花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

6連覇 内村航平 体操選手!

2015-10-31 07:01:03 | Weblog





トランポリンの少年 体操に鳥のような少年が現れて、

楽しい、、、そして、8年

着地が、ひときわ美しく

体操の動き、静止の着地!

この芸術のような、動と静!

私はいつも、年を忘れて

航平選手の、、、ファン

音楽も、瞬間の芸術!

体操が芸術!

絵画のような 静と動!

昨日は、早々と眠り、

早朝、北海道はまだ、真っ暗。

となりでは、いびきが聴こえる。

美しい、ダイナミックな、動線と静止

彼の動きを光の帯で描き、
着地を
中心に向けて、
向かわせる
虹色の矢のラインの絵が
頭の中で出来上がる!

テレビが、こんなに楽しい朝を運んでくるなんて。!!!

まだまだ、長生きして、

オリンピックまでは、絶対に!!!

生きてることにした。

航平さん、輝いていましたよ。

この広い世界に、、たった一人、いるはずの女性

2015-10-22 08:08:34 | Weblog

幼いころは、かわいい子でした。

ややもすると長男に目を向けると、

「ママ!僕もここにいるよ!」

ひょうきんに、転がって、ママを喜ばせてくれた。

5歳の時は、もうバイエルをおしまいまで弾けました。

感性の豊かな子供でした。

子育て中、私はよくいけばなを飾りました。

息子は、大きなひまわりを一輪だけお皿に乗せて

机の上に持ってきました。

また、川で大きな鯉を釣ってきて、一生懸命飼っていました。

私は、鯉は普通の魚と違うから、

小さな水槽に入れるなら、メダカにしたら?

鯉は、川に戻しました。

私は、魚でいえば、自分は鮒だったと思います。

向上心もあり、滝登りも何度か試みた。

主婦は、家族の一大事になると
断腸の思いだが、、、家に帰る。
人生の、
大きなチャンスを3回中断してしまい、
職場を去っています。

私は、、、女性と違って後はない男たちに、、
身を引かざるを得ない状況で、
仕事を辞めて、家を守ってしまった。

女の守りは、
男たちは気が付かない。

薬剤師してた方が評価も受けるし、

社会に貢献できたはず。

いちおう、、、
居場所もあったはず。

しかし、、、
家庭は免許集団である一芸しかできない
サーカスのようです。
全員が、
家庭より職場に責任のある仕事をしている。

医者をする以外、
一切家庭に時間を提供しない夫が問題である。

医師としては患者さま第一の行動に徹しているから。

合格。

しかし家庭人としては、どうだろうか?

自分が看板を背負っている家庭であるから、

女房の自立は不都合である。
結婚前には、しょっちゅ行ってたゴルフも
結婚して今日まで一度も行かなかった。

ゴルフは長時間家を空けるから。

私のゴルフバックが
夫の手で処理された。


家庭を、丸投げで守らせながら、
出来て当たり前というワンマン。
昭和生まれは、戦中の教育が残っているのか?
女性は一段低い存在であった。

医師自身は

日頃のストレスがすごい人種だと知ってはいる。
育った家庭もそうだった。

特に内科医の兄は、ストレス饅頭のようで、
「アン」の代わりにトンガラシが入っていた。
ストレス中は、まったく寄り付けなかった。

医師になるのも全力だった。
医師をすることを続けるには
女房の、稼ぐお金も、
女房の、家事の手腕も、
医師以外の人たちへの外交の一切も
至極当然と言わんばかりに、
女房がやらねば、半永久的に
手つかずのままになるだろう。

一度は、女房側の家に入って手伝うと言ったことが、
内科医の兄にとって、
すっぽかされた恋人のように
悔しい思いを与えてしまった。
まるで、、、ラブレターのように、
いつ帰って来ても
即座に病院長代行が、
その日から勤まるように???

決算表から、23人雇っていた看護師さんの待遇まで
事細かな報告が、届いた。

私も、、、
いつになったら東京に帰ると言い出すかと
兄からの書類を整理しては、
分類してまとめていた。

しかし、、、
北大を卒業したという事は、、、
税金で医師になれたという事かもしれません。

無給医とはいえ、
なすべき仕事がふえつづけ、
自宅にも、真夜中に、

汚れた白衣(実験様白衣)で
夜食を食べに来たと思うと

実験中だからと、
大学に帰って行った。

もともと、
風呂のないアパートを借りているから
銭湯にも行けない勤務時間なので

多分、手術の手伝いについた後
大学のお風呂に入っているのかもしれません。

結婚のとき、東京に居た私に代わって
「アパートは、手頃なのを探したから、、、」
夫の探したアパートは、風呂がなかった。

外科医は、病院で、風呂に入れるのかも
しれません。

結婚の、何たるかも考えないで、
父の残して行った「外科の患者さん」を
引き受けて、東京に帰ると、
母との契約で、私は北海道に外科医を迎えに
結婚という「絆」が、必要だった。

恋愛や、お付き合いや、出逢いのない
東京に帰るつもりの外科医と、

病院存続のための、外科医を迎える者の結婚でした。

一個人の医療施設に、勤続する医師を迎えることは
結婚以外には、ありえない時代でした。

私は、「信用結婚」も否定はしていなかった。
結婚してからも、

仕事場第一の、不規則な帰宅時間の
自分ンを完成することしか頭にない
外科医のヒナ時代は

思いやりの欠片もない結婚生活でした。

ほとんど、
一緒に食事をしたことがありません。

「自分がそんなに可愛いの?子供はかわいくないの?」

1歳を過ぎた長男は、
父の顔を見ると、ママの背中に逃げて隠れました。

もう、、、愚痴を言い出したらきりがないので、
あと一つだけ!!!聞いてください。

孤立した、転々と移動する北海道の冬、
2歳になろうとする頃でした。

指をガーゼでまいて、お休み前の
息子の口のなかを拭いていた時、
「あーん」と開いた口腔内のほっぺの裏に
赤い斑点が出来ているのです。

「はしかだ!」とっさに思った。
しかし熱はない。
明日には、高熱が出てくる!

早朝、遅番出勤の夫に、「はしかかもしれない!?」

医師に見せたい!と言ったのです。

夫は、「熱はないんだろう?」、、「でも、、」

「はしかなら、高熱が出るよ、、」
そのまま、車で15分の北大に、一人で
いつものように出勤していったのでした。

とにかく、、、戸倉先生の所へ行こう、、、

「雪の中、ベビーバギーに、
おむつと、
離乳食と
防寒着、、
もろもろで包み

北大より手前にある
医療ビルの
戸倉先生の所に駆け込みました。

「先生!はしかの前触れです!解熱剤を処方してください!」

先生は、、、
「ほう、、、」と口の中をのどきこみ。。
「確かに、、、発疹があるね~~~」

「麻疹かもしれないし、、、突発性のものかもしれないが、、、」

「お母さんは、神経質だねー!、ピリピリしてるとよくないよ。」
「麻疹だと、熱が出てくるから、
どんどん冷やして何日か過ぎると
治るから、、、
今は、麻疹じゃ死なないから、、、」と

「まあ、、、お母さんが要るというんだから、

念のため、余病が重ならないように、

抗生剤の中に、解熱剤を混ぜた薬を処方したから
熱が出たら、、、
体を冷やしておでこを特に冷やして、
気長に、頑張ってね!、、
熱が出てきたら、もう一度いらっしゃい。」

麻疹なんか、見飽きたという
緊張感のない診断を眠そうに答えてくれた。

「私は、拍子向けしたが、
気持ちは落ち着き、帰宅した。」

その夜!熱が出てきた。
真夜中には40度になった、

氷水で絞ったタオルをあでこに宛てると、
息子は、手で、端っこをつかんで、、、ポイ!と投げる。
私はまた、おでこに戻す。、、、また投げる。

こんなに、、高熱なのに
痙攣も来ない。甘いお薬は喜んで飲む。

次の日も、次の日も熱は下がらない。
そして、全身に発赤が出始め、熱は38度と下がり始めた。
何日たったのか、、、寝ないで、大格闘した記憶が今も新しい。

親が、あたふたと、心配と興奮で過ごした一週間だった。
記憶に残っているのは、いつものように、実験中という夫は
真夜中に帰ってきて、発熱状態や、発疹を一度調べただけで、
「典型的な麻疹の発疹だなー!」と言ったきりで、

「戸倉先生にかかっている」と、私が報告すると
「じゃー、安心だ、僕の出る幕じゃないな~~」と

ぐうぐう―寝てしまった。

「何が、、、『僕の出る幕じゃない』って言うのよ!」

「戸倉先生が、
名医なのかどうかの試験問題なら
あなたの答えは正解かもしれないけど!

あなたは、今、
麻疹で高熱の息子の父親です!。

朝まで、タオルを取り換える出番ですよ!」

真夜中に、40度の息子を目の前にして、、
こんな非常識な
試験問題の解答のような事を言って
評論家のように、
他人事の結論を出して、
寝ぼけてるのね!

父親の、
もっと他人事ではない、
「親身」な「親としての」味のある
心配な、言葉がかけられないの!!、、

「評論を頼んでいるのではないのよ!」

本気で、私は怒っていました。

彼は言うのです。

「僕はね、、、
家族以外の人に対しては、ドクターなんだよ。」

「家族に対しては、父親なんだよ。
だから、、、評論家みたいに
戸倉先生が名医だと聞いているから、
丸投げした方が、いいのさ。」

「何が、、、いいのさヨ!。
何を御託ならべてるのよ!。

こんな時、
「俺おれ流」の御託は聞きたくない。

しっかりほっぺくっつけて、
おでこくっつけて、
息子に、父親としての親身なパワーを与えてよ!」


しかし、、翌日も、
夫は車を置いて行ってくれませんでした。

北大に行く途中に
戸倉先生のクリニックがあるんだから
載せていってくれるのが思いやりのある父親で、
車を置いてゆくかが、
「普通の父親」のすることでしょう?

私は、悔しく思った。
彼は、自分が医師であることの方が
意識の主体なのだと言っているのと同じです。

彼にとって、家族の為に知りうる医学の知識を
他人には駆使できても、

家族には、駆使できないという。
つまり、、、
家族は、彼にとって患者さんには成りえない存在なんだと
。。。。
それでは船が沈みそうな揺れを感じたら
船長さんは逃げ出したのと同じではありませんか?

私の父は、弟が麻疹の時、
鼻が詰まって、呼吸が苦しそうだったのを見て

急を要すると判断したのか???
口で、鼻を吸い取ってしまい。膿盆に吐き出していた。

子供心に、、、「汚い!」と思ったけど。。。

成人してからは
父の弟への並々ならない「愛だったのだ!」と、
記憶からは、薄れない出来事だった。

その点、実家でお産して、3か月間育ててから
札幌入りしたこともあり、
父親として、まだ?
夫はピンと来てないのかもしれません。

思い知らされた出来事でした。
家族を守る捨て身の愛が無いんだと、
がっかりしました。

       (;-)

彼の患者様は、北大で、
彼もふくめたチームを待っている人なんです。

そして、彼にとって、
育児の全責任は、家内の仕事であり、
妻は、家庭の全責任者として、
依存しているのだと
一瞬思いました。

父親としては、何たる未熟。

医師をするためには、なくてはならない機械であり
洗濯機など、機械を動かす機械を探していたら
手頃な、君が見つかったと、
云われたような苛立ちでした。、、

もう!、、、旦那は、
家庭の運営には戦力としては、全く宛てに出来ない。
全く!戦力にはならない人だと、
常々腹が立っていたけど。。。

他人様からは、

「自宅にお医者さんがいて、奥さんは幸せね!」

いつも、周りからは言われているのに
この!、、、役立たず!、、

私は、
本当に怒りが噴出した思い出です。

     (;;)   (**!

一方、、、
外顔(そとづら)が良いというのか!!!

「家内も役割仕事」と割り切らないと、
感情を入れて、
事に当たると失敗する例もあります。

私が、評論家にならないと、
クリヤーしにくい場合が、あるのです。、、、
こんな事が、
結構たくさん思い出されます。

いくら断っても、
外科という性質上


「手術で命を救われた」という

******* 劇的な、瞬間に*****

        直面することがあると聞きました。*****


患者様は興奮する感謝が
湧き出るのは仕方がない。

その反動で、
「心が逆境のストレス」を弱者に向ける
よくあるパターン。
私が個人的にそのように解釈した例です

ローテンションで
一般の中小の病院で
外科の胃腸の手術をしていたころの時代でした。

贈り物お断りが張り紙してある院内でした。

病院では断られたから、、と

「自分で作ったものなら、先生へのお礼が出来ると思います。」

空き缶を細かい千切りにして、上層部をねじった作品とか、
ご自分で作った「つまみ画」とか

花柄の刺繍のクッションとか、

木材をカットした、売れそうなほど良くできた作品とか、、、

お返しするには、

かえって、、、、、、、、?????、

医療上の回復の心理を妨げる恐れがあるのでは?
   
。。。。。という思いがが絡みます。

夫は勤務先の決まり事なので、、
絶対にお礼状は書きません。

忙しいから、
君がやってくれることには異存はない。」と
かなりの幅のある返事です、

送って下さった方は、
完治してない病人です!

自分が先生に伝えたい心を、
こんなにも内向した作品で伝えてくるのに

臨床心理士さんなら、
何とおっしゃるでしょうね?、

「その心に寄り添いつつ
受け取る方が治療でしょうと、
そのように考えるとおもわない?」
、、
夫に言うと、「、、、、ン」

「僕は外科医だから、心までは解らない、」、と言う。

「それほどいうなら、
君が、作品は着きましたと、
お礼状を書けばいいだろう。僕は、、困る。」

  (**    (++

そういうわけで、
ささやかなお礼状に
返事する役が家内に回ってくる。

中には、、
「先生に差し上げたのに。
奥さんがでしゃばって
お礼状を書くことはありません。」

わざわざ、おこって、はがきをくれる人もいます。

病気の人の心理がよく出ています。
正直です。
病状を考えると、
先生が頼りなのでしょうね。

解ります。。。この心理!
送り主にとって、お邪魔虫の奥さんが、

客観的に処理しなくてはならないのが、
家内の役目でした。

「先生には、私の感謝の作品が届いたのでしょうか?
奥さんにさしあげたのではないのです。」

電話で文句を言ってくる人には

「もちろんですとも。先生の、
机の棚の一番見えるところに
飾らせてもらっていますから、
先生も、ほめていました、
職人さんみたいに
上手だって言ってましたよ。」

「夫は時間貧乏でしょう。
せっかくの作品ですから、
着きましたよ、、と
安心していただきたかったのですよ。」

多分この患者様は
普段プライドが高いのに
病気という受け身になり、
仕方なく、医者の指示に従い
プライドが保てない、
依存状態に落ち込んでいるのでしょう。

そこで、自分を取り戻す唯一のことは

医者を驚かせるような作品で、
病気と闘い、自分のプライドを
取り戻せるのかもしれません。
患者としてではなく、
人間の自分をアピールしたい心境に
なったのかもしれません!?

病気。。。悔しい思いが、、伝わってきます。

人間って、、、勝気ですからね。

「私は、吹き流しのように、
夫との人生は、
八方敗れの「感情爆弾の処理班です。」

金持ちでもない医師が、
なんで、、月給が少しばかり高いと、
マークされるか?

病人という、つらい立場の人間から

必要な経費を払ってもらう立場に
立たされているということでしょうか?

治療費は、日本は

世界のどの国にも負けない安いシステムです。

それらは、
日進月歩の医学に遅れをとらないように、
医療機械や。
使いこなす学習や、
購入費用や学会参加や発表の為に費やされていった。、

たとえば、
心臓の手術にしても。
一斉風慰したと、夫から聞いていた
「コルディスの人工弁」は
もう、、
ほとんど日本では使われていないと
新しい手術だと、脚光を浴びるのも
次の発表が出てくると
旧いと言われる手術の方法で
使っていた実績のある「人工弁」も
機械もすべて、ゴミの山となってゆく。

人工心肺を回せるのは
臨床工学士の学校を出て
免許のある技師さんが担当していると
聞き及んでいます。

そうした学校を維持するのは、
医療費にはどのように
関与してくるのでしょうか?

薬科大学も、
医学校も、
医療関係の免許集団の費用は、
家族の協力がないと。、、
医療に関与する家庭がかなりの負担で、金銭は
業界内の関係者が、業界を支えるように
ロンダリングしていることにきがつきませんか?
高額な医学書は10年で時代に置き去られるためか
生涯の受験生を抱えたような出費と背中合わせに
颯爽とした、
信頼される医師をする事や、
医師が成り立っているという事は

内側から見ると、
勉強マシーンのようです、

全日本、全世界に
名を知られた先生たちは、、
怪物に見えます。


たとえば、怪物とは程遠い良医ですが、

たとえば、、、身近な例を言うなれば、、、
、、
我が家の愚息の二男
[謙遜語で息子のことは愚息というそうです。}(=-)

有名私立医科大学に受かったときのことです。

「先生、、、まさか、、金がないからって!!!
息子さんの、快挙を
、進学させないなんて言わないでくださいね!」

ご自分の長男は国立に受かっているから、
そんなこと言えるんですよね。」

しかし、
息子も、限界まで頑張ったのだから、

時の運もあるし、

私立とは言っても、
1,2、、を争う伝統ある学校だし!
東京大学より歴史は深い!
イギリスなら
国家が保存している病院であると思った。

さらに浪人しても、
来年合格とは限らない!

場合によっては、国立より「良医」になるかもしれない!

文庫本や、小説でも、息子の学校の歴史は
日本の医療の足跡のように読んでいて面白い。
明治の医学の黎明期のドイツ医学への向学など。

親も、金銭、授業料が云々と考えているより
全収入をかけても、若手を育てなければ、
国立を出してもらった者の役目だと、夫は言う。、

一度ローンの終わった家に
再びローンをかけて、20年払いにしました。

3年前にすべてのローンを終えたのですが。
知り合い縁者の応援金の返済が残っています。

一人の知り合いは年齢で痴呆になりました、
施設入居金の400万は、
来し方の感謝として払いました。
この方の父からは500万の応援をいただき
予備校に行っています。
地方になっても、、お返しです。


我が家の夫は、四人兄弟の、二男でした。
結婚当初は、高校生の弟もいました。
夫のお母さんからは、弟の進学もあるし、
娘の結婚もあるし、、、

「あなたには、二男ですから、息子を差し上げますから、
あなたの力で、立派な家庭に創り上げてください、
あなた方には、一切の迷惑もかけませんので
一切の後方の憂いはありませんので、、」

本州の実家から、切り離された、二男の夫は
3年以内には、家内の病院の外科を復興させる約束だった。

北海道大学大学院生の奨学生。
国のサポートで医学部を出してもらった医師が、
一開業医の外科医が早逝して、残された患者さんの為にも
北海道を離れて、個人の為に、東京に帰ってくるのは
虫の良すぎる話でした。

しかし、近視眼的に、
父の亡きあと、外科をどうするか、、、
内科医の兄と、母は、
夢のような若き外科医の出現に
現実と社会のシステムを考える余裕がなかったのでしょう,、

結婚までの準備も、
新婚の為の
北海道入りする費用は、
全部私の責任となりました!
速く過ぎてほしい!

無給医時代よ!!

「無給医時代よ!」

敗戦の日本だから?
皆貧乏の時代だから?
役に立たない技術未熟の若い医師は
先輩方の足手まといだから?

ひどい話ですよね。
単純運動量の月給があってもいいでしょう。
留守番役の女中さん並の給料があってもいいのでは?

研究に明け暮れてるのは
自分の時間を自分で使っているから??

無給医、、、

東京大学でも、青医連の学生が
スピーカーをもって騒いでいた時代ですから。

女性には理解に苦しむ家庭のピンチが続いた。

実家からは、
未来には仲間になるのだからと
仕送りをしてくれた、、、が

母が、夫の着物まで作って送って来たとき
一切袖を通さない夫を見ていて、
学閥に、気が付きました。

母の時代の医師を取り巻く環境と
夫を取り巻く環境が世代によっては
違う事にも気が付いた、

夫は。北海道を選んだ!、、と。
母を、だますことになるだろう、、、と。

学閥の厳しさが、当時はありました。
よほど優秀でないと、
他の大学では、、、継子であると思った。
私は、途中で
母の援助を断り
アルバイトを始めた。

心の中で、、お母さんごめんなさい!
ミイラ取りが、、ミイラになるでしょう!、、と。

    艱難辛苦の時代が過ぎての後記高齢者となった、

、晩年離婚の長男に代わり、
父母の特別老人ホームへの入所。、施設費、

お見送り

お墓のことまで、
永代供養の手続きが、二男の夫に回ってきた。

痴呆になった兄の晩年離婚の都合で
夫も、弟さんも
父母の老後を支えあって、大変な出費でした、、
兄の代行で
、一切の出費もかかってきたというダブルピンチです。

東京の実家はその費用の一部として売り払った。

之で、、夫は、東京に帰りたいという
根拠地がきえた、

長男のお名前で、夫は父の葬儀も行った、
、全て、長男の名前で遂行したから、
私たちは
費用の半額を出した影のサポート。
回想お礼には、兄の名前がぽつりと書かれていた。

誰にも姿は認識されない参列者と同じである
、、が。費用だけは、痴呆の義兄は払えない。

医者は、若手を育てるのも人生の大仕事である。


子供たちの私立進学で大変な時も、
オカメから見えると
「、悠々、、、お金があるから、「あのひとたちは」よかしュ!

若手を育てることが使命と思っている夫は
どこからでもいい、お金をかき集めた。
医科の親戚が多いこともあり
卒業したら、返してくれればいいからと
貸してくれた。

入学金は

まさか、20年ローンで払ってるなんて思わないでしょうね。
まだまだ、やらねばならないことの多い
夫自身の医師をするための費用も必要である。。

その後息子からは、
あるとき払いするからと、、言ってきた。
卒業してからは、わずかづつ、
自宅の維持費と称して、2万づつ、
還してきた。

結婚祝いにと、そのまま貯金していたのだが、
今回、姿なき空間に、
日本の為につかってくれるというから
全部、支払った。

若い時は、、、、

唯一、社会的信用が、
ピンチを救ってくれました。
みんな、お金を貸してくれた。
若さがあった。

やっぱり!医師は、価値を知ってもらえていた。
無給時代は。借金経済をすることがしばしばあった、

世の中は、物や金銭を追いかけると
本末転倒になる。

そして後期高齢者になった今
働くことが、唯一、今の生活の支えとなった。

このように、、
医師の家には、見えない税金がかかってきます。
現場の苦労を理解できない怪物が
風評で、経済の地ならしをするかのように、
予期せぬ出費が重なった、

処理能力を身に着けて、
一瞬のうちに判断する気力が要りました。

来し方を考えると、
もう一度、主人とであっても、

絶対結婚しないと思うのですよネ。

好きだとか、恋をしたとか、
出逢ったとか、ときめきとは
全く縁のなかった生きるための結婚でした。
お互いに、、、。

戦後の本質的な貧乏が、心を度外視して
生きるために結婚していった時代でした。

主人にも片想いですが、芸大を卒業した
幼馴染がいたようですが、
水と油ぐらい違う、心の激しい芸術家ですから
同じ芸大の、ともに芸術をする人生を選ばれたと
夫はしょんぼりと語った。、、
「医者なんか、芸術家にとれば、スポンサーにも成れないさ!、、、
大金持ちでないと、芸大の芸術家とは、太刀打ちできないよ、、、」

さ、、、???それはどうかな?
医学以外は他人事の評論家のような夫の言う事は
発言の前に、わかってしまうほど、
適当な、マニュアルの正解というジャンルの言葉である。、、

私の処理能力としましては、これが限度ですから。
主人のような、社会的お化けでありながら、

昔の医師のように、
周りが、サポートしなくなった時代に、

戦後という「オール貧乏人」の時代に
医師になったものの、家庭を守るのは、

私ごときの処理能力ではつぶれてしまいます。

時代は「医者バカ」だけの素養では
生き残れない時代が来ています。

これに伴い、CT、医療機械、
60列、、、200列以上
600列?とか、ダヴィンチとか???
、、、、
病院の収入は医療機械の維持で、大変です。

患者様は、何千円カ払って、
「病院には金は払いたくない。」、、と
医師の家内という
「弱者」にぶっつけてくるのが現状です。

私は、われ関せずの免疫があるのは
医家の中で、もみくちゃになって
それでも自分流に生きてきたからかもしれません。

誰が間違いとか、、、誰が正しいとか、、、
正しいことが通用しないのが
「おとなのせかい」なのですから、
何者にも頼らず、一切の依存心を捨てて
欲張らず、奢らず、欲張らず、化粧をせず、
等身大の人生を、理解されなくても
他を理解する努力を惜しまず、
生涯。なんでも学び、一日を、きっちり頑張れば
明日のことは考えない。

ききわけの良い結果を余儀なくさせられる自分に
腹が立ちますが、、、

私たちが困っても、
誰も助けてくれないことだけは確かです。

私たちが、第3者の為に、
助けたいからというときは、
最終信用があるあなたたちの為にと、
助け舟は来ますが、
支払いは、我が家に来ます。

目立つ行動は、
ツケが来て、支払えないことが起きる前に
慎みます。

頼まれれば誠意を尽くします。

ですから我が家に限って
私が思ったままに表現するなら、

、医師の妻は、子供を産む機械であり、
育てる環境であり
、事細かに報告する事務であり、
いざというときは、
根こそぎ家庭の信用の為に
社会の化け物に、
姿なき怪盗に、吸い上げられるという
覚悟をもって、
人頼みをしない実力をつけないと、
生き残れません。


医師自身は草食の、、像さんです。

私は闘う事を覚えて

家畜から脱出せねばなりません。

どのような代償を請求されるかわかりませんが、

この世は、
裸で生まれ、裸で死ぬにですから、
ピエロの居ないサーカスは形になりません。
誰かが、家庭という、親類縁者という
血でつながったチームの絆の為には
ピエロを覚悟で、踊ることになります。

少なくとも
家庭を軸に
夫の勤務が、たとえば
救急や、外科である以上、
正月には「けがをしないでください」
「連休には、交通事故を起こさないでください。」

通用しません。
外科の先生は酒豪だと勘違いしている人もいます。
医局長,医長、部長、副院長時代、
一滴の酒も飲んだのを見たことがありません。
正月は、救急の出動に備えて
電話のそばで、うたたねスタイルです。

夫婦生活は子供を産む機械です。
愛は医療生活には邪魔な時間になりました。
銃後でご奉仕の、戦友ですが、
私からの一方的な見解でス。(^^!

夫は、待機して、家を守り便利屋であれば
顔は、●でも▽でも■でも良いのです。



「命と対面の医師である以上」
家内は、御庭番になってしまいます。
夫は、名刺一つ勝手に捨てても、気が付く人です。
掃除した後、
ホッチギスの金具が落ちてると
わざわざ見せに来ます。
時折、ガムテープで絨毯の上を
こすっています。

決して、高級でない我が家ですが、
掃除だけは、、、やむなく行き届かざるをえないのです。

ベットと壁の間に「輪ゴム」などや
洗濯バサミが落ちています。

掃除のとき、カタズけるのです。
故意なのか、偶然なのか、

主人は、輪ゴムの存在を認識しているのです。
女房を、家事に従事させる
「孫子の兵法」なのでしょうか?
明治の親に育てられているから、
女房の「私物化」と支配を免れるには
こちらにも知恵が要ります。

悪気じゃないのですが、
時代の、男尊女卑を免れないのですよね。
何一つ、自分の物はありません。
しいて言うなれば、全部、物は借り物です。
この世に、私の物は、、、使う力、駆使する力です。

どのように生きたか!
誰も評価しない、見えない家庭内で、
どのようなことに力注いで生きたかという
結果が、夫や子供によって表現されてゆくからには、

女の一生は、、、
他力本願に受け取られがちですよね。

「医師をする」、、、このことが出来た夫は
、物品的なことはともかく。

豊かな幸せな、恵まれた、

、本人が自覚していようと
いなかろうと

周りから支えられた
豊かな居場所であったことを
人生の終わりに振り返り、
妻は、洗濯機を動かす機械ではなかったと!
プロポーズのない、私の頭の上を飛び越した
生きるための結婚相手を、あなたが選ぶんではなくて、

出逢いたかったと思うんですよ。
2万5千円の、ホワイトゴールドの
0,002カラットの美しい白いダイヤは
もう、30年前に、力仕事で
節くれだった指には入らなくなっているのです・
外科医は指輪が邪魔という夫に代わって、
15サイズの夫の指輪を、中指にはめて
40年の月日が過ぎました。

愛が邪魔の外科医の妻の役をこなしたつもりが、
、、、
一人芝居のピエロであったのかもしれません。
誰でも、間に合う人であるなら、
良かったのかもしれません。


家内は、ため息をつくのです。

外科医は、、大変です。
息子は外科医ではありません。

ドクター年か接点はないのでは、、、と思います。

私の人生と人の人生は比べられない、
それぞれの花かもしれませんが

奥さんになる方は、

医療とは関係なく、
自分の好きなことをして、
気に入る生活をすれば、
幸せが来ると思います。

息子は医療社会的には
「サラブレッド」だと思います。

父は外科医、
おじいちゃんも外科医
叔父さんは
同じ科の先駆者で、宮様の賞もいただいているし

従妹は内科医。
母の兄つまりおじさんは内科医、
父親の従弟も女医

父親の叔父さんは産婦人科医で叙勲を受けている。
、母さんは薬剤師
母さんの兄さん夫婦も薬剤師、
、、、、家系としては

医療家族!臨床医と医学研究者の家族から
医者しか考えられない、生まれながらの
態度の、、、目線の高さは、
患者さん相手に、絶対の専門家としての
目線の高い、話し方をする
医師という主役を演じる人々の言葉を聞いて育った

先天性に近い尊大さが
患者さんからは頼もしく思われ、
同僚からは、なんだか知らんうちに
彼のペースに動かされ、

特殊なプライドのある人々からは
尊大に思われないように
離し方を磨くしかないと、
ママはハラハラ、、、ドキドキしてみています。

本当に、良い子だと、
そして、君をわかる人は、
本当に豊かで、育ちの良い素直な人だと
ママは信じている。

だから、君が、幸せになれるとピーンと来たら、
その人が、世代交代した後も
君と人生を共に生きる人です。

信じられる人を受け入れなさい。

医師以外のことで利益を追うと、
不必要な出費が、来ることが、世の常です、

医師の腕を磨き、医師をすることが
あなたの財産であることを、忘れないで、
健康に気を付けて、
自分の、担当の名医にまず、なって、
健康管理に、ベストを尽くすことが、
医師をすることですと、ママは思います。


君だけの為に、過去の日記帳となりました。
我が家の君は、、

医師しか勤まらないのではと思う。
医師としては

「サラブレッドの感性があると信じられる。」

それだけに「専門バカ」と言える。

他のジャンルのことは
幼稚園生へのいたわりが
君には必要かもしれません。

言わしてもらうなら

27~8歳のころは、
もったいないような「お嬢様からのアクセス」もいただいた。

医療に夢中だった本人の無頓着にあきれたのか、

やがて、そのお嬢様も、本来のお見合いで

立派な医師に嫁いでしまった。

あなたは、なんて鈍感でぐずだったの?
チャンスは一瞬の予感だと思うのよ!
断られてもいいじゃないの!
勇気を出して、自分の予感を
正直に話し
男なら、男からプロポーズすべきだと思うのよ。

今も、お見合い写真が数枚来てくれますが、
息子の写真を送ると
皆さん気に入ってくれます。
おかあさまから会いたいと言われてお会いしました。

しかし、、、息子は
「母さん、、、もう少しで博士号が取れるんだ。」
「面白い臨床例があるんだ」
、父さんに代わると
「父さん!すごいんだ、、、これこれ、、で
俺って、すごい救急患者を処置できたんだ!!」

「命と闘った!勝ったぞ!凄い実感があるんだ!」

そして、、、結婚の話は立ち消えです。

時間は待ってくれません、
時間は取り戻せません!
時間は君には優しくありません。
41歳は、すぐに結婚した方がいいという年齢です。
今度は、アンテナを磨いて、
すぐ近くに、お嫁さんになる人がいることを
キャッチしてください。

もしもこんな息子に、、惚れてくれて、
こんな息子でもいいと、
ひたすら、
構ってくれない家庭を、愛だけを信じて

私と仕事のどっちが大事?などと言わないで
運営していってもいいという
押しかけてくれる人が出てこない限り、

孫の顔は、、、生きてる間には見れそうもありません。

親から見ると、、
医療以外は、、臆病ですが、、
学ぶ心は100倍で、
音楽を愛し、芸術も愛し、文章も上手です。、、、
話も豊かな多岐にわたって表現できるのですが、
人の言う事を聞いてくれません。

聞き上手で、健康で、依存心が無くて、
息子を理解してくれる方が
たった一人、、この世に送り込んであると、、、
昨日も、夢枕に立って、
神様がおっしゃるのです。

自分に関心を注いでくれる
自分の事をいつも見ていてくれる、
相手を理解するより
理解されたい、、、欲張りな自己愛があるため、

無視されると、寂しくなる、、二男。
ママが、、、こんなに君を愛してるのに、
足りないと思うのは、

君は、、、与える愛を知らないからだと思います。
子供を持つと目覚めます!
与える愛にね。

君の運の強さを信じて、今日はおやすみなさい。


恍惚の人をNHKで見ました

2015-10-20 14:39:11 | Weblog

           



森繁さん!
デコちゃん!

私も、、、モシモシ、、、って
涙が出てきました。

若き日に、新橋演舞場に
森繁さんや、扇千景や、もりみつこさんの演劇を、
母と一緒に観劇に行きました。

国会議員様になるなんて、、、
かんがえられなかった !美しい人!

上品な、最高の「エロチックなスパッツ姿」の扇さんが
今でも、思い出されます。

当時から
ペーソスのある
「女性に傾いだ演技」が
笑いを渦巻かせた森繁さん!

森繁さんは、
サラリーマン自由人で、
最高の魅力ですね。

人間って!!!哀しい!!!哀しすぎる。


冬の仕度

2015-10-20 08:49:22 | Weblog

もう、、45年以上前のことになりますが、、、
そもそも私は、自然豊かな、南紀に生まれて、
世界遺産で知られる熊野の界隈で育ったのでした。

必ずやってくる台風
河原で遊んでいても、、、落雷の火柱を見た幼少の時代。

七か村一軒だけのなんでもできる、戦陣外科を体験した父。
肩から斜めに急所をはずして、穴が開き
雷の通過したやけどの村人が運ばれてきた。

発狂寸前の家族を前に
落ち着いた処置をして、命を救った父が、
私には「眩しい存在」であった。

私は、、、凄いお父さんを見た。

中学生から、幼稚園まで「縦関係で遊んでいた幸運児?」でした。

流れてきた丸太を皆で岸に引き寄せ
蔓で縛りいかだを作る。

乗る事を許してくれたので、
筏に這い上がれば、
深いところで、落っことされる。

もがいたもがいて、、、
泳げるようになった小学校入学前。

水を飲んで、犬かきなのか?背泳ぎなのか?わからない。
バタバタやっているうちに、疲れた頃、
力が抜けて、何もしなければ、鼻もおでこも、沈まないことを体験した。

それからは、兄たちに交じって、川渡りも、瀬渡りも、縁泳ぎも
渦からの抜け方も自分のやり方で体得した。
水泳の、基本を無視した、自己流の川泳ぎでした。
12月の、お兄ちゃんたちが敬遠する寒中水泳にも
焚火の温かい体験がしたくって、のこのこ仲間気取りで
潜っていた。

村のお兄ちゃんの友達が、箱メガネをくれた。
冬の川底は、結構いろんな生き物が生息していた。
南紀の冬は、北海道の春より暖かだった。

お兄ちゃんたちが、山の「そり道」を
木琴をたたくように跳んでわたる。

丸太と丸太の間が30センチ以上あって
私は、、、そこで置いてけぼり。
丸太にぶら下がっても、まだ、
背丈ほど下にある乾いた畑に、落っこちるように降りて、

とぼとぼと、落ちこぼれの一人ぼっちで、
竹藪を抜けて、岐路についた、
涙の悔しい一人ぼっちの体験。

冬はしもやけが出来ないように
マフラーと、手袋、

親たちが、冬の仕度をするのは

白菜の漬物。大根のすだれ。
我が家は、お正月の仕度が、騒々しいほど、
ドタバタと、村の、お手伝いのおばさんや、
親類や、遠縁の親戚が、忙しそうに働いていた。

母は、てきぱきと指示している。
初めは、人が思うように動いてくれなかったらしい。
父親(私の祖父)叔父さん(祖父の兄)の旅館で
板さんと一緒に仕事をして、調理師の免許を取得してから

周りのおばさんたちが、
「調理師さんだから、、奥さんは、、」
「指示されても、カチンと来なくなったのし」
スムースに、作業が行っていた。

「もろぶたいっぱいの食材」を、土間の台所に
高く積み上げ、
漬物も、入院患者さんの分も入れて
そこらじゅうがたるだらけになって
和気あいあいと仕事をしていた。

どんな人にも、プライドがある、
お金や権力で、人のほっぺたをたたくような人使いは
出来上がったものが、信用できないのよ。

心から、納得して、手伝ってくれる人使いはね、
使われる人のすべてを、自分で体験して、その
10倍の力を蓄えないと、人を動かすことはできないのよ。」

母は、明治生まれの女性とは思えない、
近代風な考えの女性の大将でした。

多くの女性たちは、戦争で夫君を失っていた。
それだけに、時として、嫉妬の矛先が
いたいけな、幼い娘に、
赤裸々に向けられることもあった。

「奥さんと私は、小学校の同級なのに、
奥さんは、得しておる!お父ちゃんが生きとったら、
使用人にならんでも、友達づきあい出来てるんやで!」

恨めしそうに、、、
「オンシャハ、生まれた時から、得ばっかりじゃ!」

きょとんとしている私の前で
急に、泣き出したりする人もいた。

戦争のもたらした、後遺症であったと
ふと、、、悪いのは戦争だと、思うのでした。

何よりも、嬉しかったのは
渋柿を剥く干し柿のすだれつくり。

甘くなるころは、落ち着かなかった。

婆ちゃんは、渋柿を焼酎に漬けていた。

そして、南紀ならではの!!!

アユのすだれ干す姿。

天井板のない、大きな丸太の交差する台所のかまど。
その周りに、アユのすだれが何枚もかけられて
正月を待つ。

冬の仕度は、、わくわくでした。

北海道では、大根を干したり
白菜を漬け込んだり、、

若い時は、近所のおばさんに教わって、
身欠きにしんを、米汁に付けて洗い。
大根の乱切り、ニンジンの千切り、きゃべつの乱切り

交差させながら漬け込み頑張った。
結局、しょっぱすぎたり市販の味に負けて、
正月は、お店で買って、少々となった。

東京を19歳で離れ、下宿していた夫も
人頼みの冬声で、冬の知識は「評論家の域を出ない。」

大学では、3か月ごとの移動。
地元の卒業生のように、
小学校から知り合いが同僚という
人間関係ではなかったが
医学部という性質上、
自治や、政治や、地方のしきたりには蚊帳の外に居て
本分に忠実に役目をこなせば
居場所はありました。

よそ者とは言っても
北大は、本州から、多くの学生を合格させていた。
主人は北大の大学院で博士号を取得している。

恐れ多くも、
陛下の御オペをされた「神の手の先生」の
手術を、わがことのように、
まんじりともしないで成功を祈っていました。

40年前、基礎的な実験で、犬を使って
バイパスの論文で博士号を取得したことも、
遠くから、大成功の喜びを
感じることが出来たのだと思います。

私は日大卒です。
今でこそ、陛下の玉体を治された、先生で
北海道にも、日大の知名度は広がって
同窓の私まで、
「日大の先生でしょう?陛下はお元気で何よりですね。」
、、、藤女子大を卒業された奥様が
私の住民権を認めてくださる発言に、
地方の、名門大学の「地方でのオキュペイション」は
ただならないものであると、

郷に入っては郷に従う知恵を学びました。

「よそ者」「おまけにアパート暮らし」

人間関係に、もしもカースト制のような
ピラミッドがあるとしたら、

底辺のグループに所属すると思うのです。

南紀から、故郷の東京に帰ったのが小学校6年生。

あの時は、すんなりと受け入れられて、
色々な県からの集合体の東京は

アメリカ並みの雑居人類が、それなりに共存出来た。

戦争前、東京都では先駆者だった
女学校の先生をしていた母のおかげで、
転校先の先生は、ことのほか、
母の勇気をほめてくださった。

いきなり学級委員に選ばれて、
思う存分、図書館活動もできた。

北海道では、、
言葉で「よそ者と分類」される。

奥さんの言葉、語尾が軽いね!?
何処からこしてきたん?

地元優先の強い絆が感じられる。

かなり長い間、要領の悪い生活に甘んじていた。

しかし、私は日大卒!

いたいた!北海道にも、日大卒は
ばっちりいました。

同期に近い人たちと、出逢うようになり
天街孤独の、育児戦争から解放されました。

冬の仕度も、うっかりすると落とし穴に落ちる
水道凍結や、凍結防御も教えてもらった。

玄関の鉢植えを、全滅させた初めての冬。

鉢植えは新聞にくるんで、鉢を二重にして部屋にとりこむ。
根元には、紅葉狩りした枯葉で覆う、

庭の木々は、竹をつかっれ雪囲いする。

窓は灯油を多く使わない為に
床から一メートルぐらい、
ベランダサイズのガラスを段ボールで
寒さのバリケードを作る。

今は、折り畳み式の「銀色スポンジついたてを使う。」
半分に横に切って、窓に沿ってスポンジ屏風をバリケードに使う。

ともかく、衣替えなどと、のんきだった本州の冬が
懐かしく、べそをかきながら、
冬の仕度に、ばっちり一か月以上、
上鵜労働が続いた。

自宅を持ってから、
本州では、人気の、しゃれた、シンプルな
ミサワを買った。

せめて家、、自宅ぐらいは
懐かしの、本州を感じて過ごしたいからね。

それほど、初めは、地元の季節の厳しさには
耐えがたいものがありました。

ミサワは結露が出るくらい、パネルが緻密で温かい。
しかし。豪雪地帯の北海道の雪の重みを知らない!!!!

冬を知らない屋根の長いデザインは、雪下ろしをしないと
屋根は、このようになりますが、之は目の前のお隣さんです。

借家なので、大家さんは、修復にも、補修にも応じないと
お隣さんは困っていました。

「出るに出られず、雪下ろしで上に登れば
オレごと落ちるだろうと、、

元どうりにするといっても、
俺のせいじゃないし、、
屋根がこんなになるなんて思っていたら
借りないよ!」

ことしの冬はどうなるのでしょうね。?

我が家でも、死ぬ思いの大きな氷塊が落ちて
下の部屋の二枚のガラスを破り
バウンドして、窓側に置いてあった勉強机を
反対サイドまで押しやって、椅子のおかげで
二人の息子の命は助かりました。

厳寒期なので、向日となりの大工さんが飛んで来てくれて
なおした後、天気回復してミサワが来た。

その時は、窓ガラスも、片方は波ガラス
片方は修理の普通のガラス。
桟は酒類の違う木材でなおし、
アルミの窓枠は。こつこつたたいて曲りを修復!

応急手当でしたが、雪害は屋根のみ認められました。

下の部屋の修理の30万は自前です。

若かったので、今もそのまま使っています。
お隣さんの大工さんのしてくれたことを
感謝があり、しいて強く言う気がなく覇気がない言い方で

之って、元のガラスにかえてもらえません?
見に来たミサワのアフターさんに言ったのですが、

お金のかかることは、手続きが大変だそうでした。
そういうわけで、今も、
氷塊の落ちた、窓の下のセメント部分が割れたまま

大成のコンクリーの30センチ四角のタイルを上に並べて
使ってます、、波打ってますけど、。

我が家は、こまめに雪下ろしをしていますが、
一夜で、気絶物の量の雪が降るときもある。

こまめに直さないでそのまま使うと
お隣さんの、今年の冬を超えるのは、

向こう三軒両となり、
皆、こそこそ心配していますが、、、

どうすることもできません。
どうしてあげることもできません。

落ち葉ぐらいはついでに片づけては挙げられますが。。。



本州からの、進出してくるホーム業者の皆さんに

冬対策、雪対策、換気対策、熱巡回で健康対策の
プロ的な設計で、進出してくださりますように。

平にお願いする者です。

、、、というのは。

家の維持は、設計と、施工に有りますが、
本州の進出業者さんの所には、

本州からの肝いりの大工さんを同行して、
雪対策の緻密な施工が必要だと痛感したのは
我が家のケースです。

雪対策の設計から外れた家を買うと、
後からの修理で、
もう一軒買うことが出来るぐらいかかります。

たなこさんはノイローゼになって本州に帰りました。

(++!

そして、、売れません。之は
同じミサワランドの、うちの二階から見えるお隣さんです。
入居されています。



之は、私の家の二階の屋根から見えた、
ミサワホームの、雪で耐えられなくなった軒と
トタンのバンキンが本州のやり方なので
すが漏れをして、
内側からも腐りが来て、
材木が弱くなったための
軒が落ちてぶら下がった写真です。
お知らせしたら、ミサワホームの建築士さんが飛んで来てくれて
一緒に撮った写真です。

この方は、去年豪雪で
私が屋根の雪をおろしきれない時
ヒビが入り始めたのを見て、
雪下ろしをしてくださいました。
スタッフは、本当に、、、いい方ばかりです。
お金があったら、もう一度
漏れないミサワを建てたいと思うほど、
理由はないのですが、、、
内部は、家庭を温かくする不思議な良い日本家屋です。

、、と、云うわけで、ミサワホームの会社にもありますが、

同時に私も「許可を得て撮影した」写真です。

全体を撮っても仕方ないので、
ミサワホーム共通の
軒のデザインが、
どのように雪害に弱いかが
判明するだけで良いと思いましたので、
必要以外の部分の
うつらない配慮をしました。

これからの、ミサワホームの参考になると思います。

現在、新しく建ち始めた近所のミサワの家は
箱型で、素晴らしいのですが、
日本の柔らかな感じのする、私の好きな屋根がありません。


ミサワの建築士さんが説明してくれました。
40年前の、施工と違って、
今はよくなっていますよ、。。とも。

しかし、私の時代は、工事に次ぐ工事で、
根本を気づいて治せるアフターサービスが居なくて、
何回も、
修復しながらも、
みしみしと、ヒビが入る
本州の設計は、雪国には適応しません。
浜のあれ狂う嵐の中に
白いスーツの、都会のダンディが、旅の軽装で立っているような
言わずにはいられない
解ってない、、、都会っ子の弱点があるのと似ています。

私の人生は、、、
人生の時間がリホームにかかりすぎます。

お金も何百万と、無駄な屋根修復になります。
疲労困憊して、大格闘の、冬支度ですが。

ことしも、屋根の雪下ろしかと思うと、
痛し痒しの、マイホームです。

売るにしても、更地にしてくださいという、、
買い手は、「こんなつぎはぎだらけの外観だと、
奈かは、そこそこ、建てた時のモダンがありますが、、
取っ払ってくださいという。

[++  (++   (‘‘  (**   どうする??

抱え込みになり、
水道も冬に耐えられる部分品でないため、

何処からともなく、ちょろちょろ漏れて、

原因がつかめません。

北海道の業者さんは、
水道管の暖房に、
冬は熱戦を播きつけているところもあるようです、

留萌に酋長の冬の三か月は、
一階水を出すごとに
地面地下深く、元栓をひねって落とし込むのですが。

ちょっとした外出には凍らない熱戦を巻いたり
セントラルヒーティングのレンガの暖房を利用して、
お湯をうまく使ったり

カナダや、ドイツの良いところを上手く応用していたり
家は、主婦の動線の延長と心得た
秀逸のデザインと機能を備えたものもあります。

地元の大工さんは、実に工夫していました。
地方の時代を担うミサワになってください。
本州生まれの、私の冬対策、!
参考になれば幸いです、

お片付け

2015-10-18 02:20:35 | Weblog





片づけの名手の本がベストセラーになっていますね!
いいことですよね!

片づけることは、時間を作る事でもありますし。

何よりも、

雑ぜればごみ、、、
整理して分類すれば貴重品になる事もあるし。

振り返れば、、

「薬剤師になるまでの実験は、お片付けから?」と

初めはそのように思っていた。
片づけテクニックの連日だった気がします。

大きな意味でも、小さな意味でも!

15種類ぐらいの、金属化合物を
混ぜこぜにした試験管が配られた。

一週間後には、分類して、化学式で種類別に表示する事。
入っていた金属名を記し、
必要に応じて再結晶して提示する事もある。
微量を定量して、提示する。

高校生のように、先生がやって見せてくれません。

分類に至った試薬を書き込み、

トーナメントの表のように勝ち残りの金属チームは沈殿として析出するから、
プロセスを化学式で解るように記入して
最後に残った金属を、「優勝チーム」のような沈殿物として回収する。

実験の間は、助手さんが、何人か、アドバイザーになるために、

生徒の間をうろうろしてるだけである。
先生というより、先輩たちというイメージでほんわかしています。

教授が教室内にいらっしゃるときの緊張感はありません。

大学では、絶対君主の教授は、実験の結果が提出できるまで
再会しないで、ご自身のお仕事に向かわれます。

実に、合格か落第かを握っている存在なので、
生徒にとっては、
緊張を見せないように頑張っても、
提出した結果の、質問に対しての
問答が終わると、ほっとしたものでした。

分類された結果が間違っていると、

     不合格。

結果が合っていると、合格です。

試薬の使い方や、手法や、
一部の実験器具は、ガラス管と、バーナーで
自分流にやりやすい器具を作ります。
加熱か、冷却か、詳細の指導は助手さんが教えてくれました。

助手さんは、女優さんも顔負けの美人が居ました。

器具の洗浄が完全でなかったときに、
誤差が出ます。
教授の入れなかった金属が析出したりすることもあり、
気が付くまでに、
何度も実験を繰り返すこともあった。

しまいには「クロム硫酸」という
なんでも、汚れは落としてしまう薬品に漬け込みました。

何日か、ほーっておいて、水洗いをします。
完了するまでには、、靴下があちこち穴が開きます。

個人差があり、要領の良い生徒は、
早々と、実験室から姿は消えていた。

人生のお片付けは、やはり、
ある種の分類だと思うのですよ。

そして、クリーンにすることが、
時間を貯金することだと、知りました。

お金をかけて、物として、
片付け業者の裁断に任せるのも一手であるが。

毎日、畳一畳分の
雑多な物を引き出して、分類して捨てるのも

過去との対話が出来ておつな物である。

片付けは、アルバムより、
過ぎし日の思い出を具体的に思い出させてくれるので、

若気の至らなさで、分類を間違ってしまい、
処遇を反省させられることもあり。

その時の若くて、
舞い上がって喜んだ事が
忘れたころに、大きなツケになって
追っかけてくることもある。

子供のころ、父からもらった本の中に
「牧野植物図鑑」があった。

当時は、白黒の図鑑であったため、
色を求めて、山歩きが趣味になったものだった。

日大の薬学部の生薬学の授業の事が思い出される。
滝戸教授は、生薬学会の会長もされた先生でしたが、

夏休みに
「100種類の薬草になる植物を、押し葉にして提出せよ!」という
宿題を出してきました。

薬草になる科ならないかはともかくとして、
三つ峠山、から、入って、裏日本の方へと
山を次々と探索しながら歩いた。
7月末から8月10日ぐらいまでの山は素晴らしい。

宿題をする目的が、まったく苦にならず、
山に導かれて、絶景を堪能した。

卒業してからも、
信州の山の夏を楽しんだ。

薬草はともかくとして、

燕尾センノウのオレンジの花に出逢ったときは
一句生まれた。詩も生まれた、。

入笠山では、ヤナギランの花の山に出逢った。
卒業後、東大の薬理の先生方と、鉢伏山にハイキングに行った。

知らぬが仏とは恐れ多いものです。

勤務先の先生方なので、
特に、日本の巨人であることは意識しませんでした。
仕事の延長で、教室全体のイベントだったので、
新参の私も、加わって、ついていきました。

後日、その先生方は、
日本の文化を支えている先生方だと知りました。

結婚して、何気なく新聞で知りました。
文化勲章の受賞を受けられていた。

また、他の大学から、
研究室に来ていらした先生方は、
母校に、戻られ医学部の教授になられていた。

同じ教室に居ても、
メビウスの輪のように、
裏サイドのラボランチは、
先生方との出会いは、ありません。

山という、大自然に放たれた人間界の巨匠の皆が、
まるで、幼稚園の遠足のように
山に抱かれ、解き放たれた笑顔が空に向けられ、

上役も、部下も、一切のこの世のルールはなく

天と地と、山と、小さな人間達という
至高の時間を体験できました。

日大で、教えていただいたことは
実は、学問というよりは、

何者にもとらわれず、
対象の山や、テーマや。興味が湧くものであれば、
とにかく、未知の世界に同行して、
新しいことを感動で吸収するという事だったかもしれません。

だからと言って、学術がなかったわけではありません。

滝戸先生は、植物を化学されて、

たとえば、お茶の葉なども、
中に入っている「タンニン」を。目で見せてくれる

ソノモノズバリ!の分類ができる指導をされていた。

食塩で造られた、レンズと出逢ったのも、実験室でした。

一方、若き日は、牧野博士らと山野を歩いていた
木村勇四郎先生という、知る人ど知るという
大学人の中では重鎮らしいのですが、

こんなおじいちゃまが、
うちのお爺ちゃんだったら最高なのに!

女性との中では人気抜群でした。

授業にいらっしゃったとき、
黒板に「温故知新」と、書かれました。

今なら、その意味の、奥深さが理解できますが、
当時は、、、(^^

おじいちゃまが、年寄りには温かく接遇すれば、
意外なことに、
若者よりも
新しい知識があることをそりますよ
。。。みたいな。。。頓珍漢な感覚で
黒板の字を見ていました。

子、曰く、、故きを温め、
新しいことを知りなさいという事でした。

牧野植物図鑑の分類した膨大な植物群を、

コンパクトに、共通項でくくりだし、
薬学分野の成分の化学式を加え

薬になる植物や、毒になる植物の分類を、
きわめて簡単にやってのけられ、

見分けの決定的な特徴などを
図に書き記して、頭脳の中を、
片づけてくれる授業でした。

ノートは一生懸命とりました。

71歳になっても、
ごちゃごちゃに頭に入っていた植物を

見事に、「薬草」と、見分けられるノートは

今も、時々、めくっている。
同じに見える葉っぱも果実も、
分類の見分けるポイントがある。
さすがに、ゴミとして捨てることはありえない。

今思えば、
薬学で習った片付けることの基礎である分類を
無意識で、日常生活に応用している。

木村先生に引率されて
「春日部の、とある植物の栽培場」へ
見学に出かけた。

感動しました。

薬剤師になる事の、
小さな自覚が緊張感で芽生えた瞬間でした。

それまでは
「物質学に近い。暗記が多い。頭が倉庫のように回転していた。」

このような、
同じに見えるものを、
実に多くの学名で分類するという
視点の、位置を教えていただきながら、

社会に貢献できる、社会性のある判断の為に
多くの物質の知識が必要なんだと、
発想がまるで反転した出来事でした。

覚えさせられる、、、なんで、、ラテン語まで、、、と
心の中で、受け身で覚えていたことが、
全て、、、積極的な自発性が芽生えた。

結婚後の、大きな調度品や、道具の分類は
携帯ラジオを聴きながら、
指先で分けてゆける。

「おカタズケの本」は出版しなくても、
多くの薬剤師は、
きっと!

。。。お片付けが?????!

実践者として、最優秀ではなかろうか?

   (^^!
卒業してからは、「オカタズケ」に見えても、
最低条件の仕事の環境を作り
間違えにくい環境のシステムを準備している自分が居た。

孫が高校進学に向かう頃となりました。

私立に通わせるには、
サラリーマンの安月給では
三人の息子は、とても無理!と、、、おもうけど。

爺婆は、終活整理で、
余分なものは、世間様の大きな流れに流してしまったから、

授業料の応援は今から言っておきますよ!

無理だから!、あてにしないでね!

理由は、自分たちにもわからないけど、
大きな流れが、70歳を越した夫婦には
根こそぎなくなるという、不思議な、流れに出逢いました。
「とてつもなく大きな社会のシステムからの人口津波」が来て、
次の世代に流して行くのが、見えました。

次の日本の世代を支える費用になるのであれば、、、と
足跡を残せなかった女性の
姥捨て山と心得て、
深く追求せずに、自ら、出せるものはすべて
社会にお返ししました。
喪失感はありませんでした。
自分では若いつもりで居ましたが、

次の世代は、ところてんのように
世間のシステムが、蚊帳の外に押し出してくるのに
目が覚めました。

私を必要としているのは、
雑用のできる健康体の間だけであることが
掲示板で、見つけたような気がしました。

後は、静かに、坂下りをしながら、
昔の感動にパワーと、微笑みをもらって、

孫子が、もう 、、爺婆を頼りにしないで
自分だけの力で、選ばれてゆき、
周りを巻き込んで、応援されるように
男道で、ばっちり決めてくださいね。

婆は限界まで頑張ったつもりが、
年齢という、時間の厳しさの中で、
タイムアップ!という。。。没収に逢いました。

やり残した感がありますよ。
だって、自分では、若いつもりで居ましたから。
皆に迷惑をかけないように、、これからは、

もともと住んでいた、神様のお宿に帰る支度をせねばね!

紅葉も、ひときわ美しい秋深くなり
萌える淦は
神様からの、激しいラブレターのような気がしていますよ。

明日はもう会えないかもしれない、、、年が認識されたから、、、
遠く離れた、兄弟の顔でも見る機会を作るかな?




秋深し、孤独な冬に備える日

2015-10-04 01:31:08 | Weblog

紅葉の美しい秋たけなわですが、
すぐそこに、冬が来ています。

北海道の冬は、孤独です。
来る日も来る日も雪かきです。

衣替えの毎日が忙しい。
寒さに弱い、40年目のゴムの鉢植えも、

対馬で登山した時,拾ってきた
原種と思われる
椿の実が発芽して

一重の花を咲かせました。

之も、
部屋の中にとりこまなければ枯れてしまう。

ヤッケもブーツも、
毛糸の帽子も出さねば。。。と。

伸びすぎた枝を剪定して、
雪囲いをしやすく準備する。

屋根も、水道も、
変な修理の
対処メンテナンスのやり方をした
ミサワホームのリスクが怖い。

漏れるんです!

この家はもともと
切れ目のない長尺トタンの屋根でした。
低い一回の屋根には
三角屋根が乗っておりました。
三角錐の雪止めを、
のりしろのようなトタンの襟が
維持していました。

20センチほどの長すぎる
ネジ溝のある釘で、
撃ちつけてあったというものです。

若かった私たちは、、

「変な形だねー、、、でも雪がどさーっと落ちるより
子育てには安全かも?、、、ね。」

無給医だった長い時代が終わり
その年からは23万円で勤務になった。
半年後には、少し昇給もした。
子供も2人。

当時は、今と違って「無給医」時代です。
博士号がいただける長い間、無給です。
3か月に一度のアルバイトで16万をいただけました。
その、わずかな月五万のお金で、
家賃1万7千円の、風呂なしアパートで、
子育てです。

しかし、東京界隈と違うのは、
北海道では、当時、
医師は、

銀行が相手にしてくれたという事です。

丸善などから、10万単位の医学書の
請求署が来ても、
未来のある医師に、
信用で融資してくれました。
しかし、、、、

大きな額になると話は別です。


銀行実績がなかった事もあり、
建売が、限度です。

ミサワの提携ローンで、
9パーセントの利息でした。
ボーナス払いは23万円が2回。

振り返ると、

3年前に、ローンが終わったとき、
さ!、、、これから、初めて
皆が集まれる、、、

サザエさんのような家にしょう!

やっと、
家庭というオアシスに向かって
夢がかなうと、嬉しかった。

戦争、そして、耐えがたきを耐えた、、、敗戦
日本総勢。。。
どなたもこなたも皆、「貧乏時代」

昭和10年代生まれの我らの時代。

夫も、「貧乏のぞん底」を
体験することを余儀なくされた時代である。

札幌オリンピックの前の時代。
17000円の風呂のない木賃アパート!

アパートは、
階下の大家さんの家族が
プロパンのコックを閉め忘れ
二階の、我らの家庭は
建材から出たタールで
煤まみれになり
トイレは吹っ飛んでいた。

もし。。。其処に居たら、、
死んでいた。

職場の同僚の
年取った親御さんのアパートだったため、
一切の、
弁償も、謝罪も、、夫は、、
何もしなくて良いですよ、、、と。
家事を出した当人は階下に住んでいるのに
謝りに来る気配がなかった、

自分のことで、、きっと
パニックになっていたのでしょうね。

被害者の事は、頭が回らなかったのでしょう。

私の母は、
ピアノの演奏者の現役という事もあり、
普段着よりも、
娘を「お人形」に例えた、
自分の好みを押し付けるタイプだった。

ステージドレスのような
社交的な衣装を。
たくさん創って持たしてくれていた。

日舞の時の舞台衣装とか、、、
戸越銀座まで、生地を探しに行ったり、
イギリスに居た甥っ子にレースの生地を頼んだり、

国立音楽大学時代から
著名な友人が多く、
二科展に入賞した画家の絵のモデルは母だったり
花のある人でした。

タンスも、浜松まで
ピアノ塗装を注文した白い色の桐ダンスを特注した。

理科系の大学卒の娘の意向など
まるで、、
意に介さない
女性らしさの押し付け趣味の母でした、。

タールをかぶったカーテン、
、、
こんなアパートに

三越の特注の、、、
家賃の三倍もするカーテンを
かけてゆくなんて、、、
母はプライドが高いので、お任せしました。

結婚が決まっても、
何も、準備をする気のない本人は
行動する気分ではなかった。

薬剤師として、30歳ぐらいまでは
自分を仕上げなければならないのに、
速すぎる結婚でした。

いっこうに行動を起こさない娘に代わり
札幌まで
ご老体の母がやってきて、

とりあえず、生活できるようにと、
「五番館」「三越」で

新婚所帯を初期設定していってくれました。

「あと、2年で東京に帰ってくるのですから、、、
こんなもので良いでしょうね!」

当時家賃の10倍以上する
「高雄」とかいったかしら、、?、
大きなTVも、備え付けて行った。

母はこの時点では、
もう一人息子が出来たような
大きな希望を、
持ち始めていました。

戦争に従軍した父は、命の境目を歩き
体には、そうとうな無理を与えたと言っていた。

敗戦!
疎開!
復興に向けて、滅私奉公の父は
疎開先では、多くの人の支えだった。
「戦争を知らない、、団塊の世代の末っ子に
未来の希望を託して、東京に戻り、開業しました、」


54歳で急逝した外科医の父の患者さんが
若先生はいい人だけど、大先生は頼りになった、、。
後を継いだ、兄も、母も、困っていた。

我が家は、内科医の兄と、
親類の医師と、
同級生の耳鼻科の医師とで
何とか、、、経営を続けていた。
父の友人が、手におえない患者さんの時は
兄を助けに来てくれていました。

「外科医の卵」が
名乗り出てくれた。

医師は、医師しか助けられない。
母は、私の夫になる候補の外科医の卵と面談し、

博士号を取得したら
東京に帰ってくれるという、
その外科医が気に入ってしまった。

お父さんが、、若くなって、
帰って来てくれるのよ!。。。と。
寂しそうだった
未亡人の横顔に朝日がさした。

家を、、、救えるかもしれない?
、、、と思った。

とりあえず、
子供の安全な住まいが必要だと思いました。

火災の後から。
一度も袖を通さないうちに
、真っ黒のごみ袋に30個近く
焼け残りを捨てたのでした。

小学校から大学まで
東京のど真ん中で過ごしたことが、
一夜の火事で、、、消えました。

北海道は、
「他人様の土地」でした。
、、、
カースト制のような順番があると仮定すれば、
新参の、嫁の身分としては、
文句を言える立場になかった。

東京出身の北大大学院生の主人も、
職場のコネを伝って、
地元の住人の懐から出発という用心深さでした。

社会のシステムがわかるまでは、
このまま、、泣き寝入りした方が、、、
よそ者お断りに出逢っても
気分的に落ち込むから、

一切、階下の大家さんのお子さんには
言葉もまじ合わす機会を作りませんでした。

年老いた親御さんが、
すまなさそうにやってきまして

「今月だけは、家賃、、いりませんから、、」

すぐに、
吹っ飛んだトイレの修復と

タールだらけになった
焼け残りの建材の撤去と、
リホームを始めてくださいましたと、、

東京の実家に帰っていた私に
新婚の夫は、さらりと言ってのけた。

医師の免許を取得したばかりで
医局では、医局で飼ってる犬のえさ係並の身分の夫は、
女房を守れるどころではない立場であった。

無給、、手術は「こーひき」だけさせてもらえる。
「はい!」以外は発言できない、、、おじさん!

大学院で博士号を取得すれば
無給医から脱出できて、身分は出来ると
家事の後の、きな臭い家屋にUーターンして

深夜まで「博士論文と格闘する」切実な
無給医脱出の戦いがし烈になりました。

何ぼ何でも、このきな臭さと、
馬糞風は、、壱日ここにいる家内にとっては
苦痛でした。

妊娠5か月に入ったとき
一度、留萌で流産しているので
東京の実家に、帰り、出産することにしました。
「夫の家に、事の成り行きを説明すると。」
「息子は。あなたに挙げたのですから、
全て、そちら様の意向どうりなさってください」と。

お体の悪い姑は、医者になった、ゴジラのような
怪獣は、手におえませんので、
開業している医科に育ったあなたにあげます。」と申された。

なんとなく、気持ちはわかりましたが、
私は、夫一人の持ち物ののように、
婚家では、手におえないモスラとして、
突き放された感がありました。

実家では、母が温かく迎えてくれましたが、
無給医の夫からは
生活費も、盆暮れの挨拶も、
遠距離電話もないままに
苗字だけが変わった娘として、
個室を用意してくれて、
母と、娘の、結婚前とはどこか違う同居でした。

長男が生まれてから、夫は、さすがにやってきました。
とんぼ返りをしてしまい、
真冬の2月が過ぎ、3月が過ぎ、
5月になって、100日のころ、
「夫の帰りますからと、」手鴨を書きました。
「返事はありません。」

札幌に帰る時間を知らせてあるから、
きっと迎えに来てくれていると思いました。

甘かった!

赤ちゃんを抱いて、
おむつをもって、
5回分のミルクとおくるみで
もこもこもこの、塊みたいになって、

千歳の空港で、
迎えに来ているはずの夫を探しました。

居るはずです!日航と全日空と、探し回りながら、
2時間後、、、、長男の初めての札幌入りなのに
、、、博士論文の実験から手を離せなかったという夫に

私は、、、開業医の家に外科医を迎えるのは、
忍耐しかないと思った物でした。

しかし、博士号が下りると
米国の循環器では評価の高いタフト大学に
留学の話が空便で送られてきた。

何年米国に居るかわからないが、
とりあえず、ほーっておける連投長屋の真ん中を
当時のお金で500万のローンを建てて、買い取り、
留守中のセキュリティに全力で準備して
出発に備えました。
母からは、留学なら、東京に帰るのが伸びるのは
やむを得ないけど、

生活費は、東京に帰ってきたときの月給の前払いよ!と言って
渡米中の私と赤ちゃんの食費を送ってくれました。

火事の時、日赤が配布してくれた毛布を、幼い息子にかけて、
前途多難な、生き残りの戦いが始まりました。

ところが、出発直前になって
帰ってくるはずの先輩が
もう壱年居座るからと、空便が来てしまい、
交代での留学は、延長書類に代わりました。

10坪の敷地に57平方メートルの長屋の真ん中の
我が家にうつり住みました。

留学延期のさなか、二男が生まれ、
夫は「無給医では、二人の息子は養えないから、
一般病院に出ると言い出しました。

医局参加にいくつかの病院があり
警察の指定の協力病院の一つに就職しました。

母は、東京に帰ってこないことを知ると、
養育費を送ってもらって、
東京の教育を孫に受けさせてはどうか?
北海道に居るとわかったら、
兄も、従兄弟の医師も、父の知人の医師も
「内科外科病院設立の会」を解散しました。

塞翁が馬、、、弟は、しょてっぱなから大学医局に残り、
千葉大学の』外科から、
当時の、理想のビジョンの実行に向かう新設間もない
築地の国立がんセンターから、
当時の時代の先導の師匠であった
市川平三郎先生からお声がかかり、
外科の医局を出て、
がんセンターに移ったのでした。

我が家の、個人病院が、私の夫の参加で実現していたら、
個人病院の、患者様に慕われる一人の地域に貢献する医師として

自分の特殊な能力に気が付くこともなく
また、心豊かな地域の開業を全うしていたと信じていますが、

がんセンターの市川平三郎先生殿出会いの結果、
弟は、秘めていた才能を存分に世界レベルで発揮できたことは

夫の、約束不履行が生んだ、塞翁が馬であったと思いました。

多くの著書は、
二男が、同じ放射線科に進むきっかけにもなった。

大学一年生の時、、
戦後の「団塊の世代の医師の中でも、、、おじさんが
がんセンターで開発したCTは、
単にきれいな画像を追うというのではなく

必要な病床にスポットを当てて
開発した画像という

医師の視点に、僕は、やっぱり「神の手」だと思う!
僕はおじさんは、「がんセンターの医師の姿」として
がんセンター史に残る人だと尊敬している。

学部に移行したころ、おじさんに
「顕微鏡CT」などの話をしてもらいながら
息子は、「雲の上の人だ!」とつぶやいていた。

しかし、ジャンルの違う政治家や、
開発後の恩恵にプラスして、
ビジョンに向かう弟たちと
これまた、自分の世代の時点しか見えない
デジタル時代の医師達は、

ヨーロッパの病院は発足の歴史を
しっかりと残しながら、500年の創立期を
今なお、現在に伝え、歴史をしっかりと残しながら、
現在につなげていることを、見学してくれば
世代の若い医師達にとって
世界の築地に建っているがんセンターの
創立期の歴史を、時代の都合ではがしてしまうのは、
何百年後に輝きが不滅に続く原石を近代コンクリーで
塗りこめてしまうような、歴史の光がもったいないような気がします。

医師薬史学会で、ヨーロッパの病院を
20か所ほど見学してきましたが、

明治のころ日本の医師達が留学した病院は
当時の研究現場まで保存され、
「学問は一朝一夕にしてならず」、、が
一目瞭然の、当時の時間を止めたままのコーナーが
具体的に保存されていたという、
「お金持ちのヨーロッパ」を
感じたものでした

話は横道にそれましたが、
どんな人も、初めの一歩があるのですから、
我に返って、我らの、戦いの一歩は
全力で、日々、頑張ることから始めました。


**************************

バルブ時代の焦りもあり
自分の責任で
安全に子育て出来る自宅が
必要と思った。

とにかく、買えるうちに、焦って買いました。
ミサワホームは
戦後、パネル工法という斬新なアイデアで、
戦後の停滞を跳ね返して、
かっこよく、時代の先取りをしていた会社であった。

たまたま、大学院で理工学部の学生らと
教職の授業を受けた後、
ESSという。英会話クラブの仲間たちと話していた。
日大の理工学部の卒業生は
大成建設や、ソニーや、ミサワに就職を目指していた。

それというのも。
ミサワは先輩が活躍している会社だったこともある。
電磁の授業の後、
先生や、電気科の学生と、
カナダに、
日本の理工系の進出を
計画している話に及んだ。

その時、
在来工法では戦後の社会は
日本の遅れをとりもどせないのではないか?

その時、工場でほとんど仕上がるという
組み立て式のミサワは、大工さんの腕は
突貫で、組み立てる技術にしぼれるのではないか?

彼らは、プレハブの即効性に興味をもって話した。

北海道に、来たとき、
30年ぐらい前の東京にやって来たごとく、
舗装道路が少なく、
アパートの前は
馬糞風に乗った土ぼこりが白く居間を覆い
毎日、拭き掃除するという
隙間の多い建物であった。

ミサワを選んだのは、
北海道という、
見知らぬ土地で
同級生に出逢った喜びであった。

かくして、ゲットした、
念願のマイホームではあったのだが、

その冬、台所、ふろ場、トイレ、、、

ぽたぽたと水が落ちてくるのでした。
そして、トイレのドアの上のタイルと
内部の壁のタイルの一部が。
テーブル大の大きさで!!!!!  (++

どさーと落ちてきました。

風呂場のタイルは、全面!
どさーと、、、落ちてきました。

タイルはつながっています。
大きな、紙のバッテンデ、
タイルはつながっています。
タイルの壁は
そのまま全壊しました。

ミサワのアフターさんは
こまめにやってきました。
本当に、素朴で、人のよさそうな
暖かなアフター係でした。

、、、が、、建築のプロではありませんでした。

屋根の三角錐を撤去して
屋根を、長尺のまま、元どうりにしてゆきました。
後からわかったことですが、
撤去後の釘のアナは
パテで詰めたと言っていました。

タイルもそのまま元どうりに
くっつけてゆきました。
メジも、白セメントでつなげてあります。

さすが、、、ミサワね!
無料で直してくれました。

       m(^^m

次の冬、
再び漏れてきました。

        (++!

ミサワに電話したら、
トタンを一度はがしたから、
「毛細管現象で吸い上げられて、氷になったものが、
暖気になると解けて、水滴が浸みて落ちるのですよ。」

と、、、説明してくれた。
理にはかなっているが、
それを解決するのが、、、
「プロの仕事」のはずでしょう?

「雪を下せば治ります。」
雪を下してくれました。

********************    (++!

ともかく、
雪下ろしが面倒なので、
利息の高い家を、
払いきれないのに
またまた「借金」を長期にすると、

ローンで
「上積みで借り増し」出来ましたので、

となりの、売れ残りの空き地は
タケノコ山だったころに、
ブームに乗って造成されたらしい。
やがては、
バリアフリーの住処をたてようね!
やがて来る余生は
日本のどこかに!と。
自宅で昇天を理想とする私たちは、

計画を前倒しにして、
「古くならない家」と思い込んで

「漏れない家」を建てようという事になり、

気泡コンクリートパネルの組み立て式の
壱週間で組み立てられる
大成の
コンクリート住宅を
建てました。
正月も、
目の前の
冬の工事である。
3か月後には下水が来るという地区になっているけど、
浄化槽を埋め込んだ。

ミサワのトイレが土管につながっていなかったのは
浄化槽を埋め込む業者が
手違いかなんかで、
埋め込まずに、土管を途中で埋めてしまったことが
その時、わかりました。

ミサワに話すと、
ちょん切れた土管は掘り起こさないで、
新たに、
下水が通過した段階で
庭先を掘り返し、土管セットを埋めて、
マンホールにつないでいってくれましたが、

我が家の庭は、土管だらけが埋まっているのです。

ま。。。しかたないか。。。(**

それでも、あちこち漏れが続き、
窓枠をパテで処理してくれたり、
アフターさんのレベルでは
誠意を尽くしてくれたのだと、思いますが、、、

私たちは、隣に、軽量気泡コンクリートパネルの
組み立て式家屋を建てました。


之で、漏れないし、
雪下ろしもいらないね!
喜んだのもつかの間でした。冬になると、、、
漏れるのです。

コンクリーの家も漏れるんです。
昭和55年の頃です。

翌年の夏に、
東京の本部から技師さんが来ました。
プロの技師で、著書も出している人でした。

家じゅうに薬品を塗って
屋根の上から、
水を土砂降りの雨のようにかけたのです。

薬品は赤くなり、
「どうしてくれるのよ!」と
怒りました。

大成も大手なので、
防水をやり直してくれました。
ところが、、、
ベランダに敷き詰めてあった
コンクリートの
踏石大のタイル状のパネルを

庭に下ろして、、ゴムシートを敷いて
その上に、
モルタルで仕上げて
おしまいになったのです。

担当者がデストラになり、
大成も、
コンクリート家屋の販売を
やめてしまったのでした。

我が家は、
ベランダだけモルタル仕上げで、
弐階の
8畳が4個分の大きな屋根の方は
ゴムシートのまま、
工事は終わりました。
中途で、会社は放棄してしまいました。

とりあえず、漏れは止まりました。

空から見ると、
ベランダはモルタル、
弐倍以上の広さがある弐階の屋根は
ゴムシート。

ツートンカラーの質感です。

それっきり、、なので、

自分でするしかありません。

ミサワも、大成も、
大工さんに頼んでも、
引き受けようとはしないのです。

不思議ですよね。
自分でやるしかありません。

当然、屋根だから、
下からは見えないとはいえ、
我が家には愛があります。

放ってはおけません。

3年ごとに、
平らな屋根なので、
煙突に、命綱を縛り付けて、
自分で、我が家を、屋根を、
愛することにしました。

シーラーとペンキを15万円ほど買いこんで、
毎日、畳3畳広さぐらいを目安に、
シーラーを2度塗りして、

乾いてから

銀粉のペンキを丁寧に、
厚塗りを2回繰り返すのです。

こうすれば、
ドクターヘリが飛んで来ても。

変なツートンの屋根には見えないでしょう!

3年ごとに、
夏は、屋根の上の「婆居降臨被着」。

ともかく、
漏れるのは止まっております。

    (^^

今でこそ、
札幌は、
どのメーカーさんも立派で、

理想的な家を建てて、
メンテナンスも
最高の時代と推察しますが。

私たちのころは、「負の建物」でした。

***************************  (++!

再びミサワに戻りますが。
雪を下しても、
やっぱり。。。。。。

水は止まりません。

「今度は140万だったと思いますが。。。」

有料でした。

、屋根をはがして、新しくトタンを張り替えて、
元に戻した長尺トタンを
きちんと、締めて、バンキンして、
雪止めを、点けるようにと、
頼みました。

開けてびっくり!
雪下ろしのせいではなく
以前に、取っ払ったあの!、
「三角錐の雪止め屋根の、
のりしろ様の襟に打ちつけてあった、、あの!!!
らせんの溝がある、長くて太いらせんの
釘が、穴を開けていた。

屋根の穴が開いたまま
長尺トタンを戻したので、
そこから水が落ちていたのでした。

私は、はしごで、よじ登り
今回新しく取り替える予定の下地になる
トタンを張る前の屋根を見せてもらいました。

大工さんは、
新しいトタンを張るし、
バンキン作業をマテにやるから
もう、漏れないというのです。

私は、大成の建物が漏れた時の
防水に使ったあまりの材料をもらっておいた。
余分に置いて行ったゴムシートを
ミサワの、穴あきの屋根に
敷いてくれるように頼みました。

水が漏れていたのが原因なのか?
貼り方がしろうとしあげなのか?、
ふろ場のタイルは、
ブドウがかったピンク色に張り替えました。

気持ちを明るく、したかった。

洗面からトイレにかけて、
クリーム色のベニヤには、裏側から
ミドリと、黄色のカビでぶよぶよになっています。

大工さんは、ベニヤをはがしたまま
カビが、乾くまで、
そのままにしておくと言いました。

私は、
油絵の時に使うナイフと、
左官のコテを買ってきました。

「毎日一畳大」のスペースのカビを、

マスクをかけて、
帽子をかぶり
こつこつと、
何時間もかけて、はがしてゆきました。

我が愛する家だからできることでしょう!

大工さんは
3か月後、やってきました。
「乾いたら、
上からベニヤを打ち付けて、
その上から
壁紙貼るから、
はがさんでもいいんだよ、
大変だったでしょうが、、、」と笑った。

人当たりは実直で
良い人ではあるのです。

    (@@)
     ~

私は、医療人のカリキュラムを受けている以上

カビには敏感です。

薬剤師のカリキュラムの中で
微生物学の授業の時、
色々な種類のカビがあるのを知っていた。

閉じ込めても、
それで終わりではないのが
カビである。

今回のように、
赤いのやら、
黄色いのやら、
ミドリのやらが、
キノコのように
厚塗りされた、
油絵の具のようになっているカビは
閉じ込める気にはならなかった。

閉じ込めるカビが危険と思うのは
私だけだから
無料奉仕ではあるが、

自宅への「愛」が、放置を許さなかった。

間もなく、私は肺炎になり、
入院した。

カビのせいではないかもしれませんが、

精神の疲労困憊で、
免疫が落ちていたのかもしれません。

ともかく。
風呂はピンクに、
洗面所は壁紙のスペースに模様替えとなった。

トイレのタイルの落ちたところは
同じ色のタイルで修理。

ひびが入ったタイルは
はがして張り替えてくれた。

それなりに、、、誠意はいつも見せてくれるが
いまいち、、、プロではしないことを
目先三寸の対処に走るような
印象を避けられませんでした。

でも。。。屋根ですから、之で、
140万は安かったかもしれません。

しかし、、、
デザインが、つぎはぎルックになり、
売れない家になりました。

てっぺんの処理も
南側の雪が、北側の屋根の
付け根の部分に、余分に落ちる修理は
当初の設計の
ベクトルのバランスを
著しく無視した簡易な方法をとったと思いました。

毎年、付け根の部分に、大量の雪がたまり、

家には日々が入ってきました。

このままでは、
雪のバランスが悪く、

パネルのベクトルでバランスをとり
安定しているミサワの基本行動を
無視した修理であると思いました。

家の中心に、
2メートルを超える雪がたまる計算になります。

長尺のトタンをそのまま新しいのに変えてくださいと
頼んだのに、、、、!!!!!

裾の方で切り離して継いだ継ぎ目は、
ストーブをたくと
氷塊になり、やがて暖気ですいてきた成ります。

一階屋根の
立ち上げり50センチぐらいで切り取って、
切り口が防水もしないまま
はぎ合わせて完了。

大工さんは、
ミサワに指示されたとおりしただけという。

その冬、水漏れが、再び始まる。
二階の屋根に積もった、
ソファー大の氷が、軒から落ちて
窓の下のコンクリーのたたきを
めちゃめちゃに割って
バウンドして、
ベランダ大の窓の
二枚の硝子戸をへし折って
部屋の中の机を
反対サイドの壁までづっ飛ばして
部屋の中に、
シロクマの乗れそうな氷塊が入ってきた。

二人の男の子は、必死で逃げたと
真っ青になっていた。

之は、雪害という事で、
ミサワが軸になって修理してくれましたので
私の持ち出しは60万円でした。、
屋根の上に、角度の急な、雪の落ちやすい屋根を
御帽子のように、
かぶせる施工で、急場の落雪を回避しました。

割れた二枚の硝子戸は
お隣近くの町内の大工さんが
応急処置で、ありあわせのガラスをはめて
木材を切って、窓枠を作ってくれた。
ひん曲がったアルミサッシは、
トンカチで、デリケートにたたいて、直してくれた。

左右違うガラスと、
違う木枠で、変なベランダガラスとなりましたが、
近所の大工さんの温かさに心が救われて、

今もそのままです。

いよいよ、バランスの悪い、
重量感の違う、つぎはぎルックの
ミサワホームになりました。

内部のデザインは、シンプルで
変な装飾もなく
病院勤めの我ら家族は
気に入っているシンプルさであるだけに!

外観の、ガサツな修理で、
しかも
それなりの、
追加費用と、いら立ちが
数年続く建物なのに、

何とか、
使えるようにしたいと思って
がんばり続けていた。

何と、、、、

トイレが、土管がマンホールにつながるには
何本か、土管が足りなくて、
庭の真ん中でちょんぎてていた。

使っているうちに隣に入り、
仲の良かったお隣さんは、
カンカンに怒って、
ブロックの塀を建ててほしいという。

ミサワと折半で、
敷地を自分の方に30センチ引いて、
ブロック塀を建てました。に引いて
頭も見えない高い塀を創った。
負担は110万円であった。

新たな測量の結果
30センチ引いたところが境界石が
入る位置だと言って、
境界石も入れなおしました。
    
     (--

くたくたに疲れて、マイホームの為に
毎年工事が続くので、気持ちが落ち込んで、

高いローンと、追加金と、
となりに、建てた、大成の
漏れないと思ったコンクリー住宅が
漏れるのとで

多少おかしくなっていたかもしれません。
ミサワのこの家では
唯一、気に入っていた
木目の部屋の
樹の年輪が
「走る馬の鬣に見え始めた。」

もう。こだわるのはやめよう。
水道も、
6人ぐらいの水道局の検査官が
何度も検査に来ているが、
元栓を開けると
使ってないのに、メーターが回ると、
毎月言われるので、

元栓は、何十年も閉めたままである。
十数年後
水道局がやってきて
メーターが回っているから
基本料を支払ってほしいとやって来た。
14万円ぐらいを一時に請求されて支払った後、

水道局の手で、元栓を閉めてもらい
その時以来、そのままに、
締めたままである。

分厚い領収書が渡された。

庭木の水は。
雨水桶を置いて、使っている。
子供たちの使っていたものを
そのまま置いたまま

主人の医学書の倉庫に使っているが、
暖房のストーブをつけると
スガ漏れるので、

何十年も
ストーブは新しいまま
骨董品になっている。







途中、建て替える気持ちで、
フルリホームしたいと
設計図を書いてもらったら、

幼いころ、
こどもが、転がり落ちたことのある
びっくりする急な階段も

緩やかに
場所を変えて、
理想の図面を
設計して、
説明してくれました。

水洗トイレなのに、
まっすぐな官が、、水なしのまま、
地面まで走っている変なトイレも

使えるトイレになっている。

「いくらですか?」
「1500万円です」

「エ!!。。。1500万円」


   (@@!  (‘‘)

だって、
この家は、土地付きで1400万の物でしょう。
追加工事が3年以上続き、
飛び石工事や雪害や、
となりのクレームで、追加金も何百万!
それに
9パーセントの提携ローン!!!

思い余って、
隣の空き地に自宅を追加。
満杯に借りたローン。

バブルにせかされ、
踊らされて、
焦って、追加のローン。

他人にも借りてもらえないし、

    (++

長い間、アトリエと表札を出して

書庫や、道具入れに使ってきた空き家に。
固定資産税は
かかり続けた。

経済観念のない主人は
マイホームに
夢など持てなくなったらしい。

再び、
安い給料の大学に、
男の人生は
「マイホームなどではない!」と

ドジばかりしている私たちを捨てて
我が道に戻ってしまった。

大学の、
今までとは違う給料では
ローンが払えない、、、

薬剤師をして家事と両方の生活に突入!。

自分の名前で、
今は無くなった拓銀から
何千万も、
借りれるだけ借りて
地下鉄駅前4分の
アパートを経営する事にした。

当時の拓銀の係りの銀行員は、
「こんなに良い場所に、よく見つけましたね!
この物件を抵当に入れて、
家賃を半分振り込んでくれると
融資しますよ!」

離婚なら、養育費もらって
実家に帰り、
実家から薬剤師という手もあるが、

主人は、家族を捨てたわけではない。

「マイホームの、
ままごとに飽きてしまっただけである。」

私が、、、男で、
ぎゃくの立場でも、、、

「マイホームなんて、、、
甘すぎる幼いままごとであると気が付くだろう!」

要するに、

*****(++)  
建築業者と銀行が主役なのですよね。
***  ++)

たまたま、、、
当たり外れの悪い、
本来の優秀なミサワではなく
ありえないミサワに縁がありました。

自分たちは
  \\\\\\\\「商品なのだよ!」\\\\\\ ,


主事が言い出したのは

修理の仕方が
「支離滅裂のデザイン」に
なってゆくからでした。

もう、、辞めた!
ほのぼの幸せなマイホームなんて。!

女房と子供の相手をしていたら、
世の中から取り残される!

あの日以来、

子供たちの入学式にも、
運動会にも、

私の母の葬式にも、
私の手術の退院の日にも、、、

現れず、
仕事一筋が、さらに徹底してゆきました。

主人は
「職場こそ家族以上に大切にしないと、
家族も守れない。」と、
のたまうのです。

世の中のシステムの片鱗が見えた。
関東で有料の企業も、
北海道という
地域が異なると、

職人さんも、
カースト制度にたとえるのなら
底辺の技術者が
担当し、
一部の精鋭の指導者は、
実行力を失うということでしょうか?

工場でほぼ出来上がるミサワとか、
大成とか、

防水技術という
アキレスけんを持っていたという事でしょうか?

宮大工さんの手がける住宅だってあるという
日本の誇る大工さんは、地域が違うと、
見習いが、手がけるということでしょうか?

この世の中に、
宝物の財産があるとしたら、
「医師として、医師をする時間こそ、
自分の主役の時であると思う。」

こうして、主婦という
「天下の商品」は
したたかなプロの間で、
「商品としての時代」を
自覚しないで、
悪あがきしながら、
世の中を知ってゆくのでした。

「医師になるのも大変だったし、
医師をするのも、もっと大変だ。」

「男人生は職場だから、職場が居場所だから。」

要するに、
私のような、
ドジなマイホームを
ドタバタする女房の「愛」は
無い方が集中できるという事なのでしょうね。

命相手の仕事だけに
何年も、小さな家庭が
ドタバタしていることに
愛想がつきたのでしょうか?
医療に携わる夫の結論なのでしょう。

ご近所では
さすが、、、お医者さんの家ね、
あちこち修理して
贅沢で来て、、うらやましいわ!

やぶにらみの視点には、
よけいくたびれてしまいます。


大阪の循環器センターに、
大学復帰の研修勉強に行ったきり、
何か月か帰ってきませんでした。

このあたりから、
勝手にがんばる
お互いを一切干渉しない
不思議な夫婦になりました。
私の実家を手伝いに
東京に帰ってくれる話もなくなりました。

家庭は捨てられたのかもしれませんでした。

家族の写真も、とらなくなりました。
孤独な、勝手に同居しながら
勝手に頑張る、
置き去りになった
マイホームで、
延々と、工事と、雪かきと
子育てと、
ローン返済の勤務が始まったのでした。

家に帰って来ても、
一緒に3食ともにテーブルに座ることもなく、
お互いが、
背中合わせに、マイペースで、ベストを尽くし
ローンと闘いながら、
進学の激戦時代に突入してゆきました。

夫の大学時代の収入では
この、人生の関ヶ原は敗北が避けられません。

転んでも、砂をつかんで立ち上がらねばなりません。
APの住人が変わるたび、
壁紙を、自分で張り替え、
次の入居者を募りました。

自宅の、メンテナンスに寄り添っているうちに
少々のことは、自分でするようになりました。

怪我のコウミョウです。

窮すれば通ずかもしれません。

夫は。心は家庭を出ていますが
真面目な性格は、
マイペースで、
「自分の部屋だけが大切」な人になりました。

家庭には一切関心を失いました。

やがて、講師をやめて
国立病院のしかるべき仕事に就き
大学よりは、
良い給料をいただけるようになりました。

しかし、単身赴任ですから。
函館と、札幌の二家族離れ離れの生活は。
進学まじかの息子たちの未来を考えると
ボートしていられません。

せめて、ミサワホームが、
トイレと水道と、
屋根とデザインが人並みであったなら

貸家にできたでしょうね。

貸しても、水が漏れると
毎日母屋に文句に来るし
怒って出ていく人には
貸す気が亡くなってしまいました。

大手の社宅に
一度借り上げてもらったのですが、
奥様が、屋根が漏れると言って
すぐに出てゆかれました。

それ以来、
何十年も「アトリエ」?物置ですが、

買い手も現れませんでした。

近所や知人からは、
「家を2軒持っていて、
さすがお医者様の家ね!」
「もったいないわね!」
  
 結局、
子供たちの進学の費用になったアパートも
役目を終えて、
ローンも終わったから、

これから
、孫と暮らせるサザエさんの家にして、
自宅を貸して、老後の年金にすれば、

5年しか薬剤師をしなかったから
7万ほどの年金にプラスして、
老後の資金になるはずと
思っていましたが、

世の中、鈍い私にもわかったのです。
内情は、
いろいろあって、
個人的な言い分は山ほどあっても。

不動産を
、外から見て、
「あそばしているような状態」は
天下が許さないという事です。

あそばしていたわけではないのですが、
白色申告で、たった4人分の店子さんだし、

事務書類は不要と勘違いして
領収書をとっておかなかったのです。

税務署が来ました。

さかのぼって請求されました。

調査すれば、
メンテナンスの結果は見える世界なので
すぐにわかってくれましたが、

悪意はなかったので、
修正して下さい。

税務は、現場証拠ではなく
領収書の世界ですと。
指導されました。

税理士さんにお礼を払って終了ですが、
金額が、さかのぼったため
大きいので、現金はありませんので、
保険を解約して払いました。

おかげさまで、
子供に迷惑がかからないように
「やすらぎ」の
葬式費用の積み立てに加入しました。

私が死んだら、
息子と孫だけいてくれればいいから、
17万円の、棺桶が、最後の住処となるでしょう。
もともと、神様に造られて、
束の間の、この世を旅していて、
姉妹と、息子とに逢えたのだから。
17万円の空飛ぶ棺桶があれば、
足りるでしょう。

誰が、、、受け取るのかもわかりませんが
次の代では
ドイツに負けない
技術者を育てる資金の一部に
使ってくれるとうれしいですね、

「アパートは、
店子さんが出るたびにリホームするのです。」
大体2LDKなので
100万でリホームは出来ません。

育児中の、
子だくさんのお手伝いになればと
APをかりられにくい、
お子さんのある方ばかり選んだので、

リホームは大変です。

ポプラ並木が折れた台風では、
固定の甘かった灯油タンクが倒れ、
消防自動車の出番前に、
やっと事態を収めたという
ヒヤリハットもありました。

二階と下がケンカしたり、
店子さんの駐車場に客の車が止まり。
「どいて!」と張り紙したから
ケンカになって、
大家さん来てください!

急ぐから、タクシー4000円!
人生勉強!
人間力向上修行!
割り切って、立ち会う。

そして、入居者の居ない時代になりました。
新しい手金のマンションに、時代は移り始めました。

一軒だけ、
親子家庭が、
幸せに入居しているので
固定資産税だけは何とかなっていました。

この間、毎日の雪下ろしと冷えで
子宮の手術を受けて入院。

女性って、、、
重いものをどかせる仕事を
長く続けると
子宮が落ちてきてしまうんですよね!
びっくりしました。

手術後は、コルセットを3枚して、
骨盤保護のタイツを履いて、
下腹部固定して、
雪下ろしをしています。

しかし、天下から見れば、
遊んでいる財産を
化粧して、遊んでいるように
見えたのでしょうね。

雪を下さないとミサワホームは軒が長いので
折れてくるんですよ、

ああああああああああああああああ

もう!!!!
自分の健康だけに絞り込みたい!

71歳は、体がつらい
全てを、終わらせる日の為に
誰によって、
何に使われるのかは知りませんが、

APを格安に売ってしまって
空に投げました。

払うべきところに、
全部、払いました。

なんだか、、、無くなった割には
哀しくありません。
無感動です。

神社の階段を
一段一段登ってゆくように、
何事の、、、おわしまするか  知らねども、、、
今日一日、
今一日、
目の前にあることに
ベストを尽くしただけの70年でした。

付き合ったわけでも
恋をしたわけでも
好きになったわけでもありません。

開業医が、突然過労死したら、
医療施設は閉鎖になります。
外科医だった父の
54歳という若すぎる死は
家族の運命を変えました。

3年以内に
私の実家に来て
内科医の兄
耳鼻科の従弟

やがては医師になる弟らと
新たなチームを立ち上げるからと

未亡人になってしまった母に約束した
外科医が居ました。

一人娘の私は
「医者と結婚せねばならない圧力を感じました。」

私自身は、薬剤師だから
新たな、皆の医療施設ができると、
母のそばに、居てあげれると
しかも、そこでは、仕事もできそうだと、

若き仲間の
「絵に描いた餅のような夢」の
新、病院発足プロジェクトに
赤紙特攻隊になるくらいの決心で
母と、兄に。押され、東京を後にしたのでした。

小学校、中学校、高校、大学と24歳までの
友人、知人には
しばしの別れで、
また会えると思っていた。

北海道出張のイメージだった。
家など、北海道に持つとは考えてもいなかった。

せっかく、薬剤師として
総合病院に勤めていたのに
結婚となると、、退職でした。

見知らぬ性格の
「外科医のもとに嫁いだのでした。」

初めての留萌の寿町の新婚生活の始まりでした。

山登りが好きな私は、
町と名のつく場所なら、
暮らせるはずと思っていた。

違った!!!
留萌の官舎はオール木材で
一枚ガラス、

マイナス20度の冬なのに、
水洗ではないトイレ。

たまたまのオイルショックで
官舎に灯油が補給されない。

スキーヤッケを着て、
毛布にくるまり、
雨降り画面の白黒テレビのアンテナを
針金を細工して
何処に付けるかうろちょろする冬の日

海の断崖に立つ官舎の塀が
舞い扇のように左右にしなり

虎落笛がヒューヒュー波を渡って
暴風となり、
ピーンと張りつめたガラスに
ヒビがめぐらされたように
氷紋が花となる。

家なし、カーなし、免許なし、
家財なし、、、
東京出身の、
故郷への帰郷願望の「外科医を迎えに」

結婚という、
心の家に、
夫として迎へて、
博士号を取得するまでの北海道暮らしという
夫の都合で、留萌にきました。

あのころの事を思うと、
新婚さんの
子育てに便利な2LDKのAPを
提供することで、

将来は、親戚、孫子、皆が集まる
サザエさんのような家を建てるのに、
30年後に必要な
敷地を確保することが、
先決でした。

38年後
地下鉄駅4分
JR駅15分
古くなったAPと、敷地がやっと手に入りました。

76歳、、、と71歳、、、の老人の手に

若き日の
、夢だった
「サザエさんの家」を建てる
敷地が手に入りました。

息子たちは40歳を超えています。
時は、、、待ってくれなかった。
主人の両親も
施設で亡くなり、

若き未亡人だった母とは、
何十年も逢わないうちに
80歳を過ぎて、
父のもとに煙になってあがって行った。

時間が、、、本当の敵だった。

いっこうに、東京に還る気配のない夫、
学童期を迎えた息子。

故郷の匂いのする建売を
とりあえず、
ローンで買いました。
それが、、
3年しか住まないで
ドタバタと、工事が続き、
修理、修理のミサワホームでした。




急な金銭が必要になり
APは売らねばならない日が来ました。

このたび、3か月御家賃は無料、
引っ越し代金10万
店子さんに払って、
引越していただきました。

我が家の事情は切迫していても、
経営者としての
最後のプロ根性で、
店子さんには
追い出された感で、
今までの付き合いにひびが入らないように!
最大の注意と、努力をしました。

女のお子様を育てていらしたので、
幸せな、移動が出来て、
新たな出発感が残るように、

アパートは無くなっても、
人の心をなくさないように、
出ていただきました。

美しい封筒に、
来し方のお礼状が届きました。

私が、残したものは、、、
なんだったのでしょうね?

土地だけの値段と
こわし代金400万差し引き
値下げして
急遽、
相場の半額以下で、
急いで手放しました。

76歳と71歳の私たちは、
頭の働くうちに、
ややこしいものは処分して、

還すべきところに返し、
払うべきところに払いましたら、

手元には、
何も残りませんでした。

不動産手数料は、感謝なので、
仲介さんに、
一番先にお支払いしました。

思えば、役目が終わったAPは
若い人の手で、
また、
新しい役目を果たす建物に建て替えられて
時代についてゆくのでしょうね。

一文無しになったというのに、
駅に近い一等地も、
使う能力のない老人になっていたことに
自分では気が付きませんでした。

老後、
長生きするには、
7万の年金では足りません。

健康こそ、年金です。
健康こそ、宝です。

それにつけても、
屋根の形を設計図と違う修理をしていった
ミサワホームの建築家の
建築士さんが本気で修理してくれたら、

毎年、
激務の雪下ろしをしなくて済むのですが。!!!
重たすぎる冬の雪かきが無ければ、
子宮だって、落下してこないのですが、、、。


同じタイプのミサワホームで
雪下ろしをしないお宅の屋根が

目の前で、軒が折れて、ぶら下がっているのを
目の当たりにすると
子宮はともかく、屋根にあがって
雪を下すのですよね。
お向かいは
小さな、お孫さんがいらっしゃるので、心配です。

我が家だって、3人も孫が遊びに来ます。

危ないですよね、、、、このままでは。

このサイトは、一人の家族と
4人の兄弟の為に
個人的に日記として、
話が解かってもらえるために、

書いていますので、
ほとんど公開していません。

ミサワホームさんが、
もしなんかのサーファーで、
もしも見ることがあっ多なら

現場を見て、
落っことそうな屋根だけは、
危険がないようなアドバイスの
工夫をされた方が
良いと、思います、

今と違って、
北海道の、発展途上の時代の

買ったゆえに
抱え込んでしまった
見えない負債の部分です。

ミサワホームの思い出日記です。
未来の若者家族を
商品化しないための
本社精鋭が、最大の力で

地方の技術者が
担当してくれない時は
大工さんごと、
本州から
連れていらっしゃることが

ミサワの魂の「ベクトル」
「合力」の
バランスを無視しない修理や
メンテナンスが出来る道と
感じたものです。

土地の人は
土地の発展の為にベストを尽くすように、

外からの文化の侵略同様に考えて、

谷間の「ミサワの客、ミサワのフアン」を

消耗の商品にしないで
「主役に抜擢してください。」
ローンで、金銭が払える段階で
「客」なのですから。

会社の愛を見せてください。
それが、誇りある日本の仁義?かもしれません。

貴重な、、、デタ―は
発展途上国に進出するとき役に立つはずです。

原住民は、技術をひきだすのは酋長しかできないという事です。
どうやって、酋長を動かすか。

それが問題だ、、、ハムレット。。。ハムレット  、、、(^^