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もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

老衰の復活

2024年03月07日 | 憲法

 メディアが伝える訃報で、再び”老衰”という言葉に接する機会が増えたように思う。

 昭和末期までは確たる死因が特定できない高齢者の訃報は”老衰”とされていたが、平成以降は”多臓器不全”と報じられていたように思う。
 両者の字面を自分としては、”多臓器不全”はボロボロの体でありながらも未練と執着を捨てきれない末期と感じるが、”老衰”からは「高僧の入定もかくや」の生き切った穏やか最期のように感じる。
 閑話休題
 人体・生命の不思議を最先端の研究者が披露しコメンテータが話を広げるNHKBSの「ヒューマニエンス」を良く視聴する。先日のテーマは”老衰”で、臨床研究者が高齢者施設生活者のデータを元に、興味ある仮説・意見を述べていた。研究者によると、施設から提供される1200kCal/日の食事を摂り続けても、個人差はあるものの多くの場合死の略5年前から体重(BMI)は減少し始めるそうである。
 体重変化と死期の関係について研究者は、科学的には立証されていないものの一つの事実・データとして更に研究を進めると慎重であったが、コメンテータは、脳・臓器の何処からか「もう、栄養は要らない」との信号が出されている可能性があるのでは?と応じ自分も同感である。

 一世を風靡した感のある”多臓器不全”を押しのけて”老衰”が復活した背景には、このような医学上の変化があったのだろうか、それとも、字面に対して自分と同様に反応する遺族や関係者の要求があったのだろうかは不明であるが、訃報において「死因」は大して意味を持たないことをメディアが漸くに理解した所為ではないだろうか。肉親以外の訃報に接して自分は、船村徹氏では「なみだ船」「男の友情」を、八代亜紀さんからは「なみだ恋」を、と反射的にその人の最も華やかだった場面を思い死因は読み飛ばすのが常である。

 自分自身、食欲も細り食事を作る妻の労力に報いるべく半ば義務的に完食しているが、なにやら体重が落ちてきた気配濃厚な昨今である。入定とはいかないまでも、老衰死との表現が相応しい死へのソフトランディングを目指して生きて行こう。


演義と正史

2023年09月24日 | 憲法

 尊敬する友人が、中国人と三国志に関する会話で「それは演義か正史か」と問われて刮目したと話していた。

 自分の三国時代の知識は三国志演義、それも吉川英二、柴田錬三郎、北方謙三各氏が意訳・再構成した三国志で、正史も魏志中の倭人伝に限っており、魏志・呉志・蜀志には目を通したことも無いが、学者でもない限り大方の人もそうではないだろうか。
 膨大で難解な正史よりも、テーマを絞って平易な語りである演義の方が面白く、それを読むことで「なんとなく解った気分にさせてくれる。中国の三大演義は、三国志・水滸伝・楊家将とされ、毛沢東も楊家将演義を愛読し、折に触れて「楊不敗(主人公楊業の愛称)」を引用したとされる。
 演義は、文盲でも楽しめるように講談や音曲で流布されるうちに多くの脚色が加えられて現在の姿になっているとされるが、日本でも次郎長外伝や義士外伝のように事実とは懸け離れた虚構が独り歩きしている。

 チェコの作家ミラン・クンデラ氏は「一国の人々を抹殺するための最初の段階はその記憶を失わせることである」と書いているそうであるが、現在の日本の混乱にも当てはまるように感じられる。
 欧米の植民地政策を反面教師として日本が戦った大東亜戦争に関して、占領軍は「太平洋戦争」と改称させて東南アジアに存在していた欧米植民地の解放という側面に目が向かないように企図し、さらに東京裁判では遡及的に編み出した「平和に対する罪」をa項に据えて断罪し、日本人のアイデンティティを改廃させることに成功した。先人の行為を悪と信じ込まされて牙を抜かれた我々は、今や「占領政策」と「東京裁判史観」を源流とする「平和憲法演義」という虚構の世界に棲んでいるように思える。
 自分の育った時代には、未だ大東亜戦争を戦った人や陸士・海兵に青年を送り込んだ教師が日教組の主張とは一線を画した「歴史の見方」を教えてくれたので、平和憲法演義も懐疑的に見ることができるが、今にして正さねば平和憲法演義は誤謬の無い正史となって、聖書・コーランの位置に飾られるだろう。
 日本人のアイデンティティを取り戻すためにも憲法を改正することが急務であるが、市井の我々でも禍々しい「A級戦犯」との呼称を「a項戦犯」と改めることくらいはできそうな気がする。


夏休みの宿題-2

2023年08月31日 | 憲法

 8月も最後。漸くにして夏休みの宿題の2枚目を描き終えた。

 タイトルを「ジュラ紀」としたが、イメージはNHKの「恐竜王国」から拝借した。
 最新の研究では一部の恐竜は羽毛に覆われていたとされるが、恐竜が変温動物であったことや血脈が鳥類に受け継がれているとされるので納得できるように思う。
 イメージは「ティラノサウルス」であるが、名前がどうしても思い出せずに、ネットで「肉食恐竜 最強」と検索して漸くに思い出すことができた。
 一般的に「知識は積み重なる」とされているが、この数式が当て嵌まるのは60代くらいまでであって、それ以降は残念ながら「年齢が知識(記憶)を奪う」のが現実であることを実感した。
 尊敬する友人からの受け売りであるが、手塚治虫氏が現役引退を決意したのは「フリーハンドで真円を描けなくなったこと」であるらしく、ノーベル賞作家の川端康成氏が70歳を過ぎて自ら命を絶ったのも、加齢によって流麗に言葉を操れなくなったせいであろうか。
 老境に差し掛かった才能豊かな人のその後は、「変わらずの力量を維持する」・「現実を受け止めて穏やかに引退する」・「才能の摩耗を受け入れられない」・・・とさまざまで、年齢の影響は個人差が極めて大きいとともに、受け取り方も様々である様に思える。

 「ジュラ紀」を描き終えたが、孫は既に「恐竜社会」から引退してしまったので批評すらしてくれないだろうが・・・。


「ジュラ紀」(F10)


2党1会派の改憲意欲に思う

2023年08月20日 | 憲法

 維新・国民両党と衆院会派「有志の会」が改憲に向けて協調すると報じられた。

 衆院会派である「有志の会」は総勢5名の小会派であるが、先の総選挙後の2021年11月に結成され、5人ともにかつて民主党・民進党・希望の党に所属した経験があるとされている。
 メンバー(敬称略)は、吉良州司(代表、大分1区)、北神圭朗(京都4区)、緒方林太郎(福岡9区)、福島伸享(茨城1区)、仁木博文(徳島1区)で、当選回数も6~2回と既に中堅議員と呼ばれる諸氏である。
 また、彼等の選挙区を眺めると、保守有利とされるのは徳島選挙区くらいで、民主党の系譜に連なる政党に属した方が当選する確率は高いように思えるが、立憲民主党などに加わらないのは、所謂「旧民主党の鵺政策と何でも反対への愛想づかし」によるものであろうか。
 歳時記的な内閣不信任案には反対するなど、小なりと雖も独自の路線を五分の魂で貫いている姿勢は、政治家のあるべき姿を示しているように思える。
 今回の2党1会派による改憲協調行動は、現憲法が時代の趨勢から取り残されている現状を理解した政治家であれば当然すぎる選択であるように思う。
 護憲主張者の多くは「改憲=9条改正」と短絡的に捉えているが、人権や教育などを眺めても1世紀近く前の条文が古色蒼然として時代にそぐわないものであるのは一目瞭然である。同性婚を認めよと主張するならば、「性」にまつわる憲法条文を改正すれば解決でき、大学無料化を目指すには「義務教育以外の国家関与否定」条項を廃止すれば良い。

 しかしながら、最も解り難いのは9条であるのは間違いない。9条は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と高らかに謳って、現行の「一定のルール下での戦争・武力行使を認めた国際法や国際慣例」とは決別するという、全く新しい概念で書かれている。そこには「侵略戦争」を否定するが「自衛戦争」は容認するという概念が入り込むことは不可能で、「例え武力侵攻を受けても戦争・武力行使をしない」と宣言しているのである。
 自衛隊を保有するに際して、政府は「自衛の戦争は国際法が認めている」という苦肉の解釈をしたが、戦争に関する国際法と国際慣例を否定しながら、自らが否定した国際法に準拠するという論は成り立たない。
 護憲を主張する社民党は「9条堅持、自衛隊違憲」と憲法の趣旨に忠実であるので当然の帰結として「自衛のための戦争も否定」であり、論としては成立する。
 同じく護憲を主張する立憲民主党は「9条は堅持するが自衛隊は合憲で専守防衛の範囲での戦争容認」を現実的選択と糊塗しているのは論として破綻しているのみならず、この行為は「現実の前には憲法の理想と条文を無視する」ことを公然とするに他ならない。野党第1党として政権与党を監視すると胸を張りながら、憲法無視に関しては政権与党と「同じ穴の狢」に堕しているのではないだろうか。


夕立とゲリラ豪雨

2023年08月08日 | 憲法

 このところ、ほぼ毎日「ゲリラ豪雨」という言葉・報道を耳にする。

 以前には「夕立」と云っていたものを当世風に言い換えただけだろうと思っていたが、漸くにネットで調べてみた。
 結論から書くとウエザーニュースが書いている《両者ともに「急激に発達した積乱雲がもたらす同じもの」で、強いて挙げるとすれば「夕立の語源には諸説あるものの主として夕方に降っていたために「夕立」と呼ばれるようになったが、昨今では時間に拘わらず降るようになったので「ゲリラ豪雨」と呼ばれるようになった》が正解であるらしい。
 とは云ううものの、記憶にある夕立は夏休み中に溜池で泳いでいた時や蝉取りの真っ最中であり、10年ほど前でもゴルフの真っ最中に経験したので、「夕立は主として夕方に降る」についても少なからず疑問には感じる。
 更にウエザーニュースは《どちらも、影響するのは地上の空気と上空の寒気の温度差によって大気の状態が不安定になるのがまず必要な要素です。風の集まり具合と水蒸気の量も関係します。以前は真夏・昼間の暑い空気がそのメカニズムで夕方に雨を降らせていましたが、現在は、温暖化や、エアコンの室外機が放出する熱などが原因のヒートアイランド現象などで、地上の空気が昼間に限らず暖められるようになりました》と続けているので、夕立とゲリラ豪雨には「地表の空気を温める熱源の違いによる」という解釈も成り立つようでもある。
 これらのことから、実感・歳時記ともに夕立は夏であるが、ゲリラ豪雨については季節に関係しないので将来に亘って歳時記に記載されないのではないだろうか。

 また、ゲリラ豪雨には「雹」の映像を伴って報じられることが多いが、自分は「雹」に遭遇したのは1度きりである。これまで内陸部での勤務・生活経験が少ないからであろうが、ただ1度の経験も昭和30年代後半の広島県の呉基地勤務中であったので、海沿い地域でも降雹はあり遭遇は単なる運の問題であるのかも知れない。雹に依る農作物被害や愛車や屋根瓦の損傷には同情を禁じ得ないが、さりとて雹を伴うゲリラ豪雨を防ぐ手段はなく、気象庁の予報を信じて何らかの手当を講じることしかないように思える。
 大方の人は周知のことを今更ながらに書いたことを反省して、「閉店ガラガラ。ワォ!!」・・・これも古い。