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今出川通の南北2 九條邸跡と厳島社

2021年09月24日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 今回の京都御苑散策では、同行者のすすめにより、御苑のエリアの西半分ぐらいを南から北へと回る計画でした。
 その最初の見学スポットが、御苑内の南西端に位置する九條邸跡でした。上図はその案内板で、九条邸跡と書かれますが、「条」は歴史的には旧字体の「條」と表記するほうがしっくりきます。

 

 九條邸跡の敷地内に進み、案内板を読んでから九條池にかかる石橋に進みました。上図は石橋より北の通りを振り返ったところです。

 

 現在の九條邸跡は、庭園の九條池と拾翠亭(しゅうすいてい)から成ります。本邸の屋敷は明治期に東京へ移され、いま一部の建物が九条館として東京国立博物館に移築保存されています。拾翠亭は江戸時代後期に別邸として建てられた茶室です。

 九條家は、五摂家の一つで、藤原北家嫡流の藤原忠通の六男である九條兼実を祖とし、遠祖藤原鎌足より続く藤原一族の男系血統上の宗家にあたります。家格としての嫡流は五摂家筆頭の近衛家ですが、歴史的にみると藤原氏一門全体のなかではむしろ九條家が主流として広く認識されたようです。

 

 九條の家名は、史上初の関白に就任した藤原基経が創建した京都九條の九條殿に住んだことが由来です。九條兼実の孫の道家の子、教実、良実、実経が摂関を務めてそれぞれ、九條家、二條家、一條家を立てて、五摂家のうちの三家が成立しています。

 現在の当主は第36代目にあたる九條道成氏で、明治神宮の宮司を務めておられます。京都ではその父の第35代目九條道弘氏のほうが平安神宮の宮司を務めておられた関係で知名度が高いようです。

 

 九條邸跡の北側の一角には、九條池に面して厳島神社が鎮座します。いったん外の通りに戻って西から回り込み、高倉橋と呼ばれる石橋を渡って境内地に入りました。

 

 案内板です。要約すれば、平清盛が摂津国兵庫津に築島(経が島)を造成した際に、同島に社殿を構えて厳島社を勧請し、後に清盛の母の霊を合祀したうえ、社地を当地へ遷座させたたものです。その遷座の時期は不明ですが、のちに鎮座地は九條家の邸宅内に取り込まれ、以後は同家の鎮守として崇敬されたということです。

 

 明治になって九條家が東京へ転宅し、屋敷も東京へ移築されましたが、厳島神社はそのまま残されて現在に至っています。現在の社殿は昭和二年(1927)の改築です。

 

 厳島神社の鳥居はいわゆる「京都三鳥居」または「京都三珍鳥居」の一つとして有名です。笠木と島木が唐破風形式に造られる花崗岩製の「唐破風鳥居」で、現存する中世期の遺品としてはおそらく唯一であるようです。戦前の昭和13年に国の重要美出品に認定されています。

 もとは平清盛が造成した兵庫築島(経が島)に建っていましたが、室町期に足利義晴が細川高国邸へ移築し、江戸期の明和八年(1764)に九條道前が幕府の許可を得て現在地へ再移築しました。このように来歴が確かである点も珍しく、平家ゆかりの遺品としての歴史的価値も大変に大きいです。

 

 厳島神社の「唐破風鳥居」の前より、先ほどまで渡っていた九條池の石橋を眺めました。この立派な橋が九條家の庭園の橋に過ぎないのですから、五摂家の贅沢ぶりは大したものだったことがうかがえます。

 

 厳島神社からさらに西へ回って、九條邸跡の拾翠亭(しゅうすいてい)に行きました。毎週木、金、土曜に一般参観があり、この日は土曜日でしたので、参観の申し込みをすべく受付に向かったのですが・・・。

 

 おい、マジか・・・。(志摩リン風に)  (続く)

 


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