先々週の水曜日ぐらいから10日間ぐらいずっと体調が不良です
といっても、その風邪になったタイミングではかなりヘロヘロで、午前年休、午後出社 を繰り返していたのです、今週はだいぶ楽でした
それで、日曜日は渋谷でのチベットのサイレントマーチに行ってきました
僕は旗の係りとして巨大な(5メーターぐらいある?)をみんなで広げてマーチをしました
他には、中国に殺された人たちの写真を年齢と死因を書いた遺影を持って歩く人、
棺おけをもって歩く人、旗を持って歩く人 などなどです
参加者は300人ぐらいでしょうか?
途中から雨が降ってきたのですが、傘もレインコートも使わずに歩き続けました
沿道ではスタッフがリーフレットを配って歩きました
もちろん受け取ってくれる人や車から拍手をしてくれる人もいるのですが、受けってくれない人たちもいます
これだけ必死の願いであっても、なかなか伝わらないものですね。
もちろん、自分達が頑張っているから相手が話を聞いてくれるべきだ というのは傲慢なんですけどね。
それで歩きながら考えたのだけど (だいたい僕は何か考え事をして歩いている)
これって日本で言う貧困の広がりと一緒の根っこなのだろうなと思った
たとえば日雇い労働についても、
「中小企業が労働力が破格に安い中国と競争するには、日雇い労働者は必要だ(経営者側)」
「公務員や会社員の正規雇用の雇用を守るためには非正規雇用が必要だ(労働組合・ユニオン)」
と自分達を守るということで、その犠牲になった人たちの痛みや人生を無視してきたことが、いまの経済格差が底辺方向に広がっていることの主要な要員だと思います
それは、他者の痛みや悲しみ、人生への無関心であり無慈悲の結果です
グローバル競争が、中国やラオスやベトナムといった旧共産圏の安価な労働力との競争が、消費者のニーズの高まりとマーケットの激しい変動が
そうした理由はいくらでも掲げられます。
しかし、そこにないのは、そうした正論の影で失われていく人間の尊厳であり、それへの無関心です。
これをチベットサポートで感が手見ます
宗派を超えてチベットの平和を祈念する僧侶の会 設立の趣旨並びに声明
http://www.geocities.jp/supersamgha/seimei.htm
では次の一文があります
『「一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」(スッタニパータ)
私たち「宗派を超えてチベットの平和を祈念する僧侶の会」は、今現在、中国政府の圧政下にあるチベット人の生命、人権、文化、言語、民族性消滅の危機を深く憂慮し、ブッダの大悲に根ざす正当な怒りによって強く訴えます。
私たちは、この危機が、人類の叡智であるチベット仏教への蹂躙(精神の虐殺)として進行している事実から、チベット問題は私たち仏教徒のみならず、
人類全体が直面している慈悲(愛・憐れみ・仁)の危機を象徴していると考えます。』(以下略)
チベットという人々の苦しみに耳を貸してくれない普通の人たちは、まさに慈悲の危機の象徴ではないでしょうか?
そして、チベットサポーターならもう誰でも、日ごろ 「人権」、「平和」、「戦争被害の賠償」、「戦争は女性や子どもがが被害者になる」、「平等が大切」といっていた、平和団体や人権団体や政党や政治家達が、侵略された民族の受難に対して、無慈悲と無関心や敵対を示していることを知っています。
中国崇拝や共産主義の擁護という彼らの「正論」のために、他の民族を見殺しにしようという性根は、経営者が労働者を使い捨てにするのとまったく同じ根っこだと思います。
チベット問題と、日本での無関心は格差社会といわれるものと一緒で、他者の痛みや悲しみ、人生への無関心であり無慈悲の結果です
チベットの人々が苦しんでいる ということをテレビや新聞で見ている人は多くいるでしょう
そうした中で雨の中で懸命に声を上げている人たちのリーフレットを受け取ってくれない人がいる世の中で、多くの増税や、自分の給与を下げても貧困を救おうという政策が支持されるはずはないと思います。
何ら責任のないチベット人や東トルキスタン人の受難に対してこれほど無慈悲な国民が、自己責任で貧乏な若者ののために増税しようなんて思うとは思えないのですよね。
欧州において福祉国家を作り上げた社会民主主義が、声高に宣言したオスロー宣言中には次の一文があります
http://homepage2.nifty.com/socialist-consort/SDforeign/SI/Oslo/OsloDeclJ.html
「 我々は、征服によってではなく、理解によって平和を築くことを決意する。
我々は、共産主義の非情な専制と、資本主義の浪費と不正を同様に拒否する。
我々にとって、自由と平等は等しく尊重され、人の幸福にとって本質的なものである。これらは友愛の理念を支える双柱である。 」
僕たち社会民主主義者は、共産主義と資本主義が本質的に持つ牙と戦い、社会を自由や平等と民主主義をもとに実現すべきだと思っています。
社会民主主義政党は時として親キリスト教政党とも親和性が高くなりました
もし、世界の政治をイデオロギーや経済功利性ではなく、
宗教や哲学や各国の文化が教えるような、慈悲や他者の悲しみに共感すること 正義とともにあろうとすること、
そうしたものをベースに置ければ、チベットや東トルキスタンの人々の苦しみも、貧困者の苦しみも癒されていく
そんな風に考えながら、雨に打たれて風邪を悪化させました。
といっても、その風邪になったタイミングではかなりヘロヘロで、午前年休、午後出社 を繰り返していたのです、今週はだいぶ楽でした
それで、日曜日は渋谷でのチベットのサイレントマーチに行ってきました
僕は旗の係りとして巨大な(5メーターぐらいある?)をみんなで広げてマーチをしました
他には、中国に殺された人たちの写真を年齢と死因を書いた遺影を持って歩く人、
棺おけをもって歩く人、旗を持って歩く人 などなどです
参加者は300人ぐらいでしょうか?
途中から雨が降ってきたのですが、傘もレインコートも使わずに歩き続けました
沿道ではスタッフがリーフレットを配って歩きました
もちろん受け取ってくれる人や車から拍手をしてくれる人もいるのですが、受けってくれない人たちもいます
これだけ必死の願いであっても、なかなか伝わらないものですね。
もちろん、自分達が頑張っているから相手が話を聞いてくれるべきだ というのは傲慢なんですけどね。
それで歩きながら考えたのだけど (だいたい僕は何か考え事をして歩いている)
これって日本で言う貧困の広がりと一緒の根っこなのだろうなと思った
たとえば日雇い労働についても、
「中小企業が労働力が破格に安い中国と競争するには、日雇い労働者は必要だ(経営者側)」
「公務員や会社員の正規雇用の雇用を守るためには非正規雇用が必要だ(労働組合・ユニオン)」
と自分達を守るということで、その犠牲になった人たちの痛みや人生を無視してきたことが、いまの経済格差が底辺方向に広がっていることの主要な要員だと思います
それは、他者の痛みや悲しみ、人生への無関心であり無慈悲の結果です
グローバル競争が、中国やラオスやベトナムといった旧共産圏の安価な労働力との競争が、消費者のニーズの高まりとマーケットの激しい変動が
そうした理由はいくらでも掲げられます。
しかし、そこにないのは、そうした正論の影で失われていく人間の尊厳であり、それへの無関心です。
これをチベットサポートで感が手見ます
宗派を超えてチベットの平和を祈念する僧侶の会 設立の趣旨並びに声明
http://www.geocities.jp/supersamgha/seimei.htm
では次の一文があります
『「一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」(スッタニパータ)
私たち「宗派を超えてチベットの平和を祈念する僧侶の会」は、今現在、中国政府の圧政下にあるチベット人の生命、人権、文化、言語、民族性消滅の危機を深く憂慮し、ブッダの大悲に根ざす正当な怒りによって強く訴えます。
私たちは、この危機が、人類の叡智であるチベット仏教への蹂躙(精神の虐殺)として進行している事実から、チベット問題は私たち仏教徒のみならず、
人類全体が直面している慈悲(愛・憐れみ・仁)の危機を象徴していると考えます。』(以下略)
チベットという人々の苦しみに耳を貸してくれない普通の人たちは、まさに慈悲の危機の象徴ではないでしょうか?
そして、チベットサポーターならもう誰でも、日ごろ 「人権」、「平和」、「戦争被害の賠償」、「戦争は女性や子どもがが被害者になる」、「平等が大切」といっていた、平和団体や人権団体や政党や政治家達が、侵略された民族の受難に対して、無慈悲と無関心や敵対を示していることを知っています。
中国崇拝や共産主義の擁護という彼らの「正論」のために、他の民族を見殺しにしようという性根は、経営者が労働者を使い捨てにするのとまったく同じ根っこだと思います。
チベット問題と、日本での無関心は格差社会といわれるものと一緒で、他者の痛みや悲しみ、人生への無関心であり無慈悲の結果です
チベットの人々が苦しんでいる ということをテレビや新聞で見ている人は多くいるでしょう
そうした中で雨の中で懸命に声を上げている人たちのリーフレットを受け取ってくれない人がいる世の中で、多くの増税や、自分の給与を下げても貧困を救おうという政策が支持されるはずはないと思います。
何ら責任のないチベット人や東トルキスタン人の受難に対してこれほど無慈悲な国民が、自己責任で貧乏な若者ののために増税しようなんて思うとは思えないのですよね。
欧州において福祉国家を作り上げた社会民主主義が、声高に宣言したオスロー宣言中には次の一文があります
http://homepage2.nifty.com/socialist-consort/SDforeign/SI/Oslo/OsloDeclJ.html
「 我々は、征服によってではなく、理解によって平和を築くことを決意する。
我々は、共産主義の非情な専制と、資本主義の浪費と不正を同様に拒否する。
我々にとって、自由と平等は等しく尊重され、人の幸福にとって本質的なものである。これらは友愛の理念を支える双柱である。 」
僕たち社会民主主義者は、共産主義と資本主義が本質的に持つ牙と戦い、社会を自由や平等と民主主義をもとに実現すべきだと思っています。
社会民主主義政党は時として親キリスト教政党とも親和性が高くなりました
もし、世界の政治をイデオロギーや経済功利性ではなく、
宗教や哲学や各国の文化が教えるような、慈悲や他者の悲しみに共感すること 正義とともにあろうとすること、
そうしたものをベースに置ければ、チベットや東トルキスタンの人々の苦しみも、貧困者の苦しみも癒されていく
そんな風に考えながら、雨に打たれて風邪を悪化させました。