聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人生と愛の神の摂理

2006-09-22 | 「神の愛について」

             
 日本人は、不運なことや良くないことが起こるとすぐに「運命だから・・・」と言って諦めてしまう傾向があります。《運命》とは、広辞苑によると、「人間の意志にかかわりなく、身の上のめぐり来る善悪、吉凶。人生諸般の出来事が必然の超自然的な力によって支配されているという信仰または思想に基づく。めぐり合わせ。宿命。命運。」と定義されています。「宿命」とは、生まれる前から決まっていて、どうにもならない運命を意味しているわけであります。
 
 《宿命論》とは、人生の一切からの出来事は、超自然的な力や意志によってあらかじめ決定されていて、なるようにしかならず、人間の努力もこれを変えることができないとする説であります。ですから、「運命」とか「宿命」というのは、ある超自然的な力や意志によって決定されていると見るので、そこには人間の自由はなく、全く希望を持つことができないわけであります。よく、「めぐり合わせが悪かった。」とか、「悪い星のもとに生まれて来た。」とか聞くことがありますが、そのようなことは全く曖昧で漠然とした考え方で根拠がありません。そのようなことで、大切な人間の一生を決定するにはあまりにも不明確であります。

 名前が良いとか悪いとかいう姓名判断。その他、印鑑、墓、方位などによって人の一生が決定されるなどということがあるでしょうか。そのようなことは決してないのであります。「運命」とか「宿命」を信じて生きる時、人間は暗い希望のない不安な一生を送らざるを得なくなるのであります。実際、「運命」ということばは、良い意味で使われることはほとんどないのです。例えば、「そうなったのは、あの人の運命だからしようがないのだよ。」と言ったりしますね・・・。「運命」という言葉を聞いて明るいイメージを持つ方は殆どいないのではないでしょうか。

 しかし、運命とか宿命ではなく、神の摂理を信じて、どのような現実の中にあっても、希望を持って生きる道があるのです。聖書は私たちの人生に光を与え、希望を与える書であり、平安な確信に満ちた人生のあることを約束しています。聖書に表されている「摂理」とは何かと言いますと、創造者である愛の神様が、ご自分の意志によって私たちの人生を導いてくださり、すべてを益となるように働いてくださるということであります。このことを信じて生きる時に、いかなる時も希望をもって生きることができ、人生に絶望するということはないのであります。

 人間のいろいろな失敗があるにもかかわらず、神様はいつも最善の方法によって導いておられることを信じることが出来るのであります。「あの時、ああしていればこんなことにならなかった。」と言って、いつも後ろ向きに歩む人生は、どうしても心が暗くなります。また、「これは私の運命だから‥‥。」という諦めの人生でもない。もっと希望のある人生、光に向かう人生があるのであります。大きな試練と苦難に満ちた逆境の人生の中にあっても、私たちが光と愛に満ちた神に向かう時に、全く新しい希望のある世界が開けて来るのであります。

●「ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。『主があなたがたとともにおられますように。』彼らは、『主があなたを祝福されますように。』と答えた。 」(ルツ記2:3~4)。

 旧約聖書ルツ記に記されていることは、イスラエルの歴史の中で、最も暗い時代であった士師時代にあった出来事です。それは、砂漠に湧き出るオアシスのように、聖書を読む者の心に慰めを与える箇所であります。ルツはモアブの子孫で、結婚前は異教徒であった女性です。しかし、イスラエル人の夫や姑を通して、真の神様を信じるようになり、すばらしい信仰の人となったのであります。聖書中、その名が書名として用いられている女性は、ルツの他にはペルシャの王妃となったエステルだけであります。

 ルツは飢饉のためにモアブの地に逃れて来たナオミの息子と結婚したのですが、10年の幸せな結婚生活の後に、夫に先立たれてしまいました。夫に先立たれたルツは、姑ナオミに仕えることを決意して信仰によって夫の故郷であるイスラエルのベツレヘムにやって来たのであります。このルツ記2章には、人生の不思議な出会いのことが書かれています。ベツレヘムの裕福な親戚であるボアズとルツの出会いです。ルツは、無意識のうちにボアズの畑に導かれて落穂を拾っていたのですが、「ちょうどその時」ボアズも町からやって来たのであります。「ちょうどその時」ということばは、神の摂理を暗示していることばです。

 神は祝福を与えるために、「時」と「場所」を準備され、特に人を用いられる方であります。ルツとその姑ナオミがまだ何も考えないうちに神は彼女たち祝福のためにボアズを備えておられたのです。人生には、神の摂理があって、偶然と思われる出来事の背後に神の導きがあるのです。「はからずも」と「ちょうどその時」ということばに目を留める必要があります。神は、私たちを祝福されるために、時も、場所も、人も備えてくださることがあるのです。これは、人間的知識によれば、偶然の出会いであります。ところが、このような些細なことの中にも、神の永遠のご計画を着々と実現しておられるのであります。

 ルツは、神様の取り計らいによってボアズと結婚します。ルツ記4章まで読み進むと、ルツの系図が書かれていますが、ダビデはルツの子孫として生まれたことを示しています。ルツは、モアブの女でありながら、イスラエルで最も偉大な王の先祖となる特権を得ただけでなく、新約聖書のマタイの福音書1章には、ルツが全人類の救い主であるイエス・キリストの(人間的には)先祖となったことが記されています。(もちろん、キリストの誕生は聖霊によるものであり、ルツの血がキリストの体に流れていたということではありません)。これは、何という驚くべき神のご配慮ではないでしょうか。

 しかも、それは、ルツが「はからずも」ボアズの畑に落穂拾いに行ったことにすべての端を発しているのであります。これは、驚くべき神の摂理であります。神の摂理は聖書に満ち溢れており、その中の一端を紹介したに過ぎません。人生というものには、偶然ということはありません。神は私たちの人生のすべてを支配し給う御方であります。日常のどんな小さな出来事の背後にも神の摂理のあることを覚える時に、人生の見方が変わってきます。当然なことですが、イエス・キリストの十字架と復活の出来事は、偶然のことであるはずもなく、天地創造の前から既に神様がご計画されていた深遠な真理なのであります。

●「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8:28)。

●「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。・・・その道は、何と測り知りがたいことでしょう。・・・・・というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ人への手紙11:33~36)。


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