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もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

硫黄島戦没者の日米合同慰霊祭に思う

2025年03月30日 | 歴史
 硫黄島で行われた戦没者の日米合同慰霊祭に石破総理とヘグセス国防長官が参列した。
 同慰霊祭への総理参列は、平成25年の安倍氏以来とされており、石破総理にあっては断念した戦後80年談話に代わる「戦争検証」の一環ともされている。
 伝えられるところでは、石破総理の「戦争検証」の骨子は、開戦に至るシビリアンコントロールが機能しなかったことの検証であるらしい。
 帝国憲法に限らず、立憲君主国における開戦の大権は内閣の輔弼を得た国家元首が担うのが原則であり、そこには今様のシビリアンコントロールの概念は希薄であると考えている。このことは、東京裁判において連合国が広田弘毅氏を訴追し文官として唯一死刑を宣告したことにも示されているように思う。
 現在では、開戦に至るシビリアンコントロールが機能しなかった最大の理由は、統帥権の独立を主張した軍部の独走・暴走とするのが定説化しているが、自分が思う最大の理由は「軍部を後押しした国民」と思っている。
 鬼畜米英と戦意を煽り航空機を献納した新聞社や公務員、大政翼賛会に多数を与えた有権者、優秀な生徒に帝大よりも陸士・海兵を勧めた教師、非戦論者を国賊・非国民と詰った隣組・在郷軍人会・愛国婦人の会、数え上げればきりがないほどの開戦・戦争協力者が存在し、世論調査など無かった時代には、これらの全てが「開戦支持」を示すものと見られたであろう。
 戦後、これらの「内心忸怩たる思いを抱く大衆」が虚脱状態に陥った中、彼等に対してGHQは強力な免罪符を売り出した。それは、「戦争責任は一握りの軍部にあって大衆に責任はない」というA級戦犯の指定であった。この免罪符に知識人・言論人は狂喜し、非戦論者・軍部悪人論者は雨後の筍もかくやと思われる程現れた。彼らが一片の自戒・自責・正義の念を持っていれば、講和条約発効を機として東京裁判否定・受刑者の復権が行なわれたであろうが、そうはならなかった。終戦内閣の東久邇宮総理が施政方針演説で述べた「一億総懺悔」は、戦争責任は等しく全国民が負うべきとした正論であったが、その理念が実を結ぶことも無かった。東京裁判でのパール判事やレーリンク判事は、「狂気が収まった時、日本人は自らの手で裁判の誤りを正す」ことを期待したが、そうもならなかった。
 ドイツと日本で大きく違うのは、ドイツでは指導者にナチを選んだこと、ユダヤ人の狩り出しに多くの国民が協力したこと、などから国民すべてが責を負うとしているのに対して、日本では現在でもGHQの免罪符を無定見に額に貼って「戦争は一部軍人の暴走」と無定見に信じている、いや信じているフリをしている人が多い。
 自虐史観どっぷりの石破総理の「戦争検証」が発出されないことを祈っているが、もし発出するとしても自虐疾患に満ちたものでは無く、真に学術的な考察に基づくものであって欲しいと願っているが、所詮無理だろう。

橘大隊長奮戦記

2025年01月28日 | 歴史
 小学生の頃、図書室の隅で橘大隊長奮戦記という冊子を読んだ記憶がある。長じて静岡で勤務していた時に、陸自板妻駐屯地で橘大隊長の銅像を見かけた。昨日のブログ作成の過程で橘神社の存在を知るとともに、名前が「周太」であることを初めて知った。
 小学生以来70年の時を経てであるが、橘周太氏とは?とWikipediaで調べてみた。曰く《慶応元(1865)年現在の雲仙市生まれ、明治20年陸軍士官学校卒業、東宮武官、歩兵第36連隊中隊長、名古屋陸軍地方幼年学校長などを歴任し、明治37(1904)年2月9日の日露戦争開戦にあたっては新設の第2軍管理部長、同年8月11日に歩兵第34連隊第1大隊長に転出、8月31日の遼陽の戦いで戦死し同日付で陸軍歩兵中佐に特進、勲四等旭日小綬章及び功四級金鵄勲章を賜わり、以後軍神として尊崇される。官位は陸軍歩兵中佐正六位勲四等功四級》と書かれていた。
 戦死に至る奮戦の詳細は未だ不明ながら、戦死が大隊長拝命後わずか20日であることを思えば、指揮下の各中隊長の能力や大隊の戦闘力も十分に把握できていない状況下で金鵄勲章を賜るほどの奮戦指揮を成し遂げられたことに大いなる尊敬を奉げるものである。
 補給艦乗艦中に雲仙普賢岳噴火対応の待機を命じられた。事前調査として橘湾を事前偵察したが、この橘湾は元々「千々石灘・千々石湾」と呼ばれていたものを、1919(大正8)年の橘中佐銅像建立時に橘湾と改称するよう申請し、海図作成の海軍水路部が正式に橘湾と記載するようになったものであることも知った。
 さらにWikipediaには、《橘中佐は漢詩を良くし名古屋陸軍幼年学校校長時代は自ら教壇に立って漢文を弁ずることもある教育熱心な軍人で》とも書かれ、人物紹介欄には陸軍軍人・漢学者と紹介されるほど文武両道に秀でた人物であったらしく思える。
 橘大隊の奮戦の詳細以外は小学生以来の疑問の一部を理解し得たが、銅像拝観・橘湾航海を思えば、橘中佐は自分の経歴とも幾分に交差していることを知った1日であった。

アメリカ湾改称に伴って

2025年01月27日 | 歴史
 トランプ大統領は就任後、矢継ぎ早の大統領令を発出している。1期目の就任直後には6本の大統領令に署名したと記憶しているが、今期は「矢継ぎ早」と報じられるのみで本数の詳細までは分からない。
 その中の一つに、メキシコ湾をアメリカ湾に改称、マッキンリー山の名称を復活させるがある。
 メキシコ湾の改称については、世界的な認知が必要であることから韓国の日本海⇒東海と同様に定着することは無いように思えるが、マッキンリー山の復活については国内問題であり地図業者も喜んでいるのではないだろうか。
 マッキンリーの名称は第25代大統領ウイリアム・マッキンリーに因んでいるが、かねてからトランプ氏はマッキンリー氏の保護主義的な政策とキューバ、プエルトリコ、フィリピン、グアムの支配権を獲得した実績を尊敬するとしていた。(カナダ、・グリーンランド取得のお手本?)
 アメリカに限らず、自国の歴史上の偉人を称えるために地名等を変更するケースは多いが、後世の評価の変化に伴っての何等かの紆余曲折を辿るケースも多いように見受けられる。
 アメリカの10年後を辿るとされる日本ではどうだろうかと考えたが、思いつくのは軍人を祀る神社の運命であるので、ネットで調べてみると、明治聖徳記念学会紀要がヒットした。同誌を引用すると
〇大村神社(大村益次郎):山口市
〇南洲神社(西郷隆盛):鹿児島市、酒田市、都城市、沖永良部島
〇西郷神社(西郷従道):大田原市
〇乃木神社(乃木希典):東京赤坂、函館市、那須市、京都伏見、下関市、善通寺市
〇児玉神社(児玉源太郎):藤沢市、周南市
〇永山神社(永山武四郎):旭川市
〇橘神社(橘周太):雲仙市
〇巨杉神社(山下奉文):高知県大豊町
〇東郷神社(東郷平八郎):東京渋谷区、飯能市、福津市
〇広瀬神社(広瀬武夫):竹田市
(注:上記は、神社庁の資料に依るとされ、これ以外にも個人・有志が建立したものが全国に多数あると付記されている)
 これほどの神社が、大東亜戦争終結後のGHQ占領政策と軍人否定の風潮にも拘わらずに存在しているのは、鬼籍に入って神となった魂に罪は無いという日本人独特の”日本教”に基づくものかとも考えるが、占領時の武装解除に当って、戦艦三笠保存をおそるおそるGHQに打診した際、「保存は当然じゃないか」と云われた故事を思えば、軍人の顕彰に対するアメリカ人の一般的な考えをも知ることができるようにも思える。なお、列挙した神社の中には昭和40年代に建立されたものもあって、日本人の精神構造の深淵を窺い知れる様にも思える。
 アメリカ湾への改称騒動、日本の軍人顕彰神社への影響や如何に。

銀時計考

2025年01月11日 | 歴史
 先日は、恩賜の煙草について書いた。本日は恩賜の銀時計に関する都市伝説ついてである。
 新兵教育を修了して最初に配属されたのは、米軍貸与のPF(パトロール・フリゲート1400㌧)であった。同じパートのS2曹は海軍特別年少兵(特年兵)の出身で特攻艇”震洋”訓練生で終戦を迎えられた猛者であった。そのS2曹から聞かされた都市伝説である。
 海軍の兵曹にも成績優秀で恩賜の銀時計を所持している人がおり、もし彼が帰艦時刻遅延(遅刻)を起こしても、舷門で当直士官に帰艦時刻前を指している銀時計を示せば、当直士官は時計に敬礼して帰艦時刻前であると認めたそうである。
添田唖然坊の「ラッパ節」に、
  今なる時計は八時半
  あれに遅れりゃ重営倉
  今度の休みがないじゃなし
  離せ軍刀に錆がつく トコトットット と詠われているように、帰艦時刻遅延(遅刻)は軽くて軽営倉、悪質と捉えられれば重営倉が相場であった。このことから、銀時計の威力たるや相当なものであったように思われる。
 兵曹の帰艦時刻遅延ー銀時計効果を都市伝説としたのは、調べてみても恩賜の銀時計は、陸海軍大学、陸軍士官学校、海軍兵学校(短剣)、帝国大学、学習院大学の優等者に授与されたものらしく兵曹に与えられた例が見当たらないからである。戦功抜群の金鵄勲章の副賞としては有ったのかもしれないが・・・。
 営倉の懲罰は、軍法会議には至らぬ非行に対して指揮官が独自に与えることができるもので、軽営倉は、兵食と寝具が与えられて期間は1-14日まで、重営倉は、1日6合の麦飯と水だけでおかずは固形塩のみ、寝具も無く極めて重い懲罰であるが健康を考慮して3日を限度とされていた。なお、入倉中の俸給は、軽営倉が本来の5割、重営倉が本来の2割に削減されたようである。
 営倉は、概ね部隊の中に設けられ、海軍艦艇では船倉部の暗所にあったとされている。
 なお、作家の三島由紀夫氏が学習院大学終了時に恩賜の銀時計を授与されたのは、有名な逸話である。

開戦の日

2024年12月08日 | 歴史

 開戦の日に当たって、大東亜戦争の呼称についての私見を記すこととした。

 云うまでもないことであるが、『大東亜戦争』の呼称は、真珠港(湾ではない)攻撃から4日後の1941年(昭和16)年12月12日に閣議決定したもので、日本の戦略目標を端的に示したものと思っている。
 しかしながら、戦後の占領時にGHQが「大東亜戦争」の呼称を禁止して「太平洋戦争」と呼ぶことを強制するとともにメディアに対して検閲を行ったことから、次第に太平洋戦争という実態の伴わない呼称が定着した。GHQの企図するところは、日本の軍国主義潰滅以上に戦場を太平洋限定と匂わせる呼称として「極東軍事裁判(東京裁判)」において主導権を握り、かつ以後の世界戦略として共産主義ソ連と向背定まらぬ内戦中の中華民国の発言力低下を企図したものと考えている。
 1952(昭和27)年のサンフランシスコ講和条約で独立を果たし禁止措置の効力は無くなったものの、独立国家としては屈辱的な置き土産である憲法・東京裁判判決とともに大東亜戦争の呼称も正されることは無かった。GHQの強制・検閲で筆を捻じ曲げられたメディア・識者も、7年間で飼い馴らされたのであろうか、筆を戻す以上に現在に至るまでむしろ嬉々として置き土産を神託化さえしている有様に思える。
 東洋学園大学の櫻田教授は武漢ウィルスに対して《呼称は使い続けることが大事で、改称は物事の本質を風化させる》と述べておられるが、猛威を振るった中国コロナも発生から5年が経過した今、その発生源が中国・武漢であることは忘れ去られようとしている。
 大東亜戦争の呼称も同様で、戦争目的に対しての賛否は別にして、正しい歴史認識のためにも大東亜戦争の呼称は使用し続けなければならないように思う。
 20年後、ビルマの竪琴を読んだ子供から質問「太平洋で戦争していたのに、何故水島上等兵はビルマにいたの?」

 些か旧聞に属するが、陸上自衛隊32普通科連隊がSNSに「大東亜戦争」と書いて批判を浴び、防衛省・陸幕の指導で削除させられたことがあった。
 現在の政府見解では、「大東亜戦争」・「太平洋戦争」とともに定義に関する法令上の根拠はないとしており、上記の事案に対しても官房長官が「大東亜戦争という用語は現在一般に政府として公文書で使用しなくなっている。いかなる用語を使用するかは文脈にもよるもので、一概にお答えすることは困難」と述べているところから、表現の自由と捉えられるべき程度と思えるので、防衛省・陸幕・批判メディアともに過剰反応したものと捉えたい。
 そういえば、三原じゅん子議員の「八紘一宇」発言に過剰すぎるほど反応して失笑を買った議員もいたように記憶している。