ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

内田樹とフェミニズム

2003年07月01日 | 読書
 内田樹という人の書く事はおもしろい。とりわけ、『ためらいの倫理学』はわたしの実存を揺さぶり、不安に陥れる好著だった。その内容の8割に賛同する。しかし、どうしてもフェミニズム批判については違和感とひっかかりを感じた。「フェミニズムは軍事的には正しいが、学問としては認めない」という発言に対して疑義があるのだ。現状を変革しようとする戦略は学問ではないと言いたいのだろうか? 彼はフェミニズムは学問ではなく訓育の言説だと主張する。では学問とは無色透明で人畜無害なものでなくてはならないのか? そしてまた、もしフェミニズムが学問でないとして、それがいけないことなのか? 

 次に読んだ『女はなにを欲望するか』は、基本的には『ためらいの倫理学』と同趣旨の枠組でものをいっている。著者は手を変え品を変え基本的には同じことを言っているのだ。ただ、本書のほうが論理が精緻化されているので、理解しやすく説得力はあるかのように見える。

 さて、最初の問い(フェミニズムは学問ではない?)はひとまず措いて、まず内田樹氏の知のありかた(ご本人の言葉でいうなら「黄金律」)には大いに賛同の意を表したい。著者の立場は、「自分の主張が正しいかどうか、常に留保をつける。自分の理論が当てはまらないことにまで無理に適用しない。自分の知性を疑うだけの理性をもつ」というものだ。要するに内田樹は反省する知識人である。Reflexiveであること、これは知にとって必須の条件だと思う。

 だから、著者はReflexiveでない言説にはとても厳しい批判の目を向ける。標的はマルクス主義とフェミニズムだ。彼に言わせれば、どちらの思想も、中世キリスト教「異端審問官」のような口調でものを言い、他者を批判するという。我こそが弱者であり正義である、と。さらに、「『フェミニズムはあらゆることをその理論で説明できる』というような全能感をもたらした」ためにその思想の終焉を迎えているのだという。

 フェミニズム(古くはウーマン・リブ)のもつその挑発的言辞のパワーに溜飲を下げた女は多いだろう。わたしは1991年に第一子を出産した。そのとき、鬱屈した子育ての日々のなかで上野千鶴子『家父長制と資本制』に出会えたことが、どれほど大きな生きる力をわたしに与えただろう。赤子に乳を含ませながら貪るように読んだ上野千鶴子は、わたしにとってはバイブルのようなものだ。

 つまり、フェミニズムとはそのようなものである。女に生きる力を与えるものなのだ。内田先生に学問ではないと揶揄されようが批判されようが構わない。フェミニズムは、今ここで呻吟する女たちを生き返らせる言説なのだ。そのためには軍略が必要であり、戦略戦術を練る必要がある。

 女性解放思想が「ウーマン・リブ」ではなく「フェミニズム」と呼び習わされるようになったころから、それは学問の衣を纏い始めた。そして、フェミニズムは男女の不均等な権力配分や富の分配について鋭い論究を残してきた。だがそれが、「視線」や「息づかい」にまで拡大すると、ことは違ってくる。政治や社会制度だけではなく、文学・美術・言語、あらゆる領域で男性支配が及んでいることをフェミニズムが鋭く指摘し始めたころから、確かに内田樹が指摘するような、「『フェミニズムはあらゆることをその理論で説明できる』というような全能感をもたらした」という事態が起きてきた。わたしもこれは問題が多いと思っている。たとえば上野千鶴子ほか著『男流文学論』などはおもしろおかしかったが、「これはちょっとやり過ぎなんじゃないの」と思われるような「味噌も糞も」式の文学批判が続出していた。

 そして、これもしばしば内田が言うことだが、フェミニズムはマルクス主義と同じ「競争原理」を持つ。どれほどフェミニスト的であるか、どれだけマルクス主義的であるかを競うようになるのだ。そして、「そんなことを言うやつは階級敵だ」とか「そんなことを考えるようではフェミニスト失格」とかの烙印を押し始めるようになる。わたしもそういう先鋭化・純粋化を図る思想は危険だと思う。ラディカルさを競う結果は連合赤軍事件や不毛な言葉狩りへと行き着くしかないから。

 フェミニズムはまた、マルクス主義と似た目標を持つ。「全世界を獲得するために」という気宇壮大な理想を掲げることがそれだ。マルクスの「予言」は大部分がはずれた。マルクス主義は消尽したという言説もある。だが、果たしてそうだろうか? 同じように、フェミニズムも思想としてその終焉を迎えているのか?
 わたしは著者の位置取りには賛同するものの、どうも『女は何を欲望するか?』に関しては、違和感が付きまとう。ちょっとおかしいんじゃない、内田センセ、と言いたくなるのだ。内田樹はフェミニズムを沈みゆく船に例えているが、それは「ある種のフェミニズム」なのだ。本書で内田はズルをしている。マルクス主義が百家争鳴である/あったのと同様に、フェミニズムも一人一党状態なのだ。なのになぜある特定のフェミニズムだけを取りだして批判を加えるのか? しかも、わざと誤読していると思えるフシまである。

 たとえば、言語分析のくだりだ。日本語にはそもそも男女別の言語体系があるから、女はすでに女の言葉を「奪還」しているではないか、と内田はいう。これは明らかに内田の<わざとボケ言辞>である。日本語に関して言えば、とうぜんフェミニストはその男女性差の不均等な言語構造こそ問題だと述べるはずだ(たとえば「女流文学」はあっても「男流文学」はないとか、「女史」がいても「男史」はいないとか、女言葉は優しく男言葉は攻撃的、とか)。欧米語方式のフェミニズム言語分析が日本語には適用できないという論はなるほどその通りだと思う。だが、日本語には日本語の性差が厳然とあるし、どう考えても男女対等なものではない。なんでも平等にすればいいとは思わないが、言語における不均衡を考えることは、隠された性差別を露わにしたという成果があったではないか。
 
 内田樹のものの言い方は小浜逸郎『「弱者」とはだれか』に似ているが、小浜よりはずっと論理が緻密なので、ずいぶん説得力がある。とはいえ、本書前半のフェミニスト言語分析批判は納得いかないものを感じる。内田氏の論は概ねこういうものだ。
「女は自分史を語れない、語る自己と語られる自己とが永遠に乖離する、とフェミニストはいうけれど、それは男だって同じだ」

 要するに、
 女は抑圧されているのよ! →ああ、そうかい。男だって同じだよ。
 女は自己疎外に陥っているのよ! →男もそうだぞ。女だけが悲しい思いをしているわけじゃない。

 やれやれ、これではフェミニズムはいったい今までなにを言いつづけてきたんだろう? 内田先生はなにをフェミニズムから学んだの?
 おまけに、「あとがき」に書かれた結論にいたっては、悲しくなる。男が欲望するものを女も欲望するのがフェミニズムの始まりだという論には首肯しよう。確かに「女性解放」を訴えた初期のフェミニズムは、男だけが独占している権力や財を女にも分け与えよと叫んだ。しかし今や、フェミニズムもさまざまに分化している。内田が「あとがき」で批判したようなアグレッシブなフェミニズムが主流だとは思えない。男並に競争社会を生き抜くことを目標に掲げるようなそんなフェミニズムなら、わたしだってごめんこうむりたい。
 
 『疲れすぎて眠れぬ夜のために』では、確かにいいことをいってる、首肯できることもたくさん言っている。特に、競争社会アメリカを世界標準と思うなとか、アグレッシブな競争社会の弊害についてはたいそう興味深いエピソードを交えて説得力ある言辞で語っている。
 けれど、いっぽうで「まるで内田樹は保守派のオヤジが言うようなことを言ってるではないか」とうんざりする部分もある。それはアイデンティティをめぐる言説だ。 アイデンティティをここではひとまず「○○らしさ」だと規定しておこう。内田氏は<「らしく生きる」ことが大事>だとおっしゃる。 「男らしさ」も「女らしさ」も欲望を分散させて社会的リソースの争奪を縮減させるためには必要だったと。
 はぁ? 問題は、「男らしさ」や「女らしさ」に抑圧構造が潜んでいたことではなかったのか? フェミニズムがさんざん教えてきたことをなんで忘れたふりをするのだろう。

 わたしだって、電車の床に座り込んで大口あけて「がはは」と笑いながらジャンクフードを食い散らかす下品な女子高生は大嫌いだ。だけど彼女たちに「女らしくしろ」とは絶対に言わない。知性と品性を保て、とは言うだろうが。人に迷惑をかけるな、公共空間では互いの領域を守って不快感を与えるなと、その程度のごくふつうの躾は愚息たちにもしているつもりだ。それは男女の区別なく訓練すべきことである。最近の女子高生が女らしくないから問題なのではなく、公私の境界が曖昧になってきたことが問題なのだ。若者の行儀悪さにジェンダーは関係ない。

 著者は難破しかかった船(フェミニズム)から財宝を救い出そうとして本書を書いた、などと「まえがき」でいっているくせに、いったいどんな財宝を救い出してくれたというのだろう? 

 と、いっぱい悪口を書いたけれど、実はわたし、この人の書くものが好きなのだ。今回批判した部分以外は、とてもおもしろかった。とりわけ本書の後半部分、映画「エイリアン」分析にいたっては思わずうなってしまった。これ、映画好きにはたまらない分析だ。しかも、結論部分には思わず膝を打つ。そうだ、映画は正しい検閲をくぐり抜け、言語と映像のミスマッチと格闘によって人々に人生を教えている、優れたメディアだ。ぼうっと見ているふつうの人々こそが「正しく」そのメッセージを受け取る。インテリはだめだ、評論家の目で映画を見るなんて、もう、邪道邪道。
 しかしね、これはすなわち、ぼうっと見ているふつうの人々こそ、映画というメディアに左右されやすいということを意味する。この危険な罠をどう回避するのか? 内田氏にはぜひこのあたりについての緻密な論理展開を望みたい。未読の『映画の構造分析』には書いてあるのだろうか。

 ……などと書いているうちに『映画の構造分析』が今日、bk1から届いた。これで5冊だよ、内田さんの本を買ったのは。また金がとんでいく(涙)。こうして内田樹の印税収入に貢献するわたしって……

 フェミニストの内田樹論を読んでみたいものだ。どういうふうに反論するのか、興味津々だ。あるいは全然相手にしないのか。わたしはほんの少ししかフェミニズムの文献を読んでいないので(そもそも今回内田氏が取り上げたフェミニストなんてイリガライの名前だけはどうにか知っているという程度なのだ。あとは名前も知らない)、ろくなことが書けないから、ちゃんとしたものを読んでみたい。

 内田樹は多くの領域に目配りをしてものを言う。なので、この短いエッセイで彼の主張すべてにコメントすることはできない。それにまだまだ勉強不足だし。
 思うに、問題は内田樹が何を言っているかではなく、どう読まれているかなのだ。マルクスが何を言ったかよりもどう読まれたかが問題であったのと同じように。どうにでも読める、多くの人が自分に引きつけて好きなように読めるということは、それだけ内田樹の引き出しが多いということを意味する。含蓄の深いことを書いているわけだ。しかも、とても読みやすくおまけに言いにくいことまでズバズバ書くし、大衆はバカだとはっきり言うし、ある種の人々を惹きつける魅力に溢れている。
 だからこそ、どこをどう読むかが問題だと思う。これについてはまたいずれ別の日に。

 フェミニズムを批判する内田樹の文章からはフェミニズムに対するねじれた愛が感じられる。批判のためとはいえ、これだけ膨大な文献を渉猟するのは大変な努力がいる。愛なくしてはなしとげられない所業だ。かくいうわたしも、内田樹についてこんなにたくさん書いてしまった。これも愛やね、確かに。内田センセイの講義を聴いてみたいっす。あの美しいキャンパスの神戸女学院大聴講生になりたい。おばさんでも入れてもらえるんやろか(^^;)。