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今出川通の南北3 宗像社と閑院宮邸庭園

2021年09月26日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 拾翠亭の一般参観がコロナ対策にて停止されていたので、次のスポットに行きました。上図の宗像神社です。

 

 案内板です。要約すると、この宗像神社は藤原氏北家の祖である藤原冬嗣が延暦十四年(795)年に桓武天皇の許可を得て、平安京の東西両市の守護神として九州築前の宗像神社を勧請したのが創祀とされます。その後、藤原冬嗣の自邸小一条第に移したと伝えられますが、現在地がその小一条第の跡地です。
 つまり、小一条第に移された宗像神社がそのまま境内地を保って現在に至っているわけです。後に小一条第は花山天皇の皇居とされたため、それ以来この地は「花山院」とも呼ばれました。

 

 その後、藤原時平の代に倉稲魂神を合祀し、更に天承元年(1131)に藤原師実から子家忠が花山院(小一条第)を伝領して花山院家を創設した際、天石戸開神を合祀して同家の守護神と定めました。それで、宗像神社は花山院家の邸内社となり、建治元年(1275)に官社に列しています。

 その後、応仁の乱にて罹災焼亡したが再建され、周辺一帯の公家町化にともなって花山院家が転宅した後も鎮座地を変えず、明治期の東京遷都によって御苑内鎮座となっています。

 

 境内社のひとつ、花山稲荷社です。境内地の南側に位置し、樹齢600年とされる御苑内最長寿の楠の老大木の下に鎮座します。祭神は倉稲魂神で、花山院家の守護神として祀られたものです。

 

 同行者と並んで幣門の前に進み、礼拝しました。幣門の奥に建物の一部が望まれた本殿は一間社流造、檜皮葺です。江戸期の安政年間の再建と伝えます。

 

 続いて、同行者の薦めによって御苑南西隅に位置する閑院宮邸跡へ行きました。ここはコロナ対策下においても公開されていたので、ここが大のお気に入りだという同行者の解説を聞きながら中に入りました。

 

 一般参観の出入口となっている北門は、宮家の門にしては武家ふうの長屋門の形式で建てられています。江戸期からの遺構と思われますが、現地においても詳しい案内資料が見当たりませんでした。
 閑院宮邸の創建当初の建物は、1788年の天明の大火で焼失しており、現存の建物はそれ以降の再建になりますが、明治期に旧宮内省京都支庁が置かれた際にどの程度の改変や建て替えがあったのか、詳しいことは不明であるようです。

 

 こちらは正門にあたる東門です。いかにも宮家の正門としての外観と風格を保っています。内側の脇に門番所の建物もあり、これらは閑院宮邸関連の旧施設がそのまま維持されているようです。

 

 現在の閑院宮邸跡の建築群です。大部分は明治16年に設置された旧宮内省京都支庁の施設として新築されたと伝わります。が、一部の建物には当時残存していた閑院宮邸の建物や材料が再利用されたことが、環境省による平成15年からの保存修復事業によって判明しています。

 

 閑院宮邸跡の庭園は、平成16年から17年にかけて発掘調査が実施され、その実態が解明されています。出土時の遺構は埋め戻されましたが、その精巧なレプリカが上に築かれて、発掘当時の様子を忠実に再現しています。こういう形で宮家の庭園遺構を見学出来るところは、国内ではここだけです。

 

 現地の案内解説板です。

 

 閑院宮家は、宝永七年(1710)に東山上皇第六皇子の秀宮(直仁親王)を始祖として創設されましたが、第七代の春仁王が戦後の昭和二十二年に皇籍を離脱し、閑院氏を名乗って純仁(すみひと)と改名、宮号を返上しました。閑院純仁には実子が無く、養子も取らなかったので閑院家は断絶となっています。

 閑院宮邸跡は、明治期の東京遷都で主が去った後は、華族会館や裁判所に転用され、庭園も寂れたようです。さらに大正天皇即位大礼にともなう大正四年の御苑大改修によって東の築地を延長したため、庭園の東半分がその際に埋め立てられて失われています。
 したがって、いま見られる庭園は、元の庭園の西半分にあたります。その範囲を発掘調査したわけです。

 

 現存の庭園は、新旧2期の様相を示しています。いまレプリカ再現にて表示されている遺構は、大部分が旧池、一部が新池のものであるそうですが、その境目はよく分かりません。

 上図は旧池の中島部分です。この川原石を並べて据えて築かれた部分が、閑院宮邸の創建に続く庭園の作庭当時の部分に相当します。

 

 こちらは旧池部分の魚溜まりとされる環状の石列遺構です。その両側には小さな石を敷き詰めて造った州浜があります。池の汀(みぎわ)、つまり水際の護岸と修景を兼ねる州浜は、仙洞御所の庭園と同じく、皇室の格式と伝統を意識した造りを示しています。

 

 上図は池の西側です。中島は無く、汀の西端に景石が一つあるだけで、水深も浅いです。水面を静かにたたえて遠浅の海をイメージさせるように水際の意匠が最低限に抑えられた範囲であったのでしょう。  (続く)

 


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