか重なる、好きな歌です。

唄えないけど、、、イイじゃない、、、親しみやすくって。

私が、裕ちゃんが好きだというと、、

友達は「意外ね~~~!!!」と、、、目を丸くして

「友達ね!!!、私も、実はひそかにフアンョ。」と。

バックミュウジックのごとく、

聴く者の心を包む歌声は、

万人の兄さんのような、友人以上、恋人未満の

包容力を感じさせた。

若い時代の心に、「非日常の」青春の刺激」を感じさせたものだった。

「ワイングラス、、、あの歌は、、、良かった。」

72歳という、、、イイ年をして、、、私ときたら、、、笑っちゃうわね   

 m(@@)m

、、、何を描いているのかわからなくなったが

、、、

ともかく、、

、私たち72歳の婆ちゃんは

青春時代に「元気をもらった、石原慎太郎さんや、裕次郎さん」が

若くして、大動脈解離?慶応医大病院で、奇跡の復活をされたとき、

現代医学の進歩と、進歩的だった石原兄弟が、病に耐えて

難しい激動の団塊の世代を、

寄り添って

くじけそうになりながら生きてる若者に

「生きる、元気をくれる著名人でした。

東京大学卒業の「加藤登紀子」さんが最後に花束のような

「我が人生に悔いはない」という

裕ちゃんにしか歌えないような、、、

憂愁の美の歌を、大ヒットさせた。

石原兄弟は、多くの人の宝だから、、、ね。

慎太郎さんは、政治家になっていった。

政治の世界は、私は全く、、、音楽でいえば「音痴」です。

でも、、、一味違う、、、夢を追い、

実現させていった東京だったのとちがいますか?

大学を出てから、私は北海道の住民になったので

東京は、、帰りたい、、、帰れない、、、

加藤登紀子さんの歌の心が、わかります。

慎太郎さんにとって、政治家さんの、

「盾」のような、鋼鉄の心だったように、

私の、、、ドローン視点は感じました。

ドロン!

「侍」、、「武士道」、、、恥を書」けない人生観、、、

小池さんが、、、

もしも、10年早く生まれていたら、、、、そして70歳を過ぎていたら

石原慎太郎さんの年齢の日本男児は

侍であることを体験してたかもしれませんね。

石原さんの年齢と、同じような年の兄貴がいます。

ホント、、、この年代の男性は、、、頑固!!!

私は、歯が立ちません。

丸投げして、兄の思うように、動きました。

男女平等などもってのほかの雰囲気がありました。

「兄は、、、、頭が高い!控えィ!」などと、、、平気で妹に言ったけど、、、

回りは、眉一つ動かさなかった時代です。

敗戦前に誕生されている、、、日本男児には、、、凄い心が秘められています。

今の60歳代の戦後派には

想像できない、、、女が寄りつけない「誇りがある」強いところがありました。

又、日本の「おんな大学を出た女性」は、

賢く、従順に見えて、虎と同居しました。

男の特性をサポート出来ていたようでした。

評論的にではなくて、実感として

外科医だった父も、従軍しました。虎族の心を秘めていました。

このころの男たちに

その心があったからこそ

明治維新が、世界に開かれ

グローバルなセンスの幼さが

戦争に巻き込まれて、

政策だけが独り歩きして、世界を敵にしてしまった「幼さ」。

しかし、武士道は世界に通用したと思いませんか?

三船十段!、、、いがぐり君の漫画は最高だった。

古橋、、はしづめ、、、前畑さんだっていました、

日本の女性!その強さ!

この男たちの誇りが

戦争の廃墟から立ち上がらせたのだと、、、日本を!

緊迫感をもって、わが身に感じたかもしれません。

戦前、戦後の日本には、

珍しくない男の生き方だったように思います。

日本男児は、融通の利かない、男の気性が、

水戸黄門の印籠のように

訳もいらなく、

周りは、頭を下げて、、、

日本を、明治の気質を、大切にしていた時代があった。

現代青年のように、、

、リップクリームなんぞ

「おかしくて、、、つけられるか!」と、、、目を吊り上げそうな

昭和10年前後の、男たちの、、、

明治の父さんの気質。

女性が、介入することのできない、、、

「男」があった。

、、、だから、、、40歳過ぎた女性は、、、年増だったかもしれません。

お歯黒塗って、、、女を控えて、、、家族だけ守る女性に徹したおんなの仕事。

文芸春秋の立ち読みした文字の中には、

「ご本人が、脳こうそくを起こされたと、、、文には書いてありましたが、、、」

「大切に、日本男児の一つの形になる生き方をされて、」

「元気を皆にくれた時代の寵児」を、思い出そうと、、

コンビニの兄ちゃんが、行ったり来たりするのを、、、、構わずに読み続けた。

すると、、読み終わって、コンビニ製品のスナックを

各種一通り買う気になって、リュックに満タンまで買った。

コンビニの兄ちゃんは、上機嫌だった、

私は、コンビニの兄ちゃんの誇りも傷つける気はありません。

**********************************、

脳梗塞をされた慎太郎さんを、

トルコ大学で、別の次元の青春を過ごされた

女性の第一号都知事さんが、

色々と質問されている記事が

文芸春秋の立ち読みで知りました。

**********************************

東京マラソンも盛大に、盛り上げって

素晴らしい業績もあった「石原都知事時代」が、

終わりましたね。

築地の移転で、過去にさかのぼって、質問」を受けるのですね。

政治家としての石原さんより、

 

青春時代の、、、暗かった戦後に

思いいきり、

パンチの利いた平手打ちを食らったように

芥川賞をとり、

アメリカに、追いつき、追い越せと、

時代を受け入れさせてくれた、

斬新な小説だったと思います。

かって、最先端の知恵で、

日本の、時代に躊躇する若者をを牽引した、

「今こそ老人たち二なってしまった万民」の知人でもある

慎太郎さんや、裕ちゃんは、、コロンブスの卵だとおもいませんか?

コロンブスの卵は、傷つけないで、、、割ってしまわないで、、、

そーと、、そーっと、時代は過ぎて行くのを

大切に共有したいものですね。

*************************

小池さんは聡明な、言葉も、オシャレも天才のような、才媛の歯切れ良さと

表現力の魅力がありますね。

年を感じさせない美しさと、理知的な判断と、

トルコ大学を卒業された、

日本文化とは、一味違った視点と、時代感覚と、、、

凄い能力の、指導力だと、あっとうされています。

小池語録の、カタカナ語を、抜き出して、ノートにして、

語源の意味と、

使われたカタカナ語の

表現している意味を並べてみると

昭和一ケタ生まれの男性は、

理解に苦しむ難解さかもしれません。

私は、楽しくて、辞書とにらめっこして、

アルファベットに書き換えて、一人で納得して、喜んでいますが、、

このような、素敵な女性を、とやかく言った慎太郎さんは

私も、兄に、、、心無い事を、しょっちゅう言われ、

「ィ~~~何よ!、」と、言われる度に、腹が立ち、大嫌い!と

その時は思った。

トルコ大学で、エキゾチックな青春を過ごされた古池さんは

旧さの残っている、日本の武士のような男たちを

われわれとは、、、別の視点で受け止められているのでしょうね。

これからの、後半の、日本の侍の人捌きが

古池さんの手腕を世に問う事になるでしょうね!

この勝負は、日本男子は、何を大切にして、

今後、どんな時代を造ってゆくのか、

日本の、世界で評価された武士道も、

超、、、トンデル女性の前には、8D世界のように戦うのか

女性の、、、後ろの男たちが、武士をやめて、時代の色に染まってゆき

聖徳太子も、、、厩の王子として、改定されたように、変わるのか?

***********************************

一ツ橋大学のエリートの、まっすぐな武士のような

昭和一ケタの、「日本の男」の人は、、、面食らうかもしれませんね。。。

退職して、すでに、ご病気の老後を過ごされている石原さんは

緊張は、体にさわりませんか?

医療に携わる、私のたいけんから、、、一度もあったことのない

雲の上の人ですが、、、やっぱ、、、人間でしょう、

ハードデスクは、無理な使い方は故障のもとです。

ご老人は、記憶を呼び起こすのは、、、、

大変な作業かもしれないと、、、リカバリーのソフトも

バージョンが、周辺機器が、、、時代は取り残してゆきますよね。

 

他人事ながら、、、心配です。、

********************************

持ち前の気迫で生きていられる、、、この方を、

宝物に思うフアンはきっと、まだまだ、、、生きていると思いますよ。

清き一票は、、

先輩に、心ならずも、、、勝ってしまうような

例えば、、、あの、、、万人に愛される卓球の愛ちゃんも

完全試合で、完封をしたことを、

涙を流して後悔していたシーンがTVに放映されていました。

愛ちゃんの涙は可愛くて、

すぐ泣くことが、、、私も、愛ちゃんを抱きしめたくなるほど

可愛い女性だと、、、フアンになりました。

女性や年寄りは、、本当に清き一票を持っているのですよね。

勝ち過ぎると、、、強すぎると、、、聡明過ぎると、、、

そして美人の若見えの、素敵が加わると、

清き一票は、、、

巷の視点から、、、、、想定外の、わけのわからない、、、方向に

流れてしまうことだって、、、「ゼロ」ではないと思いますよ。

********************************

日本の女性の文化は、

男に恥をかかせては、

女性は女性票が少なくなる傾向がありますよね。

日本の女性が、せかいの女性に比べて

社会に出れないのは

刷り込まれたおんな大学の不思議な、男性主導型を

男の美学として、受け入れてしまっていた

歴史の蓄積からくるのかもしれません。???????

過去より、、、明日の築地を目指して、前に進む解毒の装置を

何とか、、、考えられないものなのでしょうかね?、

この、科学の進んだ時代に、、、残念ですね。

石原さんは、ご病気から立ち直られたとはいえ

脳梗塞を、起こされた患者様には、

ストレスは「毒」ですよね、、、。

築地の地価の「毒」よりも、、、強い、、、致命傷にならねばよい のですが、、、

石原さんの健康と、

初代の女性の都知事さんの、、、しなやかな都政が、、、

成功されますように、

世界の東京のイメージを大切にしてほしいものですよね、

お茶の間は、、、どちらも、、、「宝物の超人」だと思うのですよね、、、!

築地のイメージも、混乱市場の風評になる前に、解決をしてほしいですね。

親友の、あなた!、、私の日記を読んだら、又、、、話そうね。

之は、友人の数人の為のブログだから、、、個人的な

お茶の間の、感情を、思うままに書きました。

外野の人の目に触れたとしても、、、身近な友達同士の話ですから、、、

念のため、、大意は無い、井戸端会議です。

君子は争わず、、、解決を、、、各ジャンルの専門家を招いて円卓で、、、知恵を

目的は、、問題を解決する事なのですなのですよね。

祈ります、、、東京の、素敵なイメージを、世界に!

 親しき者同士の、、ブログ井戸端討論です。私的な日記帳です。


幸せながん患者、、、本の題名の意味が、読み終わって、、、万感の想いで

2017-03-10 16:50:00 | Weblog

私は薬剤師ですが、この本を「一気に読みました!」

感動というより、、、興奮しました。

人間は、死を覚悟した時、

これほど、強い精神で、人生の目的に向かう強さがあったのか?!

がんセンターで、臨床医の体験した、

人間の、ファーストチョイスを目指すがん患者さんの、心。

知りあいの臨床医に、この本を紹介しましたら、

「先生も一気に読んだよ、、、。」

「臨床医の一人として、実に感銘を受けたよ。」

「友人にも、一冊、贈っておいたよ、、、」

しばらく無言の後、、、、一つ一つの文が、実に、わが身の体験に

重なって、、、自分の体験も、記録することにしたよ、、、、」

本は、出会いであると思う。

しかしこの本は、医療従事者が

、出会いを感じるほど、

わかりやすく、読みやすく書かれた体験談で

臨床に従事している人は

万感の思いで感動すると思いました。

がん患者さんご本人には、

心の強い人には、必要の本だと思いました。

死の受容、、、という本も読みましたが、

本人でなければ、、、こればかりは、なんとも言いようがありません。

しかし、、、宣告を受けて、受け入れられない人も多いと思いますが、

やがて、がんを受け入れられる時が来たのなら、

この本は、一筋の「神様の光のように、、、」

心の強さを引き出して、くれるでしょうか?

。心話支えるという視点ではなく

がんセンターで、生涯を、がん患者さんとともに

がんを研究検査臨床と、寄り添って生きた医師が

その、一途な人生で、出逢った、患者さんからの

命のメッセージとも、、、とれる、、、

その時、患者さんが選んだ、最後の時間の輝きも

迷いも、

寄り添った医師にしか書けない、、、

命のメッセージだと思いました。

 

生涯を、がん患者さんに寄り添った臨床の目に

私は、年甲斐もなく、涙とともに、ページをまくりました。

 


幸せながん患者(がんになったがゆえに、成し遂げた事など!)

2017-03-10 16:33:28 | Weblog

私は薬剤師ですが、この本を「一気に読みました!」

感動というより、、、興奮しました。

人間は、死を覚悟した時、

これほど、強い精神で、人生の目的に向かう強さがあったのか?!

がんセンターで、臨床医の体験した、

人間の、ファーストチョイスを目指すがん患者さんの、心。

知りあいの臨床医に、この本を紹介しましたら、

「先生も一気に読んだよ、、、。」

「臨床医の一人として、実に感銘を受けたよ。」

「友人にも、一冊、贈っておいたよ、、、」

しばらく無言の後、、、、一つ一つの文が、実に、わが身の体験に

重なって、、、自分の体験も、記録することにしたよ、、、、」

本は、出会いであると思う。

しかしこの本は、医療従事者が、出会いを感じる体験弾で

感動すると思いました。

がん患者さんご本人には、

心の強い人には、必要の本だと思いました。

しかし、、、宣告を受けて、受け入れられない人も多いと思いますが、

やがて、がんを受け入れられる時が来たのなら、

この本は、一筋の「神様の光のように、、、」

心の強さを引き出して杭れるかもしれません。

生涯を、がん患者さんに寄り添った臨床の目に

私は、年甲斐もなく、涙とともに、ページをまくりました。

 


受験と人生のかかわり

2017-03-08 05:34:28 | Weblog

昨日は札幌も、寒い一日でした、

三寒四温の波の中で、道路は融けたり、凍結したり

羽生さんが、早朝の道路を、舞いながら滑ってゆくのを想像しながら

新聞配達のミニセダンしか走っていないあたりを歩きました。

小樽に、雪靴のメーカーがありました。

スケート靴とは反対に

円形に錨ヶ打ち込まれた底は、リンクでも歩けそうです。

昨日は、その靴を履いて、ゆっくりと早朝散歩です。

5時になって、受験生に向かって、

そろそろ、めがさめたかなー?と

薄暗い空の反射板に「心の電波」を発して観ました。

あちらからも、こちらからも、、、

おきてるよー、、、目はパッチリサー、、、と

心のこだまが帰ってきました。

3時過ぎて、公立高校受験解答速報がTVに映りました。

たった、、、これだけの事が、、、

子供たちの人生に

大きくかかわってゆくなんて、、、、

しかし、、、これだけの為に、、、

天真爛漫な子供時代を過ごす子供はいなくなった、、、、

運動会の宣誓ぐらいは

「僕たち、、、私たち、正々堂々と、力いっぱい戦います!

お父さん、、お母さん、お兄ちゃん、、お姉ちゃん、、、

応援してください、、、!!」

こどもの、こどもたる、、、子供時代を、、、、そーと見守り

大人が、人間の原点を、、、もう一度思い出す日になってほしい。

天は、こどもや、赤ちゃんの全体を通して、大人たちにメッセージをくれます。

天は幼子のたどたどしい言葉から、「愛」のような

生涯のメッセージを、、、教えてくれます。

「愛」を育てるのは、こどもの成長の後ろから

回りは、守りながらついてゆくことが大事だったと、、、

この年、72歳になっても、、、そのように思いながら

指導のむつかしさ、指導者の資格を考えるとき

原野を教室にできる先生こそが、

天然のサイクルの中の、エネルギー不滅の未来のサイクルにのれると

ふと、、、思うのです。

昔、どこかの島で、汽車が廃止になった路線の

枕木で、ダイナミックな素朴な校舎を造り

塾としてつかっていた。

その人たちが、大人になって

きっと、、、敗戦の日本を、ここまで戻してくれる

団塊の世代の、教育に耐えてくれたのかもしれない。

天が、海が、山が、こどもが主体の「気付き」を導いてくれる。

この、「子供が主体の『気付き』の前には、」校長先生も

理事長も、、市長も、町長も、、、、あらゆる大人たちは

立ちはだかってしまうと、

淘汰される前に、手を下した罪人になってしまうのが

育てることの、、、難しさだったと思います。

さじ加減ではなくて、

大人の方が、「命」の不思議に早く気が付き、

一生あっても足りない時間で、

自分を出し切らせる社会にするのが、

本来の、育てる方向だと思うのですよね、、、

学校の校舎も、

教育理念一色にしてしまうと、

こどもの成長によって、こどもが主体になって、

校舎の色を想像出来る色が良いと思う。

千差万別の四季の変化をキャンバスに、

校舎は子供の心に、四季の色を想像させる色が良いと思う。

北海道や、北欧にピッタリの色だとしても

夏になると、その色は、暑苦しく、頑固なものでない方が

こどもは想像が豊かだから、薄い色が良い。

原則として、

こどもは未来に放たれた矢のように

私たち大人が造った枠の外に向かって飛んで行ける教育理念が大切。

押し付ける教育は、富国強兵時代に戻ってしまうとおもいませんか?

ネットでつながっている地球全体の中で

閉じ込める教育は。世界の敗北者を製造してしまうとおもいませんか?

大人が、土台になって、大人が子供の中に

新しいものを見つけたら、、、

どのように伸ばすかを、、、、後からついてゆく。

才能を、、、あらゆる方向の才能を見つけ

邪魔しない教育が、、、次の時代の生き残りではなかろうか?

私は72歳、、、今日一日、、、今日は頑張って明日につなげよう。

今日しかない、、、林先生じゃないが、、、

今でしょう!!!(^^