ふうてんの猫の猫耳東風的フリチベ生活

働きながら和製MBAと工学博士取得をしていた自称苦学生バックパッカーの日記。
今は学位もとって大阪で技術戦略考えてます

メディア論 と 現代の夢って何よ?

2005年02月28日 | 徒然なるまま(日々雑事)
若者が夢を見られない社会は駄目 
というblogを見て、いろいろ思ったので、夢について書いてみようと思います。

かものはしプロジェクトのようにITを通じて、児童売春の危機にある子を救いたいとか、
ビッグイシューのように、ホームレスの人が自立する道を作りたい とかや夢ですし、
北朝鮮に拉致された家族を救いたいというのも夢だと思います。

そうした夢を支えられるだけの度量のある社会は必要だろうと思いますし、
社会をより良き方向へ変えていく力とはそういう夢を持つ人々の志だと思います。

しかし、ITバブルのころに急増したベンチャーバカのように、ベンチャーが古い企業よりも素晴らしく、そうしたベンチャーで巨万の富を得るというのは、社会が支えなければいけない夢でしょうか?
各自がそういう夢を勝手に見る分には自由ですが、ハイリスクハイリターンだと当時もいっていたのに、うまくいかないと社会が悪いというベンチャー関連の人々は本当に社会を良き方向へ変えていく力の源泉なのでしょうか?

私はそうではないと思う。
自分の人生をかけて実現したい目標を夢というのだと思う。
そういう大志を、最近の若い人はかわらなくなっているように思う。
Me イズム といわれるように、自分を社会が大事にすべきだ、会社は自分を成長させるべきだと
自分が何を周りに出すか?というように夢すらも社会が与えるものだと思っている。

そして、そういう夢を持つことが素晴らしいとマスコミや就職サイトや転職ビジネスをする人々はけしかける。
そういう文脈の中では、「そんなにかっこいい仕事でもないけど、仕事を一生懸命やって、好きな人と結婚をして、子を育て、平凡に、そして美しく老いていく」という人々は、「人生を企てない人々」として、軽んじられ、不幸だとすら言われます。

朝日など左派系雑誌などは、社会や会社にあなたは不幸にされている。さぁ、世の中をうらみ、政権を打倒しましょう。というメッセージを送ってきます。

イデオロギーを別にしても、大量消費時代の申し子であるテレビCMは今ある幸せに感謝するよりも、ない物を探し出して、それがないからあなたは不幸だとささやきかける。
「さぁ、これを買ってあなたも幸せになりましょう と」
ですが、私はそんなことは不幸ではないと思う。
ありもしない桃源郷に行けというのは、詐欺師の台詞です。

でも私にも夢はあります。
大して持たざる人々に笑顔があるようなそんな世界が、この地球のどこにでもあるようになる。
それが私の夢です。


そして、そういう私から見ると、一人が巨万の富を独占するようなことを、安易に容認し、夢だと追従する人たちは私から見ると、お互いに相容れないものを見ているようにも思います。

夢を持ってつき進められる人は、是非ともそれを頑張って欲しいし成功させて欲しい。
でも、それが人より贅沢したい、人からほめられたい、人を支配したい
という欲望であれば、社会はそうした悪しき心と戦わなければならない。
実は、就職中の学生が言っている夢のいくつかは、そうした「欲望」であって、世の中を変えていきたい、人々を幸せにしたいという「願」ではないように思います。
そうした欲望を持つことも、現代社会では許容され、また、時として推奨すらされますが、決して若者にそういう欲望をもたせられる社会が良い社会だとは思えません。

そして、meイズムな時代では、夢の主語は「私は、○○になる」であって、「社会を平等にしたい、人を幸せにしたい」ということでなくなっていることが、この時代の夢の大きな問題だと思います。


蛇足:まったくもてない人々の国をこの世の楽園、といって在日朝鮮人を北朝鮮へ送り続けた朝日新聞は、食べるものすら持たない人々でも思想が満たされれば幸せだと思っていたあたりは、実は私とベースは一緒なのかもしれない。ただ、私は、その思想が、自然や人々に感謝し、人生を美しく徳を積んで生きようとする、仏教や日本の神道など、古い日本の価値であり、朝日新聞にとってはそれが共産主義だっただけなのかもしれない。