聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★厳粛な最後の審判

2006-12-19 | 「死後の二つの行き先」

●「また私(ヨハネ)は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。」(ヨハネの黙示録20:11)。

  私たちが住んでいる現代の社会は、道徳的ジャングルの中に陥りつつあります。破壊された家庭、病んでいる教育現場、性病、子供と大人の自殺者の急増、損なわれた女性らしさ、堕胎、邪魔者のように扱われる子供たち、これらのものがボロボロの着物のように世界中の道端にばらまかれているのです。また、その他、地球規模で、諸々の問題が山積しており、この世界中の人々が、巨大迷路に入って出口を捜しあぐねているような状態ではないでしょうか。どなたも、口では否定していても、いつか終末が来ることを知っているのです。世界の終末はいつ来るのでしょうか。しかし、確かに終わりの日は近づいています。そして、やがて最終的には「最後の審判」の日が来るのです。

 聖書は、創造以来の人類の歴史書であると言っても過言ではありません。そして、人間が住んでいるところ、どこにでも罪というものがあるのです。この地球上に生き、そして死んだ無数の男女には多くの違いがあります。皮膚の色や文明の違い、彼らは異なった土地で、また異なった時代に生きました。彼らは、それぞれ異なった環境の中で生きました。しかし、聖書が告げている厳粛で明確な事実は、すべての者が一つの大きな集合点に向かって進んでいるということであります。たくさんの支流が集まって一つの河口に流れるように、彼らは流れて行き、彼らはすべて「大きな白い御座」に来なければならないのです。

 「大きな白い御座」というのは、ヨハネの黙示録の中の最後の光景です。使徒ヨハネは、それを「大きな」白い御座と呼びました。「最も大きな」とも、「いっそう大きな」とも記していません。換言すると、それは、今まであったいかなる「座」とも比較されていません。いや、比較できないのです。この御座だけが「大きい」のです。その前にあっては、他のいかなる座も、色あせて、あとかたもなくなってしまいます。地上の王たちの玉座の中に、いまだかってそれと等しいものが見られたことはありませんでした。とても恐ろしい光景をもった、その大きな白い御座は、いつか、あなたがたの造り主(創造者である神)、また、あなたがたのさばき主に会わなければならない場所なのです。

 この御座は、大きいだけでなく、「白い」御座であります。他のどのような座とも比較できない「白い」御座なのです。それは、聖さと曇りなき正義の御座であります。だれもその裁判官を欺くことはできません。また、この地上にあるような賄賂は、その御座に通用することは決してありません。そして、すべての人の魂の運命を定める最終判決が、神の絶対的な正義によって下されるところであります。そして、すべての人は公正な裁きを受けるのです。

 それは、白くて大きいのですが、その上、それは「御座」であります。その御座に座しておられる御方こそ、王の王、主の主であられるイエス・キリストであります。彼は最高権威者であります。彼が一度下したさばきはもう覆されることはなく、その刑罰から逃れることは絶対に出来ないのです。これは「御座」なのです。この御座の上に更に大きな御座は決してありません。何と恐ろしい厳粛さが、その光景を取り巻いていることでしょうか。何と厳粛に満ちた威光が「大きな白い御座」に座しておられる方に満ちていることでしょうか。

 そして、その御座の前に立つ人々はどのような人々でしょうか。「死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。」とヨハネは記録しています。この世の人たちが大きな者とみなした人たちも、また小さい者とみなされた人々も、その御座の前の呼び出されました。その罪が小さいと見えた者も、またその罪が大きく、よく目立った人も、みなその聖なる御座の前に立たなければなりませんでした。貴賎貧富にも関係なく、国籍も関係なく、皮膚の色も関係なく、すべての人類がその御座の前に立っているのをヨハネは見たのです。そして、その御座に座っておられる御方の神の裁きを受けなければならないのです。

 そして、その最後の審判はどのように行われるのでしょうか。「数々の書物が開かれたが‥‥死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」と記されています。その日には、善悪を記録してある神の覚え書きが開かれます。神はすべての人の生涯の最も小さなことも、人の前からは隠されていた心の中で犯した罪の秘密まで、忠実に記録されているこれらの書物が開かれた上で、注意深く審査されるのです。永遠の神の前にあっては、時間の不足はありませんから、そのさばきが急がれることはありません。この地上の裁判では、限られた時間の中で不完全な人間が裁判官ですから度々、間違った判決や冤罪などもありますが、「最後の審判」においては決してそのようなことはないのです。

 しかし、最後にもう一つの別の書物が開かれます。それは、「いのちの書」であります。その書は、イエス・キリストを自分の救い主として個人的に受け入れ、信じた者たち、すなわちクリスチャンたちの名前がすべて記されてある名簿のようなものでしょうか。この「大きな白い御座」の前に立たされて、聖なる御方のさばきを受けるのは、この世の不信者であり、キリストの救いを拒んだ人々であります。キリストを信じた者がその御座の前に立たされて、さばきを受けることは決してありません。なぜなら、神の御子が、この世に来られその生涯の終わりに、自分の身代わりとなって神にさばかれてくださったことを信じた者は、すべての罪が赦され、永遠のいのちをすでに受けており、その救いを失うことはあり得ないからです。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには私たちが救われる名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒の働き:4:12)。

●「わたし(キリスト)は道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)。

●「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネの福音書5:24)。

 
 どうか、あなたも神が備えてくださったこのすばらしい救いをお受けになって下さい。キリストを信じた者の最終的な行き先は、恐ろしい「火の池」ではなく、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」慰めに満ちた天国なのです。 

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

 



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