気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

大原秋景色3 大原の三千院へ

2023年04月12日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 来迎院から引き返して三千院の参道筋へ戻りました。途中に上図の浄蓮華院が見えました。公開寺院ではありませんが、大原地区での宿坊を務めているので、何らかの仏事や催事に泊りがけで参加した場合には入れるのかもしれません。

 表向きには、日本の佛教音楽の元となった声明(しょうみょう)の発祥の地がここであるとされていますが、京都よりも古い奈良の奈良声明との関係が全く説明されていないのが不思議です。例えば東大寺や薬師寺に伝わる天平時代以来の声明よりもこちら大原のほうが古いのでしょうか。個人的には違和感すら覚えます。

 都が平城京に在った天平時代、比叡山延暦寺は存在していませんでしたし、その里坊とされた大原の寺々も当然ながら存在していなかった筈です。声明は、厳密には歴史的にも宗派的にも色々分かれていますから、平安時代以降に形成されたこの大原の地は、正確には天台浄土教系の声明の発祥地と理解するのが良さそうに思います。

 

 来た時よりも鮮やかさを増した赤と黄が、青空にくっきりと照り映えていました。嫁さんは上機嫌でスマホを構えて撮っていました。大原の紅葉は、高雄、当尾と並んで京都の三大紅葉エリアとされていますが、紅葉の重なりが広範囲にわたって深みを持っているのが特徴と言えるでしょうか。

 

 秋の風情深まる三千院の土塀下の道を歩きつつ、「歩いーてーきたー道ー・・夢つーきぬ、こーの径ー・・・」、と楽しそうに口ずさむ嫁さんでした。その歌詞は、私が大学生の頃にサークルの詩歌集に載せたものの一部で、歌詞そのものは奈良・大和路を舞台にしているのですが、嫁さんはなぜか京都で謳うのでした。

 

 綺麗ですな。さすがは天下に聞こえた大原の紅葉でありました。三千院の周囲に特に集中しているため、紅葉がよく見える位置、鮮やかに見える場所を探してゆけば、九割ほどは三千院の参道筋に含まれます。

 嫁さんは三千院は何度か行っているそうですが、年によって紅葉の見え方が異なる、季節の状況によって紅葉の色にも変化がある、と話していました。なるほど、そうかもしれません。紅葉の色の変化は気温と日照時間に密接な関係があるというのは、私も聞いたことがあります。

 

 紅葉を愛でているうちに三千院の総門である御殿門の前に着きました。さすがに大原第一の人気寺院だけあって参詣客も大勢居て賑わっていました。

 

 参拝手続きを経て庫裏の書院から客殿に行きました。客殿の床の間の伝教大師の画像を拝みました。嫁さんが「伝教大師最澄って、天台宗の開祖ですけど、日本浄土教の祖でもあるんですよね」と小声で言いました。

 確かにその通りです。嫁さんは模型やプラモデルだけでなく、日本の歴史や仏教にも興味を持って高校生の頃から色々勉強していたそうですが、その内容が正確に彼女なりの知識に転じているのを、時々目の当たりにします。若い頃から日々きちんと学んでおくのは大事な事だな、と改めて思いました。

 私自身、思えば高校生の頃には色々本を読み、図書館に行き、博物館を周り、興味ある古社寺を訪ねたりしました。分からない事や疑問があればすぐに辞書や資料をひも解いて調べていましたね・・・。その頃から大学時代までに学び、教わった事柄というのが、今の私の中で最も生きている気がします。

 

 嫁さんが「なにか雑然としたお庭」と形容した、三千院に二つある庭園のひとつ聚碧園(しゅうへきえん)です。客殿の周囲に広がる池泉観賞式の庭園で、江戸時代の作庭と伝えていますが、確証はありません。そもそも三千院が現在地に境内を構えたのが明治四年(1871)のことですから、その時に新造したものとするほうが自然かな、と思います。

 三千院がここに移転する前には大原寺の政所が在ったらしいのですが、その実態はよく分かっていません。この政所とは、名の通り大原における天台宗の管理事務機関で、当時既に大原に在った来迎院、勝林院などの寺院を管理していたとされています。
 政所を設置したのは、堀河天皇第三皇子で保元元年(1156)に天台座主となった最雲法親王ですが、この人が三千院の前身である円融院に入寺し、大治五年(1130)に第14世梶井門跡を継いでいますので、政所は設置当初から梶井門跡の一機関として機能したようです。

 梶井門跡はもとは円融院の里坊で、比叡山東麓の坂本の梶井に所在したことからその名があり、後に京都市内に移転し、中世戦国期以降には大徳寺の南に位置していました。いまも大徳寺の南に残る梶井門はその遺構とされています。その梶井門跡が江戸期には現在の京都市梶井町の京都府立医科大学河原町キャンパスの位置に移転し、明治維新後に大原の現在地に移転したわけですが、その際に政所を本坊とし、梶井門跡の持仏堂の名称「一念三千院」にちなんで寺号を三千院に改めました。

 なので、三千院がここに落ち着くまでは、梶井門跡の大原の政所があったわけですが、政所という寺院の単なる管理事務機関に聚碧園(しゅうへきえん)のような立派な庭園があったとは考えにくいので、江戸時代の作庭という伝承自体もよく分かりません。もう少し詳しい歴史的事情を知りたいところです。

 

 客殿から順路をたどって本堂の宸殿に進みました。宸殿は大正十五年(1926)に宮中の紫宸殿を模して宮殿風に造られた建物で、宮中仏事を引き継ぐ行事である5月30日の宮中御懺法講(きゅうちゅうおせんぼうこう)が行われる道場でもあります。
 その南側には、三千院のもうひとつの庭園である有清園(ゆうせいえん)が広がります。平安時代以来の遺構をいまに伝える往生極楽院の境内地を中核として三千院が移転した時に整備し直したものとされ、もとの藤原時代浄土系庭園の面影が東側の園池などに見られます。三千院の庭園といえば、たいていはこちらの有清園を指します。

 

 その有清園の南に往生極楽院の甍が見えました。三千院がここに移転してくるまでは、極楽院とも呼ばれたこの寺は、平安時代後期の十二世紀末に、高松中納言藤原実衡の妻である真如房尼が、亡き夫の菩提を弔うために建立したものであり、その発願建立の経緯が真如房尼の甥にあたる吉田経房の日記「吉記」に記述されています。
 さらに平安時代の末期には、極楽院に隣接して梶井門跡の政所が建てられました。この政所の位置に三千院が京都市梶井町から移転してきて、現在の構えが整備されたわけです。

 

 往生極楽院を囲む有清園の紅葉が、まさに見頃でした。三千院の紅葉とは、これらの紅葉群を指します。

 

 宸殿から降りて有清園の順路を進み、紅葉のトンネルの中をゆっくりと進みました。というか、参詣客の行列が順路を進んでゆくのに合わせて流されていった、というのが実感に近いです。

 

 一度振り返りましたが、出てきた宸殿の建物は、紅葉の奥にまぎれて殆ど見えなくなっていました。

 

 往生極楽院の南、正面に着きました。藤原時代以来の遺構を伝える阿弥陀堂建築ですが、屋根の大部分や軒廻りなどの外回り部分は江戸時代の元和二年(1616)に大幅な修理を受けており、建物の大部分はほとんど江戸時代の様式に変わっています。藤原時代以来の部分は内陣とその船底天井ぐらいです。
 それでも、現存する平安期阿弥陀堂の貴重な遺構であることには変わりがなく、国の重要文化財に指定されています。

 

 往生極楽院に祀られる阿弥陀三尊像です。脇侍の勢至菩薩像像内の銘文から平安時代末期の久安四年(1148)の作と判明しています。制作年代が分かる点でも貴重ですが、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊が西方極楽浄土から故人を迎えに来る来迎形式につくられて両脇侍が跪座(きざ・ひざまずいてすわること)するのも類例が稀です。平成十四年に国宝に昇格しています。

 嫁さんに訊かれるままに、この阿弥陀三尊像の概要、歴史的意義、そして定朝様式の継承の実相などを簡単に説明しました。三十五年前に、同じ内容を恩師井上正先生に、この同じ場所で説明していただいたのを思い出しながら、でした。  (続く)

 

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