気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

大原秋景色2 大原の来迎院へ

2023年04月07日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 蓮成院を辞して、奥の来迎院に向かいました。その門前あたりの紅葉が、上図のように一段と鮮やかでした。嫁さんが大喜びでスマホで何枚も撮り、それでは物足りなくなったのか、私のデジカメでも色々撮っていました。聞けば、デジカメの方が画面が明るく見えてファインダーもあって撮りやすいから、だそうでした。

 

 平安時代以来の長い歴史を物語るかのような、苔むした境内外郭の石垣に沿って、南側の山門へと行きました。ここは風情ありますねー、比叡山の里の坊っていう雰囲気ありますねー、と感激めいた呟きを繰り返す嫁さんでした。彼女はこういった歴史的風情の濃い古社寺や遺跡名称などが大好きで、気持ちが安らぐのだそうです。

 

 来迎院もこの年の秋季非公開文化財特別公開の対象に含まれ、一般公開としては初めてとの案内ニュースのためか、呂川沿いの最奥地にあるにもかかわらず、観光客がけっこう来ていました。

 

 山門からは質素な庫裏が見えました。かつては勝林院と共に魚山大原寺と呼ばれ、寺域の上方を占めて上院とされた来迎院ですが、相次ぐ伽藍焼失によって多数の建物は殆ど失われ、いまは本堂と庫裏のみがひっそりと残ります。

 

 本堂は、平安時代いらい度々焼失しており、現存の建物は戦国期の天文二年(1533)の再建ですが、位置はずっと維持されていると聞きます。
 建物は、御覧のように母屋の周囲に広めの廻り縁を巡らせた形式です。声明(しょうみょう)と呼ばれる、仏教経文の歌誦の儀式に適した造りになっています。

 来迎院は、平安時代以来大原で伝承されてきた天台浄土教系の声明を伝える根本道場の体裁をいまも踏襲しており、毎年「天台声明」や「魚山声明」と呼ばれる比叡山仏教独特の声明が詠まれて山中に響き渡ります。

 私自身は長く奈良県に住んで、古代以来の奈良仏教の文化に深く親しんでいましたので、声明といえば東大寺や薬師寺に伝わる天平時代以来の奈良声明のほうに親しみがあります。シルクロードを経て中国や朝鮮に伝わり、そして遣唐使船で請来された、インドのバラモンの呪文歌謡もまじえた異国風の声明です。

 その奈良声明に対しての京都声明の中心がここ比叡山西麓の大原来迎院であるわけですが、その梵唄(ぼんばい)とも呼ばれる経文歌謡のスタイルは、平安時代の国風文化を色濃く反映して和風の、日本人の感覚での穏やかなそれになっています。

 

 その声明の話を嫁さんにすると「いまでいうと声楽隊みたいなものですかね」とかなり的確な理解を示しました。声明は上を向いて天に向かって謳うので、高い所で聴くと余韻が重なって荘厳な音色になる、と続けたら、「じゃあ、あの高い場所とかで聴いたらいいわけですね」と上図の祠のある高台を指さしました。

 

 その祠にもお詣りしましょう、と嫁さんが張り切って登ってゆくので、後に続きました。上図のように、斜面の一部を平らに削って約3メートル四方ぐらいの方形の壇が築かれ、その上に祠と五輪塔とが安置されています。神と仏が並ぶ、まさに神仏混交の形態がそのままとどめられています。ただ、祠はかなり後の時代のもののようで、中世にまで遡るかは疑問です。

 

 五輪塔のほうは、形状からみて鎌倉時代後期を下らない古い遺品です。火輪の基部が薄く造られ、軒の反りがやや強い点は、堂内や廟屋に安置される五輪塔のタイプに近いので、ここにある方形壇はもともとはお堂か廟屋の基壇であったものかもしれません。

 五輪塔のある位置は、来迎院境内地の最高所にあたり、背後は山林となって比叡山山頂まで続く斜面になっています。比叡山周辺の拠点寺院の多くは境内地に経塚を設けていましたから、その経塚の標識として五輪塔を建てたケースにあたるのかもしれませんが、確かなことは不明のままです。

 

 五輪塔の前から本堂を見下ろしました。大原に伝わる声明は、本堂の廻り縁で高らかに詠われるそうですので、ここからだと山中にこだまする余韻も伴って、ビブラート効果も伴った一種の多重奏の音色になって聴こえることでしょう。機会があったら、一度耳を傾けてみたいものです。

 

 本堂の内陣を外から拝みました。天台宗の主要拠点寺院では一般的であった、三尊同一本尊の安置形式を伝えています。左より、釈迦如来像、薬師如来像、阿弥陀如来像で、いずれも来迎院が中興された天仁二年(1109)頃またはそれより少し前の様式を示し、国の重要文化財に指定されています。

 嫁さんにそれぞれの仏像の見分け方、時代的特徴の見方を訊かれるままに説明しつつ、若い頃に初めてこの三像を拝した時のことをひそかに思い出しました。
 あの時は「この三像は12世紀に近い時期のものだが、もともと一具ではなかったみたいで作風に差がある。最も古いのは真ん中の薬師像で、これは11世紀代の作風に見える」と考えたものですが、20年余りを経た現在もその見立てはあまり変わりませんでした。
 ただ、最近の最新の研究成果に照らせば、三体とも制作時期をやや古くもっていくほうが適当かもしれません。

 

 本堂にお参りした後は、嫁さんが言うままに、本堂裏手の聖応太師良忍の廟所へ行きました。本堂の北東約50メートルの林間にあります。

 

 聖応太師良忍の廟所です。来迎院を天仁2年(1109)に中興した、実質上の開基とされる高僧で、融通念仏の祖ともされています。

 

 その墓標は石造三重塔の形式で造られた立派なものです。良忍は 天承二年(1132)に寂していますから、廟所および石造三重塔はそれ以降に建てられたものです。国の重要文化財に指定されており、文化庁の基礎台帳においては、鎌倉時代前期の遺品として登録されています。  (続く)

 

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