もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

中曽根康弘氏の訃報に際して

2019年11月30日 | 与党

 中曽根康弘元総理が、101歳で大往生された。

 中曽根氏は、昭和57(1982)年~昭和62(1987)に内閣総理大臣を務め、数々の功績と逸話に彩られているため、昨日のワイド・ショーと本日の新聞紙面は中曽根氏一色といっても過言ではないが、その人物評には懐かしいフレーズを思い出されるものが多かった。曰く、政敵の内閣に入閣した際の「政界の風見鶏」、曰く、田中角栄氏の後援を受けたために氏の影響下にあるだろうと観られた「田中曽根内閣」、日米安保補完のための防衛力整備の必要性を目途とした「日本列島の不沈空母化」等々である。しかしながら、風見鶏さながらに宰相の座を射止めて以後は、国鉄(現JR)、電電公社(現NTT)、日本航空の民営化を断行したことに見られるように、一貫して標語として掲げた「戦後政治の総決算」に邁進し、成果を挙げたことは誰しもが認めるところと思う。戦後の歴代総理大臣は官僚型・調整型が多いが、トップ・ダウン型指導者としては吉田茂氏に比肩する存在で、中曽根氏以前の田中角栄氏、以後に出現する小泉純一郎・安倍晋三両氏を確実に凌駕するものと思う。外交においても、それまでの全方位外交という退嬰的な外務省の姿勢に反して、レーガン・胡耀邦・全斗煥各氏との関係を基軸とした外交に努め、対米関係の強化に成功し、一時的には終わったが中韓と良好な関係を構築した点も見逃せないと思う。また、憲法9条の改正は全政治期間を通じての持論であるが達成できなかったのは心残りであったであろう。戦後唯一の国葬の栄に浴した吉田茂氏は別にして、ただ一人のノーベル平和賞受賞者である佐藤栄作氏を筆頭に、歴代総理大臣とは群を抜いて追悼報道がなされるのは、中曽根氏の存在と功績(好悪は別にして)が顕著であったことを如実に示していると思う。

 今回の追悼報道では触れられることがなかったが、中曽根氏は東大出の短期現役主計士官(終戦時:主計少佐)として戦火を潜り抜けた経験を持っておられる。戦火に倒れた部下を目の当たりにした経験が、佐藤栄作氏によって国是とされた感がある非核3原則等は机上の空論であり、憲法9条を改正するとともに防衛力を強化して、米主・日従の防衛体制を逆転させることが、日本を真の独立国として繁栄させ得る唯一の方法と考える原点になったのではとも推測している。安倍総理が唱える「戦後レジームからの脱却」も中曽根氏の影響を受けての物かとも推測しているが、国の方針をドラスティックに変化させるためには、憲法問題を含み強力なリーダーシップが、それも毀誉褒貶を恐れないトップダウン型の牽引が必要であると思う。中曽根氏の訃報が憲法改正問題の幕引き・終焉のベルとならないことを願うところである。


香港、ウイグル、台湾、日本

2019年11月29日 | 中国

 中国のウイグル族統治の実態が徐々に明らかとなり、改めて国際世論から批判されている。

 批判の声が大きくなる引き金となったのは、香港の「逃亡犯条例」反対運動が「民主化要求(一国二制度の堅持)」に発展したことが大きいと思う。中国は、香港返還後50年間(2047年まで)は社会主義政策を採らずに香港政府が統治するとしていたが、返還後20年にして徐々に中国本土並みの形態となりつつある。報道によれば、香港の民主化デモでは「香港のウイグル化反対」のプラカードが目立つようになったとされている。これには、ウイグル統治やウイグル族対処(改造)に対する中国政府の内部文書が流布されたことが大きいようである。習のカーテンに覆われた政府(共産党)の内部文書がリークされること自体あり得ないことと考えられてきたが、アメリカに隠し資産を持つ中国政府高官が資産凍結を逃れるための交換条件としてアメリカに提供したといわれている。中国政府は当該文書は捏造と主張しているが、文書が数百ページに及ぶことや事実との符合度合から、西側には本物とする意見が大半である。かってアメリカ副大統領が、強制収容所に収容・迫害されたウイグル族は数百万人に上ると述べたことを契機として、ようやく中国政府もウイグル自治区に「職業技能教育訓練センター」が存在することを認めた。今、同センターの実態が明らかとなりつつあるが、やはり看板とは裏腹のウイグル族の中国化教化と反イスラム教育が主体であるらしい。アメリカを頂点とする西側社会は、中国の領土欲・膨張欲・人権侵害に対してチベット・ウイグルと成す術もなく敗退したが、香港についてアメリカは「香港人権法」を成立させた。当初は、これ以上の米中摩擦を引き起こさないため大統領は署名を見送って発効させないだろうと観測されていたが、トランプ大統領は関税摩擦交渉の一環として香港カードを使用する意思を示したものと考える。更に国際世論がウイグル族問題と香港問題は「明日の台湾」と見ていることもあって、アメリカが香港で影響力を行使し得なければ台湾を失うという危機感を抱いている表れとも考えられる。台湾の総統選挙でも一国二制度による中国統一を掲げる国民党に逆風となる等、香港問題・ウイグル問題は東アジアはもとより世界規模で注視されている。

 おりしも「お花見問題」で野党は国会での審議拒否を表明した。香港人権法や日韓GSOMIA継続を審議・可決したアメリカ議会と、倒閣のための政争を第一義とした野党による国会の空転、どちらが議会制民主主義下の議会として機能しているのだろうかと考えざるを得ない。


人生会議を学ぶ

2019年11月28日 | 社会・政治問題

 厚労省が「人生会議」の普及・啓発のために作成したポスター・HP画像が1日で回収・削除されたことが報じられた。

 人生会議?。字面から何となく想像できるものの、詳細を知らなかったので、ネットを頼りに勉強した。人生会議の名称(愛称)は1年も前(1918年11月30日)に厚労省が決定・公表されていた。要旨は「人生の最終段階における医療・ケアについて、本人が家族等や医療・ケアチームと繰り返し話し合う取り組み」とされ、11月30日(いい看取り・看取られ)を「人生会議の日」とすることも併せて発表されていた。要は、「死に方を真剣に考えよ」ということであるが、老人はもとより壮年者も考え・形として意思表示する必要があるということと思う。飲み屋談義では「チューブに繋がれてまで生きたくない」と云う声が大半であるが、果たして本気であるかどうか分からないし、家族同意の意見かも分からない。終末を担当する医師は、家族の同意がない限り延命治療を打ち切ることは許されないので、生命維持装置によって長期間生き続けるケースがあるのかも知れない。延命治療に関して、終末医療については家族の経済的負担や精神的な負担を軽くするための常識的な線引きがあるのだろうが、働き盛りの突発的な事態にあっては本人の意思が確認できない場合混乱することもあるだろう。さて、自分の人生会議であるが、家族は遠隔地に点在、主治医と呼べるほどの医師もおらず、ケアにはまだ間があると考えており、とても膝を交えて会議(話し合い)できるような状態にない。この状態には、程度の差はあっても多くの人が置かれているのではないだろうか。とすれば、自分の意思を書面にして家族に託すというやり方で済ますしかないと思うので、どのような書式にすれば有効な意思表示とみなされるのかと調べてみたが、厚労省のHPからは見いだせなかった。厚労省は、ここまで終末医療に関して仏を作ったのであれば、医療・ケアチームを持たない無精者が意思表示でき、なおかつ本人の意思と認定される書式(魂)まで提示してくれないものだろうか。

 最後に、厚労省のポスター・HP画像が1日で回収・削除されたことについてであるが、反対意見の多くが「生々しすぎる」、「(既にその状態にある)家族や遺族に対する配慮に欠ける」というものであるらしいが、本来「死」とは残酷なものであり各方面に「配慮」して訪れるものではないと思う。確かに小藪千豊氏の写真、脈拍が止まる瞬間を思わせるイラストはインパクトがあるが、それだからこそ自分のような無精者を動かしたものと思うし、その数は「不快」と感じる人の数十倍・数百倍に達すると思う。厚労省は、ポスター作製等に7千万円の軽費を掛けた様であるが、反対者の出現・撤去・報道を考えれば、優に広報成功(元を取った)とほくそ笑んでいるのではと思うものである。



野田市児相の処置に対する検証委員会の報告書を読んで

2019年11月27日 | 社会・政治問題

 今年1月に起きた、千葉県野田市立小4年女児の虐待死事件に対する県検証委員会の報告書が公表され、「一時保護の解除など一連の行政機関の対応は不十分かつ不適切。ミスがミスを呼び、リスク判断が不十分なまま漫然と推移した末に起きた必然的な結果」と結論されている。

 一連の事件を構成する個々の事象に関しては置くとして、総じていえば「公務員の倫理観と責任感(使命感)の欠如」であると思う。財政逼迫の現状から公務員数は削減されて現場が慢性的な人手不足の状態であることは理解できるが、この先倫理観と責任感が欠如した人間をいかに投入しても、同様の事態は改善されないと思う。児相担当者の行動は、個人情報保護と両親の親権を過大に評価するという姿勢を隠れ蓑にして、課せられた職責と職分を放棄したもので、「不作為の罪」は免れないのではないだろうか。自衛官(特別職国家公務員)には、「頑張っても短期に昇給や昇任は得られない」、「短い期間で管理者が交代するために自分が正当に評価されていないのでは」という風潮があるが、おそらく一般職公務員も同様であろうと推測する。これは、長いスパンで人事管理するという公務員制度に起因する宿命であり、これに打ち勝って職責を全うするためには「より強い使命感」が求められる。自分は、このことを納得するために「(公務員は)自己満足の社会」と思い定めて勤務した。古語にも「天知る、地知る、己知る」とあるように、自分の行為の成果と勝(敗)因を最も知り得るのは自分である。自分に恥じない・後悔しない行動と判断で職務を処理するならば、そう間違った結果は出ないものと思う。野田市児相の対処で最も危ういのは、女児の一時保護を解除したことであると思う。テレビで放映された会見からの感想であるが、「一時解除は所内会議の決定」とされていたことである。会議の雰囲気・討議内容・結論がどんなものであったにせよ、決定したのは会議の主催者であり決定によって生じた事柄を含めて、全ての責任は主催者が一手に負うべきである。また、決定事項を児相の判断として決裁したであろう者も、会議の主催者と同等の責任から免れ得ないことは言うまでもない。大東亜戦争を通じて、下士官が優秀な日本軍・士官が優れたアメリカ軍、という評価があったが、これは日本軍・日本人の行動の原点を端的に表しているもので、使命感は個々の現場作業員まで横溢で、和を貴しとする管理者は現場の決定に従えば大過なく業務を遂行できるという安易なボトムアップの考えである。しかしながら、現場の倫理観と使命感に陰りが見えた現代社会では、管理者の判断で業務を処理するトップダウンによって組織を正常に維持することが求められているのではないだろうか。

 今回の事象について、ネット上には児相の責任者に対して「殺人未遂」を適用すべきという書き込みも散見されたが、全ての不祥事に対して責任の所在と取り方を声高に問うメディアは沈黙しているように思える。しかしながら、倫理観と使命感に劣る公務員によって引き起こされた「不作為の罪」は、もっと糾弾されてしかるべきではないだろうか。


山尾志桜里議員の上半身に期待

2019年11月26日 | 野党

 衆院憲法審査会委員の山尾志桜里氏(立民)が、審査会での議論を進展させることを提言している。

 憲法審査会の議論は、立民の枝野代表を始めとする野党(維新を除く)執行部によって停滞させられている現状を見れば、山尾氏の提言は極めて妥当なものと考える。一般的に憲法改正と云えば「第9条の改正」と短絡的に思われているが、日本国憲法には、教育(私学助成や教育無償化)、性差別、福祉、人権、在日外国人・・・等々、先進国の憲法に比して、科学技術や人権保護意識の進歩・変革から取り残された後進性が指摘されている。特に、危機管理条項に関しては致命的ともいわれ、日本国憲法の規定では有事の際に対処できないとまでいわれているので、憲法や憲法改正について論議するのは国会議員の責任であると思う。また、立憲君主制(天皇制)反対の立場を採る共産党・社民党にとって、憲法審査会での改憲論議は絶好の機会であると思うのだが、枝野氏に引きずられてか・世論に忖度してか及び腰に終始している。野党指導者は、醜悪な酔態は別にして、丸山穂高議員のように所信を明らかにする必要があると考える。予算委員会では「お花見問題」でもちきりであるため憲法審査会委員の多くも多忙?と思い調べてみたが、両委員会委員に重複指名されている議員は5名であり、憲法審査会の自由討議が2年間も行われていなかったのは、国会と委員の怠慢であるのは間違いのないところである。些か旧聞に属するが、一昨年、憲法改正と国民投票法の現状視察のため、憲法審査会委員が欧州視察を行ったことがある。帝国憲法制定に当たり、伊藤博文公以下の視察団を派遣して欧州各国の憲法を調査したが、当時に比べて通信網や情報手段が格段進歩している現状では、眉唾の視察ではなかろうか。憲法の”どの部分”が現実と乖離し、”どのように改正すべき”なのかを国民につまびらかにすることが憲法審査会の使命であると思うのだが。勿論、憲法審査会が「現行憲法には改正すべき点がない」と結論付けるのも選択肢の一つではあるが、9条を拡大解釈して自衛力を整備したように憲法を恣意的に解釈・運用するという”ゴマカシ”は、早晩に頓挫するのは自明である思う。

 日本の現状と世界の趨勢に沿った憲法を次代に託すのが我々の責務である限り、山尾議員が提言するように、憲法審査会の議論だけは継続して欲しいものである。山尾氏の”いささか緩い下半身”に比し”健確な上半身”が野党の頑迷に風穴を開けて、憲法論議が国会の場で活発化することを期待するものである。