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もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

慣用句の恐ろしさ

2025年03月26日 | 社会・政治問題
 高校で使用される教科書検定での検定意見等が公表された。
 気になったのは、徴用工問題の記述で「半島からの連行」という表現が「動員」に訂正されたということである。政府は、2021年4月に維新の馬場代表の質問書への答弁書として強制的なニュアンスを持つ「連行」を「動員」とすることを閣議決定し、日本の主張を明確にしている。資料的にも、強制連行しなくても募集を掛ければ所要以上の応募があって、選考に苦慮する程であったことが明白となっている。一方、朝鮮にあっても合格者がを遠方に出稼ぎする身を案じるよりも高額な報酬を羨む気持ちの方が強かったことも明らかにされている。
 史実はさておき、驚かされたのは検定意見を付けられた出版元の編集責任者が「単純に表記が曖昧だった。政治的な意図をもって入れたというより、用語の使い方で確認を怠った」と述べているらしいことである。長年にわたって日韓のトゲとなっている問題に対して、執筆時のリードタイムを勘案しても、閣議決定から1年以上も経過していること、教科書検定で数年に亘って問題視されていること、等を考えると、単に執筆者や校閲者の単純ミスではないように思える。執筆者は「確信犯」的に「連行」文言を使用し、校閲者は四半世紀も繰り返し使用された「徴用工の強制連行」という言葉が刷り込まれていたために見逃した」が真相であろうと推測している。
 今、町行く人々に「慰安婦・徴用工という言葉から連想するのは?」と問いかけたら、100%近くが「強制連行」と答えるであろう。言葉や数字が独り歩きを始めると、如何に明白な反対資料や正論を以てしても、訂正は容易ではない。対処療法は、人口に流布・膾炙するよりもできるだけ早く正確な数字や語句を提示する事しかないように思えるので、2021年の閣議決定は遅すぎたと云えるのではないだろうか。
 海上自衛隊の上級司令部には、発簡文書を浄書する前に「文書審査」という手続きが必要である。自分が経験した文書審査では、審査の女神とも称したい女性職員から懇切丁寧ではあるが辛辣な御指導を賜るのが常であった。女神様は「てにおは」「句読点」はおろか、用語の意味、受け手の誤解を招きやすい字句にも精通しており、既に決済を受けた文書でも「決裁者に報告して訂正しなさい」と突き返されたこともあった。
 出版会社にも同様の校閲エキスパートが存在するのは確実であろうと思えるので、今回の教科書編集責任者の「見逃し」発言も些かに眉唾にも思えるが、人件費節約のあおりでエキスパートを解雇したために不名誉な結果を招いたのかも知れない。

コロンビア大学の助成停止に思う

2025年03月25日 | 社会・政治問題
 トランプ政権は、コロンビア大学に対する助成金590億円の支給を停止したそうである。
 支給停止の理由は、先のパレスチナ紐帯デモによって、反ユダヤ教育活動が適切に行われていないことであるとされている。
 590億円と云う助成額にも驚いたが、同大学の年間授業料が1000万円を超えるとされていたことにも驚かされた。一般的にアメリカの私立大学の授業料は高額ではあるが、卒業生の寄付によって運営されている基金を持つ大学が多く、成績優秀者に対しては基金の給付奨学金を得る道が整備されているために、成績優秀者が貧困のために大学教育を受けられないという事例は少ないとされていた。しかしながら奨学金を獲得できなかった凡庸な学生は出世払い的ローンを組むそうで、大卒資格が就職・出世に直接結び付かない社会構造であれば、ローン返済もままならない大卒者も多いとされている。
 現在、日本でも社会構造が変化し、昭和の常識「大卒=幹部候補」は無くなったが、それでも大学進学率は高まっているものの、校名・学部を選ばなければ、全大学の定員は全員が進学できるキャパシティであるとされている。
 コロンビア大学の助成停止は、大学の自治を損ないかねないという意見があるが、大学の自治とは何かが良く分からない。学長や教授の選任における自由度か、教育理念や研究テーマに対する自由を指しているのだろうか。学生運動華やかりし頃、学内の秩序維持のために機動隊が導入された際は、大学自治の危機と大騒ぎしたものであるが、反対意見の多くは越前の一向宗自治的な「学内の治外法権扱い」に等しいものであった。識者の大学自治危機懸念は、よもや治外法権的扱いではないだろうが、助成金を貰い続ければ政権の意向に関係なく教育ができるが、助成金が途絶えると交付再開を願って我意に反して面従腹背の教育になりかねないとするものであろうか。
 研究テーマに対する干渉についていえば、日本学術会議の「武器・戦術研究拒否」の方が遥かに大学の自治と学問の自由を損なっているように思うのだが。

数字の魔力

2025年03月16日 | 社会・政治問題
 米教育省が、少数派(マイノリティー)の人種を優遇している疑いで約50の大学を調査することが報じられた。
 マイノリティーの権利を擁護すべく法律等で、新入生の人種比率などを義務付けた結果、却って白人やアジア系の門戸を狭める逆差別が顕著になるとともに、過度のマイノリティー擁護思想は、博士号審査や奨学金受給審査にまで及んでいるらしい。
 古来から法規制には数字を掲げることが一般的・かつ有効であり、日本でも男女雇用機会均等法などは当初の努力目標から数値目標に改正されている。
 しかしながら、年月を経ると法令等に定められた数字は策定当初の理念や合理性から離れて独り歩きを始めるのも、また古今東西を問わないように思える。
 独り歩きを始めた数字の魔力が、国民の不利益となったり個人の人権を損なったりするケースも多い。
 かって日本には防衛費を対GNP比1%以内(シーリング)とする閣議決定があった。決定当初は、国際情勢は比較的に安定、米軍の盾は堅固と云う状況下で過度の防衛費支出が国民福祉や国家事業を圧迫することを防ぐため、いわば「身の丈に合った軍備」を目指すものであったが、シーリングが独り歩きを始めると、国際情勢の変化や為替の変動にお構いなくという事態に陥って、自衛隊は張子の虎の装備しか保有できなくなってしまった。
 ソ連時代は何事につけても「ノルマ」が設定されていた。シベリア開発で示されたノルマは、多くの抑留日本人の命を奪った。農民についても集団農場(コルホーズ)に課せられたノルマを達成するために、帝政時代の農奴もかくやと思える生活であったとされる。
 策定時において、ある程度の合理性と説得力を持っている数値目標に反対することは、「人でなし」の大合唱を浴びせられること確実で困難であるが、数値の弊害が顕在化した場合は、躊躇なく改正また方向を転ずべきであると思う。
 全米証券取引委員会は、マイノリティーに関する条項を上場要件から外した。
 トランプ氏は、DEIに過ぎると沿岸防備隊司令官を更迭した。
 自分を含め「小遣い〇円」と規定(命令)されている方も多いだろうが、何年かの年月を経て独り歩きしている数字の改正は不可能に近い。
 魔力を持った数字の改正は事の大小を問わずに大変であるが、国政に与る方々の奮闘を期待して、終演。

コンプライアンスを学ぶ

2025年02月18日 | 社会・政治問題
. 中居正広氏の事案では、社員が食事会の設定に関与したと誤報されたことによって、フジテレビ社のコンプライアンスに疑義ありと経営陣の引責辞任にまで発展した。
 コンプライアンスは法令遵守と和訳されているので、フジテレビの場合では例え社員による食事会設定が事実であったとしても、会社のコンプライアンスを問うのは如何なものかと思い、コンプライアンスを勉強した。
 ネットで観て自分なりにシックリ感じるのは、《ラテン語のcomplere(空所を満たして一杯にする)が英語のcomplete(完成)に繋がり、complianceはcomply(何かに従うこと)という動詞の名詞形である。complianceは、単に何かに従うことを指しており、その「何か」は特定されていないが、和訳の際に、我々が従う「何か」は法令に違いない」と誤訳され誤解が広まった》という主張である。
 日本では、当初は和訳の通り狭義の「法令遵守」であったが、現在では解釈が広がって、法令遵守はもとより、個人・企業の倫理感及び社会規範の遵守にまで及ぶ概念とされている。
 成る程!!と思う反面で些かに奇異に感じるのは、何故に法令ができた、法令を作る必要があったのかと考えれば、長い年月で人口が増え、貧富の差が生じ、宗教が現れ、権力が生じて、それまでの小さな共同体では機能していた社会規範が機能しなくなったことを補完するためでは無かったであろうか。
 近代的法律が無く、社会通念が大勢を決した時代には多種・多様な価値観から、首狩りが生まれ、カースト制が生まれ、選民思想・民族蔑視が生まれ、日本でも穢多・非人差別、村八分の風習、等が思い出される。
 これらの社会規範・通念を悪弊として禁止したのが法令であると考えれば、現在のようにコンプライアンスに各人で振れ幅の大きい社会規範の遵守まで入れ込むのは如何なものであろうか。キリスト・イスラム教国では、法令の他に聖書・コーランという文字規範があるために各個人の振れ幅も小さく・違反事案の制裁共有も容易であるが、それとても「神の御心解釈」次第によっては悪行を正当化さえできるように思う。ましてや、成文規範の無い日本で社会通念・規範を過度に重視するのは、大きい声がコンプライアンス自体のゴールを動かしかねない。現に、フジテレビの記者会見でも、長広舌に自論のコンプライアンス概念賛同を強制する善意を気取った記者が多かったとされる。
 現在、少数派の活躍の場を増やして社会の活性を図るというDEIが、逆差別を生む・競争原理を否定することで社会の活性化を阻害するとして、欧米では廃止・縮小の方向に向かっている。
 それと同様に、各個人の尺度が異なるコンプライアンス・ハラスメントが大手を振る社会は、人類が追い求めてきた社会とは異なるように思える。自国の社会通念と規範を世界に敷衍・普及しようとする、プーチン氏や習近平氏を観ると、その危険性が容易に理解できるように思う。
 そのうち日本にも、独特の規範を正とする小プーチン、小近平が現れるかもしれない。

キャリア官僚の早期離職(転職)に思う

2025年01月16日 | 社会・政治問題
 国家公務員の幹部候補者である総合職の早期転職が急増していると報じられた。
 報道では2014年度に採用された600人のうち23%が10年以内に退職したそうである。転職の理由として挙げられているのは、長時間労働や給与などの待遇に対する不満である。
 このことに対して、人材・頭脳の流出が危惧されるとしているが、公務員の性格・存在が「公奉」であることを思えば、功利一辺倒の離職者を例え引き留め得て栄進させたとしても、かっての前川喜平次官のような存在になることは目に見えるように思える。ここは「腐ったリンゴを早期に淘汰できた」と喜ぶべきであるように思う。
 組織構成員の士気(今様には、モチベーションであろうか)を上げるためには、待遇改善や福利厚生の充実が大きいとされている。短期の功績を昇給や昇任で報いることのできない海軍では「食事と上陸が士気の根源」とされ、海自でもそう主張する人が多かった。しかしながら、自分は「食事と上陸が生み出した士気などは、それが無くなれば簡単に消える。士気の根源は個人の陶冶」と思っている。
 40代の半ば、1年間の図上演習の実務を略1人で任され、自分の能力欠如が主因とは言え年間数日の休日しか取れなかったことがあるが、見返りは講評で僅か1・2行の高評価が書かれたのみであった。
 そんな経験もあって、以後の勤務にあっては部下に「今日の自分に満足か」を指導の標語とした。今日の訓練、機器の整備、・・・などで全力を尽くしたか、もう少し頑張れたのではないかと云う悔いはないか、を風呂に入ってでも良し、一杯飲む前でもいいから思い出せという意味である。
 海軍士官は一日の終わりに「五省」を求められたが、「今日の自分に満足か」の方が難解・高尚な「五省」に勝ると思っている。
 短時日の功績で報いられることの無いキャリア公務員にあっても、今日の業務が自分自身で満足できるものであったかを常々考えるならば、報酬・待遇に釣られて入省時の「公奉」の精神を忘れる自分を恥じるに違いないと思う。
 柄にもない人生訓・部下指導を開陳して、終演。