東京都武蔵村山市議 すどう ひろし(須藤博)のページ

真実の政治・住民本位の政治が私の信条です。

卒業式と国家斉唱

2008-03-20 17:18:59 | Weblog
今年も卒業式のシーズンがやってきた。

地方議員は、地域の学校の卒業式に参列するのも仕事のひとつだ。
生来、儀式という堅苦しいものは大の苦手だが、子供たちの巣立ちを見守る来賓席のお客も、儀式には必要な風景だろう。ましてや、PTA会長として近所の小中学校にはずっと関わりをもっているから、子供たちの成長を見届けたい気持ちもあって、やはり案内状がくると出かけていく。

卒業式でいつも思うのは、国家斉唱の場面で子供たちの声がほとんど聞こえず、来賓席の歌声の方が大きいということだ。ところが、校歌になるととたんに大きな声が体育館いっぱいに響き渡る。やむを得まい。学校の先生たちは「君が代」を生徒に教えることはむろん、ピアノ伴奏さえ拒否する人が少なくないそうだ。

私は、議会で「学校では生徒に国歌を教えないのか?他に変わるものがない以上、子供に教えないとすればおかしい」と歴史認識を交えて指摘したことがある。その後、教育委員会から通達があったのか、私が出席する複数の学校では、職員がピアノを弾き、生徒たちの歌声も多少は大きくなった。

信念を持った先生たちが、歴史観に基づいて国旗掲揚の起立を拒否し、国歌斉唱を拒絶する勇気は立派だと思う。しかし、いささか頭が固すぎるし思考回路がおかしいような気がする。過去に国旗や国歌を前面に立てて、この国が侵略戦争の愚を犯したことは紛れもない事実だが、それは国旗や国歌がやった訳ではなく、まさに人間がやったことだ。象徴にすぎない国旗・国歌をいつまでも敵視し続けても何も解決しない。国旗・国歌こそ汚された被害者であり、私たち国民は彼ら?に心から謝ることで、国旗・国歌をリセットしなければならないだろう。その上で、心も新たに再生日本を建設すべきなのだ。

無謀な戦争をやったのは、一部の戦争指導者ではない。日清・日露の戦勝に酔って欧米との侵略競争を支持し中国への領土拡大を望んだのは、他ならぬ大多数の国民ではなかったのか。戦争の責任を天皇や東条や国旗・国歌に押し付けて、国民一人ひとりは心からの反省(内省)をしていないように見えるが、そのことの方がずっと問題だ。

国旗・国歌は、確かに戦争によって汚れてしまったが、汚したのは指導者も含む国民の側であって、国旗・国歌には何の責任もない。君が代の歌詞は、確かに前時代的とはいえ、すっかり定着していて代わりが効かない以上、ボイコットしてどうなるというのだ。他者に責任をすべてなすりつけて、自分は安全圏内に身をおいて善人を決め込むという風潮がこの国にははびこり過ぎている。

頑なに国旗・国歌を拒否する先生たちに問いたい。「あなたは、侵略戦争に加担した父や祖父の子であることを、心から恥じたことはありますか?」「すべてを、戦争指導者や天皇・国旗・国歌に押し付けて思考停止をしていませんか?」と。

私は、子供たちの国歌斉唱の声が小さいからといって、それを咎めるつもりはない。歌わない自由を行使するのは当人の自由だからだ。だが、はなから教えないのでは、子供たちは「歌う自由」はおろか「歌わない自由」すら行使できないのだ。

石原都知事の起立の強制は乱暴すぎる。しかし、子供たちが長じて外国へ行った時に、自国の国歌も歌えないようでは話にならないのも事実だ。歌うかどうかは子供に任せ、まずは国歌をきちんと教えたうえで、戦争の歴史的背景も公平に教えて、子供に自ら考える力をつけさせるのが教師の役割というものだろうに。

矢祭町方式では地方自治は死ぬ!

2008-03-20 14:22:00 | Weblog
矢祭町の町議選は、立候補者が11人で定員より1人しか多くなかった。すごく立候補者が増えるかと思ったが、従来とさして変わらないと見た。

それにしても、わずか2000戸の小さな自治体での議員の日当制を、普通規模の自治体にまで当てはめて議論するのは、まったくナンセンス。不見識の極みだ。

矢祭町のようなミニ自治体なら、町の「顔役」は多くが親戚とか顔見知りばかりだろうし、予算規模が小さく事業数も少ないはず。しかし、数万人規模の自治体になると、事業数も規模も膨大で、役人も自分のセクション以外のことは分からないくらいだ。

自治体議員は、市民の代表として役所の「監視」機能を果たさねばならないが、普通規模の自治体の仕事の量と範囲は膨大だ。議員の「監視」作業も、当然ながら複雑多岐に渡る。自治体の仕事は、都府県や国がらみの案件も多いため、議員の守備範囲はとんでもなく広い。だから、他に職業を持っている議員では、ろくに調査活動もできず、議員としての仕事は極めて底の浅いものにならざるを得ないだろう。

普通規模の自治体の(まともな)議員は、議会の休会中にも市民の相談を受け、資料を読み込み、聞き取りや実地調査を重ねて、次の議会に臨む。役所からは、議員が役所の仕事を理解できるように、適宜、資料が届けられるが、7万人の人口の武蔵村山市の行政資料ですら膨大だ。役所の資料を読み込んで理解するだけでも、時として徹夜になる大変な作業で、最低限それをしなければ議員が役所を監視するなんて無理だ。出て行く時だけ日当をもらう議員に、果たしてそれだけの仕事ができるだろうか。

地方議員の仕事が、はたで見るよりずっと多忙なのは、過去の記事に書いたが、矢祭り町のように日当制にしたら、議員は生活のための仕事に追われて勉強の時間が取れないわけだから、議会の発言力は限りなく低下するだろう。

地方自治は、首長(役所)と議会が、車の両輪としてバランスをとって民主主義が機能するのだが、専業の議員がいなくては首長の権限が相対的に強くなって、日本の地方自治はやがて死を迎えるだろう。矢祭町のようなミニ自治体の例を全国一律に当てはめて浮かれるような、軽佻浮薄な論議しか見当たらないのは悲しい。
やっと、読売の3月20日の朝刊に矢祭町の日当制をきちんと分析した記事がでた。読売福島支局の小豆畑栄記者の署名記事だが、これほど学問的な知識に裏打ちされた客観的な記事はめったにない。

日当制は、気軽にだれでも立候補できるという面はメリットだが、矢祭町では思いの他、立候補者が増えなかった点はいささか気になる。