東京都武蔵村山市議 すどう ひろし(須藤博)のページ

真実の政治・住民本位の政治が私の信条です。

政権交代は、なぜ必要か

2008-07-13 23:06:49 | Weblog
民主党東京20区、つまり私の所属する民主党支部の総会があった。支部長は加藤公一代議士で、都議会議員が2人と、市議が9人所属しており、市民の党員とサポーターの皆さんによって支部は成り立っている。

前半が総会で後半が討論集会だったが、党員・サポーターの皆さんの熱心な意見と質問がたくさん出て、実りある集まりになった。中でも、後期高齢者医療制度では、市民の皆さんは怒り心頭といった感じで議論が沸騰した。

加藤公一代議士の説明で、今更ながら感心したのは、なぜ政権交代が必要かという点だ。ふだんの民主党では、自民党に本当の改革は無理だからとか、政権は長くやっていると腐敗するから政権交代が必要なのだと説かれている。

しかし、今日の加藤代議士の説明を聞いて、なるほどそういう面もあると思った。つまり、大統領制と違って日本のような議員内閣制では、政府イコール与党だから、与党からは、身内である政府への厳しい批判は出てこず、数で圧倒的に劣る野党の力では、役人の壁は突破できないというわけだ。

日本がまねたイギリスは、当然ながら議院内閣制だが、政権交代がけっこう規則的に起こっている。しかし、日本ではそれがないから、役人も政治家もだらけたり腐敗してくるという理屈だ。議院内閣制では、政権交代は、むしろなくてはならない当然の仕組みなのかもしれない。

因みに、野党が参議院で多数を占めるようになってから、役人の資料の出し方や説明の仕方が以前とはずいぶん違うそうだ。やはり、政権交代はどうしても必要だ。

政治家の「情と理」

2008-07-04 00:37:29 | Weblog
政界のご意見番の後藤田正晴氏(故人)は、深い見識と平和主義の持ち主で、私はもっとも尊敬する政治家のひとりだった。氏の著書に「情と理」があるが、私も政治経験5年目にして、政治の「情と理」をつくづく感じている。

私は、昔から人の悪口はなるべく言わないのを信条にしていたが、政治に携わるとそうも言っていられないのが悩みだ。議員は行政のチェック役だから、どうしても注文をつけたり批判する場面は避けて通れない。

会社員時代、私は仕事上の失敗も多々あったものだが、役人とて人の子。悪意のない、役人の多少のミスについては、議場で追求しても役人が反省と改善の姿勢を見せれば、それ以上の深追いはしない。いや、できない。

先輩の善家裕子議員は、このところ堰を切ったように市役所の痛いところを暴きまくって訴訟までやっている。しかし、これは役人に対する恨みでもなく、ましてや荒井市長に対する個人的怨恨でもなかろう。同じ議員控え室にいる私には、善家氏が議員活動の集大成として一種の使命感で突っ走っているらしいのが見て取れる。むしろ、荒井市長には、偲びがたいとの想いすら時々見せたりもする。今の善家議員は「情」よりも「理」で走っていて、何やら悲壮感さえ漂っている。

市長部局にも教育委員会にも、個人的には議場で追求などしたくない、よく知った幹部が何人もいる。だが、必要なことなら心で泣いてでも追求するのが議員たる者の役目だ。三月議会で、私は元教員のハレンチ行為について、犯行の場所が場所だけに教育委員会の管理責任を厳しく追求し、形の見える責任を取るべしとまで迫った。元校長を嘱託員に採用した当時の教育委員会の幹部はきれいさっぱり退職していて、着任して間もない責任者を追及するのは気の毒な限りだが、こればかりは「情」は切り捨てて「理」を取るしかない。組織のスジはきっちり通さないと、やがて幹が腐る。議員はご意見番だから、嫌われ役で結構だと思っている。