花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

映画の巨匠 スピルバーグ と黒澤作品

2012-02-28 07:08:47 | Weblog

西洋の食器やグラスに
伊万里や九谷焼や
日本の感性の逆輸入の物があります。

ゴッホやフランス画家の作品に
日本の浮世絵が影響しています。

日本の多くの寺や美術品は
中国が起源と思われるものが
少なくありません。

西安の街も塀の上の
唐招提寺も
鑑真和尚が日本に移動させたのでしょうか?

あれもこれも
そっくりです。

しかし、、、
日本の「時の巨匠」たちは
其の時代に君臨していた
貴族や大将の
豪勢で贅沢で、
権力の象徴の役割を果たしつつ

美学の最高の感性で
注文主の者を
作品の中に引き込み
しかも、、、

注文主を満足させるために
彼らの教養から来る想像力を

なんと!!!
まるで、、、作品にわさび? 
いいえ、、、芥子?
まだまだ、、、そうです!!
河豚が鑑賞する作品には
本人には毒にはならないが
本人の持っている毒を

ちゃーんと作品に盛り込んでいる。

美しい庭の広さとさわやかさを
室内に取り込むために
窓辺に一輪挿しを使うように。

決して、そこには
室内の人間の蛾で窓を遮断する作品は不要。

庭と室内をイメージでつなぐ技は
人間という感性を持った共演者がいて
しかも、其の共演者を主役にすることで
一輪挿しの役割はしゅやくとなり、
一千万円の一輪挿しが出現する。

名誉や地位や、権力の好きな人は
一輪挿しの中に、満足と
友人関係の感性の共有と
部屋の中に「有名人」という
ステータスの客人を
イメージの中に招き入れる。

黒澤作品の蜘蛛の巣城
マクベスが思い出させられる。

濃密な霧の中に
うっすらと騎馬武者が
シルエットで現れる、、、

何回も、、、現れては消える。
消えては、、、現れる。

繰り返しの中で
振り子の催眠術にかかるように

観客が共同製作の一端を、担う。
「作品の一部として、
自分のイメージで表現を盛り上げる。」

森が動く。。。

洗っても洗っても落ちない血、、、
また洗う、、、洗う、、、

作品に表現されていない次元の感情を
観客の感性を共同制作者として
作品の主役に据えることで、
2次元の画面では不可能な次元の表現を
完成してしまう。

本に例えるのなら
行間を読ませてしまう映像効果を知っている。

聖書のように
読み手に作品の奥行きを
委ねている。
判らんやつには
それなりに。

「ジョーズ」はいつ出てくるのか!?

ハラハラ、、、ドキドキ、、、
なかなか出てこない。

今出てきたらパニックだ!
海は人であふれている、

人がイモ洗いのように揺れて
波の中で足や手がうごめき、もつれ、、、
振り子の催眠術にかかり
観客は監督の共同製作者になった頃

そうです!
イメージで、、、じれったくなり
恐怖が不安と入り混じった頃、
画面にジョーが現れる、、、。

椿三十朗もそうである。

椿が流れてくる、、、
一つ二つ、、、三つ、、四つ、、
其のうちぎっしりと、
あたりは椿だらけになって
椿の小川になる。

観客のイメージや感性を
実に主役を食ってしまうぐらい
共演者にしてしまう。

この時代の監督は
どうして、、、こうした技が使えるのか?

三船敏郎のイメージ
仲代達也のイメージ
山崎勉のイメージ

山田五十鈴のイメージ

窓際の一千万以上の一輪挿しも
そん所そこらの一輪挿しではない。

弘前城の桜が
堀の中で、
もう一つの世界を見せてくれるがごとく

画像は
観客を
共同製作者の中の
主役に抜擢する心意気で
プロの視点を持つことではないでしょうか?

見る側に
「見せようとする蛾」を
押し付けないことだと
思いませんか?

つまり、、、伊万里も
赤絵も、、、

ヨーロッパの作品の
販売のターゲットが

黄金の国ジパングだとすれば
ジパングの
金満家の愛するイメージを
作品に取り込むことで

相手国の自尊心と
共同制作者としてのイメージで
作品は仕上がるとすると、、、

うがった見方で
いやらしい商魂で
創られたものでさえ

勝手に高級な代金につながってゆくという
催眠術がなきにしもあらず。

しかし、、、
感性は魂に近い。

時を越えて残る品物は
決して、、、
時代を映す人間の刹那的な
形や色には惑わされない。

天の光を
製作者の共同者として
主役に迎えた魂の一点に
時空を超えて
残り続けている不思議がある。

すべからく、、、
良いものには
「俺、、俺、、、俺、、がない。」

今のTVは
観客に媚びすぎていると思えてならない。

もっと自然体に
もっと、わざとらしくなく
もっと、目線を客席に!

そうです、、、!!!!!
子供の頃から
「笑点」を見逃してない私なのです。

以上のことは
適当に読んでください。

9月になったら
がん学会で
札幌に来るんでしょう!?

待ってるからね、
ドターと、、、何も考えないで

泥のように眠りこけて
疲れを取れるように

何もしないスペースを
自然体で使えるように

新聞は片付けておくからね、、、
君がいてくれたから
人生は面白かった。

遠くからでも
見える君であったから、、、
孤独ではなかった。

一度しかない人生を
走り続けた君を
遠くから
見ているだけで

元気がもらえた。

どこにもある自己実現にゃ
虚飾にとらわれず、

出産、育児、
リスクマネージの
一人ぼっちの家庭の主婦で
時間が足りなくなるほど
追いまくられながら働けていた。

私の仕事は
いつも
「もとどうり戻すだけの仕事」
「片付けるだけの人生ですが、、、
それも終わりつつある。」

振り返れば
皆がいてくれて
皆がそれぞれがんばって
「居るだけで、元気をくれたから、、、」

一人ぼっちで
長い間
主婦を出来たのだと、、、

振り返れば、、、
「君が居た!」


東京マラソンの日の出発

2012-02-26 12:33:49 | Weblog

待ちに待った東京マラソンが
連日の雪掻きで、へたれた精神に

活力をくださいましたよ!!!!!

日本の「2位」
立派ですね!

タイムもオリンピック級ですし、、、!

エチオピアに勝てないのは
仕方がありません。

あの国土の条件で走っている選手は
誰もかなわないでしょう。

でも、
同じ分単位で走った日本はすごい!
最高に元気をくれました。

表彰する時の
「石原慎太郎都知事」は

万年青年の永遠の素敵な紳士でもありますね。

素晴らしい、青年です。
世界でもフアンが沢山いることでしょうね!

私の母は、慎太郎さんが、大好きでした。
私も、大好きです。

東京マラソンの今日
姪っ子は結婚式を挙げています。

人生のマラソンを走りきれるパワーをもらって、
つい、この間まで少女だと思っていたあの子が
人生マラソンに「今日出発します」

東京マラソンは
観客も主役のランナーです。

ひねもす雪を掻く日々の中で。

2012-02-26 04:16:30 | Weblog
札幌は一昨日から今日の朝まで
重たい雪が降りました。

土曜日の午後2時30分開始!

冬場は掛けっぱなしのはしごを登り
屋根に出ました。

一日のうちで
気温の高い時間に
マスクをしないで
屋根の雪降ろしをはじめました。

ポリ製のスコップに
雪を載せては
屋根の下に落とす作業の
繰り返しです。

雪の重みで
ひずみが出るのが怖いのです。
雪国に住むと
雪は美しいと思う暇のないほど
戦わねばならない相手でもありますよね


     私、国民の一人として、、ほっとして、、、感謝の思いの独り言

2012-02-25 03:14:02 | Weblog


ご回復に向かっている日々の

リハビリーは

日本の、多くの人々の祈りの中で
ご壮健になられてゆかれるごようすですね。

今後の、スケジュールの
お出ましの激務を控えられるような

周りの配慮が、大切かと思いました。

3月11日から
日本は、戦後のように
喪失の日々でした。

しばしば
被災地を訪問され
国民に寄り添われたお心は

神の域に近い大きなお心で、
負のエネルギーを、
受け止めてご覧になられたことでありましょう。

お体を
大切に
いつまでも、
健康でいらっしゃることだけで

国民は満ち足りています。

東京から、おはこびになられ
瓦礫の前で、立ち尽くされたお姿を
忘れません。

国民と共に歩まれてくださった。

お体が完全に快癒されるまでは
どうか、ゆるりと
お休みくださいますことを

国民は、祈っております。

ゆるりと、ご回復に向かって
お休みになられるお時間を
こんな形で
天が示されているのかもしれません。

日本の「桜」
被災地に植えられた桜
皇居の周りの
お堀の桜。

今年は、桜を見に行きたいと思っています。

深深とと降る雪が

いつしか桜の花びらになって
東北の多くの心に
胸に、肩に、手の甲に、足元に
ハラハラと降れながら

春は 涙も
花びらに変えて
空に、海に、丘に、

再びの「元気」を
届けてくれると信じています。

40年前
若き大学院生の医師が
バイパスの実験論文で
博士号を取得したとき、

40年後に
それを玉体に実践し成功するという
神業の医師が現れるなんて
思えただろうか!

日本は「神の国」なのです。

お年を召されても
どんどんお若くなられることを
お祈り申し上げています。





神の手

2012-02-20 06:36:58 | Weblog
昔、、、幼かった頃。
「鬼手仏心」という言葉を
外科医だった父から聞きました。

科学が進み、
なんら不安のない回復が信じられます。

TVの会見を聴くことが出来ました

熟練した手術、最高のスタッフ、
「仁」の順天堂

磨かれた術は

「神の手」のごとく

もっとも動脈硬化を起こしにくい動脈と
血栓が出来にくい位置の心臓の血管が
やんごとなきお方の体内で結合されました。

どんな名医でいらしても

ご病気と闘い
ご快癒までなされるのは
ご本人でいらっしゃいます。

ご自身から「良いようです」と
おっしゃられるまで

「風邪」「インフルエンザ」 「咳」など
ケアする周りの方々も、運んでしまわないように
最大の注意で、見守られることと思います。

マスコミも、
ここからは
ご快癒されるのに
ベストの静けさと清潔を保ち
ご回復の妨げにならないように
後は、、、国民の一人として

周りの方々が
決してご無理なスケジュールを差し出して
お疲れになりませんように

配慮ある思いやりでお世話されることを
信じております。


国民の一人一人が

ご快癒を

お祈りするばかりでございます。

順調な経過のニュースに
ホット胸をなでおろしています。


価値観と時代

2012-02-15 02:25:24 | Weblog

     
   私は明治20年代に生まれた祖父と
   30年以上も
   サンフランシスコで暮らしたという
   祖父のお兄さんの奥さんにあたる
   おばあちゃんを
   祖母と思って13歳まで
   多くの影響を受けて、
   幼年時代をすごしました。

   その後、長男が生まれて
   御爺ちゃんを始めて見た赤子は
   怖がって泣き出しました。

   しかし、40歳を超えた長男は
   どこか祖父とそっくりな瞬間があり
   私は「遺伝子を運ぶ船」であったと思うときが
   しばしばです。

   女性は自分では特別な存在にならなくても
   子供を産み育てることも意義は
   孫に出会えたときに
   衝撃的に解ったような気がしました。

   「私は、、、船だった!」
   「遺伝子を運ぶ、、、船だった。」

   豪華客船のように
   船長が逃げ出しては
   「命」は守れません。

   帆船でも良いのです。
   風を知れば!

   お爺ちゃんは28歳のとき
   
   3ヶ月もかかって、船でアメリカに渡りました。

   西海岸を開拓した、魂の輝きが
   茶の間にありました。

       つまり、、、明治の男の価値感を
       身近に育ったのです。

   おじいちゃんは、、、
   きっと、、、驚くでしょう!

   日本の民と共に、、、
   畏れおおくも、
   被災地の避難所で
   膝をおつきになったお姿を。

   そして、、、、、、、畏れおおくも
   再び、、玉体の手術を目前に

   御爺ちゃんならきっと
     自分が手術を受けるより
       落ち着かないと思いました。

     *****************

   昭和44年頃のことでした。

      東京大学から3人の頼もしい
      心臓外科医が、
      マスコミをにぎわせていました、

   東京女子医大の 
     「榊原」先生と「杉江』先生と、
        もう一人先生、、、。

   杉江先生は、
   その後北大に赴任されて
   北海道新聞に、しばしば、
       患者さんを助けられたという
           うれしい記事が出ていました。

其の頃、
バイパス手術を博士論文にして
若き医師たちも、
どんどん育ち

ある弟子はピッチャーに
ある弟子はキャッチャーに
ある弟子はコーチに

野球チームのような大所帯の外科が
チームワークで
命を守る戦いに
世界に出てゆきました。

アメリカに
フランスに
ドイツに

アメリカは心臓外科が進んでいるようでした。
医療器械野販売の会社で
試薬や「医療器械」の
管理の仕事をしていた時代でした。

コルヂスという
アメリカの人工弁が
請求伝票に
書かれていた時代でした。

人工血管も
素材がどんどん良くなってゆくのが
廃棄される古い品を見て感じました。

人工血管の質も良くなり

現在は、多くの狭窄の患者さんが
健康を取り戻している時代になりました。

私の知人も、人工血管や
「ステント」が5個も入っている人もいます。

元気に普通の生活をしています。

榊原先生が「心臓」という
辞典のような厚い本を出されたのが
とても印象に残っています。
あの頃
駆け出しの若き医師だった主人が
論文を引用されたと
舞い上がって興奮していました、

家には土日に帰ればよいほうでした。
冬の2月に出産予定のワタクシは
ほったらかされて
実家に7ヶ月も帰っていました。
区役所の職員さんが来てくれました。
「奥さん、、、どうか、、、離婚しないでね!」
離婚するのではありません、
研究中の夫には
実家で産んで、大きくなってから
札幌につれてきたほうが
博士論文に集中できると思いますので。


北大に赴任された杉江先生と榊原先生は
仲良しだと、
奥様はおっしゃっておられました。

奇遇というか
夫の母と
杉江先生の奥様は
櫻井女塾をとおして
知人でした。

北海道にいらっしゃった奥様は
教授婦人という
大役を、自然体でこなされ
先生の分身のような、
貫禄と、優しさと、
まるで「論語」を空で案じられてるように

「仁」「徳」を空気で伝えてこられました。
私ごとき、まったく普通の
名も無く地位もない女性にも、
弟子の家内というだけで、
旅先から「絵葉書」や
お土産に小さな小物入れなど
笑顔で下さったものでした。

きっと、、、先生が
「神の手」のように「命」を救うために
「鬼」のような厳しい鍛錬をなさるのを、
支えられてこられたことは
想像に余りある気丈と、
思いやりと、頑張りが
先生と一心同体の雰囲気に
なってしまわれて
お二人で一人のように
みえてしまわれたのでしょうか?

多くの、弟子を育てられ
時代と共に、
バイパスも、
心臓手術も、、、
孫弟子は、
世界的にも難しいと言われていた
「バチスタ手術」とか申す技で
恩師に報いる時代になっているそうですね。

漫画にもなっていますよね、
漫画は、
私にもわかりやすく
優しく説明しているし
「メス」よ、、、輝け!

ひねもす、
読みふけったものです。

医学は日進月歩で、
頼もしい時代になりました。

天国のおじいちゃん!

「玉体」に
近代医学のテッペンの先生方が
医学の最先端の力で、
健康をお守りするのですから、、、

御爺ちゃんも
ご加護を、
神様にお願いしてください。

どうか、
ご無理をなさらないように、
国民と共に、
お元気で日本に
いらっしゃるだけで、
日本の国民は
長い歴史の年月の不思議なご加護で、
がんばれると

お爺ちゃんは、
アメリカにも住んでいたことがあるだけに、
外国で見る日の丸は
感無量と言っていました、

日本人であることを、
誇りにしていました。

手術の成功を、お祈りして
手技を発展させてきた先生方のお顔を
思い出しながら、

命が、、、
一番大切です。
いつの時代が来ようとも
命に勝る価値なんてありません。


ぼやき川柳

2012-02-12 07:03:04 | Weblog

  冬の雪かきはピークの時期になりました。
  今日は厳寒の日に急いで除雪した雪が
  氷になって、砂をまいてもすべる。

  せめて階段だけでも滑らないようにと
  氷わ割り始めた。

  いつの間にかスコップの重さも忘れ
  氷に振り下ろす回数も力も
  激しさを帯びて、
  手のひら大の、氷のかけらが飛ぶ。

  パキン ポキン メリメリ ガシャン、、、

  調子に乗って、手元がしびれるほど
  強くたたいて、
巨大氷を吹っ飛ばした。

  氷は割れた!
  しかし、、、スコップの柄がもげた。

  ありえない力が
  何かの瞬間、
鉄のスコップの
  取っ手の木の部分を破壊した。

  ス、、、すごい!、、、。
  馬鹿力にびっくりした。

  「春来いとシャベルも折れて休みとる。」

  今年の雪は休みをとりながら
  気長に、、、ぼやき川柳聞きながら、
  ゆっくり、呑気に仕事をやんなさいよ!

  お前さんが壊れないようにね!

  「年を経し壊れたしゃべるに教えられ。」

  

棚田が教えてくれたこと

2012-02-09 02:57:32 | Weblog

中国の雲南地方の山間に、
自然現象の循環を利用して、
大自然の描く
「棚田」が、
芸術と
「エネルギー保存の法則」の
実践結果を出して
其の「循環するエネルギー」が、
地域の一体感を生み出し、
自然のままに
ひたすら労働をして
暮らしている番組を、
たまたまみることが出来た。

一緒にみた知人の一人は
「東大。京大、阪大、、、北大、、」と
順番を決めているような、
EBM 人間と思われる一面のある」堅物です。
しばしば価値観が、食い違う知人です。

番組を観終わって、
曰く
「生きることは、大変な努力をすることだと、痛感しました。」、」

「良い大学を出て、楽して生きることなどありえないってことが
良くわかった。」

「棚田」と言うから
マチュピチュかと思ったら、、、中国なんだね!。

皆、きれいな瞳をして、
黙々と力を出し続けているのを見ながら
人生観が、、、変わってしまいそうだよ。

万里の長城のある国だけに、、、
唖然とするよね
「こんな根気は、、、どこから生まれてくるのかな?」

原発とは正反対の天地の恵みで生きてるのね、、、。

もう一人の知人が言いました。

子曰く
「人能く道を弘む。道人を弘むるに非ず。」

***********************

ワンセグTVが映し出した、
地球は自ら助ける者を助け続けていた。

被災地復興にヒントになる考えかも知れない、、、。

コンクリートの津波が
海に向かって押し寄せてしまったら
其の維持は、、、
原発しかなくなるのではなかろうか?

人の「欲」が
限りない自然破壊に向かわねば、、、良いが、、、。


タクシーの「お値段」

2012-02-02 01:56:02 | Weblog
昭和30年の頃
東京の実家の傍に

三ツ矢ハイヤーという会社の
大きなガレージがあった、

外車のベンツやシボレーや、
日産のセドリックや
トヨタの白い高級車や

一般的なコロナ、、、etc.
実にいろいろな車が用意されていた。

法事や、
父の大学の同級生や
同級生の教授の先生との会合などや

母がコンサートを開催する日なども
ステージをデザインする母校の後輩や
ゲストを迎えるときは

三ツ矢ハイヤーを呼んで
送り迎えを頼んだものだった。

ハイヤーの運転手さんは
白いカバーのついた制帽と白い手袋で
礼儀正しく高級感がスマートに思えた。

送り迎えには車から降りて
ドアを開けてスマイルがさわやかであった。

客がスムースに乗車できるまで
ホテルの訓練を受けたボーイさんのごとく
プロのサービスに徹していた。

3000円で山手線の直径以上走ってくれた。

品性と、マナーと、運転手である誇りと
何よりもプロとしてのサービスが気持ちよかった。
母は小さなミニ熨斗袋に1000円を入れて
「何かと気を使っていただいてありがとう。」
謝礼を包んでいたのを思い出す。

トランクに
沢山の花束など
何束もぎっしり積んでもらって
花を散らさないように気を使いながら
会場入り口で、
係りのものに花を引き渡した後
運転手さんは
「ハ!恐縮です!」と言って
受け取ってくださった。

いやな顔しないで、気持ちよく
丁寧な仕事振りには、頭が下がるわね、、、と。
母は其の日は気持ちよさそうな顔をしていた。



我が家は仕事上
セドリックと
クーペの2台の自家用車が有った。

50歳の頃
母は運転免許所に通い始め
横にばかりはんこを並べ
いっこう進級しないカリキュラムを
半年以上通って、
ようやく取得した。、、、が
怖くて人は乗せられないので
ハイヤーを呼んでいた。

長男専用のコロナが自家用として
使っていた、、、、が

当時、開業医療施設としては
2台まで、
税金が優遇措置を受けられた。

タクシーは
ご存知、「神風タクシー」が
世の風評のとおり
猛スピードで、すれ違い
乗客も、通行人も、、、
ヒヤーとしたものだった。

ドアも乱暴に開け閉めするし
運転席から降りてこないし
ワンピースの裾を
たくし上げる前にドアを閉めて
汚れた誇りがへばりついたり
ハイヤーとは
別の運搬業界に思えた。

一区間60円とか、80円とか
40円のもあったように記憶している。

**************

最近京都でタクシーに手を上げた、
ユックリトきたと思ったら、
スローモーな70過ぎの爺さんの運転手さんだ。

のろのろと、ふらふらと、蛇行する。
怖くなって、一区間でとりあえず降りました。

次に手を上げて乗ったタクシーの運転手さんは
日に焼けた50歳前後であった。
地元で20年、三重県、静岡でも
運転していたという。

帯広がタクシーの仕事の出発点とも言った。
関西に住むようになって
北海道には帰る気がしないという。

「振り返れば
雪の中で、シバレタ冬の凍りついた
スケートリンクみたいなところで
よく、、、運転してたなーと
我ながら寒心するよ!」と言って笑う。

京都では、名所旧跡回る観光客に
歴史や、建物のいわれなど聞かれるので
ガイドの出来る勉強に夢中になった時期もあるという。

「5千円で、走れるだけ、走ってみてくれる?」と
交渉したら、
「いいですよ、観光ロートには組み込まれないけど
京都には、地元にいて、ジワーと判ってくる名所って
有るんですよ!」

「任せたから1」というと、
見事な庭園の見える「茶室」に案内してくれた。

2畳しかない、武士の屋敷の茶室であった。
「ここはね。槍も、刀も使えない広さになっているんですよ!」

実に歴史にも詳しく、お茶も一服できて、
実に良い時間を過ごせた。

運転手という仕事は
本人の心がけ次第で
無限の可能性があると痛感させられた。

今日は札幌で6時という早朝に
タクシーを無線でコールした。
まもなく、女性のドライバーが来た。
車からは当然降りてこない。
ドアが開いたが、閉まらない。
「しまらないですね」と言うと
主人が乗ってしまったので、
私が外から半ドアにならないように思いっきり閉めた。
しかし!!!!ドアは閉まらない。

「しまらないわよ!」と言うと
運転席から振り返って、
「寒いからしまらないんです。走っているうち閉まるから
反対側のシートに腰掛けてください。」と言った。

主人は体をずらして反対側のシートに移った。
私は思いっきりドアを閉めたが、感触として浮いている。

30センチほど車が動くと
ドアはゆっくりと全開してきた。
「お父さん!降りて、早く降りて!」
主人が降りると、運転手の女性も降りてきた。

「ライターがあれば、あっためられて、閉まるんです。」と言う。

私は先日も、この会社のタクシーが来て
歩道から絶妙な中途半端な位置にタクシーを止めたとき、
老眼の主人は車の入り口に足を架けたつもりが、
10センチほど手前で踏み込んでしまい、

「あ!!!」と思って後ろから脇を抱えて起こしたが
私の力が、主人の体重を支えきれないで
入り口に斜めになっていたドアで、
目の上を怪我をした。

血が出て、歩道にひざをツイテシマったのです。
ひざはアオタンが出来て、こすれたざらざらの傷から
ズボンに血がしみているのに、

主人は起き上がって再び乗り込み
勤務先に行こうとしました。

私は、無理やり主人に降りてもらい
タクシーを返してしまいました。

家に入ってから
「落ち着きなさいよ!血が出てるわよ!」
、、、
「たいしたこと無いから、、、患者さんが待ってるし、、、!」
私は、すぐ職場に電話して、
「間に合わないから代理のDr、をお願いしてもらってください!」
主人は、痛みが感じてきたのか、私の進言に同意してくれました。
目の上の傷は深くて、
血が止まりません。
圧迫して、バンドエイドをガーゼの上から使って
押さえて止血しました。

膝は血がにじんだ両足とも
うがい用のイソジンンの原液で消毒し
包帯を巻いて、衣類は下着から取り替えました。

あったかいお湯でロキソニンをのんでもらい、
「すぐに仕事場に行くと言う主人を説得しました。」

医者の不養生とはよく言ったものね!

私は腹が立ってきた。
「いいから、!!!
私が本院の外科まで貴方を患者として
救急センターに連れてゆくからね!」

「たいした怪我じゃないから
患者さんの診療を終えてから自分で行くから!」

主人は。。。あほかと思ってしまう。

「いいから、乗んなさい!、、1時間かかって救急センターに
主人を運んだ。」

「先生!、、、これは縫わないといけませんね!」
救急外科のDr・に言われて、
初めて主人はおとなしく患者さんになった。

それでも、膝のことは隠し通して、自分で治療していた。

帰宅してから、無性に腹が立った。

職場に行く途中の怪我だから労災であるが、
あのタクシーが、中途半端な車道の真ん中に
入り口の反対サイドのタイヤがかかるような
変なとめ方をして、
客を見ないで
「7割ほどの中途半端なドアの開け方」をするから
ドアの上の薄い部分が、左目の上を切り裂いたのだと思うと、

老眼の主人のミスなのか、
よそ見して客を見ないで、適当なとまり方
適当なドアのあけ方が、盲点を突いたのか

際どい判断であった。

悔しいが、タクシー会社には
今度とめるときは、歩道から足が届く位置に
とめてくださいと注文だけつけた。

しかし、、、其の傷がまだ残っているのに、
今日は、、、ドアが閉まらないが
反対サイドのシートに腰掛ければ大丈夫と言う!
30センチも走ると
ドアは全開した。
運転手は、この段階で降りてきて、
「ライターがあれば、暖められるからドアは閉まるのですが、、、」
私は、乗り込んで、奥にずれた主人を、馬鹿!と思った。

いくら、勤務時間に遅れるからと言って、
ドアの閉まらない女性ドライバーの
プロ根性の足りない車に乗って、カーブで、ドアが全開して、
後ろの車がぶつかってきたら、90パーセントの確立で
遅刻でしょう!!!

「降りて、バスで行きましょう!早く!其のほうが確実よ!」

主人も、ようやく腹を決めて、マイナス8度の寒い道を
バスに向かって歩き始めた。

女性ドライバーは、無線で呼ばれたのに乗ってくれないので
不服そうでったが、

私は家に入ってすぐに無線の会社に電話をした。

女性社員が電話口に出た。

理由を話して、
「今度からは、きちんと暖めて、ドアの閉まるタクシーを
お願いします。」と言っておいた。

ふと、、、
京都で出会ったタクシーの運転手さんの言葉を思い出した。

北海道で育ったのだろう!この女性ドライバーは!
ドアが開いたままで営業すると言う度胸!
しかも、、、
反対側に座ればなんでもないですよ!、、と言う感覚!
スケートリンクのような今日の我が家の車庫前に
滑り止めの小砂利を蒔きながら、、、

私は「北海道人になりきれないと、、、苦笑いした。」

それにしても、、、タクシー会社協会でも
サービス業であって、人間と言う荷物ではないのであると
指導してほしいものである。

復興と新生日本!まず!虚数の時間を現実に戻そう!

2012-02-01 01:40:21 | Weblog
         
        欲から解き放たれて 

戦争は資本主義がある以上
また、起こりうるとおもいませんか?

「終わりが無い人間の欲」が
もたらすものではなかろうか?

戦い、主張し、アピールし
人間が創り守ってきた何百年分のものを

自然は
「一瞬で原型をとどめないまで一掃」してしまう。

イースター島の小さな山に
溜まっている水は

津波だったのだろうか?

カムチャッカ半島の活火山は
日本列島を隆起させたのだろうか?

再び沈没させるのだろうか?

富士火山帯は
本当に大地震を起こすのだろうか?

東京は空から見ると
光の海

人工の光は
原発に支えられて光続ける。

東京に集中したのは
コンクリートに包まれた
科学だったのだろうか?

つつましい思いやりや
自然や動物との共存共栄は出来なかった。

戦後の科学の発展は目覚しいものがある。、、、が、、

小学校の頃。
昭和20年代、
小学館の少年少女の雑誌に

太陽の光で映るカメラの
組み立てセット(日光カメラ)が
付録にあった。

印画紙と光と化学変化の写真。

まもなく、
ヤシかの子供カメラを手に入れた。
8ミリのフィルムだった。

叔父さんたちが抱えていた
ガラスの板の写真機や
縦型の箱のようなカメラが
一眼レフになった。

ペトリカメラを買ってもらった。
修学旅行に持っていった。

おじいちゃんの持っていた
茶色の布の張られた古風な味わい深い
大型の「電蓄のラジオ」と
「レコード」がセットになったものが


小学校3年の頃は
ソニーの弁当箱大の
トランジスターラジオになっていた。

母はピアノのレッスンに
テープレコーダーを買ってきた。

日立の前身の会社のものであったが、
音楽家の母には
回転数が、ミクロに違うといって
会社を相手に、
交換を幾度となくしたが、
回転数や、音域が違うことを
わかる社員がいなかった。

其の会社はつぶれてしまったが、
その後、
見事なテープレコーダーが売りに出た。

コロンビアの箪笥ほどのステレオを買った。
雑音が、ジージーと入り、
誰も聴かなくなった、

カメラはいつしか
「ハーフサイズ」の
フィルムのエコなバージョンが出た。

オリンパスーペン!
覚えていますよね!
高校時代、手に入れたときは
マスコットのように持ち歩いたものでした。

後の仲人になってくださった方が
オリンパスーペンの開発者の方でした。
東大を卒業された
3尺後ろを歩きたくなるような
オーラーのあるかたでした。

人生の山坂を乗り越えられたのも

この方の静かな慈愛に満ちた手が
ヨチヨチ歩きの長男の靴を履かしてくれたとき
私たちごとき者のために、
見守ってくださった心に
大きな力をいただいて、
支えられたからだと思います。

後に、内視鏡の指導医だった兄と
胃カメラの太さや、先端の回転角度など
両手を胃袋の形にして語り合っていました。

その後、兄は
胃カメラや医療機器を使用する時の電圧の危険度を
論文にして、胃カメラの開発の
盲点を伝え、オリンパスの名は
忘れられない社名となりました。

デジカメを5万円で買ったのは
デジカメの出始めで300万画素でした。
スマートメディアはまもなく使えなくなり
発売されなくなり
カメラは使えなくなりました。

オリンパスらしくない
消費者の立場になって考える事が
「仲人をしてくれた、方」の
オリンパス気質だったはずなのに
信じられない気持ちで
リコーに乗り換えました。

このときすでに
社長も、会社も
アメリカになってしまっていたのでしょうか?

愛する、尊敬もしている
オリンパスペンと
内視鏡の素晴らしい発展を実現させた
オリンパスの先ごろの
不名誉な報道に

暖簾を大切にする日本よ!
もう一度!と思います。

結局、デジカメは、、、リコーの

小さなサイズに飛びついた、

かって、昭和40年前後に
ソニーはマイクロTVを出し
入院患者さんは飛びついた。

まだ、「白黒のTV」が出たばかりである。

やがて大学に入る頃
高校の同級生の女生徒は

「PCのプログラマーになりたい」といって

千葉工業大学に進学した。

当時の女生徒はほとんどが
家政科、文学、経済、教育科、国際語学、、、と
しなやかな生き方を選ぶのが通例だった。

つまり
時代と共に
新しい知識が追い越してゆくような
忙しすぎる科は避けていた。

味噌や醤油のように
じっくりと熟成して
自分なりに
人生の味を創り上げてゆくことを考えていた。

機械の発達に追い越してゆかれそうな
企業の一部になって戦う気持ちは
女生徒には少なかった。

彼女が大学を卒業するときは
就職が容易に内定した。

大型PCを相手に
世界を駆け巡る
「最先端のキャリアウー-マン」になった。

世界のあちこちから
絵葉書をいただくたびに
独身で、しかも
自由に自己実現している
時代の先取りをした彼女が
なんとも羨ましかった。

お互いに40歳を過ぎた頃

時代は大きく変わり
「VM21」が出たのだった!

フロピーは10センチほどもあった
内蔵メモリーは現在の
「CD-R一枚」ほどしかないのであるが
ゲームも出来た。、

私は「シメタ!」と思った。
パーソナルPCなら使えこなせそうだ!

行を変えるにも、
from to ,,,とHTML並みの
ドスバージョンであるが

私はこれを手に入れた。
そして、
職業に就いた。

一年間は見事に
薬品管理に役立ったのであるが、
2年もすると容量が足りなくなった、
フロピーでは追いつかない。

すばらしいPCが出始めた。

ウィンドウ95、、、98、、キャンビー
ペンティアム、、1、2、3、4

バリュースター、バイオ、、、
ウインドウXP  
DELL、、富士通、、
一通り買った。

月給は全部PCになってしまった、

アップルのも半年で置物になった。

PCを習得し、職場に復帰して
第二の人生を
しっかりと確保したかった。

しかし、、、
ソフトがどんどん使えなくなるし
周辺機器はどんどん進み、
対応しなくなった、
MOも内臓が普通になった。

ウイルスは入るし、
ウイルスバスターもなんのその、、、
徹夜で初期化して
そのまま勤務、、、眠い。。。

結局プロバイダーも変えて
PCも変えて、、、これを繰り返した。

勤めもやめてしまった。
PCにかじりつく生活は
肝臓に脂肪も溜まった。
お金は残らない。

やっぱり、
電子機器の進むのに
追いつくことなど出来なかった。
PC業界にすっかり振り回されて

敗北宣言である。

私が敗北するのは
小さな個人だから良いものの、

使って間もないPC関連のゴミは
国としても、大損害である。

内視鏡を20本以上買った段階で
兄は。指導医として勤務する為に
父の代からの開業をたたんでしまった。
閉院である。

白いペンキ塗られた看板は
無性にさびしかった。

「医療制度も変わるし、医療器械の会社に
いつまでも付き合っていられなくなった。
お兄ちゃんは、医者だから、医療のために
追いかけられるのはかまわないが、
医療制度と医療器械の狭間のクレパスに落ちて
医者が出来なくなるのだけは
避けなければならないからね!

閉院は巨額がかかった。
23人居た職員の退職金だけでも
父の遺産分配どころではなかった。

もらえるはずだった別荘も売ってしまい
ゴルフ場は無料で引き取られていった。

未亡人になった母は
ピアノの教室を続ける事で
自立した。
閉院して半年後
ピアノを弾きながら
母は弟に看取られ3日間寝ただけで死んだ。

兄に手紙を残して死んだ。
「長い間、ありがとう、心より貴方には感謝します。」
書き出しは、父の死んだ後、弟妹が卒業するまで
持ちこたえてくれた事への感謝と、
「閉院」は時代の推移から考えて、
母も正しい判断と思うと
書かれてあった。
チーム医療になり、制度も変わり
一部の開業医や医師が
多くの善良な心ある医師まで
風評被害で追い詰めてしまった結果でしょうと
時代の移り変わりを先取りした兄の
巨大病院で、指導医の腕を
患者さんに向けて役に立たせる環境に
感謝で、見送るさようならの手紙であった。

「お医者様の奥様」ピアニストだった奥様
昭和と共に、
裕福な家の子息が医者になっていた時代は終わった。
「医師」が優雅なステータスが保てた時代は終わった。
同時に「医師の奥さんという特別な風評も終わった。」

医療器械に追いまくられ、
個人経営の医療施設への税制も変わり
病院を集会場にしていた老人も
行き場所が違ってきた。

赤字を抱えたまま
借金の返済に働く医師も珍しくなくなった。

政治が変わるだけで

医療は「仁」どころではない
企業に組み込まれてしまうのかと
改めて知った。

医療に従事していた事務系が
どんどん理事になって行く。
看護師が副院長や院長になって行く。
某病院では薬剤師が理事であり
副院長である、
老人施設の医師は
居ることが条件であったが
それも無くなる。

医療の世界は
どのようになってつくのだろうか?

国税を上げるとか、、、
消費税云々、、、が先に必要とは思えない。

国民を翻弄する
電気製品の消費につながらないように、

つまり

カメラもジャバラから一眼レフ、、、
デジカメも、コロコロと
画素が変わらないように、

5年に一度
見直しバージョン期間で
いっせいに更新すると
オリンピックのように
5年間切磋琢磨した製品が出るから、
統一されてくるはずでしょう。

電子機器やカメラやハード名部分の
周辺機器のゴミが出なくなるから

国の財産の無駄な買い物が無くなり
節約になります。

国民が無駄遣いを強制されるような

電気店の競争は
機能とデザインに絞られてしまうと、

電気屋さんの社員の喜びも
「欲」を相手に
「ノルマ」と「時代遅れの製品を売りつくす」のとで

「使い捨て精神」を培うのとちがいますか?
店が無機質になってしまいませんか?
何十年も変わらないレトロな幸せは
お金では買えない
精神の贅沢打破ないでしょうか?

復興するにあたり
日本全体の節約精神を
合理化に向けて統一し、
本来の日本の在り方が
世界に認められるような
開発、流通、世代交代の節目のシステムを
政治的にも、
専門家と、学者、民間が円卓に座り
流通させる節目のシステムを先行させて
国際競争を国際的に合理化して
地球につまらない廃棄物を増やさない
根本的な「欲」の見直しを
してほしいものですよね。

一階と二階の間は空間を設け
人がかがんで入れるようにして

時代と共に変わる機器の為の
配管や、周辺機器の交換を
部品料金だけで修正できるように

建築物の基準を組み込むとか、、、

国としての基準で
ヴァージョンを
安定させてほしいと思いました。

たとえば、CPUなども交換は
5年間は格安保障で
性能の良いものにしてくれることで
ハードなゴミは減るでしょう、
国際間の競争も対応できるでしょう。

国民から搾り取るような
知識は
科学の悪用だとおもいませんか?

ソフトバンクの社長さんが
利益を寄付して行かれたように、
心は循環してほしいものです。

電気機器を持って
2進法のゲームのように
虚数の世界を弄ぶのは
麻薬のように
恐ろしいことではありませんか?

国民全体が
電子機器のゴミを作るために
お金を出して、
「欲の成れの果て」が

貧乏国日本になりはしませんか?

情報を金で買う今日、
パソコンゲームや
スマートホンに
しがみついた若者は

何人が
情報社会の
虚数利益と
5部に戦えるのだろうか?

携帯電話、情報料金
無料にすれば
結婚資金も
出産資金も貯金できるはずです。

スピードが、若者の時間を奪います。
スピードが
不要な仕事を増やします。

「よく考えた時間の有効な活用」が
実数を生み出し

「少子化日本を、、、子沢山に出来るとおもいませんか?」

電車の中、バスの中、
どこでも携帯にしがみついた若者たちを

可哀想と思うこともあります。

実社会に居るのに
心も目も「虚数の世界」に釘付け。

自分という
カプセルに入ってしまった若者が
人とのふれあいのある接触が出来なくなるのは
カプセルが邪魔なのでは?

若者をカプセルから出す
社会のシステムを、
業界も政治も、学会も
一丸となって
日本のシステムを「実数へ」「愛」へ

何を言いたかったのか判らなくなりました。

おやすみなさい。。。