花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

猛暑の毎日が続く札幌生活

2019-07-30 16:40:47 | Weblog

冬は雪かき、、、

夏は涼しいことが当たり前。。。

観光客の皆さんは、

避暑のつもりが

汗だくになって、、、がっかりするかもしれません。

昼間は30度近くなっても

夜が涼しければ、、、ご期待には半分は答えられる。

ところが、、、夜も涼しくはならない!!!

 空は曇って星も朧。

早朝から仕事は終わらせ、1時間の仮眠。

暑い暑いと言いながら、、、

主人は出勤するから

男性の頑張りは真似が出来ない。

10時になってクーラーの除湿をスタート。

部屋が涼しくなるまで

せっかくだから、、、

布団や毛布や

あちこちに暖をとっていたミニ絨毯を

全部洗って干した。

食堂の椅子の

夏物と冬物の

二枚重ねた座布団も洗って干した。

お日様が消毒を兼ねた

ふっくら寝具にしてくれる。

東の空に積乱雲もどき、、、

にわか雨が来た

すぐに取り込んで雨の過ぎるのを待つ。

二重の手間には汗だくになる。 

洗濯物も、、、

干すために、、、

探し回って洗った。

洗濯以外は

動きたくない30度越え!

北国の期待外れの涼しいはずの夏!

朝10時に干した物は全部乾いた。

枕はふかふかで軽くなった。

メリットがあるのだから

北海道の

夏の30度以上を、、、許そう!

、、、、、、

、許そう、、、この、、、暑さ、、、!!!

 

メリットがある仕事をして、

暑さを、、、肯定したい。

あ、、、あ、暑い!

北海道なんだから、、、

30度を超えるなんて

勘弁してほしいよね。

 

お盆が過ぎるまで、

蒸し暑い北海道の夏を、

今年は覚悟した方がよさそうだ。

 

今日は、、、

暑さで、、、バテバテです。

一つしかない、、、

買い置きの、、、ソフトクリームを

食べてしまった。

 

なんで~~~か?

 

冷やしたかった頭の中!

暑さの中、郵便ポストには封書が配らてて来た。

これは、、、

75歳の

後期高齢者の保険証書が、

とうとう、、、届きました。

後期高齢者という、、

呼び名も、、、バテテしまう。

ソフトクリームも、味がしない。

 

気持ちは30歳代のつもりで頑張っているのに

年齢は個人差があるのだから

前期も、後期も、、、

政治的な名簿上の整理称号なのに

後期高齢者という「保険証書」を見たとたん

自分でも、

意地を張らずに、、、

無理やりにでも、

蚊帳の外を自覚しなければと思うのだけれど、、、

 

後期という語呂合わせを

肯定的に

前に進ませる言葉に変えねばと思いながら

主婦はずーと蚊帳の外。

故郷遠く、

頑張った75年間に

私から、花束を贈りましょう、、、

私自身に、、、

主婦が、火事の合間にできること、、、

北大道新アカデミーの講習会に参加していた。

一日も休まないままに

いつの間にか前期が終了した。

それなりに、

普段使ってない脳を使うので

リフレッシュできるし、

パソコンの検索を駆使すれば

専門用語は事前に調べられて

大学時代の記憶の引き出しが開いてくる。

主婦なんて、、、

ダリの画いた引き出しだらけの人間と

どこか似ている。

自分の過去の引き出しと思って開けると

75歳からの

続の情報を

仕舞う引き出しの

スペースが見つかるものだ。

後期、、、高齢者、、、

この、蚊帳の外的響の

「後期、、、」を

後ろ向きに考えないで、跳ね返すことにした。

7月27日の道新に出ていた

北大道新アカデミーの

2019年度 「後期生」募集

後期高齢者という、

後ろ向きの響きを

後期生募集という、

まだまだ、、、参加できる前向きのイメージで

若い研究者に、

授業料の一部が配布されるに違いない

先生方の、奮戦努力を

オブザーバーよろしく参加することで

社会参加です。

後期高齢者だからと言って

シュウカツバカリ、、、

考えるのはやめにすることにしました。

 

学問は足下にあるし

 

 

8時に終わるから、

9時までには夕飯弁当を買って

主人の夕ご飯には間に合うし、、、

せっかくだから,

後期高齢者のショックを乗り越えて

進むことにしました。

 


50年間、過ぎた日々を振り返る

2019-07-25 07:32:51 | Weblog

昭和35年ごろのお話です

区域違いの中学校に

迷いもなく入学したのは

一中の校門の前には。公立の図書館があった事!

和歌山県の疎開地から6年生になって転校して

祖父や父の生まれ故郷の東京にヤッテ来たものの、

父母のおかげで、勉強だけはクラスでトップになれたものの

ど田舎っぺの私に、、、先生も生徒もいきなりクラス委員を任命。

地元の歴代の級長は、面白いわけがないですよね。

何やかやと、、、知識を試す、、、。

毎朝、毎朝、学校に行こうとやってくる。

父上が医者だったとか、、、、

戦争で、亡くなられたそうで、

お母様は、女で一つで、

お婆ちゃんと娘を養っているとか。

凛としたプライドがあり、

自分の家に招いてくれた。

お母様がたまたま、、、自宅にいられた日曜日だった。

凛としたお母様で、親子は下町には似合わなかった、

お姉さんというのは、フェへリス女子大、、、

田舎っぺの私は初耳の女子大であった。

下町の、初めての開業で、

市ヶ谷のお屋敷で育ったはずの父は

私の田舎っぺとは、真逆の意味で

交際にはへとへとになっていた。

幸い父が標準語だったおかげで

一部のアクセントを除外しては

「ヒ」と「シ」の混乱する学友を

笑うのは私の方であった。

一年後、中学に進学の時、

正門前に公立の図書館があるのを知った。

母も私も「本」が好きだった。

一切の常識は却下!

第一中学校に進学した。

知人は一人もいない。

転校生を2度体験したような気分だった。

とりあえず、勉強をしっかりやっていれば

いじめられっ子にはならない。

陸上競技のクラブに所属すれば、

体力満点の体育の先生が後ろ盾同様になる!

そして、図書館では、

友人を作るより手間暇居要らずの本音の吐露本がずらり!

3年間で、読破するのは常識文学の文学シリーズ。

一日おきに、外国の名作と言われている常識文学。

3日目には、世界地図や、世界の大都市

4日に目には童話、

5日に目には音楽と詩

3年間あるのです!

母も一時に5冊も借りて

3日間には全部返済という、、、スピード読者だった。

母はすごいスピードで読むのに

読書感想の短文をこまめに書いたノートを重ねていった。

中学3年間は、、、本ばかりにかじりつきながら

何も考えないで過ごした3年間だったように思える。

                 つづく

 

母の言葉を借りると

「お父さんは、、、視たことが無いような、、、

出逢ったことが無いような、、、お人よしだそうです。

終戦後の復活の時期でもあり

親戚一族皆、やっと生きている状態の

日本庶民全員貧乏時代だった。

我が家はそれでも、東京の国鉄徒歩圏12分という

旧いお寺の跡地の600坪ほどの敷地に

半分以上が、、、古池だった。

病院の敷地としては少し狭いが

業者さんに頼んで、

今となっては古池の引き取り手も居ないので

埋め立てて、駐車場にする予定だったとか???

埋め立てたとたん、買ったはずの土地が

不動産屋さんは、お金を戻すから池の埋め立て地を

売らなかったことにしてほしい、、、と、

お金を戻してきたのだそうです。

いろいろの計画は、240坪の敷地では割愛という事で

15人ほどの入院のできるクリニックとして

出発した。

復員してきた叔父さん家族も6人、、、

開院早々から、同居、

古寺を見つけてくれた、学徒出陣から帰還して

早稲田に通いながら、此処で生活していたという

父の10歳若い弟にあたる叔父さん夫婦。

叔母さんは美人で小学校の先生をしていた。

叔父さんは早稲田の理工学部を卒業して

東京都の古寺から30分ほどの中学校の先生をしていた。

父も、母も、叔父さんが居るという古寺に

子供たちと、一足早く、進学の為に引っ越してきていた。

母子の東京入りは心細かろうと、、、

親戚や知人の息子の大学生やらが

どんどん、、、まだ、、、患者さんの来ない

空き部屋に住み着いて行った。

人間関係が、

極めて、微妙に、不思議にうまくいっていたように

幼かった私には見えました。

持ちつ持たれつの戦後の復興期だけに

廊下ですれ違っても、笑顔で声を掛け合った。

叔母さんは、自分の家族の食事ばかりではなくて

同居している大学生の食事まで気を使っていた。

15人以上、、、いつも食事時にはいたようでした。

母が幼馴染の宮大工の所で仕事をしたと、自慢していた知り合いを

長期にわたって、離れに住んでもらい、

医療施設の特殊な施工を、住み込みで

かかりきりで建築してもらっていた。

戦後の下町は、本当にびっくりするような

ボロボロの家並みが続いていた。

駅の向こう側には

パレス、、、と、

子供たちが言っていた木造の2階立ての団地が並んでいた。

6年の時に、兄弟、親子、、、、、心中事件があり

新聞記事にもなり、、、胸が締め付けられる苦しさを味わった。

戦後の復興期には

我が家も、医療費を支払ってくれる患者さんは

7割ぐらいだったそうである。

手術で入院して、2週間も入院していながら

ある日突然、入院室から姿が消えていたりもした。

人生の前半が、市ヶ谷の旧家で

高校大学と私立に通った坊ちゃん暮らしの父は

富国強兵で、良いんだか悪いんだかわからない時代に

戦争に翻弄されたばかりではなく、

まだ子供だった叔父さん(父の弟で末っ子)を背負って

関東大震災で火の海になっていた地獄の中を

妹たちと二人、弟二人を誘って、

火のないところに避難するという

ありえない、、、災害にも遭遇している。

 

「お父さんの肩には歯形が残っています。」

関東大震災で幼い弟を負んぶして避難したとき

叔父さんは今こそ早大卒業して先生をしていますが

関東大震災の時は幼かったので

兄である私の父の肩に噛みついていたそうです、

 

市ヶ谷のお屋敷の坊ちゃまだったなんて、、、

私には想像がつかないほど、

父は苦境の中を、一族抱えて走り切ったと、

感謝しかありません。

慈恵会医科大学で、

泌尿器の研究をしていて

、論文が完成して

大学に残るつもりだったそうです。

所が、外科の医局に居たそうで、

戦争が、起きるわけですから

外科医師は、戦場に行くのは仕方がありませんよね。

産婦人科に入局していたら

戦地に行かずに済んだのでしょうか?

、、、たぶん、、、医師は皆、

国にご奉公という時代だったのではないでしょうか?

医師だからといって

メスだけ持てばよいというわけではなかったそうです。

銃砲を背負って、地面を這う訓練にも

参加したと言っていました。

兵役に戦地の外科医として、

選ばれたのは、戦地には地元の医師しかいなくて

外科のメスを持てる医師は居なかった為だと聞いています。

銃創を手当てできるイギリス医学を学んでいたがゆえに

激戦地の至近距離の

総合病院の院長に任命されていた。

戦地の国には

大学病院らしき施設もあったそうですが

漢方医なのでしょう、、、か?

外科の医局は無かったそうです。

 

外国の医師は漢方医だったこともあり、

手術は全くできなくて、

指導に明け暮れた兵役だったそうですが

戦争も、終戦近くなると、

野戦病院で、敵味方無く

寝る暇もない砲弾の音の中で

空しく死んでゆく兵士に

 

「先生、、、大丈夫ですか?」と問いかけられたとき

「大丈夫だよ、、、ひと眠りしなさい、、、」

「ありがとうございます、、、」

兵士はしっかりと父の手を握って

安らかに眠りはじめ、、、

とうとう、、、起きては来なかったそうです。

 

敗戦色が濃くなった昭和19年8月

軍医は最後の連絡船に乗って帰国してよいという

日本からの命令で、

祖父が、戦地まで、娘夫婦を迎えに行ったと

御爺ちゃんは、言っていました。

危機一発!助かって、

本土爆撃の激しい中を、

紀州の山奥に、川をさかのぼって

疎開したのでした。

こんな経験を重ねてきた父は、

村人の、引き留めに、一年、、、又、一年と。

13年間も疎開地に居たことになります、

村では父は戦地同様、

全科に渡る患者さんを受け入れ、

京都大学の教えを受けながら

「医師をすること」の激務を

誰しもが感じるほど、、、

診療行為を続けていました。

家族より2年ほど遅れて

疎開地の診療所を引き払って

東京に向かう日には、

あたりの道は

七か村の無医村状態の疎開先だけに

かって診察したり治療した

患者さんの家族で埋め尽くされていました。

村人が道路にペタンと座り込んで

泣くのを

父も、眼を潤ませて、

疎開地を後にしました。

 

私たち子供の戦後の教育を受けさせるために、

東京に開業という、、、

戦後の立ち直りの為の激務が始まったのでした、

開業してからも、

全力で治療しても踏み倒してゆく患者さんを

追いかけて、請求することはしませんでした。

「いつの日か、、、お金が出来たら、、、払いに来るだろう、、、」

居候は8人と、大学生が2人、従業員は看護師さんと

レントゲン技師、准看さん、台所係のおばさんが3人、、、

居候の3人姉妹は母と仲良しで

私が話があるからと、母に近づくと、

3人で母を取り囲んで、母も、上機嫌で

楽しい時間には、完敗の母でした。

娘以上に姪っ子たちを可愛がって、

母は幸せだったのだと思います。

実の娘の私には、

義務というノルマを感じても

姪っ子たちの3姉妹は

母の最高の元気をもらえる時間だったのでしょうね。

大勢の同居人と暮らした戦後も

カレーを食べなさいと言う首相が現れてからは

日本はぐいぐいと景気が良くなり

居候の皆さんは

家を買って出てゆきました。

ホッとしたとたん、、、父は過労死、、、54歳。

戦後を、一人で背負っていてくれたのは

父だったのですね!

皆で寄ってたかって、復員してきた父の奮闘を

知ってか知らないでか゚?

気が付かないほど、

皆、、、心が貧乏で、、、

我が身の都合しか考えられないという、、、

心に、「ありがとうの一言の言える隙間」すらない、、、

ある所から、、、とるだけの時代だったのですね。

戦後の貧乏、、、物の話では解決できない、、、

貧乏な心って、、、本当に怖いと思いました。

誰が悪いんでもない、、、

心が貧乏で、

一家心中させないためにも

来る人は拒めなかった。

 

去る人に、、、

お金を払っていきなさいとは、、、

言えない時代だった。

 

健康保険制度が始まり、

月末の請求事務を手伝いながら、、、

50を過ぎた父には、請求事務は気の毒で、

家族が皆で手伝った。

税制が優遇の時代だったから、乗り切れたものの

現代の開業であったら、、、

一家心中は、

我が身に起きていたかもしれないと

ひやりとする。

 

開業とか、医師とか、自営とか、

見た目が個人を羨ましがらせる時代であった。

親戚も、祭りも、町内の寄付も、

親しい人の請け判も、

最終的には、

お人よしと母があきれるだけあって

全部受けて立っていた父は

まるで、

明日にも目覚めるような

若い、、、54歳の医師生命を、、、

疲れて眠りながら、、、起きてこなかった。

 

54歳から、円熟した社会奉仕の医師のピークが続くのに、、、

医師という、

皆に貢献できる腕を持ちながら、

戦後の、親戚の家庭まで背負って、

患者さんには、請求しないで、、、

気持ちもがっくりだったと思います。

商魂も、欲も 見栄も無い父でした。

しかし、

戦後のアメリカやヨーロッパの進んだ教育が

東京にはすでに上陸して居ることを知っていた父は

これからの日本人は

アメリカやヨーロッパの教育を受ける東京に帰るべきだと思っていた、「

でも、、、疎開地に居れば

父は80歳まで健康だったかもしれません。

54歳で過労死することはなかったのではよ

40歳過ぎての、東京の下町での開業と、

進学の為に、一族の学生を

全部引き受けて、、、生活も、学資も

一手に引き受けて、、、思い起こせば、、、

廻りは、

父から受け取ることが

当たり前になっていた。

これ以上の、、、貧乏な心って、、、在るだろうか?

欲しい人、与える人、、、

ギブ,、、AND テイク

今の日本は、心が貧乏でなくなりました。

皆、、、ありがとう、、、を言えるようになったから。

お父さん、、、ありがとう。

貴方は、、、私の中ではいつでも、生きてくれています。

一生、、、勉強の手は、、、止めるんじゃないよ、、、、

貴方の言葉は、私の呆けるのを、食い止めてくれています。

行ってきます!!!

これから、です。


家事という壁

2019-07-23 07:06:26 | Weblog

若いころは、目的が多すぎて、忙しく情報収集に飛びまわていた。

区立図書館が正門の前という、中学校では

授業が終わるのを、うずうずしながら待った。

勉強の本を読みたいとは思わなかったが、

図書館に行けば、

一日の家事のような学校の授業から

解き放たれた。

携帯もスマホも、パソコンもない時代である。

中学生にとって情報源は

ラジオ、テレビ、図書館、

映画館 音楽喫茶(灯)など

情報を知るのに苦労したものだった。

あの頃、、、十戒、という映画を観た。

宗教的には目覚めることはなかったが、、、

英語に目覚めた。

勧善懲悪の時代劇はそれなりに面白くて

日本の美学のような情報が盛沢山であったが

あらすじがパターン化していたので、

情報というよりは、

気分直しの最高の娯楽であった。

しかし、、、洋画は、、、

地球レベルの歴史の情報源でもあった。

西部劇なら、背景の風景や、

俳優や女優の人種の違いに驚かされた。

結婚後も「漫画映画に、長い間わからなかった謎を解いてもらった。」

大学時代は、飯田橋の100円映画館が最高だった。

王様と私、、、だったかな

英語がめちゃくちゃに、、、わかりやすいのである。

字幕を見なくても、教科書を読んでいるが如く

教科書的な英語であった。

東洋と、イギリスの考え方の違いが

画面と、絵本のような英語で楽しめたことを、

思い出す。

ローマの休日、

マイフエアレディ

ウエストサイド物語、、、

歌を覚えてしまうぐらい

何回も何回も観ていたっけ、、、

ごく最近、「王様と私」のTV番組が放送されました。

久しく見ない、ブリンナーの王様ぶりは

懐かしい、後進国の、悲哀と、プライドの間で

愛を求めて揺らいでいました。

字幕は要らないというほど

中学生にはウッテツケノ

英会話の教材になると思えました。

75歳から、、、もう一度、

英会話を始めるのも悪くないと、、、思った。

昭和40年代の札幌オリンピックの時

板垣市長はお母さんらを集めて、

「市長と語る会」というのを開催されていました。

たまたま、私も、ご招待を受けて、

これからの札幌について、など等、、、

聴かれました。

あの時、、、30歳前後でしたから

45年以上前の事ですね。

オリンピックの時の

街のガイドさんをしましたが

その時のバッチが、引き出しから出てきました。

その後、いろいろの市長さんが変わりましたが

50年近く前、札幌を、発展させようと

主婦の意見まで聞きながら

情報を集められていらっやった

板垣市長さんの事が

ふと、、、思い出されました。

札幌は地下鉄が無かったころの

ご苦労を、された時代の市長さんだったのですね。

夜中まるまる、、、起きて、、、選挙放送に

徹夜が続き、、、寝ぼけ眼で文を書いていますが

戦争だけはしないように、、、

平和を訴え続ける日本でいてください。

与党も、野党も、リーダーがしっかりとしていれば

日本の座標が認識されると信じていますから、

核戦争は、、、なにも残らない、、、破壊、、、元素がえり、、、

どんなに、考えても、、、「命が消えてしまう」

政治の大切さが、この年になって、、、やっと再発見するものがあります。

徳川家康も、どんなに悩んだことだったでしょうね。

 

 


NHKで高橋さんの笑顔

2019-07-22 00:48:14 | Weblog

北海道で知事さんを努められた高橋さんが

参議院として国会で活躍されることを

道民は期待しています。

北海道は日本にとって、

未知なる国際交流の

大きな可能性を感じさせる

未来の光を含んでいます。

北海道を良く知っている方が

中央の頭脳と接点を持って行くことが

日本そのものの持つ魅力を、多角的な視点から壊さずに

 

引き出してゆけるのではないでしょうか?

北海道の可能性が

子育ての慈愛と忍耐と包容力と、

頭のテッペンから、足の先まで

使い切る努力を体験されている

お母さんが

北海道を、わが子のように愛している目で

大切に、時間をかけて

本州の頭脳に伝えてくだされば

孫子の時代の北海道は、

単なる合理化や、開拓の時代の既存権が

ブラインドをしている部分が

国際的な視点で見えてくるだけに

北海道の水も、大地も、寒さも雪も

難攻不落の冬山も、

新世代への登竜門になるかもしれません。

考えようによっては、

 

まっさらな、地球の大地

天与の大地に思えます。

すでに、、、75歳の私は、、、

 

北海道の未来の役割を

 

まっさらな心の幼児のように

宝物に気が付いていないかもしれません。

北海道丸ごと未来が楽しみです。

その時は、、、私は、ひとひらの雪になって

観光客のように、真冬の空から

遊びに来ましょう。

 

 


真夏の選挙

2019-07-21 02:52:25 | Weblog

 

地球を壊さない

グローバルな視野に立って

外交が、

平和に向かうものであるように

願っています。

どの国に巻き込まれても

日本の平和を望む

毅然とした一貫性のある平和への祈りが

原爆の被害を受けた国にしか出来ない事を再度自覚して

平和に向けての外交を願っています。

 

先の事は想像できませんが

 

世界の国々に向けて、

通用する政治家の出現の大切な時だと思います。

国際情勢のバランス感覚のある議員さんの出現を

期待してます。

平和な時代に、育った40歳から50歳の

正に壮年期の世代の方々が、

デジタルなスピードで時間軸の違う考えと、

時間が止まっている部分が

うまくバランスをとれる環境に

政治家の方が、気が付いて

外交手腕を発揮できるかに

国民は期待しています。

 

 


選挙の時期に考えたくない一枚の葉書「安楽死」

2019-07-17 13:57:17 | Weblog

自分の意思では生まれることは出来ない、、、命、

自分の意思だけでは、、、

育つことはなかったかもしれない、、、命

父は医師だった。

自分が死んだ一日前、患者さんの手術をした

患者さんが多すぎて、、、過労死の54歳だった。

たぶん、、、自分が死んだのに気が付いていなくて

疲れて眠っていると思っている、、、ダロウ。

兄も弟も」

医師をすることに命をかけて生きている。

息子は大学の附属病院で

ドクターヘリが、秒単位を大切に

生と死の真ん中に居る患者さんを運んでくる。

意識は無い、、、患者さんの命は

医療スタッフの徹夜作業で甦る。

自分が起きていて、深夜の医療行動が

「生と死」の境目の命を

よみがえらせる、

医師としての医師をすることは

命の為。生きてもらうため!

 

生きてもらうため!。

患者さんの命は、自分のもの?

選挙の葉書なのか?葉書には、

「安楽死という大きな文字」

自分の命は自分で決めたい、、、と

生きてることが

自分の権利のような一行が目についた。

人間の命は、、、多くの周辺に支えられています。

医療界に育ち

多くの患者さんが、

家族の愛情とともに生きていることに接してきた。

飼っている犬や猫にとっても

支え合っている元気の源。

 

私自身、

薬剤師になってからも、

大学病院の当直の夜の調剤を

朝まで一人で担当してきた経験がある。

ㇿィケリンが投薬されていた処方箋が、

とうとう、、、来なかった夜、

全くの他人なのに、

その薬の請求がが来るのを朝まで待った。

 

小さな命、大きな命、、、

命に大小なんてないと思った。

 

弟はがんセンターに勤務していた。

死ぬと解っていたからこそ、

人生を凝縮して生きることに

成功した患者さん方の

生き様を、

「幸せながん患者」を主役に

弟自身が、

医師の目から見たことを

「本に書いている。」

葉書をくれた「安楽死」を考える政治家さんは

ぜひ、、、弟の「幸せながん患者」という本を

一度読んでほしいと、思うのですよね。

弟は、国立がんセンターに勤めていた時、

終末期のがんの患者さんの

痛みをとることで、

残された命を、思い残すことなく燃焼した人に

何人も出逢ったそうです。

柏にあるがんセンターが企画された時期に

終末期の患者さんの

「幸せに生きれる時間の確保の為に」

スタッフ一同、寝る暇もない議論を交わし

終末期の時間の考え方で

廊下を、画廊にすることや、

屋上に庭園を造ることなど、

さいごの一分まで

生きていることを、体感してもらいたいと

柏のがんセンターの病院の青写真とにらめっこしながら

生きること、、、

最後の一分まで幸せに過ごすことが出来ないだろうかと

カウンセラーの大切さや、心の在り方に

全霊をかけて、、、日夜頑張っていました。

建物自体に、

今まで日本にはなかった考えを

取り入れながら、

痛みを和らげて、

生涯を全うしてもらいたいと

スタッフ、コメディカル、カウンセラー、、、eTc.

医療に携わる者のみならず、

親族も、友人も、知人も

不治の病に寄り添っていました。

限られた時間を、悔いないように生きてほしい!

廻りの皆が

思っているのが、

心から直接伝わってくる真剣さでした。

がん患者さんの早期発見と、

痛みのない医療に真剣に取り組んでいた姿には

感動するほど

「医師をする」という事の大変さを垣間見た思いがしました。

簡単に、、、安楽死などと、ドラマのような気軽さで言ってほしくない。

葉書に、バカでっかい字で

安楽死という文字を印刷する気が理解できない。

「安楽死」、、、切腹とは違うと思います。

むろん、、、

「尊厳死」とも似て非なるものだという事を

感じてほしいと思いました。

一歩間違えば、自分を自分で殺すことになりませんか?

自分だから、、、殺していいというのも理解できません。

医師や医療関係者は生涯を「命」と闘う事に明け暮れています。

人間の命は、長かろうと、短かろうと、

裕ちゃんは、不治の病と闘って

本当に頑張られたと思います。

頑張った生き様を示してくれた人は

永遠に、人の心の中で生き続けるとおもいませんか?

人の心に「生き続けてゆく生きざまを、大いなる遺産に。」

諸葛孔明は死んでも人を走らせたと言うではありませんか?

 

「安楽死を選んだ人も、見送った人も

心に、、、やっぱり、、、やり残した何かをかんじませんか?」

「生きる」「生命」「命」を

もう少し、真剣に深く考えて、

手探りで、医療界で、

命の、生き続けるための手助けになるなら、

薬の分野であろうと、

医師の舞台裏の雑役婦であろうと

命を生かすことが出来るのなら、、、と

人が嫌がる日の目を見ないボジションでも、

エースの大谷君に負けない緊張と、頑張りで

医師たちは闘っているのを、

家内という立ち位置から

正月も連休も誕生日も記念日も

患者さんの命を最優先で生きている

医療人からは

安楽死は考えられないことだと、知ってください。

 

メビウスの表と裏で、感じながら、

一つの

「生きるための輪を走り続けました。」

 

命、、、この不思議な、、、無限大の数字の生命体が

人間の命として一つの個体の中にある。

人間の命は時間が支配しているように感じませんか?

多くの人々に支えられた時間であることを、

最後の一瞬まで共有しながら、

戦って死んでゆくのを

見送るという、

死んでゆくものは救えない。

医師も、無力を感じるときだったそうです。

多くの勉強をしてきて、

人間の意識とは関係なく、

人間の体内には

多くの命の営みをしているミクロの集落が無数にあって

各セクションは、生きようと、見事な活動を見せている。

 

薬学に進んだ私自身

人間の体内の免疫のメカニズムや

薬理的な、伝達物質や、

レセプターの勉強をしているとき、

人間が生きてる限り

生命科学のアクティヴな動きを学ぶにつけ、

自分の命は、人体を構成しているすべての要素が

この世の、都会や、国や、大陸や、海や、空や宇宙のように

自分の体内で、、、「生きているのだ!」と考えるようになりました。

 

アナログな時代から、デジタルな世界に移行しても、

「生命」に似せることは出来ても

ITでは限界があるはずです。

生命は、時間とともに生きています。

機械では作れない多くの不思議で出来ています。

醤油や味噌にもアミノ酸は含んでいます。

体内で作れないアミノ酸もいっぱいあります。

味噌や、醤油、納豆、果物、魚、、、いろいろなものから

体内では作れないアミノ酸を、

ほかの命からもらっています。

人間の命は、

自分だけのものだと考えるのは、、、

あまりにも、身勝手な考えだと思えます。

母の胎内で、

「命」の、、、もう一人の母である

「胎盤「が

小さな受精卵を人間に育てて行きながら、

母親に、ささやくのです。

主役は、、、あなたですよ!

愚かな母親は、

赤ちゃんは自分の子供だと思うかもしれません。

多くの母親は、母親だから、

子供の命を「天からの預かりモノ」として、

その役割を

授かった以上

ベストは尽くして育児に専念できます。

育児という任務に全身全霊をかけますと、、、

多くの母親は頑張ります。

意識の中では、ある母親は子供を私物と間違える。

ダーリンと、私の子供よ!

未来は野球選手に育てるのよ!

子は鎹よね、、、ウンヌン、、、、

命という不思議を、

預かりモノと考えるなら

子供は放たれた「矢」のように

未来に向かってすすんでゆく命でしょう!

父親も、母親も

我が子だからと言って

別の個体の人間を

自分の物と思ったとしたら

、、、傲慢だと、、、

私はは思っています。

人間という宇宙で、銀河系より多い命の星が

私の身体の中で命の営みをしている、、、「私の命」。

人間は、命の宇宙の集合体だと考えると

多くの命を育んでいる人間が

「命のあるうち」は、

ミクロ、,、、ナノ、、、数多の命の乗っかっている

私というバスの、私は

バスの運転手なのだから、

体調が悪いときは、病院という、

命のプロの居るところで

ハンドルを、止めるのが、謙虚な考えとは思いませんか?

我が身の全部を大切にすることだと思います。

人間という、不思議な生命体は

星の数ほど多くの生命体から出来ています。

生きているという事は、

一人ではないし、

自分だけの一個の命でもありませんよね!。

生命科学の世界の言っている

無限大の生命体の「命」で出来ている。」

*********************

人間に負けない、いいえ、、、

人間より優れた能力のロボットを組み立て乍ら、、、

最後の部品をセットして、

エネルギーを流し、

「そのロボットが、、、お母さん!と、抱き着いてきても、、、」

多くのアプリで動いている限り、「心は生まれない。」

「痛みも、苦しみも、デジタルの世界にはあると思いますか?」

 

「安楽死」を考えることは、

私的には、、傲慢の極致に思えるのです。

お産は苦しかったけれど、

産道を出てくる赤ちゃんは

もっと苦しいのだから、

あの苦しみを、、、

死ぬとき、、、

もう一度体感するかもしれないという

恐怖はあります。

こんなに苦しいのなら、、、

死んだ方がまし、、、

「死の受容」が、出来たとしたら

苦しみの後押しがあったからかもしれません。

自分の内なる苦しみが

死の受容という、、、

最もむつかしいと思われる

人生の卒業式への心を

助けてくれるでしょうか?

 

死に急ぐことはありませんよね、、、

必ず、、、死ぬのだから、、、

 

先走って、独りよがりの安楽死は

廻りから支えていただいた命からも、

内なる、生命科学の「命」

ミクロな我が体内の命まで

奪ってしまう事になります。

 

野球を人生に例えるのなら

 

9回の裏の逆転を信じながら、

0点で負けたって、、、

試合は終わりまでやらせてやりたい、、、

 

我が体内の、生命科学の生き物たちよ。

私の体内の見えない命が、、、

疲れを寝ているうちに

回復させてくれている不思議!

 

私は、「見えない私の中の命」とともに

一緒に生死を共にします。

置き去りにはしない

命の全うを悲願として生きる。

選挙に際して、、、

「安楽死の葉書が来ることは、???」

生命は自分だけの物ではないし。

命を知り尽くした医師たちが、

最後の最後まで、戦ってくれて、

寄り添ってくれているのだから、

私は、

「安楽死は、考えないと、、、お答えしておきます。」

メカニックな考えが、

一個の独立したモノのように

政治的合理性で処理されるのは

「命」ではなくて

合理性を追求しているように

思っています。

自分の命は多くの生命体によって

生かされています。

人間だけが「命」と考えているのだとしたら、

この問題は、

簡単に考えてはいけないと思います

勉強が必要です。、

簡単に制度を設けてはいけないと思います。

森羅万象、さまざまに支え合って、

「人間の命が在る」と

思いませんか?

選挙の日には

「安楽死」については、

考えたことが無い、、、としか

答えようがありません。

医療人として、命に寄り添ってきた人生でしたから。

政治で生命を制度化しては

あまりにも、表面的な解釈であると

言わざるを得ないと

私個人は、、、怒りを感じながら、思っています。 

切腹や、万歳岬の、意識の中の命と

安楽死の「命」とは

何が違うのか、、、

考えてみたいと思います。

命燃えて、、、燃えて、、、これ以上出来ないという

頑張りを示して

寄り添った医師の判断で尊厳死を選ぶことは

自分の命は自分の物だから安楽死を選ぶのとは違っています。、

専門家の究極の判断が方向を示してくれています。

人としての、社会人として生きてきた尊厳を守るために

複数の医師が

命を相手の専門家として

羅針盤になってくれるはずです。

この、、、はがきに記された文には

自分の命は自分の物だから、、、ウンヌン、、、とありました。

 

安楽死は、何かが、、、初めから、違っていませんか?

 

 

私の考えは、

医療人の家で育てられたという事もあり

環境が育ててくれた意識であり、

私が、いつの間にか、「命」を授かったとき、

「あずかった大切なものと、、、」

無意識の中で、思って生きてきた75年間です。

 

 


北海道の地震の後さき

2019-07-16 15:46:06 | Weblog

後二ヶ月であの、、、すごい揺れと

しばらく余震が続いた、地震から1年になる、、、。

モルタルが落下して、余震の度にヒビが増えるミサワの家は

パネル形式の壁板なので、後からの装飾部分がことごとくはがれたり

落下したものの、

カモイノ狂いが指が入るくらいのすき間が出来てはいるが

捨てがたいパネルの強さを、視ていると、

キケンな、モルタル施工が、次々おちてくる部分を考えて、

とりあえず、モルタルを全部撤去して

運んでしまって、サイデイングノ施工免許のある業者さんに

外側から修復作業をしてもらい

未来を背負う子供らが、サッカーボールを獲りに庭に入っても

もう安心です。

中は、まだかたずけていないので、修復には時間がかかると思うのですが。

ミサワホームは

在来工法では無いため、

市からの支援金には該当しませんので

ガタピシにくるってしまった配管配線は

全部新設引き直し。

排水管の塩化ビニール管をつなぐコンクリーのマンホールも

地震の揺れで、すき間が出来ているので、

排水修理だけでも、45万ほどの見積もりになる。

庭を掘り返して、コンクリー性のマンホールを

塩化ビニール製にする工事だそうです。

水道の元栓モ床下から掘り起こし新規に設置すると

一か所6万円だそうです。

台所、ボイラー室、トイレ

風呂場、洗面所、散水栓、地面が揺れて、土台のコンクリーから

剥がして、設置しなおしで、床下工事だとのことで、36万円

水が出るまでには、排水の整備が入り

100万円をはるかに超える、工事費である、、、。

外側は、250万円までで、見かけは新築になりましたが、

石油配管も、全て、やり直しだとか、、、

いろいろ、見積額を聴いているうちに、

壊すのが一番高額なので、数年かけて、毎年、、、、

収入があればの話ですが、

少しづつ住めるようにしてゆけたらいいのですが。

電気も、どこが破損しているかわからないので、

設置しなおして、家として使えるまでは

5年はかかりそうです。

その間、、、固定資産税にあくせくしそうですが

息子達の小さいころ、

3年間ぐらいしかすまなかったけれど、

隣の、離れとして、便利な空間としての役割は果たしてくれている、

水道の設置をやり直せれば、

トイレだけは使えるようになるので、

何とか、したいと思いながら、

隣の敷地は、得難いだけに、

もう少し、維持して、頭がまとまったら、

方針を決めようと思う。

風呂場のタイルが浮いてきている、、、

空間のあるタイルの盛り上がりを見ながら、

小さな地震でも落下したタイルを、リホームで

あたたかな、ワインレドにしたものの、、、

もう一回タイルの貼り直しになる、、、

考えていると、ストレスになるので、、、

長い、、、スパンで考えないと、、、精神の方をやられてしまうから

割り切って、ゆっくり、、、ゆっくり、考えよう。

急いで治して、老後の資金切れになるのも

本末転倒であるし、、、

もう一度、、、、地震がやってこないとは限らない。

焦るのはやめよう、、、

天災に向かっていくのは、、、蟷螂の斧かもしれないと

人間の無力を感じながら、、、

我が家の、本宅の、ヘアクラックの亀裂の処理を

しなくてはならない、

落ち着きなさい、、、自分

混乱しないように、、、長いスパンで、、、

今回のように、危険が待てないという状況から、

とりあえず復活してゆこう、

あっちもこっちも、、、散らかっていて、、、

一瞬忘れることが出来たら、、、どんなに気持ちが楽になるだろう、、、ネ

不動産業者は、、、「売ってください」とチラシを入れてゆく。

思い出の詰まった離れを売ってしまうと、

子供の、思い出の机も、本も、全て無くなる。

まだ、、、喪失感には耐えられないだろう、、、

結婚でも出来て、奥さんが来てくれて、、、

孫でも生まれたときは

又、、、考えが変わるだろう。

古くなった家の維持費が払えるうちは

子供たちの匂いのする離れの家は、

少しづつ、修理をして

記憶を忘れないように、

呆けないように、

時々、、、拭き掃除に行く。

旧い家が生命線の上下水道を無くしたときの

復活費用は、排水から設置しなおしという

地面の揺れからくる地面の下の、マンホールの事まで

教えられて、初めて、びっくりしています。

更地にする日が来るまで、もう少し前向きに

修復工事の事を考えてゆくつもりの一年間でした。

呆けないように、、、なにが大切なのか、、、???

心の絆になるものなのか?

荷が重く感じた見積もり業者との,,,

なが~~~い一日であった。

北海道の冬が、、、今から怖い。


選挙新聞

2019-07-15 06:13:39 | Weblog

 

参議院選挙を控えて、チラシや、選挙新聞が

郵便物と交じって目立つ頃となりました。

北海道からは

穏やかで、聡明で、お子様も育てられた

高橋さんが出馬していることが

選挙新聞の、第一面に出ていました。

若かりし頃、

おひとりの幼児をおんぶして、

もう一人のお子様の手を引いて

育児に奮闘中の高橋さんの写真を観て

「お母さん」の慈愛のような、

穏やかな愛と、強さと忍耐を感じた記憶が

忘れられません。

北海道という、、、

特殊な歴史の過去を振り返ると

お母さんのような、

まっすぐな愛のある人が

知事さんになってほしいと思い

それ以後、

TVでも、高橋知事が画面に出られると

政治家さんというよりは

わけもなく引き込まれる、、、

静かな信頼を感じてきました。

タレントのように

お化粧も、華やかな感じもしませんが

ちょっとはみ出したメイクなどに気が付くと、

まるで、家族のような親しみで、、、

お忙しい中、知事さんともなると、

お化粧もしなくっちゃならないし、、、

大変だと思ったりしていました。

私は、結婚式以来、スッピンですので、

普通の主婦は、

誰にも見られることが無いという

不用心さが、通用しますが、

政治と家庭と、子育てと、

スーパーウーマンだと思って

選挙新聞の 第一面の

「素敵な高橋さんのお顔」を見ながら

町内会の班長として、

担当区域に新聞を配ってきました。

この新聞は、高橋さんだけではなくて、

NHK撲滅をうたっている候補者や、

いまいち、不勉強なこともあって

理解に苦しむイデオロギーの候補者も

大勢掲載されています。

私はNHK が大好きですので

NHK をもっと理解すると、

この候補者も、きっと、、、

「とうちゃこ」

自転車目線で、時間のゆるやかに流れる地区を

視聴者のわがままを

快く引き受けて、

思い出のスポットを観に行っては

時間が止まっているような

此処も日本だと

視聴者の心の故郷が

万感の思いで伝わってきます。

「グレート、トラバース?だったけ?」

田中君が、

自分の足だけで、

日本の山を踏破してゆく。

ダイナミックな若者のすべてが

成長してゆく人間模様が、

山という、、、厳しくも男親のような

暖かさと、自然の怖さが伝わってきます。

私なら、NHKが無くなったら

呆けるでしょうね、、、。

いろいろな候補者の出ている選挙新聞。

町内会からの仕事として、割り切って

配って歩きましたが。

私自身、北海道という、日本の食糧庫の帯広や

お魚の豊富な海岸沿いの町を

マイカーで走った程度ですが、

平成の天皇皇后さまの訪問された

利尻島には、

主人と二人で「日本丸」で近くまで行き、

波乗りしてるような揺れ方のする

ゴムのボートで

利尻に上陸しました。

このとき、初めて、、、

利尻富士を見上げました。

日本海から太平洋に出るとき

海の海面の高さが違い

荒波の海を大きな船の日本丸」で乗り切りました。

9月の台風シーズンの始まるころでしたが

利尻は、以前近くまで行って

小さな渡し船が欠航となり、

何のために北の果てまでやってきたのか

悔しい思いを経験して、

12万円という料金に負けず、

日本丸での利尻上陸に申し込んだのでした。

これは、サロマ湖の近くの

平成天皇と皇后の記念碑です

天皇陛下も美智子様も、

おいでになられた利尻島は

北海道の北で輝く宝石の原石のようです。

又、北海道の北の果ては

まぎれもなく、、、日本です!。

国立音楽大学を卒業した母は

学生時代、一橋大学の学生と連名で

電車を通してほしいという

昭和時代の初期の、開発前の国立の事を

良く、、、話してくれました。

一橋大学と言えば、、、知人もっ卒業して

大きな企業に勤めました。

確か、、、高橋知事さんも

一橋大学の卒業ではなかったでしょうか?

手稲区も

一昔前は「西区」でした。

小樽と、札幌の

扇の要のような位置に

30年前、病院が建ちました。

札幌市や小樽に

多くの患者さんが住んでいますが、

ドクターヘリが導入されて、

命の境目の患者さんが運ばれてくる救急体制が整い

高橋知事の時代には、

サミットも洞爺湖畔で開催されて

福田首相も北海道に来られていました。

政治を身近に感じるようになったのは

このころからです。

 

無事に、政治と、北海道のつながりが

キャッチボールされた様子でした。

静かで、慎重で、

キリリとお強いお母様の

高橋知事が、いらしたと記憶しています。

国際的レベルから、中国との交流や、

道内の被災地にまで

ヘルメットをかぶられて、視察されている

お姿とは、思えない、女性のぬくもりを感じることが多いです。

 

「男勝りのTV画面の知事さんに

北海道を良く知る参議院になっていただき、

北海道を愛している高橋知事さんが

参議院に当選したら

NHKで放送していただきたいです。

 

これからの北海道はどのように進展してゆくのかを。

 

30歳代の時、豊平区の水源地から流れる川には

二羽のつがいの

鴨の恋人同士が遊びに来ている小川でした。

旧い時代に一度氾濫したとかで

川の両サイドは、コンクリーのブロックで、

風情が無くなりました。

 

懐かしい木々も伐採、、、

私は、道新に投書をしました。

 

あまりにも景観を壊す治水工事に一考を促す記事でした。

北大の研究者が、水源地で、何やら研究していたㇼ、

民間からの声で、「蛍が居なくなる。」

様々な、景観を守る投書がありましたが、

豊平区の水源地からの小川は

川の水が見えないほど、

草ぼうぼうで、

以前の景観と比べると10点あるでしょうか?

おまけに、草刈の費用がどうなっているのでしょうか?

これでは草ぼうぼうとの、、、イタチごっこ。

遣りようによっては、京都の哲学の小道のようにも出来るはず。

この地区は、町内会長さんが

30年以上も変わらないという

入植開拓の成功して、地域性の強い地区だけに

川沿いのステンレスらしき柵の塀は

ガードレールのイメージのように

自然の風景を台無しにするデザインだと、思いますが

川の美しさには、、、

頓着ないのが、、、

このあたりの開拓した人々の

開拓の大変さに培われた、、、

美意識なのだろうか?

 

NHKには、何回でも

北海道で、、、とうちゃこを企画していただき、

東京から50年前に北海道入りした私たちでも

良く知らない町が多い、、、

広い北海道の夏を、

自転車で、、、クマに逢わないように

TVで紹介してください。

高橋知事が参議院になれば、

NHKは無くならないと信じています。

私、、、NHK,,,深夜番組、、、~~好きです。

 

 これは、ドイツのべ―トベンの生家だと聞いて

訪ねてみました、

札幌には「キタラ」でしたか?

クラシックのコンサートや

タンゴや、土地の演奏グループの

音楽を楽しめるホールがありますよね。

札幌はちょうど住みよい発展度合いの

大好きになれる近代都市だから、新幹線が止まるようになると

日本中から、観光やイベントに、

多くの人が集まるようになりますよね。

元、高橋知事さんが参議院になられたら

きっと、、、多くの意味で

本州と近くなるのではないでしょうか?

当選を期待しています。

 

 

 


生体防御システムとしての免疫という講義が楽しみ

2019-07-11 02:11:29 | Weblog

平成6年2月27日の事でした。

あの頃は、長男次男とも私立大学に進学して、

授業料の足しになればと、薬剤師の現場に復帰していました。

東洋医学会の創生期の先生が

日大の木村雄四郎先生であった事も幸いして

臨床現場の漢方薬の効果を拝聴することで、

自分の仕事に役立てるつもりで、

出席参加を許可される講習会や学会には参加していた時期でした。

中国の四大中医学院の交流にも参加の機会を得ました。

成都の生薬市場では、そのころは北京大学の先生方が

価格や、生薬の品質ランキングに絶大な決定権を持っておられる時期でした。

日本の病院の方が、滅菌感覚が厳しく管理されていて

医療機械の新世代の物も見当たらない時代だっただけに

漢方薬は

「各臓器でのプロドラックとなってデリバリーされる」のではないかと

薬理的な解明が主流のような情報でした。

しかし日本の医師と合同の地方会などでも

医師の方から、漢方と免疫のかかわりは

臨床例としてしばしば聞く機会があった時代でした。

湯液を主流に学んできた薬学の漢方から

ツムラや小太郎から、又、鐘紡から

エキス剤が発売されてからは

日本の漢方は

医師の手によって

臨床に使われてゆくことが

当たり前になったころ

東洋医学会の北海道支部が「教育講演会」を開催していました。

その中の講演の3番目に「免疫と東洋医学」というテーマで

菊地幸吉先生が講演をされました。

免疫学は昭和42年に大学入学した当時は

かなり、遅れていたと思いますが、

卒業後、大学病院で働くようになったとき

自己免疫と自己免疫疾患の患者さんに出逢う事が多くなりました。

新参の新卒の薬剤師だったころ、当直があるのですが

夜中に40剤もあるのに、一人で調剤するのです。

翌朝昼まで仕事をして、昼から帰るのですが

寝る暇がないため、当直の夜は、大変でした。

処方と病名を

眠気の中で覚えながら

自己免疫疾患という、標的を自分自身に向ける「免疫」は

私にとっては興味の深い謎でした。

橋本甲状腺炎

原発性粘液水腫

甲状腺中毒症

悪性貧血

自己免疫性委縮性胃炎

アジソン病

早発性閉経

インスリン依存性糖尿病

グッドバスチャー症候群

重症筋無力症

男性不妊症

尋常性天疱瘡

類天疱瘡

交感性眼炎

水晶体原性ぶどう膜炎

多発性硬化症(?)

自己免疫性溶血性貧血

特発性血小板減少性紫斑病

特発性白血球減少症

原発性胆汁性肝硬変症

活動性慢性肝炎(HBs抗原陰性)

特発性肝硬変症(一部)

潰瘍性大腸炎

シェーグレン症候群

慢性関節リュウマチ

皮膚筋炎

強皮症

混合型結合組織病

板状紅斑

全身性エリテマトーデス(SLE)

器官特異的から非器官特異的に並べられた疾患を

写真と突き合わせながら

勉強したものでした。

あれから、「免疫学」が目覚ましい発展をして

私のおそまつな勉強では「本の意味も解らなくなってきました。」

実験室向けには「モノクロナール抗体」が飛び交うようになりました。

そのころ、インターフェロン(INF)の抗ウイルス作用が

脚光を浴びていました。

記憶を辿ると、走馬灯のように、免疫という謎に向かう時代だったと思います。

現代のように

イムノクロマト法で各種の迅速診断キットが販売される時代が来るなんて

信じられませんでした。

RSウイルスやアデノウイルス、マイコプラズマ、ノロウイルス

ロタウイルス、肺炎球菌 レジオネラ、、、ピロリ菌に ヒトメタニウモウイルスと

まるで迅速診断キッドの宣伝に使われる時代となりました。

ともかく、、、、菊地先生が、コロンブスのアメリカ大陸に上陸したような

足元からの実感を感じる講演をなさったことが、

私的には、眼から鱗の感動となって心に残りました。

 

思いでは、、、20年以上も前のセンタービルの23回から始まります。

 

「免疫学と東洋医学」というテーマで講演されるというので

聴きに行きました。

あたらしい免疫の考え方として

免疫系には「物質を認識して自己と非自己を区別する能力がある。」

と、話されました。

その仕組みは複雑であり、神経細胞(140億)の100倍の数の

リンパ球(T細胞、B細胞、とNK細胞)が自由に移動して

リンパ球同士、他の種々の細胞と接触して

シグナルを伝達し合っている。

でたらめではなくて、Ig(抗体)

                            T細胞抗原レセプター(TCR)

          主要組織適合抗原系(MHC産物)

これらによって特異性が規定されている。

そして、、、IgとTCRについて

免疫反応の特異性について話されました。

あれから、高校と大学まで同級だった友人が

生薬学教室から「免疫のジャンルの論文を仕上げて、

薬学生でしたが、「医学博士を取得しました。」

免疫学は日進月歩の進展を見せて、

臨床畠で働いている薬剤師も、東洋医学を勉強中の学友も

免疫には、目から鱗の視点を啓蒙されました。

菊地先生の講義には

ご自分でスケッチされたような絵で

MHC分子と

抗原エピトーブ

T細胞レセプター(TCR)の結合の絵に、

さらに

T細胞とAPC結合を増強させるアクセサリー分子の結合の絵が

パンフレトにして配布された。

平成6年、、、つまり1994年の事であった。

あれから25年も月日は経った。

免疫学は、宇宙ロケット並みに発展を続けていったことだろう。

明日の、北大アカデミーの免疫学の講演は理解できないかもしれないが

25年前の菊地先生の名講義を思い出しながら、

現代の免疫のインターロイキンの

遺伝子構造の判明したプロセスなど

盛沢山の人間と病気と、遺伝と、免疫の話をきってくるつもりですが、、、

案外、アカデミーという講演会であっても、

おもしろおかしく、わかりやすい「文化講演」に

アレンジして、楽しませてくれるのかもしれない、、、などと

明日の非日常の家庭雑事からの脱出で

ボケ防止と、私自身が居る時間を大切にしたいと思っている。

 

単身赴任から札幌に帰還した主人の為に、

私は仕事を辞めて専業主婦に戻った。

朝から晩まで、三度の食事と、洗濯買い物に追われて

免疫からは、それっきりになっていた。

最近になって、

人生は単純作業だけでは

ボケてしまうと思うようになった。

外科医になってから身に付いたのか、、、?

もともとが、合理的な性格なのか?

付き合って結婚した相手ではないので、

主人の30歳前の性格はわからないが、

多くの男性医師がそうであるように、

仕事第一主義である為、

医師以外の仕事は一切、、、他山の石のごとく

無関心なので、

主婦は雑用に追いかけまわされてしまう結果になる。

ふと気が付くと75歳が目前に迫っている。

貴重なこの世の、自分自身の時間である。

これは「私自身の日記帳であるから」

今日は、自分ファ―ストの文になってしまった。

自分の為に、、、、書いた記録です。

       授業を受けてきました。

       私的な感想かもしれませんが、、、感謝の心が湧いてきました。

 

行ってまいりました。

北大アカデミー!

視聴覚教育の、ゆきとどいた、

スライドの楽しい漫画チックな画面で

アカデミックな内容の講義が楽しかったです。

難解な免疫の講演が、

わかったような気がするほど

解りやすい

愉快な展開が、

次々と進んで、楽しかった。

昭和42年卒業の私たちの時代の講義は

教授目線で、黒板に次々と書かれる文字を見ながら、

チンプンカンプンのまま、ノートをとって、

後で、自習で謎を解くようなことが多かった。

あれから50年経過した。

北大の階段教室で、75歳の婆ちゃんは

たった、一時間半で、免疫の事がわかった気になりまして。

素晴らしい講演でした。

8時に講義が終わり、真っ暗になった北大構内を歩いて

地下鉄の駅に着くころ、

やっと現実に戻りました。

いくつかの授業を受けましたが

今日の一日があることで

私の探していた、物が見つかったような気がしました。

北大生は、幸せだと思いました。

心憎いほど、、、生徒の目線でわかりやすく

難解な免疫を、好きにさせてくれる

授業だったと思いました。

            感謝!


夏日になった、、、札幌

2019-07-09 09:42:07 | Weblog

早朝の小さな町内を散歩する犬!

犬にお供している、、、

60歳ぐらいの奥さん、おじいさん、

飼い犬が16年目だとかで

動きたがらない犬に寄り添っているのは

遅番の出勤前の「OL]

そろそろ小学生の登校時間だから

家のぐるりの植物に水を撒く。

「おはよー、」「おは油ございます~」

いってらっしゃい! いってきま~す

同じ時刻のいつもの会話なのに

ランドセルが歩いていたような女の子が

いつ、、、?

美しい少女になっていたのか?

思い出せない。

40年たっても、我が家の周りはビルは無い。

30歳のころ、初めての一戸建ての家を買った。

ミサワホームの建売で、提携ローン9パーセントという

現代の銀行事情では考えられない高利であった。

23坪の広さは何とか楽しい出発だった。

                 つづく

 

 

細葉ウン蘭のたくましい美しさに敬意を払いながら

歩道の下にはびこる雑草を引っこ抜く。

「おはよ~~~行ってらっしゃい!」

通学してゆく児童にいつもの挨拶を投げかけながら、

ランドセルを背負っていた女の子が、

いつの間にか

清楚な乙女に変貌してゆく。

昭和50年、、、あの時中学生だった裏の娘さんは

50歳を超えたおばさんだ!

自分だけは、

全ての事に

「傍観者の座布団」が置かれていると思って

見知らぬ土地だった北海道で

「吾輩は猫である」と。。。

割り切って猫の位地に居たような50年だった。

東京の総合病院の薬剤科で薬剤師として勤務していた時の事だった。

大学一年の時に、北海道から来た同級生と知り合った。

大学の指名で、代表幹事ををしていた私は

多くの同級生と事務的な会話を交わす機会に恵まれていた。

大学生になると、「友達」になるのは無理と

初めから、私は、誰とも友達になる努力はしなかった。

あらゆるチャンスに参加権があれば良いと思っていたから、

ため口をきいたり、流言飛語でふざけ合ったりする機会はなかった。

自宅に友人を招くことも一切しなかった。

たまに、どうしても家に来るという

押しかけ組がやってきたりしても、

私はプライベートに知り合うよりも

学友として、仲良しでさえあれば、それ以上は望んでいなかった。

広く浅く知識や、同級生の生活からくる習慣などに触れて

大學でしか体得できない

社会のいろいろな階層の考え方に触れれば

充分満足であった、

自宅に来てもらわなくても、

御茶ノ水には、

「丘」や「ジロー 」や「ミロ」という

会話にはうってつけの喫茶店もあった。

小川町に出れば、ソバ屋や、イタリア料理の店もあった。

しかし、北海道からやってきたというオカッパの女性は独特だった。

北海道から東京の私立大学に入学してくるのだから

裕福な、地元の資産家の娘さんだろうと

私は、腰を引いて会うときは深入りをしないように意識していた。

彼女は、ある意味での美人でした。

オカッパで、カーキ色のダスターをボタンをはずして着こなし

一見、、ドタ靴に見えるブランドの靴を、ラフにつっかけて

化粧はクリームだけだった。

東京育ちの、私たちの多くは、

「人見知りな心」が笑顔とは別に、

心の氷山の底に沈んでいる。

笑顔も、営業笑いなのか、親しみの笑顔なのか?

何か交渉事でもあるのか?

巻き込まれない心をしっかりと持たないと

東京は生き馬の目を抜くと言われる土地柄だけに

学友に対しても、短期間ではなかなか

心の扉は開けなかった、

                      つづく

 

 

 


被災大国から、、、復活を祈る

2019-07-07 16:40:41 | Weblog

毎日の新聞を開くのがつらい。

去年は北海道も、大きな地震が来て

肝を冷やした。

我が家も、畳、一畳大のモルタルが2枚、

落下して、、モルタルは、ヒビだらけになった。

余震が続いていたので、次の揺れで落下してくると

けが人が出ると思って、

全部、モルタルをはがして運び出して、

プロの免許のある職人さんに

サイデングにしてもらった、

近所の子供たちのサッカーボールが入ってくるが、

危険はないので、安心している。

階段の壁の板が浮いてねじれているが、

この年になると、

職人さんは

「現金なら引き受ける」と言ってくれるので、

、電気も、水道も、トイレも、工事は、ゆっくりと進めることにして

5年ぐらいのうちには、順次工事を進めて、

安心して住める家に、補強改築をせねばと、思っている。

そのような矢先、

九州の水害のニュースが入ってきて、

気持ちが暗い、

今までの人生を振り返ると

「楽な時期」が思い出せない。」

東北の津波のことから、、、、


やっと心が立ち直り始めて

ホッとする暇もなく、

新潟の地震や、岡山の水害と、

田畑も、作物も、流されるのはつらいが

人の命も救えない災害は、

心が沈んでゆく。

お見舞いの心で、どうすることもできないまま

我が家も、頑張るしか ありません。

経済が回ってゆくのが不思議なくらい

心細くなる、

わけのわからないままに、

あちこちに支払いが続くが、

地震や水害が続く以上、、、、仕方がない。

アラスカあたりに

人工地震が起こせる施設があるとか?

ケムトレイルとか、、、天候は操作できるとか、、、

SF映画まがいの情報が流れてくるが

半信半疑で、ありえないのではと、、、思ってしまう。

アメリカでは、竜巻がすごい、

日本は、ぐらぐらしているには全島に及んでいる。

災害は規模が大きすぎて

ロンダリングする資金も尽きて、

どこを、どのように治水してゆけば

安全なのかも、確証はつかめない。

長い人生の紆余曲折は、

皆も共通して遭遇するものであるが、

心が疲れているとき

NHKの「とうちゃこ」の、自転車の旅や、

グレート トラバースの「登山」番組を見ていると

元気をもらえる。

危険と紙一重で登頂成功の雄姿は

登山の君の祈りに、私も、茶の間で感謝の気持ちがあふれてくる。

人生は登山のごとく、

実にいろいろ岩場も、崖も、直角に登らねばと

生死を分ける頑張りが、過ぎたときにめまいがする。

生きていて、、、よかったと、、、!!

思えることが、何度かあった。

日本は、全員が頑張る性格だから、

これからも、復興してゆくと思いますが、

生きているうちに、

東北も、岡山も、熊本も、九州一周できたらと

ふと、思いながら、

「新潟にはいったことがあるとしたら、、、

大学時代に登った黒姫山に思い出が飛んでゆく。

糸魚川という、ヒスイが落ちてる川があるとか?

川の中を歩きながら、

蛇紋岩の緑の水の輝きに出会いたいと思いながら、

水害のない時期には、

心を奪われるほど、

日本の四季は美しいのに、

日本が、安心して住める国にしてゆくのは

世代交代してからの、大きな課題かもしれませんね。

息子が東京の大学に入学した時には、

小さな古いマンションも買った時期もありましたが

維持するのが大変で、手放しました。

インフレやデフレになっても、

マンションにしておけば、

授業料は、売れば払えるからと、

収入をローンで増やし

家や貸家を作ってみたものの、

入居者のいれかわる毎に
仲介さんから、時代に沿ったデザインの台所にしてほしいとか

ガス器具や、リホームの指導が入り

結局、家賃を吐き出してしまうという経営の下手もあって

全部処分しても、買値の半額以下になってしまい

結局は、事業失敗のお粗末な結果にんった。

しかし、、、ふと、気が付くと、「シュウカツになっていました。」

人生が200年あるなら、

新しくビルを立て直し、兄弟も、親戚も、親子も、

父母の時代のように

一緒に住める「サザエさんのシアワセがあったかもしれないが、

すべては時間切れ、、、人生はタイムアップ!

もう、、、何もできない、年齢に入ってしまったが、

日本中のあちこちに、住宅や別荘やマンションを探すという

趣味ができてしまった。

被災大国日本の、、、海の近くの別荘など見ながら

ネットで写真を観ている分には、、、美しい、、日本なのですがね、、、

心より、お見舞い申し上げます。