夜空の闇を輝く花園に
元素の
炎色で描く
一瞬の光の芸術を
見事にカメラでとらえた写真は
初心者の写真という
謙虚過ぎる名前に
うっかり、、、
通り過ぎてしまわないように、、、皆も一緒に、鑑賞してね
ありがとう、、、美しい、、、夜空の華を
夜空の闇を輝く花園に
元素の
炎色で描く
一瞬の光の芸術を
見事にカメラでとらえた写真は
初心者の写真という
謙虚過ぎる名前に
うっかり、、、
通り過ぎてしまわないように、、、皆も一緒に、鑑賞してね
ありがとう、、、美しい、、、夜空の華を
十勝の開拓の様子が
いつも朝ドラで見ていた初めのころ
エキゾチックで、日本の魂を感じさせるおじいちゃんに
どこから見ても「絵になる姿」が魅力的でした。
ナポレオンがセントヘレナで「進めー」と言いながら、、、の人生が
どのジャンルであっても
開拓の魂だったんだと、
最後の大地に寝っ転がるシーンで感じるものがありました。
とても素敵な構図で、
どう生きたかという、、、魂の感じる一枚の絵のように
見ているほうの次元で受け取れる
解放された気持ちでした。
朝ドラは「未来の大女優の卵のような人が主人公になったり
地域の企業の歴史が織り込まれていたり
NHKカラーが
子供や少年少女にもわかるような、、、
説明長のシナリオが多いのが
特徴だと感じておりました。。。が!
今回のじいちゃんは、、、
姿、構図、かいたくファッションが
バルビゾン派の絵を見ているような、心もどっかに潜んでいながら
新しい茶の間のドラマを見ていました。
開拓の歴史の想像を超えた苦しみも、悲しみも
じいちゃんが、、、美しくスマートに、、、忘れてはいけない憂いが残る
見事に洗練された十勝の田舎の開拓時代を伝えてくれました。
真実はすごい苦労で、表現できるものではないほど
大変だったのだと、、、
伝わってくる、、、エキゾチックなおじいさんでした。
西部開拓史、、、という映画を学生の頃に観に行った日のことを
思い出しました。
じいちゃんは、日本の北海道開拓と
アメリカの開拓史の両方をつなげてくれたような魂の言葉でしたよ。
つづく「
主婦が外出するのは、、、本当に大変ですよね。。。たぶんほかの御家も。
早朝に90センチ四方のビニール袋に、雨で伸びていた草を
昨日までの早朝から、主人が起きてくるまで、、、草むしり
そして、集めに来てくれる日だから、ごみとして出しますよ。
昨日の夜遅く、おもむろに風呂に入った後の
主人の洗濯物を早朝洗って干しておく。
昨日。消費税の高騰に備えて買ってきた
歯磨き粉ヤ洗剤、マヨネーズ、ティッシュ、カンズメ、、、等等、
早朝に分類して収納する、
それから、
早朝のサラダの下ごしらえや材料を酢を入れたボールに入れておく。
まるで、、、楽しみな講義の
予習復習する暇がありません。
イイワケですよね。
試験もないし、、、
未来があるわけではありませんので、気楽なのですよね。
生涯、大切にしていた、、、
昭和42年に卒業したはずの「生化学の分厚い本。」
本日のテーマである脂質にしても、
当時の教科書は脂質の代謝や備蓄よろしく、行き先まで
脂肪やリン脂質や脂肪酸のできる酵素をメンメント書いてあり
タンパク質の関係や、
リンが他のカルシュウムや、、、マグネシュウムとの関係まで
実験方法やPHまで書いてある。
DNAもRNAも発見由来の膿の同定まで書いてあって、
授業は、この科目に興味が無いと、、、読む気もしない化学式ばかりか、
生体内のサイクルとの関連で、
宇宙探検のウイルスになったような気分だった。
同級生は、教職課程を一緒に実習しただけあって
学生時代から、教官か、実験者か、基礎の科学者向きの哲学者的な
美人だった。
彼女は、生体内のリン酸化を熱っぽく議論する学生だった。
薬理学の部活でしばしばいっしょになることあったが、
八木式の心臓セットなど、
いつも、見事に心臓の筋肉が、心臓単独で動いていて
八木式カニュレが大循環になっていた。
薬品投入のデーターも的確だった。
美人で利発で、学生たちにはあこがれる人もいたはずですよね。
一生結婚しなかったようですね、、、
旧姓のままですから、、、
思いっきり美人だったから
求婚者には事欠かなかったと推察しているのですが、、、
尊敬できる几帳面さは
一本筋が貫いていましたね。
生化学の本と、薬物学の本を観ていると、
この謎の多き生体のメカニズムを、マキシムまで考えたとしても
人間は科学の力では
「誕生させられないだろうと、、、悲観的になる。」
手っ取り早く女性が賜った
「生命誕生の器になれることを」
天与の実力とみなし
結果的に選んだ私は、、、子供も孫も授かった。
めでたしめでたし、、、
しかしながら、引き換えに自分の時間を差し出してしまった。
結婚以来の生活は
本気で生きようとする「自分が第一の主人の行動力」と
女房のいう事など、、、聞く耳持たぬ勢いの、、、
生きるために生きるが如くの俺の道一筋に
妻たるものは専属の私物が如く、
主婦の雑事ばかりがてんこ盛りになった。
何度か、自分の道に戻りかけたが、、、
北海道という雪が大敵で、
自分探しの時間などは皆無の雪と野戦いが続いた。
人生の半分は雪かきで過ぎてしまった。
ママさんダンプは3代目が壊れかけている。
春先に、、、積み上げた
「城壁の石垣にも似た雪の塀」を
数時間で除雪車は排泄して痕跡すらない春が来る、、、繰り返し。
今年は金婚式にあたる結婚50年であるが、
結婚記念日などなかった。
若き日は、昭和10年代の生まれの医師は
「無給医」だった。
誕生日には、、、「尾頭付きよ(^^!」
めざしが並んだのは「学生時代の主人の机」。
テーブルがわりだった。
風呂は無かった。
2DKと言えば、聴こえは良いが
17000円の家賃の、断熱材の無い木造二階建ての4軒入居できる貸家。
開業医の娘として育った私には、
銭湯の一番乗りだけが、逆境を有利に使う知恵だった。
ここは北海道、、、
私を知る人は誰も居ない、、、
「医大なの?。。。北大ナノ?、、、御主人は?」
近所の人に出逢うたびに聞かれた。
札幌では「医大」が自分たちの先生になるらしかった。
北大の先生は学者で、国だから、直接身近には感じられなかった時代であった。
そういえば、、、開業医の先生は、、、確かに医大が多いような時代でした。
医師の奥さんという座席はあるらしい?
私は結婚直前まで、総合病院の薬剤師をしていたので、
自分は自分で、主張が強かった。
奥さんという呼び名が、、、
今度は子供の名前の上に、お母さんがくっついて
自分自身の固有名詞は無いのと同じになった。
今でも、、、ネットで結婚前の名前を入力して
私が私であった時代の中に、まだ存在するのではないかと検索するも、、、
旧姓の私は、、、居ない。
結婚とは、、、実は自分が居なくなることであった。
しかし、、、知的欲望だけは、、、私が在り続けた。
結婚のとき持ってきたゴルフバックも、
主人の練習用のクラブとして、
私は結婚以来ゴルフをする環境には恵まれなかった。
嶋松ゴルフ場に、コンペを終えた主人を迎えに車の運転手をするだけで
主人は、生涯、、、私をゴルフには誘ってくれなかった。
東京の芝公園のゴルフ場に、
レディスゴルフクラブが在り、プロの先生が
ビデオを使ってスタンスなどを、丁寧に指導してくれていた。
義姉もメンバーで、父はゴルフはしないのですが、
兄が私立の医学部に行ってからは
我が家にはゴルフでコミュニケーションをとるようになってきていた。
戦後は我が家の居候をしていた3姉妹の長女の従妹は
ゴルフがシングルの腕前だった。
がんセンターに勤務していたころの弟も、
北海道の学会の前日や帰りには、名門のコースを回ってご機嫌だった。
主人は、結婚してから、私のクラブとアイアンで
打ちっぱなしの練習に通っていたが、、、
ゴルフは野球と違って、
当時は社交の場でもあった為に
さすがに、自分の道具を揃えては、だんだん腕前も伸びていった。
しかし、、、根が野球少年だったこともあり
50回も行くと、、、ゴルフは行かなくなってしまった。
スコアを競う心が強くて、
コースを楽しめないでいたのかもしれません。
弟の竹馬の友の片山プロは親子二代目もプロゴルフの腕前とか聴いている。
老人になっても、安全な芝の上で歩くゴルフは
男性には晩年は必要だと思っていたのに、、、辞めてしまった。
おかげで、腹のあたりに脂肪がついて、
やっと今回の
「北大アカデミー」のテーマとなった
「脂肪の話」に合流できましたが、
脂肪、、、と一口に言っても
炭素鎖が26とか、、、30もある様な粗暴のお話です。
実にアカデミックな内容が本日の講義と重なって、
講演者の教授のHPで、拝読出来ました。
おかげさまで、予習となって、本日の講義が良く理解できました。
知的欲望を満たして帰る北大構内は
講演参加の聴衆が地下鉄の駅まで
アリの行列のように続き、暗くなった林のような夜道を
速足で、家に向かいました。
とっても、、充実した「北大アカデミー」の講演でした。
講義の終わりと同時に、、、拍手が響き渡り、
充実した1時間30分を過ごすことが出来ました。
老若男女、目指すは講義だけの知的欲望の時間です。
この次も、、、楽しみに、、、HPで予習して、
話が分かるように、専門用語だけは解るようにして講義を受けるようにすると、
一か月に2回しかない講義が、
毎日ある様な、知識と出会う時間を自分でつくるから、
27000円は格安になります。
一日100円ぐらいで「脳ミソのリハビリ―」が出来るようになりますよね、、、
主人が、相棒の奥さんに気を遣う余裕のない家庭でも、
之なら、、、自分で楽しめます。
主人ばかりが自己実現の激務の中でではあるが
人生を振り返ったとき、、、自分が存在するでしょう。
北海道に住みながら、、、スコップを持たない主人は
ㇾキッとした理由がある。
患者さんの肌に触れる職業だから」、患者さんの為にも
貴重な手に、スコップは持たせられなかっただけであるが
北海道の除雪は、「故郷志向の良き村感覚」で廻ってくるから
大半は、自分で除雪するという地域です、
一日10センチ以下ではまずは除雪は入らない、
札幌の郊外である。
「時間が、、、敵」の主婦人生だった。
主婦にサポートしてもらう立場の主人は
自分自身がしっかりと社会に根を下ろし
社会貢献を続けているから、、、
家庭では何一つしない75歳まででした。
結婚して出産すると、、、日本の女性は
一部を除いて、、、
「おさんどんの毎日」となるから、
自分で、、、メリハリをつけて、、、
北大アカデミーに参加して、
授業を受けることで、非日常を満喫すると同時に
御月謝が、、、
奨学生の実験費用に回ることを思うときがある。
かって、、、
「奨学金で大学院で博士号を取得した」という
主人の事を考えると
あの頃、
「若い医師の懸賞論文」に当選した主人も
大学院で博士を取得すると
研究を続けるという事は。経済的にも難しかった。
研究には費用が掛かる。
日本では、医薬品の多くは外国からの輸入に頼っているジャンルもある。
日本という国は
研究者にとっては厳しいらしい。
でも、、、私たちは
素手から、、、子供を授かり、、、
生命をまじかに観乍ら
育て上げるという、、、
人間の当たり前に感じる
遺伝の不思議にも体感する喜びはあった。
親に、、、似ている、、、
良いに行け、、、そうでない、、性格に付け、、、
お爺ちゃんの隔世遺伝のような感じもしたりして
子育ての醍醐味に、
自分の人生の時間を入れあげてしまった。
でも本心は、、、
大学時代の続の「人体の宇宙探検」に
夢中になれたら、、、どんなに心はゆたかだったろうか。。。?
私は、、、学生の頃の夢多き日々に比べると
こころは貧乏であると、、、自分を探すときがある。
学生のころ、面白くて面白くて、
本が真っ黒に「指の脂質?」で色が変わるまで、読んでいた。
人体という賞宇宙が、水が蒸気になって雲になり雹になり、霰になり、霧になり、、、飽和状態で
もう一度水になって、尿になる、
空気の中の粒子や、山の枯葉や、土の中の成分や
川に流れ込んだものは上記には入らないが、、、
風、や嵐や、地震や雷、、、、我が家の場合は親父も入るかもしれないが
サイクルがあちこちで迷路になる、、、
思わぬウランが、、、ストロンチュウ―ム???
言いながらも
放射崩壊が繰り返されて、、、混合物になっていたりして、、、
海の小さな生き物が摂取して、、、
結果的にはマグロに入ってしまったら
大好きな寿司も食べられないという事になっては大変と
地球温暖化を叫ぶ少女は
寿司もきっと食べたら大好きになると思いますよね。
トロなんか、、、脂肪がこってりあっさり、、、
体内に入っても、胃ではちょっとだけ消化、、、
最終的には肝臓かな?脂肪の処理の上手な臓器は、、、
体内には、あちゃこっちゃ、、、だぶついた脂肪に悩まされる中年。
この脂肪の種類は、TVでは健康食品を売らんかな、、、儲けんかな?、、
何処のチャンネルでも、健康のコマーシャル。
しかし、、、北大のアカデミイ、、には。
哲学者なのか、研究者なのか
興味一徹なのか、、、
コマーシャルとは違って
まだ、、、世の中で製品になっていない物質の研究などを
されているらしいから、
未来に、、なにが出来そうなのか?
聴きに行くと面白い。
起業や業者なら、その研究を臨床に生かして
遺伝子など1日で解析できる何億とする機械で
業者は研究者に時間をあげれば、
知的探求のイケイケ細胞搭載の研究者は
外国から買い付けている最先端化学薬品の国内版を
本人は学問としてやってのけるとしたら、、、
企業は日本の医療費増加への貢献が出来て、
国からの援助金が出れば、、、
採算が合って、
研究者には金欠病が完治に向かうかもしれませんね。
研究で理論が解っても、、、薬品となるとネズミの実験だけというわけにはゆきません。
臨床医の、体験を駆使した治験などをえて、
一つの薬品が生まれるまでは、大変な額になることは周知のとおりですよね。
実権だけで、今困っている重病に役立たないのは残念だと思って、聴いています。
企業のなかに、研究だけのデーターを医薬品に応用する会社が増えれば、
3000万円とか、、、高い医療費は、国内の医薬品で『まかなえるから』
医療費は、功績高い団塊の世代が25年ごろから病院通いし始めても
医療費は、何とかならないのでしょうかね、、、、
「北大のアカデミーの講演会場で、ふと横道にそれて、医療費の事を考えている自分は
やっぱり、、、おっかちゃん、、、?、、、哀しいね。所帯じみてて。」
寄付を待たずに、研究を企業と共有すれば
哲学精神には背くかもしれませんが、、、
令和は「二刀流の大谷君がヒーローですよね。」
安く、、、国内で、、、
治療薬を製造できるのではないでしょうかね????
先生方の話は、、、
超難しいことを、、、
解るように説明してくれるから
頭の体操にもなる。
私でも、、、充分緊張感のあるスリルで1時間半を楽しめる。
あえて、、、理屈を言うならば
ここに居る本当の理由なんて単純です。
仕事バカで、家では朝刊も取りに行かない、ごみも捨てない、、、
電球が切れても、時計が止まっても、
知らん顔の主人が、
多少、、、荷が重いときがあります。
専門職の御主人の、、、痛しかゆしの、、、所ですよね。(**!
私が、、、もし、、、
痴呆になると、、、お手伝いは2人は必要ですよ。
半端なお金では決着がつかないことになる、
人間を辞めてしまう事だけは、
最大限の努力で食い止めないと、、、
停電状態の知能になることだけは避けたい。
脳のリハビリ―が、北大のアカデミーに行こうと思った動機です。
専門の研究者が、講義をしてくださるのですから
格安かもしれません。
未来の研究者の学生さんらの奨学金の一部になるのなら
27000円前後の講座は、奨励ですよね。
おつりがくるほど、
学生時代のような緊張感で
脳がリハビリ―を受けて帰宅できる。
教室には、真剣に受講する受講者が
時には質問をすると、先生は、、、丁寧に、、、解るように答えてくださる。
最高の年齢は、大学院生や、学生ら式受講者に交じって、、、白髪が光る。
喜寿前後なのか、、、もっと年上なのか?
同じようなことを考える人も居るものだと。。。
私は75歳ですが、
年上のお婆ちゃんから、20歳代の若者まで。
それぞれに、
感動するめいめいが、講義の終わりに拍手が出る。
大學が独立法人になって、民間との交流が、
第二の人生の壮年期の人々に
予期しない、、、
起業の機会を思いつかせるかもしれないと、
ふと思いながら、
主婦の時間はすっ飛んでゆく。
今日も、出かける間際まで、、、
家の雑事はきりが無い。
5時過ぎのバスに乗ったとたん、、、
大学時代のような、
「自分しかいない!」贅沢な1時間半がある。
今日も、炭素数が21、
炭素数が30、
炭素数はガンマーナイフで切れるのか?
その炭素の鎖のぶつ切りになってしまったのが
もしも…老人の皺の顔なら、、、どうする?
皺皺の、、、哀しき、、、婆ちゃんの顔なのかはわからないが、
もしそうなら、、、
炭素鎖の長い脂肪酸や、セラミドが
化粧品として登場で来たら、、、
世の中には、、、
婆ちゃんの皺皺の顔が消えることになるではないか?
卵の胚芽か?胎盤か?
目玉焼きつくった後の殻から、透明な残留物を掻きだして
眼の下の弛みにこってりと、、、
ザーネクリームに混ぜて、
塗っている場合ではない時代が来たら
91歳の美人コンテストが世にまかりとおることになる。
人間皆、、、ぴんぴんころり、、、の代替わり?成功!?
さ~~~これから自分の時間です。
留守番の孫は空手黒帯の頼もしい学生だ。
たった2時間の勉強部屋に。テレビをつけて。
近所の奥さんにあとは頼んで、、、サー束の間の私の時間へGo!!!
男の兄弟の仲の紅一点
結婚してからも、、、男の子だけに恵まれた。
孫が出来て。手放しの感動の中で
男の子の孫。
お嫁さんは、高校時代から寄宿舎に居たと聞いているだけに
独立心の強い
美人ではあるが、
姑は初対面から、蚊帳の外。
主人は、大切な自分の男であり絶対に信じているが、
お母さんは、主人のお母さんであって、
主人に言われれば、一緒に出向くが、
単独では付き合わないという
初めから、遠巻きにしていて、
孫を前面にして、賢く後方で付き添ってくる。
たぶん、、、女性の社会で女性ばかりの職場の長かったせいなのだろう。
姑は「煙たい職場の上役の老女」に見えてしまうのだろう。
私も、育った環境が
若い女性の従業員が23人いるという自営業の
やがては娘という存在は嫁に行くだろうという、、、
蚊帳の外で、あたらぬ、さわらぬニコニコと優しかった皆。
居ても悪くないが、、、男の子を一人前にせねばという責任上
女性の私は、短大を出して、嫁に出すという昔の親の癖。
クジャクの羽をつけたカラスではなくても
カラスの羽は黒くてそれなりに本物ではないか!。
カラスの鳴く声がうぐいすのようであったら、
東京のインコの群れのように
カラスの群れが幅を利かせていたかもしれませんね。
好きな鳥はハヤブサのような野生の鳥が素敵だと思っている。
私も、野生の鳥のように、自分で生きる力が欲しいと思っていた。
自立するための努力で精いっぱいだったから、
従業員とは、
挨拶だけ、
早朝に、
自発的に、、、、皆が嫌がる「ゴミ捨て」だけはこまめにして
大学に通っていた。
帰りは夜間の辻クッキングスクールで
料理を習って、食事の代わりにしていた。
所属部隊に見えて、
未来は分かれる運命の人たちには
深入りしない癖がついていた。
母も、職業婦人であっただけに
頼まれたこと以外は。プロの眼からは邪魔である以外の何ものでもなかろうと、、、。
遠巻きにして、、、見守っていた。
父が亡くなった翌年、高野山に行った。
〇武峯雄さんという御坊様が
墨絵の在る歴史の深い経年を感じる襖絵の前で
小坊主の頃、、、私の母と出会って
人生の修行の始まりの掲示を神仏からいただいた思いがしたと言って下さり
見事な達筆で、半紙に○○不思深と読める達筆すぎる字を書いてくださったのを、
今も大切に掲げていますが、、、もう亡くなられて世代が変わっていますので
私はしばらくは高野山にいっていません。
素晴らしく、霊感の強い御坊様でした。
男の兄弟たちは、実に母を思う人たちばかりで、
長男は、母のピアノを教えるための環境を絶対に守ろうと、
採算が合わなくても、医師に工学を支払って
自分が「がんセンターの崎田先生のもとに研修に行く間は
自宅の開業を、依頼して、母を守っていた。
下宿していた次男は、
「母が、、、よもやま話の電話の会話の中で、、、
≪ストーブが壊れたのよ、、、寒いよね≫」
思わず言っただけであったというのに、
夕方チャイムが鳴るので出てみたら、
下宿先から、
次男が、ストーブを届けに玄関先に立っていて、
母はびっくりしたそうである。
あんなにいっぱいいた居候も、
父が亡くなると、、、一人も居なくなった。
しかし、、、
あの時の居候の3姉妹は、電車で1時間とはかからない所に住んだだけに、
何かと訪ねてきていた。
母のピアノ教室のコンサートには
家族で来てくれていた。
二番目の女性は結婚式のすべてを母と相談していた。
女の子が居るのと、、、変りがなかった。
実の娘は、母の影のように
地面に張り付いて、姿を消した状態で、
かろうじて、、、娘の役割を果たしていたつもりであった。
3姉妹は、、、ほめ上手で
一番上の女性は、美人で、おしゃれで、社交上手で、、、
「おばちゃん、、、おばちゃん、、、」と
何かと、母のそばに寄ってきていた。
3姉妹の華やかさには圧倒されるものがああり
私は、ソート後ろを通り抜けて、その場からは去っていたので
個人的には、深く話したことは無い。
ほ~とため息が出た。
二番目の女性は、私の通っていた高校に編入したいと言って
転校前の高校では優秀な成績なので面接だけが課題となった。
彼女は、
伯母ちゃんが父兄として、私の保証人になって面接に来てくれたら、
合格間違いないと、気の進まない母を説得して
高校の面接の保証人として同席した。
もちろん合格して、彼女は上機嫌で
伯母ちゃんの娘になった!とその日はハイテンションになっていた。
確かに、、、東京出身の父と、
東京の国立音楽大学を卒業した母は、
よそから東京入りした3姉妹にとっては
渡りに船どころか、、、渡りに指定席付きの船だったかもしれませんね。
若き頃に東京都の高校で先生をしていた時代の教え子が
時々母を訪ねてきていた。
そのころ、3姉妹の長女が
居候とは真逆の。。。「玉の輿に乗って結婚した。」
舅も兄たちも全員医者で、大きな病院を経営している東京人の若手医師。
いつしか、我が家からは3姉妹は出て行った。
夫が医師、
舅も医師。
兄たちも医師。
3姉妹は、、、いつしか強い方へと去っていった。
間もなく三姉妹とも、国立大学の法学部のお婿さんに囲まれて我が家にやってきた。
結婚式に父と母を招待していた。
従妹の私には、前を須藤りして、
振り返り際に
「伯母ちゃんに結婚式の挨拶してもらうのよ、、、(^^」と言って去っていった。
母はすでに未亡人になっていたのに、、、
取り巻きは増えるばかりであった。
未亡人になっても、、、
いまだ亡びぬ妃とどころではない。
二台のアップライトのピアノでお弟子を教えていたのも
父が亡くなってからはグランドピアノを自力で買った。
コンサートには、、、国立音楽大学時代の学友が教授になっていたことから
生徒の実習を兼ねて、
コンサートには未来の音楽家のプロの道に精進中の学生が加わっていた。
現役の時は、母は東京都の合唱コンクールに
生徒たちを優勝させたという、、、凄腕の音楽教師だったと
国立の母の同級生の方々が、娘の私に教えてくださった。
コンサートの夜は、遠くから来ていた母の同級生の音楽家の皆は
グランドピアノを置いてある部屋で、
沖縄の泡盛に、角砂糖を入れて、酔っぱらって、、、笑い声が
明け方まで続いていた。
大學ではトロイメライしか演奏しないという公家さんが同級生だったそうで
トロイメライの君の話や、
べ―トベンの運命の曲の出だしの音符の話や
ショパンは最高だとか、、、
朝まで盛り上がっていたことが、、、甦る。
直純さんが生まれっ時には
柳行李に素敵なタオルにくるんで、日のあたる所に移動させながら
育児を楽しんでいた話や、
芸大の教授の奥様になっても、気軽に友達付き合いをしてくれたことなど話しているうちに
後日TV時代になってから白黒画面で
NHKでコントラバスを演奏していた
友人だという音楽家がやってきました。
松田ですが、、、
取り次いだのは私でした。
私のような、、、理科系の娘が居ても
出番はありませんでした。
母は、一人でも大丈夫だと思いました。
私が、、、母と条件を交わした外科医と結婚して
一人で開業している兄の相棒を連れてくることが
役割のように思えてきたから、、、、
母は教祖様のような指導力の権化でした。
付き合ったことも無い、、、外科医。
総合病院で薬剤師をして自立していた私が、、、急きょ退職して
奨学金で大学院に行っている外科医と
結婚することになったから大変でした。
北海道に嫁いだ私は、、、ほとんど里帰りの必要が無かった。
60歳を過ぎてから、母が亡くなった80歳までの間に
70歳ぐらいのとき、、、
一度だけ、母が札幌にやってきた。
部屋には次男の兄さんがドイツ留学中に手に入れたという
100号の「羊飼いの少女というレプリカ」を気に入って掲げていた。
母は、、、言っていた。
「(次男)あの子は男の子だけれど、
この絵の少女のようだね、、、」と
留学中の次男には実に40通もの手紙のやり取りをしていた。
通訳試験に合格していた兄は、
スイスの日赤などでアルバイトをしながら、
4年間ヨーロッパに居たらしい。
帰国したときはルフトハンザの外人が日本支社に勤務要請に来たりしていたが
母は、自分の小さな夢だからと「薬局を新築して、店長に据えてしまった。」
私は老女になっても、背筋がピンとしている母に
「もう、、、外国にはゆかせたくない,、、と本音を語った。」
子供を自分の私物と思うのは、明治生まれの女性なら当たり前であるとは思うが、、、
大学教育を受けた、モダンガールのはずの母が
次兄を薬局に閉じ込めてしまったのには。絶句した。
私は、、、ルフトハンザに勤めた方が、、、面白い人生だったと思っている。
後日、、、兄に本音を聴いてみた。
次兄のお嫁さんになった薬剤師の女性も、母が知人の医師夫人を仲人に
母が決めた女性だった。
もう、、、言う事は無いほど、、、
指導力、、、在りすぎで、、、
人間性無視かもしれまいと、、、思う反面
逆に励まされ菜がら、、、羊ケ丘の羊を見に、母を愛車に乗せて
案内した。
「お母さんは勝手だとおこっているでしょう?、、、
お父さんが安心するように、かってに話を勧めたけれど、、、
お母さんは、間違っていたと思う事もあるのよ。」
私は、、、返事のしようがなかった。
間違っているのかいないのか、、、人生の山登りは
どの山登りも労力は同じだとおもうけれど。
山頂まで行ってご来光が見えるかどうかで、、、
間違っていたのか、正しかったのか、、、。
今の段階では、私にも、母にも解りませんでした。
二人の間には会話は無かったが
可愛い羊さんたちの姿が気に入った母は笑顔であった。
お母さんは、、、
「貴女の教育を間違ったと思っている、、、ごめんね。」
私が、見知らぬ北海道に嫁いだことを
自分のせいだと、、、あやまりに来たという。」
「北海道って、、、自然が真実で本物で、人間の小ささは見ないようになるから、、、」
お母さんのせいではなくて、、、文化が50年ぐらいずれてるだけだと思うわよ。
このまま、、、北海道で雪を掻きながら、、、自然とともに行くからね。
心で言いながら、母を見ていた。
「医学部には学閥が在ることを知らなかった。もう、、、東京には戻れないと思う。」
母は、私に、もう戻ろうと思わないようにと、、、言いに来たのだった。
「もう、、戻ってこなくてもいいよ。お母さんの自業自得だから、、、」
「お兄さんも、三人のお嫁さんも着てくれているから、、、安心よ。」
「開業医の時代は終わるからね、、、
税制も優遇されないし、従業員も大病院志向になってくるし、、、」
一日150人の地域の患者さんを診療して、早期がんの患者さんを
大病院に紹介していた、内視鏡専門医の長男は、
母が80歳になる前に開業を閉院して、
千葉県の亀田総合病院の胃カメラ指導医として第二の人生に船をこぎ出したときであった。
従業員が自立できるように退職金を払って、
お抱えのだった男性職員の会計士の人には
借家で家族を養えるようにして閉院した。
ショックで、、、一時的に痴呆状態になった兄嫁の為に
実家は売却されて、ケアのついた高級老人ホームに移っていた。
私の実家は無くなった。
知らないうちの出来事のように過ぎて行った。
一円の分配金もなかった。
北海道に来ていてよかったと思えた。
近くに居たら、、、父の姿を思い出して、、、
ひとこと言いたくなったかもしれません。
兄の息子が、、、全く見知らぬ土地で、、、奥さんと、もう一人の勤務医と3人で
父の診療所と同じ名前の同じ名前のクリニックを開業したが、
もしかしたら、、、実家は売られて、、、生まれ変わったのかもしれません。
もう、、、世代交代の住んだ実家には誰も居ないことだけはわかりました。
三代目の甥っ子の未来への矢はすでに放たれて遠くに飛んで行ってしまっていた。
彼の結婚式にも、開業パーティにもよばれなかった。
嫁に行くという事は、、、孤独との戦いであったが、
外から見ると、、、
医師の家庭の娘は、濡れ手に粟の良いことばかりをしていると思われる。
自分で立てる力を持たなければ、、、
翻弄されると知りながらも、
医師と結婚してしまったばかりに
医師の医療を通しての社会貢献度が大きいだけに、
私は、家庭をおろそかにすることは
医療に差し障ると感じるものがあり、
今の日本の税制では、共働きは時間を失う。
守備の人生が家庭を生かす
家庭婦人となった者の
道であることだけは認識できた。
薬剤師として、
社会に出るときは、息子たちの
私立大学の月謝を必要とする間だけだった。
月給の高い調剤薬局で店長をさせていただいた。
私なりに家庭に居るよりは充実していました。
しかし、、、辞めなければならない家庭に事情が起きました、
次男の骨折です。
私は仕事を辞めて、次男の通う大学のある町で
2か月をサポートの為に同居しました。
結局は、、、女性は、、、家庭をとるから、、、最悪だと、、、
自戒の念にさいなまれながらも、
店長退職を、済ませて以後は、、、家庭に閉じこもることになりました。
男の人生は、、、家庭よりも、子供よりも、、、仕事第一だという
一途のプロ根性には、、、敗北しました。
職場でも、世間でも、若き外科医の主人は必要とされて
早朝勤務先に出たまま。夜は9時前に帰ることはまずなかった。
そして、、、夜は8時に帰ることが多くなった、、な~~~と
ふと気が付くと、、、老人になった主人が居た。
*********売り言葉に、、、買い言葉。。。
夫婦げんかも負けづ嫌いの勝気な主人です。*********
主人は私と出会ったとき、、、
夫婦げんかの最中なら、、、何でも言い散らかす主人です。
(** (++ (##!
のうのうと、、、友人代表で北海道まで、
挨拶にやってくる医者の娘に
俺たちの苦労を知らせてやりたかった!!!と言う。
自分が認識不足だったことは確かだが、、、
自分だけが苦労していたと思っていた。
「俺たちは、どんなに苦労して、、、戦後を生きて、、、
どんなに苦しい思いで、国立大学の受験に臨み、、、
合格しても、わずかな仕送りで、
奨学金に支えられながら、、、大学院に居るかを、、、
結婚して、、、思い知らせてやろうという、、、
俺たちの生活ぶりを,、、解れ!」
怒りでもって、優雅に見えた私を反骨精神が妻に選んだという。」
結婚してみたら、、、どっこい、、、
優雅に見える開業医の世界には
自分たちの世界のような、
物質の苦労ではなくて、、、精神的にも、従業員的にも
医療機械の進歩とのいたちごっこの激戦も
地域との接触にも、、、
苦労という言葉では表せないプロ意識の
生きるか死ぬかの厳しい緊張が続くかを知ることが出来て
大きな組織で、
医師の仕事の腕を磨くという苦労なら、
自分は耐えられると知ったから、
結婚の時の契約の、
私の実家のメンバーとして、東京に帰るという約束は
結果的に果たせないという生き方を選んだようであった。
北海道で生きれるという事が解ると
主人は、、、もう、、、
利用できない私の実家とはコミュニケーションの
努力を一切しなくなった、
弟は著名な医学者になっても、、、
臨床医の自分とは阿竹が違うから、、、と
仲は良かったが、、、弟が札幌に来たときは止まってもらって
酒を酌み交わす程度で
自分からのアクセスは一切しないという、、、北海道の主人となっていた。
母は、、、待ったそうである。
長男が、アルバイトの医師を雇って、
神経質なまでに、一人開業の怖さに緊張して
電車のつり革が握れなくなるほど、、、
北海道から医師が家族になってくれる日を期待していたと言った。
弟が医師になった段階で、やっと精神が休まり
北海道からの私たち夫婦の合流を待たなくなったそうである。
一人、、、開業、、、確かに、、、苦しかったであろう。
あれっきり家族は世代交代したが、
母を80歳まで守った兄の責任は大変だったと思うのです。
主人は、母の葬式にも来ることはできなかった。
初七日も、49日も、一周忌も、私一人で東京の親戚と母の供養をした。
勤務先にも、個人的な事は知らせないという方針の主人だった。
主人の病院からも、花束は無かった。香典もなかった。
「家内のお前が死んだのだったら、、、知らせるから安心しなさい、、、葬式にはきちんと出るから、、、」
、、、、、、
正しいことばかり言う主人です。
大病院の医師の奥さんという椅子があると思うのは
北海道の戦前の生まれのお婆さん方には珍しくない現象ですから、
北海道は、、、医師はお金持ちなのかもしれません。
たまたま、、、生け花を習いに行った時の事ですが、、、
大病院の医師の奥さんだから、、、
生け花の月謝は5万円いただくわね、、、
大勢の弟子に囲まれた
生け花師匠の
誇らしげに
弟子たちの前で笑いかける姿が
おかしく思い出される。
40年前は、、、生け花の師匠にとって
医師の奥さんというのは、、、特別な弟子にあたるのだと、、、
私は、その場で、弟子になることを辞めて、
北海道では「生け花もやめた。
我が家の根をついたままの野草の庭の手入れを
生け花の代わりに楽しんでいる。
ちなみに
私の師匠は、御茶ノ水のYWCAの教室で習った
勅使河原一門の、あの、、、優しかった福井先生だと思い出すのです。
夏の御着物が特に素敵だった、、、
淡島千景さんに雰囲気が似ていた。
大学に残って無給医を続けて、
3ヶ月ごとに1か月の地方病院で16万円の月給をもらう生活費の中からは
生け花の5万は払えるわけはありません。
。。。はい。。。さようなら。
5000円でいいのなら、、、
「花代含めて1万円なら、、、又来ます。」
私は、東京で男性の多い日大の理工学部の学士です。
医師の奥さんという椅子などあるのも知らなかった。
後日、、、
電話が有った。
「ごめんなさいね、、、私も、見栄を弟子たちの前でハッチャッテ、、、
今月はお詫びに御月謝要らないから、、、又いらシャイ!」
電話はそれだけできれました。
私は次の月からは、3歳の息子を連れて通い始めました。
息子がガラスの壺の中に
ひまわりの華を底まで押し込んで
上から葉っぱをまっすぐ一枚立てて
「ママ~~~!!」喜ぶのを見ながら
先生は、「すごい!ピカソのような作品ね!、、、子供に習おうかしら!」
私は、教室に戻ってきて、
息子の付き添いをする生け花が続いたことを
苦笑しながら、、、思い出しています。
長屋に住みながら、私は、
札幌ではセレブだと言われている女性の中で
保育園にあぶれた息子の生け花に付き添っていたという
人生は「喜劇」なんですね~~~(^^
札幌の草月展覧会で、
自分の大好きな花器
(原田さんが大学卒後すぐの時の三越展覧会でローンで買った備前焼きの花器)
家財は自分の庭の五葉の松の最先端のカーブの枝を
自分が用意しました。
「寒菊や、、、まどう、、、は、、、己が光のみ、、、」
そのような気持ちで、
北海道の華の師匠には無関係の作品を活けてみました。
「あなたの作品は、、、手の入れようがないわね~~~」
お子さんが考えていけたのね?!、、、そのままでいいわよ。」
あきれ顔で、蒼風家元の大作の足元の台に置いてくださった。
医師の娘に生まれてよかったと思えることが有るとしたら、、、
廻りはともかく、、、
父の事は大好きだったし、、、
尊敬もしていたし、、、品性がまぶしい父だった。
尊敬に値する感動の治療を、
しばしば私に感じさせてくれたという
病気の人間の支えであることを見て育ったという事でした。
私は勉強に大半の時間をかけた。
父が54歳で亡くなったことは、
「医師をすることの応援に回ろうと思えるようになりました。」
主人の、私に対する思惑はどうあれ
黙々と、医師をすることのサポートに回り
自分が医師になっていたら、
もっと大変だっただろうと思いながら、
女医さんになっている女性の心は
強い人がほとんどなのだろう~~~と思ったりしている。
早く逝きすぎた父の面影と、同じ外科医の主人とを重ねながら、
主人の事は、、家族として視てなかったのではなかったかもしれない。
むしろ、、、勤務先を居場所と思っていた時が長かった。
大病院の家族である医師を
担当させていただく付き人のような感覚であったかもしれません。
妻らしいことはできませんでしたが、
家を守り、、、子供を育て、孫につながり
大病院の多くのスタッフが主人の家族に思えて、
都合の良いスタッフの一人として、
明日の診療の為の条件を整える人生。
医師をするためのニーズにこたえるためには
シュウカツは
しないことにしていました。
買った物は捨てません。
旧い時代の患者さんが入院中につくってくれた趣味の物も
何十年もそのままです。
80歳になって、、、予約して、主人の検診の日に来てくれているからです。
私は、、、影のままの人生ですが、
北大のアカデミーに通いながら、
とても楽しい時間を過ごせていますので、
人間という、、、
生物という、、、生命科学の宇宙を
星空を眺めるように、、、好きだったのだな~~~と
束の間の、私自身を見つけては、、、
ちゃんと!、、、居るではないか?、、、と。
孤独なはずが、孤独ではなかった人生に、感謝しながら
後期高齢者の朝が解らない日々の思いを、
生き残っている友人が
毎日、応答してくれているんですよね。
医師をしている限り、、、社会貢献度は、、、大きいという事を。
若き日を振り返ると
世間を知らないが故の
お目出度さが思い出され、、、
苦笑する
一人笑いがこみ上げてくることが有る。
[自意識が過剰な時代]なのかもしれない。
競走馬のように、先へ、、、先へと
理想を確立しようと無茶をする。
世の中、、、なるようにしかならない。。。と
解るのは70歳になるころである。
若き日に、年寄りを大切にして、
「思い出話をたくさん聞いておけば、、、」良かった。
灰で縄を編んで納税しなさい、、、と言われることだって
時代時代には避けられない現実であった。
母も、叔母さんも、
[鍋も窯も、金属製の物はすべて差し出した時代]に生まれていた。
叔父さんは学徒出陣!
もう一人の叔父さんは、シベリアの体験者。
出兵で会社も廃業、女子供の手で
鶏を200羽も飼って、
農協に卵を持って行ったり
にわかにお百姓さんが増えて、
おばさん方の集会所のような
助け合う作物つくりの戦後を観てきた。
父の診療所には、
疎開者を受け入れてくれた地元のおばさん方が
炊事場を手伝ってくれていた。
誰もが、どうやって生きて行こうかと、、、
傷痍軍人も松葉づえをついて、
飯盒に似ていたカンを「托鉢」のようにお金を入れる入れ物にして
頭をうなだれていた。
医師だった父は、疎開地では一番忙しい男性だった。
村中がお金のない時代に
疎開で診療所の先生をしていた。
お金の為には、、、
とても勤まらない条件だったと,,,,
子供ながらに、
戦地を体験してきた医師の根性のような落ち着きに
父というより、
皆の大切な、いなくてはならない人だとおもって
威厳を感じていた。
医療報酬は
[保険制度]が出来ていなかったせいもあり
川の魚,
山の果物、
野生の動物の肉、
炭、備長炭、等、
栗やシイの実まで、診療報酬に届けられた。
戦争から引き揚げてきた親類は、
父の周りに集まってきた。
正月は餅つきで、
村人や疎開の人々で祖父の洋館の地下室は人でいっぱいだった。
アメリカのフロリダ州から帰ってきていた親類たちの中でも
南紀には、、、少し離れた村が
「アメリカ村」と呼ばれているところもあった。
祖父の洋館の地下室は、、、大賑わいであった。
お爺ちゃんも、お婆ちゃんも、知恵がある人だった。
ベランダの下に玄関が有った。
ドアを開けると、祖父の描いたという
ゴールデンゲイトの橋の油絵が架けてあった
今振り返れば、
当時の日本人の普通の家庭の人に比べると
お婆ちゃんの方は、なんでも出来る人だった。
開拓のアメリカで、働いて人生の半分を
アメリカで過ごした女性は
歩き方が違っていた。
60歳は過ぎていたはずであるが
背筋はピンとまっすぐだった。
レンガで内装した冷蔵庫の上段には
毎朝海辺の「氷」がバタコ(三輪トラック)で届けられてきていた。
牛馬の肉が塊で保管してあった。
食堂は地下室の上にあり
現代と同じようなダイニングセットが
昔ながらの大きな灰釜のある流し場と奇妙な組み合わせであった。
村の地元の奥さん方をまとめて、祭りなども
和紙を使った洋花で飾りつけをするのに
現在の文化教室のように、
女性たちの楽しいパーティとして
戦後の復活の生きがいづくりにもなっていた。
アメリカから持って帰ってきた電蓄のついたラジオは
夫人のしおれそうだった戦後を、やる気満々の女性サークルにしていった。
当然のことながら、
田畑も耕し、
赤色の球のついたネットを張った水田で、
祭りの時には「花をつくっていた夫人」たちは
もんぺ姿で、
赤い球のある所に、苗を差し込んでいた。
「私もやりたい!」お婆ちゃんに頼んだが、
「あんたを怪我させたㇼ、足に、虫でも吸いつかさせてしまったら
おかさんは、婆ちゃんが悪いと言って怒るだろうから、、、」」
子供の参加は
ケンもホロロに却下された。
母は、明治生まれで大学を卒業していたという事で
賢い人ではあったが、、、
知恵は無い方だったかもしれません。
同窓生には、山本直純さんのお母様とか
近衛家の、一般の大学を出られてから、
音楽大学入学を許されたという旧貴族の方とか、、、
私とは住む世界が違っていたような
エキゾチックな環境で、刈り上げ髪スタイルで
ブーツを履いて
自転車に乗っていた女子大時代がアルバムに残っている。
お婆ちゃんは、
「あんたのおかさんは、学校の先生とか、音楽をする人と同じで、
指揮は出来るけど、
何か頼んでも、ろくろく出来ることが無い!」
「梅干し漬けるとき、誘ってほしいというから、つくり方を説明しながら
干したり、洗ったり、又洗ったり、
大きな樹のたるに漬け込む前の、
樽の準備に時に、
「梅干しはつくるの大変だと解ったから」と言って、
途中から
あきらめてしまったんよ、、、アカンな~」
母の悪口とも、
途中でギブアップした母のわがままに
はらをたてているようだった。
子供ながらに、、、母の自分勝手な割り切りが目に見えるようだった。
お婆ちゃんが、
「女の子が居るのだから、、、囲炉裏にはやぐらをかぶして
火傷をさせないように、予防線を張りなさい。
あんたのお母さんは、嫉妬の渦の中にいるという事が解ってない!」
貧乏な心ほど、予期できない行動を起こすから、
発作的な事故は、未然に防いで
こんな苦しい時代には、羨望と尊敬と嫉妬は同居しているから
娘がとばっちりを受けないように
やぐらをかぶせて、
ストレス発散の
一瞬の≪悪魔の活躍≫を
封じ込めるというわけなのだった。
アメリカで暮らす日本女性の緊張感が伝わってくるような
貧富の差のある土地での配慮が足りない
哀しきインテリであった母は、
生涯、このような感情が理解できる女性ではなかった。
両親の目の前では丁重でも、親と離れた場所では
何かと、、、
「つい、、、わざと、、、あんたなんか、、、得ばっかりして、、、!」
小学校に通う階段で、何度も体当たりされて、、、
転びそうになったリ、
「ごめん。。。」と言いながらも「顔は意地悪く笑っていたㇼ、、、。」
「親が医者だから、得ばっかりしてる、、、!」
太宰治の作品に出てくる、、、耳元で、、、
「わざわざ!」と囁くような
大人子供が私は苦手であった。
婆ちゃんは、
「私だって、あんたのお母さんを見ると、特別待遇で腹が立つ時があるから、
他人で、しかも、明日のコメが無いという
一家心中を考えている人だって
いっぱいいるんだから、、、
無意識の贅沢は、恨まれるんよ、、、ね。
自慢のピアノを教えてもらう娘さんの手は
お母さんの宝物だったかもしれん。
避けがたい事故ではではあるが、、、
「ざまーみろ!、、、て、あんたは十字架にかけられたのかもしれないね、、、。」
「ふ~~~~ん。人の心って、寂しいね。」
でも、、、父には神様がついていて
17歳まで、7回の形成手術を受けたけれど、
「エリーゼの為に」や「ソナチネ」ぐらいなら、、、弾けるようになった。
「乙女の祈りだけは、、、オクターブの小指が1つの鍵盤だけ届かないけど、、、」
神様は私を見捨てなかった。
父母も、うっかりミスの事故として片づけたから
心の傷にはなりませんでした。
むしろ、、、手を火傷しなかったら、、、ピアノを強要されて、
己の才能ののなさに、、、留学先で思い知らされ、、、、発作的に飛び降りていたかもしれない。
それほど、、、私は音楽の才能が、、、はじめっからなかった。
「塞翁が馬」とは、、、このことである。
医師の素晴らしい腕に惚れ込んで、
自分の手を見るたびに、、、芸術だと思えるほど、、、感謝をしている。
婆ちゃんの見解は違っていたが、、、。
「人間って、、、貧乏な心」が「敵」だよね!。
こんこんと母に諭したのに
母は、「見ればわかる囲炉裏に
落ちるほど、子供らはお馬鹿さんではありません。」
せっかく、祖母が、
大工に頼んでつくってきた「やぐら」を
囲炉裏にかぶせないで、
廻りに座布団を置いて、語らいに使っていた。
准看の免許を取りに通っている女中さんの膝の上に
2歳の私が座っていた。
母は、囲炉裏を囲んで、
女中さんに縁談を世話したのだそうである。
2歳と言えばやっとミルクが離れた頃である
女中の膝から、娘は、真っ逆さまに囲炉裏に落ちた。
あの時、、、
母がお婆ちゃんの意見を聴いて、尊重して守っていたら
母が賢い人であったなら、、、
私はやけどをしなかっただろう。
母が謙虚な人であったなら
勤務してくれていて、自尊心も高いであろう未来の准看に
お見合いなど、、、進めるのはお門違いであったという事が
解りそうなものですよね。
医師は尊敬されていても、「医師の奥さん」という座には
決定権や、命令権や、特別の地位なんてないのですから、、、
外野が勤務スタッフの個人的な結婚を勧めるなんて、、、
「解雇されると、勘違いするのは当然です。」
悪気が無くても、、、一瞬頭が真っ白になり、
娘を抱きとめる手の手の力が抜けたとしか思えません。
傷は、身体の傷だけでいい!
私は婆ちゃんの言う事は、、、そういう事もゼロではないぐらいに考えて、
廻りを刺激しないように生きる知恵を戴きました。
母が、、、知恵はであっても、
「賢い人ではなかった」ことが
後半の人生の学びにはなりました。
お婆ちゃんの、、、経験からくる賢さを受け止めて、
。
愚痴は言うまい過ぎたことだから。
若さとは、、、傲慢で、うぬぼれで
若きが故にチヤチヤされることが、迷わせる。
老人の知恵ある経験の皺皺の顔を、
いぶし銀のような光だと気が付かないのだろうか?
30代半ばの母であるから、
過ちに気が付く賢さは無かったのかもしれません。
年寄りの経験からくる言葉は「知恵」であると
思うのですよね。
年寄りを、孫子ともっと接触できれば、
日本の文化の素のような、、、何かが伝わって
ハイカラさや、華やかさとは一味違った
隠された知恵が、伝わってゆくのではなかろうか?
例えば、、、着物の基本的な知恵は、
太っても、痩せても、、、一枚で足りる、、、不思議。
その知恵を洋服に取り入れれば
膨大な衣類は要らなくなるかもしれません。
自分自身が着るための
自分の延長線上にある服。
ジーパンなどはエデンの東で目から鱗の魅力を感じたものです。
消費生活とはまた別の文化が、
復活に役に立つかもしれませんね。
父が亡くなったとき、
私はまだ大学生でした。
54歳と言えば、壮年期ですが、
戦争から帰ってこれた父は、
身に付いた経験が総てだったような生き方をしていたのではなかろうか?
断捨離を
そのまま実行していたような父でした。
戦争からのPTSD様の精神の患者さんらは
診療所の2階を開放していたダンス教室に現れては
かこち顔も、緩んで回復していきました。
「ブルータンゴ」「イタリヤの庭」「南京豆うり」「アルゼンチンタンゴ」
思い出すと、懐かしくって、、、
もう一度、手回し蓄音機で聴いてみたい。
疎開地の村に
浮き沈みの極端だった明治、大正、昭和を生き抜いた人生の体験で
心まで磨かれたであろう小さな光を
戦後の人々に出来る医療の心を復興に役立てていたと信じている。
どんなびっくり事件でも動じない冷静な父の動きはどこで身に付いたのだろうか?
戦地で累々と横たわる命を見たという事ではなかったのだろうか?
人間の一生、、、54歳は若すぎる一生だったと思えるが、
疎開地での十数年は輝きの仕事だったと思いたい。
「東京で育って、戦争に行って、坊ちゃまから、総合病院の院長から
全てを喪った、、、
野戦病院の軍医から、
戦地の病院のスタッフに
西洋医学の外科を指導。
鉄砲の傷やら、爆破の傷の手当てを指導。
そして敗戦。
戦地まで、迎えに来てくれたお爺ちゃんは
子供三人を喪った娘夫婦を救おうと
捨て身の行動をしたことを、本人は自覚していたのだろうか?
連絡船で大陸まで、迎えに行った祖父だった。
「子供らの母の心」を癒すためにも
疎開地での医師をすることを手配していてくれたのでした。
爺ちゃんが町長をしていたあの時の疎開地は
70年たって、又、、、元の小さな村に戻っていた。
母が戦地から、疎開地に着いたとき
初めて白米を戴いたとき
涙を見せない人であったというが
米俵に持たれて泣いたと言っていました。
13年後、私たちは東京へ帰ってきました。
2年遅れて父も生まれ故郷の東京ではあるが、、、
市ヶ谷の自宅はもはや知らない町になっており
下町の大きなお寺の跡に、
15人ほどの入院に応じられる、診療所を開きました。」
そして8年後、、、仕事も軌道に乗り
兄も卒業したての内科医だった。
次男と私は薬剤師になるための大学生だった。
弟は、、、高校生、、、
まだ、復活の途中だった。
無理に無理が重なった父の頑張りは
戦場で鍛えられた頑張りだったのだろう、、、
ありがとう、、、お父さん、、、
もう。。。私たちを信じて、ゆっくり休んでください。
ここまでしてもらったのですから、、、
アルバイトでも何でもやって頑張るから
、、、ありがとう、、、お父さん。
前日まで、手術に携わり、翌朝眠るように穏やかに永眠していた。
仕事に使うもの以外は、、、なにもありませんでした。
小学生の私と次男の兄が、、、父を画いた画用紙の絵です。
「シュウカツ」という文字が要らないほど、、、
我が身一つ、
腕一つ、
診療所の道具設備だけでした。
生きていてくれたら、、、100歳を超していますが、、、
その知恵は今生まれたようなフレッシュさで
静かに、、、
言っているように思えてくるこの頃です。
ピアノしか要らなかった母は
父の亡くなった後は本格的に
「よつば会」という
ピアノ教室を始め
81歳まで、毎年コンサートを開いていました。
国立音楽大学を卒業後、
戦前は東京都の女学校の音楽の先生をしていた母は、
50歳半ばから、亡くなる3日前まで現役でした。
父が亡くなった後、
高校生だった弟は
千葉大学の医学部に合格して、
団塊の世代の一人として
戦後の医学会に貢献できたと思います。
西銀座ドラックや、アメリカンフアマシーで
深夜業務の売り子のアルバイトをしながら
薬局を開設して生きることを考えたりしながら
家庭教師やら、、、2件も掛け持ちしながら
夏休みの教育実習の間は、
高校時代の同級生に家庭教師を臨時に担当してもらいながら
大學は、自分の力で、何とか卒業できました。
卒業旅行のお金が足りなくて、
父の後を継いだ兄に
3万円の補助を申し入れたところ、
返事は冷たくて、
学生結婚していたこともあり
奥さんに頭が上がらなくて、、、断られました。
織田信長の歴史あとのあたりを
川下りする学友の写真が、卒業アルバムに残っていますが
私の姿はありません。
昭和の時代は、女性が大学に行く事すら、、、
家族からは迷惑だと言われた時代でした。
母は明治生まれで国立音楽大学に通って
東京都で女学校の先生をしたのですから、、、すごい!!!
障害物競走のような人生だったかもしれませんね。
女性を、自分専用の御用達の奴隷のように
私物化する傾向の日本文化は
今日、令和の時代になっても、
女性の社会進出は世界の水準以下であることは
哀しむべきなのか?、、、
人の嫌がることや、
報われない日陰で
土手の穴をふさぐために頑張っている日本女性が居たからこそ
終戦後、敗戦国にはならずに頑張ってこれたのかもしれません。
子育ての為にも、社会参加も社会の活躍も大切ですが、
共働きの夫婦の家では
やっぱり、、、子供は、、、当たり前の幸せに気が付かないかもしれない。
昔の女性の根性は、、、違う!
81歳の母の葬儀は弟が、母の遺言のとおりに
全てを引き受けてくれました。
弟が居てくれたから、母は幸せだったと思います。
役に立たなかった「姉でした。」
北海道で、、、やむなく、、、成り行きで生きてきましたが
ミラトリガ、ミイラになった状態でした。
無給委時代の奨学金で大学院に通学していた主人は
博士号を取得したら、故郷の東京に帰り
亡き父の後を働いてくれるという
契約結婚であった。
主人が嘘をついたわけではなかったが
医学会は個人の都合でどうにでもなるというシステムではなかった。
北大を卒業させてもらって
北大から博士号を戴いた主人には
北海道に尽くすレールの上に居たという事です。
ごく自然に北海道で生きてゆく道が授かりました。
医師を連れてくるはずの私は
北海道に居点いてしまい、、、
母の晩年は3人の嫁さんたちの方が知っているという、、、
居場所のない葬式でしたが、
弟は、何十人と次から次にお焼香に来てくれるお弟子さん家族に
深々と、頭を下げながら、、、、
「僕は、、、生涯現役だった母が、たった3日間だけ寝て、父のもとに行きました。」
。。。。
息子として、「立派な人生だったと、生涯現役だった母に尊敬と、感謝で、、、」
弟は、国立がんセンターで、日本の画像診断の黎明期を
団塊の世代の、東芝や、大きお技師さんたちと走り切って
コロンブスが新大陸を発見したように
早期がんの発見に一時代献身出来たと、、、義姉として、感謝しかありません。
父の後ろ姿を観て育ち、
母の感性豊かな五感を遺伝でキャッチした能力は
画像診断という、
光の世界に、
医師という科学者が観て
医師にとって必要な画像を映し出すという研究は特殊な才能だと思いました。
感性と、科学と技術と、国立がんセンターの先輩方の理解が
世界の知る所となる
「国立がんセンターの黎明期に生き抜いたのだと、、、」
姉としては、
誰も気が付かないだろう、、、母の特殊な能力を遺伝でゲットした弟は
一代限りの、、、
誰も後を継げない、、、宝物の人生を、
本人は、気が付くことも無しに、
ひたすら画像診断の発展に人生をささげたと思っています。
弟の著作の教科書を使って、
息子も、画像診断医として、臨床に頑張っています。
がんセンターという巨大な存在になった今、
昭和40年代に、
検診研究センターの小さなコンクリーの建物が
見上げるような大きな築地のがんセンターになるまで、
我が家としては、全員が、弟とともに発展を観ていました。
弟をがんセンターに誘ってくださった市川平三郎先生は
弟と、囲碁を楽しんでくださったㇼしたそうで、
その出会いは「社会で出会った運命の人」だったようです。
その暖かなご指導で、才能が引き出されたと信じています。
ハーバード大学に居た時には
そこのドンにあたる先生が
「彼は、、肝、胆、膵の私の先生です。」と紹介してくれてからは
病院の廊下で出会う巨人の先生方が
ニコニコとあいさつをしてくれるようになり、
留学は多くの事を学べたと言っていました。
アメリカの学会の発表会場に
がんセンターの胃カメラの指導医を戴いていた兄が
アメリカの学会畳まで聴講に行き、
弟と、アメリカで合流したと言っていました。
私の「卒業旅行費」をけちる兄貴は
男の人生には、ずいぶんと思い切った散財をするものだと
男女の価値観に当分日本の女性は耐えねばならないと推測できますね。(**!
昭和、平成と燃焼した弟も
70歳代という、年齢になりましたね。
大きくなって世界に名声を成し遂げたがんセンターは
これからは、東京大学を始め、国立大学の先生方にとって
研究の舞台となってゆくのでしょうか?
核戦争廃絶を目指して、
これ以上「がん患者が増えない日本でありたいですね。世界も、同じ思いでしょうね。」
ストロンチュームの半減期は24000年前後だとか?
大洗の事故現場のレポートがPDSに掲載されていました。
世界がウランやストロンチュームの汚染時代になれば
やがて医学の大海の一滴として、、、
弟の生涯の検診の仕事も歯が立たなくなりますよね。
弟も誰も知らない歴史の波に消えてゆくのかもしれませんが
そのような地球にしないためにも、
がんセンターの権威ある学問力で、
後進国はじめ、各設備に走る国々に
地球汚染の結果の
「がんの発生率や、死亡率」で啓蒙してほしいと思いました。
振り返れば、同じ母の胎内から産まれたとは思えないほど、、、
姉は、がんに対しての認識も知識もありません。
私は、、、弟に、、、良性ではありましたが
ムチンの入った卵巣嚢腫を診断を受けました。
「良性だ」と言われたとき
翌日手術に踏み切りました。
もし、、、悪性のがんだったら、、、私は
手術はしないで、、、ターミナルの安らかな日々を選んでいたと思います。
翌日、北海道に帰って、主人の勤務病院で手術しました。
その時から、弟が、手術前に
この中に「ムチンが入っていて、ハチの巣のように仕切りがあって、、、」
たぶん大きさは何センチで、、、」
絵に描いてくれたのとそっくりの
病理の標本写真が主人を通して渡されたときには
画像診断は「魔法」のように、
読む医師の眼力で、実物そっくりの絵が、
病理所見の前に解るという事が
感動でした。
医療現場を離れると全く普通の叔父さんですよね、、、弟は。
個人的には、サラリーマンの家庭より質素でしたが
がんセンターというところに勤務したことは
本人も気が付かない、母の五感と
父の医師としての科学の眼が開花するには
最高の理解者が集まる所だったんだなと、、、
才能が、戦後の医学の復活と進歩に大きく役立ったことを
姉の私は、神様は居ると思いました。
「お母さん、、、あなたの時代に、運命の楽譜が日本に来たように。」
弟の仕事の見えない才能の偉大さを知るのは、
医師だけの能力者でも、
音楽家のだけの能力者だけでも、、、見抜けない、、、
すごいものがあった事を
私は信じています。
霧のように、ぼやけた初期の画像を
的確に読み取り、
東芝や、多くの技師の専門家と
寝る暇もなく、がんセンターの廊下で寝泊まりしながら
研究を重ね、画像を改良していったという事を
単行本で読みました。
東芝の創始者は、封建時代の旧き時代に
時計を創った人らしいですね。
NHKで、からくり人形や、時計から始まって
精密な医療機械にまで発展した東芝の名前が
日本においては、歴史になっているそうですね。
その末裔の魂の社員のスタッフと、
日本の画像時代は、歴史になって
きっと、、、ウエルカム医療博物館に残るかもしれませんね。
行ってきたんですよ、
ウエルカム医療博物館に!、、、
日本の画像診断の黎明期に生きた弟は
戦争を知らない「希望の新生児」として疎開地で生まれました。
父が疎開地で、、、戦争を知らない男の子を授かり、
甦っていったように、
母も、村全体も、疎開で来ていた3000人は
「医者に、、、医者の家に、、、男の子が生まれた!!!!!」
村中がお祝いに来てくれました。
可愛かった、、、
皆、あたらしい日本の夜明けを感じた。
私が、、、孤立していた北海道の暮らしの中で
弟という存在と、
TVや読売新聞に、朝日に、、、
掲載される弟に頑張らせていただいた。
かろうじて、、、医療に興味を持てた原因が自分にもあったとしたら、、、?
「自らが薬剤師であった事」が
医学への理解と興味と、感動と、驚きを伴いながら
痛みのない診断へ向かう弟の選んだ人生が輝いて思えたという事です。
子育てと、家事と、息子たちの進学の費用の足しにと
5年間「薬剤師」をした虎の子は、、、
我が子が「画像診断医」として育つのには多少は役には立ちました。
「叔父さんは神の域だよ、、、」
医学生の頃から、
がんセンターの叔父さんの指導を感心しながら、
研究棟を訪ねては、
僕には叔父さんがまぶしいと言っていた息子には
多くのヒントを授けてくれた叔父さんでした。
息子は、叔父さんとは違った道で
臨床医として、
叔父さんたちの開発した技を取得して
生きがいを持って生き生きと
ERのドクターヘリの飛んでくる患者さんと密着した部署で
貢献しています。
はた目には、、、医師はお金持ちだとか、、、
優雅だとか、、、、
風評被害の避けられない様々の条件が、足を引っ張ってきますが
我が家の、、、親子3代の医師を観るにつけて、、、
頑張りは、、、サッカーのシュートではありませんが、、、
「ハンパではない集中力」であろうと、、、伝わってくるものがあります。
45歳も、、、過ぎて、、、
家なし、車なし、医療以外の時間貧乏。
生きることに賢すぎる女性からは、条件的に却下!(**!
仕事さえあればという、、、母からは、、、寂しすぎる人生。
女房、子供を世話する暇が無いという事だけは解るから、
結婚をする意思のない息子ですが、、、
私の母の音楽性のようなひらめきの在る息子が
自分の遺伝子をこの世に残さないで
医師の仕事に捧げてしまい、
せっかくのユニークな
他人には見えない、感性が、
一代で終わってしまうかと思うと、
、
医師をするという行動に威儀を感じてくれて、
手伝う裏方に生きがいを感じてくれるような
家庭的な優しさや見返りを期待しないで
人生を応援してくれる、、、奇特な娘さんが現れない限り、
結婚はありえないという、、、
二人が引き合うという、若さだけが総てという時代。
天与の結婚シーズンのチャンスを逃してしまった息子は
自分を愛してくれる家庭が無いから、、、
100まで、、、生きろ!
そして、東京の婆ちゃんのように
3日寝て、苦しまずに旅に発て!」
聴こえてくるような気がする。
「働きかた改革の成立後も、、、その法律は届かない仕事場であることだけは確かです。」
母の葬式には、
戦後我が家に居候をしていた3姉妹が6人家族や5人家族で
母の眠る笑顔のそばに居て、
子供たちが騒いでいました。
弟の娘が大きな声で言いました。
「みなさん!!!!静かにしてください!!
おばあちゃまが眠れません!起きてしまいます。」
しんみりとした時間は無くて、
皆笑った。
居候だった従妹の姉妹は娘以上に娘だったようだ。
「伯母ちゃん、、、ありがとう、、、本当にありがとう、、、」
居候だった3姉妹の長女で
、大きな病院の息子と結婚して
イタリアンレストランを経営して、
ゴルフはシングルという、、、
セレブに成長した、、、かっての居候さんは
「社員連れて、北海道の貴女の家の近くの紅桜のお茶室に寄ったとき
よっぽど、電話しようと思ったんだけれど、、、出来なかったわ、、、
ごめんね、、、伯母ちゃんをとってしまっていたから。」
「。。。。。」
答えようがなかった。
母は、誰も私からとってしまう事は出来ません。
母は、フアッションナブルで
センスが良くて、
宝塚に入りたい、、、などと、
居候の環境で、華やかな夢に走る貴女が、好きだったのだと思いますよ。
理科系の私が、好きではなかっただけだと思います。
私は母が好きでしたが、、、
接点が無かったから、、、
居てくれるだけでよかった。
父の亡くなった後、
母が自分で働いたお金で購入したヤマハのグランドピアノと
アップライトのピアノが3台有った。
母が亡くなったとき、
このピアノは
お弟子さんに届けられた。
一台は老人ホームに行ったらしい。
母のピアノのキーが
象牙だったことに気が付いている人はいたのだろうか?
子供の頃に右手を火傷した私には
娘は右手を火傷していたから
グランドピアノは不要だと思ったのかもしれません。
弾きこなせるお弟子さんのもとにと、
ピアノは母が死んだ後も、、、生き続ける。
昔の人たちは、
知恵の塊のように
無駄な動きが無かったと、、、敬服するのです。
私が、、、死んだら、、、孫たちはきてくれるでしょうか?
滝野でクマの親子を遠くに観乍ら
私の事を誰も知らない北海道の地が、、、私を包んでくれるだろうか、、、?
医師を連れて行けなかった私には
故郷には居場所が無いから、、、
医者の家庭って
目に見えない、守るベースがあてがわれているように思います。
医師をすることを援助する以外の居場所は見つからないのが
医師の家に生まれて娘の宿命ですね。
女医になると、、、居場所が出来るかもしれませんが、、、
その時は家族としての居場所ではなくて、
医師としての居場所になるから、、、
今度はサポーターを求めて、
男性医師の10倍は頑張らないと、、、
男性社会の医療界は、、、どなたも、頑張るしかありません。
母のように、、、自分に生きると、、、
夫からは早く別れることになるかもしれませんね。
忠ならんとすれば,、、考ならず、、、
考ならんとすれば、、、
孤独な主婦の
閉じ込められたような家事の僕。
老人で、
見事に生きた人の知恵が
いただきたい
75歳の婆ちゃんのたわごとでした。」
これは、、、日記です
台風被害に胸が苦しくなるようなニュースの中で
千葉は24歳になるまでは、
何かとゆかりの在る地域でした。
母校の日大も薬学部は千葉に移りました。
さすが千葉!
薬草園にはユリの樹なども、スクスクト育てられていました。
兄弟も親友も勤務先が千葉にあります。
作物も、果物も、それh豊かな地域があり
今回の台風では、、、作物の被害も大変だったと
お見舞い申し上げます。
今日は、、、とうちゃこの爺ちゃんと
タイのコメの収穫から白米が出来上がるまでをTVで観れました。
旧き時代の伝統を守って米を作り
助け合いながら収穫から精米までを
村中の人の協力でつくる、
コメ作りのリーダーの男性は祈りの中で
天の下されたコメをつくる
竹の中にいれて、、、程よく書くのだった。
竹の内側の幕が苔を撒いて焼き上がりだそうである、
村人のリーダーは「インタビュー」に答えた。
女房は代わりがある、
子供はつくれる、、、
「@伝統のコメ作りは、私にとって家庭より大切。
現地の、かなりハンサムなリーダーが答えた」
仕事では? 支援崇拝の祈りでは?
幸せという状態はどんな状態なのか?
漢字をしばらく見つめていた。
土、、、立つ、、、¥計算とは違うようだ、、、辛い、、、という字も入っている。
上下に「+」という記号とも考えられる。
そうなると真ん中の_土台のような字は見たことが無い。
土が上下にひっくりかえって、日本の||縦線で結ばれている。
土を盛ったり、、、掘ったり、、、二人の人が助け合って立っているのかな?
人間も75歳になると「幸せ」って言う字が気になることが有る。
無我夢中で生きてきた戦後の昭和20年代から
75年間も経ったなんて、、、時間の速さに驚きますね。
生きるために生きた、、、戦後の助け合い。
食べ物のなかった時代、、、
栗の実を一生懸命剥いて、「栗色は栗にしかない、、、美味しい色!」
山に入って「ヤマモモの実を食べた子供のころ、、、」
夕方、小魚を餌に、ウグイが釣れた時
早朝の川で、昨日の夕方仕掛けた「ウナギ籠」に
ウナギがいっぱい入っていた時、、、
、、、、、、
子供の頃の幸せは笑顔とともに、いつも一緒だったような気がする。
幸せという事をことさら考えて生きていたわけではなかったが
終戦から、「もう一度日本!」と、
闇市や、屋台や、寅さんの世界があっちにも、こっちにもあった時代に
一握りの人たちだけが、世界の中の日本という事に気が付いていたようだった。
湯川秀樹博士が「ノーベル賞を授与されました。」
ノーベル賞って???何ですか?
「偉い!」という賞や(^^
野口英世とどっちが偉いんや?
、、、解らん???
それからは「秀樹」という名前の子供がいっぱいやった。
右往左往しながら、眼から鱗を落としながら歩いた75歳まで
「幸せ」という字も、
幸せという」ことも、
とりわけ考えていた時間が有ったことは記憶にない。
「生きる為に生きた、、、」
父親が戦場から帰ってきた「医師」だった。
傷痍軍人や、戦後のエポックの中で
青白きインテリが、吹き溜まりになっていた時代に
医師という職業は必要とされた。
疎開先の町立の医療施設には
毎日、早朝から、深夜まで、患者さんが来ていた。
疎開先自体にはもともと、100軒も家が有っただろうか?
疎開の人たちで、
にわかに
3000人ぐらいは
住んでいたと思い出の中の記憶である。
にわかに、村は騒がしくなり
祭りの太鼓も響く村に、私は幼い時代の「幸せをもらっていた」と
振り返ると、、、「幸せ」は
大勢の人々の「復興」への勢いの中にあったような気がしてきます。
つづく
医師の家に生まれてしまった以上は
自分が医師になるか、
医師と結婚して、医師の父の一人ぼっちの大変さを救えるか?
自分の生まれた子供を、
「医師になりたい」という希望を抱けるように
医師の息子が父親の日進月歩の医学のレベルが持てる環境をつくるか!?
普通ではない、、、孤独な切磋琢磨の父の背中を見ながら育てられた。
幸せとか、いい気になっている暇は無かった。
にわかにできた「疎開の町」の唯一の医師として、
夜も昼も、、、働く父は、
終戦からの復活を目指す勢いをつくり、健康を守り
精神を前向きに向かわせる大きな役割の中で生きていた。
父の、、、幸せって、、、なんだったのだろうか?
つづく
例えば、
TV画面に出てくる俳優さにゃ、女優さんを観ているうちに
その方の、親の顔が重ねて見えることが良くあります。
若大将のお顔は、、、白黒TV時代の
小桜さんが浮かんでくる、
上原さんとは親子というより
年の離れた兄弟のように受け止めてしまっていた。
北大路さんは、最近ますます、、、
市川歌右衛門さんが
大きな目で聴衆を自分に取り込んでいた時代劇が重なってくる。
ボケーとしたような演技の中に
わけのわからない魅力のある、、、駄菓子屋のおやじ、、、
「妹に、、、万引きさせるな、、、」と
家族でない家族のお兄ちゃんに、駄菓子をタダで売ってくれた、、爺ちゃん。
あの、人生の垢にまみれたような雰囲気の中で
人間が本来持っている個性が光っている、、、。
たぶん、、、あの俳優のお子さんではないかと思って
NHKの朝ドラの
姉妹の姉が、ミカンをつくり乍ら
ダメ男の旦那を一途に愛して、子供と待っていた時
帰ってきた、もとはボンボンのあの俳優は
たぶん、、、駄菓子屋の親父さんのむすこではないのかな~~?
おととい
樹木希林の追悼番組を観ていたら
お嬢さんが出てきて、、、お母さんの樹木希林さんとそっくりなので
びっくりしました。
遺伝、、、簡単に遺伝というけれども
生体内の遺伝子や、核酸の本を読んでいると
親が酒などを好んで帯びていると
遺伝子のモトのDNAが
酔っぱらってしまい
「矢でも鉄砲でも、、、持ってきやがれ、、、ウイ~」
「奥さんが、お酒は毒よと、御酢を飲ましたり、、、
漫画チックな発想でDNAを酔っ払いにしてしまうと
その時の
お子さんの構成要素のたんぱく質の申し送りを間違えてしまうとか、、、
「親の良いところばかり取って生まれてきたわね~~~」
DNAという味の素ならぬ遺伝の素になるたんぱく質が
酔っぱらって
あっちゃこっちゃから
メチルやら、リン酸やらくっつけてきては
本来はそっくりさんが生まれるかもしれない遺伝子の配列に
割り込み始めると、
ピュアなDNA同士が、異物のくっついた仲間から離れて
ピュアな同志がくっついて
次の時代の子供には
良い所ばかりを伝えてゆくから、、、
二代目は素敵な人が多いのかもしれない。
しかし、表には見えなくても、
伝えられなかったはずの親のDNAに入っている記憶は
2代目のRNAによって、3代目にメッセージとして
遺伝は伝わり続けてゆくとしたら、
二代目が3代目の為に選ぶアミノ酸が20種類の中から
「このアミノ酸で、、、わが息子のタンパク質を創ることにする!」
身体の中に巣くっている先代のRNA≪りぽぞーむ≫と、二代目の中の
メッセージが会議を開き、
3代目の素材のアミノ酸をつないで、未来のタンパク質を形成してゆく。
人々の特徴は、何代もの間で、時間をかけて選ばれたアミノ酸から
DNAが作られ、、、メッセージされてゆくと考えると、
核家族の限界が解ってくるような気がします。
トンビが鷹を産むという事は
偶然ではないという事ですよね。
環境とは、ミクロに考えると
伝え続けられた、文化の伝承を、
いろいろな酒や、酢や調味料、、、はたまた文化という御馳走で
時間が支配した遺伝という特徴の中で
未来の世界に放つ子孫は「ドノたんぱく質にするか?」などと
各国の構成要素の中に選ばれてゆくアミノ酸が
穏やかな国民をつくりあげるという
戦争のない世界への布石は、
子育ての前直段階の
子づくリの素材から、選ばれる必要が出てくると思いますか?
私はわかりません
 ̄ ̄ ̄ ̄眠くなってしまった、
アクセスは0の日記を書いてしまった、
自問自答してしまった、
若さは、、、二度と、、、戻っては来ない
千葉県で風速50メートルを超えた、、、!!!
台風という人類がコントロールできないであろう毎年の定期便。
備えても備えても、、、想定外の爪痕を残してゆく。
一方、、、小泉首相の時代の郵政改革は当時、
昭和生まれの私には、、、ドッキリの環境の改革だった。
明治維新からの国家の権力が
時の流れとともに、教育界にも、
政治にも、軍隊にも、
鎖国時代の日本には想像もつかない、、、
世界の中の日本という
座標を、国際的視点から自覚しなければならない近代化への激動。
日本は明治維新から、切磋琢磨の日々であったと
歴史を振り返りながらも、
先達の苦労が
想定外の自然災害並みであった事であろうと
日本人である日本という日の丸のもとに
日本を愛している国民の一人として
この,、、むつかしかったであろう
環境の激変にもかかわらず、
生き抜いてきた日本人の思考力は大切にしてゆきたいと思っている。
パラリンピックの選手の皆の努力をTVで観るにつけ
日本人の大切にしていることが
やがて、団塊の世代が老人大国の中枢になる時代も目前ですが
パラリンピックが成功すれば、
日本は平均寿命が100歳になっても
街は老人を生きてきた努力の証として受け入れるだろう。
環境問題は3世代先を見通して
世界から戦争、、、核戦争を無くさないと
地球そのものの先が見えない自然破壊となり、
太陽からの力の蓄電池のような
地球のパワーが「0」に向くのが見える。
中国の、開発も、後進国の開発も、
地球との共存をしぶとく考えて、植樹しながら、
アナログの感性を喪わないようにしないと
ITを使える人間が
ITに使われる計算しか出来ない合理的な地球に収れんしたとき
呼吸すら忘れてしまう。
「おもてなしの美人の奥様」
「新しい環境大臣」
若さこそ、3世代先を見通して、
何を残し、、なにを合理化してゆくのかで
日本人が日本の心を、、、エネルギー不滅の法則に合わせてゆくかは
若き時代のITをフルに使っても
なお、アナログの馨りと感触と感覚と五感で
宇宙と共存共栄してゆく時代が来るのか来ないのか。。。?!
手塚治虫氏のロック冒険記から、月世界旅行を
小学校入学前から読みながら
ブラックジャックの時代まで
やっぱり、、、人間の命、、、だと
その、アナログの感性こそ
環境大臣には必要な世界観になるのではなかろうか?
喜びとともにストレスは大きい結婚という
そして、新しい世代を担う子供の誕生を控えて、
個人的な産休というレベルは、
フル回転で、周りが手伝って、
物理的な煩雑さはクリヤーできると思いますので、
日本丸ごとの新世代の在り方の環境をテーマに
産休を、環境整備に使って、
一人では何もできない核家族の在り方を
老人になるものの意識改革から
祖父母の居る出産から3歳までの
日本人のアナログづくりに
一案を期待してしまいます。
未来への日本が、瑞瑞しい時代の中で
ITが世代の老化のマイナスを埋めてゆく環境を
あたらしいプラスのエネルギーとして
考えて行ける老若、障害、全て、ITでカバーして
頭能力や、メッセージ力を
あたらしい「エネルギー」として
プラスに回せる環境づくりが出来ると思いました。
政治音痴の私ですが、、、
落語を勉強してまで、街頭演説の聴衆を獲得したという
努力と、発想のユニークさと、
目線の高さ調節が自由自在の柔軟性のある若き人が
環境を、グローバルな感覚で、日本であり続けるという
次世代の環境を、
想定外の被害から守れる、総合的な視点で
調整区域を、緑の復活しやすい利用を考えて
住宅からくる、世代ごとに住宅ローンで終わってしまう人生から
救い出してほしいと思います。
太陽パネルの3日分の電気を確保する建築を推奨してゆくのも
次世代の建築かもしれませんよね。
何を書いていたのか解らなくなりました。
とりあえず、、、若い大臣が一人入ったことは
未来の日本を頼みたくなるのは
婆ちゃんの自然な心ですよね。
子育てなら、私が引き受けてあげるから、、、
素敵な二人は、、、仕事を続けてほしい、、、って
言える婆ちゃんになれたら、、、心はリッチですよね。
歳を重ねても、、、必要とされるなんて、、、素敵なことかもしれません。
これは、、、個人的な日記帳の、、、メモです。
ゆとりのある日に、、、書き直しますね。
五分の一位の文にまとめますね。
言いたい放題は、家族に向けてだから、、、思ったことを
書いてますが、、、根拠はありません、、、悪しからず。
今回の千葉の台風は
風速50メートルを超える瞬間風速であった事が報道されました。
千葉の親戚にメールで安否を尋ねました。
しばらくして、返事が返ってきたので、ほっとしましたが
大きな大木が倒れて、
信号機などの壊れたモノが
二次的な事故を引き起こさなければ良いと
案じながらも
立ち上がるのには皆も結束してゆかねば
自然の力にねじ伏せられそうだと
目下の、、、ほやほやの、、、驚きが伝わってきました。
日本は島国であることかして
心の結束は強いはず。
ゆっくり、、、長いスパンで、、、
復活の心にパワーを送り届けたいものです。
当事者でなければ、脇からは
お見舞いを申し上げるしかできなかった、、、
今日の千葉の台風は大変でしたね、
結婚しない女性
結婚しない男性、
父親の価値観に支配されない男の子
結婚当初から、
旦那になる男性は「私の男」、、、でも姑はライバル
舅は、嫁さんを娘と思って他人であるという基本を忘れがち
「キタキツネ物語」を小学生の時息子と観に行ったばっかりに、、、
古巣に帰ったキツネは生きられないと思い込む男の子のまま成人したとき。
結婚してくださいと、プロポーズが出来ない男の自尊心と貧しさとファショ
結婚は子供を産み育てる女性の仕事場?環境を選ぶ熟女。
「春日のお局」の本心と義務と権力と歴史秘話と。
大学受験に躓いた親類の子供と
親に逢いたくない合格までの日々と、親離れ親戚離れの新生活。
つづく
この方を「初心者の写真」というサイトの名前で紹介するのは
ご本人がつけたサイトの名前を尊重しています。
初心者どころか!。。。。
素晴らしい写真です。
私は、、、折に触れて拝見しては、、、
深く感動する、、、
火と金属が創りだす
炎色が描く夜空は
一瞬の夢の芸術だと思います。
花火に命を懸ける人生って、、、
粋な心の一途な思いが昇華して
一瞬の心の華を空いっぱいに描き出し
万人聴衆の心は
夜空の幻の世界とのエクスタシー
恋の炎で焼き尽くしてしまう瞬発!
余韻の煙が流れてゆく。
夜空と恋の一夜を過ごしています。
ぜひ、、、あなたも、
このサイトをクリックしてみてはいかが?
75歳という年齢は、記憶力にとっては強敵ですね。
毎日更新しようと、日記を書いていた日々がストップモーションになりました。
IDも忘れてしまい、
パスワードも忘れてしまい
スタッフの皆様にメールで教えていただき、
結局、慣れていた記憶に任せて、
変更する前のIDとパスワードで
やっと、書き込みできるページが
今、、、ログインでき☜
ありのままの75歳の
アンポンタンな顛末を記しています。
このパソコンは店頭品を割引で買ったことも
原因なのかもしれませんが
全然メールの設定が思うようにできなくて、
メルアドが、初めの2回ぐらい受け付けられたまま
メールの設定が作動しなくなりました。
仕方がないので、ウインドウ7のミニパソコンで
メールを受けながら、めちゃ遅い7のおかげで
ログインできなくて、
「ロボットではありません」の
タイル画面を一晩クリックして、
結局、ウインドウ7からはログインできなくて、
goスタッフさんのリードで、パスワードやIDを変更したのですが
ヤっぱり、、、ログインできなくて、
ロボットではありませんのテストばかり受けて
「新しいブログを、ウィンドウ7に開きました、、、が」
今日になって、4年ぐらい前のIDと
変更前のパスワードで
やっと、今、今、今、書いているページにたどり着きました。
一晩、、、朝まで、、、サポーターのなくなりそうな
ウインドウ7で格闘しました。
今年中に、パソコンを変えるつもりですが、
今使っている東芝のパソコンは、、、とうとう、、、
メールが使えないまま、
検索機能が優れていつ為、
道新の北大アカデミーの講義の専門用語の検索に
素晴らしい家庭教師と思えるほど
なんでも教えてくれています。
メールが通じれば、、、パソコンも一台で済むし、
goのスタッフさんも、、、混乱させないで済むのですが、
ウィンドウ10のデスクを入れてバージョンアップすると
もっと混乱しそうで、
孤独なストラグルを続け乍らも
このブログがログインできることが
目下、日記帳になってもらって、
主人専用の主婦という
閉じ込められた人生も
頭だけは解放されて、
ブログには、、、感謝しています。
息子が静岡に居るので、
雪融けの春に
いつも富士山を観に行きます。
今回は、息子が担当している教室員が
何やら、、、難しい認定試験に受かったそうで
息子が恒例の北海道のメロンを
皆で食べたいというので、
道新さんがスペシャルなメロンを送ってくれるように
手配しました。
例年のような。夕張メロンの時期は過ぎていますので
別の種類のまろやかな味と
芳醇な香りの比布エレキバンで有名になった「比布」の
ミツバチによる自然交配の有機肥料農家の
サーモンピンクの果樹の果肉の「甘雫あましずく」を
産地直送で送りました。
本人も、頑張ってきただけに、
同僚と、合格メロンを食べてほしいと思います。
又、息子の仕事は、技師さんが人生の相棒だとか、、、
いつも、技師さんの頑張りを話してくれますので、
そちらにも、息子から、合格で、皆で騒ぐメロンをという事で
北海道のエースの地元紙の
道新さんに発送依頼を産地直送でしましたから
静岡のネットメロンとは、又!!!一味違った北国の味がしますよ!
このブログは、家族、友人、息子たちと、絆になっていますよ。
楽しみにしていてね、!
早朝は3時には目が覚める。
そのまま、時間が貴重なので5時間ほど
アトランダムに作業に取り掛かる。
計画性は無い、、、
今日は1000円で駅前のワゴンのインスタント店舗で買ったリュックが
10年も使うと、裏地のポリ性の人工皮革もどきが風化してぽろぽろと落ち始めた。
私の寿命の在る間は、1000円リュックを背負って
マーケットに行くつもりだから、、、
物でも人間でも、その命は使い切るという
断捨離が出来ない性格で、
捨てないというだけの我が家は、雑品であふれている、
根拠はないが、一度買った物は、
その物の寿命が来るまで、買い替えない。
おのずと時代からはとり残されるが、
この年になると、なにも怖くありませんね、
夕方涼しくなってからマーケットまで
リュックを背負って、出かけるのは
散歩を兼ねた頭の体操をしているつもりです。
この店では、
買い物する物品はほとんど弁当や牛乳やパンばかりであるが、
手羽の炭火焼きn
目の前で半額シールを張り付けてくれるから、
明日の昼食に買って帰ることがおおい。
つづく