花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

海外旅行は若いうちに行っとかないと、事故、病気。医療費破産も?

2015-05-31 05:56:30 | Weblog
息子たちよ、孫たちよ、海外旅行は、医療保険をたっぷり入って
若いうちに、友好国を回って、海外を見とくと良い。

カナダや、アメリカ、中国、トルコ、ギリシャイタリヤ、ハワイ、、、海外事故実例を
ジェイアイ傷害火災保険株式会社が、表にしてまとめたものを、
旅行会社のカウンターで渡された。

、、、、びっくり、、、一か月も入院すると5000万以上の国もある!!!!!

保険をかけないで、海外旅行は、、、破産もありです。

仕事仕事で、後期高齢者になったというのに、パリもロンドンも、行く暇がなく、
基幹病院立ち上げから、病院に寝泊まりして、いた、、、外科医の夫は、連休も、年末新年も
救急呼び出し、オンコール中。休めるようになったのは、70歳過ぎてからでした。

来年は、来年こそは、、、と言いながら、
とうとう、ロンドンとパリを逃してしまった。

医療にしか興味がない夫は、
ドイツや、アメリカの、病院見学研修や
、学会で、海外の出張があっても、
ビルの中から一歩も出ないで、
スライドをいじくっていた、、、という。つまらない人生?が詰まる人。

毎年、、、
ロンドンぐらい、
パリぐらい、
街歩きしてないと、人生仕事だけで終わるわよ。

今年は、私も、夫の扶養家族から、健康保険が外れ、国民健康保険になった。

今度は、70歳の私が夫を扶養できるように、後、5年間は頑張るつもりです。

仕事しか興味のなかった夫は
仕事仲間と、研修旅行や、学会の旅行で、
天津とか、
めったにゆけないところの、病院めぐりはしているが、

シャンゼリゼも、
ピカデリーサーカスも、見たことがないという。

あれが、、、パリの灯りだ!!って
感動する人生は、
私たちには、とうとうやってこなかった。

若き日に、
私は、薬剤師で勤務していた時、
「薬史学会を率いて、世界の病院を回り」の薬史学会に参加しました。

ヨーロッパのパリ大学など、医学薬学の研究をなされていた、
東京大学の先生の率いる団体に応募して、感動しました。

パリとロンドンの歴史的に
何百年も続いている病院や、ペニシリンの発見で知る人は知っている
「セントメリー」の病院で、玄関のタブレットに感動したり、
博物館に
展示されていたペニシリンのシャーレに、見入っていた。

入口ロビーの
「エリザベス女王」のコーナーで、病院事情が、
日本とかなり違うことにびっくりした。

私の父はイギリス医学を習った外科医でした。
おじさんは、ドイツ医学を取得して、
昭和の10年代に、日本にレントゲンを持ち込んで病院を運営していた。

若き日に、海外で医療に直面した医師も、薬剤師も、
日本と病院のビジョンも
医療の軸になっているものも、
かなり違うことに気が付いたはずである。

慈恵会の創立者の高木先生の留学していた病院にも行ってみた。

医歯薬博物館にも行ってみた
、医学の黎明期の道具も、資料も
よくぞ、、、とってあったと思うほど、多くの資料が展示されていた。

どんなに優れた技術や、研究も、
一部を除くと、
10年たつと踏み台になって消えてしまう。
、医学本も
医療機械も、
バージョンが異なって、
新しい学問に覆われながら、臨床医は、患者さまの心の中にだけ、残ってゆく。
そして、患者様も、医師も寿命とともに、何も残らない。
忙しかった記憶だけが、サポーターにも、家内にも忘れられないで残る。
医は仁術の心に貫かれた、こだわりの心と
医療関係者の情熱が、未来への足掛かりになればと考えたのだろうか?
これほど多くの医学のプロセスの経過を展示することが出来たのは、不思議であった。、
NHKでも取材できそうにない貴重な研究の実験道具や、検体の物質まで
研究室が、博士が使っていた当時のまま、そのまま展示されたパリの大学でした、
部屋の中の額に入った「ノーベル賞」など、
額から出して、紙の質まで触らせてくれました。

パリの博物館では係りの先生がサインを入れた博物館の展示物アルバムをくださいました。
ゆく先々で、歓迎を受けて、パーティまで開いてくださるのですから、
東京大学の先生の、顔の広さにもびっくりしました。

柔和で、たおやかな笑顔の中に、世界に友人を造れる何かがあるのが、不思議です。

戦場で、野戦病院の惨憺たる現場にキリストが現れた絵もありました。
子供のころ、父が話してくれた絵に出逢えたのでした。

空港では、どういうわけか、
一般参加の私だけ、群れから引き離され、別室で
いろいろな質問を受けました。
日大時代、ESSクラスに顔を出していて、本当に良かったと、
無事に答えられて、皆さんに迷惑をかけずに済んで、ほっとしました。

父が日本の医師である事、
夫も、兄も、弟も息子も医科大生であることを答えると、
イギリスの空港の、質問者は、私の家族を
「サーという称号」をつけて話してくれました。

イギリスでは、事務関係者より、医師が丁重に扱われているようですね?
女性の係員も入ってきて、丁重に、皆なの待つロビーまで案内してくれました。

医歯薬歴史の旅だったため、
病院めぐりで終わりましたが、フランスでは
歩いて移動したため、
薬剤師会館に近いノートルダム寺院に立ち寄ることが出来ました。
パリの裏町の路地も通り、絵を見ているような散歩道でした。
途中、果物屋さんで果物も何種類か買うことが出来ました。

働いていたこと、薬剤師会員だったことだけを「参加資格」として、
東京大学の公募を知らされ、のこのこと、ついてゆきました。

先生が、苦労して耕したイギリスやパリの著名な病院や、
パリ大学などをめぐる旅は
生涯の宝物となりました。

S先生、、、ありがとうございました

日本の医療界では、
医歯薬の歴史を残しているところといえば、
東京女子医大の吉岡先生の像だったり、
順天堂大学だったり、と
たくさんの医科大学が、歴代の院長の
お写真を保存していたりします。

北海道の陸別では
「関寛斎」先生の私物を集められたミニ博物館があり
夫人の「黄八丈」がブックカバーとして夫の日記帳を包んでいたのには涙でした。

数回、足を運び、関先生のご苦労が、マネのできるものではないと思いました。
岐阜では、内藤博物館が、漢方関係のコレクションで、楽しませてくれました、

一方、現実の、近代医学への鏑矢となった理想のセンターが生まれたと
父は、興奮して、話していたのを記憶しています。
医師達が、夢に見た、理想の形だと、父は話していました。

国立がんセンターは弟が勤めていた時代に
、兄が、崎田先生とか、市川先生のことを
神様のように敬い、通い、
指導医という、当時は聞きなれない資格をいただいたと

上機嫌であったことを思い出しました。

「大博士」の時代から
、認定医、指導医の時代へと
臨床力が重視される、仁の時代になったのでしょうか?

確かに、、、論文を書く暇は、臨床医にはなかなか与えてもらえません。、
若き医師の感性は、現場の空気を吸い込むことの方が、机に向かうデスクワークより

目には見えない、臨床力が付くことを、大学も評価する認定の時代が来ていました。
実践に強い時代が来たのでしょうね。

ほとんどの卒業生が大学院へ進み4年か5年後には博士の成る今日
博士は、取得大学しか認められない資格だが、

認定医や指導医は日本全国共通の臨床力を認めてくれた
貴重な資格だと、兄は、薬剤師であるがゆえに、臨床は、よくわからない私に、
こまごまと話したものでした。臨床医を目指す兄は興奮していました。、、、
昭和40年代に現場医師の考えが大切にされていたのですね。
指導医になったとき、顔が輝いていました。

日本の医療は、
患者さんには医師は一番偉そうに見えて、
一番お金持ちに見えると思いますが、
、、
現実は違って、医学の維持にお金は消えています。
宵越しのお金を持っているようでは、同僚の医師達についてゆけません。
学会、本、指導を受ける研修、留学、、、etc,
家庭は裏かたの、便利屋に徹します。お金が無くなっても、
ありそうにふるまうことが、仕事です。
医師になるのも、医師の大学を卒業させるのも、
億単位の仕事ですが、医師をするのは、もっともっと大変な周りの協力が必要です。
親も、兄弟も、一丸となって、一枚岩にならねば、
良い医師をするのは難しいと思いました。

日本の病院のほとんどは、赤字であり、
バンカブルなシステムで、
スポンサーとか、
経済面や、
地元の政治経済が大きくかかわっているようなので、、
医学的に意義のあるものでも、地元の協力が必要です。
維持費や、場所が必要なことは削除されるので、
むしろ、地方の、開業医の先生とか、大学が、
医学の発展の歴史の足取りをつかめるものを保存しているのではないでしょうかね。

イギリスに於いては、

ウエルカム医療の博物館の地下の本屋に、
日本のエーザイが翻訳していた医学の歴史の原板が
売っていたので、
「日本に送ってほしい」と頼むと、
「この本は、ここに来た人で、
どうしてもほしいという人にだけ売っているので、送れない」と言われました。

4キロもある本を、背負って、
日本に帰ってきたときは、買ってきてよかった!!!と。(^^

夫が勤めた創世記の病院も
初めは「スヒンクス」のように、手稲の荒野に突然現れた
一棟の建物でした。巨大な個人病院の出現でした。

この建物が建つ直前の原野で、縁結びの神様がいたのでしょう!
偶然にも私は、ここに立ち写真を撮っているのでした。

勤務先の部長が、病院の建つ原野を見に行こう、、、と連れて行ってくれました。
その後、病院が忽然と現れ、
函館国立病院の夫に、
大学人事で異動がしらされてきました。

単身赴任をこれ幸いに、
正社員として勤務し、月給をはたいて、鬼の居ぬ間にヨーロッパで
医歯薬史学にうつつを抜かしていた束の間の2年間は終わりを宣告されました。

選手交代、家庭の主婦に逆戻りです。
夫は大学のチームの学会で、教室の先生方とともに
アメリカ学会に15日の自費参加に加わりました、

心臓の弁置換に使う人工弁の会社で、今は見当たりませんが、コルディスという会社です。

当時の人工弁置換など手術室で見学の機会をカメラに収め
歴代の院長や、功労の歴史の展示室の写真を撮ってきているのです。
アメリカの病院には、何十人ものノーベル賞人間が勤めているそうですね!?
本当ですか?
姪っ子夫婦が。ハーバード大学に行っているので、しらべてもらうかな?
夫が、アメリカ学会で撮ってきた写真を
私は、整理するのが楽しくて、
今日の弁置換にいたるまでの、
弁そのもののコレクションを
楽しんだものでした。

このような、努力のつみ上げの結果の成果が
心臓病を救うことにつながっているのですね、

患者様の立場から考えると、
医師の皆の不屈の学術や実践する臨床への努力が、若手の夢に満ちたドクターに引き継がれ
アメリカや、フランスへの留学や学会を通して、技術が確立され発展するのですね。
費用も。時間も。パッションも。健康な心身も。スーパーな強さがないと
務まりませんね!やはり、、、選ばれた天与のパワーが必要なジャンルのようですね。

北海道でも、再び、心臓移植をできる先生が育ったのですね。
凄いですよね、、、、、新しい出発が、北海道にもたらされたのですね、
日本中の協力を得られて、医学って発達する者なのですね!
真摯な魂の評価される、特殊な難しいジャンルなのですね。

医学の歴史にこだわっていると、
それを継いでゆく人材確保が。医学の発展につながってゆくようですね、
人を産み人を育てる主婦は、母ですね。

阿部首相に、医学の医療の、発展と医療の国際ネットワークの確率が、
高額海外医療の破産者を出さない一つの考えかもしれないことを
誰か伝えないと、
自衛隊が、怪我をすると、医療破産では日本の経済は、
落とし穴に落ちてしまいますね。

万一に備え、国を守り勇敢に危険ゾーンに行く自衛隊の皆の医療だけは
海外の高額医療を回避して差し上げたいものですね。

主婦の、70歳のおばあちゃんが、日記帳代わりのブログで
書くのは、笑われるだけかもしれませんが、、、
外国での怪我は高くつきますね。破産するほど、、、。

話は余談でしたが、
元に戻って、ヨーロッパでの医歯薬史見学のびっくりを聞いてね。

ヨーロッパで、500年続いている病院は、
500年前の建物がそのまま残っていることにびっくりしましたが、

昭和40年代から平成へ

がんセンターのCTの開発や、
ヘリカルCTに至るまで、

また、昭和42年、
兄が使っていた、
初代の、飲み込むのに一苦労の太い胃カメラから。
オリンパスの細くて、首が回る細胞をとってこれる胃カメラの発展まで、
医学の歴史は、政治の介入と、
医学そのものの発展を
専門分野のビジョンを大切にしないと、
日本では、歴史の足跡を残すのは、
奇特なこととして、
病院の発展の歴史は、正確には残すのが難しいお国柄ではなかろうか?
昭和42年、近代医学の黎明期に、
東大の文化祭に、医学の展示室で
ぶっとい、胃カメラが展示されていたのを思い出します。
その後、千葉大学の、市川先生が、がんセンターで
これが、、、医師の夢だ!みたいな
若者の心をとらえる医師の生き方と出逢って
外科医の父を持つ弟は、
手術時点では手遅れの場合が後を絶たないとぼやいていたが

いつの間にか、大学の医局から
がんセンターの「市川先生のもとに、移っていました。」

そこから先は、「がん回廊の朝」「明日への挑戦」という
単行本が、遠く北海道へ嫁いだ姉に
弟の、医学活動をつたえてくれました。」

叔父さんが夢で、画像医学に進んだ息子よ。
叔父さんは「神の域」だなんて
叔父さんの残してくれた「ピットホール」を教科書に
やっと、一人前の、役に立てる画像医師に育ってきましたね。

怖がるな。あきらめるな、自分を信じろ、
君らしく、君を出し切れば、患者さんにとって、
ひとつしかない命はは救われるのだから

母さんは、、、臨床医こそ「医師の中の医師」だと思っています。
著名な研究だって、
臨床医が患者さんに役立てなければ、、、、ただの研究に終わると、、

ノーベル賞の山中先生は、
臨床医を理解し、実践し、必要の親のような研究で
脚光を浴びているのに、
TVのインタビューには、
臨床で使われてこそ、、、とおっしゃっていた、

臨床医はいつかは、何も残らないかもしれない。
それだけに、音楽とおんなじで、
時間の芸術なんだと、、、ママは君を応援しているよ。
「サラブレッドは血で走れ!」
 
今日の文は、あなた一人が、暇なとき読んで、ください。

あなた一人の為の、たわいもない、おしゃべりです。




活火山は地球の生命を感じますが、、、怖いですね

2015-05-30 21:51:44 | Weblog
火山が噴火していますが、島の皆さんの、素早い緊急対応に
ほっとしています。

若き日に、洞爺湖に遊びに行って、爆発に出会いました。
ワイパーで、火山灰をかき分けながら、札幌に向かって
ひたすら車を走らせました。

真駒内に着いたときは、ボンネットが灰で白くなりました。

箱根も火山がむずかっています。
御嶽山の爆発があったばかりですから
皆。注意万全ですが、
いざ戸いうときは

命だけ持って、避難してくださいね

欲張りと無欲 

2015-05-27 14:13:55 | Weblog
最近、、、さみしいな、、、と思うことが 続きます。
40年前、ミサワホームランドに越してきたときのことでした。

一回りも年上の地元のエリートの御主人を、こよなく尊敬しているご婦人が
たまたま、隣に住んでいらっしゃいました。

当時のミサワホームは、栗林ミサワホームという、北海道版の庶民的な建物でした。
会社自体は、名門ですが、請け負った北海道の会社が、発展途上の技術だったのでしょうね。

水洗トイレの土管が、庭の真ん中で土管不足のまま、地面に浸透していたのです。
つまり、、、排水の土管が下水につながらないまま、販売されていたのでした。
その、土管を撤去しないまま新しい土管を設置したから、
庭は土管がいっぱい埋まってしまいました。

見えないから、、、いいやって、、、割り切れるものではありません

使っている私も、流れが変だと思いつつも、こんなものなのかなと?
そのまま使用していたのでした。

ひな壇造成地の一段上の我が家から、
この、、、エリートのお宅に、境界を越えて浸み出したのでした。

仲良くなるつもりのお隣さんは、カンカンで、許してくれそうにもありません。
結局、当方の敷地内にブロックの塀を建てることで、一件落着しました。

塀は、物置の屋根の高さにそろえたため、お隣さんのお顔が見えなくなりました。

あれから37年たちました。

お隣さんなのに、、、亡くなられたことも知らず、半年が過ぎました。
家を買うときには、買い手さえいれば、主役は銀行と建売業者が主役の時代でした。

5年間の間に30回以上のトラブルが発生し、
誠意のあるミサワホームの社員さんは、飛んできてくれました。

対処療法で、その時の技術の精一杯で、原因撤去の処置を、してくれました。
屋根のトラブルで、水漏れがひどく、120万かけて、トタンの張り替えもしました。

当時の技術は、雪止め三角子屋根は、そのまま五寸釘で軒先に、ロボットの鼻のごとく
打ちつけて、雪が一時に落ちるのをスっトップしていました。

三角屋根ののりしろのような襟には10センチ間隔で15センチほどの
螺子アメのような長いくぎが十本あまり打ち込んで、防水処理はしないままでした。

水が漏れ、アオカビがびっしりと覆いました。
ミサワホームは、さすがに、平謝りでした。
こうして、5年間、信じられないトラブルで、冬の雪が。巨大な氷塊となり
屋根を滑って、真下のコンクリーベランダにバウンドして、窓を壊して
部屋に飛び込んできました。
我が家と、業者が折半して、南側の屋根のこう配を変えました。
屋根は、あちこちめくってはトタンを変えたので、つぎはぎだらけになりました。
巨大な氷の岩が落ちてきたコンクリートのたたきは、今も粉々にヒビが入ったまま
バウンドして、窓際の机や鉢植えをすっ飛ばして、奇跡的に助かった息子たちの
部屋は、あの時以来空き家になっています、
水道も、どこが漏れているのかわからないまま、メーターばかり取り換えに来るのですが
止めたままです。10年以上前ですが、止めてる水道が漏れていたため
豊平の水道局から、42か月分の基本料を請求されて、支払いました。

ミサワは、本州では評価の高い素敵な建物です。
私は、モンドリアンのような、シンプルなハイセンスのデザインが大好き。
北海道に越してきて40年以上になりますが、関西で育った私も、雪の怖さは
わかりませんでした。屋根の雪の配分が、落雪事故の時に直した屋根のデザインが
片方の屋根にてんこ盛りの落雪がたまる設計変更の修理がなされたため、
ミサワの最高に良いところである「ベクトルのバランスが崩れ、屋根の支えの部分に
ひび割れが出始めました。何十年たっても、ミサワのアフターさんは飛んできてくれます。
3人がかりで、雪下ろしをしてくれました。

一見いきている この家は夏になると、カメムシが驚くほど入ってきます。
ありんこもいっぱいです、
あちこち、ガムテープでふさぐのですが、パネルの接合部分が隙間があるのかもしれません。
毎年、固定資産税を支払いながらも、倉庫の役目しか果たせない家を、誠意のアフターさん
に、任せないで、一級建築士の、メインの人が、修理設計を担当してくれたら、
そして、誠意のアフターさんが、現場施工を指示に従って修理してくれたら、ここまで、
つぎはぎだらけで、使えない家にはならなかったのでは、無いでしょうかね。
自前で、屋根の修理を頼んだときは、てっぺんからの継ぎ目のない長尺トタンが
半分ずつ板金されたため、雪が積もると、継ぎ目から毛細管現象で屋内に水漏れが
起こります。冬はストーブをたくと、天井がしみだらけになります。
内装だけきれいに張り替え、天井も、しみが目立たないように修理して
ストーブは焚くことのない20年が過ぎました。

家を買ったために、維持費で一生つくことのない家に、心ならずもなってしまった
本州の名門のミサワホームの一級建築士さんに、
この家をいつか見てもらいたいと、思うのです。

仏作って魂入れないと、雪に負けてしまい、使えない家を、維持しながらも、
どこか、安らぐシンプルな無駄のない日本間に、未練があるのです。
使ってないだけに、とのこのついたままのカモ井に、なんとか使える
ミサワにしたいと、、、あの時以来時間の止まったままの、この家に
命を吹き子みたいと思うのですが、、、、後期高齢者の我が家には
いたずらに、日々悩むだけの、マイホームです
我が家に来た大工さんのおひとりが、

これが「家」だっていうの!と
「こんな、トラブルだらけの家は、おかしい?」
と、、、我が家のごとく、怒り出しました。

年月経ってるけど、痛んでないから、何とかならないかなー?

結局、私たちは、となりの空き地に気泡コンクリーの家を、別に建てて、
ミサワを貸すことにしました。

いざ、貸家にしてみると、コップ一杯の水漏れが始まった段階で
屋根のトタン替え、またまたトラブルでス。
水道が、壁の中を走ってなくて、外にむき出したままだとか、
漏水しているが、検査しても、原因がわからないとかで、
パッチワークのような、つぎはぎメンテナンスのまま、
どうしてよいかわからないまま、ローンに追われた。

家の購入によって、気まずくなったお隣さんと
さりげなく、大人同士の、つかず離れず、きましたが、
あれから30年、、、、

亡くなったことも知らない、、、寂しいお隣さんになっていました。

今、40年近く北国に家を建て続けたミサワホームの家は、

雪を計算に入れた、素晴らしい設計になって、ため息がでます、

今年は。雪の落ちない片流れの一回の屋根を、除雪に協力してくれた
ミサワホームの巡回業務の方に、
心から、ありがとうが言いたかった。

何処からともなくカメムシが入り、へやじゅがカメムシの匂いで困ります。

良いものならだれでも愛すマイホームの台所の流しが、カメムシで変色し
色素が取れません。
たなこさんも半年持たず、引っ越し代金当方もちでさようなら。

引き当てた、ミサワホームは、北海道上陸が早すぎたのでしょうか?

今年冬に備えて、なんとか修理も必要だがミサワが
庭木として植えた山もみじが
巨大な高木となり、、
自然の巨木に成らないように、のこぎりで処理しても
どうにかしなくてはならないという、山のもみじを、庭に植えて、いる。


お隣さんと、仲良くなれる家というのが、建売のテーマかもしれません

水道が、どこが漏れてるかわからないまま、雨水ヲ貯めて使いながら、。
上水道も下水道も、どうしていいかわからないまま、人生の就活がやってきました。

北海道への本州の、雪を知らなかった建売が、小さな平和を守れなくて、
時代は過ぎてゆきました。
今、新幹線が走る本州と北海道の間に、「雪」のコンサルタントが要ると
思うのです。

一戸立ちの家から、億ションまで、本州の名門の建築会社とは申せ
雪を知らない設計士が担当すると、我が家のように、
宝が、逆に、足引っ張りのお荷物になるのです。

さび、防水、門のコンクリーの配合まで、考えないと、我が家の門のように
ヒビだらけになります。素材も選ぶ必要があります。
雪の凍結や暖気の膨張率を考えないと、玄関の床のように、
ぼろぼろの砂利が露出してきます。

幸せを買ったつもりが、毎年の危険な屋根の雪下ろしで、
理想の筋肉が付きましたが、
重さと冷えで、子宮が出てきました。
去年手術をしましたが。、、、、

我ながら、気が付かない伏兵でした、
必要以上の、雪下ろしを強要されるデザインの屋根は
女の命の子宮を支える、骨盤底の筋肉の断裂に至る過重労働であるという事です。

新幹線がつながった今、冬の知識の少ない建築が増加しないように、
全社で、冬対策の建築技術を分け合って、北国のかわいそうな
雪の害を、未然に防ぐ建売や、マンションを販売してくれたらと、
使えないけど、愛するミサワを、夏だけ、アトリエに使っています。
トイレも水道も使えませんが、ペットボトルと、雨水で、
庭を愛でる71歳もうすぐの、ばあやです。
幸せは、、、、建築屋さんの思いやりから。

主の去りし 空き家で  囀る 雀の子」

2015-05-26 23:49:37 | Weblog
札幌の羊が丘のすそ野
彼女が引越してきたのは
息子たちが小学校の時でした。

あれから
30年の月日が過ぎて
彼女は主のもとに、、、

花が好き
犬が大好き
おしゃべりも、
テニスも
スキーも
水泳も大好きだった、

にぎやかに
笑い声が聞こえていた。

彼女が去った庭には
つつじが咲き
旦那さんは
時々、姿が見えた。

一年は耐えられなかった
旦那さんは
家財を始末して
老人の施設に移って行った

今では
主の居ない車庫の鉄骨の空洞の中に、
巣ヲつくり
去年と同じ風景である


主の居ない家には
にぎやかな
小雀の
えさを取り合う大合奏が繰り広げられてゆく


寂しい、、、、、、寂しいものですね


飛行中の雲海の中で

2015-05-23 22:32:08 | Weblog



雲のなかを、泳いでゆく

北へ、北へと 飛んでいる。

雲海を乗り切って、

あたりは、ゴルフ場の並ぶ砂浜

パソコンごと、引っ越した

近いよ、、、、、

久々の更新、、、、

また、会いましょう、

この、花鳥風月の

とりとめのない、日記の中で、また、会いましょう