東京都武蔵村山市議 すどう ひろし(須藤博)のページ

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辺野古の美しい海を守りたい! 映画 「海にすわる」

2014-06-08 13:31:28 | 地方議会


5月31日、日野市で映画「標的の村」と「海にすわる」を見た。日野の市民団体による自主上映で、沖縄の反基地闘争を撮った、三上智恵監督による琉球朝日放送のドキュメンタリー映画で、こういうものは本土のテレビでは絶対に見られない。

「標的の村」は、沖縄本島の僻地である高江地区に、オスプレイのためのへり基地建設を、村人達が身を挺して阻止する運動を、住民の気持ちに寄り添って丹念に追った迫力のある映画だった。真っ黒に日焼けした村人たちは、平和でのどかな集落に危険なオスプレイは要らない、ふつうの生活を奪わないでくれと訴える。基地ゲートの前に自家用車を並べ、女性や子どもも闘いに加わり、叫び歌い、最後は機動隊にごぼう抜きにされていく様子は圧巻だった。なおタイトルの「標的」の意味は、ベトナム戦争時、高江地区の集落や村人が米軍の訓練の標的にされ、へり基地の建設でも標的になっているという意味らしい。

「海にすわる」は名護市民による辺野古の海を守る闘いを描いたドキュメンタリーで、同じ監督の作品だ。1996年、普天間基地の移設先として辺野古の名があがり、海でボーリング調査が予定されたため、住民が反対運動に立ち上がった。辺野古の海は、豊かな海産物に恵まれていて、沖縄戦の貴重な食料供給源であったこと、ジュゴンの数少ない生息地であることも美しく描写されている。住民の座り込みは600日に及び、ボーリングのやぐらが立ってから、反対運動の主戦場は湾内の海中に移った。男たちはやぐらを占拠し、漁民たちは船団を仕立ててデモ行進に加わり、長く苦しい闘いの末、ついにやぐらは撤去された。

かつて、村山富市首相(当時)は、6時間にわたって沖縄の声を聞いたが、沖縄の基地問題を考えるなら、まず沖縄の現状を知らねばならない。しかし申し訳ないことに、私自身は沖縄に行ったことがなく、沖縄の基地も辺野古の海も見たことがない。少しでも沖縄の実情を知ることができればと見に行った映画会だったが、沖縄県の人たちが、強く反発する心情は良くわかった。政治的な問題よりも、まずふつうの暮らしと貴重な自然を大事にしたいものだ。美しく豊かな辺野古の海を埋め立てたら2度と元には戻らないだろう。

悩ましいのは、国土防衛と住民の暮らしや環境保全との折り合いをどう付けるかという問題だ。憲法九条が交戦権を禁じているから、軍備も基地もいらないと言うのは簡単だが、日本の領土(尖閣列島)を力尽くでも奪取しようという国がある以上、「話し合いで平和を」と言っても広範な支持を得られないだろう。安保条約改定の頃は、社会党を中心に非武装中立が叫ばれたが、日本国民の多くは自民党を支持するという形で、事実上、非武装中立を選択枝から排除し、日本人はアメリカの傘の中で生きることを選択した。

日本は、アメリカに依存する形で国防を盤石にした訳だが、その代償としてアメリカの軍事基地を残すことになり、沖縄にいたっては、その75%を押しつけられてしまった。日本の防衛とアメリカの世界戦略の、いわば犠牲になっているのが沖縄県民であり、彼らの怒りは当然だ。ウチナンチュウの一人として心を傷めない訳にはいかない。しかし、中国の領土拡大志向は戦前の日本に負けず劣らず強固で、その問答無用の姿勢は侵略国家そのものだから、残念ながら、沖縄の軍事基地の地政学的な位置づけは重くなるばかりだ。

それにしても、普天間の代替え案が辺野古しかないというのは、いかにも残念すぎる。沖合の埋め立てで国際便を増やした羽田のように、辺野古よりもずっと先の沖合を埋め立てるとか、石垣島あたりの離島の海を埋め立てるというのは無理なのだろうか。カネが何倍もかかろうと、沖縄県民のふつうの暮らしと貴重な自然を最優先すべきだと、映画を見て強く思った。※2014/06/08