もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

邪馬台国考

2021年01月04日 | 歴史

 テレビ三昧の年末年始、邪馬台国サミットを観た。

 番組では九州説・近畿説の主張に、三国志(魏志倭人伝)研究者の考察が重なったものであった。
 自分はもともと九州説を信奉しており吉野ヶ里遺跡の発掘で大いに意気が上がったものの、奈良の纏向遺跡の環濠・巨大建造物の発見で些か意気消沈していたが、九州・近畿両説研究者の主張を聴けば目から鱗の連続であった。番組の締めくくりは「現時点では判らない。解らないからこそ面白い」であったので、今後も論争は続いて結論はタイムマシンによる時空旅行が実現するまで待つしかないように思った。番組中「成程そうなのか」と思ったのは、三国志研究者が「魏志倭人伝は倭国の紹介が目的ではなく、三国鼎立状態の「魏」が、対立する「蜀」の東方にも強国があって魏倭が友好関係にあることを強調して「蜀」を牽制する意図で書かれたもの」との意見であった。また、当時の日本列島には、大和を中心とした日本国と九州を勢力下に置く倭国という二つの国があったのではとも述べられていた。
 そもそも、邪馬台国や卑弥呼の存在は魏志倭人伝にしか記されていなかったが「金印」の発見で記述の信憑性が高まったものの、邪馬台国の位置に関する「水行〇日&陸行〇日」の謎解きから多くの仮説が立てられたものである。このことについて三国志研究者は、当時の倭国には里程が無く「距離は(踏破するための)時間」で表わされていたために邪馬台国の位置についての記述は正確なものでは無く、加えて前述した「蜀」牽制のためには、倭国は蜀の北東方よりも東方に位置する方が有効であるために脚色した可能性が有ると述べられていた。

 自分が九州説を採る理由は、記紀神話に卑弥呼や邪馬台国の痕跡が無く、天照大御神の五世孫である神武天皇が日向から大和への東征を行い畝傍橿原宮に朝廷を開いたとすることである。神武天皇は何故に肥沃な九州を棄てなければならなかったのかといえば、邪馬台国(九州王朝)内の勢力争いに敗れた神武天皇は九州を脱出して東に活路を求めることしか採るべき方策が無かったのではと考えている。幸いにして纏向遺跡に代表される勢力を駆逐して成立した大和王朝の末孫は、記紀編纂に際して王朝の汚点である邪馬台国(九州王朝)の痕跡を消し去ったのではと考えている。
 「まぼろしの邪馬台国」を著わした宮崎康平氏のような情熱・知識欲・行動力とは無縁の自分であるので、多分にフィクションを弄ぶ程度の主張であるが、いかがであろうか。
 最後に、本考察は天皇制や皇統の正当性を云々するものでは無いことをお断りさせて頂く。幾たびの騒乱にあっても、皇統の存在が損なわれなかったのは民族の知恵であり文化であり、皇祖皇宗の考古学的考察とは次元を異にすると考えるからである。