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護憲+グループ・ごまめのブログ

護憲+・現憲法を守るグループの一人して、今後の社会の状況を戦時を経験した一人として社会を見つめていきたいと思います。

弟との論争

2007年01月10日 12時51分55秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
<  このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。

   弟との論争
                 
 悲惨な目に遭い引揚げて来た弟はてっきり反戦だと思っていましたが違っていました。その時のやり取りを今回は書いてみます。

 先日昔の話をしたあと、大討論になってしまいました。

 弟は「今の日本政府は生温い。竹島でも尖閣でも、先日の中国原潜の領海通過、それに韓国漁船の逃亡、遠慮することは要らない。何の反応も示さない原潜は沈めてよい。もし日本の潜水艦が同じ行動を起こしていたら、攻撃を受けて沈められただろう。竹島は自衛隊で取りかえしたら良いのだ」と言うのです。

 私が「自分が戦争のため父母を亡くし、辛苦をたえて帰国したのに、相手に喧嘩を売るようなことは駄目なのではないか」と言うと、
「兄貴は知らないから、そのような生温いことが言えるのだ。俺たちのような悲惨な目に遭うと、ソ連や朝鮮や八路(共産)には憎しみしか残ってない。彼等を舐めていたらしまいに彼等の属国にされる」と言うのです。
 
私が「日本が昔、中国や朝鮮を土足で踏み込むようなことをしたから、その憎しみでお前達に仕返しをしたのだから、しかたがない面もあるのでは」と言うと、
「俺は物心付いてから朝鮮を見ているが、食料の配給も差別をしていたとは感じられない。学校も、朝鮮と日本人学校に分かれていたが、日本人学校に朝鮮人も入学できた。俺は先祖のやったことは見ていないし知らない。俺は彼等に悪いことは何にもしていない」と言うのです。

 同じ親から生まれても、成長時期に全く違った環境に育ったため、片や戦争反対、片や何処にも負けない軍隊を、と思想があい反する。

 中国や朝鮮でも、歴史教育で憎しみしか教えていないので半世紀以上経った実体験の無い者でも憎しみを持っています。弟のように惨めな体験した人間は、彼等以上に憎しみが残る感じで、これは修復しがたく、この世を去るまで憎しみを残したまま死んで行くと思うと、兄としては不憫でなりません。

 結局、暴力では憎しみしか残らないということを、私の家族の中でも実証ができた感じで、武力抗争の続く中東では、何時まで経っても暴力行為は治まらないでしょう。この地球から暴力行為を絶滅しなければ、憎しみの残った社会は延々と続くと私は思います。



葫蘆島からの引き上げ

2007年01月09日 17時45分02秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。

  葫蘆島からの引き上げ
            
私は実戦に参加する歳ではありませんから、当時の一学生としての戦争体験ですが、政治が介入した戦争というのは、個人としては何の利害もない人々が殺しあう行為です。それが普通の国民にどの様な影響を与えるのか、この簡単なことが、愚かな世界の指導者たちには判らないのでしょうか。

 先日、小学校六年生で三年生の妹と二人だけで返って来た弟が、散歩の途中立ち寄り、少し当時を語ってくれました。

 葫蘆島よりの引揚げ最終船に子供だけで乗船していたのは、弟たちのグループでは自分たちだけでした。日本上陸後は、子供だけで家族ではないからと、家族としての援護金も貰えず、孤児だからと施設の紹介もなく、今の拉致家族の方とは偉い違いだと笑っていました。
 又、前々ページの地図を見て頂いたら分かりますが.朝鮮・満州・ソ連の国境地帯から葫蘆島まで幼い二人がどの
様にして移動したのか不思議でなりません。
 帰って来た兄妹は、それは凄い格好で、栄養失調状態。
体中は疥癬であちこちから膿みが出ていました。その疥癬兄妹が抱き合って一日泣いて泪も涸れ、かえって気分転換ができたと、今考えればそう思います。

 ここで不思議なのは、兄妹で逃避中に妹を置いて行けという中国の家庭が多くあったという事実です。弟は、「中国の方は、なぜか子供、特に女の子を欲しがり、泣く子を殺すよりはと、中国の家庭に置いてきて、五升程の粟や雑穀と交換した家族も有った。」「栄養失調で死なすより、子供を助けることを優先すると、その選択になり、誤っていない」と言っていました。

「親としては究極の選択、このような親としての究極の体験をされている方に当時を語れと言うのは、惨すぎるし、語る人は皆無に近いのではないか」とも言っていました。

 それと、「ソ連兵にレイプされた女性は大勢居たが、抵抗して殺された女性もいた。その方達は現在では、もう可成りの年配になられていると思うが、このような経験は語るはずがない」とも言っていました。

 私たち兄妹が、戦後行政の世話にならず生活できたのは、子供でも労働力として雇ってくれた店があったためで、弟は小学校も行かず、敦賀の海産物問屋で手がきのとろろ昆布作り。私は京都の小さなお店で製粉や麺作りをしていましたが、辛い時代でした。

 後世の子供達には、私と同じ思いはさせたくはありません。今、紛争地で親を失くした子供たち、死んでいった子供たち。生きているのが幸福か、死んでしまった方が幸福か、私には判定はしかねます。

九条が有っても軍隊が有ります。憲法が改正され九条が無くなると、益々軍拡はエスカレートするでしょう。改憲は何とか阻止したいと思います。


北朝鮮の過去と今

2007年01月07日 07時12分47秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。


北朝鮮の過去と今
       

 先日テレビで北朝鮮のミサイル基地をやっていましたが、奇しくも私の住っていた所ばかり、今日入港した万景峰(マンギョンボン)号の母港は、私の生まれた元山(ウォンサン)で、風光明美な松濤園という松並み木の続いた遠浅の海岸線が有ります。

 テレビで朝鮮読みが判った吉州(キルジュ)はミサイル基地。私が小学校を卒業した恵山鎮は中国との国境で、かの白頭山のすそ野の町も山を掘ったミサイル基地に成っていると言っていました。

 昔は三十八度線以南には工業地帯は有りませんでした。しかし北朝鮮は大きな工業地帯が多数有り、南北朝鮮に分離された時には、北朝鮮は得をしたなと思ったものです。

 私は拉致問題で危惧していることがあります。北を余り刺激すると、拉致された家族が知らないうちに処理される恐れがあると思います。

もし拉致家族が生きていては自分達に都合の悪い事が有れば簡単に粛正して口を噤む。拉致家族の方々は平時感覚。北朝鮮は戦時感覚。その違いがそうさせる危険性を生むと思うのです。

思い出(2) 思い出(3)

2007年01月05日 09時15分58秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。

思い出(2)
           
 小さな町だから出征兵士を送るのは私たち小学生の務め。鎮守の森に出征兵士を迎え武運長久を祈るのである。

 当時の邑長さんは朝鮮の方で、高齢なので日本語の発音はもう一つ。最後に万歳三唱をするのに「デンノウヘイカ、パンチャーイ」と三唱したのは良いのだが、誰とも無く「デンノウヘイカ、パンチャーイ・パンチャーイ・パンチャーイ」と訛ったまま全員がやったので、どっと笑いが揚がった。

 学校へ帰り全員講堂に集められ、「邑長を馬鹿にするのも情けないが、お前たちのあの態度は不敬罪に当たる」と板の間に正座をさせられ、四時間程説教をされた。

思い出(3)
            
 先にも書いたが、両民族が混在して生活しているので、仲良くなると人間同士のつきあいで人種等関係がない。
 
夏休みの暑い時、吉州(キルジュ)で、朝鮮の新婚さんの初産が有った。産婆さんは出産が重なって来られないという。
 
妊婦さんの親類や近所の者が相談したあげくに、母のところへ助け舟を求めて来た。深夜に呼ばれて母は飛んで行った。朝まで経っても生まれない。自宅の直ぐ横で狭い家だから、励ましや叫び声が聞こえてくる。こんなに苦しんで、子供ってどこから生まれてくるのか気にもなる。弟と二人で出産のお宅の横から入り、指に唾を付け戸の張り紙に穴をあけ覗いたのである。そこで見た光景を想像して頂きたい。子供が頭から出てくるのを見て吃驚仰天、音を立てたので母親に気付かれてしまった。
 
助産婦さんの代理を無事終わって皆さんに喜んでもらったのだが、帰宅した母に首の根っこを掴まれ、お臀を嫌という程たたかれ、柱に縛られたのである。先日弟にこのことを聞くと、良く覚えていて、不謹慎だが大笑いした。

 戦前と大東亜戦争時代の日本政府は、朝鮮人に対しての扱いがいささか変わった感じがしている。戦中後半は、弾圧は感じられなくなった気がしている。当時の軍はもし朝鮮で暴動でもあれは戦えないと感じたからではないだろうかと思っている。これはあくまでも私の体感だ。

 民族同士でも、個人個人は人間としての付き合いができる。そこに行政という難しいものが入り込むと、人間社会は難しいものになり、それが戦争につながる。人類とは、民族とは。人間は、はたまた難しいほ乳類である。

 今後、戦前戦後のことを書くことはないかも分かりません。戦争のため父母や妹を亡くし、思い出すのが辛いことも有ります。
 もう一つ、戦争を知らない政治家や国民が増え、内閣が若くなるほど、昔の教訓が分からないというか知ろうとしない政治家が多くなったのが何か空しくなってきましたから。

思い出(1)

2007年01月02日 20時17分52秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。


  思い出(1)  

難しい話はこれくらいにして、心の和む話を書こう。
 
吉州のできごとである。隣は銀行の支店長をされている東大出の朝鮮の方だ。ここの家の娘さんが結婚されるということで、次席の父は、当たり前の話だが、朝鮮の仕来たりに合わしてお祝いを持参したらしい。ところが、結婚式の早朝、隣の美人の奥さんが、五人女性を従えて料理を持ってやってきた。

 部屋一杯に料理を並べ、料理の説明を始めたのである。見事な料理だが、我が家は父がニンニクが苦手で、朝鮮料理は、シンセンロ(ニンニクは入っていなく唐辛子も入ってない絶品の鍋だが、戦後テレビで一度だけ韓国宮廷料理の放送で紹介したのを聞いた。私は母に作り方を教わっているので若い時には作っていたが、手間とお金が掛かるので現在は紛い物で誤魔化している)という宮廷鍋料理しか食べなかったのだが。父も母も神妙に説明を聞いていた。

あるゼリー状料理に、「奥さんイゴキシニガイサソヨ(これは力が付きます)」と言っての説明は、サンチョネ(何だか判らない)と牛の玉タマちゃんを三日三晩煮込んだ物で、手間のかかった料理と話してお帰りになった。

 考えると牛の睾丸だから力が付くのは当たり前かも判らない。母が私達に「食べてごらん」と言っても子供とて説明を聞いているのだから食べられない。結局、銀行の小使いさんに(先に書いた朝鮮の娘を女中に雇ってと行って連れて来た同じ人物だが、父が転勤する度に付いて来たようだ)「隣の奥さんに悪いのだが、内緒にして」と、食べられない料理をもって帰ってもらうことになった。

ところが、この特別料理。「奥さんこれは戴くわけはいかない。私たち貧乏人には一生口にできない料理」だと言うのだ。「気にしないで持って帰って。ただ李(支店長)さんにはくれぐれも内緒にね。」
 
父を心酔している小使いさん。「おくさん絶対口には致しません」と平身低頭して帰ったが、翌日、「母ちゃんが、このような高価なものをただでは頂いたら罰が当たると言うので」と二円持って、どうぞ受け取ってくれとやって来た。母の説得でやっと帰っていったのだが、当時の二円とは大金で、今これを書きながら、食べてみたら良かったかなと思っている。

続・戦時体験者の証言  第三章

2006年12月09日 08時34分21秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。

     第三章

 戦後、何時からだかは知らないが、従軍慰安婦という言葉が出はじめた。従軍慰安婦という言葉は、当時聞いたことがない。

話は核心に触れます。

 私も前線の後方に遊郭が有ったのは知っている。確か私はこの人々をピーさんと読んでいた記憶がある。そこに働いていたのは日本人ばかりではなかったようだ。引揚げて帰った時二ヶ月程世話になった所で、軍人相手の遊郭で稼いでいた人から(この方は家計を助けるために自分から娼婦になったと言っていた。真偽のほどは判らないが、身売りだったら戦後直ぐには自宅へは戻れないはずである)「日本人だから将校ばかりが相手にした」という話を聞いて、さらに、朝鮮人の遊女が大勢いたのも聞いた。これはあくまでも聞いた話だが、本人からだから、百パーセント信用できなくても八十パーセントは本当だと思いう。

 先に書いたように、私の見た限りは人の売り買いだけで、強制連行されたのは見たことがない。朝鮮人の女衒が何か裏の組織や軍とつながりが有ったかは判らない。もしそのような組織が有ったならば、もっと奥深いところで庶民の目に付かないところでやっていると思う。

 戦地に行って極限状態になったら人間はどうなるか、私は経験が無いから語れない。ただ思ったままに書くと、いつ死ぬか判らない極限状態に陥ったら女性を抱きたくなるのかなと思う。これは私の気持ちで、他の男性はどうだか判らないが、この男性心理は女性にいくら説明しても判らないと思う。

 戦後、日本の婦女子を集め一時期占領軍の兵士を慰安するところを作ったと聞く。また戦後夜の女(パンパン)と言われた女性が居た。これ等の女性は生活のために春をひさいでいたのだから、終戦直後日本経済の状態が悪かった証拠にもなり、この女性の方々のために一般女性が救われた面もあると私は感じている。それは平和な沖縄で過去一万以上のレイプ事件が記録されている事でも判るのではないか。

 とに角、戦争とは、男とは、このようなものだと私は思う。私が終戦直後にこの問題を書いたとしたら、「絶対に強制連行はない」と書いただろう。だが落着いて世相をみると、強制連行も有ったのではないかと思うようになった。拉致家族のように、本人や家族の知らないうちに、連れ去られる事例も有るかも判らない。騙されて連れて行かれたものもいるのではないかと思う。だが私は売られて行った女性しか見ていなかったのも事実なのだ。

 戦争には虐殺は付きものだ。今正義といわれて各地で戦っているアメリカも、イラク側の情報を聞くと、私は現実を見ていないから断言はできないが、虐殺は有った感じがする。戦いは手段を選ばない。これは戦に付きもので、奇麗な戦いは絶対にあり得ない。だから戦争はしてはいけない、というのが私の持論なのだ。

 だから南京虐殺は有ったと思う。ただその規模と人数の問題だ。弟が、露天掘りの石炭炭坑の穴に七百名程の死亡した避難者が投げ込み埋められた、と言っていたが、七百名でも大変な数だったとも言っている。私は三十万人といわれる被害者の遺骨が見つかれば、百パーセント南京大虐殺は中国のいう通りだと思うが、私の中では「三対七」で疑心暗鬼状態だ。

事実は一つしか無い。真実も一つだ。ただそれを見る方向、角度、精神状態で全く違うものが見えると思う。歴史問題でも、どこの国家も都合の悪いことは隠ぺいする傾向がある。それが真実を有耶無耶にしていると私は思っている。

私も戦時中の真実いや歴史の真実が知りたい。ただ、人に聞いた事や書いた事を真実と思わないでほしいと思う。最近はこの類いの話が多いのを危惧している。

続・戦時体験者の証言  第一章 第二章

2006年12月08日 11時14分29秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。

 今日は12月8日、西暦では1941年66年前の出来事ですが、まだ昨日の様に覚えています。
 先日、NHKの山本五十六大将の真珠湾の前編を拝見しました。山本五十六が前線で敵戦闘機の待ち伏せに遭い戦死した時か終戦直後か忘れましたが、彼は開戦には反対していたようだとの噂を耳にした記憶があります。
 私が何時も言っていますが、日本は戦争を遂行できる国家ではないという根拠はこのテレビを見ると出てきます。
 先日の続きを二日続けて書き込みます。

     第一章

当時を思い出し昔使った事のある朝鮮語も入れますが、思い出しながら書くので、不適切な言葉が有ればお許し願いたい。

小学校一年生の頃、チョウスンサラミ(朝鮮人)のキュチュベ(娘さん)が私の家にやってきた。

 銀行の小使さん(朝鮮の方)に、知人の娘をねえや(年の若い女中や下女を親しんで呼んだ語)に雇ってもらえないか、という事で雇ったそうだ。師範学校に入学する前に、母が色々なことを話してくれたが、このねえやさんの家庭が貧困のための口減らし(家計の負担を軽くするために、子供を奉公に出したり養子にやったりして、養うべき家族の人数を減らすこと)に雇ってくれないかと頼まれたのだと言っていた。
 
色々話してくれたこの会話が、私と母との最後の会話になり、戦後、満州の荒野を逃避中に死んで行った母の顔を見ることができなくなった。お前も昔だったら元服だからと色々な昔話をしてくれたと思うのだが、母の五感では、この子とはもう合えないと感じていたのではないだろうか。母の心の中が知りたい。

 惨めな服装で、体中はシラミだらけ。雇うと決めた限りは、清潔にしてもらわなくてはと、お風呂を湧かし、着ていた服を脱がし、風呂に入れることから始まった。母の孤軍奮闘ぶりは今でも目に浮かぶ。当時も水道は有ったのだが、現在の様にガスなど便利な物は無く、五右衛門風呂。薪で風呂を沸かし、私も小さいながら薪を焚き口迄一本ずつ運んだのを覚えている。

 従姉妹にあたる年頃の娘が遊びに来ていて、母の頼みでシラミだらけの服を庭で燃やしている。着ている物はみすぼらしくボロボロだが、シラミを退治するには、当時はDDTの様な良く効く殺虫剤は無いので、燃やすか、煮詰めてから洗濯するしか方法がない。

 母は、ねえやと一緒に風呂に入り頭のシラミ退治に大童、毛虱退治は丸坊主にするのが一番だが、女の子だから可哀想だということで、洗髪して、すき櫛で時間をかけて髪を梳いてしたようだった。虱を完全駆除出来る迄一週間くらい掛かっていた。お風呂に入った後は、虱の卵が残っていると虱を貰うので、お風呂も大掃除。このような経験の無い方には見当もつかないだろう。

            

   第二章

 母は娘時代、関東大震災に遭ったそうで、東京の学校で習った洋裁や和裁・料理を、嫁入り前の娘さんに教えていたので、すぐに自分の古着を改造してこのキュチュベさんに着せていた。子供の私でも身綺麗にするとそのキュチュベさん別嬪で、母は手伝いに来た従姉妹に、「この子は可愛い娘だね」と話していたのを思い出す。キュチュベさんが自分の姿を鏡に映して笑った嬉しそうな顔を覚えている。

 私は、子供の頃腎盂炎で、体調が悪い時は良く留守番をさせられた。そのためよくこのキュチュベさんと二人で留守番していたが、「いごりちょごりがっこり、にちめんことうめんこ、ちゃっぱりしあんこ」と朝鮮の歌遊びをしてくれたのは、不思議にこの年になっても忘れていない。

 ところが半年程して、お正月にキュチュベさんを里帰りさせた後、一ヶ月程して父親が娘を連れに来たのだ。母が一言二言何か言っていたようだが、いやがる娘を強引に連れて帰ってしまった。その時キュチュベさんの目には涙が一杯たまっていた。
 
後年、母はこのことを話してくれ、小綺麗になったので高い値が付き、人買い(女衒)に売られたのだと言っていた。

 それから一年程して、やはり銀行の小使いさんに頭を下げて頼まれたと、キュチュベさんを連れてきたが、これも一年足らずで先のキュチュベさんと同じ運命を辿った。

 その後は、母は絶対に朝鮮人の娘さんは雇わないと決めたようだ。大切に預かり小奇麗になったら親が娘を売ってしまう。高く売るために手を貸すことはできないし、余りにも不憫だと、二度目のことが有ってからは、女中さんを雇うということは止めてしまった。

 当時は日本人でも貧困のため年季奉公に出され遊女になる女性も沢山いたと思う。父の転勤で行った都市には、置き屋、遊郭、所謂、色町は必ず有ったことが、その証明だろう。でないと遊郭にいた女性の説明はできない。当時は年季奉公の名の下に人身売買は正当化されている時代だったのだ。
 
戦後、昭和三十三年迄は遊郭があり、地元でも多少知られた方が遊郭の亭主をしていて法律が改正になると、遊女達を帰さなければならないが、一人一人条件が違うので困っていると話していた。
 
父は四つの小都市に転勤した。小都市だから日本人専門街はなく朝鮮の人々と混在なので、多くの朝鮮の人々との交流が有った。
 
 初めの転勤地、吉州である時、娘さんが男に手を引かれ泣きながら連れて行かれる光景をみた。その時の女衒は朝鮮人で家族や一族が「アイゴーアイゴー」と泣いている。そして親の手の中には一円札束が握られていた。
近年、慰安婦問題で強制連行が云われているが、私が見たこの光景は強制連行ではないと思う。
一、連れて行った人間が、同じ民族だということ。
二、親や一族がお金を手にして泣きながらでも送っていること。
三、私は、何度か犯罪を犯した者を逮捕し連れ去る時に、官憲に対して一族が物凄く抵抗をするのを見ているので、連行されるのであれば何らかの抵抗が有ると思うこと。
 
同じ様な光景は、恵山鎮でも見ている。

以下、明日

続・戦時体験者の証言

2006年12月02日 08時18分08秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。

続・戦時体験者の証言
 序文
 このような書き込みをご覧になる方は少数だと思う。これに反論される方は大勢居られるだろう。しかし見たものは見たものだから、体験記として書くことにした。。

 私は人に聞いたり本で見たことの論議は、中に幾つかのクッションがあるので、それが真実かどうか私には判らないから、何事も実体験以外は参考資料の一つです。

 また、これから書くことを皆さんがご覧になっても、文書の一つに過ぎませんから、私と同じ感情や感覚には伝わらないと思います。それが現実ではないでしょうか。

序文として、人身売買のことに触れておきます。物心が付いた頃から何となく人身売買があるというのは教えられなくても判っていました。それは、悪いことをした時に、母親に「○○は、ごまめ家の子供じゃない、人買いに売ってしまう」と泣きながら叱られたことが有り、子供心に、自分は母にとても悪いことをしたのだな、と思いました。何で叱られたのか思い出せませんが、今の時代に、母親が子供にこの様な叱り方をしたら問題になるかも判りませんね。

 当時、貧困な家庭の子供では、小学校を卒業すると年季奉公に行く友もいました。それは当たり前だったことで、昔は現在のように経済的に恵まれていませんでしたから、貧困な家庭では何の抵抗も無く取り入れられていたのだと思います。

 以前、知人と電話で人身売買のことを話した時「ごまめさん。江戸時代から人身売買でなく、あの当時の遊女は年季奉公ですよ」と言われるのを聞いて、昔、元山(北朝鮮・うぉんさん)で年季を開けて帰って来た娘さんがいたのを思い出し、この事を調べてみて、女衒【ぜげん】という言葉を思い出しました。よく考えてみますと時代劇には良く出てくる言葉だった。

以下のアドレスは人身売買の参考資料です。
http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/jinshin.html
内容の一部を抜粋します。

〔〔日本の人身売買〕日本でも古代から最近に至るまで、さまざまな形で人身売買が行われてきた。古代の奴隷については、『魏志(ギシ)』倭人伝(ワジンデン)の「生口(セイコウ)」や『古事記』『日本書紀』の「奴(ヌ)」の記述によって知ることができる。大化改新の律令(リツリヨウ)文書に、(ヌヒ)の制度に関する規定があり、当時稲千束で奴隷を売買した記録が残っている。このは、荘園(シヨウエン)時代には農奴に転化した。戦乱、飢饉(キキン)、重税に苦しんで逃亡奴隷が続出し、他方では婦女子を略取・誘拐して売り飛ばす人さらいや人買が横行した。また、人身を抵当にして金銭の貸借が行われて、返済できない場合、人質を奴隷化することも生じた。江戸時代になると、幕府は人身売買を禁じたが、年貢上納のための娘の身売りは認め、性奴隷である遊女奉公が広がった。また、前借金に縛られ人身の拘束を受けて労働や家事に従事する年季奉公制度が確立した。

【遊郭・遊×廓】
遊女屋の多く集まっている一定の区域。くるわ。遊里
人身の拘束を受けて労働や家事に従事する年季奉公制度が確立した。

 最後に年季奉公に付いて一言。私は、歯科技工士で、戦後間もなくは国家試験制度も無く、歯科技工士も殆ど居ない時代でしたから、歯科医院に教えを乞いにまいりますと、月謝はいらないが、年季奉公迄つとめろといわれ五年間は盆と正月のお小遣いだけで、年季明けは十三年後でした。

現在の若者はこの現実をどうとられるのか。ひょっとしたら私が年季奉公の最後の人間かもわからない。とに角、戦後六十年の社会の変わり方は大きすぎるということです。

 以下、次回から本文に入ります。

NHK「東京大空襲」を見て

2006年11月30日 05時22分10秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。

NHK「東京大空襲」を見て

 四年前に発見された戦災受難者名簿は、昭和二十年代に東京都が作ったものだと言っていました。敗戦の年の三月九日にマリアナ基地を発信した延べ三百機以上のB29が、日付けの変わった零時七分に爆撃を開始し、焼夷弾三十二万七千発を投下。

 映像の記録は殆ど無く、当時の経験者が絵に描いて残した物が多かったのだが、当時の経験者の話と絵を重ねて考えると、東京大空襲は「阪神大震災の真最中に、一升便の火炎瓶が三十二万七千発ぱらぱらと降って来た」というのが、戦争経験の無い人々にこの状態が伝わる表現かなと感じました。

 町内会長が大切に保管している巻き物には、町内の八十パーセントの犠牲者七百余名の名前が書かれていて、その中には一家全員のお名前もありました。「人間って焼けて死んでいく時はすごい格好だ」と当時の体験者が語られたのは、胸にぐさっと来ました。

 番組の中でアメリカは、戦時中の日本に対する空襲も広島・長崎の原爆も戦争に勝つためのこと、言うなれば、戦争においてはどの様な手段用いても勝てば良い、というような発言をしていました。イラク戦争も然りです。

 一方で、日本軍が中国で行った爆撃、その被害を中国政府は日本政府の責任として追求しています。

戦争とは何だろうか。私は日本の重慶爆撃もアメリカの爆撃も責めているのではありません。戦争は綺麗ごとでは勝てないのです。始まれば手段は選べないのであり、それが戦争なのです。そして、東京大空襲のように、どこの戦争でも犠牲になるのは普通の人々です。
 
 だから私は戦争と云う人類最大の犯罪に日本が加わるのは何としても止めなければならないと思います。石破前防衛庁長官が「軍隊が無ければ国民は守れない」と言っていたが、空から降ってくるものをどうして守れるのかと問いたい。軍隊の無い国家を作るのが国民を守ることではないでしょうか。
軍隊の無い国家を作るのが国民を守ることではないでしょうか。

戦時体験者の証言・5 機銃掃射  反戦歌「君死にたもふことなかれ」

2006年11月24日 09時47分57秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。
機銃掃射
               
 兄がグラマンの機銃掃射を受けた時、パイロットの顔が見えたと言っていました。ということは、撃っているパイロットも相手が女子供は認識できているということです。このパイロットの心境はどうなのでしょう。サファリ感覚で人殺しをしていたのでしょうか。国家が正義だといっていても、現実に戦う者は個人個人違いますから、これだけを考えても戦争は駄目です。

 内地で爆撃に遭われた方も、外地で苦労された方も各々の苦しみを背負っています。以前にも書きましたが、満州で父母に死なれた小六と小三の弟妹は、ソ連戦車に追われてもう駄目だと思ったそうです。幸い窪地が有り、そこに飛び込んで助かったと言っていました。その時あまりの恐怖でお漏らしをしたそうです。
イラクの子供達はどんな思いをしているのでしょう。


 「君死にたもふことなかれ」

詩吟のアドレスを教えて頂き聞きほれて、ふと気が付くと下のアドレスに到着。
http://www.geocities.jp/ouhou77sakura/sakura_roudoku/kimisinitamofukotonakare.html
「さくらの朗読の世界」を開くと「与謝野晶子の詩」に到着。

 私もこの詩は知っていますが、「君死にたもふことなかれ」だけで全文を心から聞いたのは初めではないだろうか。

 聞きながら母が兄を軍隊に送り出す時の肩を振るわしていた後ろ姿が目に浮かんできた。母も親として女として与謝野晶子と同じ気持ちだったのでしょうか。送るその眼に溜まった涙が悲しそう、淋しそう。

 違った視点からみると明治政府の偉大さ寛大さが別の意味で伝わってくる。今、日本に欲しいのはこの時代の政治家だろう。

 今、この詩を知っている若者は何人居るのだろうか。戦争、人を殺す行為はいかに人間として愚かなことかを語った詩です。ご存じの方も、もう一度御覧になってください。

最大、最高の反戦歌です。

戦時体験者の証言・4  言論の弾圧  加害者の証言 

2006年11月23日 11時11分33秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。

  言論の弾圧
 
子供の頃、二度程特高と憲兵に連れて行かれるのを見たが、人間とした扱いでなく動物以下で、恐かったのを思い出す。そしてその方は獄死したとも聞いた。

 考えてみると小泉純一郎は平成のヒトラーかも判らない。要注意人物だ。

【特別高等警察】
明治末期から第二次大戦の敗戦まで、思想犯罪取り締まりに当たった警察。大逆事件を契機として、明治四四年(一九一一)警視庁に特別高等課が設けられたのが最初で、昭和三年(一九二八)までには全国に設置され、国民の思想・言論・政治活動を弾圧した。同二〇年にGHQの指令により解体。特高。


加害者の証言
    

私の場合は、戦争による被害者的立場ですから、これまでの話を語れました。それでも、弟妹は語るのをいやがります。終戦直後には、加害者とならざるを得なかった話を、復員された方から伺ったことがあります。

白兵戦でしたら、やらなければ自分の死を意味するので、無我夢中で気が付いたら終わっていたが、抵抗をしない者を初めて銃剣で刺し殺すのは物凄く抵抗が有り躊躇した。しかし上官の命令は絶対背くことはできず、もし背けば一番危険な最前線にやられるので致し方なく命令に従った。だが突き刺す瞬間は目を瞑っていたという話でした。
 
そして最後に「修羅場をくぐり体験をつんでくると、それが何ともなくなる」と言って、一緒に入隊して生き残ったのは三人だけとも話されました。
 
 軍の命令といえども、加害者的立場の方が当時を語るというのはとても難しいことです。平和の現世では、その心の痛みを語ることはできないのではないでしょうか。書けたにしても勇気以上の精神力が必要ではないでしょうか。私がその人の立場に立って考えると、それが社会においてどう取られるか、今の時代では家族のことを思うと難しく感じています。

 終戦直後と違い、戦争も知らない人々が増えた中で、このようなことを書くと世間がどの様な反応を起こすでしょうか。当時の体験者が少なくなったことと、平成の時代に加害者的発言をされるのは躊躇されると私は思うのです。

 従軍慰安婦の問題でも、私が見たことを書いたことがあります。しかしバッシングをうけました。見た現実を語ってもバッシングを受けるのですから。このことは書くまいと決めています。

 戦争というものは極限状態の人間のぶつかり合いです。正常な精神状態ではないのです。戦争は、勝っても負けても人類最大の罪悪というか犯罪だと私は思っていますから、無抵抗主義者なってしまったのです。

 私は不器用人間ですから多くのことに手をつけられません。これからは護憲と戦争反対だけの行動だけに絞りたいです。

戦時体験者の証言・3

2006年11月22日 08時54分48秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。

 第四章
 弟に「戦時中、日本軍が助けてくれたか」と質問すると、答えはNOでした。かえって恐かったと言っていました。
 以下は戦時中の沖縄戦記述ホームページです。

小学校教科書から「住民虐殺」の記述消える
http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/2004/2004_06/040612a.html
(現在はこのページはないようです)
教科書に沖縄戦記述を/高嶋さんらグループが訴え
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200406131300.html#no_11
(現在はこのページはないようです)
日本軍による沖縄住民虐殺
http://kyoto-getto.hp.infoseek.co.jp/okinawa/war/war2/war2f.html

 今、政府は日本に軍隊が有れば国民を守れると国民に宣伝して法の改正を目論んでいます。

 弟のように実際に経験した者には、国家のいう「軍隊が有れば国民を守れる」は通用しません。満州では戦った軍隊も有れば、肩章を外して民間に成り済ましてさっさと逃げた軍人も有り、どうも戦った兵士がシベリアに抑留されたようです。

 弟は、逃避中に赤ん坊が泣くと敵に居場所が判るから黙らせろ、という状況を経験しています。つまり邪魔者は殺せということで、戦時中でしたらそれが当たり前のことなのです。その経験のない戦後生まれの国民は、戦争というものが、どのようなものかが判っていないのが、私には歯痒いのです。

 昨日の深夜から色々思いだしながら書いてみました。何度も書きます。戦争という愚かな行為は絶対に地球上から無くなさねばと思います。

 私は人間の特性として、何事も損得で考える人類では、戦争は無くならないと感じるようになりました。SFのようですが、もし宇宙外より侵入者が有れば地球の人類も利害が一致するから纏るでしょう。

 世界で戦争が無くならず、資源の浪費が続くならば、その内に乾いた地球に変ぼうするまで気付かない。人類は其れ程愚かなのでしょうか。

戦時体験者の証言・2

2006年11月21日 08時46分28秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。
    第三章
 第一章に書いた級友のこと。私は普段自分の経験しか書かないことにしています。これは聞いた話ですから書くのはよそうと思いましたが、戦後六十年経ったのと、その場にいた多くの級友が同じことを言っていたので、躊躇しましたが、書くことにしました。これは戦後初めて発表することです。 

 敗戦後、ソ連が駐留して来たある国境の田舎町のできごと。その地区の日本人は警察署に集結していたそうです。
 
 そこに駐留して来たソ連軍の将校から、「女性を集めて、ソ連兵の慰安に差し出せ」と言われ、署長が通訳を通じてその将校と激論。「遊女でもない家庭の奥さんを出すわけにはいかない」と毅然として断った途端、眉間を打ち抜かれ即死されたそうで、そのために、女性の性に対しての犠牲は回避できたそうです。

 当時、普通なら強制的に連れ出されるのだが、なぜ無事だったのか判らないと級友達は話していましたが、一つの理由は、日本軍の抵抗か無いというか、軍隊はどこかへ行って居なかったため、ソ連兵には犠牲者が無かったこと。そしてソ連の将校に人の心が残っていたためかと思っています。

 しかし、父を目の前で射殺されて友人の精神的ショックはいかばかりか、友人は一時失語症になったそうで、察するに余りあります。

 男女同権平等は当たり前、しかし男女は同質ではない。男に子供を産めといってもできない相談。又、女一人でも妊娠はしない。戦争に於いても能動的な男性は、先に書いた元復員兵士が語った、「命をかけた時の一時の休みは女を抱くことしか考えて居なかった」という話は、平常心でない戦争行為の時の精神状態として、異常というより当たり前ではないでしようか。

 この問題だけでも、殺戮を省いた戦争でも庶民に与える状況は、悲惨なものだということを書いてみたつもりです。



                           以下次回

戦時体験者の証言・1

2006年11月20日 09時17分19秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。

  第一章
 戦争体験者の証言の様なスレッドは難しいのでしょうか。戦後半世紀以上経つと前線で戦を体験した方々は最低七十八~九才ですから、平均寿命から見ると、日本人男性の平均寿命以上になられていますので、天寿を全うされた方が多くなり、証言する人々か少なくなったのは間違いないと思います。

 私の弟も戦中戦後の事はあまり語りたくないようですし、この後に書く級友も、体験した刺激が強すぎて当時のことは絶対話しません。

 先日あるホームページで岐阜県飛騨市の尾下大造さん(八十二)の手記を読みましたが、「軍人恩給は当時の兵隊にその時軍隊のしたことを喋らせない口止め料だ」と受給を拒み続けていらっしゃる尾下さんが、手記の最後に「わしのようなもんがようけおってもいいはずなのになぜ、誰もしゃべらん」と書かれていたのが物凄く印象的でした。

 私の戦争拒否症候群は、普通に生活して家族のために一生懸命に働いてごく普通に過ごしている人々が犠牲になることにあります。

 戦後、復員してきて同じ職場で働いていた方が、命をかけた時の一時の休みは、女を抱くことしか考えて居なかったと話していたのを思い出しました。私も男の一人だから究極の状態では同じことを考えていたと思うのです。これは、この世に女性が居て男性がおる限り、この問題は永遠の課題だろうと思います。

 だから、この男女の問題をあえて書いてみようと思います。この性の問題でも何時も平常心で居られる環境は必要ではないだろうか。この問題だけでも戦争と云う殺人ゲームを地球から抹殺しなければならないと感じます。
 

  第二章
「軍隊と性」ついて、二〇〇四年十二月二十七日付け朝日新聞「駐ケニア英兵、住民に性暴力 三十数年間で二千人被害か」より。

 「ケニアに駐留する英軍兵士が長年にわたり、現地住民に性的暴行を加えてきたとする問題が、英国の弁護士やケニアの非政府組織(NGO)の調査で明らかになってきた。(一九六〇年代から二〇〇一年の)三十数年間に最大二千人が被害に遭ったとみられ、うち約六五〇人が英政府に損害賠償を求めている。過去に被害を届けた人もいたが、地元警察や英軍に黙殺され、表面化しなかった。英軍も独自に捜査を進めている。(略)暴行を受けた女性が、加害者の子を出産したケースも多いという。」
 
記事の序文には、こう書かれていました。

 「沖縄も駐留米兵によるレイプ問題が、しばしば起こっています。駐ケニア英兵も沖縄も、平時で、砲弾も飛び交わない所でも性の問題が起こるのですから、戦時だったら戦勝国であっても有って当たり前で、ただ勝った国の不祥事は表に出にくいということだろうと思います。」

                         以下次回

昭和十六年十二月八日の開戦考

2006年11月16日 11時07分31秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 二年ほど前に護憲+グループの「戦時を語る」の中に書いたものを編集し直し書き込みます。

 戦時を語ると言っても現代人には、面白くない話だと思いますが気が向いたら見て下さい。書き貯めたのを少しずつ掲載します。

また12月8日が来る。
 何時ものように朝五時半に起きて、パソコンを開くとカレンダーは十二月八日を指していました。あっ今日は大東亞戦争の始まった日(昭和十六年十二月八日)だと、改めてこの半世紀前を振り返って見ました。

 遠い記憶の中では、開戦の報道を家で聞いたのか、学校で聞いたのかは思い出せません。ただ家では並4音声のハッキリしないラジオが軍艦マーチを奏で「大本営発表」を頻繁にながしていたこと。「太平洋上で米英両国と戦闘状態に入れり」位しか頭の中に残ってなく、海軍航空隊による真珠湾攻撃、その後特殊潜航艇の活躍を聞くにつれ、少年時代の私が胸の高まったのは事実でした。

 「鬼畜米兵」「進め一億火の玉だ」「欲しがりません勝つまでは」など、当時の国民は何の疑念もなく戦争に突入。日本は神風が守ってくれるとの先生の言葉を信用し、絶対勝てるのだとの信念で、耐乏生活も我慢をしていたと思います。

 教育がそうさせたのか、当時の私は、国家のために命を陛下に捧げるのは当たり前だ、と思っていました。それが、昭和十九年、兄が戦闘機乗りになるために、駅に見送りに行った後の母の苦悩を垣間みると、大東亞共栄圏を謳って戦っている日本中で、多くの銃後の家族が、親兄妹が、戦いのために引き裂かれているのだな、と思うようになりました。しかし、それでもこの戦さには勝たねばならない、と思ったのも事実です。

 戦後、色々言われる方が居られますが、当時国の政策に反対すればどうなっているかは、私の年代以上の方はお判りと思います。戦争の良し悪しはともかく、国の方針に従うのが日本国民なのです。ですから軍隊を作るような誤った政策は拒否しなくてはなりません。

 皆さんはどう思われているか分りませんが、現在の北朝鮮の事を見ていると、当時の日本の縮図を見ている感じがして、北朝鮮があの当時の日本と同じ過ちをしてほしくないなと、彼の地から引き揚げて来た私は思っています。
昭和二十年八月十五日終戦の詔勅を京城師範の講堂で聞いた時、ただ茫然として居たのは事実です。今考えても、八月十五日のことは全く思い出せません。戦後、級友の集まりでこのことを聞いても、皆さん私と同じ状態のようで、ただ「腹が減ったことだけは憶えている」でした。

 今は飽食の時代。戦争のため国家に命を差し出すこともない豊かな時代になると、人心も豊かになると思っていましたか、現実は全く逆で、その乱れは目を被うばかりの時代になってしまいました。

 その原因については、政治家や識者が色々言っていますが、昭和十六年十二月八日の開戦と、昭和二十年八月十五日の終戦の日からの誤った民主主義の教育で、その狂いは始まったと、私は認識しています。私は戦後の教育は全く受けていません。戦後まだ有った徒弟制度の中で育った人間が見ると、そう感じるのです。
 
明治より、列国に負けないようにと背伸びして、少しづつ狂ってきた日本が、大きく狂いを生じはじめた昭和十六年十二月八日。同じ十六年十二月八日。昭和と平成の違いで、昭和十六年十二月八日が昭和の狂いの始まりですから、平成十六年十二月八日は狂った日本を元の道に戻す、平成の戻り道の年にしたいものです。

 これが私の昭和十六年十二月八日の開戦記念考です。
             

 筆者のビカビカの一年生・元山(ウォンサン)・感興南道元山府泉町小学校にて父が写す