ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

ミクロコスモス

2008年05月17日 | 映画レビュー
 先週の休日に実家の両親がやってきたので、またしても家族全員で楽しめる映画を。というわけで今回わたしが選んだのは昆虫の世界を極小カメラで捉えた驚異の映像ドキュメンタリー。しかし、こども達が喜ぶかと思いきや、一番興味深く見ていたのはわたしの父、つまりはおじいちゃんでありました。


 いま思えば、本作にしても「WATARIDORI」(2001年)にしても同じテイストで作られている。制作者が同じだからこれは当然として、さらには「ディープ・ブルー」(2003年)も「アース」(2007年)にしても、同じく動物の世界をほとんどナレーション抜きで映像と音楽で描いたという点でも作りは似ている。

 前にも「ディープ・ブルー」のレビューで書いたと思うが、この映画は日本のテレビ番組がつけるような丁寧な解説は一切ない。虫どうしがいったい何をしているのかさっぱりわからないシーンもある。例えば、小さなダニのようなアブラムシが這い回る茎に天敵テントウムシがやってくるが、そのテントウムシを大きなアリが威嚇している。これはいったいどういうことかといえば、アリはアブラムシから蜜をもらうかわりにテントウムシを追い払うのである。この共生関係についてはわたしは息子たちから教わった。うちの子どもたちは雑学をよく知っているので、映画を見ながらあれこれ解説してくれるので助かる。


 極小の世界をあたかも人間の目でとらえたかのようにくっきりと映し出す驚異のカメラに感嘆すると同時に、小さな生き物の世界でなぜこのように秩序だった知恵の輪が生きているのか、不思議でたまらない。虫たちの共生や捕食の関係は遺伝子に組み込まれているものであって、誰も親からOJTを受けるものではない。人間は新人研修だの学校教育だのいろんな場で教育を受けなければ生きていくことができないというのに、なぜ文字も持たない彼らが生きるすべを知っているのか? なぜ虫どうしの共生関係(それは社会契約の一種だ)を知っているのか? 

 カメラは極小の世界を映し出すだけではない。天空からのカメラが自在に空を舞い地を目指し虫たちをクローズアップする見事なカメラワークには映画ファンの欲望を満たすようなすべらかな動きがある。

 虫の世界はまさしく息抜きも休息も娯楽も余暇もなく、淡々と彼らはひたすらに生きて労働している。労働することがすなわち生きることであり、生きることがすなわち労働である。

 働き蜂や蟻を見ているとつくづく思う。過労死せんのかね、あんたたち?!



 翻って、人間はどうだろう? どんなに懸命に働いているようであってもそれは所詮は浅知恵かもしれない。大阪府から図書館運営の委託を受けた初年度、働きすぎて腱鞘炎になり、鍼灸院に通ったことも、受託後まる1年経ったときに胃炎で入院してしまったことも、今思えばあれはいったい何のための苦労だったのだろうか? ゴミ捨て場に捨ててある什器を拾ってきたことも地下倉庫に捨てられていたショーケースをもらい受けにいったことも、それもこれも経費節減のための工夫であり、スタッフ一同の苦労であったのに、そのすべてが否定されようとしている。これほどの虚脱感があるだろうか?

 いえいえ、まだまだ。わたしはへこたれません。あ、映画と関係ない話になってしまった…(^^;)。(レンタルDVD)



 映画と関係ない話ついでに。最近毎晩聴いているのはマリア・カラスの「カルメン(ハイライト)」。ジョルジュ・プレートル指揮パリ国立歌劇場管弦楽団演奏の1964年録音。カルメン前奏曲を聴くと元気になります(^^)。物語じたいは悲劇だけれど、全体に音楽は勇壮で力強く、わたしは前奏曲を聴きながら踊っています。


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ミクロコスモス
MICROCOSMOS: LE PEUPLE DE L'HERBE
フランス、1996年、上映時間 73分
監督: クロード・ニュリザニー、マリー・プレンヌー、製作: ジャック・ペランほか、脚本: クロード・ニュリザニー、マリー・プレンヌー、撮影: クロード・ニュリザニー、マリー・プレンヌー、ユーグ・リフェル、ティエリー・マシャド、
音楽: ブリュノ・クーレ