聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人間の死後の世界は?

2006-06-24 | 「死後の二つの行き先」
                

  人は生きている限り、だれでも無意識の中にも「死」について考えない人はいないのではないかと思います。人生について、生きることと死ぬことについて真面目に考える人もいれば、いい加減に軽くあしらう人もいれば、故意に死について考えるのを避けようとする人もいます。あるいは、「死後の世界などあるはずがない!」と断言する方もおられます。しかし、無神論者や唯物論者であっても、「死」に対して何らかの恐怖や不安を抱いていることは確かです。人が癌を宣告されたり、災害や交通事故などに恐怖を抱くのも、所詮死が怖いからではないでしょうか。しかし、それでも不思議なことに、死を自分自身の問題として考えることなく、「他人は死んでも自分だけは死なない。」というような顔をして生きている人がいるのもまた事実なのです。

 人間の死について、真剣に考え悩んでおられるAさんが、あるものに次のようなことを書いています。「死後の世界は本当にあるのだろうか?当たり前のことだが、今を生きている私には到底分かるはずもない。死という入り口に立って、はじめてその扉の向こうを知ることになるのだろうか。『天国か地獄か、どちらがいい?』と聞かれれば、それは天国の方がいいと答えるに決まっている。誰も自ら好んで、地獄へ行きたいなんて思わないだろう。昔から人々は死の恐怖に怯えて来たことは事実である。そして、私も人はなぜ死ぬのだろうと考える時がある。目に見えない世界というものは、不思議と大きな脅威を感じるものである。生と死、生まれながらの境遇の差異など、生まれてから死ぬまで人生の悩みは尽きません。‥‥‥」

 「‥‥‥でもそれだけ生命というものは、多くの神秘性を秘めているのだと思います。生死について、学術的なものから霊的なものまで、実に様々な説があるかもしれないけれど、何が正しくて何が間違っているかなんて、本当のところ誰にも分からないのだろう。心の拠り所を求めて迷い彷徨う中で、『これは絶対に間違いのない真理です』と言い切られると、そうなのかもしれないと思ってしまう。よく分からないけれど、間違いなく天国へ行けるける切符を手に入れたような安心感が欲しいのです。死後の世界。それはあるのかもしれないし、ないのかもしれない。それを否定する人もいれば、肯定する人もいるだろう。人それぞれ、その思いは十人十色だ。だけど、私は真理はひとつのような気がするのです。」

 私は、このAさんの「人生」における生と死の問題を真っ向から考えようとする真摯な考え方、真面目に「死」の問題を熟考する姿に共鳴すら覚えるのであります。今の時代、多くの方は、人生、今が楽しければそれで良いのだと言って「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」(Ⅰコリント15:32)と、刹那的な快楽生活を追い求めて行く人たちの中にあって、生きる意味や死の問題について真剣に考えていることは幸いなことであり、このような人生の求道者は稀有に近いと言っても過言ではありません。私は、彼の文章の中で、「私は真理はひとつのような気がするのです。」と言っていることに対して、彼が大変理性的で、その論理が整然としているのを感じるのです。「真理は一つである。」ということは正しいことです。 

 「1+2=3」という答えは一つです。この答えは一つであり、時代や国によって変わることはありません。「この宇宙はどうして出来たのか?」という質問の答えは一つです。進化論も正しければ神(創造者)が造られたという答えも、両方とも正しいということはないのです。聖書は「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)と語っています。真理はこれ一つです。人間の死の問題についても同様です。その問題の答えは、一つです。聖書は「死がどのようにして人類に入って来たのか。」「人間の死後はどなるのか。」「人間はどうしたら死の恐怖と不安から解放されるのか。」について、明解に答えています。

 ですから、どうか、みなさん、Aさんと同じ悩みをお持ちの方は、是非、神が啓示された唯一の真理の書である聖書の語る言葉に耳を傾けて下さい。アダム以来のすべての人類は神の前に罪を犯しました。そして、死後、神の永遠のさばきを受けるべき者となってしまった人間一人一人を愛なる神様は、ご自身のひとり子、イエス・キリストを救い主として、この世に遣わされ、キリストは罪のない聖よいご生涯の後に、十字架に架かられて私たち罪人の身代わりとなって死んでくださったのです。そして、死後三日目に復活されたのです。このお方を救い主として信じる者は永遠のいのちを受け、死後も天国に行くことが出来るのです。しかし、それを信じるか、信じないかは聞く者一人一人の自由です。信仰はだれによっても強制されたりするべきものではありません。

●「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ人への手紙5:12)。
 
●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

●「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。 

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 」(ローマ人への手紙3:23,24)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 (ヨハネの黙示録21:4)。


 「天国と地獄」。「死と永遠のいのち」。これは、人間が最終的に行き着くところの両極端です。私たちは、罪のゆえに、当然、永遠の滅び(地獄)に行くべき存在であります。しかし、愛なる神様は、イエス・キリストの十字架のゆえに、「永遠のいのち」を恵みによって与えてくださる方なのです。しかし、そのためには、自分が神の前に罪人であるという事実を素直に認めて、賜物としての救い(永遠のいのち)を受け入れる従順な心がなければならないのです。神様はあなたにもその賜物を与えようとしておられます。どうか、あなたも、砕かれた心をお持ちになられて、救い主イエス様を信仰によって受け入れ、愛なる神様の尊い救いをご自分のものとなさってくださいますように心からお勧めいたします。

◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」  

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