聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★三つの悪いことがある

2007-05-24 | 「人間の罪の問題」
            
             

 ある人が、人々が悪いとは思っていないけれども、実は悪いことが三つあると言ったのを聞いたことがあります。その三つというのは、次のことです。
(1)信じたいことだけ信じて、信じたくないことは信じないという態度。
(2)聞きたいことだけ聞いて、聞きたくないことは聞かないという態度。
(3)見たいものだけ見て、見たくないものは見ないという態度。
殺人や強盗、詐欺‥‥などはみな悪いことであると誰でも知っています。でも、どうして上記の三つが悪いことなのでしょうか。ごいっしょに考えてみましょう。

【1】信じたいことだけ信じて、信じたくないことは信じないという態度。
 これが、一体なぜ悪いのかと思われる方も多いと思います。何を信じようが、信じまいが一向に構わないではないか。信じなくても、警察に捕まるわけでもないし、と大方の人々は考えるでしょう。例えば、お座敷列車に乗って、飲めや歌えのドンチャン騒ぎをしている人たちがいるとします。その時、車内放送で、「みなさん、この先の鉄橋が落ちました。このまま、前進すると川に転落してしまいますので危険です!」と言われても、多分、ほとんどの人は信じたくないでしょう。しかし、それがもし事実ならば、信じないでドンチャン騒ぎを続けることは馬鹿げていると思いませんか。聖書の中にその実例があります。あのノアの大洪水の時の記事です。

●「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。」(1ペテロ3:20)。

●「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。‥‥人の子(主イエス・キリスト)が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイの福音書24:35~39)。

  
 ノアの時代の大洪水は、実際に起こった歴史上の事実です。創世記6章~9章にその事実が書かれています。地上の人々の生活が乱れ、悪と汚れが充満したので、神様は40日40夜の雨と大洪水で罪人を滅ぼそうと決意されました。神は、神を敬うノアとその家族に命じて、とてつもない大きな箱舟を造らせたのです。そして、神はすべての人に来るべき大洪水のこと、悔い改めて信じて箱舟に入れば一人残らず救われることを宣べ伝えさせたのです。しかし、雲一つない晴れ上がった空を見上げて、人々はノアを嘲笑し、だれ一人として信じようとする人はいませんでした。そんなことは信じたくなかったのです。

 やがて、その時が来て天の水門が開かれて、大雨が降り始め、‥‥人々は慌てて箱舟に押しかけて来たのです。しかし、箱舟の戸はピタリと閉まったままです。「俺たちが悪かった。ノア~!開けてくれ、頼む!」と、人々は箱舟の回りに次から次へと集まって来ました。しかし、扉は叩いても引っ張ってもびくともしません。神がその扉を閉じたのです。神が閉じた扉はだれも開けることができないのです。そして、ノアとその家族8人以外の、その当時の世界のすべての人は大洪水によって滅んでしまいました。彼らはそのようなことは信じたくありませんでした。そして信じませんでした。信じたくないことは信じないという態度を取った人はみな滅びたのです。そして、現代も、人々は神のメッセージに対して同じ態度を取っているのです。

●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネの福音書3:36)。

●「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます』」(マルコの福音書16:15,16)。


【2】聞きたいことだけ聞いて、聞きたくないことは聞かないという態度。

●「数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、『今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。』と言った。」(使徒の働き24:24~26)。

 昔、ローマ総督ペリクス(当時、カイザリヤに駐留していた)は、福音を宣べ伝えたために囚人となっていたパウロを引き出して、色々と話を聞きました。賄賂を出せば、牢から出してやるという取引をしたかったのです。ところが、キリストの伝道者であったパウロは、神の正義について、来るべき神の審判(最後の審判)のことについて大胆に話したのです。ところが、ペリクスは、妻ドルシラを彼女の最初の夫から横取りしたり、金銭欲に溺れるような不道徳な生活をしていたので、恐れを感じて、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。」と言って帰らせ、軟禁状態にしておいたのです。

 ペリクスは、その後、パウロの審理を2年間も放置しておいた無責任な人であったのです。彼は、聞きたいことだけは聞き、聞きたくないことは、「また、あとで機会があれば聞くことにしよう‥‥」と考えたのです。聞きたくないことを先延ばしにしたのです。そして、彼はついに救いのチャンスを失って永遠の滅びに入ってしまったのです。あなたは、どうでしょうか。あなたは耳が痛くなることや、良心の呵責を感じるようなことは、なるべく今は聞かないことにしようと思っておられないでしょうか。でも、そのような態度は、永遠に救いの機会を失ってしまうかもしれないのです。

【3】見たいことだけ見て、見たくないことは見ないという態度。

●「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネの福音書3:19~21)。
 
 時々、家や道の横の大きな石を動かしたりした時、石の下に黒いワラジ虫がたくさんいるのを見たことがあると思います。すると、一匹残らず光を避けて、急いで暗やみの中に逃げ込むのです。それと同じように、光を見ようとしない人には、人生の夜明けは決して来ることがありません。一生涯(いや、死後もです!)暗やみの生活です。イエス・キリストは、「世の光」として来られた御方なのです。私たちは、神が遣わされた世の光なるキリストをまっすぐに見なければならないのです。また、私たちは自分の汚れと醜さも、まっすぐに見なければなりません。

●「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」 (マルコの福音書7:20~23)。
 
 ここに、イエス・キリストが語られた人間の罪の目録があります。私たちは、正直に自分自身を見るときに、自分の心の中にこのような罪があることを認めざるを得ません。このような自分のうちの醜い罪を見たくないかもしれませんが、しっかりと見なければならないのです。そうすれば、その罪からの救いのために十字架にかかって身代わりに死んでくださった神の御子(イエス・キリスト)を当然、信じるはずではないでしょうか。

●「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ。世の罪を取り除く神の小羊。』」(ヨハネの福音書1:29)。

●「‥‥やみがあなたがたを襲うことがないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」(ヨハネの福音書12:35,36)。
 

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

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