今年も卒業式のシーズンがやってきた。
地方議員は、地域の学校の卒業式に参列するのも仕事のひとつだ。
生来、儀式という堅苦しいものは大の苦手だが、子供たちの巣立ちを見守る来賓席のお客も、儀式には必要な風景だろう。ましてや、PTA会長として近所の小中学校にはずっと関わりをもっているから、子供たちの成長を見届けたい気持ちもあって、やはり案内状がくると出かけていく。
卒業式でいつも思うのは、国家斉唱の場面で子供たちの声がほとんど聞こえず、来賓席の歌声の方が大きいということだ。ところが、校歌になるととたんに大きな声が体育館いっぱいに響き渡る。やむを得まい。学校の先生たちは「君が代」を生徒に教えることはむろん、ピアノ伴奏さえ拒否する人が少なくないそうだ。
私は、議会で「学校では生徒に国歌を教えないのか?他に変わるものがない以上、子供に教えないとすればおかしい」と歴史認識を交えて指摘したことがある。その後、教育委員会から通達があったのか、私が出席する複数の学校では、職員がピアノを弾き、生徒たちの歌声も多少は大きくなった。
信念を持った先生たちが、歴史観に基づいて国旗掲揚の起立を拒否し、国歌斉唱を拒絶する勇気は立派だと思う。しかし、いささか頭が固すぎるし思考回路がおかしいような気がする。過去に国旗や国歌を前面に立てて、この国が侵略戦争の愚を犯したことは紛れもない事実だが、それは国旗や国歌がやった訳ではなく、まさに人間がやったことだ。象徴にすぎない国旗・国歌をいつまでも敵視し続けても何も解決しない。国旗・国歌こそ汚された被害者であり、私たち国民は彼ら?に心から謝ることで、国旗・国歌をリセットしなければならないだろう。その上で、心も新たに再生日本を建設すべきなのだ。
無謀な戦争をやったのは、一部の戦争指導者ではない。日清・日露の戦勝に酔って欧米との侵略競争を支持し中国への領土拡大を望んだのは、他ならぬ大多数の国民ではなかったのか。戦争の責任を天皇や東条や国旗・国歌に押し付けて、国民一人ひとりは心からの反省(内省)をしていないように見えるが、そのことの方がずっと問題だ。
国旗・国歌は、確かに戦争によって汚れてしまったが、汚したのは指導者も含む国民の側であって、国旗・国歌には何の責任もない。君が代の歌詞は、確かに前時代的とはいえ、すっかり定着していて代わりが効かない以上、ボイコットしてどうなるというのだ。他者に責任をすべてなすりつけて、自分は安全圏内に身をおいて善人を決め込むという風潮がこの国にははびこり過ぎている。
頑なに国旗・国歌を拒否する先生たちに問いたい。「あなたは、侵略戦争に加担した父や祖父の子であることを、心から恥じたことはありますか?」「すべてを、戦争指導者や天皇・国旗・国歌に押し付けて思考停止をしていませんか?」と。
私は、子供たちの国歌斉唱の声が小さいからといって、それを咎めるつもりはない。歌わない自由を行使するのは当人の自由だからだ。だが、はなから教えないのでは、子供たちは「歌う自由」はおろか「歌わない自由」すら行使できないのだ。
石原都知事の起立の強制は乱暴すぎる。しかし、子供たちが長じて外国へ行った時に、自国の国歌も歌えないようでは話にならないのも事実だ。歌うかどうかは子供に任せ、まずは国歌をきちんと教えたうえで、戦争の歴史的背景も公平に教えて、子供に自ら考える力をつけさせるのが教師の役割というものだろうに。
地方議員は、地域の学校の卒業式に参列するのも仕事のひとつだ。
生来、儀式という堅苦しいものは大の苦手だが、子供たちの巣立ちを見守る来賓席のお客も、儀式には必要な風景だろう。ましてや、PTA会長として近所の小中学校にはずっと関わりをもっているから、子供たちの成長を見届けたい気持ちもあって、やはり案内状がくると出かけていく。
卒業式でいつも思うのは、国家斉唱の場面で子供たちの声がほとんど聞こえず、来賓席の歌声の方が大きいということだ。ところが、校歌になるととたんに大きな声が体育館いっぱいに響き渡る。やむを得まい。学校の先生たちは「君が代」を生徒に教えることはむろん、ピアノ伴奏さえ拒否する人が少なくないそうだ。
私は、議会で「学校では生徒に国歌を教えないのか?他に変わるものがない以上、子供に教えないとすればおかしい」と歴史認識を交えて指摘したことがある。その後、教育委員会から通達があったのか、私が出席する複数の学校では、職員がピアノを弾き、生徒たちの歌声も多少は大きくなった。
信念を持った先生たちが、歴史観に基づいて国旗掲揚の起立を拒否し、国歌斉唱を拒絶する勇気は立派だと思う。しかし、いささか頭が固すぎるし思考回路がおかしいような気がする。過去に国旗や国歌を前面に立てて、この国が侵略戦争の愚を犯したことは紛れもない事実だが、それは国旗や国歌がやった訳ではなく、まさに人間がやったことだ。象徴にすぎない国旗・国歌をいつまでも敵視し続けても何も解決しない。国旗・国歌こそ汚された被害者であり、私たち国民は彼ら?に心から謝ることで、国旗・国歌をリセットしなければならないだろう。その上で、心も新たに再生日本を建設すべきなのだ。
無謀な戦争をやったのは、一部の戦争指導者ではない。日清・日露の戦勝に酔って欧米との侵略競争を支持し中国への領土拡大を望んだのは、他ならぬ大多数の国民ではなかったのか。戦争の責任を天皇や東条や国旗・国歌に押し付けて、国民一人ひとりは心からの反省(内省)をしていないように見えるが、そのことの方がずっと問題だ。
国旗・国歌は、確かに戦争によって汚れてしまったが、汚したのは指導者も含む国民の側であって、国旗・国歌には何の責任もない。君が代の歌詞は、確かに前時代的とはいえ、すっかり定着していて代わりが効かない以上、ボイコットしてどうなるというのだ。他者に責任をすべてなすりつけて、自分は安全圏内に身をおいて善人を決め込むという風潮がこの国にははびこり過ぎている。
頑なに国旗・国歌を拒否する先生たちに問いたい。「あなたは、侵略戦争に加担した父や祖父の子であることを、心から恥じたことはありますか?」「すべてを、戦争指導者や天皇・国旗・国歌に押し付けて思考停止をしていませんか?」と。
私は、子供たちの国歌斉唱の声が小さいからといって、それを咎めるつもりはない。歌わない自由を行使するのは当人の自由だからだ。だが、はなから教えないのでは、子供たちは「歌う自由」はおろか「歌わない自由」すら行使できないのだ。
石原都知事の起立の強制は乱暴すぎる。しかし、子供たちが長じて外国へ行った時に、自国の国歌も歌えないようでは話にならないのも事実だ。歌うかどうかは子供に任せ、まずは国歌をきちんと教えたうえで、戦争の歴史的背景も公平に教えて、子供に自ら考える力をつけさせるのが教師の役割というものだろうに。