もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

中国の海外派出所を考える

2022年11月30日 | 中国

 中国公安が設置した「海外派出所(海外110番)」が、物議をかもしている。

 中国は、30か国に「海外派出所(海外110番)」を開設したと公表しているが人権団体等は50か国にも及ぶとしており、日本でも東京都千代田区神田和泉町にある十邑会館が本部とされている。
 設置の目的と活動について中国は、「在外中国人を扶けるサービスセンター」としているが、9月にスペインの人権団体が「亡命中国人の監視・脅迫」を行っていると告発したことを受けて疑惑が集中している。
 本来、海外にある国民を扶助するのは現地に置かれた公館の任務であると思うが、「海外派出所(海外110番)」は中国公館とは指揮関係を持たないものの様で、その名前が暗示するように国際法では認められない中国司法権の執行すら企図しているのではと疑えるように思える。さらなる杞憂は、中国との関係が最悪の状態になった場合には、派出所が国内騒擾の起点となるかもしれない。
 派出所が開設された国の反応は、閉鎖を要請した国、懸念を伝えた国と多様で日本は後者と報じられているが、各国の反応が要請や懸念の伝達に留まっていることを見れば、国際法では強制的に派出所を閉鎖することはできないようで、孔子学院と同様に何とももどかしく感じられる。
 暴論でるが、派出所の暴走を予防するためには「テロ等準備罪に基づいて電話傍受を行う」と明らかにすることが有効ではないだろうか。

 おりしも中国で発生した「ゼロコロナ反対デモ」は世界各国に飛び火するとともに、反独裁・反習近平の色合いを濃くしている。共産党と解放軍さえ掌握していれば民意など無視できる巨象であっても蟻の動きは気になるらしく国内デモの鎮圧に強硬な姿勢を見せているが、国外のデモに対しては習主席の鉄槌も半減してしまう。この事態に派出所は絶大な効果を発揮するだろうし、習指導部にあっては以前からこの事態を予測して備えていたのかもしれない。

 最後に、中国における「反ゼロコロナ・デモ」から習政権の外交・中華・人権政策の軟化や、極端には習主席の交代まで期待する意見もあるが、党と軍に支えられた大躍進や文化大革命が2千万人以上とされる犠牲者を出しながらも政体に僅かの変化しかもたらさなかった過去・歴史を見れば、習政権の強権体制は維持されると観るべきと思う。
 また、デモによる求心力の低下をそらすために外征(台湾・尖閣)の時期が早まったとするのも、杞憂に過ぎないと思う。


必要最小限を考える

2022年11月29日 | 防衛

 岸田総理が関係閣僚に、改めて防衛費の増額要求を指示したことが報じられた。

 これによって、自衛隊装備の近代化や充実が現実味を帯びてきたが、今後は装備の質・量について「必要最小限」を冠した甲論乙駁の展開となるだろう。
 しかしながら、「必要最小限」という定性的な度量衡は果たして適当だろうか。例えば「戦車100両」又は「ミサイルの射程100㎞」は、甲にとっては「最小限に満たない」が乙にとっては過剰と考えるだろう。

 必要最小限の概念で思い出されるのは、日本海々戦を勝利した救国の英雄東郷元帥が「百発百中の砲1門は、百発一中の砲100門に匹敵する」と述べたことである。百発百中の砲1門と百発一中の砲100門が対峙し・同時に斉射すれば、百発百中の砲1門は必ず敵の1門を破壊できるが、百発一中の砲のどれかは我が砲の1門を破壊するために、開戦初頭に我は壊滅するものの敵は99門の砲を維持することになるので、論としては成り立たない。
 おそらくであるが東郷元帥は訓練による戦技向上の重要性を込めて述べたものであろうが、年月が経ってこの言葉は独り歩きを始め、装備の充実・近代化を求める前線部隊の意見を封殺するために大本営・軍令部が引用し、大本営・軍令部の要求を封じるために陸・海軍省が、最後には陸・海軍省の予算要求額を圧縮するために議員・国民が利用することになってしまった。結果として最後には、装備の不備を「敢闘精神」「大和魂」「元寇時の神風」で補うという精神性にまで昇華し、およそ近代軍とは懸け離れた理念で整備された陸海軍になってしまったように思える。

 必要最低限の文化的生活を保障する「生活保護制度」でも、車の所有は認められないと聞いている。このように、必要最小(低)限には、何らかの犠牲を許容することが前提として存在している。
 「必要最小限な兵力整備」は、既に朝野を通じての共通認識(定説?)と化しているが、「何の・誰の・どの程度の」犠牲を許容することを念頭に組み上げられた概念なのであろうか。
 既に、ミサイルの飽和攻撃に対しては現有システムの質・量では完璧なミサイル防衛ができないことは明らかとなっているので、撃ち漏らしたミサイルによる犠牲は当然に出ることになる。最小限の装備が許容する犠牲は、自衛隊員であろうか、はたまた国民の100人・千人・1万人の犠牲で済むことを指しているのだろうか。

 以上のことを踏まえて、どうしても兵力整備の限界を定性的に表現する必要があるならば、「必要最小限」ではなく「国民の犠牲を局限できる」に改められる必要があると思うし、予算の配分や装備の取得・配備に当る部署も心して欲しいと願っている。


傷口に塩を

2022年11月28日 | 美術

 地域公民館主催の催しが終わった。

 催しでは、グループに展示スペースが与えられているので、今回は3点出品・展示した。
 W杯コスタリカ戦惜敗の傷口に塩を擦り付ける所業とも思えるが、ご容赦頂きたい。
 なお、掲載したうちの「ガンジス」は、制作途中に一度アップした際に「コントラストが過ぎる」との適切な助言を頂き修正したものです。写真ではあまり変化していない印象を持たれるかもしれませんが、10年近く前のカメラ性能のなせる業と御許し頂きたい。


「ガンジス」(P20)


「海 戦」(P10)


「木 蓮」(MS:往復はがき大)


かんころ餅

2022年11月27日 | 歴史

 産経新聞の生活面で長崎県・五島列島の「かんころ餅」が紹介されていた。

 記事及びクックパットを閲覧すると、作り方に地域差はあるものの大略、スライスしたさつま芋を湯がいて天日干してできた「かんころ」と糯米を蒸かして捏ね合わせて蒸すとなっている。
 食糧事情が悪かった小学校低学年頃までは、生まれ在所でも「かんころ餅」は副食以上の存在であったが、記憶を辿っても「もち米」は出て来ないように思う。
 実は10年程前、何かの拍子に「かんころ餅」を思い出して、母の手伝いの記憶を頼りに挑戦したことがある。スライスした薩摩芋を蒸して天日干しすることで「かんころ」らしきものはできたが、かんころを粉末に・水を加えて練り上げて成形・蒸し器で蒸すという手順で出来上がった「かんころ餅」は記憶にある「黒光りしたかんころ餅」とは違って、黄色い芋団子であった。その時は、往時の黒色は灰汁の強い薩摩芋のせいで品種改良された今では望むべくもないと思ったが、今にして思えば作り方が間違っていたようである。
 現在では、既に在所の「かんころ餅」のレシピを知っている人も少ないだろうし、懐旧の気持ちも淡い上に尋ね回るほどの熱意は無いので「生まれ在所のかんころ餅」再現は幻のままで終わるのだろう。
 自分レベルでも日本社会発展の余慶に与って、戦後や途上国とは懸け離れた生活を送れているが、その代償に失った・忘れた知恵も多い。多分これを進歩と呼ぶのだろうが。

 同じ紙面で「肱川あらし」も紹介されていた。「肱川あらし」は、愛媛県大洲市で冬季に観られる現象で、上流の盆地で発生した霧が夜明けとともに肱川に沿って伊予灘に駆け下るものである。
 近年、敬愛する作曲家船村徹氏が最後に発表した楽曲が「肱川あらし(伍代夏子さん歌唱)」であったことから再び脚光を浴びたが、大自然の営みは人間の護岸工事など意に介せぬ如くに絶えることも無く続いているらしい。
 柄にもなく、儚く消えゆく人の世の営みと、悠久の自然に思いを走らせて。終演。


「ガーシー」って何者?

2022年11月26日 | 野党

 「ガーシー」と呼ばれるNHK党の東谷義和参議院議員は、未だ中東を徘徊しているらしい。

 臨時国会は、旧統一教会対策、物価対策、防衛費の増額と財源等について正念場を迎え、加えて閣僚の辞任・疑惑の攻防に修羅場の様相すら呈しているが、未だ東谷議員は初当選以来登院すらしていないようで、当選証書すら受け取っていないのではと思っている。議員に対する歳費・文通費等の議員手当の行方も不確かであるが、このまま無断欠席的不登院を許して良いのだろうか。
 東谷議員の獲得票は287,714票で、自民党の片山さつき議員(298,091票)と同程度の支持を得ていることになるが、東谷議員に投票した人は「登院はおろか、帰国すらせずに」芸能関係を中心としたFNS暴露に身をやつす様を何と観ているのだろうか。
 それでも、閣僚の不祥事が今ほど明らかでない時期には東谷議員の不登院を疑問視する声も聞こえたが、今では殆ど報じられることも無くなった。
 その時期に所属議員の不登院を問われたN党の立花党首は、「議員の政治活動は院内にのみ限定されるものではない」と擁護したが、議場外からの投票ができない現行制度下では法案賛否の意思表示すらできないのは、議員として失格であろう。東谷議員は、弱小政党の1年生議員であるので院内論戦に加わる機会も少ないだろうし、賛否の1票は与党の足軽陣笠ほどの価値も持たないとしても、有権者の意思を代弁する責任を担うべき国会議員としては、院内活動は不可欠のことと思う。
 立花党首は、「東谷議員が懲戒失職になったとしても、名簿2位の山本太郎氏が繰り上げ当選するのでN党としては構わない」と言葉を継いでいるのは、政治家として極めて未熟であるとしか言いようがないように思える。そのような姿勢は、無所属や無派閥の議員に対する一本釣りが横行した時期に野党が口撃の常套句とした「数の原理」であるが、希望の党解党時の立民・国民両党の一本釣り合戦を機に解禁され、いまや永田町では禁句となるとともに戦術として認知されたもののように感じられる。

 国会議員の懲罰については衆参両院ともに懲罰委員会で行うが、議員の除名(議員資格争訟)について衆院は常設の懲罰委員会で行うのに対し参院は懲罰委員会では審議できずに資格争訟特別委員会を設置して行う規則となっている。東谷議員を辞めさせることを考えれば、特別委員会の設置すら中々に困難であろうし、若し設置できたとしても「脛に傷持ち・明日は我が身」の諸氏が委員ともなれば、「御咎めなし」の幕引きすら確実であるように思う。嗚呼!!