本日、プロ野球のドラフト会議が行われる。
ドラフト会議は1965(昭和40)年以降実施され、当初は就職(企業)選択の自由を奪うとの批判も高かったが、今では各球団の戦力を拮抗させてプロ野球隆盛の根幹を担っており、ドラフト制度が無ければ広島カープの日本一も無かっただろうし、今でも金満球団「巨人軍」が球界の盟主として君臨していたであろう。
ドラフト会議では100名前後の球児にプロの門戸が開かれるが、人生初の試練を待つ彼等の心境はどのようなものであろうか。指名確実な球児は意中の球団か否か、ボーダーライン上の選手は指名されるか否かが、10時間後に明らかとなる。
一方、今年も多くの選手が球界を去ることとなり、既に岩隈投手(巨人)、藤川投手(阪神)、石原捕手(広島)等、一時代を築いた名選手の引退が報じられている。ドラフト会議を経て毎年100名内外が入団するということは、毎年同数の人が球界を去ることを意味しており、入団した選手の7割が5年未満で退団する(させられる)と云われ、前期3選手のように引退会見や引退試合で華々しく送り出される人は数%では無いだろうか。功績の有無に関わらず花束を贈られて定年退職した自分や自分世代のサラリーマンと違って、華やかであるが厳しい社会である。
本日、臨時国会が召集され、政府4演説のうち内閣総理大臣の所信表明演説が行われ、論戦の焦点は中国コロナ対策と日本学術会議会員の任命拒否とされるが、特に学術会議会員問題については不毛な質疑が繰り返されるのだろう。
学術会議廃止論も取り沙汰されるが、政治に科学的知見を活かすことは必要であろうし、学術会議設立の意義もそこにあるように思う。現在の学術会議が問題視されるのは、会員の選定方法(後任者推薦方式)と会議自らが他の研究者の研究欲求を縛ることであると思うが、戦後の自虐史観教育を考えれば、主として人文化学の分野で左翼学者が一大勢力を為す弊害は改善できないと思う。
ここで考えるのが、政府と日本学士院によるドラフト選抜である。日本学士院は、日本学士院法に基づいて文科省の特別機関として設置されている国立アカデミーで、概ね、功績のあった学者の名誉職とされて生臭いことには手を染めない状態であるらしいが、ここは学会の長老として、学術会議の会員選択という現場に復帰して欲しいと願うところである。会員ドラフトは学士院と政府がそれぞれに100名程度の候補者を出し合い、両者で重複した人はそのままに、それ以外は政府と学士院が交互に推薦上位者から任命すれば、会員の政治的・思想的な偏向はある程度防げるのではないだろうか。
日本学術会議には連携会員という二軍・順番待ちが2000名いるとされるが、今後は会員に欠員が出た場合の補充要員としてドラフトで漏れた人をプールする部署とすればいいように思う。
プロ野球ドラフト会議を機に、学術・学問とは無縁の者の戯言であるが、日本学術会議改革の一方策になり得るものでは無いだろうか。