さっき、人事面談用の資料を書き終えて、アイリッシュパブに飲みに行きました
お店は本当に広くて、ステージから、プールバーまであって、それでも外で立ち飲みしているほどの繁盛店。
ただ、ギネスの生だったのですが、あまりおいしくないのはなぜ?
ただ、一人で外国人というのは、別に居心地も良くないので、帰ってきたのですが、
途中でやはり物乞いのおばあさんがいたのですが、
ただ宙を見て、絶望と疲労しか感じない顔をみて、
通り過ぎたのですが、小銭を持って戻って、紙コップにお金を入れました。
キャリーの荷物を持っていたので、きっとホームレスだと思います。
僕は、人はあれほどの悲しみの顔をするのだ と本当に久しぶりに、自分の心が揺さぶられるような、悲哀の顔を見ました。
見ると、夜の11時半なのにまだ5円ぐらいしか入っていません。
ひょっとしたら人目を忍んで、もらったお金を隠しているのかもしれませんが、僕なら、ある程度大き目のコインを入れておくので(募金する額をあげさせるため)、本当にお金を誰も入れていないのだと思います。
小さなパンが買えるかどうかの小銭ですが、おばあさんは、やっぱり昨夜のおばあさん同様に、小さな幸福に喜んでくれたようで、僕の理解できない言葉で一生懸命に、にこやかに話しかけてきます。
ただ、英語でもドイツ語でもない言語で、理解できません。
アッサラームといったら通じがようにも、通じていないようにも。。。
ヨーロッパの社会保障制度などについて、学部程度の知識があれば、いかにヨーロッパという国々が、現在も、途上国の安い労働力を使い捨てにしているかを知っていると思いますが、あれほどの憐れみを漂わせているおばあさんに、誰も施しをしないことを見るに、(それは僕が何度か施しをこの国でして、みんな一様に少なく、数十円でありえないような喜びの顔をするのをみると確かだと思う)、異教徒や異国民への憐れみを持たない国民性が作り上げた社会制度なのだろうなぁと
ホテルに帰りながら思いました。
ブッダはおっしゃった
いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強豪なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ
「スッタニパータ 蛇の章」
を思いながら歩いていました。
以前、僕がラオスにいたときに、カナダ人の女性のエンジニアと食事を一緒にしていたときに、物乞いの人が来て、僕が施しをしたのを見て、
「どうしてお金を渡すのか?」
と聞かれて
「僕はブッディストだから」
と答えたら納得していた、彼女同士で、同僚のイスラム教徒が多くの募金をしているとか、そんな話をしていました。
ひょっとしたら、キリスト教というのは、他者への救済に、自分が積極的にかかわることに乏しいのかもしれません。
お店は本当に広くて、ステージから、プールバーまであって、それでも外で立ち飲みしているほどの繁盛店。
ただ、ギネスの生だったのですが、あまりおいしくないのはなぜ?
ただ、一人で外国人というのは、別に居心地も良くないので、帰ってきたのですが、
途中でやはり物乞いのおばあさんがいたのですが、
ただ宙を見て、絶望と疲労しか感じない顔をみて、
通り過ぎたのですが、小銭を持って戻って、紙コップにお金を入れました。
キャリーの荷物を持っていたので、きっとホームレスだと思います。
僕は、人はあれほどの悲しみの顔をするのだ と本当に久しぶりに、自分の心が揺さぶられるような、悲哀の顔を見ました。
見ると、夜の11時半なのにまだ5円ぐらいしか入っていません。
ひょっとしたら人目を忍んで、もらったお金を隠しているのかもしれませんが、僕なら、ある程度大き目のコインを入れておくので(募金する額をあげさせるため)、本当にお金を誰も入れていないのだと思います。
小さなパンが買えるかどうかの小銭ですが、おばあさんは、やっぱり昨夜のおばあさん同様に、小さな幸福に喜んでくれたようで、僕の理解できない言葉で一生懸命に、にこやかに話しかけてきます。
ただ、英語でもドイツ語でもない言語で、理解できません。
アッサラームといったら通じがようにも、通じていないようにも。。。
ヨーロッパの社会保障制度などについて、学部程度の知識があれば、いかにヨーロッパという国々が、現在も、途上国の安い労働力を使い捨てにしているかを知っていると思いますが、あれほどの憐れみを漂わせているおばあさんに、誰も施しをしないことを見るに、(それは僕が何度か施しをこの国でして、みんな一様に少なく、数十円でありえないような喜びの顔をするのをみると確かだと思う)、異教徒や異国民への憐れみを持たない国民性が作り上げた社会制度なのだろうなぁと
ホテルに帰りながら思いました。
ブッダはおっしゃった
いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強豪なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ
「スッタニパータ 蛇の章」
を思いながら歩いていました。
以前、僕がラオスにいたときに、カナダ人の女性のエンジニアと食事を一緒にしていたときに、物乞いの人が来て、僕が施しをしたのを見て、
「どうしてお金を渡すのか?」
と聞かれて
「僕はブッディストだから」
と答えたら納得していた、彼女同士で、同僚のイスラム教徒が多くの募金をしているとか、そんな話をしていました。
ひょっとしたら、キリスト教というのは、他者への救済に、自分が積極的にかかわることに乏しいのかもしれません。