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伏見城の面影14 南禅寺金地院東照宮から大方丈へ

2024年07月14日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 金地院東照宮の拝殿の縁側に置かれていた案内文の立札です。U氏はいつものように三度くりかえして読んでいました。

 

 そして拝殿の軒下を見上げつつ、「疎垂木(まばらだるき)だな」と言いました。神社建築の垂木形式としては簡素のほうに属しますが、ここの建物では簡素化というよりも、総黒漆塗りの黒い外観に独特のアクセントをつけるために意図的に採用されているように思われます。

 

 貫の上の黒い板壁には円環形の浮彫レリーフが懸けてありますが、もとは金泥の下地に彩色を施していましたから、黒漆の上では夜空の月のように輝いて見えたことでしょう。

 

 モチーフは鳳凰のようです。かなり剥落していますが、もとは色とりどりに塗られて鮮やかな姿であったと思われます。徳川政権の初期にて庇護した社寺の建築装飾はだいたいこのようなタイプです。日光東照宮しかり、妙義神社しかり、三峰神社しかり、です。

 

 ですが、徳川政権の関与した社寺建築においても、この拝殿のような漆黒の建物は稀です。背後の石の間や本殿が極彩色であるのとは対照的です。何らかの意図があったものと推測されますが、基本的には神仏習合期の神社の仏教的な建物形式になっていることに着目すべきでしょう。

 

 背後の石の間や本殿は、御覧のように朱柱の一般的な社殿建築の姿を示しています。拝殿と同じく寛永五年(1628)の建立で、国の重要文化財に指定されています。

 

 石の間を見ました。このように、拝殿と本殿の間の石の間を建物として構成し、拝殿と本殿とに繋いで造る形式を「石の間造り」といいます。石の間自体は本来は土間であって、平安期には既にみられたようですが、建物がつく形式となったのは安土桃山期からのようです。慶長四年(1599)に京都阿弥陀ヶ峰に建てられた豊国神社が「石の間造り」の古い例であったとされています。

 京都で似たような「石の間造り」の現存例を挙げるとすれば、北野天満宮社殿が思い浮かびます。

 

 続いて本殿を見ました。拝観順路からはちょっと離れているので、双眼鏡で見たりしましたが、典型的な江戸初期の極彩色の社殿建築です。桃山期の流行をそのまま踏襲しているように見えますが、意匠的には形式化の兆しがほの見えます。木組みなどに施された彩色の基本デザインは、平安期以来の伝統的な繧繝(うんげん)の系譜上にあります。

 

 本殿の横から土塀の小さな出入口を抜けて下へ石段を降りると、正面に開山堂の側面部が迫ってきますが、その右手に視線を向けると上図の大方丈が見えてきました。

 

 U氏が立ち止まり、私を振り返って問いかけてきました。

 「右京大夫、あの大方丈が、もと伏見城の書院だったと寺では伝えてるわけだが、どう思う?」
 「どうも、違うんじゃないかな・・・」
 「やっぱり、そう思うか」
 「ああ、規模的には大きすぎるんじゃないかって気がする。桃山期までの書院造はだいたい複数の建物を連ねるからね、二条城二の丸御殿みたいに。伏見城の書院も幾つか並んでたタイプだから、個々の建物は小さかったと思うんで・・・。でもあの大方丈は、規模が大きいし屋根も高い、あれで空間的には一つの書院として完結してる。江戸期の禅寺の一般的な方丈のタイプやな・・・」
 「俺もあれは一個の書院方丈で、江戸期の新造の建物かなと思う。この前見てきた正伝寺の方丈な、もとはここにあったんだろ?それを正伝寺へ移築したのは、あの大方丈を建てるためだったんじゃないかと思う」
 「そう、そう」

 意見が一致したところで、再び歩き出して、大方丈へと歩み寄りました。  (続く)

 


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