花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

布石

2019-01-05 01:56:45 | Weblog
子供のころ、正月休みに、父に囲碁を教えてもらうのが楽しみだった。

碁盤の線は「日本刀」で書くのだそうですね。

父は栢木で出来た碁盤をひっくり返して、

真ん中の土俵のように四角く削ったところを指して言いました。

「碁は真剣勝負なんだよ、だから、

ずるいことをしたり礼に反する行動をすると

切腹することになったんだよ。

切腹したときに、苦しまないように介錯と言って

止めの一太刀を、助けるのだが、

勝負の世界は命がけなのだよ、、、、

いいかね?」

私は意味が解っていませんでしたが、囲碁を教えてもらいたかったから

うなづきました。

父のお父さんに当たる人、、、つまり私の祖父も
母の父に当たる私の祖父も

囲碁は大好きでした。

ハマグリの白い石と

那智黒の黑い石は

いつも私が黒い石でした。

九目満タンに黒石を置いて、

父が白い石を置くと、

すかさず黒い石をくっつけて置いた私でした。

わけもなく、、、喧嘩碁のような解ってない碁盤が

いつの間にか、黒い石が全部取られてしまい

白い石の世界になっていました。



叔父さんに、指導をしてもらっている息子の写真を見るたびに

父に教わっていたころの囲碁を思い出すのです。

国立がんセンターでCTやMRIやPETなどのエキスパートだった叔父さんは

まだ、一般の病院に普及していない、未来の世界には

これらの機械が普及して、次代は大きく変わることを教えてくれました。

たまたま、放射線の肝臓膵臓の授業のとき

叔父さんの著書の教科書のコピーが配られてきたことが有った。

息子は、難解な画像の世界に、親しみと、興味を覚えて

臨床医として、画像診断を担当する医師となった、

叔父さんは学者系で、臨床もできるという医師なので

息子にとったら、雲の上の先生に思えたことであったと思いました。

臨床医になるにしても、

学者としての基礎的な布石をしてもらっておけば

いつの日にか、

息子も、画像と病理と、

手術との現場の結果の繋がりを

しっかりと見ながら、

世の中の役に立つ医師になってくれると信じて

一番初めの時だけは、

私(母親としてというより、姉として)

息子にくっついて行って、写真を撮らせてもらいました。

札幌の南高校を卒業して、東京の23区全部に

南高校のレベルの高校がひしめき合っている東京で

一時期は委縮してしまい、、、

草食系の男性になっていました。

世の中の広さを知るのは、、、これからというときに

叔父さんに出逢い、

画像診断に興味を持ったように思いました。

叔父さんの迷惑にならないように、

定年退職した今だから

ブログに写真をアップできますが、

雲の上の先生と思っていた長い長い成長の日々がありました。

学者の部分の濃い叔父さんは、

ハーバードにもしばらく留学していました。

息子の人生に、布石となるような

此処一発のアドバイスがいただけたと思っています。


昭和育ちの私は、、、デジカメが苦手ですが

10年先の息子の成長を考えて、

声も録音できるデジカメを

ハッチャ気になって覚えて、本人たちが夢中になっているシーンを

許可を得て撮影保存しました。

デジカメの連写なので、

声入りのビデオになっている教えは

繰り返し聞くこともできました。

私の弟でもある息子の叔父さんは

がんセンターを定年するころ、

政権が民主党に移り学問の世界だった研究室にも

イデオロギーの津波が押し寄せたようですよ、、、私は理解できませんが、、、


国立から、独立法人へ、、、そしてまた国立へ?。。。もどったのでしょうか?

弟が母校の千葉大学出身の市川先生と

運命のような出会いがあって、

外科の医局から、教授の許可を得て

日本では草分けのような、学問と臨床の両輪が回るがんセンターに

移っていったのは。。。昨日のように思えます、

外科医だった父が、戦争から帰還でき☜

13年の疎開地での復活を果たし

生まれ故郷の東京に帰ってこられたが、

実家のあった市ヶ谷文人通り界隈は

還れるところではなくなっていました、

下町で、開業して、息子たちの進学と教育に

余生の10年足らずを全力投球してくれました。

国立がんセンターが出来た頃、

日本に医師として自分も若ければとんでゆきたいような

理想的な病院が出来る!と、

医師を目指していた息子たちの前で

唇を震わしながら、、、しかし静かに話していた光景が

、、、、54歳で早逝した父が

息子たちの、医師としての未来の為に

静かに、強烈に、、、人生の碁盤のど真ん中に置いた

布石だったのでは、、、なかったのだろうか?

戦乱に巻き込まれ、3人の子供を亡くしても

疎開先で高齢出産で「戦争を知らない子供」を

そだてた。

両親があんまり弟をかわいがるので、

私は、やきもちを焼きながらも

双葉から芳しい利発で、ダイナミックな性格の弟に

魅力を感じていた。

この子は、、、きっと、人生で夢を追って、、、しかも

医者としての夢をかなえられる素養が

父によって

全身全霊で≪布石≫されていたに違いありません、

まっしぐらに、がんセンターの黎明期を

全身全霊で駆け抜け、

戦後の復活を果たした団塊の世代の超人的な働きの一人として

日本の医学の世界にCTをはじめとして、

画像診断の黎明期の発展をがんセンターを舞台に

貢献できた一人であることは

父が、一番喜んでいると思いました。



ヘリカルCTの開発にも関係していることは

大手の新聞や、
薬局に有った外国雑誌の
「ジャーマ」という」翻訳雑誌で

かってに見つけて読んだ時には、
弟が、、、大きく見えました。



宮様にゆかりのある賞もいただいたことが

内科医の兄から、知らせてきました。

権力や、テリトリーとは無関係な医学にまっすぐに進んだ弟が

日本の画像診断の

「コロンブスの卵」を医学会に示せたのではないかと

兄も、私も、、、

根っこに医学の布石をした父が居たことに

医学は本人だけのアートのように

誰も相続できないが

弟には

限りある人生の時間内において

医学の夢をかなえられるのは

大学から離れても

学問と臨床の、一途な夢を追いかけることのできる舞台が

がんセンターであると

まだ少年だった息子たちに

囲碁リスの病院のことなど話しながら

保険制度では報酬がもらえなくても、

患者さんの治癒に必要な医療は

自腹をきっても、

自分の医者としての考えに迷わなかった父が

背中で魅せた、自分の経験と臨床力を信じて

保険制度の経済的な損得を考えることが思いつかない時代の

尊敬をされていた時代の、、、古き良き時代の

医師の大切にしていたものが、、、、わかるような気がしました。、、、と

晩年弟は言っていました。

父の時代の日本人の、こだわりが,
転職と表現されるごとく

経済的な損得には左右されない「道」があたのではないでしょうか?

碁には「討手返し」という局面がありますが、

経済を考えて、保険の点数に左右されていたら、

人生そのものが、

拉致のあかない

操作のような連続になるのではないでしょうか?

私は、、いまだに、ガラケーを使っていますが

必要なことができれば、それで満足なところがあります。

父は、疎開先のいたせいもあって

スーツは2着、

冠婚葬祭用の式服。

お気に入りのバカラの灰皿

パイロットの万年筆

、、、、

戦争を体験した人はやっぱり違うと思いました。

余分なものは持っていないのでした。

座右の銘の本が数冊。

それ以外は

欲張りな家族の小物やがらくたで

家は雑然としておりました。

母は自分でピアノの教室を主宰していましたので

自分で買ったグランドピノ、

アップライトが壱台

祖父に買ってもらったという象牙のキーのピアノが一台。


札幌に嫁いでから、とうとう、、、

死に目に会えなかった母だった。

私の主人は、北海道に定住すると決めて以来

里帰りも、家族ではしていない。

たった一つ、、、

母が疎開先で使ていたブラザーミシンが

私は形見にいただきたくて、探しましたが、

私が実家に着いた時には

母の住んでいた母屋の窓も、ドアも壊されていて、

3台あったピアノも

楽器類も、

もちろんミシンも

影も形も。なくなっていました

、、、その人がいなくなった家は、、、意味がないのだと、、、

思い知りました。

医師であることは「物」ではない。

だれも、もらい受けることtも、

相続することもできない。

一代限りのアーティストのように、

医師の力は医師だけのもの。

その生き方は、医療一筋であるがゆえに

無駄なものの入り込めない

誰も相続のできない「医師であること」

選ばれて、許された職業だけに、

子供たちに見せた父親像は

「医師の夢追う真摯な後ろ姿ではなかっただろうか!」

がんセンターの黎明期の弟たちの苦労の足跡は

何冊かの単行本になって出版されるたびに

遠く離れた北海道の雪の中で

私は手に入れて読みふけった思い出が、懐かしい。



何やら、二番じゃダメな国立がんセンターの使命が

混乱したころ、

弟は、流れるままに定年して

第二の人生に突入してゆきました。

がんセンターの50周年の記念雑誌には

黎明期に礎となった顔見知りの先生方はいずくにゆかれたのか?

母の葬儀に来てくださっていた先生方は定年退職されて、、、

見知らぬ顔の先生が、50年史を輝かせていました。

医薬学の歴史の学会に入っていたのですが、、、

医学の歴史は、

私のような部外者が

理解することはむつかしいと解り

医学薬学の歴史の学会の会員をやめました。

今はひたすら、、、酒井シズ先生の著書や、

雑誌の記事を読みふけりながら、

ウエルカム医学博物館から買い求めてきた

医学の歴史の英語の原書を

役立てることの出来なかった自分の未熟に思い知るばかりです。



日本の医療界というのは、、、アメリカや西洋とは

かなり違ったシステムで管理されていると思ったことがありました。

東京大学の医学部に勤めていた若いころに感じたことは

臨床病院と、基礎の研究分野の教室のコミュニケーションが

イギリスやアメリカ並みに、

両輪のようにコラボレーションしているという事でした。

私が40歳代のころ、薬剤師に復帰していたこともあり、

イギリスや、フランス、ドイツの病院を20箇所ほど
見学して、ゼミナールも受けてきました、

イギリスにはCTもありました。

セントメリーズホスピタルでは

ペニシリンを発見するキッカケになった「アオカビのシャーレ」が

病院のフロアーにガラスケースを設置して、展示してありました。

そのケースにはエリザベス女王のsign入りの文章が展示して有って

フレミングの学者としての実績をたたえていました、

病院の入り口には、フレミングの偉業を称えて、タペストりーを掲げ

臨床病院と、基礎医学者の基礎の分野の医学とが

両輪で廻っているのが解りました、

このことはイギリスが大国である時代が続き

世界の病院に、

臨床と基礎の

両輪の大切さを

啓蒙していたと理解しました。

啓蒙イコール。。。後進を行くものへの布石かもしれません。

その後中国4大中医学院や、西洋医学の病院を回り

漢方医の身分が、まだまだ、

これから発展してゆく次元であったことが、

滅菌や、近代医療機械の観点からも感じたのは1990年ころの事でした。

主人が、中国の某病院と交流をしていた2000年代は

中国は先進国と何ら変わらない医療レベルに達していたと

話してくれました、

札幌に約史学会が出来るまでは

「医学薬学歴史の世界の学会から帰国してから、

医薬の歴史としてまとめたいと思い

リュックいっぱい資料や書物を背負ってきては

ロチェスターの医療地域の事や

イギリス医学や、

ドイツ医学、


フランス医学が

現代の日本の医療人や、病院と

影響し合った点や、異なる点において

ゼミナールにも出席してきましたが、

札幌の医薬歴史の学会は、

私の勝手な医療に関する歴史の興味とは

観点が異なるため、会には所属していませんので

未発表になっています、




息子の卒業した順天堂大学の歴史も

関連病院の高齢者病院のあいさつの中で

順天堂病院の歴史が書いてあり、興味深く読みました。

その中には 野口博士の事にも触れていました。

日本の医学の発展の歴史を示している面白い巻頭の文章でした。


西郷ドンや、数々の大河ドラマに貢献している
酒井シズ先生という
歴史をまとめる歴史学者がいらっしゃることは、
知る人が知る、、事実。

札幌の病院の歴史のみならず

主人の勤務の病院の

創生期の頃から

日本の私立病院の発展を観てくることが出来ました。

しかし、、、

東京大学や、

国立医科大学が

臨床と、研究の両輪が回っているという、、、

暗黙の役割分担が感じられるので

島国の、、、医療の赤字国家では

新進の企業が経営する病院では

地域に貢献する臨床医は、

大学とパイプをしっかりとって

臨床に必要な学問を各自で、月給の宵越しのお金を持たないで

獲得してくるシステムは
社会のシステムが変わらない限り

当分は、へき地や地方にて働く医師は

個人の努力で頑張るしか道はないのでしょうね。

日進月歩の医学の道に進んで行った息子の未来に幸あれと

祈りながら、

ここらへんで結婚して子供を育てることが

文化に遅れないで、楽しく夢に生きることのできる

人生の布石かもしれませんね。


一人ぼっちで、オンコールに待機している息子に

雑音になるかもしれないけれど

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あけましておめでとうございます。

今年もよろしくね、