毎日、、、まるで、、、筋肉トレーニングの様に
3回から、4回、
雪かきショベルで雪を押して走るだけで
今年は、道路の雪も、屋根の雪も解け始めています。
20年ほど前に、一度、
雪のない正月が記憶にありますが
今年は、、、2月に入ろうというのに
雪の解ける音が、ひねもす、、、春を呼び始めています。
オーストラリアの、、、大火事が影響しているという事は
ありませんよね、、、
中国の開発で、気圧に通り道が出来たとか、、、?
阿保か!?
私は、、、(^^!
毎日、、、まるで、、、筋肉トレーニングの様に
3回から、4回、
雪かきショベルで雪を押して走るだけで
今年は、道路の雪も、屋根の雪も解け始めています。
20年ほど前に、一度、
雪のない正月が記憶にありますが
今年は、、、2月に入ろうというのに
雪の解ける音が、ひねもす、、、春を呼び始めています。
オーストラリアの、、、大火事が影響しているという事は
ありませんよね、、、
中国の開発で、気圧に通り道が出来たとか、、、?
阿保か!?
私は、、、(^^!
ここの所、、、国会劇場をTVで拝聴しています
ヤジが出なくて、、、気持ちよくTVが観れることが
国民への、会場参加の気持ちをもって、TVを拝聴できます。
首相は、家族でいえば
お父さんだと思いますので、
外側の世界に向けて、良い仕事が出来るように
皆で、お父さんが困らないように、
ラグビーの様に
国会も、、、ワンチームになって、、、
世界の中の評価を高める日本になってゆくようにして
世界の平和への共生を、国会から始めてほしいと思います。
相手の足を引っ張り合うのではなくて、
支え合う事で、全てが評価される日本に成長すれば
戦いを避ける世界の平和に貢献できるはずだと思っています。
戦いは、、、核戦争になってしまいます。
原子爆弾が2発も落下して、キノコ雲が人間を、、、人間ではない物質以下のイオンにしてしまう、、、
元素にしてしまう、、、人格などない、、、物以下の元素にしてしまうから、、、
人種差別どころではありません、、、
無差別で、元素にしてしまうのですから、、、炭素、、、影になるのですから、
世界は、核戦争の、、、恐さを知らない。
例えば、、、プルトニューム239は放射崩壊によってヘリウム原子核を放出しますが
半減期は24000年と、いう事です。
プルトニュームはウラン239からβ―崩壊を繰り返してプルトニュームに
なるとのことです。
日本にも、速中性子の地下の設備が出来たのは私が学生の頃ですからね、、、
放射元素は扱いを一歩間違うと
地球丸ごと、、、「猿の惑星」に戻るのですからね。
国内の、桜見物の事を専門の部署に任せて、
結果が出たらTV放映することにして、
オリンピックの、安全対策を、進めて、
予期せぬ細菌や、ウイルスに邪魔をされないよう対策など
、野党の知恵と、内助の功のような時期でもあると思います。
対策方法や一豊の妻ではありませんが、、、
馬が出てきても、、、いいじゃないですか?
首相の健康を一丸となって考える薬品開発は結果的に日本ばかりではなくて
世界にも貢献できる日が来るのだと信じるから
働きかたを超えて、、、命の限り復活に努力した
団塊の世代が70歳を超える老人大国になっていることは
戦争が残した減j津だと思います。
戦場で戦った軍人も、
戦後の復活に命の限り闘った団塊の世代が、、、老人になっている現実に
政治対策が遅れると、、、日本の復活の恩人が、、、老後の
言葉が無くなった老境でも、
ホーキン博士の様に、車いすでも、、、何百人分の頭脳が働くのですから
90歳の定年目指すつもりで、
頭脳ある悩の使い切る対策で、
少子化が解決するまでの代役を
老化しない脳にお願いしたいものです。
万一の時の対策の情報交換が、
老いても頭脳明晰な老人に
若者がスマホ世代の一部の様に、、、
自己愛短絡の理論だけに走らないように
形の違う楢山ブシ考にならないように、
楢山が、病気の巣窟にならないように
年寄りにも、軽作業を出来るシステムが出来ると
介護の若者が、老老介護の責任を感じさせないトリアージが出来れば
動けない年寄りに、若者が善意と余裕でリーダシップをもって
どんな老人にも、、、今できることをすることで、出番を楽しませるっ事が
案外、自尊心が出来て、、、「世話になっているが、、、世話もしてあげれる自分」という
自主性が出てくれば、、、
自主性こそ、
ボケを防ぐ内分泌の流れの効果があると思うのですが
若者を、介護の汚れ役と考えないような専門教育を充実して
幼稚園を楽しくする先生の要素が有れば、、、
哀しい事件は減らないだろうか?
パソコンとITと、スマホと<宇宙ゴミの時代は
世界が平和に向かって情報を共有しながら、
国際法を「肺炎も、サーズも、全ての伝染病に対して、国境を越えて、防がないと
オリンピックが、予期せぬ、黴菌や、ウイルスで
選手が、日本入りできなくなると、大変ですよね!。
自衛隊が、疫病蔓延帽子の専門の知識のある隊長が居たら、、、頼もしいんですね。
スマホは同時にトップダウンの管理をくぐって
外国からの直接情報交換の日本事情筒抜けの、
放射状の個別管理が可能な時代になると思うのは
ギョッとなりますよね。
婆ちゃんが、サイバー音痴だからかのう???
振り返れば、、、
団塊の世代の努力には、すさまじいまでの、、、
日本の魂がある働きだったと思うのです。
50周年の集大成の研究が完成まじかの時に
政権交代があり、
誰も相続できない学者系のアーティストが
戦後復活の追いつき追い越した日本の医療の
この、日本を復活させた団塊の世代の土台の上に
新世代の誕生のITやパソコンの力を載せれば、
肺炎で死んでゆく中国にも
手を差し伸べられる時代が来るでしょう
医療の検診を、国際的に役立たせることが出来ると思います。
検診の段階で、病気の蔓延を世界から無くすことに
日本は貢献できるシステムをインターナショナル的に
客観評価される機会に変えて、
立派に、オリンピックで、世界参加の平和のイベントを
無事に迎え、
日本は世界平和に貢献できると思うのですよ。
戦後の苦しい状況の中で
戦争を知らない世代の強さは、
へたれそうな、、、
弱気と、臆病のPTSDのある
戦中派の日本人を
本当につよい勇気で、
ぐいぐい引っ張ってくれたと、思っています。
パソコンと、スマホの時代の新人類は、
この世代の年寄りから
抜け落ちた「実際に自分で何でもやらねばならなかった時代」の
困難の突破の仕方を
学ぶ必要があると思います。
砂上の楼閣にならないように、、、キーを押す指に
責任がとれる本物の実力をつける世代を育ててください。
仮想世界の知識秀才に偏らないように
心 技 体、經驗、自主性、
共生の勧め
仮想世界と、実際の心の重みをわかる世界。
少子化の次には、、、宇宙ゴミが片付けられないと、、、
実践に匹敵する先達の現場での
智と地に足をつけた知恵の伝達が要ると思うのです。
国民からも期待するところです。
敵は与党ではなくて、
国会の与党も、
野党も、
日本の治水と、健康と、食糧基地と、もろもろの少子化対策と、
世界平和への貢献が出来るような、
円陣を組んで、
インターナショナルな次世代を育てないと、、、
国政力で後れを取ると思います。
日本国内に強い人
インターナショナルにグローバルに世界レベルの視点を持った人、
首相に適性のある人、
資金調達に巧みな世界経済の解る人、、、
不動産で儲かる時代は、、、
過去になるかもしれませんね、、、
皆、国の借家に入るのが、
流行ってくるかもしれません。
スマホ時代って、、、
新人類を創りそうな気がしてならない、、、
スマホを持ってない、、、
ガラケーのメールで間に合わせている75歳の婆ちゃんです。
眠くって、、、なにを書いてるのか、、
、読み返さないで、、、寝ます。
明日、、、見返して、、、消去するところ、、、残すところ、、、考えます。
まだ、、、読んでも、支離滅裂に、、、
心に浮かぶよしなしごとを、、、そこはかとなく。。。
書き綴れば、、、
あやしいこそ、、、ものぐるほしけれ
、、、というかんじになって、、、おやすみなさい。
お茶の間を、、、
政治通になるように、、、導く質疑応答を
お願いしたいですね。
これは、
75歳の政治音痴の婆ちゃんの、、、
個人的な希望を日記帳の様に、その時思ったことを、
書いてみました。
無理な注文かもしれませんね。
おやすみなさい。
日ごとにコロナウイルスの肺炎感染の記事が新聞をうめて、
TVもラジオも、「新型肺炎」の解説や、予防方法の説明や、
感染経路の追跡など、真冬の「大敵が猛威を振るっている!」
北海道には、まだ、際立った恐怖は無いが、
マーケットも、アルコールの消毒スプレーを、
入り口、🚻、休息所などに置いてある。
75歳になると
さらに、、、「肺炎球菌」の予防注射の知らせが
「23価:二ューモパックス」のワクチンの定期接種の知らせが来ている。
北海道に本格的にコロナウイルスが上陸しないうちに、、、
重複していろいろな菌に攻められると、、、老体は持たないだろうと思って
昨日は「肺炎球菌」のワクチンをしてもらった。
念のため、帰宅してから、、、爆睡しました。
二日目の今日は、雪かきをしながらも、一応、、、過労にならないように、
早朝と、昼時、夕方、19時過ぎと、、、4回に分けて、除雪して、
自分の身体を、いたわりながら、、、肺炎の予防に備え始めています。
玄関には、10.7パーセントの塩化ベンザルコ二ゥム液を買ってきて
100倍~200倍に蒸留水で薄めて、ドアの取っ手を磨いたり
少し、過剰かもしれないが、、、防衛を始めています。
老人は、、、肺炎が命取りになることもありますので
買い物は、午前中、短時間で済ませて、
部屋の中には、タオルを濡らして、あちこちにかけている。
肺炎だけにはかかりたくないと、、、思うのです。
マスクをして、帽子をかぶって、肺炎が蔓延しないことを願っています。
お互いに、、、肺炎の予防に全力を尽くすようにして、、、
コロナウイルスの肺炎には、、、罹らないように頑張りましょうね!
肺炎の影響って、、、経済界にも、すごい影響を与え始めていますね!?
科学の力は期待されますね。
新しいウイルスの培養に成功したって?ほんとですか?
そうだとすると、予防方法も見つかりますね!。
期待できますよね、、、!?
今日は、なんとなく、国会討論に
TVのチャンネルを合わせて、聴いていました。
女性も、男性も、
国会議員らしい謙虚な質問の仕方で、
聴いていて、国民のお茶の間の婆ちゃんも
謙虚な気持ちで
、為になりました。
いつものような、執拗な質問攻めの虐め構造も映らなかったし、
首相の困ったようなお顔も見えなくて、
本当に一緒に会場に居るような気持ちで
日本の安全の為の議論を
聴いていました。
首相が、、、第一次政権の時の
政権交代した時期の事なども話されて、
ご苦労された様子も伝わってきました。
国民レベルと比べるわけにはゆきませんが、、、
家族の主婦をしていても、、、、
本当に大変なことが多かったのが
思い出されます。
産まれたところが串本の防空壕の中で、
育ったところが南紀の山奥の疎開地で、
6年生で転校生になって
中学は、隣の区域の図書館前の学校に行き、
高校は昔の府立女子高校が、男性を受け入れて
、都立高校となった電車で3つ目。
区域外で人とうまくやることのストレスを感じながらも、
学問するという共通点では
円陣になって
未来への工夫を討論で来た学生時代でした。
結婚で、いきなり北海道、、、留萌、、、
オイルショックで、、、石油が手に入らない病院の寮で
がけの上の
吹きとびそうな部屋の窓から
日本海を観ていた時、
日本の中にいながら、、、外国を感じて闘いました。
大自然の厳しさと、よそ者としての孤立と、
医師をするという事だけしか見ていない無給医の主人の社旗的な無力。
登山しているような何か月でした。
日本国内でも、、、外国を感じるような、心の中にストレスがありました。
国内でも、ストレスが多いのに、
世界のVIPとの会談で、
世界中を飛び回られている首相が
日本の顔として、お仕事してくださるから、、、、
今日も、、、平和だと、感謝しています。
日本は、若い世代は気が付いているのか居ないのか、、、
年寄りが多いのは、、、団塊の世代が、
終戦後の頑張りを見せてくれて、、、その方々が
年寄りになって、、、
70歳なのに、、なお、、、頑張ってくれているのですよね。
能力だけでは、、、なわばりのような、、、見えない、、、垣根に阻まれてしまう。
安倍首相は ご健康が今後のイベントのカギとなると思うのは
多くの国民が、ストレスを最小限にして、
国会は「ワンチーム」になって、
情報収集や、
新しい見方や、世代を超えた意思の疎通や
スマホ時代に培養されるかもしれない
一握りの「自己愛症候群の正義感」
心身健康、、、自主自立のパスでワンチームとなる、、、
本当につよい!心が強い!、、絆が強い!信頼が強い!、、、チームワークが強い!
新しい世代の後継者の為にも、
国会議員全員がコーチになれるように、
国会劇場で、新しい世代の、大切にするべきものを表現していってほしい。
平和を守る世界のオリンピックとなるように
大成功させてください。
安全と、風格と、国際親善の、
全て事に大切な時期が来ています。
日本の国会は、
品性と、感謝と、学び、を、若い世代にコーチする気持ちで
TVで発信してほしい。
そして、国民の代表がヤジを飛ばすのは、、、
直訴にも似て、
危険であり、
外国に対して、同じことをする若者が出てしまうと
その若者を、、、守り切れません。
ルール違反の様に、国民は感じているはず。
批判票となるための野党になるのは、、、、与党より深く,、、勉強して
視点を変えて、参考になる資料に、野党独自のオリジナルな
与党の知らない国の地域の報告のような視点があってこそ、
存在感が増すのではないのでしょうか。?
野党の敵が与党の様に勘違いされる質問は却下すべきです。
数字だけ見て、算数で予算を削り、政権交代した短期間で
生涯ささげた研究が、あと一歩と言うとき、
結果が出せなかったという、、、残念な話も聞いております。
算数だけで考えるのなら、、、問題なさそうに見えることでも、
誘致すると、なにが起きるのか?わからないこともあります。
与党が批判票として野党を必要とする質問は
やっつけることではなくて、、、解決方法の提案であれば
国民は、野党から力をもらったと、、、感じると思うのですよね。
例えば、、、アフリカの事なら、、、
現地の情報なら、、、
野党の方が現地事情に明るくて、国民意識を報告できるとか、、、知ってるとか。。。
そういう討論で、結果的に、与党が深くその情報を取り入れて
軌道修正するとか、、、
独自の情報を持ち寄って、
結果として
与党と、野党とが、共生してゆく国会になれば
ワンチームになって、、、それぞれが良い仕事をすれば
ヤジを飛ばすような、
表面的な不勉強なやり取りは無くなるのではないかと
、、、何か、足りない、、、
日本の国会劇場をTVで観ています。
国民の見えない所では、
きっと、
国会図書館並みの頭脳が、、、国の舵取りをしているのかもしれませんが
今日の様に、節度ある質問や討論だと
国会のTVが、頼もしく拝見できました。
ワンチームになって、、、憲法の重さを討論してください。
国民も、我が子の未来の安全と平和の為に、傾聴しています。
各自、究極の勉強を続けて、ワンチームになったとき
世界について行けるのだと
ラグビーに教えられた、、、婆ちゃんです。
お茶の間での,、、国会TVアンケートにお答え日記です。
50年前、、、私は、、、東京の住人だった。
戦後のドサクサの下町の小学校に転校したのでした。
江戸川の近くの小学校は、戦後の焼け出された人々が
バラック小屋を建てて住んでいた地区と、
あたらしく、新築を建て始めた地区と、
アメリカ兵の駐在の名残の、
アメリカ兵を相手の
商売の人たちが住んでいた集合住宅の団地と
あたらしい日本を立ち上げようとし始めた、富士銀行や、
大手銀行の支店の通りと
格差が色分けできそう時代であった。
戦前は
市ヶ谷の富久界隈から、早稲田、、、そして飯田橋が
私の父の遊び場だったというから、
かくれんぼしたという、、、毘沙門天に
坂を登って行ってみた。
明治生まれの父が、医師になったころは
東京大学を目指すか、
医師になるか、、、
あまり深く考えないで
親の望むとうりに従った男の人生も珍しくなかったようである。
父は、、、東京大学は、、、おっこったと、、、苦笑いしていた。
よけいなことを書いてしまった!
「地球規模の学門」を目指して、
東京大学の農学部に進学したいと思ったそうである。
北大の農学部にもあこがれたことが有ったと言いていた。
雪の研究の先生の事を良く話してくれていた。
牧野富太郎博士の植物辞典を大切にしながら、
幼かった私に学歴ではなく、素直な植物への情熱を示した
牧野博士は形態的に分類をしたと、
努力と、根気を話してくれた。
疎開地から、東京に転校するころでした。
疎開地で、必要とされ、自然に恵まれ、
数ヘクタールの農地も借りて、
薬用の植物や、アメリカから取り寄せたグラジョウラスや、
トリトマや、、、シオン、、、ほうずき、、ジギタリスプルプレァ、
しそ、、椿、イチゴ、、、アジサイ、白菊、、、ヒルガオ、
そして、、、野菜畑が続いていた。
幼いころから、父の借りていた植物畑の一角を耕してもらって
ほおずき、朝顔、菜の花、ダリア、ポンポンダリア、ユリ、、、etc,
父の教えで、植えていました。
チイサナ「鍬」で土を掘り起こしていたら
「けら」が飛び出してきて、、、びっくりしたり
モグラがダッシュしてきて
腰を抜かしそうになるほど、、、びっくりしたり。。。
都会の様に、
「おこづかいは無用」の子供時代を
自然から恵まれていました。
椿の実から椿油を採取。
石垣のイチゴを籠に集めておやつ。
ナスや、カボチャを籠に集めてお手伝い。
キャベツ畠では、、、青虫を竹の箸で駆除しながら
チョウチョになるのだからと、
外側のキャベツの葉っぱをもらって、
飼育したり、、、そして、
白いチョウチョの羽化に
目を凝らして、見つめていたっけ、、、。
月の明るい5時ごろに
竹藪の中に、白い妖精のような花が開くのを観に行ったことがあった。
あれは、、、?たしか?。。。
カラスウリの花だったのでは?。。。と。?
妖精の様に竹の緑と白い花は戯れ乍ら
朝日とともに、元の蕾に戻っていった、、、
不思議な白い幻の花。
思い出しながら、日記をつけていると、
南紀の暖かな冬が思い出されます。
何故、、、北海道に住んで、、、
人生の半分を
寒さと闘い、雪と闘い、、、
友も、学友も、親戚も、兄弟も、遠いこの地で
ひたすら、、、明日の事だけ考えながら、
家事に従事しながら、、、
真っ白な髪になって、、、ここに居るのか?
戦後の日本は、オール貧乏な時代だっただけに
櫻の花びらが小川を埋め尽くして、どこかに流れていくように、、、
戦後の復活は男子の力が主力だっただけに、
男尊女卑とは、、、
全く別の、、、、男女差別に
解っていても、、、同意して、一歩も二歩も、
女性は引いて、
男たちのサバイバルの応援に回らねば
復活できない時代だった。
東京に、
まず、兄が中学生の時、復活の先発として
古い寺の跡地の、
新規開業の予定の住宅に転校した。
もともと、東京で生まれた父。
故郷である市ヶ谷は
空襲で、誰の土地やらわからなくなっていたところを
大手が巨大コンクリートのビル群にして再開発が進んでいた。
再び故郷に帰れるとしても、
40歳過ぎての新規開業である以上
「開業医の必要とされている下町」に帰還したのでした。
学徒出陣で、帰還できた父の10歳以上下の弟と
20歳にならないで、、、亡くなったすぐ下の弟だけが、
私たちは顔も知らない叔父さんでした。
弘が生きていたら、、、頭が良かっただけに、、、残念だと、、、。
父は、命日になると、空でも、雲でも、木々でもない,、、空(くう)を感じるような
視点の定まらない瞳で、窓の外を見上げていた。
大戦の後、運よく生き残った兄弟たち、、姉妹。
生き残りの家族、父を長男とする
兄弟姉妹の4人が
戦後を生きてゆく為に、、、
江戸川の近くに引っ越してきて、
學校の先生をしていた。
戦争から帰還してた叔父さん方は
学徒出陣で、大学は卒業していなかった。
(父が大学へのあしなが叔父さんをした)
末っ子の弟は
下町の、中学の先生になって一足先に
父の購入した、古寺の住宅に住んでいた。
叔父さんは、
戦争から帰還してから、早稲田の理工学部に進み
中学校で物理化学の先生をしていた。
父の開業予定の家に住んでいて、
私たちの
東京への帰還を、しっかりと受け止める先発を果たしていた。
疎開先の中学校には、戦後の教育を受けるには
あまりにも、環境が大自然の真ん中すぎた。
兄は、叔父さんが居るというので、
ひとり、
先に東京の学校に転校していった。
当時は、スパルタ教育のような厳しさで、
東大の合格率が100人前後を進学させていた両国高校に
兄は合格して、
東京大学に行くつもりで、叔父さんに教えてもらいながら、
受験勉強に明け暮れていた。
そのころ、、、疎開地に残された私たち弟妹三人が
中学、小学校6年、3年生、、、と
東京の小中学校に転校して、
父の親戚たちの住んでいる下町に、合流したのでした。
しかし、、、
疎開地では、父が居なくなると
七か村、、、唯一の診療所が無くなるというので、
父だけは、2年遅れて、東京で、家族と出会ったのは
私は、、、もう。。。中学生になっていました。
疎開地に、、、あのまま居れば、、、
父は54歳で過労死をすることは
ありえなかったと、、、悔しい気持ちがするのです。
戦後の、新規開業は、
ストレス多かっただろうと、、、
思いやることのできなかった自分の幼さを
思いだすにつけ、、、
父への、感謝の心が
全員が遅すぎたと、わかった時には、
父は逝ってしまった後の事でした。
現在も、モンスターに囲まれた開業の先生方は
ご苦労していらっしゃるかもしれませんね。
東京に戻った母は、
母校の国立音楽大学の友人の協力も戴けて
「よつ葉会」という、、、
ピアノサークルを主宰して、50人ほどのお弟子さんを教えるようになっていました。
父を手伝っているつもりというよりは、、、
明治生まれでは、珍しいクラシックのピアノ科を卒業して
主体の在る母でいたが、、、
理科系の私は、、、
ケッコウ、、、母からは嫌われていました。
「男だったらよかったのに、、、」と、、、
母は、私を見ては、がっかりしていました。
本当は、やけどをして、右手が使えるようになるまで
17年間も、本来なら必要のない苦労を父母にかけたことも
原因かもしれません。
右手が完治して、
チェル二―や、ソナタが引けるようになったのは
高校生になってからでしたので、
母にとっては、、、
娘が、小学校のお弟子より
未熟なピアノを弾くことが、、、苦しかったのかもしれません。
戦前の父が院長をしていた病院ですが
戦争で、無くなりました。
小学校6年生の直前に、
東京に転校するまでは、
私は、、、、、、
南紀の山々と、川と、
何処までも続く菜の花畑と、
梅の木の咲き誇る、、、しばっこの斜面と
一つ山超え、、、二つ山超え、、、
そり道という、
山の中に張り巡らされた
木材を切り倒して、そりに乗せて、川まで運ぶ丸太の道が有った。
マルタの梯子を横にしたような空中の樹の道は
渡れて、走って進めるようになるまでは幼稚園の年ごろから
一生懸命、、、独学するのでした。
學校にあがる前の幼児の時代から
縦関係に構成された集団で行動する遊び方には
容赦ない厳しさもあった。
低学年の頃は、そり道に差し掛かる手前で、
そり道を走れない者は、、、置いてけぼりになって
泣きながら、走って見えなくなるお兄ちゃんや、お姉ちゃんを見送るのだった。
皆が見えなくなって、しょんぼりと、一人で
竹藪を通り抜けて、、、、とぼとぼと、、、家に帰ってゆくのだった。
竹藪は、昼間でも暗くて、風がサヤサヤト竹を揺らし、
エモ言われない怖さがこみあげてきて、
思いっきり走って通り抜けるのだが
自分の走る足音が響いて
お化けが追いかけてくるようで、、、、
身体が竹藪に吸い込まれそうになりながら
幼い孤独を感じた事が思い出されます。
近くにお寺が有って、、、
そこの和尚さんが
学校の5年生を受け持っていたのを
思い出すのです。
お寺には、大きな銀杏が、、、ドーンと生えていて
乳房のような
大きな、、、樹木のこぶなのだろうか?、、、
木の塊が、乳房の様に思えた。
。
銀杏の樹のむこう側には
私の母の先祖の旧いお墓が見えた。
医学と農学は限りなく近いと思う事も
父の臨床経験の体験の中で
天地森羅万象、呼吸が重なる様な体験が、、、しばしばだったそうです。
地球と寄り添って、包まれ乍ら、、、生きていきたかったのかしらね。
人間の医師は、、、人間しか、、、診ることをしないというまで
的を絞り込むのが、、、、父は好まなかったのかもしれません。
小鳥が足を骨折していると
割り箸を削って、添え木の様にして、
竹ひごの鳥かごの入院室で
飛べるようになるまで、、、世話をしていた。
確か、、、「目白だったように記憶している。」
ピアノに夢中の母は、
父の過労に気が付かなかったのかもしれませんね。
どんな田舎に居ても、気位の高い母は
先生が良く似合っていました。
「練習をしてこない生徒には、、、自習で練習を促していた。」
父が早逝した後、未亡人になった母は、
自分の力で、「グランドピアノ」を購入して、
3代のピアノが、早朝から、、、聴こえてきていた。
ハノン、、、ショパン、、、ムーンライト、、、
今も、、、聴こえてくる、、、フアンタージ、、、、アンプロンプチュ、、、
花束だけをうれしく受け取る母でしたね、、、
もうすぐ、、、2月がやってくる。
2月19日の朝、、、父は54歳の若さで
過労死してしまった。
戦争と、
従軍と、
イギリス医学の指導病院の院長と、、、
終戦間際の野戦病院、、、
疎開先の激務の
へき地の医師と、、、
鮭が回帰して、
命尽きる姿が重なってしまうような
生まれ故郷への40歳過ぎての
再度の開業と、
戦後、、、疎開地で誕生した
「戦争を知らない末っ子の教育の為にも、、、」
居候を二家族、
親類の帰還兵への住居提供と
学徒出陣後の帰還した弟妹を
早稲田や、学芸大を卒業援助、
居候の従妹たちを、高校、看護学校、ドレスメーカー学校、、、
令和の時代は、その時の専門学校は、皆、大学に昇進している。
居候だった、従妹の三姉妹は
東京の、医師と結婚、法律家と結婚、
三姉妹とも、父が逝った翌年には、、、我が家から出て行った。
そして、私が大学に入るまで、、、
せめて、、、卒業までは生きていてほしかった。
頑張りすぎた父の生きてきた軌跡は
過酷な頑張りが続いていたことは、
戦後の復活期の
多くの男性の姿ではないだろうか?
戦後の復興期は、、、出来る者の肩の上に、どんどん重く、、のしかかった。
出来る者は、、、絶対少数であった時代だけに、、、
戦後の貧乏な心は、我勝ちに助かろうとするだけで
芥川龍之介の「蜘蛛の糸の様に、、、切外してはいけない心」を
父の過労死から、、、矛盾の中に、、、十字架を観てしまった。
こうして、、、日本は、再び
オリンピックを迎えることのできる国に甦ってのですから、、、
東京オリンピックの昭和40年代の空は
母と二人で
自衛隊の描く空の五輪を、、、見つめていた。
二人と、、、無口のままで、、、いつまでも、空の五輪を見つめていた。
誰が悪いというのでもない、、、何故?、、、戦争が起きるのだろう、、、?
何故、、、、原子爆弾や水素爆弾を創ろうとしたのか?
地球丸ごと、、、死んでしまうではないか?!
アインシュタインの舌を出した瞳は言っている、
量子力学の世界でも、科学で命を創れるのかね?
人間の、、、心はどうする?、、、IT君よ!
「第三次世界大戦の後は、、、もう、、、核の心配はいらなくなるよ!
地球上は、又、、、
石器の矢じりを使って、、、こん棒でたたき合う戦争に帰るだけだよ、、、、。
大きな目ん玉と、、、あの舌は、、、
エネルギーの保存の法則しか信じていないのかもしれない。
木っ端みじんになった地球が
宇宙で浮遊しながら、、、火星人の東大生が回答する、、、共通4次元試験。
「確かに、、、地球という星は存在した。!」
不合格!どんな答えも、、、不合格!
二度と、、、戦争に巻き込まれないように
世界の平和を願う
ひたすら、、、平和であることを祈り、、、
原子爆弾からの復活のために
どれほど多く人々の努力が有ったかを
若い世代に伝えることが大切なことだと思うのですが、、、
お茶の間で、、、日記を書くだけの毎日です
お父さん、、、
本当に、、、
明治から大正、、、昭和の30年代と、、、
大変な時代に生まれてしまったのですね、、、。
お疲れだったでしょうね。
75歳になって、しみじみと、、、お父さん、、、ありがとう。
命日の2月が近くなると、、、父の思い出がよみがえります。
哀しみも遠くなった、、、感謝の日記です。
私は政治音痴なのですが、
国会のTVは、、、よく観ます。
桜見物の事も、、、、、
多くの国際的なお仕事で、、、本当にお疲れだろうと思う
国の首相に、
之でもか、、、これでもかと、、、桜見物の事を繰り返すのは
虐めの様に思えてきます。
昭和生まれの私は、
明治生まれの両親に育てられました。
吉田首相が戦後の一番難しい時代を
「占領?軍」の行き来する中を、
国の政治を背負ってくださったことは
植民地にならないで済んだと、、、私は法律を信じたい。、
日本が
マカーサ―に
日本人は12歳!と言われたことを
恥じていました。
「子供たちには、戦後の教育を受けさせて、
領土とか、強弱とか、勝ち負けとかではなくて
世界中の国々の大切にしていることが、わかる大人にしなければ、、、
戦争は繰り返される」
と、、、言っていました。
祖父は28歳でアメリカに留学しましたが、
日本人は差別の中で、
頑張った時代だと言っていたのを思い出します。
汽船に乗って3か月かけて、
アメリカ西海岸に着いた時から
武士の鎧兜の様に
祖父は三つ揃えに
「銀の懐中時計」を
身に付けていました。
日本人は差別される中で、唯一通用するのは語学と、
日本人の勤勉さと
アメリカ人が知りたがった
日本の文化を伝えることのできる品位ある伝達能力だったらしいですよ。
教養と、忍耐と、根気、、、後は、、、運の良い出会いだったと言っていました。
戦争が無かったら、
きっとアメリカに仕事を求めていたのではないかと思いますが、
砂漠のような西海岸に地面の下にパイプを通して、
緑地帯をつくる話を聴いたのが懐かしくて、
小学生の我が子を連れて、
祖父母の住んでいた、、、サンフランシスコの街を歩きながら
ロスに戻り」
ロスで、防弾ガラスの入ったレンタカーに乗って、
ヨセミテ渓谷目指して、
レンタルカーで一路、、、8時間もはしりつづけたことが有りました。
「メタセコイアの巨木」を観て、エルカプターンの巨石の山や、
ベルフォールの滝の前で思ったことは、、、、
国のスケールの違いから、、、地球を感じました。
日本は、アメリカを知らなかったのでは,、、
、、、羊飼いに導かれる国民の様に
恐怖が有ったのではなかろうか。。。
一部の世界の大きさや、、、資源や、、、自然の恵みや、、、国の広さを
体感している日本人が居たとしたら、、、
決して、戦争はしなかったと思いました。
ここに来る間には、、、石油をくみ出す
「やぐら井戸」が林立していた。
お腹がすいて、炉端の農家で買った瓜は、、、
子供の身体位大きかった。
国会で、世界を体感していらっしゃるのは
外務大臣や、、、官房長官や、、、
首相や、官僚のかたがたでしょう?
わかりませんが、、、想像しています
10間のアメリカ旅行で、
緊張で、くたびれて帰ってきた私にとって
首相が、世界を飛び回って、
日本の未来の為の業務をされているときの
ニュースをTVで観るたびに、、、
「本当に、、、お疲れさまと、、、感謝です。」
日本の若き政治家の中から、、、インターナショナルな人で
世界の国が、認識してくれて、
話を出来る後継者を育てなければ
イタズラに、、
、桜の会で、、貴重な時間を疲れ射してしまう繰り返しは
政治家さんたちの、
高等な頭脳の人々のやり方とは思えないな~~~と
国会の討論に、いささか、、、無駄な時間を感じてしまいます。
「たった一つの自動車の会社」の
ゴーンさんをTVで拝見するにつけて、、、
外国人の、スケールの大きいやり方に
日本はお手玉の様にされていますよね、、、
櫻の会が、、、どうのこうの、、、より、、、
私たちも、、、年金は
おおはばカット、、、
若者や、団塊の世代が退職する前後に
新築家屋の急騰や、時代の波に合わせて、
有能に、果敢に日本の復興を担ってきた人たちの老後を
恩給なら、やっと、、、骨休めできるでしょうが、、、
働く人々には、容赦なく税金がかかってきます。
自営はともかく、、、
収入ガラス張りの勤務は
控除がありませんが、、、
時代のスピードについてゆくための
一生、、、パソコンを買い替えたり、認定の為の類学校のような
教育費を我が身の勤務『継続』の為に払い続けてゆきます。
戦争中の日本に奉公した生き残りの
明治生まれの親たちは
晩年は、子供らによって、支え、
昭和生まれは、
親や戦争軍人の帰還後の進学補助や
見えない出費の為に働き続けてゆくのでした。
戦後の、、、貧しい心は、、、
感謝する余裕は無いようです。
おんぶにだっこ、、、頭の上に来ても、、、
貧困からの脱走を他力本願する時代です。
強く、勤勉に働けるものは、、、
無条件で、支えなければならない時代でした。
PTSD
究極の貧困な心をつくるのが、、、戦後です。
「自分しか愛せない、、、、」エリートの中には
「自己愛症候群のエゴな御仁」も居るはずです。
日本が大事な時に、、、
我が政党だけを考えてしまうような
虐めに近い質問の繰り返しを聴いていると、、、
子供が真似をすると、、、コワイと思いました。
大局観が無くて、、、野党が与党になったとき、
その党首は、世界の政治的な実績が無いと
世界が相手にしてくれなくなるのではないでしょうか?
櫻の話は、プロの祭壇に任せて、
「首相が築き上げた世界との交流」を、
金屏風の、、、さらに国際的な知恵のある大きい人たちが
継続できる後継者を育て上げてから、、、
首相の耕した畑に、
世界平和と、治水、砂漠の緑化事業の輸出など、、、
日本の活路を議論してくれた方が
中村医師のような、、、哀しすぎる答えが無い、、、心のエポックに
日本語と、、、哀しむ事件は無くなるでしょうね。
野党の「侍堅気の人たち」も、
国を守る能力の出番が期待されるところです。
75歳の政治音痴の、、、
羊飼いの言うとおりに移動する国民が
スマホを通して、
「個人移動する時代」になりました。
国会も、比類なき国際性の議論で、
二人目のゴーンさんに振り回される日本は、、、なしになるよに。
島国の特徴が出ているように思います。
もっと、、、桜を世界に紹介して、、、
外人の参加する桜見物にしては?
櫻は日本の花ですから、、、
心から、、、大切にしてほしい。
マスコミも、桜を、大切にしてほしいと、、、思うあまり、、、
政治の事は幼稚園ですが、、、いい加減に桜問題はプロに任せて
お茶の間の聴衆は、
世界の共生、、、
政党の共生、、
国民第一の共生を願っています。
日記ですよ、、、これは、、、日記!
私一人の為の、、、ストレス解消の、、、日記です。
鳩山さんの薫子さまの時代に生まれているので、
鳩山さんの御家と、共立女子大学と、
学識有る方々として、、、政党を抜きにして鳩山御殿を見学したいな~~~などと
t
厳寒の2月がやってきますね、、、。
明日は今日より温度が低いという天気予報。
2月になれば、もっと寒い!
早朝から、車庫の前の雪を、
100円ショップで買った箒で掃くと、
雪は降り続けながらも、あたりは路面が見えるほどに
今年は雪が確かに少ない。
研ナオコがジャズを歌う、サクソフォンが大人たちの心に吸い込まれてゆく。
「相棒」には珍しく、感性の豊かな画面が続く。
研ナオコは、杉下さんとは、対照的な感性女性を表現している。
本当の悪女、、、というよりは、
大人の女性の、ハスキーの魅力
語りの様に
ジャズを歌うのが、
いつもの「相棒」とは違った魅力を感じながら見ていた
4時からは、2月の閉じこもりの為の
2週間分のまとめ買いをしてきました。
春の雪かと、、、手のひらで受けると
これから、、、桜の花びらに変身するところよ(^^
声が聞こえてきそうな軽い雪が降っていた朝。
太陽が、どこかに、、、お出かけしなさいよ~~~
一緒に散歩しませんか?
、、、、、誘ってくれているような
小春日和の羊ケ丘界隈の空気は、、、美味しい!
お隣さんがリュックを背負って、、、出てゆきましたが、、、
お散歩かしら?
主人の通勤を見送ってから、ぼんやりと、
新聞をめくった。
道新には地域の事が出ているので、ひととうり目を通しながらも
政治面は
斜めに見出しを読んでめくって飛ばしてしまう。
道新は、
地域の記事の方が面白かったりする。
ラフィラが閉店セールをしているみたいだね!
行ってみるかしらね!
久々のお出かけ日和が、ワクワクさせる。
、、、、、
あれもこれも、、、仕事が溜まっているし、、、
考えているうちに、洗濯を始めた。
之で、今日の一日は、部屋の掃除やら、片付けやら、
夕食の下ごしらえなどに
エンジンがかかってしまった。
朝食の時についでに作ったサラダサンドイッチを、
昼に食すると
やたら眠くなってきた。
気が付くと、、、2時だ!
大変、、、2時間も昼寝をしてしまった。
陽は春の様に、、、
さんさんと眩しいくらいなのに、、、
天気予報の朝は「雪でマイナス気温」を考えると
ウキウキ出かける気持ちも治まって、、、
久々に、
沢口さんの、TVをつけた。
洞察力の鋭い番組なので、、、面白いのだけれど
主婦の様に、分散した精神の時間が多いと、
作品の緊張感についてゆけないときが多い。
ずっこけるような、、、緊張を緩めるシーンが有った方が
歳よりは、、、気楽に戻れて、才媛女性にもついて行けますよ。
時代劇の、、、誰かの奥さんになったときの「御内儀?」
印象に残る役柄でしたね。
彼女は美しい女性なのに、、、
男を寄せ付けない理知的な役が多いですよね。
その点、、、今日は、、、ゆっくりと、久々に
彼女の、美しい、理知的な厳しさに触れて、背筋がピンとなった。
TVに巻き込まれると、、、
今日はもう、、、外出は無し。
欣也ちゃんと、
音楽家で美人の女優さんが
「医療番組」に出ているので、
それまでに、
家事や、繕い物を済ませて、、、、靴下は中国製の物を
マーケットで買うので、
片方が、すぐに穴があいてしまうのは
私のかかとが、硬いのかもしれませんね。
またまた、、、TV観ながら、コマーシャルタイムに針を進める。
若き日のあこがれの、、、
親子鷹、、の歌右衛門さんとの共演の映画が
懐かしく思い出される。
きりりりとした、、、あの時の少年、、、欣也ちゃんが
御爺さん役で出ていた。
役を演じる欣也ちゃんは
昔から、、、その役に忠実な、、、歌舞伎役者のような
見えない部分に深い研究があり、、、
今日の役どころも、、、
「治らない病」に勝てない娘の旦那
父はなおると信じている孫を抱きしめて
寂しすぎる番組だった。
やっぱり、、、欣也ちゃんは
寂しい御爺さんを、演じていた。
銭形平次が華が有って、、、元気をもらえて、、、若返るから、
水戸黄門と、銭形平次は、昭和生まれにとっては
父母の居る空間の暖かさが戻ってくる。
医療番組でも、、、今日の番組は、、、寂しすぎた。
女医さんは、、、作家の御主人に
あのような辛辣な事は、、、絶対に言わない教養人だと思いますが、
本質の暖かさが無いと、
美しいだけでは女医さんの内面が表現できないと思いました。
患者さんに寄り添う人は、、、御主人にあのような事は言えないはずと思いました。
又、、医師は、
「医師をする」自分が
周りに支えられていることが
実に自覚をもって、わかる人が多いと思いますから
相棒の御主人のスランプに、
「能力が絡むような発言」はしないはずと思います。
こんな女医さんは本当に、じつざいするのでしょうか?
自己のコントロールが出来ないで、
他人をストレスに追い込むという発言は
美しい女優さんだけに、、、
シナリオを、もっと、深遠な目で言葉を選べばいいのにと
残念でした。
俳優さんも、女優さんも最高の演技をしても
台本のセリフが
医師という内面が
「知識的なインテリ」という
「洞察が足りない人格の未熟」が全面に出ていたせいか、
最後の入院室の子供の絵の貼り方も、、、ありえない、、、
思いやりにない場面だったと思いました。
「死」も戦いかもしれませんが、
医師の行動の受け売りのようで、、、内面の感じられない番組でした。
昭和生まれの私の生きた時代は
ギリシャ劇なども観に行った時代ですから
内面の表現には、、、子供の絵が、、、一枚
天井に貼ってあった方が、、、涙が出たと思いました。
75歳の、お茶の間の婆ちゃんは思いました。
…確かに、、、若いときは、ランキングの様に沿って面白かったとは思う反面、
70歳を過ぎると、
物の見方が変わってきます。
未来の少子化の日本を思うとき、
女医が台頭してきて、男性医師とは別の生き方で、絶対多数派を味方にして
生きる時代が来たとすると、
この能力を、、、子育てに使ってほしい、、、そして
資源の無い日本の国にとって、
世界が必要とする子育てをしてくれたとしたら、
女医として、家庭を振り返る時間が無い時には、
お金をかけて、キャパシティを身に付けさせることは出来ても
人間として、命を、ミクロに見る前に
命を学問する前に
命を科学する前に
命と知性と、社会と、宇宙視野の在る、、、この!
稀有なる人間という生き物を、
女医になる能力を、家庭に向けてくれれば、
日本の次世代は、、、スマホにかじりついて、
スマホと、パソコンを支配しているつもりのデジタル人間が
地球を覆うのを半減できるかもしれません。
公害や、地球温暖化を創る社会は、
いわゆる、科学者が作った社会となって、、、末は「がん細胞の様に、、、」
地球は猿の惑星になってゆくでしょうね、、、、。
人間の医師だけではなく、、、獣医さんも、命見つめて学問する人の知恵が
体当たりで、次世代の子供たちを育てないと、、、
共通一次試験の最後の問題を、新聞観ながら解きながら
天候のプロの、石原お天気学者タレントの、、、ほら、、、ほら、、、
裕次郎さんを叔父さんに持っている、ワイドショウに、、、出てくる、、え、、、と
名前忘れちゃったけど、、、
あのタレントさんだって、、、答えられないような、、、お天気お宅の問題ですものね!?
私は、夜中のNHK見てるから、、、、お天気のグラフと、画面のジャングルや砂漠、
いろいろな背景から、正解できましたが、、、
之って、、、塾に通うより、
夜中のNHKや、山登りや、、、
こんなところに,、一軒屋、、、のTV見てる人の方が
北大の社会科に合格しそうですね。
スマホ一台あれば、、、勉強しなくても、、、答えられそうですね。
命、、、て何ですか?
若いころ、高校時代、、、同級生と
「ドクトルジバゴ」を観に行きました。
戦争という、、、理屈抜きの社会の混乱の中で
医者という、医師という、、、資格がありながら
「医師をする」という,、、機会になかなか恵まれなくて
時代に翻弄されながら、
身に付けた「科学の知恵を脱ぎ捨てて、、、本能に近い恋走る、、」
ジバゴは愛妻も裏切ってしまう結果にはなるが、、、
戦争という、社会の混乱は、医師で有って医師をすることが出来ない条件下で、、
人間が人間であるという、、、、、哀しいまでの原点が
「ひまわりの畑になって、、、いつまでも、心に残っている。」
私の家は、、、戦争に翻弄された時代が有って、
兄弟も、3人失っている。
叔父さんも、学徒出陣をしている、
夢なかばで、、、金属はすべて国に戦争の武器を創る材料として、
提出した後、
もう一人の叔父さんは、シベリアに行きました。
戦争が、、、医師で有った「ドクトルジバゴ」の
人生を、追い詰めていったとき、
妻以外の女性に恋をする、、、映画は、、、命見つめるはずの医師が、
精神面で、人間の原点の行動に戻ってゆく。
こうした医療の番組の視点が、、、歳をとってきた私には忘れられない人間劇です。
、、、
確かに、、、女医さんが出てくるTVも、、、別の意味で面白いですがね、、、
古池や、、、かわず、、、とびこむ、、、水の音。。。
歳をとってくると、、、説明できないような情景を
カエルの行動で、、、一万ページを表現する映画に傾倒してゆきます。
ランキングの医療番組は、、、若い人には、確かに面白いですよね。
メスよ輝けなんて、、、外科医のイメージトレーニングなどのシーンは
私は、筋トレの様に、真似をして、、、カッコいいな~~~と
マンガに読みふけった者ですからね。
おたんこナースも、声出して笑いましたよ。
古池に、我が家の場合、、、ガマカエル、、が飛び込むんだ!!!
家の池なんか、、、食用カエル、、、が飛び込むんだぞ!
白い巨塔に至っては、、、ありうる現実の医療事情の世界が
誇張されて、面白くドラマ化されていたことが
中村医師のような一部の医師たちを、どうねぎらえばよかったのでしょうね。
医師をおもちゃに、、、めちゃくちゃ誇張して、ドラマは爆発的な人気を得ても、
本当は、そのドラマに取り入れられている
最先端の医療事情を観るという、まじめな視点が、本当の視聴者を得るのではないかと思っている。
「赤ひげ」も欠かさず、映画も、テレビも見続けているが
三船敏郎の映画は、子供時代に観たせいか、、、
医師なのに、喧嘩を吹っかけてきたやくざ風の若い衆を
バンバン、、、投げて、、、ボキボキと、、骨まで折ってしまい
診療所で、手当てをするシーンなど、パラドックスのような視点で
75歳になった、、今も。。。思い出し笑いをしながら
三船敏郎の男っぽさを、🌺として視ています。
小林桂樹の場合、
三船敏郎が、、、アクが強い「あかひげ」を演じたせいか
普通のドラマとして、観ていた。
現在は、、、船越ジュニアが演じていますが、
欠かさず見ています。
「社会背景」も貧困格差の間で医療に捧げる「赤ひげ」先生の
全体感が伝わってきて、、、人間「赤ひげ」が表現されていて
別の意味で、見ごたえがあります。
確かに、、、TVの医療番組は、面白くって
近所の奥さんからも、、、電話で知らせてくることもあるぐらい、
名医の番組なども、為になることが満載です。
しかし、、、歳をとってくると、、、
裕ちゃんも、金田さんも、、、三船さんも、小林さんも、、、皆あの世です。
「命を、科学する。」「命を材料にして料理番組をつくる」
「命が、、、焼けてゆくオーストラリア、、、」「命が何であるのか!」
歳をとる毎に、、、視点が変わる。」
ITの時代のなると、、、人間より賢い人間もどきの頭脳を持った機会が生まれ、、、
がん細胞の様に、能力で、、、生身の命ある人間を食いつぶし
生まれる必要のない世界を作り始めてゆくような気がして、、、コワイ。
パソコンのプログラミングを、奨学生が始めている現実を考えると、
ドローンをITで捜査して、未開の国に飛ばせるというプログラミングは可能になってくる。
医師は、、、一人一人の人間が、
かけがえのない自分という、、、二人と居ない「生命の大切さを知る時」
医師は、その人間が内なる自分の力で、、
、生きようとする自己の治癒力を
発揮できる最高の環境に持って行くという努力をしているのが臨床医の妻としての自分の観点です。
だから、、、「命」「限りある100年前後の命の唯一無二の時間を知る人間」が
医師の腕を振るう舞台を用意できると思っているのが
医師の舞台裏の妻の観点です。
だから、、、世の中に、、、医療番組を通して、、、
「命とは、、、」番組の最後に、
命、、、命、、、
この、、、命は、ITも、機会も、パソコンも
科学の力のスーパンマンもが
代わることのできない
心を育てることが
自分の命の大切さを知れば、、、医師を玩具にした番組は、笑いはとれますが
人間としての、、、行き着く品は「命に光を当ててほしい」という事ですよね。
遺伝子が継承されるという事実は、、、見方によれば、、、
未来に生きる人間の教育は、遺伝子レベルで
「森羅万象、命の唯一無二の心を、遺伝子に組み込むことしか、、、考えられませんね(^^!」
医師が馬鹿にされる番組は、自分の命馬鹿にしているのと同じでしょうね。
材料に使っていいものと、、、そうでないもの区別が、、、
次の時代の若者に影響してゆく
「命見つめて、、、科学する」、、、それだけの人間になってしまっては
自己愛中心主義の、自己ファーストマンを育ててしまうと
たった一人の患者さんを救うのに、、、医師は闘っているのに
大量殺戮兵器の原子爆弾や、水素爆弾や
速中性子の装置で、原子をつくることに、、、世界が偏れば
核実験だって起こってしまい、、、
医師達の伝えてきた、命ある地球!
緑の地球!
森羅万象、、、動物たちとの共存の地球、、、
一瞬にして、木っ端みじんにンる様な、、、プログラミングを
小学生が学んでいたとしていたら、、、
「命の意味は、誰も知らない」医療番組に鼻が咲いてゆくでしょうね。。。SFみたいな、、、地球。
人間の居場所は、化学でコントロールされた、個人ロケットの一戸建て?
医師はすべからく、、、技師と呼ばれる科学者で
「心」「五感?」「恋?」、、、何ですか?それは?
やばいでしょう!!????
医療番組はNHK !
CTだって、、、日本人は昭和42年ごろは、、、「何それ?」
東芝が、大きなスライスをするCTを
がんセンターの、若き医師や、技師の皆と、
科学の知恵の円陣を組んで、、、64列とか、、、どんどん細かいスライスにしてゆき
とうとう、、、3次元立体で、がんの病巣を映し出すという
3次元のCT,,,を世に出した。
そして,、、陽子を使った「ペットCT]が世に出た。
これは、、、食パンの様にスライスするCTの上前をはねたやり方で、、、
細胞レベルを断面で観れる!色で光る!
20万以上かかるが、、、私は
自分で体験した。
その時は、自覚が無かったが、、、卵巣が赤ちゃんの頭ほど大きくなっていた。
自然被爆の数倍の被爆の在る時代の
PET、、、CTの検診であったが
良性の、「ムチンで満ちた良性腫瘍と判定されて、手術の決心がついた!」
悪性なら、、、ターミナルで、、、余生を痛みのない人生にするつもりだった。
しかし、、、良性と解ったからには!
患者の私に主体は移った!
挿管され、、、腹を16センチも縦割り切腹したが
赤ちゃんの頭相当大の「ムチンで満ちたボールは、体液に浮かんだまま
先生は、、、両手でスクウウヨウニとりだせたと言った。
患者が自分の病気と闘う意思をはっきりと表現すれば、
医師の皆は力を総動員して、貸してくれるのが、、、医療だと思った。
この時のCT検査は、、、まだ普及していない時代だったから、
私は、築地の「国立がんセンター」に勤務中の
弟を訪問して、
「ペット検査は、、、CTや超音波と組み合わせると、、、かなりの腫瘍が初期にわかる!」
そのような説明を受けて、、、がんの末期なら、、ターミナルの方が良いといった。
結果は、、、弟はニコニコしながら、、、「良性!良性のムチンだよ!」
すぐに、札幌の病院に手配してくれて、とんぼ返りでサッポロに着いて、
その日に、札幌の総合病院に入院!手術をうけました。」
弟は、、、
「検診に行くようにしないと!」
「初期のうちに見つけないから、、、!」
「16センチも切る羽目になったんだよ!」
検診嫌いでは済まないんだよ!、、、
かなり説教されました。
「こんなに大きくなるまで、、、検診に行かないなんて、、、信じられない姉だと!!」
こうした事実は、、、ドラマより、、、すごいですよね。
破裂していたら、、、どうなったのでしょうね!
悪性に発展したら、、、今の私は、、、居ませんよね!」
こわい、、、何か見つかったら、、、家庭が守れなくなる、、、
守り切ってから、、、何か見つかっても、、、何とかなる、、、
もう少し、、、現状維持で、守りを続けなければならないtぽ言う
次男が、やっと私立医科大学を卒業して
万一の医療費にも、困らないという時期まで、、、検診に行かなかったという、、私。
自分をまず、大切にするという、そういう事が後回しにしてしまう時期こそ
医療ドラマは、あちこちで、、、おきてしまう。
とくとく検診にも、、、肺炎球菌予防注射にも、、、行くべきなのですが、、、
私は今日も、雪を掻いて、、、へばって、、、バテテ、、TV の前か
パソコンの前です。
ウィンドウ7が、、、サポートが無くなり、、、使えませんが、
息子のパソコンから、ホームページを観ています。
パソコン買いかえたいんだけれど、、、
高くってね、、、
かってな日記帳でしたが、、、
船越ジュニア!オトウさんのファンも
懐かしく、、、眼を細めて、、、毎回見ていますよ。
優しいハンサムでしたね。お父さんは
船越ジュニアは、、、眩しいような、息子のような
親しみのある、、、ナイスガイの頃から、、、刑事者も、、、
TVで観ていますよ。
色眼鏡で、、、TV番組のランキングを見てみました、
日記帳ですから、、、ハス斜めに読んで、苦笑してくださいね。
阿保ンションのばあちゃまTV観戦軌跡でした。
s
このサイトには、
花火を芸術的に写真で一瞬を捉える名人や
月寒公園の、冬の鳥やエゾリスを
家族の様に「この表情!」と、
思わず微笑んだり、感心したり、、、森羅万象空は友達!
冬の雪しか目に入らない人は、、、
このHPに 立ち寄られると
北海道の冬の空や、公園の木々には
仲間が居るって、、、観察したくなりますよね。
雪が降る、、、今日は早朝から、雪かきでくたびれました。
雪ばかり見ている人は、、、くたびれもうけですが、、、
鳥や、エゾリスを観て、
温かな心が、元気をくれましたよ。
良い時間の使い方をされているな~~~~って!
感心しています。
新年会が、あちこちで開かれながら、
有り難いことに、、、地道な努力を仲間とともに続けてきた主人には、
今年も、頑張りましょう!、、、と声かけあうという、
ともに苦楽を共にしてきた相棒が居る。
私とは違って、北海道に60年以上住んでいる主人は
10年という若き日の歳月が、
友達をつくる学生時代だったのだろう、、、
生き残った同級生たちは、、、
現役で社会に役に立っている現実に出逢うだけでも
「頑張れる!」力をもらえるというものなのだろう、、、ネ。
学生時代に、「大山」に登ったったことや、
野球の試合で青森から奥入瀬のあたりを歩いたときの感動が
クラスの会や、新年会で、、、甦り、童心に戻れるのだろう、、、か?
当時帰りのお金が無くなって、、、
友人と小銭を集めて、「パチンコ」店に入り、
夢中ではじいたら、、、球が出まくって、、、わけを話して、店で球を買い取ってもらい
皆、何とか無事に札幌に帰れたそうですよ、、、
(^^!
仕事が続けている限り、、、社会の役に立っているわけだから、、、
サポートの家庭の主婦も、、、
呆けないように、緊張をするメリハリをつけなければ、、、と。
家庭で、何十年も、主人という人間だけの担当をしながらも
主婦が忙しいのは、、、、なんでだろう?、、、なんでだろう、、、?
雇用してくれるのなら、週に3日ぐらいは、社会で働けたら、、、
私も、、、呆けずに済むのだけれど、、、
不規則に、
早朝深夜と、会合が続くのは、、、きっと、
皆と逢うと明日の力をもらえるし、
あたらしい若い人たちの輝きを観ているだけで、、、
元気がいただけてしまうのだろう、、、。
主人が、出かけた後、、、
おもむろに、、、洗面所の鏡を覗くと、、、
「誰?あなたは誰なのよ?」と、、、思わず
「お名前は?どなた?」。。。と
聴きたくなるような、、
、総白髪のおばあちゃんが、
「やれやれ、、、と、眼の下をたるませて、、、こちらを見ている!?」
。。。。、、、、*****この人???私?
そうですよ、、、貴方ですよ、、、
天井から心無い声が答える。
北海道という、、、思いもよらない新天地に
青函連絡船で、やってきたのは、、
、昭和44年の10月だった。
石川さゆりの「歌の様に」
海鳴りばかりが聞こえていた。
父が54歳で、早逝してしまったこと。
我が家が卒業ほやほやの「内科医」になったばかりの兄が継承したこと。
親子で、大名開業の様に、大船に乗ったつもりの兄貴にとって
一人での開業は、神経が疲れたのだろうね、、、。
北大医学部を卒業して、やがては我が家の外科を兄とともに継承してくれるという
主人が現れたのは、偶然の出来事のように、、、私は思っていた。
病院を大きくする計画で創った兄が統括している「淡交会」という
病院拡張のプロジェクトチームに加わってくれるという
医師が現れたわけであるから、
従兄の耳鼻科の同級生も
看護師になった従妹も、
幼馴染の、口腔外科医も、
又従妹の、私立医大の医局長をしていた幼馴染のお兄さんと呼んでいた又従兄の内科医も
北大からの参加を喜んで、私も、
母や、兄の強い希望で、
博士号を取得したら、故郷に帰るから、我が家の計画に参加しながら、
自分の父母に孝行したいという
主人の申し出に、母と兄がかかわった。
頭の上を通って、兄と母と主人が決めた話に
いかに生まれた以上、、役目を果たせという
わけの解らない兄貴の主張だった。
私は、結婚を約束した、幼馴染が居ました。
付き合いは、兄と妹のような、プレーンな付き合いでしたが
家族の一員の様に、、、緊張の要らない性格でした。
私は、現役の薬剤師として、総合病院に勤めていた。
30歳までは、薬剤師として、
自分を仕上げたいから、、
「独身でいる」という私の言い分には耳を貸さない兄貴だった。
せっせと勤務に出かける妹に向かって、
、、、兄は、
「出て行け!、、」「早く結婚して出て行け!」と
九官鳥の、、、馬鹿の一つ覚えの様に、一人でしゃべり続けた。
、「我が家に医師を連れてこれるなら、
母の離れのピアノの在る部屋の、二階の三室は使っても良い。」という。
私は、、、断った。
「私だって、母を世話をする権利はあるから、出てゆかない」と、きっぱり反論した。
次の段階、、、医師の間での通信的な役割を果たしていた雑誌に
「医師、、妹、、、我が家にて勤務してくれる医師に嫁ぎたし、、、、」
雑誌に、、、無記名の広告がでているではないか?
無記名ではあるが、、、申込者が来てしまった以上
バレバレではないか?!
ひどいことをすると思った。
勤務から帰ると、、、御気の毒に、、、本人の私が無関係で、知らないというのに、
威儀を正して、結婚の申し込みに来てくださっているのだった。
、、、私は、、、兄の、神経が、
一人開業になってから、、、
勇み足の
おせっかいな縁談待ち受け広告をしたのだと
言い訳しながらも、
私ごとき、駆け出し中の薬剤師に
申し込んでくださるというDr.に対して
深い感謝とともに、、、
「目下、薬剤師として勤務中で、自分を仕上げるまでには30歳まで結婚はしない」と伝えた。
有り難い話であるが、、兄貴の独断で、よりによって。。。
広告では、、、結婚したいとは思わないでしょう!、、、
普通の女性なら!
腹が立って、腹が立って、、、怒る気にもなれなかった!。
私は、、、
「兄は心の病気」だと思った。
、、、
妹に対しての、責任過剰で、おかしくなったのかと思った。
戦争で、弟二人、妹一人、兄は10歳までに体験している。
その後、疎開地の医師の息子としての、難しい疎外の経験もしている。
私も、疎開地では、右手に故なきやけどを負っている。
受け入れられて、
神様扱いの尊敬と親しさで
村落になじんだのは父だけだったかもしれない?
母への嫉妬が娘の火傷になったとも、、、考えたくはないが、、、
疎開地では、父の立場は本人は激務でも、家族は別の待遇を受けていた。
誰しもが、、、お父さんが医者だと家族は得だと、、、思う、、、戦後の貧しさの中で
我が家には、ふんだんに食べ物が有った。
父母は、バターも、ハムも、、、診療所に寄付される食べ物は
村の人に配っていた。
兄は結構な割合で、、、喧嘩をしていた。
本当の怖さと、外国の地で、弟妹を亡くしたPTSDが
母には残っていたが
父と兄は、歯を食いしばって、母を癒していた姿を覚えている。
こうした、、、過去を思い出すと、、、
兄は、父の亡き後、、、妹を守れなかったら、、、どうしようかと、、、
過去のPTSDに翻弄されていたのかもしれない。
回覧に近い、医師の雑誌に
妹の結婚相手を募集するなんて、、、気がおかしくなったのかとも、、、思った。
又、、、応募してきてくださった、、、Dr、に
何といえば許してもらえると思ってるのだろうか?
妹を啓蒙しただけですと言えば、、、
相手は許してくれるとでも、、、
思っているのだろうか!?
万策尽きた思いで、、、あった。
後日、その方のお母様という方から、、、
和紙の巻紙のお手紙が届いた。
夫婦とも、二つの病院の院長で、本人は大学の医局にいるという、、、
丁寧な、、、自己紹介のお手紙であった。
兄は、、、父のいなくなった開業を、
手伝いながら、
時代とともに、
病院を拡幅してゆくという計画の
弟分になってくれるに違いないという、、、親戚の医師を集めた「淡交会」の
会員を探しているわけですから、
立派すぎる、
ご自分の病院を持っていられるご夫婦の
長男との縁談は
我が家の求めている
「願わくば次男の外科医」とは違う事を伝えて、
あのような、広告に至ったと、、、詫びました。
「私は知らなかったことです」とは言えなかった。
私ごときに、、、御目をかけてくださったことに、
我が身に余る光栄ですが
応じられない環境に居ますと、、、辞退しました、
その足で、、、
北大で、外科医を目指してはいるが、、、
目下、、、苦学生で、大学院の研究中で、
犬の解剖をとうして、
動脈瘤などの血管を、バイパス手術で血流を確保できないかという
研究に夢中になっていながら、
研究費も、
奨学金に頼っているという
次男の為に、仕送りがストップして、
3食食べられないという、、、逆協の医師に出逢った。
その、、、、青白き、、、覇気が無くなっている医師が、
たまたま、
同級生の結婚式の挨拶を頼まれた私の席の隣に座っていた。
そして、、、私の頭を飛び越えて、
先輩の外科医と、本人が、
私の母にお見合いを申し込んで、
母との間に話をつけて、、、
「今の研究で博士号が取れたら、、、独立して、東京に帰れるから、、」
我が家をベースキャンプにして、
北大から、
東京の大学の医局に北大から紹介してもらうと言ったそうです。
事実、学友が東大の病理に居るとか、、、
母も、兄も、、、、
医学部の地域性を知らない開業医ですから、、、
信じたのは当然ですよね。
当の本人も、
医学博士を取得できれば、独立して、
日本中、
どこの病院でも、
勤務できると思っていたようです。
もっともな、、、考えですよね!!!
(--!
ところが、、、医学部というのは、、、当時は違っていたのでした。
留学も、外病院の勤務も、全て、、、
大学の慣例で、、、学閥のようなものが有ったのですよね。
結婚して、我が家が、、、弟、従妹、又従兄、
看護婦、薬剤師、、、と。
之だけそろっていれば、、、東京の駅から徒歩圏の
父の残した240坪の診療所を抵当にすれば、
「淡交会のメンバーの印鑑」が、5つあれば、、、
病院が出来ると、、、思ったのでしょうね、、、兄は。
メインの外科医が、、、
医局に残って、待ちくたびれても、上京してこなかった訳ですから、、、
結婚後、、、兄からの手紙は主人あてに100通ぐらいはありました、、、が。
主人には返事が書けない理由がありました。
「淡交会」は解散になって、、、
実家はせっかく兄の息子が内科医になっていたのに、、、
売られてしまいました。
世の中は、、、
兄の思うようにはいきませんでしたが、、、
兄の息子さんは女医さんと結婚されて、、、全く別の所に開業されて、、、
上京しなかった私たちは、、、
結婚式にもよばれませんでした。
しかし、、、各自の医師の皆さんは
勤務医として、
医師としての
医療面での最高の機械とスタッフと、コメデカル、事務系のしっかりした
大きな病院に、落ち着いて、、、
医師としては最高の、、、
医療面での贅沢な設備の中で働けるという
医師の幸せを、それぞれが手に入れられて、
勤務医として、、、晩年、、、
兄の招待で、会合などするようになりましたから、、、
何が幸せなのか、、、わかりません。
結果的に、、、
新規開業の時代は過ぎて行ったのかもしれません。
地域に根差した
地域のニーズを、
親子世襲で、、、
頑固なまでに守り続けている医院が生き残っています。
父の時代からの知人として、、、
お孫さんの時代に入っています。
私は、臨床家としては悔いのなかっただろう父の生き様を心の宝物として、、、
54歳の若さで、医師をすることで、
これからが社会への恩返しだというときに
消えてしまった父が、
残念でなりませんでした。
戦後、、、やっと、落ち着いたときに、
よりによって、前日は患者さんの為に執刀していながら
翌日の早朝、、、逝ってしまうなんて、、、あきらめきれませんでした。
、
主人の家も、お父さんは医師の家庭の長男ではあったが、、、
芸術家の道にでっぷりとなり、
弟さんが家業の開業を継いだ家庭という変わり種で
医家に、、、限りなく近いが、、、
従妹も、女医で、もう一人の従妹も、開業医という
医局の経験の浅い医師に囲まれていたためかもしれないが
医局は、自分の為にあるわけではないから、、、
思うように出たり移動したり葉出来ないとわかったのは
東京に、返るつもりで、一般病院で貯蓄が出来た頃でした、
再び医局に呼び戻されて、月給が半分になったことでした。
東京に帰ろうと、、、爪に火をともして貯蓄した貯金が有ったから、、、
医局の生活も、皆さんについて行けましたが
医局長や、何やらかんやらの世話役や、学会や、研究や出費ばかりが続きました。
この段階で、、、東京には、、、帰らないという事が
世間知らずの私にも、やっとわかりました。
「もう、、、待ちくたびれた、、、と、母は逝ってしまった。」
この前後に、母はしっかり守り切ったと、最後の手紙を受け取った後、
実家をたたんでしまった兄は、それからは連絡は途絶えて、
年賀状だけになっていきました。
後日、、、崎田先生と御一緒の論文と
掲載のパンフレットが送られてきました。
がんセンターで取得した
胃カメラの指導医の免許を必要とされて
千葉の名門の大病院で設備のそろった、、
、医師としての心の満足の得られる環境に勤務しました。
実家を継ぐこともいらなくなった弟は
むしろ、、、弟らしい医師としての
思うままの 目的に沿って、
良い仲間に恵まれて、
塞翁が馬だったと、私なりに思いました。
弟にも、一銭の遺産も無い。
実家が売られて事も、、、後から知らされたというから、、、
明治生まれの両親は、
全てを長男に託すという時代だったことが哀しいまでに、、、
兄弟には何も渡らないままに、、、実家が無くなった。
海外旅行に、、、消えていったのだろうか、、、
ストレスのある時は、、、海外に、、、わけもなく出ていましたからね、、、
人を待たすつもりではなくても、、、
待って待って、、、現状維持をしながら待ってくれていた兄は
医局生活を知らないだけに、、、
ストレスが有ったのかもしれません。
弟の事を、、、羨ましいよ、、、
医師として、生きれるのは、、、最高だよ、、、
旦那に貧乏だっていいよ、、、
医学に沿って生きれるならネ、
弟は弟で、、、自宅も無くて、借家暮らしが続き
家族には、苦労も掛けたのだと、、、ぼやいていましたが、
研究と臨床の両輪で、自分の夢に活きれた弟は、私の中の太陽でした。
自分も、、、自己実現に生きれたら、、、最高だろうと思いながら、、、
自分の才能の無い馬鹿さに免じて、、、
主婦をして雑学で76歳まで来てしまいました。
弟は、、、国立がんセンターで、、、
ヘリカルCTの開発などに
グローバルにかかわって、医師としては時間は激務だったとは思うし
月給も、国立だから、、、奥さんは苦労していましたが
医師としては、、、悔いのない最高の環境で、
「がんの撲滅だけを考えて、、、」
痛みのない検診に、CTの医師の求める画像の充実や、研究や、画像と、病理解剖の連動した考えなど
家庭を振り返る暇は無かったと思うのです。
弟の出版した「肝胆膵」の医学の教科書は
私の家の次男も大学時代に使って勉強しました。
「叔父さんは、、、神の域だ、、、すごいよ、、」と
息子は、学生時代には、弟の休み時間に
いろいろ指導してもらいながら、、、
結果的には、、、尊敬が、自分の進路となって、
同じ科に進みましたが、臨床医師として、
現場に人生をささげて、自分なりに、頑張っているようです。
ハーバードに留学して、アメリカの学会発表の時は、
亀田病院勤務医になっていた兄と、
アメリカの学会畳で会えたと言っていました。
つまり、、、開業という、、、父の残した蛹からは
勤務医が飛び立って、、、羽化して、、、大空を飛んだという事です。
実家は売られ、、、学問に費やした父の遺産は、、、
100円という金銭も
妹には回ってきませんでした。
ある日、、、兄からは、、、ゴディバ、、、のチョコレートが
送られてきました。一枚の招待状が入っていました。
「北海道の勤務医の奥さんでは、、、
たぶん遠すぎて一生、で出会えない
口にすることを経験できないワインを御馳走するよ。」
それが、、、父の残した遺産の一部だったつもりなのだろう、、、
そして、、、母が、
≪老後の最後まで、父の開業を守ってくれて、、、ありがとう、、、≫と
遺言代わりに兄を守っていった手紙のコピーも添えてありました。
≪勤務医になったのは
正しい判断であったし、努力は称賛したい。ありがとう、、、≫と
兄に残した、自筆の手紙をコピー!!!!!して、
帰り際に、全文を渡してくれた。
陛下がヨーロッパで、立ち寄られたワインのレストランを、
日本の国内にも開設されたという「レストラン」は、
「私には、、、猫に小判のような価値」であったと思いました。
高級レストランには,、、場慣れしていない私には
ワインの味も、、、香りも、
不調法ですから、、、くたびれました。
ただし、、
、田舎育ちにでっぷり漬かった私は、
カウンター内のボーイさんとの話の方が面白かった。
「お客さん、、、何か気が付きませんか?」、、、と。
ボーイさんが言った。
「しっとりと、、、高級すぎる気配りで、、、私は気が休まらないのですが、、、
これほどの店に、、、出されるワインのアトラクションの棚に
「どろ」のついた瓶が並んでいるのは、、、何故なの?」
「お客さん!よくぞ気付いてくれました。
これはね、、、戦争中、
土に埋めることで、、、
守ったワインなのですよ、、、
独裁者に、、、飲んでもらいたくなくてね!!!」
私は、、、お金ではなくて、、、
勤務医になった兄が、、、
大いなる遺産分けのつもりで、、、
私には高価すぎるレストランに招待してくれたのは
この、、、
「泥で守ったワインを私に飲ませてくれるためだったのかもしれないと。。。」
私は勝手に了解した。
贅沢なワインの味を味あわせる為ではなくて、、、
「どろ」で守らねば
「守れない時代を生き残ったワイン」と
それまでしても、、、
独裁者に飲ませたくなかった農民の気骨を
気付いてほしかったのかもしれません。
兄は、、、実家を売っても、、、勤務医になれば
医師としての設備やスタッフや医療機械に贅沢をすることで
医師をするという時間を飲み干せたのかもしれません。
私には、、、この瞬間が、
見えない大いなる遺産になったことは確かです。
お金では買えない、、、
「空気」だったと思いました。
帰る実家も無くなったし、、、
兄の息子は、、
、結婚式にも,、、招待状は、くれなかったけれど
女医さんと、実家の名前は守って開業しているし
北海道に、、、主人はしっかりと貢献できたから、、、
医師をすることのサポートは、私にとっては大きな意味が、、、自分にはあるのです。
あまりにも早く逝った父のサポートをしていたような
錯覚ではあるのですが、、、
主人が一日でも長く、、、世の中に貢献できている舞台裏は
それなりに、私の中では、、、間接的に
社会に貢献できたと思いつつ、
今も、元気に、、、」雪を掻いています。
今は時代も進んで無給医局員などと,、、人権の無いような制度は無くなったけれど、、、
無給医局員の時代に生まれてしまい
生き残りをかけた主人の生き方と、
学閥の有った時代の、、、成り行きで、、、
何の役にも立てないまま
忘れ去られていた私ですが、、、
気が付くと、、、孫も子供も大きくなって、、、
別の知り合いが出来ていたのでした。
兄とは年賀状だけの付き合いになりましたが、、、
84歳で
元気で現役ですから、、、
全て結果が良ければすべて良しという事です、
開業を続けていたら、、、生きては居なかったでしょう。
時代の谷間で、、、
咲き損ねた、、、
本当は美人だったかもしれないと
真っ白な白髪頭のおばあさんに
「あなた?誰?」と聞いている私です。
これは小説の下書きです。
ノンフィクションです。
ところどころ、、、実名も使いました。
私の、アホンションな理解力の判断で書いていますので、
次元の高いあなたは、、、
面白おかしく、、、「私、、、間違わないので、、、」と
TVを楽しむように、軽く受け流して読んでください。
ノンフィクションの日記でした。
このサイトには、花火や富士山や、小鳥たちの
プロもたじたじというレベルのbwsyとチャンスの写真のサイトがフォロウされています。
後悔していない日記帳のブログには、、、もったいない写真ばかりです。
キーワードで、たまたま立ち寄られたウオッチャーの方には
私のアトランダムな日記より、花火や鳥たちの写真で
感動して、通り過ぎて行ってください。
ちなみに、近くの水源地は、
子育ての時は、早朝から深夜、
土日は主人との散歩にと、
めったにない休みを、過ごしたところです。
薬草もあります。小鳥も居ます。クワガタムシも居ます。
トンボも、昆虫も、興味をそそります。
一月に見られる小鳥たちは。
水源地の管理の叔父さんに聞いtも教えてくれますが、
コゲラ、
アカゲラ
ヒガラ
シジュウカラ
ツグミ
ヒヨドリ
ウソ
ゴジュウカラ
ヤマガラ
ミソサザイ
ハシ太ガラス
.。……カラと名前につく鳥たちが、雪の少ない林の中で鳴いています。
苦学生だった主人と、60歳ぐらいになったら、ここに終の棲家を建てようね!
見渡す限りタケノコ山だったここが、
定鉄や、日の丸宅地が造成地にと
宅地化し始めたのは、昭和47~8年ごろでした。
東京の小学校から~~大学まで、駿河台界隈が遊び場だった私には
本屋も無いし、喫茶店もないし、寿司屋も無い、、、一軒の家も無い、、、造成地からは
羊ケ丘の、「農林試験場の人が住んでいるらしい光沢の低層マンションが見えた。
人間が住むというよりは、、、キタキツネが住んでいるのではないかという思いで見回していた
自然のありのまま公園に遊歩道が創られているところです。
人生が一段落するころは、きっと手ごろな集落となり
店の一つもできる科も、、、?
自分の土地を持ったことのない主人は
「今なら、二区画買っても、60才までにはローンが終了するよ、、、」
原野に近い造成地だったこともあり、、、ローンで買い取ったのが、、、ここ!
羊ケ丘の見える自宅でした。
子供が小学校に行くようになって、
風呂の無いアパートでは、友達も呼べないだろうという
親の配慮から、ローンが終わらないうちに、隣の建売を
ミサワホームの提携ローン9パーセントの利息で購入しました。
家賃を払っているのと同じ高利率でしたが、
医師の研修の続く主人は初任給が23万円という時代でしたから
提携ローンは高額でしたが、やむを得ない判断でした。
何もない、、、地区に、、、我が家。
自然がありました。
カッコウが早朝から鳴いて、
時には庭に降りてきました。
コクチョウに指定されているシジミチョウなども見かけました。
水源地には多くの鳥たちが林の中で囀りながら、
自然からの恵みを受けました。
春には,、あずきなが目を出し、早朝の食卓に一品増えました。
大学の医局に必要とされて、
呼び戻された主人の月給は
一般病院の給料の半分になりました。
それでも、無給医局員の大勢いる大きな科の悠久の立場は
男としての満足できる何かが有ったのでしょう!
安月給の国家公務員を50歳近くまで、仲間の先生方と
まるで、医局の方が家庭であるかのように
主体は仕事が中心の当時の医局生活でした。
その時代、水源地を歩きながら、、、野鳥の会に入会させていただき
日曜日には、見知らぬ会員たちの皆さんと、望遠鏡をのぞきながら、
無料で楽しめる水源地かいわいの恵みのおかげで、
多くの自然の恵みに感謝できるようになりました。
その中の一つが、、、林の中で見せる、、、鳥たちのしぐさでした。
アカゲらコゲラ、、、空中でのランデブーも見せてくれました。
早朝から、夜明け前のクヌギの樹の西瓜に群がったクワガタを獲りに行ったこともありました。
夏は、、、ヤツメウナギを捕まえて、水槽に飼ったり、、、
ワゴンセールのジャージーを身に付けた我が子はジャージーに穴をあけながら
林の中を駆け回って、昆虫と遊んでいました。
途中には、財テクに走らねば、授業料も、ローンも払えなくなり
拓銀や、佐藤工業、、日航などの売り買いしなくてよい歌舞に手を出し
差額が大きくなったときには、証券マンが、、、「売り時です!」と電話をくれた。
220円で買った拓銀が270円になり、、、喜んで、ローンのお金が出来たり、、、
何とかなっていた。
しかし、、、欲張って、買い足していった拓銀が、
ありえないと思っていた、、、市中銀行の倒産という
寝耳に水の出来事で、
しばしば、、、家計を助けられていた株券は、
壁紙同様の無価値になった事件が思い出される。
義弟が日光に居た関係で、
日光の株券も購入して、これは売りも買いもしないで、
我が家の財産として、優良株を増やしていって、子供の学資にと計画していた。
しかし、、、急落が始まったとき、
証券マンが、今買い足すと、、、将来は社長さんだ!、、、と
冗談ともとれる「買い時sign」を知らせてきた。
歌舞や債券の音痴に近い私たち夫婦は
証券マンの勧めるままに、、、買い足していた。
突然、無価値になった葉書が来て、、、日航は預けた証券も帰ってこなかった。
いろいろな手続きで、少しでも、返ってくればと思いましたが、
証券マンに一任していたこともあり、、、転勤で、終了。
その後は、、、お灸の暑さが忘れられなくて、、、
歌舞や証券は、、、下手な興味で買うものではないと、、、悔し涙の
忘れられない、、、市中銀行倒産事件と、日航の、理解できない、、
、株券没収事件でした。
このころ、、、カラスが羽を怪我して、門の塀のうちに住みついて
飛べない鶏の様に、餌をねだってきました。
飛べるようになるまでと、期間を区切って、食パンのミミを与えました。
子ガラスは、やがて飛べるようになって、電柱の上に泊まりながら
仲間を連れてきて、餌をねだり始めました。
野生に返さないと、とんでもない危害を加えられるかもしれないと思い、
人間の傍に行かないように、餌をやるのを辞めました。
あれから、、、餌は一切やっていないのに、、、
烏が、挨拶をするかのように、、、私にくっついて、飛んでくる時期がありました。
鳥は、、、近づきすぎず、愛すると、庭の枝まで飛んできて、
美しい囀りの音楽を聞かせてくれます。
いつの間にか76歳も目の前ですが、、、
老後は、、、、と構えなくても、
老後の真っただ中に居るという、、、時間は不思議なほどの忍び足で通り過ぎてゆきました。
この頃は、、、鶺鴒が来れば、、主人の母親かな?と、、思えたり、
鳥が懐かしい人たちに思えるから、、、不思議です。
人は、、、昔、、、昔、、、鳥だったのかもしれない。。。と、
東大を出た女性歌手が歌っていましたね。
日本御国というのは、、、封建社会が土台になっているだけあって、、、
いまだに、、、東軍か、西軍だったかで、、、老後の生活が、、、なぜか違うような気がするほど
東京大学を出ても、、、女性は、「案山子」のような役で逢わってしまうと感じてしまうのは
私の偏見だろう、、、か?
音楽大学を卒業した母は、私が小学生のころすでに
お金のないのは、社会でオキュペイションしようと考えても
羽根の無い、、、鳥のようなものよ。
子供にロックヘラーの話をしてくれながら、
選ばれた人たちは、赤ちゃんの時から、、、スポンサーが在るのよ、、、と言った。
女性が社会で、成功しようと思うなら
男性の10倍の語学力と、キャリアと、キャパシティと、
最後には、上層部に生き残ったときは、
頭のてっぺんから、足の指先まで、役割を与えて働かせることのできる
女性しかないしなやかさと、魔力に近い魅力が無いと
日本では、40歳、、、欲て50歳で、、、使い捨ての大ルドミスの道が大半だと言った。
音楽大学時代の友人がヨーロッパの名門の音楽スクールに留学して間もなく
母に手紙をよこした後、、、自殺した、、、と言った。
「才能の違いに絶望した、、、未来が見えない、、」という、、、手紙だったそうです。
母は、次の瞬間、東京都の女学校の音楽の教師の道を選んで、
こうした後輩を二度と出してはならない、、、と。
音楽をッズけるべき条件を考えるようになったと言った。
母の教えは、、、鳥の囀りとは違って、
聴きたくなかった、、、人間の訓示であった。
だから、、、私は、、、鳥の囀る美しい声に癒される。
人間社会の、、、生き残りの闘争から、、、蚊帳の外でいたいと思うようになった。
欲を持たなければ、、、友人は居なくてもやって行ける。
孤独というわけではないが、、、誘ってくれても、、、友人をつくる気にはなれなかった。
鳥が好きな人の中には、、、
自分よりずっと弱い鳥が、、、楽しそうに囀っている姿に
友達以上の、、、自分の居場所を感じるのではなかろうか?
大學を出たからって、、、薬剤師や衛生検査技師、、、衛生管理免許、、、
高校中学理科一般、化学物理地学の教職免許が有ったからって、、、
子供たちのPTAで役立つことすらできなかった。
掃除洗濯、ご飯当番、、、家庭に必要な、事務一般、
自然の恵みは、私を支えてくれました。
この写真は、、、小鳥の話とは
関係ありませんが
幸せそうな表情ですものね!!!
女性は、、、この笑顔に完敗ですよね、
妻の立場では引き出せない、、、仕事の接点の満足な笑顔ではないでしょうかね、、、????
振り返ると、、、あのように、、、「医師をすることだけに生きても、、、」
廻りも強い、、、医師の中で医師をするという事は、、、
果たして、男として、、、休まることのある人生だったのだろうか、、、?
少なくとも、女房の顔を観る暇は無かったのではなかろうか?
家に居て、、、家を守ってくれさえすれば、、、
医師になるという事は、、、本当に、、、
「医師をすることに惚れ込んだ人」だと、、
、感心するが
相棒になった妻の座なんてものは、、、
座布団一枚も無い
笑点の「板まの上だったかもしれません」。
之でいいのだ~~~
医師としては社会に貢献できたと、、、
家事一般、育児一般、、サポーと人生も、、、やぶさかではないが、、、
私にも、何か、、、社会にできることが有ったのではなかったのかと、、、
76歳になって、忙しすぎた人生に、、、
悔いが残るのでした。
輝くなんて畏れ多いことは考えないが、、、
ことごとく、
自分のスキルが役立つところに差し掛かると、、、
家事も育児も、、、主人も、、、重荷になった。
女性は、社会に参加したいと思うなら、、
「40歳の若い母親を持っているかどうか!
母親が、76歳になるまで
育児家事を代行してくれる、、、
そういう母親と、一緒に嫁ぐことですね。」
私の知っている女医さんは、母親の裏を支えた愛情で
音の医師と変わらない女医さんとしての活躍と
妻としての二刀流とも、認められた、立派な社会参加の人生を過ごされて
お子様方も、立派に成人して、結婚されていつという
人生の難しい連立行列式を解かれて、お見事というしかない。
女性の地位が低い日本の女性は、母親の力のすごさに気がつけば
未来は又、、、希望的な見方が出来るかもしれません。
話が、、、素敵な小鳥のさえずりから
横道にそれてしまいましたが、、、
話を、元に戻しますと、
水源地の若き日の束の間の野鳥観察は
振り返れば、、、素敵な私の時間でした。
私自身が存在していました。
小鳥の美しい声が、私を呼んでくれていたようだった。
人生の素敵な時間だった、
このサイトで、札幌の鳥の写真を観れるサイトがあります。
花火、、、鳥、、、一人暮らしの日記の皆さんが、
素敵な写真をアップしています。
今日は、シロエナガの、、、かわいい、、、かわいい、、、鳥が、、、白いふわふわの花のようですよ!
良い写真ですね,、(^^
昭和生まれの私たちは、
国民すべからく、
手探りの復活の時代を
体験していると思うのですが
平成までの記憶は、まだ、解決していない事ばかり。
天災、
地球温暖化、、、
集中豪雨、、、
居住50年目の北海道の大地震
津波から、、、
原発から、、、
原子炉の放射線被害。。。
残された問題は、令和の時代の引き継がれた問題ともなりますね。
解決しようのない、、、
問題ばかり抱えて、
地球丸ごとの課題だけに、
オリンピックという、、
運動分野に限られてはいるが、
世界が一つになって、
メダルに向かう事は
まさに聖火のもとに集まった世界の心のようですね。
日本はオリンピックで、
チャレンジ精神の金メダルを目指していますよね。
何事においても、
運動に限らなくても、
オリンピック精神で、
世界が集うと、
地球規模の
未解決な問題への糸口が見つかる様な気がします。
最近のニュースで知りましたが
宇宙空間のゴミ掃除が
始まっているのを知りました。
地球は一つになって、
地球ファ―ストになる各国のヴィジョンで、
戦争などしている暇が無くなったと、、言ってほしいですね。
地球のゴミ掃除に気が付いた人たちは、、、
ユニバースな心の人たちですね。
宇宙のゴミ掃除に気が付いた人は
宇宙人かもしれません。
宇宙ゴミ、、、宇宙空間が情報基地になっているのですね?
驚きでした。
桜の花が、、、もうすぐ咲き始める日本の南の山々。
北上してきて、富士山あたりで咲くころには、
一度は桜見物に行こうと思いながら、、、
夢の中です。
桜の花には、、、
日本の魂があります。
櫻を見物する心は、、、
桜が主役になって、、、不思議な魂の高潔な優しさは
決して、、、酒の肴になる様な、、、「色香ではないと、、、」
私は個人的に、感じるのです。
櫻さん、、、今年は、、、あなたの美しさの語らいに
あなたの樹に寄り添って、、、、言葉のような花びらで囁いてほしい。
「御覧なさい、、、桜の花のマッス」
桜咲く伊豆から、
富士山が生まれて、
日本を守ってくれているのかもしれない。
富士山の在る伊豆で自分が惚れた仕事が出来ている人は、
寂しくないのかもしれません。
富士山がいつも語り掛けてくれるから。
私も75歳ですから、、、
偶然、、、自分と同じ遺伝子の組み合わせの人間が生まれたら、、、
富士山を、、、昔見たと、、、思うかもしれませんね。
富士山よ、、、不二さんよ。