元少年Aの「絶歌」という本を読んだ。余りにも重く衝撃的な内容で、何度も読むのを中断して天井を仰ぎ、しばし脳髄を冷却しながらでないと読み進めることができなかった。これほどの衝撃を受け、人間の深層に隠された深い闇に想いを巡らせたのは、若かりし頃にユング(フロイトに並ぶ深層心理学者)に衝撃を受けて以来である。
人間とは、天使であると同時に悪魔の側面も同時に持っているという意味で、余りにも宇宙的な存在だ。宇宙は、絶えず生成と破壊を繰り返している永遠の存在だが、人間が内在するグロテスクな妖怪の側面は、宇宙(神)に必然的に内在するものに違いない。おなじ地球上の生き物でも動物にはこれほどの破壊衝動は備わっていない。少年Aは、はからずも大宇宙のグロテスクで残酷な一面を、私たち凡庸な現代人に見せてくれたのだ。、
この事件が起きた当時、あまりの猟奇性と14才の少年の犯罪という点で、世間の関心がものすごく高かった。当時、私も若い時に心理学を学んだ一人として深く興味を持ち、ささやかながら事件の真相を知ろうと情報を収集した。
早稲田にある出版社?が中心になり、熱心に冤罪説を打ち出して活動しているグループがあることを知り、そこの活動家の勧めで、冤罪を訴える集会があった大阪まで出かけて行き、ついでに少年Aの住んでいた家も見に行った。14才の少年が、あそこまで残忍かつ周到な犯罪を犯したとは信じられなかったので、冤罪説が成立するかどうかを、自分自身で検証するために、わざわざ仕事を休んでまで出かけたのだった。
、
冤罪説を主張する市民グループは、この事件は警察のでっち上げで、少年は冤罪の被害者に違いないと主張していた。少年が自宅のベランダの雨樋を伝って深夜に出入りしていたと警察が言っているが、ベランダを登りするのは物理的に無理で、少年は警察に自白を強要されたに違いないというのである。
私は、警察の発表した内容が正しいかどうかは、ベランダの雨樋に傷があるかどうかを検証すればわかると考え、大阪の友人に手引きしてもらって少年Aの住んでいた家をこっそり見に行った。そして、ベランダの横を通って屋根から地面まで垂直に下りている、灰色のビニール配管の雨樋を観察した。すると、表面の塗料が削れて出来た一本の縦スジが、はっきりと確認された。
雨樋にスジが入るのは普通ではあり得ないことで、少年が雨トイを昇り降りした時に塗料が剥がれて出来た縦スジに違いなかった。私は、警察の発表を疑うことはできないという結論を得て、それ以来、冤罪説には関与せずに少年Aの出所を待つことにした。高名な人権派弁護士の後藤昌二郎さんは、市民グループと一緒に「冤罪少年」を救い出すべく裁判闘争を行ったが、裁判で敗訴した後に高齢のため亡くなった。「絶歌」の出版で冤罪説は完全に否定されたことで、後藤弁護士の頑張りも無駄になった。
ところで、この手記に対する世間の評価は割れている。少年Aの自己顕示欲と特異な性衝動は治っていず、出版は不当だという意見と、世間に加害者からの生の情報をもたらすのは意味があり、彼にとって、この本の執筆と出版が人生をやり直すために必要な作業に違いない、という二つの意見がある。前者は、被害者側や世間の常識的な人たちが取っている立場で、たしかに正当な意見ではある。
もう一方は、事件の真相や加害者の心理を読み解く立場で、犯罪学や心理学・精神医学からの立場だから、世間一般の常識とはかみ合わないのは当然だ。私も、被害者の家族には申し訳ないけれど、事件の真相を知るための材料の一部が得られたという意味では、社会的な意義があるという気がする。
この本は全編にわたって深い反省と内省が綴られており、彼にとっては内省を深めて前に進むための、どうしても必要な執筆だったに違いない。ただ、執筆するという行為と出版は次元が違う。印税が殺人を犯した加害者に入るのは不条理なことだが、私自身は、久々に脳天をぶち抜かれるほどに衝撃を受けた。久々に、人類という生き物の不可思議さに改めて思いを巡らせてしまった。
人間とは、天使であると同時に悪魔の側面も同時に持っているという意味で、余りにも宇宙的な存在だ。宇宙は、絶えず生成と破壊を繰り返している永遠の存在だが、人間が内在するグロテスクな妖怪の側面は、宇宙(神)に必然的に内在するものに違いない。おなじ地球上の生き物でも動物にはこれほどの破壊衝動は備わっていない。少年Aは、はからずも大宇宙のグロテスクで残酷な一面を、私たち凡庸な現代人に見せてくれたのだ。、
この事件が起きた当時、あまりの猟奇性と14才の少年の犯罪という点で、世間の関心がものすごく高かった。当時、私も若い時に心理学を学んだ一人として深く興味を持ち、ささやかながら事件の真相を知ろうと情報を収集した。
早稲田にある出版社?が中心になり、熱心に冤罪説を打ち出して活動しているグループがあることを知り、そこの活動家の勧めで、冤罪を訴える集会があった大阪まで出かけて行き、ついでに少年Aの住んでいた家も見に行った。14才の少年が、あそこまで残忍かつ周到な犯罪を犯したとは信じられなかったので、冤罪説が成立するかどうかを、自分自身で検証するために、わざわざ仕事を休んでまで出かけたのだった。
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冤罪説を主張する市民グループは、この事件は警察のでっち上げで、少年は冤罪の被害者に違いないと主張していた。少年が自宅のベランダの雨樋を伝って深夜に出入りしていたと警察が言っているが、ベランダを登りするのは物理的に無理で、少年は警察に自白を強要されたに違いないというのである。
私は、警察の発表した内容が正しいかどうかは、ベランダの雨樋に傷があるかどうかを検証すればわかると考え、大阪の友人に手引きしてもらって少年Aの住んでいた家をこっそり見に行った。そして、ベランダの横を通って屋根から地面まで垂直に下りている、灰色のビニール配管の雨樋を観察した。すると、表面の塗料が削れて出来た一本の縦スジが、はっきりと確認された。
雨樋にスジが入るのは普通ではあり得ないことで、少年が雨トイを昇り降りした時に塗料が剥がれて出来た縦スジに違いなかった。私は、警察の発表を疑うことはできないという結論を得て、それ以来、冤罪説には関与せずに少年Aの出所を待つことにした。高名な人権派弁護士の後藤昌二郎さんは、市民グループと一緒に「冤罪少年」を救い出すべく裁判闘争を行ったが、裁判で敗訴した後に高齢のため亡くなった。「絶歌」の出版で冤罪説は完全に否定されたことで、後藤弁護士の頑張りも無駄になった。
ところで、この手記に対する世間の評価は割れている。少年Aの自己顕示欲と特異な性衝動は治っていず、出版は不当だという意見と、世間に加害者からの生の情報をもたらすのは意味があり、彼にとって、この本の執筆と出版が人生をやり直すために必要な作業に違いない、という二つの意見がある。前者は、被害者側や世間の常識的な人たちが取っている立場で、たしかに正当な意見ではある。
もう一方は、事件の真相や加害者の心理を読み解く立場で、犯罪学や心理学・精神医学からの立場だから、世間一般の常識とはかみ合わないのは当然だ。私も、被害者の家族には申し訳ないけれど、事件の真相を知るための材料の一部が得られたという意味では、社会的な意義があるという気がする。
この本は全編にわたって深い反省と内省が綴られており、彼にとっては内省を深めて前に進むための、どうしても必要な執筆だったに違いない。ただ、執筆するという行為と出版は次元が違う。印税が殺人を犯した加害者に入るのは不条理なことだが、私自身は、久々に脳天をぶち抜かれるほどに衝撃を受けた。久々に、人類という生き物の不可思議さに改めて思いを巡らせてしまった。