聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★良心の呵責と神の刑罰

2005-02-06 | 「死後の二つの行き先」
   

 

 これは、何十年も前に新聞で報道された事件ですが、ある男が人を殺して、その死体を土に穴を掘って投げ込み、その上にコンクリートを流し込んで長い間、隠していたのですが、良心の呵責に耐えかねて、警察に自首して出たということがありました。彼は、もう一年すれば時効になるはずでしたが、その苦痛に耐えられず、あと一年を待つことができなかったのです。

 人間には、罪には必ず刑罰が伴うものであるという意識があるのです。だれが、いつ、刑罰を与えるということは明白には分からなくとも、誰かが、いつかは罰を与えるものであるという考えを取り除くことはできないのです。ですから、彼は被害者の遺族には、罪滅ぼしのために出来るだけの親切を尽くしたのですが、しかし、それによって、完全に良心の呵責はなくならなかったのです。

 一体、これはどういうわけでしょうか。その理由は、正しい審判を行う神が存在するからであります。ですから、この神の御前で、自分に罪があると思うとき、心は不安と恐れででいっぱいになるのです。たとえ、他人が「あなたは、親切でいい人です。」と言ってくれたとしても、それによって、神は赦してくれるとは思いませんから、良心の呵責と苦痛は少しも減らないわけです。

 また、今から34年も前の1971年7月の新聞に「時効後、真犯人?名乗り」という見出しで、新聞に報じられた記事がありましたが、それは当時大変話題になり、人々を驚かせました。ご年配の方はご記憶にあるかと思います。一人の男が、22年前の殺人の「真犯人は私です」と名乗り出たのです。一方、犯人として判決に従い、懲役15年の服役を終わったNさんは、ずっと、無実を主張し続けて来ました。その真犯人も、やはり長い間、良心の呵責に苦しんでいたのです。

次のみことばは、ユダヤの王ダビデが、姦淫と殺人の罪を犯した時に、苦悶の中で詠んだ告白の歌であります。良心の呵責に苦しむダビデの心中を察することができます。

●「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、(神の)御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」(詩篇32:3,4)。 

  これらの事件の事実から、人が罪を犯したとき、その当事者の良心に呵責を与える正義の神がおられることと同時に、人間である裁判の限界を知らされるのであります。シーザーは、「人間というものは、自分の望んでいることを信じたがるものだ。」と言いましたが、その通りだと思います。多くの人々は地獄や死後のさばきの事実があることを信じませんが、彼らは、それを証明したからではなく、「信じたくない」から信じないのです。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

●「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ人への手紙6:7)。
 

  死がすべての人に襲って来るようにすべての人は、死後において正義なる神の裁判を受けなければならないのです。そして、その行いに応じて裁かれるのです。例えるならば、私たちの行いをすべて神の倉の中に貯えているようなものです。定められたさばきの時(最後の審判)が来ると、各々の倉から全部出されて神の座の前にさらされてさばきを受けるのです。そして、聖書の神は全知全能の神ですから、人の心の奥底まで知り尽くしておられます。神は、あなたの全生涯の行為だけでなく、その動機までも追求されます。神は小さな悪をも見逃さない聖なるお方なのです。

 最後に、最も大切な歴史的事実を皆様にお伝えしたいのです。それは、私たち罪人(国の法を犯さなくとも、すべての人は神の前に罪人です)の身代わりとなって、神の御子イエス・キリストが十字架上で死んでくださったという事実です。これが、キリストの福音なのです。

●「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコの福音書15:34)。 

 このお言葉は、神の御子であるイエス・キリストの十字架上での絶叫です。キリストはあなたや私たちの罪を負って、身代わりにこの恐ろしい神の刑罰を受けられたのです。もし、あなたが、イエス・キリストを救い主として信じ受け入れるなら、罪と死後のさばきから救われ、神の怒りが下ることはありません。死後の行き先は、二つしかありません。キリストを信じて罪赦された者は天国で、キリストの福音を拒んで、死んだ人は火の池に入れられるのです。

 ある老裁判官が退官する時に、次のように述懐したそうです。「私は今まで多くの人々を裁いて来たが、今度は神の法廷で私が裁きを受けなければならない。」と。あなたは、どのような状態で生ける絶対正義の神の前に立ち得ることができるでしょうか。キリストを救い主と信じて、キリストを弁護人として立つことのできる人は幸いです。

●「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 」(ローマ人への手紙8:1)。

●「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たち(クリスチャン)のためにとりなしていてくださいます。」(ローマ人への手紙8:34)。


   


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