ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

”癒し”は世界を救えるか?

2003年07月07日 | 読書
 先日届いた通販のカタログのタイトルは、「スーパードライウェア・癒し・UVカット特集」というものだった。
 UVカットならわかるが、癒しとは? 着るだけで癒される服があるというのか?

 もう何年も前から「癒し」が流行している。「癒し系」という言葉まである。バブルが弾けてすでに13年。失業率は一向に下がらず、収入は減る一方。中高年は前途の不安にかられて過労死寸前、若者もまた将来展望を描けない現実がある。
 癒されたいと思うだろう、確かに。いや、他人事でなく、わたし自身もこのところ、「癒し系」と呼ばれる音楽ばかり聴いているような気がする。ただ、こういう音楽は昔昔からあったもので、なぜ今更のように「癒し」と呼ばれるのか、不思議なのだ。
 それは商品のキャッチコピーの一つに過ぎないのに、今や言葉とイメージが一人歩きして、「癒し」が大手を振って歩いている。

 失業中の身が音楽を聴いたり絵を眺めていても、働き口が見つかるわけではない。癒されている暇があったらせっせとハローワークへ行ったほうがよいだろう。処理すべき問題が山積しているとき、必要なのは癒しよりも実効的な手だてだろう。資金繰りに行き詰まっているときに必要なのは癒し系の音楽ではなく金だ。

 それでもなお、癒されたいと願う人々が後を絶たないというのだろうか。

 旧聞に属するが、『インパクション』123号(2001年)「<<癒し>>からの解放」という特集の中で、崎山政毅はこう述べている。


 《なぜ癒しが必要なのか? 誰に(あるいは何に)対する、誰がおこなう癒しなのか? そしてそれはいかなる癒しなのか?
 「癒しが必要だ」というならば、最初に問われるべきこれらの問いは、みごとに掻き消されてしまっている。こうした当然の問い掛けを不在においたまま、情動の政治が蔓延していると言い換えてもよい。あるいは秩序に、あるいはカルトに、健康神話に、マスメディアを通じて生産されるスペクタクルに、「他者を欠いた平穏な日常」に、私たちが魅かれてしまうとき、確実に「癒し」のメカニズムは発動する。その意味で「癒し」は支配の一表現にほかならない。》

 癒しは人民のアヘンだ、とマルクスなら言うだろう。

 崎山はまたこう続ける

 《「なぜ」・「何(誰)に対して」・「誰が」・「いかなる癒しなのか」を歴史的・社会的な問いかけとして不可避的に伴うような、ヘゲモニー的に構成された「癒し」とは異なる癒しを求める人びとや状況が存在する。
 その際の癒しは、戦争や植民地主義の暴力にさらされてきた人びとにとっての癒しであり、そうした暴力を明確に批判し二度と繰り返させないために共有されるべき、「いま・ここ」での解放という問題設定を伴うはずの癒しである。》

 崎山さんの提起は視点が広く、癒される者と癒す者との支配関係に着目し、そこに権力の剔抉と歴史的視座の導入を訴える。さすがに彼の指摘は鋭い。わたしはその洞察に異論はない。

 だが、わたしがいま考えているのは、そんなグローバルな政治的なことではない。もっとチマチマした日常些細な癒しのことだ。
 誰が癒されたがっているのだろう、とふと思った。
 苦しいことに向き合わず、自己を見つめず、安易に時流に流され、考えることも闘うこともしない、そんな人々が癒しを求めているとしたら? なにほどかも自分の力で努力せず、些細なことに傷つき、そして癒されたがっている甘えん坊ばかりだとしたら? 責任は負わず、人のすることに文句だけは一人前にまくしたてる、あるいは陰口を叩く人間が、癒してほしがっていたとしたら?


 いま、癒し系アルバム「Tranquility」の心地よい音楽が流れている。青葉の葉脈を伝って水滴がしたたり落ちていくようなこのサウンドに身を委ねるわたしには、果たして癒される資格があるのだろうか。崎山政毅の問いかけにも応える言葉をもたない、そんなわたしがいったい世の中の誰に対していかほどの役に立っているというのだろう? そんな自問に、ますます癒されない夜が更けていく。

 歯を食いしばって苦しみと闘っている人こそが癒される資格をもつ。安易に癒しに逃げる者はほんとうに癒されることなどない。
 「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」。

 苦しみから逃げない。いつも前向きに立ち向かう。孤高の闘いでもめげない。そんな魂にわたしは寄り添いたい。そして、そんな人にはこう言おう。
 せいいっぱい頑張ったから、もう休んでもいいですよ。あなたこそ、癒されるに違いない、この音楽に。このささやきに。この静かな時の流れに。


 そういえば、今夜は七夕。一年に一度、二人は出逢って癒しあっているのだろうか。