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今出川通の南北1 京都御苑へ

2021年09月22日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2021年2月6日、久しぶりの京都歴史散策に出かけました。最初は相国寺承天閣美術館と京都市歴史資料館の特別展示を午前中の3時間ほどで見て回るだけの積りでしたが、隣接する京都御苑にはあまり行った事がないので、ついでに京都御苑や京都御所も見に行くか、と考え、3時間の行程を倍の6時間にしてほぼ半日の散策に変更しました。

 さらに同行者の提案で、室町幕府関連の遺跡も追加したので、朝からのスタートとなりました。見学範囲が京都御苑と相国寺のエリアとなったため、つまりは今出川通の南北を回る形になりました。そのコースを京都御苑の南東に位置する京都市歴史資料館からスタートしました。

 市営地下鉄で東山駅まで行き、市バスの「河原町丸太町」バス停で降りて、京都御苑東の寺町通に進み、京都市歴史資料館に向かう途中で、上図の立派な古民家の前を通りました。

 

 門の脇に貼ってあった説明板です。同志社の創設者である新島襄の旧宅だというのを、今回初めて知りました。京都御苑のエリアに今まであんまり行ってなかったので、周囲の史跡や文化財に関してもよく知らず、したがって今回は新たな学びの連続となりました。

 

 なかなか立派な邸宅ですね。主屋は木造二階建ての和風建築に洋風の手法を取り込んだ造りの建物で、いわゆるコロニアルスタイルの洋風ですが、造りの基本は和風寄棟式です。
 間取りは日本的な田の字型で、壁は柱を露出させる旧来の真壁造りとし、床を高くとって、三方にべランダをめぐらし窓には鎧戸をつけ、白い壁面に茶褐色の木部を見せる簡素な設えです。1985年に京都市指定有形文化財に指定されています。

 

 新島襄が本宅とする以前は、1875年に同志社英学校が開校した際に仮校舎として借用した高松保実の邸宅でした。要するに同志社発祥の地であり、現在も同志社大学の資料センターが管理しています。同行者も同志社大学の出なので、この邸宅にセミナーで入った事があるそうです。
 コロナ前は毎年秋に特別公開が行われていたそうですが、現在はずっと中止になっています。

 

 新島襄旧宅の前を過ぎて少し北へ進み、今回の第一目的地である京都市歴史資料館に着きました。

 

 この京都市歴史資料館の特別展示を見に行こう、という思い付きが今回の歴史散策の発端でした。ここで40分ほど特別展示を見学しました。
 個人的に印象に残った展示品は、上図のポスターを飾った、もと上賀茂神社神宮寺の本地仏であった神光院薬師如来立像のほか、方広寺大仏殿遺物の銅製舌、竜安寺の細川昭元夫人像、京都御苑内の公家町遺跡の出土品、の計4点でした。

 

 京都市歴史資料館を出て、近くの寺町御門へ向かいました。

 

 寺町通に面しますから寺町御門の名があるのですが、これと同じ御門が二棟、同じ寺町通に面していて、清和院御門、石薬師御門の名が付きます。それぞれに由来がありますが、今回は散策コースの関係でその二ヶ所の御門へは行きませんでした。

 

 寺町御門です。江戸期の建物のようですが、案内板も解説銘板も全く見当たりませんので、詳細が分かりませんでした。

 

 寺町御門をくぐると、右手に築地塀が長く延びていました。同行者が「京都仙洞御所の築地塀です」と教えてくれました。定期的に一般参観があるようですが、今回は京都御所の一般参観に行く予定でしたので、京都仙洞御所の一般参観は次の楽しみにとっておくことにしました。

 

 京都仙洞御所の西側の築地塀です。通りがどこもこんな広さなので、京都御苑ってこんなに広かったのか、と感心しました。
 京都には子供の頃から縁があり、かつては東山区や南区に住んでいた時期もありましたが、京都御苑にはどうも行った記憶がありません。たぶん今回が、初めての京都御苑だったのではないかな、と思います。  (続く)

 


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