日記にいただいたコメントも返せていない今日この頃なのに、日記を追記してごめん。
池澤夏樹の語る、世界の平和が僕は好きです
僕は、世界のために涙せよ。 や イラクの小さな橋をわたって
の描いたアメリカの横暴による侵略というものを読んで、とても憂慮して、悲しんでいました。
世界のために涙せよ 前文 の最後
「 なぜこんなことになってしまったの。あどうすればアメリカの暴走は止められるのか。誰にも即答はない。これからしばらく、世界はこの超大国の横暴に耐えて生きることになるだろう。もしも総論としての解決策がないとすれば、各論を積み重ねて対策するしかない。この本は、各論を積み重ねる試みの一つの例である。
世界のために涙せよ。
あなたには泣く理由はないかもしれない。だが、せめて、仮に5分でも、泣いている人々の側に身を置いてみてほしい。今日坐り込んで泣いている人は、明日は怒って立ちあがるだろう。その声を聞かないと、世界はいよいよ住みにくいところになる。」
世界のために涙せよ まえがきより
このアメリカの暴走を共産中国の暴走として置き換えれば、チベットサポーターの気持ちの代弁になると思います
これをイスラエルの暴走として置き換えれば、パレスチナの人々を応援している人々の気持ちの代弁になると思います。
そして生きとし生けるものの苦難を憂慮するのが仏教徒だと思っています。
しかし、自称平和主義者のマルキストたちは、中国や北朝鮮での弾圧に目をつぶり、
中国の人権弾圧を声高に非難する右翼はイラクやアフガニスタンの弾圧と悲劇に目をつぶり
mixiのフリチベコミュで管理の力を行使する人たちはパレスチナや日本のホームレスを憂慮する想いを弾圧し、
愛や慈悲や神の救済を説く宗教指導者の多くは、異教徒への弾圧を黙殺し、
日本の戦争犯罪を声高に訴える左翼は、日本人の拉致被害者やシベリア抑留の被害者たちを罵倒している。
どうして、ある人々の悲しみを主張する人が、一方の人々には冷酷な態度をとれるのだろう。
肌の色や国籍や信仰や政治体制によらずに、
家族が殺されて悲しいと泣いている人々に対して、
ただ助けてあげたいと願う人々はどうしてこんなに少ないのだろう。
何もしてあげられなくても、ただ、一緒に悲しんであげること行為をして欲しいと願うのは、どうしてこんなに難しいのだろう。
僕が見聞きする、チベットサポーターたちには、どうしてこんなに愛や慈悲や寛容さが足りないのだろう
仏陀のおっしゃった「生きとし生けるものは幸せであれ」という言葉が、輝きを持つのは、そのように思える人たちがほとんどいないからなのだろう。
時々、この世界で平和とか愛や慈悲を願うことが、本当に、無意味に思えるときがある。
みんなはどうやってこの現実と折り合いをつけているのだろう・・・・
あーあ、南の島に帰りたい。
池澤夏樹の語る、世界の平和が僕は好きです
僕は、世界のために涙せよ。 や イラクの小さな橋をわたって
の描いたアメリカの横暴による侵略というものを読んで、とても憂慮して、悲しんでいました。
世界のために涙せよ 前文 の最後
「 なぜこんなことになってしまったの。あどうすればアメリカの暴走は止められるのか。誰にも即答はない。これからしばらく、世界はこの超大国の横暴に耐えて生きることになるだろう。もしも総論としての解決策がないとすれば、各論を積み重ねて対策するしかない。この本は、各論を積み重ねる試みの一つの例である。
世界のために涙せよ。
あなたには泣く理由はないかもしれない。だが、せめて、仮に5分でも、泣いている人々の側に身を置いてみてほしい。今日坐り込んで泣いている人は、明日は怒って立ちあがるだろう。その声を聞かないと、世界はいよいよ住みにくいところになる。」
世界のために涙せよ まえがきより
このアメリカの暴走を共産中国の暴走として置き換えれば、チベットサポーターの気持ちの代弁になると思います
これをイスラエルの暴走として置き換えれば、パレスチナの人々を応援している人々の気持ちの代弁になると思います。
そして生きとし生けるものの苦難を憂慮するのが仏教徒だと思っています。
しかし、自称平和主義者のマルキストたちは、中国や北朝鮮での弾圧に目をつぶり、
中国の人権弾圧を声高に非難する右翼はイラクやアフガニスタンの弾圧と悲劇に目をつぶり
mixiのフリチベコミュで管理の力を行使する人たちはパレスチナや日本のホームレスを憂慮する想いを弾圧し、
愛や慈悲や神の救済を説く宗教指導者の多くは、異教徒への弾圧を黙殺し、
日本の戦争犯罪を声高に訴える左翼は、日本人の拉致被害者やシベリア抑留の被害者たちを罵倒している。
どうして、ある人々の悲しみを主張する人が、一方の人々には冷酷な態度をとれるのだろう。
肌の色や国籍や信仰や政治体制によらずに、
家族が殺されて悲しいと泣いている人々に対して、
ただ助けてあげたいと願う人々はどうしてこんなに少ないのだろう。
何もしてあげられなくても、ただ、一緒に悲しんであげること行為をして欲しいと願うのは、どうしてこんなに難しいのだろう。
僕が見聞きする、チベットサポーターたちには、どうしてこんなに愛や慈悲や寛容さが足りないのだろう
仏陀のおっしゃった「生きとし生けるものは幸せであれ」という言葉が、輝きを持つのは、そのように思える人たちがほとんどいないからなのだろう。
時々、この世界で平和とか愛や慈悲を願うことが、本当に、無意味に思えるときがある。
みんなはどうやってこの現実と折り合いをつけているのだろう・・・・
あーあ、南の島に帰りたい。