聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★「愛」がなければ・・・・。

2005-06-08 | 「神の愛について」

明治の文豪と言われた徳富蘆花の歌に、「人は愛せずして生きるあたわず。愛されずして生きるあたわず。」というのがあります。また、ドイツの文学者ゲーテは、「天には星がなければならない。地には花がなければならない。人の心には愛がなければならない。」と言いました。真の愛のない人生は空しいものであります。人は誰からも愛されていないと考えた時、非常に孤独に感じるのです。特別な例外を除いて人は、全く愛を失って、「自分はひとりぼっちだ・・・」と考えたとき、生きる望みも気力もなくなり、死を考えることがあります。人は愛なしには生きられない存在だからであります。日本では、年間約3万人位の自殺者がいますが、先進国の中でも、これは際立って高い数字です。そして、そのうちの多くは誰からも愛されていないという孤独感によるものと言われています。

●「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義 とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与 え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 愛は決して絶えることがありません。 ・・・・・・ こういうわ けで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。 」(コリント第一の手紙13:1~8、13)。

 新約聖書の中で、このコリント第一の手紙13章は、一般に「愛の章句」として、最もよく知られている箇所の一つであります。この章は、「愛の賛歌」とも言われています。この所には、私たちの人生において、最も大切なものは「愛」であると教えられています。他に何があったとしても、愛のない人生には、「何の値打ちもありません。」(2)と教えられています。人生の値打ちは愛のあるなしによって決まるというのであります。また、愛がなければ「何の役にも立ちません。」(3)とも語られています。神と人に対して役立つ有意義な人生であるかどうかは、愛があるかないかによって決まるというのであります。

 いくらお金があっても、地位や名誉があっても、体が健康であっても、もし愛がなければ、その人の人生は空しいものであると聖書は教えています。人間関係の問題の大部分は、愛の欠如によるものであると言っても過言ではないと思います。人間の不幸も悲しみも、人肉親の間の確執も、国家間の戦争も、みんな人の心に真の愛がないことが原因であります。そして、人生の問題のほとんどは、愛があれば解決できる問題です。現代は、家庭でも、学校でも、職場でも、「愛」がどんどん失われつつある時代です。何か殺伐とした荒(すさ)んだ潤いのない世の中になって来ているのではないでしょうか。

 動物は与えられた本能によって生きているだけで満足しているので、愛のゆえに悩んで自殺したりすることはありませんが、人間にとってこれは深刻な問題であります。人間は愛する者、愛される者として造られた存在だからであります。人は対物ではなく、対人関係の中に生かされているのです。「物質」は人の心の渇きを満たしてはくれません。どんなに多くの富や財産に囲まれ、立派な邸宅に住んでいても、人の心の渇きは満たされないのです。フランスの詩人ユーゴーは「人生最大の幸福は、自分自身のいかんにかかわらず、愛されているという確信である。」と言いましたが、まさにそのとおりであります。

 しかし、問題は移ろいやすく不安定な人間の愛ではなく、神に愛されているという確信を持つことであります。私たちの周りには愛があるようで、実は本物の愛を見出すことは非常に困難です。世の中には、確かに母親の美しい愛もあれば、友人の愛、男女の愛など、愛があるように見えるのですが、しかし、それらはみな自己中心的な愛であります。明治~大正時代にかけての小説家有島武郎は、「愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし、愛の本質は、奪うものである。」と書いています。彼は、内村鑑三の影響で一時は聖書に触れたことがあるのですが、神の愛もキリストの十字架の福音も知らずに死んだ人であります。人間の愛の本質は、自己中心的であります。表面的には美しく見えても、本質は自己中心的であり、条件付きでしか人を愛せない者たちであります。

 コリント第一の手紙13章には、神の本物の愛(アガペーの愛)の特質が書かれています。普通の人が考える愛と全く違うことがお分かりいただけると存じます。しかし、これが真実な愛であるとすれば、このような崇高な愛はだれひとり持ちあわせていないことが分かります。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます・・・・・」(4~7)の箇所を読めば、自分はいかに愛のないものであるかということに気づかされるのであります。この「愛」ということばの代わりに、「自分の名前」を入れて読んでみると、非常に違和感を覚え、不釣合いで、大抵の人は、このみことばに心が鋭くえぐられて、すぐに自分は愛のない人間であるということに気づくのであります。

 しかし、この「愛」という文字の所に置き換えてぴったりと合うお名前のお方が、世界でたった一人だけおられます。それは、まさしく「イエス・キリスト」であります。例えば、「キリストは寛容であり、キリストは親切です。また人をねたみません。キリストは自慢せず、高慢になりません・・・・」と入れ替えて読んでみても、全然違和感がないばかりか、ぴったりと当てはまるのです。このような崇高な愛を持っておられる御方は、イエス・キリスト以外にはだれ一人いないのであります。そして、本当の愛というのは、神様だけが持っておられるのであって、神はご自身の愛する御子イエス・キリストをこの世に遣わされて、目に見える形で、その愛を十分に表してくださいました。そして、その愛のクライマックスがキリストの十字架なのであります。

●「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 」(ヨハネの第一の手紙3:16)。

●「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 」(ヨハネの第一の手紙4:9)。
 

 神を信じ、キリストを個人的な救い主と信じる時に、今まで経験したことのない愛の中に生きることができます。「愛」とは重荷とはなりません。たとえば、同じ5kgの重さでも背中におんぶしている赤ちゃんは重く感ぜず、背負う荷物は赤ちゃんより重く感じるのです。それはなぜかと言えば、「愛」の有無によるのです。母親は、一生の間にわが子のために毎日毎日どれだけの仕事をするでしょうか。しかし、その労働のためにたったの一円のお金も要求しようとはしません。それは愛のゆえであります。そして、神の愛によって人が変えられる時に、今まで重荷と感じていたこともそれほど重く感じなくなるから不思議であります。

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