花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

厳寒期に向かって、、、冬と戦う

2019-01-21 19:43:39 | Weblog

南国に近い、、、

南紀で生まれ、、、、

冬でも薄い毛糸のセーターで

走り回っていた疎開の時代。

おじいちゃんの山には、、、ミカンがなっていた。

天気予報が当たる、、、山崎のおじいちゃんの庭には

金柑≪キンカン≫が鈴なりだった。

小学生から中学生まで,、、縦関係の

ちびっこギャング団は、

「おいしそうなミカンやキンカンを、当たり前のように

天からのおやつのように、、、食べていた。」

疎開中の、おやつは、

大人たちの大きな心で、

困ることはなかった。

秋に庭の片隅に、埋め込んだ栗の実を

落ち葉の中に入れて焼いた。

切り込みを入れ忘れたクリは

音を立てて、、、ハジケテ焼けた。

かじかんだ手には、手袋なんぞは要らなかった。

次から次へと

遊びを考えて動き回っていたから、

ほっぺたも、真っ赤になって、

弟は、セーターの袖で

水っ洟を横に拭くので

袖が、キラキラ光っていた。

穏やかな、、、あれでも、、、冬だったのかと、、、

北海道の、留萌の4年間の冬と、比べてしまう。




番屋を高級にしたような

恐ろしく古い病院の宿舎は、、、今は、、、無くなっているそうだ。

寿町の崖の上の海を一望できる宿舎には

針金が飛び出た二人掛けの「ベッチン」の生地で出来た椅子が一つ、

アンテナのない白黒テレビ。

数人の出張の医師が泊まれる一室が数個、、、

長い廊下にドアが並んでいた。

マイナス20度c
水道は一回一回地下まで落とさないと凍結は5分と持たない台所。

米をといでいたら、

別の部屋の住人が、、、うがいに来て

一時中断、小さな流しを洗ってから
廻りを拭いて、食事の支度の続をする。

個人の開業医の医師の急逝に

あとがまの外科医に来てもらうのは

艱難辛苦を伴う試練であった。

結局、次代とともに

日進月歩の医学の世界は、

医療機械の分野のバ^ジョンアップが続き

開業医の税制優遇の範囲では

近代医学の発達は待ってくれない時代に突入しました。

兄は閉院とともに、胃カメラの指導医として

大手の病院の勤務医として飛び立つことになり

親の代からの実家は閉院した。

開業となると、

自分の者であるようで、地域医療の組織の一端のようなものだから

国が要求するレベルに維持するのは大変であったのだろう。

命を預かる仕事だけに

患者さんの未来がかかってくる以上

胃カメラそのものも

毎年新機種が出た時代であった。

毎年、患者さんの負担にならない細いものへと

改良されたものに

取り換えるだけで、何百万の時代であった。

一日150人ぐらいの外来患者さんは
父の時代からの老人も居た。

地域からも、患者さんからも、

花束が届けられ、兄は実家を売って職員の退職金や

次の職場の為の準備金として使った。

残ったお金は、父から譲られた施設だっただけに

95パーセントは税金の現金納入だったとか、、、?

お抱えだった経理士さんが、関係者に言っていたらしいが

北海道に来てしまった、50年も住み着いてしまった私には

兄からの直接の知らせも、何もなかった。

家を売ってしまった、、、

本人が一番寂しいだろうと思うと、

言葉が見つからない。

お疲れさま、、、年老いた母の晩年まで

よくぞ、、、守ってくれました。

もしかしたら、、、他人の土地に住んでいるような北海道で

50年という歳月は

サッポロ住人に成れているのかもしれません。

除雪も、なかなか入らない、羊が丘の見えるこの辺りは

空気が美味しくて

冬の満月が夜空に私を吸いこんでしまいます。

北海道は食べ物もおいしくて、

老年の、、、阪道を降りてゆくとき

冬のオリオン座が、真向いに、、、実家の自宅のように

灯りを灯して、、、お帰り、、、と言ってくれます。



愛情の冬は、、、オーロラも見えるのですから。