花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

雪囲いの季節

2019-10-29 04:21:59 | Weblog

小鳥たちが持ってきた小さな種が、庭のあちこちでアピールする今

「ドウダンつつじ」「楓のいろいろ」

何に向かって謳歌してこれほどに色が変わるのか?

早朝から黄昏まで深紅のパフォーマンス!

気温と湿度と、光線と、土壌の冷えと、

次世代を守る植物の本能が

ストレスの「絶叫をしているのか*???」

科学では考えたくない、、、郷愁がこみ上げる深紅の葉は

遠いルーツの呼び合う波長に合わせて震えているような錯覚が起きてくる。

風邪が気ままに戯れているだけなのに。。。。。

北海道に来てから50年になる。

小学校から、大学卒業まで東京で暮らした私にとって、

本物の冬と大自然の生き残ってゆく冬の闘いを体験してからは

「人生は登山」と教えられた。

季節ごとにかわる植物や川の表情、山の全体の表情、香り、匂い、光の屈折

写真や絵には表現できない木々や草花の地面の下からのメッセージは

、、、すごい、、、

学者の先生の中には、、、「植物ホルモン」とか、、、」遺伝子」とか

科学で植物を知ろうとする、、、手っ取り早い理解。

植物の闘争も、戦いも、

聖書の物語のように

神と心の板挟みになっていると感じるときがある。

植物ホルモンは面白い、、、確かに、、、

物質的にとらえるのなら

厚生要素や

細胞の並びや、

その中のミクロ以下の構成要素が

イオンや、

分子間の引力や、

外から加わる地球の軌道の位地からの影響まで

科学するのは限界がある。

盆栽のように、枝切り、根切り、水やり、肥料やり、

鉢の大きさのヒマワリが根に化けたような

見事な松の盆栽を支える根を経験的に根切で変身させていった技を

どうやって科学するのか?

やっぱり、、、太い根を毎回切っていると

木の方で、

細い根は生きられるが

太い根は切られてしまうことを繰り返すと、

樹は学習するように、一定の細い根を次々と出し始めて

人間に飼いならされてしまったが如く見えるが

生き残りをかけて、根のホルモンがネットワークしてゆくようだ。

日光浴に、夜中の活動まで

計算しつくして、、、5千万円の盆栽が出来たとしても、、、

主役は植物であって、人は植物を支配することは無理であろうと推測している。

 

、、、疲れた、、、、、、

「寄生木」や「サルオカゼ」のような特殊な状態で生きる植物はどうなのであろうか?

植物ホルモン過剰で、ずるがしこくなってしまったなんて、、、考えないことだ。

湿度とのレセプターを考えてしまう。

北海道に、高校時代の同窓生が何人か来ていたが

雪の季節には順応できなかったようである。

植物の雪への順応はすごいものがある。

タンポポは、地面に葉を敷き詰めて、

冬場の根っこを保護しているつもりかもしれない。

緑の葉が紅葉すると葉に水分が行かなくなるのだろうか?

二三日で、羽根の水分が抜け始めて、乾いて枯れて、落ち葉となり、

根っこの周りの布団綿に成り代わってゆく。

植物の知恵とはおもえない。

学生時代に「ザクロ」の葉を薄く剥がして、プレパラートをつくり

顕微鏡で観察したことが有った。

羽根には、行儀よく並んで、黒い石細胞が有った。

あれは、、、

ザクロが生きてゆくのに、どのような、

役割を背負っているのだろうか?

科学で考えると、

人間が主体になってしまう。

ザクロを育てて、未生の世代を何代も育ててみると

何かわかってくるだろう。

例えば

椿の木が北海道の我が家の居間で

たった一度だけ、、、、一重の原種独特の可憐な山茶花に似た花を咲かせた。

あれから30年。鉢植えは土も変えず、根切もせず、

枯れては困るので、剪定だけはこまめにして

大きくなれない盆栽用に仕立てて

冬は居間で同居してきた。

この間、、、歳をとりすぎたのか、、、、?

故郷の対馬を忘れられなくて、北海道にはなじめないのか?

私が愛しても、南国の太陽の光線の中の紙の愛には遠く及ばないのか?

花は一度も咲かない。

当時、子供の大学進学が私立で東京という家賃が高い地区の出費の事もあり

私は、薬剤師として、40歳の再出発に際して、

国家免許は免許書に対して精いっぱいの責任を持ちたいと思って

北海道大学の聴講生として北大図書館や学会や講義に参加した時代が有った。

ブランクになっていた間に極端に進んだ薬学社会の必須知識が足りなく思えたから

「免疫学」「天然物化学」などの講義を受けに行った。

天然物化学では、17イン環のマクロライド環などを教科書で見つめているうち、

抗生剤が植物や、、、、もちろんカビ類や、人間の観察と実験で見つけられたという

初心に帰った。北大聴講生と、薬剤師会員という社会的な所属が

かろうじて、各種薬学学会のパスとなってくれて、

私は、懐かしい母校の日大の生薬学会の会長をなさっていた

滝戸先生や

日大植物園の山内先生や、

植物に造詣の深い恩師や、

同級生と再会できた。

偶然

薬学雑誌で募集していた

韓国との国際学会に参加して

韓国の先生や薬学生と

済州島の日の出峯の植物探索登山に参加した。

延喜式という古書に

何粒かの朝鮮ニンジンの種が、長野県で発芽して以来

良質の朝鮮ニンジンが日本で育ち、

韓国に逆輸入されて

紅参として、山浦先生の時代には

高価薬品として漢方を志す学士には著書が普及していたことが思い出された。

その後、帰国して、

かって学生時代に影響を受けた

富山薬科大の難波先生とも再会できた。

先生の植物の本は、

薬用植物に興味のある人ならまず、、、読破しているでしょうね!

「世界を変えた薬用植物!」

薬膳に関する、、、ワクワクする台所で使える本!。

学問というよりは、

植物の好きな学生なら、

座右の銘にしていたと思います。

薬剤師として、病院薬剤部に所属しながら、

金沢大学の御影先生のフィールドワークに

薬剤師会の月刊雑誌の募集を通して参加した。

山信仰でも有名な「白山の植物探索会である。」

白山という「名山の登山」は私一人ではもったいないと思い

医学部の2年生だった息子も参加させていただくことの許可をとった。

そして、

登山口に着いたとき、

滝戸先生や、山内先生の日大の恩師に逢えたのでした。

母に、仲間に近い知人が居ることを見極めると、

息子は

「母さん、、、僕は明日の昼に、兼六園の巨大松のベンチに居るから、ここで失敬する。」

息子はさっさと、、、一人で山を下りてしまった。

山内先生は教え子を伴って、どんどん登頂目指して姿が雲上に行ってしまった。

すっかり、お年を召された滝戸先生の後ろからついてゆくと、、、

滝戸先生は、途中から、

「体調が思わしくないから、、、下山するよ、、、」

私は「心配だから登山口まで、ご一緒します。」と 

大丈夫だよ、、、とおっしゃるのですが

登山口のバスの待機しているところまで、

先生をお送りさせていただきました。

「いや~~すまなかったな~、」とニコニコされれながら

安心されたのか、汗を拭きながらバスに乗られるのを見届けてから

私は、再び白山の残雪白い頂上を見上げて、今度はマイペースで登山を始めました。

はるか上の方から蟻の行列のような姿が見え隠れしながら

「急がせる心に釘を刺して、、、

マイペースを守らねば、、、遭難する。」と自分に言い聞かせて 

登山家の「セミプロ」「登山家」「Everest数回経験者」のリーダーや

大学院生の足跡を追って、、、とにかく、、、マイペースを守って歩き始めました。

途中、、、山頂に灯りがともり、

夕食のコンパには間に合わないと判断したから

山の背の岩にまたがって

透き通る夜空の星の瞬く断崖の上で、

はらをくくって、、、一人、、、爽快な気分で

山頂の灯りに完敗しながら、、、アクエリヤスを飲みながら

おにぎりに至上の至福を感じながら

白山の素晴らしい真夏の夜空を満喫しました。

たっぷり休んでから、懐中電灯をつけて、山頂に着くと、

大学生と、大学院生と、先生方と、

韓国からの登山者のコンパは終わっておりまして、

たき火から山小屋に戻る山内先生とバッタリ会いました。

「森山!滝戸先生と下山したのじゃなかったのか!?」

「滝戸先生は、君と下山するとメーセージをくれていたぞ!」

びっくりしたのか、、、山内先生は、、、

「まさか、まだ遅れて、のこのこ登っている奴が居ないだろうな!」

慌てた様子で、点呼をして、念のためと言いながら、大学院生らと、少し下山して

懐中電灯を振り回しながら、

お^^^^い~~~!   誰かいるか~~~!と

しばらく叫んでいました。

「脅かさないでくれよ、、、!無事でよかったよ!」

「信じられない大胆さだな、、、下山したのかと思っていたと、、、」

大きな呼吸をしながら言いながら、

山小屋の上段の寝床に案内してくれました。

翌朝は早朝から、ご来光を拝むべしと、、、

一行に加わって山頂に向かいました。

ここから先は限られた植物しかないので、

懐中電灯は足元だけを照らしながら、

蟻の行列のペースで歩き続け

白山の夜明けに「遭遇」できたのでした。

たった一日でしたが、白山の植物たちの一日を体験できました。

裾野で満開だった花が山頂付近ではつぼみも堅く

雪渓の残るあたりは岩だけが、ごろりごろりと、、、

山の主のように、

季節に関係なく存在していました。

山頂付近のの神社に参拝して、植物探索登山のおかげで、

山の植物の穏やかな真夏の一日の環境を

植物たちの魂のようなインスピレーションと交流しながら

下界にはない山の香りが、対話であり

植物の世界にお邪魔した厳しい安らぎが在った事が忘れられません。

植物は山頂の蕾たちは山裾の満開の花たちの家族であり

離れているように見えるが

天与の「スマホ」で交流していると

見えない波長のような囁きを感じるのは

山の生態系から受ける不思議の一つでもあるのでした。

植物は、、、人間の頭脳をはるかに超えた環境への順応性があるというのは

単なる、、、植物ホルモンだけでは解決しない不思議があります。

光、温度、炭酸ガス、窒素、水分、

湿度と温度と光のトライアングルに風が加わり

光の中でもセレクトされた光線が植物を変えてゆく。

レセプターの違いが葉の形や毛や色や艶に千差万別の種類や進化や風化や奇形が見える。

我が家の椿は、

北大の植物園の先生が企画した農学部との合流の

対馬の植物探索の時

研究用の許可のもとに、対馬の案内をしてくださった先生からいただいたものである。

人差し指ほどの木が、蜂に植わったまま30年で80センチほどの高さを保ち続けている。

75歳の私は、、、対馬の椿を育ててくれる環境に戻そうと模索している。

植物は、、、人間より、、、ずーと、、、長い時間、、、見事な戦いをしていると思った。

 


故郷の帰りたい。。。帰れない、、、天候事情

2019-10-27 19:28:16 | Weblog

地球温暖化、、、ケムトレイル、、、

南極の氷が融ける、、、

砂漠が増えている、、、?

中国の果てしない開発、、、

三峡ダム、、、

巨大マンション群の都市開発、、、

 

なにが本当なのかわからないほど

情報が飛び交います。

天候の想定外の台風の原因は

本当の事を解る学者の先生、、、は、、、どこにいらっしゃるのでしょう


伊豆の国市の災害対策

2019-10-26 23:42:41 | Weblog

狩野川台風は多くの被害者をどうすることも出来なかった歴史がありますね。

あの川は、、、沼津の海から、伊豆の国市の方に流れているそうですね。

今回の19号の時はTVやパソコンと向き合ったまま、水位が上がるのを

我がことのように注意してみていました。

避難訓練の行き届いた地域の日ごろの防災ネットが

早め早めの避難誘導となって、命を無くした人が居なかったことは

「学習、、、」と言えば良いのでしょうか?、

弐度と狩野川台風の悲劇は起こさないという

側溝を造っての治水が功をそうしたのでしょう。

しかし、たっぷりと水を含んだ

火山灰の土地は。がけ崩れも追っかけて起こる危険もあるでしょう。

これからも、注意してください。

早めの避難が命を救ったのですね。

 


祝日

2019-10-23 01:25:00 | Weblog

ほんの少しの間でしたが

雨が止みました。

万感の思いで、、、ひらめきました。

日本には神様がいらっしゃると、、、思いました。

伊勢神宮の御神体は光だと教えてくれた人がいました。

令和の時代に光がさして

美しい、、、

日本は、きっと、令和の時代に治水が進むと思いました。

水をご研究の天皇陛下が、

日本の水事情を深く考える希望に向かって行かれる。

オランダとの国交も、同じテーマが人と人を逢わせてゆく。

皇后陛下として、外交を通訳なしでされたというニュースは

明るい。

人は誰でも、その方のオリジナルな能力が必要とされたときに甦ります。

雅子皇后のオリジナルな能力が世界に向かって立つ時が楽しみです。

紀子さまのご家族や、オリンピック誘致の時の才媛の宮様方

それぞれに、個性あふれた宮さまが

十二単の雅な平安時代の御所のように

歴史のかなたへ連れて行ってくださいました。

日本の文化を美しいと思いました。

この美しさが、日本の歴史の中で、

現実だった時代に行ってみたいと思いました。

天皇陛下の気品あふれるお召し物は、

深い深い、

光の色の素数だと思いました。

私は日本の文化の中で、生きてこられたことに感謝します。

平和、、、永遠の平和、、、世界の平和に貢献できる文化を

皇室はお守りあそばされたと思いました。

 

おしるしの入った十二単は、

宮様方が、おひとり、、、おひとり、、、着こなされて

その美しさが

七色の光になってプレリュードの調べのように

陛下のお出ましまでの調べとなって、

雅な気品の華やかさが、

 

「雨のシルクの光」がぼかしのように

奥ゆかしくて、、、

 

この一瞬をTVで拝見できたことは、

一瞬の虹の橋のように

正に、天の御加護を感じました。

自然は獰猛で

水害のさなかではありましたが、

多くの奉公から、希望と、頑張れそうな力を戴けたと

実感できたことに感謝しながら

一日を、お茶の間で過ごしました。

           NHKのTVのバックのデザインも素敵でしたが、

お料理の時、

いつもなら、大好きな女性のアナウンサーが

気を利かしすぎてくださり

手で指示してくださるのですが、

美しいお膳の前に手が在るのは邪魔だと思いました。

画面が隠れてしまって、残念でした。

全体の色のハーモニーが、素敵なので

ストップモーションで、お膳を見つめ、

自分なりの気付く楽しさを下さった方が、

視聴者には親切だったかもしれません。

それほど、

美しい色とりどりの雅な気品あるお膳だと思いました。

 

ほんと、、、女子アナの手が邪魔だった。

個人的には、あのアナウンサーのフアンなのですが、、、頭良すぎ、、、。

頭緩慢になっている、お茶の間では、

お膳には理屈抜きに、、、観ていたかったのよ。

 

もし指し示すなら、茶道具のような小さなオウギをたたんで指示した方が良かったと思いました。

(^^!、、、、

だって、、、世界のVIPにお出しした

日本料理は芸術よね。

美術館の絵の前で、手を出して説明するよりは、

光を遮らないで、料理に、光がまつわるのを観たいのが、、、婆ちゃんなのよね。

「さざれ石の実物は 静岡にあります。。。。。

これが、、、さざれ石なんですね!

胸にジーンとくる出会いのような、静かな感動がありました。」

 

 

TVあんまり素敵だったので。100点を望んでしまいました。

女子アナさんは、頭、、、「良すぎ」、、、.

理屈より視覚の光が大切な時ってあるのよね。(^^!

NHKに心より感謝します、

素晴らしい祝日でした。


団地開発と治水作戦を思うとき

2019-10-17 05:32:09 | Weblog

日本は海に囲まれた島国です。

太古の時代より、水とは深いかかわりを持った民族です。

治水を出来る者は国を制す、、、と言われながら

歴史は繰り返してきました。

緑化しても、伐採のあとに育った山の樹は小さくて

山を守る様な根の深い縄文杉の時代の樹はありません。

昔、、、70年も前の事です、

疎開先の和歌山の山奥のお寺さんに、、

一本の大きな「銀杏の樹」が在りました。

銀杏は1科一族の亜科のない商物ですよね、、、。

銀杏は「茶わん蒸し」にしたり、薬用にしますよね。

後醍醐天皇の時代にこの辺りは

天皇様をお守りするお寺や、

いざというときには

戦力となる御坊様が修行をしておいででしたそうな、、、、

世界遺産になる前に、お爺ちゃんに連れられて

毎年、高野山に行きました。

お爺ちゃんは後醍醐天皇様にお仕えした村の旧家のじなんです。

今でも、長男家は、代々の蔵を守って、居るのではないでしょうか?

旧家は、長男だけが重んじられ、

次男以下、女性も、精いっぱいの教育を受けて、家を出されました。

しかし、それなりの役割があり

祖父は、今の筑波大学の前身の師範学校を卒業して渡米して

教育者として、明治の時代の生まれで、開国の激動期の校長先生でした。

高野山では「競書会」というのが在りまして

日本三筆と言われた弘法さまのおひざ元で

御習字を教えてくれていました。

お爺ちゃんの勧めで

私も、「競書会」に入って、

はん紙から

にじむ墨を

「洪水の時の田んぼへの水害」のように

子供乍ら、硯の端に筆を押し付けて

「しっかりと水分を絞ったのでした。」

にじむ字は、、芸術的であると同時に

私は怖いと思う両方の感情を、

自分の御習字の「にじみ」を見ながら育ちました。

両親は東京の大学で、モダン化する日本の最先端の文化を享受しながらも

300年の鎖国は、国内の保身教育が暗黙のうちに身に付いた日本人は

独特の、素晴らしい文化と、個性ある芸術は残せても、

言葉の違う、、、通じない、、世界と、開国後はどのようにするか?

日本の「旧家」も、守りと、開国の間で

独自の文明開化の行く末を想定しては

、一族から、

インタナショナルな人間を育てねばと、

焦った時期でもありました。

お爺ちゃんの長兄の家族は

たぶん今でも、

旧家の周りの山や田畑を守っているかもしれません。

日本の旗のもとに、戦場で医療をもってご奉公していた父が

来るべき次の戦地へのトラックが迎えに来なくて、

はるばる、、、日本から娘婿である父を迎えに

祖父が単身戦場に来ていたそうです。

そのまま、仁川迄帰ってきて、妻子と合流して、

最後の日本との連絡船に乗れたそうです。

祖父は、アメリカの教育を受けていたこともあり

時の政治家の方に頼まれて、串本の町長とか、

山村の村長さんとか、新宮や、御坊や

はたまた、和歌山市まで

市役所甥っ子が勤務していたㇼ、

三つ揃えの礼服と、鎖のついた銀の時計のスタイルしか

思い出せないのです。

父は「命の恩人である祖父」を大切にしていたのが

子供心にも解ります。

一見、、、カカア殿下のように見える我が家でしたが

父は祖父を、祖父は父を尊敬していたのが

子供心にも解りました。

戦場からの引き上げの父母。

着の身着のまま、、、

焼夷弾の落ちる東京から、関西へ、

大阪から、汽車で串本へ、、、

爆撃が始まっていた防空壕の中で

女の子が、産声も挙げられない栄養失調で生まれてきたそうです。

泣き声をあげられなかったという、、、おかげで、

防空壕の中の、日本人の仲間からの駆逐は避けられたそうです。

終戦前の直前の日本は、、、こんなところにも、、、B29の

ゴンゴンゴン、、、が唸っていたそうです。

疎開先は、山奥へ、、、山奥へ、、、

30軒も家が有っただろうか?

電気もつかない山奥で、

自然の湧水が家族を守ってくれたそうですが、

すぐ下の道は、台風が来るたびに泥水で埋まり

とり残されてしまうようなところだた。

戦後、、、治水が始まり、

川からあちこちに水路が引かれ、

田畑を潤し、

洪水を最小限にはしていたそうです。

やがて、終戦と同時に

傷痍軍人や疎開する町育ちの青年たちや、

壮年の家族で、一気に3000人以上は住んでいるのではないかと

一気に、町のように開けていきました。

しかし、、、電気もない村落や、学校もない山村の暮らしは

把握できない文化の違いがあり、

治水の為の議論さえ、町からやってきた疎開の

ここから言わせれば「よそ者の、おせっかい」だった時期が続きました。

和歌山という疎開先の山村では

台風シーズンになると

雨風水害、崖崩れが直撃してくるところでした。

このあたり、、、7か村で唯一の医療機関の診療所の意思だった父は

がけから、落ちたトラックの運転手が、

顔面の骸骨がむき出しになっているような怪我人を、

そまつな手術室で、治療して、

1か月も経つと、、、顔は元の顔に戻っていたので

私は、父を尊敬しました。

しかし、、、洪水の日、

川を見に行った息子を抱えて、飛び込んできたお母さんの叫びに

父は答えることが出来ませんでした。

手も、足も、すでに硬直した息子に

そまつなモンペ姿のお母さんが、しがみついて

息子の名前を呼び続けていました。

父は、、、ぽつんと言いました。

医者は、、、何にも出来ない、、、無力を感じるよ。。。

このようなことが繰り返され、

「ダムの話が、疎開中の一部の情報通から話題にされる時期が来ました。

お爺ちゃんは、このころ

村から、頼まれて、村長さんや、学校長さんや、

役場の指導者などを、なんでも引き受けていました。

姿かたちは、、、三つ揃えと、銀時計の山村に建てた洋館の家でした。

**********************************************

 要点をまとめると、、、こういうことになります。

明治生まれの私のお爺ちゃんは、、27歳の時

3ヶ月もかかって

ゴールデンブリッジのある港から、

アメリカの「カリフォルニア州の学校」にに留学していました。

帰国してからは、串本に住んでいました、

頼まれ町長や、村長さんや、校長先生をしていました。

その時は、毎朝、白い手袋をして朝礼をしたそうです。

戦争が終わってからは、

川を遡り電気もない山村に疎開したそうです、

山村のぽつりぽつりとした家も

疎開者の急な移入で3000人ほども

人が行き交うにぎやかな山村となっていました。

頼まれ町長をしていたさなかに

村の人たちの間に

水害を無くし、

電気を通じさせる為の「ダム」を創ろうという話が持ち上がりました。

しかし、、、ダムをつくれば、

何軒かの家がダム湖の湖底に沈むことになります。

鮎の遡上する澄明な川が

ダムが出来れば20年間以上は

「普通のどこにでもある河川」のように

鮎の、、、、みごとなまでの集団遡上は見られなくなります。

鮎が生活の糧になっている村人も居ます。

反対意見も飛び交う中で、

おりからの強風の中、

タバコの火が原因らしいとのうわさの中

山火事が起りました。

その年の秋、

台風で、家も流され、田畑も泥にまみれ

戦後の食べ物の不足する中、

米も収穫できないという被害に遭いました。

疎開してからしばらくは、ダムの反対や賛成でごたごたしていました。

早川さんという代議士が村にやってきて、

ダムが施工されることになり

国も動き出しました。

********************************************

そのとき、アメリカで学んだ近代の知識を支えに

国会議員の方々と、

東京と和歌山の間を「蒸気機関車」で行ったり来たり、、、

議論の最中も、三つ揃えの姿は、目まぐるしく動き回っていました。

********************************************

夏の終わりに、大きな台風が在りました。

お爺ちゃんの村長さん時代に

ゴールデンゲイトブリッジのような

吊り橋が架けられていましたが

がっちりとした木材ではありましたが、

その真下の橋げたの上まで水が来て

頑丈ではありましたが、

木製の橋は流されそうな

ぎりぎりまで、浮いたことが有りました。

その時の台風で、家が流されてゆくのを見ました。

もう、、、猶予はありません。

ダム建設の工事が始まりました。

このあたりの7か村で唯一の外科医だった父は

ダム工事の作業の人々の怪我や、事故で、大変な毎日が続いていました。

寝る暇もないくらい、工事現場の擦り傷切り傷以上の傷を抱えて

真夜中でもやってきました。

工事一段落のコンパも、

酒が入るとボクシングやレスリングがはじまるのでしょうか?

旧い権力者が代々村のしきたりを守って存続してきた村落に

疎開者が、、、ドヤドヤト入ってきて、

おまけに、、、ダム工事が始まったわけですから

治水という近代化も、

「ランプ」や「ろうそく」や松明で生き抜いてきた地元民は

寝耳に水のような驚きだったかもしれません。

今回も、多くの村落や団地の水害が報道されるにつけ

疎開当時の洪水を思い出し、治水の難しさに今更ながら

板こ1枚下地獄の天災の猛威に完敗の悔しさがあります。

一部の河川敷では

今回も、、、村人の反対が有り、来年の土手づくりが決定していた矢先

土手の建設が間に合わなかった地区がTVで放映されていましたが、

中国やもっと奥地や、マチュピチュの段々畑の美しさをどのように思いますか?

あれは観光の為ではなくて、治水の先生だと考えると、

木と、石と、段々畑と、てっぺんからの水路と、

養魚と伊豆のわさび畠と、、、

地下の水路で、琵琶湖疎水のように、ため池につなげて行くとか、、、

何とか総合利用で、治水ができないものでしょうか?

国も、業者も、学者も円卓に集い、総合力で、

治水、農業、養魚、観光と、一つの的に向かわないで、

未来の日本の運命がかかているとの事に纏められない物だろうか?

疎開先での祖父は、ダムが出来上がった段階で、

地元の次の村長の実績として、山も、土地も、洋館も置いて

父とともに、村人に見送られて、東京に向かいました。

生まれ故郷への愛情が、戦争の痛ましさの中で、

復活の鏑矢となったと幼かった時代を振り返る。今回の水害です。

去年地震被害で、半壊した我が家は

外側の破壊されたモルタルは撤去して、

サイぢングをして、危険予防はしましたが、

内部の、電気も水道も、引き直さなければと思いながら

やる気が起きないのが、、、災害後の一番の敵ですね。

サイぢングで、危険は撤去できた者の、

歳よりは、現金計約でないと、引き受けてくれないのがネックですね。

後期高齢者になると、、、貴慮Kが大事ですね。

息子達は、3人の子育てで、親どころではなく、

自分たちの事で精いっぱいの共働きですしね。

 

ふと、疎開時代のダムが出来る前と、そのあとでは

地元の人は、鮎の遡上が始まった20年後までは

受け止め方はまちまちな、、、価値観の違いや、文化の違いは

どうすることも出来ません。

天災の前には個々の主張は意味がないという、、、猛威ですものね。

人の心の不思議に出会った思いもしました。

::::::あれから70年以上たちました。

現代は、鉄の橋に架け替えられていますが

デザインが優雅な吊り橋が、私は大好きでした。

好きなデザインと、、、安全性とでは、、、天秤にかからない選択です。

この橋の上に来ると、

子供の頃の70年前の事が思い出されます。

同じ時期に、

村のあちこちの田んぼが流され、

萱葺きの屋根に川原の、丸い石を無数に乗せた家が、

次々と流されてゆくのを

私は、幼いながら、

震えながら観ておりました。

この台風の後、

「ダムをつくろう!」

村人も疎開中の3000人近い他の所からのる住人も

一致団結して、

国との折衝に前向きになり、

その時の町長を頼まれて、

お爺ちゃんは日夜奔走しておりました。

水害と、、、ダムと、、、土手、、、、

そして、植樹と、、、

30本に一本は、、、山崩れの防止の為にも

大きな樹は切らないで残すのも、

雪崩のような山崩れは防げるのではないかと、、、

思うのですが、、、

村人はお寺の銀杏の樹も切ると言い出したモノですから

祖父は、夢を見た話をしました。

銀杏の樹の中から、美しい女性が現れて

真夜中の枕元に立って、

「私は銀杏の精です、、、あの木を切ったら私も死にます、、、。」

祖父は、皆に「不思議な話」をすることで

お寺の銀杏は、切らないことになりました。

70年前には、戦後の復活と、

天災の水害からの復活と、

未来を見据えた、水害の予防と電気を通すという、、、

反対する理由が見つからないと思われることにも、

近代化のメスが入り、

自然の形が変わることへの反対は根強く

理屈では割り切れない

「自然のままに、、、自然に流されるのなら、、、仕方がない、、、」と

不可解な心に信心のような不思議が重なり、

国の方針も、信仰が難航したと思うのでした。

 

村落では、何千年単位で大切にしてきた何かがあるのでしょうが、、、

一つ山を越した十津川では、大洪水で、

その村からは北海道に移り住んで

あたらしい区域が誕生したという

地域の歴史のパンフレットから知りました。

ダムが出来てから、すぐに、母と子供たちは

東京に帰ってきましたが、、、

今回の、水害では海抜0メーター地帯として報道されていました。

市ヶ谷の高台に有った実家は戦争の爆撃で焼失して無くなったこともあり

江戸川の近くのお寺さんの後に診療所を建てたのですが

肝心要のドクターである父が、

家族の去った疎開地の村に2年間も存続して働くことで残り、

水害の予防と、電気が通じた喜びの声は

単身で頑張って村に残った父からの手紙で

知ることが出来ました。

祖父は、全ての働きを、この村落の旧家の次期村長さんにと

全てを、引き継いできたあと、

全財産も山も、貯金も、、、ダムとともに無くなったけれど、、、

ダム湖に沈んだ村人の家の事を思うと、

娘婿の私の父が東京に帰れる日には

家も、全て、此処に置いて一緒に東京に行くからと、、、

祖父がかかわったダムには

、、、祖父の足跡を残さないで

 

東京で、人生の幕を降ろした祖父でした。

しかし、、、叙勲されたという事は、、、

祖父の下ことは、国の巨視ガンから見ると、、、

治水も評価されたに違いありません。

水害も天災であるからして、、、

解決方法は長くかかる、、、

イタチごっこの水と集落。

川と、堤防。

水害からの一日も早い復活を祈ります。

日本と、、、水害、、、日本沈没、、、映画だけで終わってほしい。

水戸黄門様の神通力も、、、天災だけには、、、どうにもなりません。

昨日は、石炭文化時代の汽車が走る雄姿を、

おとといの、真夜中から、

朝の番組まで観ていると、

立ち上がる元気もなくして、

ボートしていたのですが

汽車の汽笛と、車輪と走る雄姿と煙に力を戴けて、

雪囲いの半分を終わらせることに、成功!

NHKのD51など、、、

地震や水害で、限りなく落ち込んでいたやる気のなかった気力を

汽車が、60度の石炭をくべ乍ら走る煙をたなびかせて

雄々しく走るのを観ていたら、

祖父や、父の、不屈の戦争からの復活や、

電気や治水を引き込むという未来の為の闘いの中で

見せてくれた、未来への奉仕に

ジーンとくる

汽車の姿と重なるものがありました。

陛下は「水を研究されている学者の先生でもいらっしゃることから、

令和を通して、、、日本の水の災害に、やんごとないお立場でお忙しいとは思いますが

お知恵を、戴ければ、日本の治水は、日本全体の視点からの工事に切り替わるのではと

お茶の間の75歳の政治音痴のばあやは、、、未来の日本の治水の発展を思っています。

 

 


戦後の日本は「生きるために、、、生きた」、、、菊の花の教え

2019-10-11 18:57:00 | Weblog

 

音楽大学生だった母の青春時代に、友人たちと、

上野公園に居た時、

一人、、大声で泣いている少年が居たという。

同級生の女性と3人で、「なにごとか?」、、、と少年を囲んだ。

少年は、

女性3人を無視して、

いつまでも声をあげて、、、

池に向かって泣いていたという。

実はこの少年が、、、

私の父の若き時代のワンショットである。

 

宮内庁に勤務していた実父(私の祖父)から、

東京大学に合格したら、自分の好きな道にゆけば良い、、、ただし

東京大学以外の所に行くのなら、

外科医になって、民衆の為に貢献しなさい、、、と

条件を付けられて、

東京大学に入学したら、、、、

北海道の広大な大地で農業をしたい、、、と思ったそうです。

つまり、、、農林省という仕事につくのでしょうか?

現場の農業をしたいのでしょうか?

ともかく、、、農学部に行く夢は破れて、

地域の為、外科医の道に軌道が変わった瞬間でした。

心機一転、慈恵会医科大学を卒業して外科医の道を選んだ父は

富国強兵の国策の中を、戦場の至近距離の総合病院の院長として

現地の、医師に、西洋医学の外科手術や

傷の手当てや イギリス医学の指導の為に

戦場の至近距離の病院で暮らす厳しい人生の波に運ばれてゆきました。

農学と医学は隣りあわせだと、生前父は言っておりました。

大学時代はラグビー部に居たそうで、

ラグビーのタックルの話などを聞かせてくれましたが、

そのころは、まだ、サッカーの釜本選手に夢中だったので

ラグビーの話は、、、ピンときませんでした。

五郎丸選手が、

日本のラグビーを

女性たちの間にも

ラグビーの面白さを伝えたと思います。

五郎丸さんの名前の入った冷凍の炒めライスを大好きになりましたからね。

そして、今回の日本チームのラグビーの活躍には

笑わない一番選手の気持が、日本の武士道のようですね。

こんなに、、、面白いラグビーだとわかった時には

父はもういません、、、。

今なら、父が話してくれたラグビーの面白さがわかるようになりました。

最高に心身ともに鍛えられた選手のチームワークの芸術のようなパスの動きや

ダブルアタックからシングルになるときや、

ジャブのような繰り返してゆく動きの中から

選手と選手の間隔が拡がり、チャンスが見えてくる面白さや、

反則が勝負に直結するような、、、重い結果を残すことが

ハイレベルの試合では、如実に結果が出てくるので

チームワークの全員の働きの大切さが見えるので、

心身ともに、スポーツマンシップが問われる種目だと、、、思いました。

長生きすることで、昔、、、父が話していた時の様子を思い出し、

今なら、眼を輝かせて、父のタックルの話など

聴いてあげれたのにと、、、思いました。

五郎丸さんンは、名選手だけに、

TVの解説も、私たち年寄りにも、ワクワクさせる、、、素晴らしい解説だったと思いました。

すでに、、、防ぎきれなかった台風19号の被害の現実に

ラグビー選手の皆は

負けずに復活してゆくであろう、、、日本の負けない魂を見せてくれたと思いました。

哀しい出来事の続く日本の災害に、

頑張る気迫を、、、きっと伝えてくれると思いました。

 

 

                     つづく

 

 


京都と日本文化の伝承と歌舞伎役者の案内でTV見物

2019-10-09 09:23:15 | Weblog

近頃のTVの豪華さには驚きますね、、、

京都をめぐる日本の歴史文化の散策で

子供の頃を思い出しました。

60年ほど前、、、私は和歌山県に疎開していたのです。

京都とはご縁があり、あの頃rは

京都大学の名医の先生にかかっていたので

月単位、年単位で、京都暮らしを体験していました。

母はあちこちに連れて行ってくれました。

平安神宮に近いお茶屋さんで

くずきり、、、美味しかったです。

 

小松川高校の修学旅行も京都でした。

無給医だった大学院生の主人との結婚は

新婚旅行で3日間ぐらいの京都見物でした。

 

あれから、、、今年は金婚式にあたる50年が過ぎました。

 

北海道で2年ぐらい過ごして、実家に夫婦で帰るつもりの結婚でしたが

いつの間にか50年が過ぎていました。

京都が恋しくなる季節は「紅葉の見事な頃でした。」

 

寺院の庭は素晴らしく、二畳しかないお茶室で

二羽を観ながらお抹茶をたてていただきました。

御池の方で学会があると、申し込んで京都の散策を楽しみました。

息子が医科大学生だったころ、京都の東寺に行きました。

TV画面で観ながら、歴代の天皇様の歴史を大切に学問されたことが

今日の京都の文化を維持されてきた大きな要因だったことが

坊様の言葉で説明されていました。

TVでなければ、、、観光旅行ではとてもとてもたどり着けない美しさが在りました。

もうすぐオリンピックですが、世界の人々が

京都まで足を延ばされると思いますが、

日本の文化を、めいめいの理解と興味と認識で、御国に還って話されることでしょうね。

 

我ら、日本人であっても、その年代で感じる京都は、奥の深い味わいが増してきます。

天皇様と武家の時代に

学問をされながら、民衆のそばで、歴史と伝統と、文化が守られたことに

時が止まったままの風景が

ビルのせり出した、、、硬い直線に

美しい屋根のカーブを交差させながら

歴史が守ってきたアナログな京都に

ホッとしながら、良い時間を過ごしました。

忙しい冬の衣替えの、土砂降りの札幌で、夜の番組が青春を届けてくれました。

畏れ多いことなので、天皇様の自らの御手で創られた仏像は

思わず、、、手を合わしてしまいました。

仏師のつくられた仏像のお顔と、面立ちがあたたかなご自身のようなお顔と

貴重な映像が茶の間に流れたひと時でした。

弘法大師様の足跡を訪ねて、那智の瀧に行ったときの

神々しさと、

重なる光の中で、

空襲から京都が守られた奇蹟に、

万感の思いがしました。

世界平和は、、、京都から、、、発信されるかもしれませんね。


伊豆には、このような、石が展示されていました。

2019-10-07 16:24:26 | Weblog

 

公開展示の伊豆の海辺の博物館の様に見える別荘の中に

このような石が展示されておりました。

ブログに写真を載せてもいいのですよね、、、

 

多くの人に聞いてみました。

「このような石」が、詩になっているというわけで、

この石が、学問的にも「さざれ石」と呼ばれている「石の種類」ですと、、、教えていただきました。

もうすぐ、、、オリンピックです。

この石を、、、ずーと見つめてしまっていました。

やっぱり、、、畏れ多くて写真は出せませんでした。

みんな、、!!!伊豆半島に遊び日行って、、、自分で観てきてね!