昭和10年代の兄弟の中で
強い者だけが、
頑張るものだけが、
戦後の復活の世の中を
復活に導いたのだろうか?
弱い者であっても、おっとりと生きている
役に立たないと言われながら、
強い仲間たちの頑張れる炎の点火をしている。
明治時代の40年代に生まれた両親は
徳川から開国の激動期への
時代の津波を受けた年代であったと思う。
平成11年の東北の津波を思うにつけ
徳川時代から明治、大正、昭和と
時代の波が見えるような錯覚に陥った。
「平成」という祈りにも似た時代の年号が
災害を、何とか、破滅から救ってくれたように思えるには
遠い、昔のシャーマニズムの時代の遺伝子が
私の中で、理屈も理由も科学も、人工知能も置き去りに
天に架ける直観のような先祖の囁きが
凍結保存されていた何かを一瞬の閃光のごとく解凍して
この世との互換性のある周辺機器にと
私の身体を一瞬時間の間だけ
os化したのだとしたら、
科学の果ての宗教と考えてしまう。
今、、、私の中で、平成時代という時間が止まりつつあるのです。
世代を超えて、生かしていただける居場所があるのかと、、、
先が見えないときもあるのです、
両陛下のお姿が、このままTVを通しても
観れなくなったら、私たちの世代の老人は
時代が視えなくなってしまいそうです。
災厄を避けたという「延喜」
この時代の古典蔵書に中には
朝鮮ニンジンが、現在の長野県で栽培されて成功して
朝鮮と日本は朝鮮ニンジンなどの薬草を介して交流したことなどが
若き日に参加した朝鮮での薬学会で教えていただいたことが有った。
災害は天災と、
国家間の一部の権力者間の理解不能から巻き込まれる人災がある。
目下後期高齢者になった私たち夫婦は
子供たちが社会の一員として頑張ってくれているおかげで
孫たちも、上の二人は公立高校生になって
未来に日本の担い手の若い衆の一人となって
国際間にも間接的に、ご奉公が出来る
心身ともに、、、普通人ではあるが健康人に育っている。
この子たちの世代に、、、世界に巻き込まれて、
戦争になるのだけは避けてほしいと思うのです。
皇室は国民の象徴として、
どんなに科学が進んで、マンションだらけの空き室が
外国人労働者や、商魂たくましい金満家で埋め尽くされたとしても、
皇室がお手本になってくださるから、
昔ながらの街道筋の世界遺産が存在していますし、
昔ながらの東北のリアス海岸の漁業を守ろうと
人生の後半は特別税を納めるためにも、
観光旅行費は全部貯金して、
東北の復活に
日本国民のほとんどが
祈りをささげたと思うのですよね。
普段は商売が先行する演歌の歌い手さんたちも
商売抜きの、持ち前のハートで慰問の心で
流行歌を、心で一緒に歌っているシーンには
魅力を感じました。
普段は女性の業の強い演歌を歌っている歌手の女性も
東北の、漁師さんの土地に伝わる民謡を、譜面に書き
譜面では歌にならない「こぶしのある民謡」を
とうとう、、、土地の長老のおじいさんから
口伝で教えていただき、
自分で録音して、
何度も何度も、、、節回しを練習して努力に努力を重ねて
再度訪問したときには
土地の歌を、、、生き残った住民の皆と合唱するTV放送には
感動しました。
石川、、、さゆりさん、、とか、、、おっしゃっていた歌手ですよね。
津軽海峡冬景色を歌っていた時代に
私は、誰一人親しい人のいない北海道に
付き合ったことも無い外科医の卵を迎えに、
東京から、連絡船に乗って、札幌にやってきたのでした。
あれから、、、50年過ぎました。
2年たったら、私の家に「鱒男、、、マスオ」さんになってくれて
54歳で早逝した外科医の父の残した患者さんたちを
路頭に迷うことのないように
起承転結、内科医の兄と協力して
早逝して、これからの医師としての仕事を
満載して残していった父の後を
新任の外科医として、引き受けてくれるはずだった。
。。。。。。
しかし、国立という国のお金で医師となり
札幌という、土地の協力で学生時代を過ごせて主人は
いざ、、、籍が入って、結婚という社会的な責任の為の
江戸屋敷の妻が出来たとたん、
「自分は北海道人であると、、、気が付いたみたいだった。」
母の期待をよそに、北海道の地方研修をこまめに回り
息子が産まれたときには、余市の病院で研修に、技術取得に明け暮れた。
移動さきには、洗濯機も、TVもなかった。
マイナスの世界で、お湯を沸かし
タライで、山のような育児期の洗濯をして
ストーブの周りは
晒布で作ったオムツで
快適な湿度を確保できていた。
3歳の頃は留萌に居た。
留萌の寿町の断崖の上からは水平線が見えた。
虎落笛、
ガラスがはち切れそうな嵐のような海風が毎日続く。
氷紋がガラスに凍結したレースを飾ったように模様を描く。
ナカヤウキチロウ先生の雪の研究を思い出して、
吹雪の合間に本屋に駆け込んだ。
留萌の町で、
目的の本を手に入れるのは至難の業であると
あきらめて、、、
坂道を岐路に着くと、吹雪で30センチ前が見えないのだ。
もう一度、近くの商店に飛び込んで
吹雪の静まるのを待って、寮に帰った。
夏の留萌は海がきれいで、
故郷にかえれなくなった 人生の縁なき縁の出会いを
社会のシステムに疎い自分の愚かな判断だと気が付き
夏の留萌の海を見ながら、夕方まで
幼い息子と、身体を洗濯ロープでつなぎ
泳いで過ごした。
思い出の「詩」がアルバムから見つかった。
海辺のブランコ
留萌の海は
なだらかな丘の下に拡がる
海辺の遊園地のブランコは
海が見えたり見えなくなったリ
浜辺に降り立つ坂道では
白い世界に突き放された塵が
風邪におびえて飛び狂う
遠い、、、冬の日に
碧いうねりに吸い込まれてゆく
青春の渦巻きを
真っ白になって、、、視ていた、、、私。
青春が終わった瞬間、、、
それは
波が引いて線になると時、
さざ波さえ避けて逃げる水平線。
過去という静止。
ひとひらの雲が
優しい影を投げかけて
旅の疲れを癒してゆく。
五月の海は
うす緑の丘の下に拡がる
よちよち歩きの坊やの手を引いて
渚を歩けば
去年の夏の足跡が
波に浮かんで
白い裸足に打ち寄せる
燃える落日に
たった一本電車が走り
坊やと 濡れた足で追いかける、、、
留萌の海は
なだらかな丘の下に拡がっていた、、、
海辺の遊園地のブランコは
未来と過去が揺れていた
昭和46年、
戦争から復活してゆく日本の
たくましい未来を見つめながら、、、
生きるために、
未来を生きるために、、、
日本のどこにでも
夢の始まりが存在した時代でした。
それからバブル時代が過ぎ
札幌にはオリンピックの華が舞い
高層ビルの大都会への変化の兆しが表れた。
平成時代になり、
神戸の震災や、、etc.災害時代に突入、
故郷に帰るチャンスは遠のいて
息子を故郷の東京の大学に進学させることで
故郷への感謝と、出来る限りの御奉公と思って
私は、正に、、、北海道人そのもののように
郷土と、母校を愛する主人に押し切られて、
人生の相棒として、
「医師をすること」しか,
脳みそが無いのでは、、、と疑いたくなるような
徹底的な「医者バカの主人に、裏方は必要と思ってしまいました。」
東京の実家の父の後をしっかり守ろうと、
青春の自分に生きるエゴを封鎖して
浅はかにも、、、国立大を卒業して
自営の医療機関に入りたいという
ホームシック時代の若き医師のボヤキを
母が真に受けてしまった。
故郷の東京を去る結婚になるとは、、、想像しなかった。
故郷の青春のたまり場の
駿河台を去る結婚だとは、、、予想できなかった。
医学博士になるまでの、大学院時代を
持ち家も無く、転々と、
大学のシステムに従って
ローテイションしながら
主人の裏方をすれば、
東京で待っている母の家で
サザエさんのように
マスオさんの主人と暮らしながら、
私は父亡きあとの実家に帰り、
実家を支えることで
次の夢が開けると思っていた。
北海道に嫁ぐという事は、
「よそ者」としての孤独を抱えて、
「医師をすることしかかんがえの及ばない、、、
余裕のない主人を
無条件に、、、責めるわけにはゆかないが、、、
医師をすることさえ支えれば
世間様や、
授業料を負担してくれた国家に
お返しになると思う以上、、
よそ者としての居場所のない自分を生きるのには
20年や30年の郷土愛が出てくるまでの時間が必要だった。
「孤独に強くなろう、、、!」
薬剤師会に席を置き、イベントのフィールドワークには
子供を連れて参加するようにした。
勉強会には必ず出席をすることにした。
創立90年前後の小学校のあるくぼ地の水質検査に
3年間ボランティアにも参加させてもらった。
學校薬剤師もさせていただいた。
真夜中の12時から翌朝7時までの
救急病院での奉仕勤務にも参加させていただき
真夜中の救急医療の実態にも触れることが出来た。
卒業後、東京大学の医学部の江橋教室で
医学部の基礎の実験の実務を担当させていただいたとき
ヨウ素131の同意元素に医薬をつけて、
薬品が、体内でどのような運び方をされるのかという
放射性元素の「ドラッグデリバリー」の実験の
お手伝いをしたときは、、、
独身で、このような、意義のある実験に従事していたいと
真剣に思ったことも,,,
夢のように過ぎ去ってしまった。
昭和時代というのは、女性が、生きるのには、、、
相当の実力が必要であった。
月給など気にしなくてもよい「環境」の持ち主であることも
大きな,、、持続力の要素でもあった。
父を亡くし、、、
これから、医学部進学の弟もいる状態で
自己実現の優雅すぎる夢と
遊んでいる暇は無かった。
東京大学を卒業して、
東京大学に勤めたのでは未来は明るい。、
薬学を卒業して、恩師の恩師である医学部に派遣されても
優雅な環境を、のほほんと、実験のお手伝いで過ごすには
「父亡き子」の私には
しなければいけないことがたくさんありすぎた。
未亡人の母を、、、どうしたら守れるのか?
母の時代の医師の家庭というのは
やや、、、特権に近い裕福さが有ったのかもしれない。
それが、太平洋戦争で、木っ端みじんになり
貧乏な環境で、疎開地に逃げる生活への
落差は大きかったのに違いない。
母を支えるには、私は
全財産の相続を放棄して
家業の医療施設の一員になるのが、
手っ取り早く
やや、、、お化けのようなスケールの母を守る手段だと
愚かにも、、、若気の至りで
私は、、、亡くなった父の代わりに、
同じ外科医を連れてきてくれれば良いでしょう、、、!
絵に描いた餅みたいな、、、母と主人の交換条件の結婚に同意した。
結局は、、、
ミイラ取りが、、、ミイラになったみたいですが、、、
五〇年経過すると、、、故郷を遠くから思うようになれるものです。
平成時代が、、、バトンタッチされた段階で
私の気持ちは、、、どうなるのでしょうね?
東京が素敵なのも、、、見える景色が素敵だから、、、
美智子妃殿下のような、、、
素敵な女性がいらっしゃるから、
平成時代、
国民にいつも寄り添ってくださった
国のお母様のような
眩しいような女性が住んでいる東京だから
帰りたかったのかもしれません。
雪の中で
豪雪を、四時間も、五時間も除雪しながら
真っ白な世界で
イメージは東京の、千鳥が淵の満開の桜が
花びらを散らせて、
真っ白に世界を染めているという
幻の中で
雪を掻きながら、、、
いつしか吹雪が春の桜吹雪を夢見ていた五〇年でした。
自力で帰ろうと、、、皆で、サザエさんン家のように住みたいと
財テクに走ったこともありましたが、
平成時代には、
都市銀行の拓銀も倒産。
潰れっこないと貯金代わりにしていて、
売ったり買ったりは一度もしたことのない
日本航空の株が、、、壁紙にも劣る紙切れになったこともありました。
2DKの4個あるアパートを経営したこともありましたが、
都市計画や。道路計画にいろいろと
素人の財テクとは割り切れない、専門知識が必要で、
結局は、一文無しになって手放しました。
経済界は、片手間には財テクは出来なくて
老後の貯金も無くなりました。
この間、、、黙々と
「医師をすること」それだけに絞りこんで
それ以外は、、、何もしなかった主人が、、、
しっかりと、本分を守って健在でした。
子育て、、、財テク、、、実家での貢献、、、全て、
中途半端な50年でしたが、、、
至らない母の育児ではありましたが
親は無くとも、、、子は育つ、、
立派に社会の一員として参加できている息子たちに
話すことはありませんが、、、
平成時代を、、、どう生きたか、、、
日記だけは書いてみたいと思いました。
後で読み返して、、、消すかもしれません
束の間の、、、こんなことあった、、、
アンナ事あった、、、と
とりあえず、メモの下書き日記です。