もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

定額給付金考

2021年01月23日 | コロナ

 再びのコロナ定額給付金支給が取り沙汰されているが、このことに対する街の声なる報道映像を見て考えさせられた。

 20代の有職者と思しき女性は「本当に困っている方には支給して欲しい」と述べていたが、表情やニュアンスから推測するに「自分は該当しなくても・・」が感じられるもので、《本当に困っている人》の線引きや査定に関する困難さを別にすれば、生活困窮者救済を求めている優しさが感じられるものであった。しかしながら、次いで登場した自分と同世代と思しき男性高齢者が「貰えたら孫に何か買ってやれる…」の言葉には愕然とした。
 他人の懐具合を外見から推し量る愚を承知の上で云えば、少なくとも明日の食や支払いにも事欠く生活困窮者とは思えない身なりの人が「現代版お救い米」を期待するかの発言を公の場で開陳するのは如何なものであろうか。それ以上に、若者はしっかりとコロナ禍で発生した生活困窮者の実態と定額給付金の趣旨を理解した上で所信を述べているのに対して、高齢男性はコロナ定額給付金の意味さえ曖昧で単に金額しか念頭にないかのように感じられた。勿論、この男性が我々の代弁者で無いことは明らかであるが、一般的に云われる高齢者の生活態度と思考を顕著に表しているように思えるので自戒のために考えてみた。
 定年退職した自分の世界は極端に狭くなり極端に言えば、寝て1畳のうさぎ小屋が日本・地球・太陽系の全てで人間は自分と配偶者の二人しかいない。テレビ画面に映し出される世界や論じられる主張は他の銀河系のものである。このような状態は自分のみならず程度の差こそあれ多くの高齢者に共通しているものでは無いだろうか。そんな状況に置かれた人間にとって定額給付金は、UFOがもたらしてくれる干天の慈雨でしかなく、趣旨などは考える必要は無く、ましてやその使途が趣旨に沿ったものであるかなどは考えも及ばないことになってしまいかない。それ故に、真の生活困窮者や理性的な若者が挙って目を顰めるであろう冒頭男性のような考えも平然と口にしてしまいかねない。高齢者は本心を隠して社会に対して卑屈に迎合して生きるべきではないが、物事の本質を理解した上で身を処すべきように思える。

 落語に出てくる横丁の御隠居は、頑固で正論に固まっているために日常では若者から煙たがられているが、イザという時には検察官となり裁判官となり民生委員として頼られる。そこには本質とそれまでの人生で得た方便という経験則を巧みに融合させて処理するということがあるように思える。社会の中心に位置しない都市生活者にとっては、近隣の仲裁など及びもつかないが、街の声として意見を求められた場合には、正論に方便を織り交ぜた御隠居さんでなければならないと感じた一事であった。