本日、来年度予算案が衆院で可決される見通しで、来年度予算の年度内成立が確定的である。
国会は予算委員会を中心に、厚労省の裁量労働データの不備に関する質疑・攻防に明け暮れているが、肝心の予算に関する質疑は「何処で・どのように行われているのか」一向に聞こえてこない。いろいろ調べてみたが、政府提出の予算案の金額が国会の議論で修正されたことは新憲法下では1度も無いようである。向こう1年間の事業と将来への投資をいかにすべきかは国民大方の関心事と思うが、予算が政府原案作成過程の密室作業ですべて決定されることに不満を感じるのは自分だけだろうか。行政府(大統領)提出の予算案が立法府で大ナタを振るわれるアメリカの例を引くまでもなく、行政府への強力な監視機能である予算審議が予算委員会で行われないことを不思議に思うものである。この手順が民主党政権下でも踏襲されたことを考えれば、国会議員の常識であるのかもしれない。戦雲漂う時代の帝国議会において、陸軍予算を減額するとともに焦眉の急であった海軍建設予算が大幅に増額されたことがあるなど、現在の国会が失った「時局の動向に応じて予算額を変更させる識見」を帝国議会は有していたと思われる。民進党の増子幹事長は厚労省の不手際を追求した結果「予算案の衆院通過を1日遅らせた」と勝利宣言にも似た発言をしているが、野党の勝利とは《1円でもよいから予算案(額)を修正して公約の達成を目指す。》ことであると思うのだが。
予算委員会は、国政に関する総ての質疑が許され、主要閣僚が出席し、テレビ中継されることから、低次元であるが国民の目を引くであろう問題のみが繰り返し質疑され、外交・防衛等の喫緊の課題については専門委員会に委ねる傾向がある。予算を審議しない予算委員会、ネーミングを考える必要があるのでは。